1しか知らない男が2の世界へ来てしまいフレンズに求められまくるお話(完結) 作:らんどまーく
「応急手当、応急手当」
右肩にセルリウムシリンジが押し当てられる。
ラッキーのマニピュレーターが止血剤や痛覚遮断剤などの薬剤を次々に投与し、痛みは小さくなったが代わりに眩暈と吐き気が加わった。
「最後のセルリウムシリンジを使用します。6本目」
右手でイエイヌの口を塞いだまま左を見れば、血塗れの袖の一部と中途半端に断裂した肩口が覗く。
千切れかけた赤い肉と骨の飛び出た断面。それはヒトならざるモノならではだろうか、セルリウムの作用で殆ど塞がっていた。
>警告
【左腕欠損】
【バイタル低下】
【血中セルリウム濃度危険域】
【薬剤投与量過剰】
>退避せよ
実際に体の一部を失うとこんな感じなのかと、俺はまるで他人事のような感想を抱いていた。
恐らくは口径の大きな弾丸による被害。状態はかなり悪いが生憎とセルリアンの体……即座にセルリウムを入れさえすればそう簡単には死なない。腕もその内生えてくるだろう。
>警告
【左腕欠損】
【バイタル低下】
【血中セルリウム濃度危険域】
【薬剤投与量過剰】
>退避せよ
表示が邪魔過ぎる。
デバイスの機能を一度シャットダウン。
──おれのものだ
「セルリアンの気配だ。全員静かに」
今発見されるのはマズい。俺はそのままイエイヌを押し込み、建築用の足場とガラクタの陰に深く身を潜めた。
飛び出し気味のチーターにも身を寄せるよう顎でしゃくる。
ラッキーに口を抑えられたままの彼女は俺の空いた左側に屈み込み、小刻みに震える手が失われた部分の近くに触れた。
「俺は大丈夫……」
──おれのものだ
イエイヌのみならずチーターまでをも血で汚してしまった。
以前胸を串刺しにされた時に続いて2度目となる申し訳なさをこらえ、ガラクタの隙間から声のした方を覗き込む。
中央に位置する機関部の柱が白く霞んでいる。失血によって朦朧としているからではなく、ラッキーが咄嗟に放ったデコイの煙がまだ付近に滞留しているからだ。
──おれのものだ
何本もの黒い節足がうぞうぞと蠢いている。
巨大な、ドス黒いセルリアンだ。下で交戦したムカデ型のデカい版にも見える。
──おれのものだ
煙が徐々に晴れ、露わになる姿が俺の想像をやや覆した。
普通のセルリアンがそうでないからか、殊更に『堅い』という印象を受ける姿だ。
胴体の背面は鱗状に固まったタールがびっしりと覆い尽くしているかのようで、頭部は大きな筒状。巨大なライフルの銃身にも似た表面には複数の眼がぎょろついている。
──おれのものだ
ばくん、という音が聞こえるような動きだった。
奴は地面に落ちていた朱雀の石板の前で動きを止め、その銃口のような頭の先端で傍に転がる俺の左腕ごと取り込んでしまう。
「むううううっ!!」
「イエイヌ静かにッ……!」
冷静さを失って勝てる相手には見えない。その上、鎌首をもたげたセルリアンの体は突如かき消えてしまった。
一瞬で透明になる様はCG映像処理でも加えられているのかと思ってしまう程。
カメレオンでもあそこまでの擬態はできまい……道理で発見が遅れた訳だ。
四神の石板を得て満足したのか蠢く音と気配は遠のいて行った。発見されずに済んだことは幸運だったが、今度はこちらから仕掛ける必要に迫られてしまったようだ。
「ふぅ……」
一度安堵の息を漏らした俺は2人に大声を出さないよう念押しをして、イエイヌの口から手を退けた。チーターの口を塞いでいたラッキーもマニピュレーターをポーチの中に仕舞う。
「ご主人っ、う、うでっ、腕、腕……!!」
「大丈夫? 痛い? いや痛いに決まってるわよね。ど、どうしよう……ねえ、舐めたら痛くなくなる?」
「2人共落ち着け」
