牧場の仕事を終え再び宿舎へと戻ってきたシオリと騎士。
今は彼女の部屋でそれぞれで本を読みながらのんびりした時間を過ごしていたのだが……
騎士には仕事中にシオリは寂しげに「自分は母親へはなれない」と呟いていたが、何故かそれっきりどこか元気がないように見えた。
いつもはあんなに夢中で本を読んでいるのに、今は表情も少し暗い感じがして心配になってしまっていた。
「もしかして体調悪いの?」
「……え? いえ、そんなことはないです。
こうして起きていられるくらいですし、良い方だと思います」
騎士の声に、はっと顔を上げると、心配そうに見つめた騎士に微笑みかけるように優しく笑顔を返す。
再び本に視線を下ろすと、無意識に「はぁ……」とため息を漏らしてしまっていた。
「もしかして本つまらなかった?」
「い、いえっ。本はすごく面白いです。
とても続きが気になってましたし、あなたが届けてくれたんですから。
でも、その……そうですね。今はちょっとだけ気分が乗らないみたいです。
すみません。せっかくあなたが大急ぎで持って来てくれたものなのに……」
申し訳なさそうに頭を下げるシオリ。
その姿がとても弱々しく、まるで今にも消えてしまいそうなくらい儚く、
「シオリちゃん。どこにも行かないでっ!!」
その言葉と同時に騎士は耐え難い不安のあまり必死に彼女を繋ぎ止めようと強く抱き締めた。
「わひゃあっ!? あ、あの……きゅっきゅ、きゅ、急になにをっ!?
あ……。すみません、あなたを心配にさせてしまったんですね。
だ、だいじょうぶです……。私はちゃんとここにいますから」
シオリにあやされるように、優しく頭を撫でられると落ち着いたのか騎士はゆっくりと少女から離れるが、
まだどこか不安そうな視線を彼女に送り続けている。
「その、だからと言って、い、いきなり女の子を抱きしめるのはダメですよ……」
顔を真っ赤にし、恥ずかしそうにしながら自分の行為をたしなめる少女に、騎士は「ごめんなさい」と謝るのだった。
(あぅぅ……。びっくりした。胸もすごいドキドキしてる……)
自分の胸に手を当ててみると、心臓が破裂してしまうのではないかと思うくらい、早くドクドクと脈打っていた。
そこでシオリはふと気づく。
騎士の突然の行為に驚かされてしまったが、おかげで先ほどまでずっと感じていた辛い憂鬱な気分がすっかり消えてしまっていたことに。
(そういえば、この本の主人公も寂しそうにしてる女の子をうっかり抱きしめちゃうシーンあったなぁ……)
先ほどまで読んでいた恋愛小説の主人公とヒロインの一シーンを思い出し、今の自分たちと重ね合わせ、比較してしまっていた。
彼女もまた恋愛感情というにはまだどこか未熟で拙いものだが、それでも騎士に対して少なからず好意を抱いている。
それでも自分はこの本の主人公たちのような恋愛をすることはできない。
体が弱くいつ死んでしまうかわからない自分に恋愛なんて……。
必死に自分に言い聞かせているのだが、強く想えば思うほど、心がどんどんと弱くなってしまっていく。
もう限界だった。
せめて泣きついてもっと困らせてしまうよりもと、
「……ごめんなさい、騎士さん。ちょっとだけ私のつまらない話を聞いて欲しいです」
自分の溜まった気持ちを吐き出す選択をするのだった。
「あなたや牧場のみんなは、私をニャットちゃんのお母さん。って言ってくれてますけど、
やっぱり私はニャットちゃんの……。
ううん、だれのお母さんにもなっちゃいけないんです」
「どうして?」
「だって私はいつ死んじゃうかわからないんですよ。
確かにニャットちゃんがまだ小っちゃかった頃は、もしかしてお母さんってこんな感じなのかな? って、思ったこともありました。
だけど、もし私がニャットちゃんのお母さんになってしまったら……。
ニャットちゃんはまたお母さんを亡くしてしまうんです。そんなの悲しいです」
縄張り争いに負け親を失い、まだ幼い上に傷ついた身体。
本来なら野性で生き残ることなど、もはや無理であったはずの生まれたばかりの小さな命。
自分よりも儚く消えてしまいそうな、そんな存在に縋り付かれ、その小さな温もりを感じ、理想を思い描き繋ぎ止めてしまった。
「だから、ニャットちゃんは私の大切な友達です」
もしかしたら神様の様な存在が母親になることができない自分に与えてくれた束の間の奇跡なのかもしれない。
