某都道府県で女性が自殺したなんてニュースはもはや日常の一部と貸して、SNSでは一人の自殺よりも誰も死ななかった海を隔てた隣国からのミサイルの事ばかりを取り沙汰している。
「素性も知らない人物」の命に寄り添うほどの心を持ち合わせない人間が随分と増えてしまったようで、飛び降りる直前の画像や動画は幾つもネットに落ち転がっている。
人の命は何よりも尊いだなんてチープなドラマでは言うけれど、実際そんなことは全くなくて、この日本社会は人間を「代えがきく社会の歯車」として当然のように扱うし、そこに凡そ人としての尊厳を持った扱いはない。
飛び降り自殺よりも短距離ミサイル、交通事故より選挙速報。
メディアはことの重要性よりも読み手、聞き手の食い付きの良さを重要視する。
所詮この国において、ごく1部の「天才」と呼ばれる者以外の人間は代用ができる部品でしかないのだから。
或いは日本だけでなく、今や世界中でもそうなのかもしれない。
代えのきく兵士、奴隷、労働者。
一般市民なんてものの扱いはそんなものなのである。
所で自殺の死因とはなんだろうか。
普通に考えるならば首吊りは窒息死、飛び込みは轢死、飛び下りは…
まあ別にそんなことを言いたいわけじゃない。
死因とは、一般的に人が死に至った原因の事を指す。
当たり前のことだけれど聞いて欲しい。
だとしたら、飛び下り自殺の死因は、全身打撲や内臓破裂だけだと言いきれるだろうか。
過労自殺の死因は、致死量を超えた労働行動である、と僕はそう考えた。
何故なら、人が理由のない行動をとることは殆どと言っていいほどないから。
空腹だから食事を摂る、眠いから眠る。
そして、死にたいから死ぬ。
僕は何物にも致死量というものがあると思っている。
致死量とは本来、母集団の内の半数の人間が死に至る量の事だが、今回に関しては文字通り「死に至る量」と定義することにしよう。
身の回りの多くのものには致死量がある。
日本であればどこにでもある醤油はそれなりに有名だが、他にも世界中で飲まれている飲料水すら数十リットルも飲めば死んでしまうと何かの本で読んだことがある。
心労が致死量を超えれば精神的に追い詰められて人は死ぬし、労働が致死量を超えれば過労で人は死ぬ。
自殺、と簡単にひとまとめにするのは簡単だがその背景にはその人が歩んだ陰陽様々な歴史が刻まれている。
死とは苦しみと共に訪れる物である。
勿論証明は出来ないが、生物は元来望んで死ぬように設計されていないどころか、死を避け、生き抜けるように作られている。
そうして生殖行動により数を増やし、種を保存することが生物の目的である。
これを大前提として、自殺とは死の苦しみが正の苦しみを上回ってしまった際に起こしうる行動であるといえる。
まあ砕けた口調で言うと、「自殺するにも覚悟があるよ」って話です。
自殺について僕は良いとも悪いとも言わない。
何故なら人の生き死にまで管理する社会になって欲しくはないし、それは個人の自由であるべきだと思うから。
ただ、自殺してしまった人について僕はある種の敬意すら覚えてしまう。
何故なら、死ぬって痛くて苦しいことが分かっているから。
僕もこれまで多少なりとも生きてきて、辛い局面にも何度も行きあたって、これほどまでに生きることが辛いのであればいっそ、死んでしまいたいと思った事も幾度となくあるから。
それでも僕が今こうやって無様にも生きて、無駄に酸素を消費しているのはつまりは「死にきれなかった」という事で、つまり死の苦しみ、或いは恐怖が生きる苦しみを上回らなかったということで。
またも脱線しかけているので路線を元に戻すとして、つまり何が言いたいかと言うと。
自殺には、それだけの社会の公になっていない闇が潜んでいるのではないか?と僕は問題提起したいのである。
そもそも、である。
人間ひとりの生き死にが懸かっているそんな状況でポケットの中、あるいはカバンの中、或いは元から掌中にあったスマートホンを徐に取り出して、写真を、動画を撮って騒いでいる人達。
それをインターネット上に平気でアップする人達。
それが話題になったと喜ぶ人達。
人間は時に、あまりに残酷になる。
自分が知らない人、自分が話したことない人の生死よりも自分が非日常を楽しむことを優先する。
無論、迷惑した人もいただろう。
あまり見ていて気分のいいものでは無いだろうし、旅先で目にしたいものでは無いのも間違いない。
それでも。
人間が飛び下りて死ぬ現場を、野次馬して面白おかしくはやしたてている人達はどこかズレていやしないだろうか?
僕はその光景を想像すると寒気すら覚える。
或いはこの光景こそが、表向き平和な日本の社会に潜む闇を表しているように思えてならない。
最後に、僕が全て正しい人間だとも、言っていることが全て正しい話だとも言わない。
ただ、僕の駄文を読んでくれる優しい人達には、そんな人にはなって欲しくなくて、少しでも僕の意見を届けたくて書いた次第である。
いやそれすらも正しくないかもしれない。
この文章は少しばかり過激だから、消されてしまうかもしれないけれど、それでも構わないとさえ僕は思っている。
ただ、ここまで読んでくれた読者さんには感謝しています。
願わくば、貴方が優しい心を持ち続けられますようにと祈りを込めて、今日はこの辺りで筆を置くことにしよう。