焦燥の極みにあるフレンズの肩を交互に叩き、視線を欠損部から遠ざける。
「傷口はもう塞がってる。だから大丈夫。それより今はあのセルリアンだ……倒して四神を取り戻す」
「そんなっ、む、無理よ……! ミレンだってそんなだし、セルリアンも見えなくなっちゃったし……!」
「いや、見えるはずだ。ラッキー、デバイスのクルータグ探知機能を単独で起動させてくれ」
「了解しました」
クルーの制服には位置追跡用のタグが仕込んである。俺の着ているセキュリティクルーの制服も布地の中に複数個のタグが埋め込まれているのだ。当然、腕の袖口にも。
光点以外を透過表示すればセルリアンの位置は容易く判明した。建築用の足場に絡み付いているのか、ここから対角線上の壁際、それもかなり高い位置に俺の腕の反応がある。
「即席だけど作戦も考えた。皆で協力すれば成し遂げられると思う」
「で、でも……」
チーターは及び腰だ。耳と尻尾は垂れ下がり、いつもの自信たっぷりな姿は怯える子猫にまで落ち込みを見せている。
だからと言って他に手段もない。インガ亡き今、フィルタリング機構は十全な姿でないにも関わらず出力を高めている。放っておけば破損、二度と使えない状態になるのは明白だ。おまけに外はセルリウムレインが吹き荒れていて危険な状態にあり、かばんさんとのリンクも途絶えてしまった──。
つらつらと説得の文言だけは浮かび、だがそれらはチーターの瞳に浮かぶ不安を払拭できないと直感できてしまう。
どうすればいい。
「わたしは信じます」
イエイヌの低い声にはっと振り向く。
服と頬の一部を俺の血で染めた彼女は威圧感すら放ち、真っ直ぐ前を向いた青と金の瞳は共に虹色に輝いていた。
「ご主人を信じます。チーターさん、一緒に取り返しましょう」
「イエイヌ、あなた……」
じっと見つめられたチーターは目をこすり、何度か俺とイエイヌの間で視線を行ったり来たりさせ、やがて意を決したように頷く。
「分かった。私もミレンを……ミレンとイエイヌを信じるわ」
「ありがとうイエイヌ、チーター。時間がないから早速説明する。よく聞いてくれ────」
作戦は奇襲からの即時決着。
こちらは相手の位置を把握している。そのアドバンテージを最大限に活かし反撃の隙を与えず勝利する。
「えっと、全速力でこれを置きに行って、一直線に戻って来ればいいのね?」
「そうだ。置く場所は反対側の壁際ならどこでも構わない。だけどそれは投げたりしちゃ駄目だ。ちゃんとその状態で地面に置かないと使えない」
「うん。分かったわ」
チーターは地下駐車場で回収していた地雷を両手で持ち、膝立ちのまま背中を大きく伸ばして体に熱を入れる。
地雷は敵の体勢を崩し、攻撃しやすい位置に引きずり下ろすのに使う。
このフロアの至る所に組まれた足場は突貫工事のせいか大して補強もされておらず、一部だけでも破壊すればその周辺の足場を巻き込んで枯れ枝のように崩壊させられる──という計算がラッキーからもたらされたのだ。
地雷の威力は調整でき、遠隔での爆破も可能。
問題は地面にしっかり設置する必要があることと、敵に接近する為に撃たれる危険があるということだが……。
「任せなさいって。ミレンがまばたきしてる内に戻って来るわよ」
最速の脚を持つチーターが最も適任だったが一抹の不安は拭えない。
俺はウインクする彼女に小さく頷いて、じっと待つイエイヌに向き直る。
「イエイヌは攻撃だ。その帽子を被っていれば奴の位置が見える。落ちて来た所を全力で叩け。一気にケリを付けるんだ」
「見えなくても大丈夫です。ご主人の匂いがしますから」
イエイヌには赤黒い点々模様で彩られてしまった俺の帽子を被らせた。本来彼女には大き過ぎるサイズだが獣耳が上手く調整の役目を果たしてくれている。あご紐でしっかりと留めているので外れる心配もなく、探知機能も常時起動済み。
