雲の外は光が広がっている。トリガーはその青めがけて雲の中を駆け抜ける。翼に纏わりついた氷が軋みをあげ、キャノピーまで氷が覆おうとしている。冬の積乱雲によって氷と水滴が叩きつけられていることもそうだが、気温が低い高高度を飛んでいることがそれを助長した。
着氷が起きると飛行機にとって様々な問題が発生する。氷によって視界が遮られる以上に、分厚く纏わりついた氷の層により翼の形が変わってしまうことが一番危険な事項だった。
空気抵抗は増大し、機体を支える揚力が減少する。それによる性能低下と操縦困難、場合によっては前触れの無い失速すらありえた。特に音速付近における気流の乱れは致命的で、下手をすれば空中分解もあり得る。しかも雲の中から飛び出しても氷が融けるまで時間がかかるし、何かの拍子で片方の翼だけ氷が剥がれでもしたら左右のバランスが崩れて操縦不能に陥りかねない。
だから飛行機乗りは可能な限り着氷を避けようとする。しかし今のトリガーはその逆を行っていた。翼に充分な着氷が発生するのを彼は待っていたのだ。
積乱雲の闇を抜けると、そこは眩いばかりの青の世界だった。高度三万フィート。地上より強い太陽の光に、積乱雲の上端もほど近い高空。雲海がはるか下の方に見える。
トリガーはすかさずエンジンスロットルを絞りエアブレーキを開いて減速を行った。あっという間に三百五十ノット(時速六百五十キロメートル)前後まで速度が落ちる。その動作に反応してワイバーンの飛行制御コンピュータが高速形態から低速形態への転換を機体の各所に伝達した。
高速形態であったワイバーンの、後退角がついた主翼の前縁に真ん中から裂け目ができていき、へばりついた氷の層を突き破って中からもう一枚の主翼が引き出されていく。それは人間が肘を曲げ伸ばしするときのように滑らかな動きで伸ばされ、主翼の外半を形成した。この動きが果たされるまで二秒とかかっていない。
主翼が展開されたのとほぼ同時にトリガーは急激な旋回を行った。上方向への急上昇。そして大きめのループを描くようにして反転する。
酷い着氷が発生している状態でこのような急激な機動を行えば主翼は揚力を失いかねない。それを打開するのが、高速飛行時には主翼外側半分を主翼の中に格納できる、ワイバーンの特異的な主翼変形機構だった。格納された状態でいくら着氷しようとも、格納された主翼には氷が付着しようがない。半分程度ではあっても、健全な主翼を確保したまま着氷空域を飛ぶことができるのだ。
遅れて雲の中からフギンとムニンがほぼ同時に飛び出してくる。恐らくムニンと思われる方の機体は雲から離脱後、旋回していったために補足できなかったが、フギンと思われる機体はトリガーの射界近くにまで直進してきた。そのまま追撃する。
補足した機体の主翼には一面ビッシリと氷が張り付いていた。そのせいか動きがひどく鈍くなっている。その隙を見逃してやるほどトリガーは甘くない。短距離ミサイルを武装選択。二発。シーカーオープン。ロックオン。
トリガーの乗るワイバーンから赤外線ミサイルが発射される。ミサイルを探知した無人機は回避行動をとろうとするが、着氷した主翼ではまともに揚力を生み出すことができず、失速寸前の不安定な状況になってしまっていた。
ミサイルが着弾する。正確に、そのエンジン部へと飛び込んだミサイルは信管を起動させ、あらん限りの爆発でエンジンをバラバラに引き裂いた。片方のタービンディスクが衝撃で割れ、高速回転による膨大なエネルギーを保持したまま四方八方へ飛び散った。
超高速で四散するニッケル合金製のディスクを防ぐものは胴体部に存在せず、至近距離で散弾銃をぶっ放されたようにメチャクチャに破壊された。かろうじて機体そのものの爆発には至っていなかったが、時間の問題だった。
一機に痛手を負わせたトリガーはもう一機に狙いを定める。しかし、射界に収めようとするとその機体はヒラリと軽やかな動きで離脱してみせた。
