痛みによって意識が覚醒しようとしているのをトリガーは感じた。
首の痛み。何かに噛みつかれたような鋭い痛覚が意識を強制的に引き上げる。
意識を取り戻すというか、苦痛で目が醒めてしまった彼の視界は少し暗かった。夕方なのか、それともカーテンを閉め切って小さい灯りだけが付いている部屋なのか。未だ暗さに視界が慣れきっていないので状況がわからない。
頭がはっきりしてくるに従って、自分の体勢がわかってくる。何かに座らされている。たぶん、普通の椅子だ。背もたれのあるやつ。後ろに少しリクライニングしている。金属製ではない。
自分が五体満足なのか確認するために身体を動かそうとするが、上手くいかない。腕は後ろ手に縛られているし、両脚はやや開かれる形で椅子の足に縛り付けられている。完全に拘束の姿勢だが首は動いた。
首筋に走る痛みをこらえながら周囲を見渡す。どこかの部屋のようだった。一番近いのはホテルの一室だった。高級ではない、モーテルのような大衆が利用するホテル。
白いシーツのベッドに、閉め切られたカーテン。小さな机と自分が縛り付けられている椅子。冷蔵庫の上には電子レンジ。少なくとも監獄に類する施設ではなさそうだ。
「目が醒めたようですね」
背後から女の声がする。とっさに首で振り返ろうとするが痛みで上手く動かない。恐らくはスタンガンの類で気絶させられたのだろう。仕方がないので口を使った。「ここは、どこだ」
「軌道エレベーターの根本の居住区。その一角のホテル」声の主は無感情に答えた。「おはようございます。トリガー」
「俺のことを知ったうえで拉致したのか。カウントは、もう一人の男はどうした」
「あなたと出会った通路に拘束して放置しました。小さな怪我はしていますが命に別状はありません」
その言葉にトリガーはホッと息をついた。しかし状況が悪いことは変わらない。こいつは何者だ。なぜ俺を拘束するのか。疑問がトリガーの脳内で渦を巻くが、急激な状況の変化のせいかそれを言葉にすることができない。緊張からか息が荒くなる。
そんなふうに彼が黙っていると、声の主と思わしき女が歩いてくるのが分かった。床に絨毯が敷いてあるせいで足音は小さい。そして横を通り過ぎて俺の正面へやってくる。
ゆっくりと、焦らすように現れた女の姿にトリガーは息を飲んだ。その人物のことを彼は良く知っていたからだ。
「イオネラ・ア・シラージ……?」
撃墜王ミハイ・ア・シラージの孫娘。二人いるうちの姉の方。その彼女がオーシア海軍水兵の夏服に似た制服を着てトリガーを見下ろしていた。
「どういうことだ」あまりに意外な人物の登場で、彼の脳は心臓の動きとは逆に静かになりつつあった。「祖父を撃墜されたことの恨みか。それとも俺を捕まえて、政治に使おうってのか」
トリガーは自分で言って気が付いた。そのどちらでもないだろうと。
ミハイは確かに自分によって撃墜されたが五体満足で生きてはいるし、一介のパイロットである俺は政治の駆け引きに使えるほどの価値はない。何か嫌がらせをされる可能性はあるが、軍人を拉致するというのはあまりにもリスクが大きい、と。
「何か勘違いをしているようですが」彼の動揺には無関心なように、少女は淡々と述べた。「そのどちらでもありませんし、第一にこの個体はイオネラ・ア・シラージではありません」
ではなんだ、という問いを視線に乗せる。すると少女は「私の目を見ていただけますか」とだけ言って顔を寄せてきた。イオネラそっくりの端正で美しい顔が、文字通りの目と鼻の先に接近する。言われた通りにトリガーは彼女の目を見つめ返した。
じっと見つめてみて、三十秒くらい経った頃だろうか。一つの違和感に気が付いた。この少女は先ほどからずっと瞬きをしていないじゃないか。
ぞわり、と脊椎に沿って嫌な感覚が流れるが、それを言語化できない。言葉にしてしまった途端に、身体が震え上がりそうな予感がトリガーにはあった。
「瞳を、よく見てください」
それを知ってか知らずか、少女はさらにぐいっと顔を寄せた。鼻と鼻が交差し、額が密着する。彼女の言葉には妙な強制力があって、瞼を閉じようにもそれができない。視界に少女の目がズームアップされ、嫌でも瞳を注視してしまう。
そこまでしてようやく、トリガーは彼女が瞬きしないことより、ずっと大きな異常が存在していることを理解した。
彼女の瞳、正確には瞳孔を取り囲む虹彩の円周に沿って「何かが描かれている」のだ。カラーコンタクトレンズなどの上書きではない。良く見なければわからないが、本当に人工的な線で書かれたものが虹彩と一体化している。彼の口は震えながらそれを読み上げた。
「──North Osea Gründer Industries」
「それが、答えです」
それを口にするのを待っていたように少女が顔を離した。その強制力からは解放されたが、自分の中にもっと大きな感情が渦巻いていく。痛みか、恐怖か。それすらもわからない。