問題があるとすれば、この帽子がイエイヌには似合わないということぐらいだろうか。
「ミレン、報告します。現在のフィルタリング機構の出力は70パーセント。フィルター再発生まで残り20パーセントを切りました」
「時間がないな……やろう。チーター、俺が囮になるからさっき言った通りに動くんだ」
「待ってくださいご主人……!」
「待って待って……!」
2人して裾を摘まむのだから動けない。
「何?」
「『何?』じゃないわよ……!」
「これ以上無茶しないでください……!」
振り向けば揃って主張を始める。小声で。
「囮になれるのは俺だけだ。大丈夫、発炎筒を持って死角へ走り込むだけだから…………ラッキーは四神をセットする時に必要なんだよ」
後半は足元のラッキーに縋るような目を向けたチーターへの牽制だ。彼女はそれで服を掴む手を緩めたが、イエイヌはむしろ握る強さを大きくする。
「セルリアンが降りて来るかも──」
「できるなら最初からそうしていたはずだ。奴はヒトと同じ……遠くから撃つ。正々堂々戦うなんてありえない」
「ミレン。囮は私が務めましょう」
「ラッキー……」
説得できそうだったのに何を言い出すんだ。
俺は溜め息に言外の意味を込め、ラッキーを見下ろした。
「デコイ弾はまだ残っています。私が務める方が成功率は上がります」
「撃たれたらどうする? 当たり所が悪ければ
「問題ありません。現在のあなたのセキュリティクリアランスなら、四神のロック、及び再稼働の操作はデバイスで行うことが可能です」
つぶらな瞳と視線を交差させる。
ラッキーに合理性があるのは明白だった。しかし俺は首を縦に振れずにいる。
「ミレン。あなた自身の義務を優先して下さい」
クルーの義務は『ゲストの保護』で、これは正規クルーも暫定クルーも、ガイドもセキュリティも研究員ですらも同じだ。
だがしかし俺の義務を問うのなら……誰が何と言おうが『フレンズの保護』と答える。
……そうだ。このまま押し問答を続け、チーターが自分1人で大丈夫だと強弁し始める方がマズい。
俺はフレンズを守らなければならない。
他の何を犠牲にしても。
自身の思考の切り替わり方は薬漬けから来るものか、まるで冷たい機械のようだった。
「分かった、囮はラッキーに頼む。デコイを発射したらすぐに下がれ」
「了解しました」
言った後で悪寒がした。
まるでラッキーとフレンズの命を天秤にかけ、どちらか選ばなかった方が失われるような……そんな恐ろしい予感が。
「う……」
「ご主人? 大丈夫ですか?」
「ああ……大丈夫。集中して合図を待つんだ」
吐き気を堪え、意識を研ぎ澄ませる。
セルリアンの位置、そしてイエイヌとチーターの状態を確認。
問題なし。
ヴゥゥゥン……
フィルタリング機構の発する低周波が嫌に響く中、俺は右手を挙げ…………小さく前へ振り下ろした。
「作戦開始」
ラッキーが短く始まりの時を告げ、飛び出した。
そのまま駆動モーターを全開にしたラッキーは地面を滑るようにして進み──
「っ!?」
デコイ弾を放つ空間を確保する為の動きなのに、どうしてラッキーは相手の射線のど真ん中に躍り出ている?
「デコイ発動」
ボウンッ。
圧縮された空気を解放する音と共にラッキーの両耳が煙を放出した。
それは、デコイ弾と同じくサンドスターを含有する白煙。
ドダアアーーーンッ!!!!
当然ながらそれは敵の注意を引き、けたたましい銃声と着弾音が鳴り響く。
予想外の挺身。しかしもはや思考を止めている余裕はなかった。
「くっ……今だチーター!」
「任せてっ」
チーターが目に見えぬ速さで走り出し、後に残った風には虹色の光が舞う。
ドオォーーンッ!!