でもそんなものはいらない。
傷つき大切な存在を失った者の上に成り立っている身勝手な奇跡なんて。
決して『助けた』なんておこがましいことは思っていない。
ただ傷の治療をし育てただけだ。
その結果、彼と信頼関係が芽生え、今も人に迷惑を掛けずに生きていくことができる可能性を共に探している。
たったそれだけで母親の代わりになんてなれるわけがない。
「ニャットちゃんはきっとシオリちゃんをママだと思ってるんじゃないかな?」
「あの子が私をお母さんと思ってるなんて……どうしてそんなことが言えるんですか?」
牧場の人たちからも同じことを言われると、決まって同じ質問をしたのだが……。
残念ながら彼女たちの答えは、そのどれもが自分の気持ちを納得させられるだけの理由、足り得ることはなかった。
もちろん牧場の人たちが口から出まかせを言うような人間でないというのはよくわかっている。
そして彼もまた牧場の家族たちと同じく、大切な友人の気持ちを代弁するようなことを言ってきたのだ。
もしかしたら彼からは自分の気持ちに覚悟を決めさせられるだけの言葉を掛けてくれるかもしれない。
そんな淡い期待に彼の答えを待っていると、
「僕もニャットちゃんと同じだから……」
「あ……」
小さく声を漏らした少女も騎士が言わんとしていることに気づいたのだろう。
彼は目が覚めた時には全ての記憶が失われ、山の中で放り出されていた。
偶然その場にいた少女が献身的に自分の世話をし続けてくれなければ、何も知らない空っぽのまま野垂れ死んでいたのは間違いない。
自分よりも小さく華奢で可愛らしい少女が、ランドソルで生きるためにたくさんの事を教え、育ててくれた。
その過程で必死に文字を、言葉を覚えようとしていた時に、自分にとってその少女がどんな人物に値するのかを知ることができた。
呼び名はたくさんあったけど、その中で彼女につける敬称として一番合っていると感じた呼び名で呼びかけた時のことを覚えている。
『コッコロママ』
そう騎士が少女のことを呼ぶと、彼女はどこか困った様な顔を浮かべていた。
そしてシオリと同じく母親ではないときっぱりと否定されてしまった。
彼女が「私は主様の従者であり、母親ではありません」と言われた時は少しだけ寂しくなってしまったが、
彼女と共に過ごす日々を重ねて行く中で少しずつ、少しだけ理由はわかった気はする。
だけど、だからといって自分が彼女をママと想う気持ちが変わることは決してない。
その強い意志を込めて騎士はシオリに告げた。
「ママだと思ってる人にママじゃない。って言われるのはすごく悲しいことだから――」
「だから、もしニャットちゃんが私をお母さんと思って甘えて来たら、
私もお母さんのつもりで受け止めて欲しい。ですか?
…………す、すみません。ちょっとあまりにも考えも付かないような答えが返ってきたので」
戸惑いながらもシオリは、そんな境遇だった彼だからこそ言える言葉だったのかもしれないと、ゆっくりと彼の言葉を吟味する。
不意に以前読んだ本の中に『ロスト』と呼ばれるこの世界で起きた不可解な現象についての記述を思い出す。
親や子供のようにごく身近な存在の記憶や痕跡のその一切が消失してしまっている怪現象。
ニャットの場合は『ロスト』とは違い、彼の親が確実に存在していたのを認識している。
本来の親に成り代わってニャットの母親代わりになるというのは、どこか後ろめたさもあった。
だけど、
「そうですね。もしニャットちゃんが、私を本当にお母さんだと思ってくれてるのなら、
ちょっとずつですけど、受け入れてあげてみたいと思います」
あの時、結局弓を引くことができず、触れてしまった小さな温もり。
求めるように伸ばされた手を振り払うことなんて最初からできなかった。
そんなシオリの言葉に騎士は自分のことの様に嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
「ニャットちゃん、きっとすごく喜ぶよ!」
「ふぇっ!? ま、まだ、お母さんになるって決まってませんからねっ!?」
頬を真っ赤に染め、慌てたように手や首を振りながら否定しているが、
彼女の胸の中では、すでにニャットの母親になる決意を固めることができてしまっていた。