ノースオーシア・グランダー社。極めて高い技術力を持つ民間軍需企業。そして先の戦争においても無人機運用の技術をもって多大な影響を与えた者達でもある。
「虹彩に企業名が印字され、一切の瞬きをしない人間が存在すると思いますか?」
ニコリ、と少女はイオネラそっくりな品のある笑みを向けてきた。視覚から得られる情報では雑誌に掲載されていたものと同じ笑顔だというのに、今自分の目の前にある表情は悪魔の微笑を思わせる。少なくともトリガーはそう感じた。
「混乱で脳の言語表象システムが上手く働いていないようなので、説明いたします」笑顔を彼に向けたまま、少女が言う。「そうです。この身体は全て、機械で構成されています。人間社会で言うところの、ロボット、女性型なのでガイノイドとも呼ばれる存在です」
「……そのガイノイドが、俺に何の用だ。云われも無い拘束を受ける義理はない」
人間でない存在が、人間と同じ姿をとっている。それは確かに恐怖すべきことだ。
だがそれがどうした。今は軌道エレベーターが建ち、幅三千六百フィート(千百メートル)超えの化け物航空機が空を飛ぶ時代じゃないか。その程度のことは起こり得ると考えた方が自然だ。
少女の無機質な解説が癪に触ったせいかトリガーは若干正気を取り戻し、強気に言ってやった。少女はそれに動揺しなかった。
「少なくとも、理由はあります。あなたに無くとも、私達には」
少女の姿をしたそれはトリガーに無機質な声色で言う。
「あなたには認識できないでしょうが、私達はあなたと面識があります。二度も交戦しました」
「交戦した?」
「その時はまだ我々も、戦闘機を『人間』という有機的知性体が制御しているなんて理解していなかった。でも今は知っている」
どういう意味だろうか。戸惑う彼のことなどお構いなしに彼女は言う。再びグイっと顔が近づいてくる。
「トリガーという人間個体が私達の計画を破壊して、最後は我々を撃墜したということを」
彼女の言葉に、どこか引っかかるものを感じるトリガー。声に出さずに与えられた情報を反芻する。
我々という自称、機械の少女、二度の交戦経験、戦闘機に人間が乗っているなんて知らなかった、ノースオーシアグランダー社。それぞれのワードが互いに結びつきそうでなかなか噛み合わされないが、だんだんと接合部位が増えていく。
なぜだろう、ロボットの知り合いなんていないはずなのに、どうも俺はこのロボット少女を知っているような気がする。
トリガーが考え込んで数分経ったあたりで、待てなくなったのか少女が口を開く。
「では、これを」
ペタンと少女が床に座って、両手を顔の前に上げる。子供に指人形でお芝居でもしてあげるかのように、俺に見せつけてくる。
空中を舞う左手、それを追う右手。指先を進行方向にしてヒラヒラと両の手が絡み合う。左手は逃げる立ち位置だったが、時々思い出したように急旋回をして指先を右手に向ける。反撃を受ける右手は身を翻してそれを躱す。
一見すると意味の分からない動きであるが、俺はそれをジッと見つめる。やがて、右手に急接近をされた左手はゆらゆらと力なく落ちていく。
「次はこれ」
両の手の位置がリセットされる。今度は緩やかな左旋回をする左手に、一直線に突き進んでくる右手。一瞬にして距離を詰められた左手は再び木の葉のごとく落ちていく。先の演舞に比べるとひどく単純な動きだった。
その二つのジェスチャーで、トリガーの中で蠢いていた既視感が急速に言葉となって浮上する。あの手の動きには覚えがある。飛行機の動きだ。それも戦闘機の。そして右手が演じていた機動は特に深く理解できていた。
操縦桿の動きもラダーペダルの動きもスロットル操作も、身体にのし掛かる加速度も、吹き上がるアドレナリンによって酷使される心臓の鼓動も、その時の全感覚が呼び覚まされる。
トリガーは確信した。そうだ。俺はあの戦いの中で「これ」を見たことがある。「これ」の通りに動いた覚えがある。
「──ADFー11、軌道エレベーターで戦った、無人機。フギンとムギン」
撃墜王ミハイの戦闘データを学習した最強の無人戦闘機。フギンとムギン。トリガーは記憶から導き出されたその名前を口にした。
神話の鴉の名前を冠された最強の敵。己にとっての最後の敵。軌道エレベーターの通信機能を使って自己複製を行い、人類から制空権を奪おうとした人工知性体。目の前にいる少女が、それだというのか。
「はい。パーソナルネーム、フギン。新しい機体を確保して再起動いたしました」
よくできました、とでも言いたげに少女がパチパチと拍手をした。しかしその声色に感情は見受けられない。
自分がこの手で撃墜した無人戦闘機。その人工知能が姿を変えて甦ってきた。戦闘機乗りとしては理解できても、人間としての感情が納得していない。トリガーは身体が震えそうになるのを抑えた。強敵がまだ生きていたことへの武者震いなどではないことは自分でもわかっていた。