何拍かの間隔を置きながらセルリアンの攻撃は続く。煙の中に消えたラッキーとチーターの姿は見えず、時々砕けた床の破片が飛んで来るだけ。
右手の遠隔爆破用のスイッチを握りしめ、待つ。
隣のイエイヌは歯ぎしりをしながら音に耐え、その瞳は慣れ親しんだ光を宿していた。
赤い、煮えたぎったマグマのような……これは……怒りの炎?
「だああーっ!」
切り裂くようなスピードで煙の中から現れたチーターが滑り込んだ。
彼女はぜえぜえと荒く息を吐き、叫ぶ。
「置いて、来たわよ!」
「爆破する!」
鏡に映る自分を見たような錯覚を一気に振り払い、スイッチのカバーを跳ね上げ、ボタンを思い切り押し込む。
ドガンッ!
ガランガランガラン──ドドオオン!!
発破の衝撃は小さい。しかし直後に発生した足場の崩落に混じる非金属的な音は、間違いなく敵の落下を知らせる合図だった。
「イエイヌ! 行け!」
「ウゥッ!」
返事は犬歯を剥き出しにした唸り声。両手に眩いサンドスターの輝きを纏ったイエイヌが飛び出して行く。
「頑張ってイエイヌ!」
チーターは一時的に体力切れ。ラッキーも戻らない。イエイヌにデバイスを預けている為に様子を伺うことすら不可能。
もはや祈り、耳を澄ませる他にない。
「グルルァアアアアアアッ!!」
銃撃音に勝るとも劣らない雄叫び。
僅かな間を置き、セルリアンの殻に彼女の爪が激しく打ち付けられる音が響き渡る。
「返せ!!」
意味のある、たったひと言で伝わる怒りの発露。
「返せ、返せっ!!」
何度も何度も同じ言葉と、爪を叩き付ける音とが反響する。
俺はそのイエイヌの怒り狂った声で……ようやく気付いた。
「ご主人の腕を返せええぇぇーーーッ!!!」
──取り返す。そう、宣言するように言った彼女の想いに。
「ミレンッ! このまま待つだけなんて嫌よ!」
懇願の声で我に返った。イエイヌの怒声と熾烈な攻撃音はまだ続いており、もはやセルリアンの声は一片も聞こえなくなっている。
「私もイエイヌを手伝いに行かせて! お願い!」
瞳を潤ませたチーターの息切れも治まりつつある。
フロアに充満していた煙は徐々に薄まり、少しではあるが視界も開けていた。
俺はすっくと立ち上が……ろうとして力が入らず、老人のように膝に手を付いて身を起こす。
「はぁ、はぁ……分かった。一緒に……行こう」
「えっ、ミレンも!?」
「勝負は決してる。それにラッキーが戻らないんだ……うっ」
「ミレン! もう、しょうがないんだからっ」
足元はまるで千鳥足のようにふらついたが、見かねたチーターが支えてくれた。
「ガルルァァァァァァーーーッ!!」
「どうしたのイエイヌ……?」
フロアの中央へ向かう間もイエイヌの叫び声は途切れず、聞こえる破壊音は一方的な攻撃のそれ。
おまけに、彼女の声はもはや獣の雄叫びそのもの。
「まさか──」
「いたっ! 何か足に」
一緒に歩いていたチーターが突然立ち止まり、俺は腹と足に力を込めて何とか前のめりに倒れ込むのを堪える。
その動きで意図せず下を向いた為、チーターより先に気付いた。
「あた、って…………」
彼女の足先が触れているのは、両耳が千切れ飛んだラッキーだということに。
「ラ、ラッキー、さん……?」
「申し訳ありマせん、ミレン。損傷ニより自立機能が故障しマした。しかし作戦ハ成功です」
倒れたままのラッキーがノイズ交じりの言葉を発し、チーターは絶句した状態で固まっている。
俺は膝を折り、右手でラッキーをすくい上げるように起こした。
「どうして嘘を吐いたんだ。まだデコイが余っているだなんて」
