「……ここ……どこ……? って痛……!」
イリヤスフィールが目を覚ました。すでに手錠も足枷も外されている。もう、逃げることも自害されることも抗うことすらも心配いらない。故に外した。痛みの消えない股のあたりを見て、己の今の状態を知ったイリヤスフィールは諦観を含んだため息を漏らす。
「でも、なんで……?」
「簡単なことだ」
「っ……!」
俺の声を聞いて、イリヤスフィールがとっさに逃げようとする。あるいは、魔術による攻撃か。少なくとも眠る前のそれによって、いい感情を抱いていないであろう俺に対して、何かしらのアクションを取ることができないという事実に呆然とする。
「お前はもう、俺から逃げることも逆らうことも、ましてや自殺を図って俺に一泡ふかせよう、なんてこともできない。危険を全て排されて、俺に協力するしかないからこそ、全ての枷を解いた」
臓硯から聞いた、彼女の父親である衛宮切嗣の使っていたという礼装、起源弾。己の起源を相手に作用させる術式。それを俺も作っていた。己の起源である『分断』と『結合』を具現化させるための術式であるそれは、血液を抽出し霊的な工程を経てから大量に混ぜ込んで作成したマニキュア。それを塗った爪に魔力という燃料をくべて対象を引っ掻く。それによって一度目で『分断』が作用し、二度目で『結合』が作用する。これで俺の起源が『切断』だったら元に戻すのは不可能だっただろうけど、『分断』でできるのはただ二つに分けることだけなのだから、問題なく元の形に治せる。
それを利用して、一時的にイリヤスフィールの魔術回路を二種類に分けた。動かせるものと動かせないもの。前者を零に、後者に魔術回路全てを譲り、本来の働きを一切行えないようにした。
だからこそ、彼女はここに連れてこられた時に魔術回路を起動することはできず、結果として逃げ出す機会は永遠にやってこない。
「何を、したの……?」
瞳には怯えの色。昨日俺が彼女にしたこと、そして今さっき反射的に行おうとした迎撃あるいは逃走、そしてそのどちらであったとしても実行できないこと。そういったいくつかの事象から俺に対する恐怖がその瞳には見える。
「
そして、彼女の疑問に対する答えとしてはそれで十分。俺が彼女に対して「支配」を行い、自己強制証文を書かせた際のその誓約の起動条件は「俺がかけた支配の魔術を解く」こと。それによって彼女は自由意志を取り戻し、けれど誓約によって「自害すること」「間桐連夜の許可なく間桐の家から出ようとすること」「間桐連夜、間桐慎二、間桐桜に対する故意、偶発的問わずに攻撃を行うこと」「間桐連夜から”命令”と断言されたことに逆らうこと」を、禁じられたために、今の彼女が行えることはほとんどない。
「大変だったぞ。まさか魔術刻印を持っていないなんて思いもよらなかったからな」
「こっちも、まさか”支配”をされるなんて思わなかったわ……。人間や幻想種相手には通用しづらい魔術のはずでしょう?」
何かしらの情報を引き出そうとしているのか、少しばかり目に光が戻ったイリヤスフィール。自己強制証文という魔術師からすれば絶対的な代物によって縛られているという現実は彼女を打ちのめしたが、何をされたのかわからない、よりかはましな状態になったらしい。
そう簡単に壊れられても面白くないので、そちらの方が都合がいいのだが。
「俺の起源の関係でな」
分断、結合。人間の精神をいくつかに
「だから、今のお前はその誓約と戒律をお前のここ」
イリヤスフィールの服の上から胸……心臓のあたりを指でトントンと押す。胸に触れられたことに気づき羞恥に顔を赤くして身をよじるイリヤスフィールだが、それ以上のことはできない。許されていないことが何かを理解していればこの間桐邸敷地内なら逃げられるけれど、それを知らないために俺から逃げようとすることそれ自体を禁じられていると思って行動を取れない。振り払うことは攻撃に当たると認識されて、とっさのそれを実行することは許されない。
「聖杯の器だっていう心臓に、お前に対する戒律は刻まれている」
イリヤスフィールの服装は昨日の夜から変化していない。よって寝汗やら膣から溢れた精液やらで汚れている。今は朝の四時なのだが、爺以外の間桐家の人間は皆、俺が聖杯戦争に挑むために手伝ってくれている。桜には昨晩イリヤスフィールを連れ帰った時に、こいつの替えの服を用意しておくことを任せたので、多分そっちに行けば何かあるだろう、と思う。
「命令だ、”お前はここで待っていろ”」
とは言っても、彼女をそのまま連れていくわけにもいかない。間桐の魔術師として「聖杯戦争における戦力の補充」と断言したことは知られているから、桜にも俺がイリヤスフィールに対して何をしたのかは知られているだろうが、だからと言って彼女にとっても不快なそれを想起させる必要性は断じてない。