『あいにくと、そっちの狙いなんてお見通しさ』
ムニンの声で通信が入る。それに構わず敵機を追撃しようとするが、ヒラリヒラリと軽やかな動きで躱されてしまう。どういうことだ、とトリガーは困惑していた。あれほどの濃い雲の中を駆け抜けてきたというのにあの機体には、着氷での性能低下が見られない。
偶然か、それとも狙ったものだったのかはわからないが、戦闘機動を行っているトリガー機の真横を、ADF-11の大きな機体が通り過ぎる。回避するトリガー。しかしそのわずかな瞬間に相手の主翼状態を見ることができた。
その主翼には一切の氷が付着していなかった。代わりに、両方の主翼には何かで炙られたかのような薄い焦げ跡がへばり付いている。
なんてことだ、トリガーは戦慄する。こいつらは最初からこちらの狙いを見抜いていて、氷を融かしながら飛んでいたのだ。二機が前後にピッタリと接近して飛ぶことで、前を飛ぶ機のエンジン排気の熱で、後を飛ぶ機の着氷を融かしていたのだ。あの焦げ目はエンジン排気によるものだろう。
トリガーはアフターバーナーを焚いて逃げようとするが、ムニンの射界から逃れられない。主翼の半分が着氷した状態では抵抗が大きすぎて運動性が発揮できないし、加速すれば主翼が格納されてまた主翼の全てが着氷している状態になってしまう。それでも構わないと思ってさらに加速を行い高速形態へと移行。音速もほど近い六百ノットを超えるが、逃げられない。
『もうあなたの戦闘データは充分手に入った』死刑宣告のようにムニンが言った。『だからさようなら、トリガー』
その無邪気な声色がひどく不気味に感じられた。即座にミサイルが飛んでくる。フレアとチャフを撒いて旋回。こんな上空では主翼の氷はなかなか融けてくれない。それを待っている間に撃墜されてしまうだろう。救援を頼もうにも雷のせいか通信状況が思わしくない。
ミサイルを回避して間髪入れずに次弾が飛んでくる。ラダーを蹴って機体を右へ滑らせる。すると想定外の横Gが身体に叩きつけられトリガーは呻いた。ラダー操作をしたところ、着氷のせいか機体が予想外の挙動を示し、横へ大きくスライドしてしまったのだ。しかしおかげで素早い回避機動を取ることができ、彼は命拾いした。
ムニンのミサイル、トリガー機の左方百フィートを通過して自爆。近距離で炸裂した弾頭による衝撃波がワイバーンの機体を揺さぶった。
ロックオンアラートと衝突警報がコックピット内に響き続ける。目視で見なくても分かる。ムニンがほんの三百フィートという距離でピッタリと真後ろに付けているのだ。
この至近距離ではミサイルの信管は作動しないだろう。レーザーか、機関砲か。いずれにせよ着氷でバランスを欠いた機体では避けられない。
だが、まだトリガーは諦めていなかった。真後ろに付けられたなら、真後ろを向けば良いのである。武装選択、EML。支援コンピュータで、地上付近では誤射の危険があるため使わなかった自動発砲モードを選択。飛行速度確認、少し減速して五百ノット。いける。
無茶苦茶だろうと、勝てば良いのだ。トリガーは操縦桿をひねりつつ、先ほどより強くラダーを蹴飛ばした。
ワイバーンはトリガーの操縦に忠実に従った。機の重心を中心にして、コマのように機体をぐいと一八〇度回した。進行方向に機尾を向けて、エンジンパワーをアイドリングへ。ワイバーンは亜音速でバックする形となってムニンと相対した。
目が顔面にめり込むようなGでトリガーの視界は真っ暗になる。ブラックアウト。しかし未だ気を失ってはいなかった。ワイバーンと支援コンピュータユニットを受領するにあたってシュローデルから受け取った新型スーツが彼の意識を寸でのところで押しとどめていた。
進行方向に回ったことで設計限界を超える空気抵抗を受けた右の尾翼と、主翼の後縁フラップが千切れ飛ぶ。G軽減のためアイドリング状態にしたエンジンは、逆流する空気によって出力が急激に落ちて数秒後には停止してしまうだろう。それでもトリガーは諦めない。撃て、と自身の乗る機体に念じた。