「嘘でハありマせん。あなたの命を守ルのが、パーククルー支援ロボットの私の務メ──」
「やめろ」
最後まで言わせたくなかった。だから引き寄せ、強く胸に抱いた。破損した耳から配線を垂らし、フレームの一部が丸見えになったラッキーを。
「ごめんな……」
「っ……あっ、イエイヌッ!」
顔を上げる。すると、煙とはまた別の理由で滲んだ視界に灰色の毛並みが霞んだ。
彼女は走っているようだ。セルリアンを完全に消滅させたのか、もう激しい怒声や攻撃音もない。
膝立ちの俺の目線と同じ高さにイエイヌにかぶせた帽子が揺れていて、彼女の綺麗な色違いの瞳も真っ直ぐ近付いて来るのが分かる。つまり──
「止まりなさい!」
チーターが警告と共に俺の前で大きく手を広げ、四つ足で疾走していたイエイヌは獣のようにブレーキをかけた。
「ウゥゥゥー……!!」
眉間に深い皺を刻み、狼のような唸り声と見たこともない眼光とでチーターに敵意をぶつけるイエイヌ。
帽子は頭から外れて首の後ろに回り、口には朱雀の石板らしき物体を咥え、体の節々からは黒い粒子が立ち昇る。
「イエイヌ……サンドスターを全部使い切っちゃったのね」
「デバイスデータ受信。イエイヌ、ビースト化していマす」
「…………どくんだ、チーター」
「で、でもっ! この子はビーストに……!」
「イエイヌは大丈夫だ。頼む……どいてくれ」
背中に葛藤を見せ、それでもチーターは俺のわがままを聞いてくれた。ためらいながらも、ゆっくりと後ろに引き下がる。
俺はラッキーを一度横に置き、両方の腕でする気持ちで右手を差し伸べた。
「おいで」
イエイヌは完全に動物の犬の動きで走り寄り、咥えていた物を俺の右手に落とした。
朱雀の石板……だろうか。俺の血と黒いセルリウムに涎が混じり、てらてらと黒光りしている。
「ハッハッハッハッ……」
石板を置き、イエイヌに視線を戻す。舌を出した彼女はおすわりの姿勢を保ち、どこか物欲しそうな目を俺に向け続けている。
「取り返してくれてありがとう。えらいぞ」
「わんっ!」
獣耳ごと頭をわしゃわしゃと撫でながら抱き寄せる。すると彼女は興奮の鼻息を漏らしながら俺の胸に鼻先を埋め、尻尾を勢い良くばたつかせた。
……これなら気付くまい。
イエイヌの頭から右手を離し、徐々に自分のレッグポーチへと降ろして行く。
「待っテくださイ、ミレン」
ラッキーに気付かれた。
「フィルタリングシリンジは、あナた自身が使用すルことを推奨しマす。こレ以上処置が遅れルと、欠損しタ部位が二度と再生しナくなルかもしれマせん」
「イエイヌ。そのままじっとしていなよ」
ラッキーの言葉はあくまでも推奨だ。
俺は何の迷いもなく最後のシリンジを手に取り、言われた通りにするイエイヌの腕を露出させる。
「チクっとするからね」
「きゃうん!」
「よしよし……大丈夫。君は大丈夫だ」
シリンジ内の青い薬液が全てなくなり、イエイヌの体から黒いもやが消えて行く。
「あれ、あれ? わたし……ご主人の腕を取り返したはずなのに……あのセルリアンは……?」
瞳に宿っていた強過ぎる野性が失われると、彼女は不意の寝起きのように忙しなく首を巡らせる。
「イエイヌ!」
「わふっ!? チ、チーターさん……ど、どうしたんです?」
「ごめんなさい……私、私あなたを……」
「え、え?」
小さく震えるチーターがイエイヌを抱きしめる。その切れ長の瞳から、光る雫をこぼしつつ。
俺は満足げに笑い、1人頷いた。
これでいい。
「ミレン。フィルタリング機構、出力80パーセントを越えマした。速やカにダミーを入れ替えテ下さい」