故に、自己強制証文の効果を発揮してその場に留めておいてから、霊体化したアヴェンジャーを連れて部屋を出る。
『何か言いたいことでもあるのか、アヴェンジャー?』
部屋を出て、昨晩の情事の際にのみ周囲の警戒に徹して部屋から出ていたアヴェンジャー。なんとなくその視線の質が変わったように思えて問いを出さずにはいられなかった。
『いいや、特別大したことではない。……少々、幼子に対する非道に思うところがあっただけだ』
『でも、それは……』
『わかっているとも。聖杯戦争、これは戦争であり、であるならば勝ち抜くために必勝の策を用意し、万全の用意をし、使えるものはなんでも使う。そのこと自体におかしなことはない』
ただ。
『昨日のあの愚物の最後。それがなかなか脳裏から離れずにな。結果として少々昔のことを思い出してしまった』
『戦いに関しては支障はないんだな?』
『無論だ。……マスター、昨晩のアレで貴様と相容れない部分は把握できた』
その部分を留意しておいてほしい、と告げられる。
『魔術師としての己を消し去りたいと願いながらも、そのためには魔術師としての合理的な部分を取り入れた、魔術師然とした自分を使うことを意に介さない貴様は、神への復讐を願い神気持つ宝具を持ちながらも神気を体に取り入れない私とは違う』
『どういうことだ?』
『……私であれば神気を取り入れることはないが、もしもお前が私と同じ立場だったなら勝つために神気を取り入れることを拒まない、ということだ』
『……要するに、使えるものは本当になんでも使う俺と、使えるけれど使わずとも勝てるし負けるとしても使いたくないプライドがあるアヴェンジャーってことか?』
『そうだな、そう認識しておけ』
無論、負けるつもりはないが、というアヴェンジャー。けれどそこにまでは意識は回らない。つまり、そこのプライドを犯せば俺はアヴェンジャーに殺される、と。要するに、俺が気を使うべき部分が一つ俺の行動を見た彼の手で明確にされた、ということか。
「兄貴」
「ん? ……なんだ慎二か」
「なんだってなんだよ……おはよう」
「おはよう」
慎二は今日は朝練がないらしい。いや、あったとしてもこんなに早くに出ることはないだろうが、俺が聖杯戦争のために「戦力補充」しようとしていたと聞いて、眠っていないのが正解なのだろう。桜も、魔術師になれるだけの素養はあって、俺の協力を魔術的な観点から可能ではあるけれど慎二にはそれができない。
「今日は桜、昨日の夜から兄貴の魔術関係の手伝いしてるんだろ? 朝飯がなくなるのも嫌だから僕が作っといてやるよ」
「助かる」
少し、昔のことを思い出す。桜が拾われて来た当初のこと。それまで慎二は、長子である俺がいることから魔術師になることは諦めていたけれど、そこに桜が加わった。自分は魔術師になれないというのに、桜が魔術の鍛錬を受けていることに腹を立てた慎二が桜に何かしようとしていた時の叫びは今も忘れられない。あれほどまでの叫びを聞いたのは、それが初めてだったから。
『惨めになるんだよ、桜がいると! 僕が魔術師になれないのはもうしょうがない! でも、だからって……兄さんがいるのに他に魔術師の娘を連れて来て、そいつに魔術鍛錬を施す必要はないだろ……』
その時初めて、桜がこの家に連れてこられた意味を教えた。来たる聖杯戦争の時、その時のために子供を産み、そしておそらくはこれまでの間桐家の妻と同様に蟲の餌として殺されるためだけに連れてこられた存在。その事実を知った慎二が選んだのが、せめてその時まで桜には幸せだったと思える時間を少しでも多く与えること。
結果として、桜に趣味ややりたいことができた時には、皮肉を言いながらも自分が桜のやらないといけないことを受け持ってまで桜をそっちに行かせるツンデレな弟が出来上がった。だいたいその場合は『お前が○○を気にしてると集中しきれないのか飯の味が落ちるんだよね。それなら僕が作った方がまだマシさ。僕らに美味しい料理を食わせるためにとっとと行ってきな』とか言い出すので、それを生暖かい視線で見守るのはこの家の中にあるほんの少しの清涼剤だった。
「ああ、それと。桜が何やってるのかまでは知らないけど、多分まだ終わってないと思うぞ。部屋から桜の声聞こえて来たし」
「まあ、そうだろうな……捕虜の服を任せたんだけど、あれでも捕虜の見た目は結構いい方だからな。お人形さんの着せ替え、とか思ってたら長くなりそうだ……」
そうして少しばかりの会話をして、桜の部屋へと向かった。
ちょくちょく主人公の話には出ていたけど、ちょっとばかり綺麗なワカメくん