支援コンピュータはそれに応えた。大型戦闘機であるADF-11の巨大な機影が射撃レティクルの中央へやってきたところで、自動発砲。弾頭炸薬は無いものの、通常の砲弾とは比べ物にならない超高速でレールガンの加速体が射出される。
ムニンは想定外すぎる機動から繰り出されたその攻撃を避けることができなかった。言語表象システムによる人間の言葉を無線に乗せる暇もなく、弾丸はムニンの機首を貫いて、その中枢ユニットを木っ端みじんに吹き飛ばした。
ADF-11は空中で爆散した。
トリガーの視界が戻ったのは、支援コンピュータによる自動操縦で機体の姿勢が正常に戻ってからのことだった。こみあげてくる吐き気をこらえつつアビオニクスパネルに目を走らせる。エンジン停止。油圧系統に損傷。後方の右尾翼が千切れ、フラップも脱落している。無茶な機動により速度が急激に落ちていた。
しかし、左の尾翼と先尾翼、それから高速モードで畳み込んでいた外半部の主翼は無傷だ。まだ飛べる。かなり無茶をしたが、自分がまだ飛んでいるということは、撃墜できたのだろう。
ワイバーンは高速形態になると角度のついた尾翼が水平に移行することで実質的に水平尾翼が存在しない状態になる。エンジンの推力偏向だけでヨー操作を行うのだ。高速飛行時での効率を重視した結果そんな設計になったのだが、そうなると思い切り左右へ振った時に酷い横滑りが発生しかねない。今の機動は、それを逆手に取ったものだ。機体はボロボロになってしまったが、なんとかなった。
トリガーはホッと息をつくが、まだ戦いは終わっていなかった。異常な機動で揺さぶられた脳に、ロックオンアラートが鳴り響いた。
なんだと。とっさに操縦桿を引くが、エンジン停止状態ではまともに旋回などできない。首を捻って火器管制レーダーの照射元を見やる。
無人機が一機、飛んでいた。ADF-11の中枢ユニットだ。破壊された制空戦闘用のウイングユニットを脱ぎ捨てて、まだ戦おうとしている。
だが、その姿も満身創痍だった。エンジンから濃い煙が出ている。ウイングユニットのエンジンが爆砕したことで中枢ユニットも損傷を受けたのだろう。
『あなたは落とします』無線から声が聞こえる。フギンの声だった。『あなたは、危険すぎる』
機関砲の射撃が襲ってくる。約〇・五秒。辛うじてロールで回避する。間髪いれずに二回目の射撃。衝撃が機体を揺さぶる。主翼の端に当たったのだ。
これ以上粘るのは無理だとトリガーは判断した。脱出を考えたが、人間に対する認識を得たフギンはそれを許さないだろう。パラシュート降下の最中に機関砲でバラバラにされかねない。
ダメだ。トリガーは死を覚悟した。目を強く閉じる。空で死ねるのなら、まだマシだ。
『まだ終わっちゃいねぇぞ!』
無線から怒りを含んだ叫びが聞こえた。目を見開く。それと同時に、視界の端に映る積乱雲の上端から、何かが飛び出してくる。
カウントの乗るF-15C戦闘機だった。それが、雲をぶち抜いて猛烈なスピードで矢のように上空へ駆け上がっていく。
アフターバーナーを焚いたまま強引に曲がり、彼はこちらに向けて突っ込んでくる。
『FOX2。避けろトリガー!』
カウント機がミサイルを発射。反射的にトリガーは操縦桿を引きつつラダーペダルを蹴飛ばしていた。スナップロール。強いGがかかるも、速度が落ちていたことで耐えられた。機体が軋む。最後まで残っていた尾翼が千切れ飛ぶ。
カウントからのミサイルを、フギンはトリガーを盾にして避けようと動いた。だが、スナップロールで高度を急激に上げ、速度も失速寸前まで落ちたワイバーンへ追い付くには時間も推力も足りなかった。
ミサイルが命中する。信管が作動し、発火した炸薬が暴力的な熱と衝撃波を生み出す。フギンの中枢ユニットはなすすべもなくその炎に飲み込まれた。主翼は千切れ飛び、コンピュータユニットまでズタズタにされる。
ダークブルーの空の中に、オレンジ色の華が咲いた。