「うわっマズい! 2人共行けるか!?」
「あ、は、はいっ!」
「うんっ!」
どたばたあたふた。
俺は石板を手に取り、イエイヌはそんな俺を支え、チーターはラッキーを抱きかかえる。
…………はらからよ…………
薬の影響だろうか。一瞬、この場の誰とも違う声が聞こえた。
石板の幾何学模様が変わっていることにも、俺を含め誰も気付くことはなかった。
「『朱雀』ノ固定ロック解除。ダミーと入レ替えてクださい」
最後の入れ替え作業だ。
イエイヌがダミーを破壊するような勢いで引き抜いて、俺は手にした石板をしっかりと差し込む。
「『朱雀』再ロック。四神フェイルセーフ解除。フィルタリング機構出力上昇…………」
「これでちゃんと動くのよね?」
「必ず動くさ」
不安げなチーターに自然と出た返事、それは自分の願いでもある。
柱から幾重にも伸びる真っ黒な管が虹色の明滅を始め、それまでの低周波は徐々に高い音へと変わりつつあった。
「フィルタリング機構出力83パーセント…………84パーセント…………」
俺は寄り添うイエイヌと共に柱と管の煌めきを見上げ、チーターは固唾を飲んで胸に抱いたラッキーを見つめる。
「異常発生。非常停止しマす」
「えっ?」
ヴゥゥゥゥン…………
どういうことだ。
そのまま正常稼働するかと思われた機構は何の前触れもなく、まるで燃料切れを起こしたエンジンのように停止してしまった。
「ひ、光が消えちゃいました……!」
「何が起きたラッキー!?」
「サンドスター循環ルートにセルリウムが溜マっていルようです。手動加圧ポンプを使って、異物を取リ除きましょウ」
対応策は柱の上部に設けられたポンプとレバー。寄せ集めのファンやチェーンが剥き出しになったそれは如何にもガラクタの寄せ集めで、レバーに至っては唯の鉄骨である。
「そのレバーを、何度も強ク引いてくダさい」
「わたしが」
「いや、俺がやる……!」
2人では背丈が足りない位置に備え付けられていた。
俺はラバーすら巻かれていない取っ手を握り、渾身の力を込めて、引く。
ガ……チン!
「もっト沢山引いて、ポンプを動かしてくだサい」
レバーを叩き込むようにして戻し、引く。
「動け!」
ガチン!
「フィルタリング機構出力自然上昇中。88パーセント。残リ2パーセントで破損しマす」
「ご、ご主人っ!」
「手を出すんじゃない!」
もはや何もかも意地だった。
残されたインガ達の未練全てを、俺が、パーククルーの俺が終わらせるのだと。
「動け!」
ガチン!
「動け!!」
ガチン!!
「お前は! 救う為に生まれて来たんだろ!!」
ガチン!!!
「ミレンもうやめて! 血が!」
「出力、89パーセント」
ポタポタポタ、と。
傷口が開いたのか、欠損部から滴る血がやけにゆっくりと落ちて行く。
「インガ。必ず君の願いを果たす」
目の前が黒く染まり、口がひとりでに何か言葉を発している。
「ごしゅ、じん……?」
「さあ動くんだ!」
ガチン、ガチン、ガチンッ!!!
「全て浄化しろ! 我々の未練を!! 狂った星の意思を!!」
「出力90パーセント。四神フィルター、発生しマす」
ゥゥゥゥン…………ヒュイイィィィィン!!!
「っ!」
「わあっ!」
「まぶしっ──」
甲高い産声と共に、柱が発した膨大な光の奔流。
その場の全てが、虹色の光で飲み込まれてゆく。
…………同胞よ、我がついているぞ…………
自分が立っているかどうかも分からなくなる中、さっきの幻聴、どこか威厳を感じさせる少女の声だけがはっきりと聞こえていた。