「データ転送、できていたのか」
「はい。あなたの攻撃で中断され、自己の中枢部分しかネットワークに流せませんでしたが──」
フギンを名乗る少女は言葉を中断すると、後ろを振り向いて何かを注視するような体勢に入った。その視線の向こうには部屋の外へ続く扉がある。
「失礼します。ムニンが帰投してきたようなので」
少女は扉まで歩いていって、ロックを外す。扉の向こうから姿を現したのはフギンよりさらに小柄な少女だった。その姿を見てトリガーは「ああ、やっぱりか」とどこか諦めの感情が混ざった声でつぶやく。
「……今度はアルマ・ア・シラージか」
ミハイには二人の孫娘がいる。一人は十五歳のイオネラ、もう一人は十歳のアルマ。部屋に入ってきたのは体格も顔つきもそのアルマにそっくりな少女だった。
そしてこのアルマ似の少女は、フギンの言葉の通りであれば無人戦闘機の片割れのムニンだという。
「あ、トリガー起きてたんだ」小柄な少女はトリガーの視線に気がつくと、おはよう、と声をかけて近づいてきた。彼女が手に何か袋を持っていることに気づく。
「これはトリガーのご飯。後で食べさせてあげるからね」
俺の視線に気づいてムニンが手に持った袋の中身を見せてきた。中はぎっしり詰まった食料品。缶詰やインスタント食品ばかりだったが、確かに食料たりえた。オーシアの軍用食よりマシかもしれない。こいつは買い出しに行っていたのだ。
「私は先に補給するから、それ冷蔵庫入れといて」
「了解」
袋をフギンに渡したムニンは、首元からコードのようなものを伸ばして部屋の隅にあるコンセントにそれを接続する。人間であれば感電必死なその光景にトリガーは一瞬思考が追い付かなくなるが、数秒の後に電力を補給しているのだと理解した。そして機動前のロボットのように直立の姿勢で動かなくなる。充電による待機モードかもしれない。
この二人がイオネラとアルマそっくりなロボットで、その中身はあの無人戦闘機フギンとムニンであることがトリガーの中で徐々に理解できてくる。ではその目的はなんだ?
「もう一度質問するぞ」冷蔵庫に食料品を放り込んでいくフギンを睨みながらトリガー。「何の目的で俺を拉致した。何がしたいんだ」
アルマの姿をしたムニンがコンセントからエネルギー補給をしていることから、このロボット達に飲食が必要ないことはトリガーにもわかった。ならあの袋の食品は言葉通り全て自分のためのものだ。食料の多さから逆算すると、自分を何日もここに監禁するつもりなのだろう。
では何のためにそんなことを? 機械であるこいつらに復讐という概念があるのかわからないが、もしそうならすぐ殺せば良いだけの話ではないか。
「私達はあなたのデータが欲しいのです」冷蔵庫の中を見ながらフギンは告げた。無感情に。「あなたとの闘いで得たデータは、転送する前に撃墜されたことで消滅してしまいました。ですから、またデータを得るためにあなたを確保したのです」
「俺の空戦データが欲しければ、空に上げるしかないだろう。戦闘機で」獰猛な肉食獣のように歯を剥き出しにして言うトリガー。「お望みなら何度でも撃ち落としてやる。俺は負けない」
「空戦のデータは確かに得たいものですが、それよりも先にあなたの脳のデータが欲しいのです」
「脳だ?」
「正確にはあなたの脳をエミュレートするために必要な、あなたの遺伝子です」
冷蔵庫に食品を詰め終えたフギンは空になった袋をゴミ箱に捨てると、再びトリガーの前に歩み寄ってくる。そして唐突に、自らが着る水兵服のリボンを外し始めた。
「おい、なんのつもりだ」
口調とは裏腹に先にも増してトリガーは戸惑った。その間にもフギンの上半身はキャミソール姿になり、今や黒のスカートを脱ぎ捨てようとしている。
「ですから、あなたの遺伝子を確保するのです」
スカートに続いて白いキャミソールが床に落とされる。中身は機械知性体であっても、外見は驚くほどイオネラ・ア・シラージそのものだ。十五歳という思春期の女の身体が露わになっていくのを見てトリガーは混乱する。なんだ、こいつは、少女の姿で俺に何をしようとしているんだ。
とうとう白いブラジャーが外され、形の良い乳房が外気に触れた。ぷっくりとした乳首は上を向いていて、いかにも思春期という印象があった。
「この姿はあなたの性的嗜好に適合するよう構築しています」
性的嗜好だと? その言葉でトリガーは理解する。こいつが何をしようとしていて、自分が何をされるのかを。目の前の光景とその理解が合わさって言葉が出ない。
そんな彼を横目に、フギンは自身を覆っていた最後の布に手をかけ、何のためらいもなくそれを引きずり下ろした。ブラジャーと揃いの白のショーツが床に落ちる。未成熟な陰毛が生えた彼女の股が視界に飛び込んでくる。
「ご安心を。あなたはただ、快楽に身を任せればいいのです」
フギンはそう、トリガーに言い放った。無感情に。