日曜日の午前中。蘭と朝食を取った後にソファーでしばらく寛いでいると、隣に座っていた蘭が唐突に立ち上がった。面と向かう形で俺の膝に跨ってから抱きつき、顔を寄せてくる。服を通じて触れ合う肌が温かくて安心感を抱く。けど、距離が近すぎる気がした。蘭は少し惚けながら何も言わずにただじっと見つめてくる。
「どうしたの?」
と聞くと、
「何でもない」
と返ってくる。
随分と懐かれたようだ。可愛い子に好かれて非常に嬉しいけど、少し締めつけが苦しかった。素直にそれを伝えてみたら「ごめん……」と言って抱擁する手を緩めてくれた。本人としては無意識の力加減だったらしい。
手は緩めても、蘭は抱き着くのをやめなかった。
「ねえ、頭撫でて……」
蘭が呟く。しかし、とっさに口を噤み、「やっぱり、何でもない……」とそっぽを向いた。願望がうっかり口から出てしまったらしい。なんて不器用な子なんだろうか。俺は蘭の頭に手を伸ばし、望み通りに撫でてあげた。
「ありがと……」
蘭は頬を赤らめながら俺へと再び顔を向ける。眦がツンと上がった目の中で瞳が俺を映す。俺に撫でられるだけで体を震わせ、表情を緩ませる。可愛かった。きっと、ここまで油断しきった顔はモカたち幼馴染たちでも見られないものだと思うと余計に。
蘭の息が頬に当たる。さらに顔が迫っていた。
「ん……」
そう思っていたら、蘭が口づけてきた。目を閉じて、唇の感触を楽しんでいる。数十秒間しっかりと接触し合い、唇を離してまた俺の顔を眺める。
そして、満足するとまたキスを始めた。
今度は舌を使う。口の外に伸ばした舌同士を密着させる。動きは緩慢で、その分粘膜に相手の熱がじっくりと伝わってきた。意識が蕩ける。静かな部屋を支配していた時計の音も今は耳に入らない。夢中になって、俺たちは傍にいる相手の存在を確かめ合った。
「好き……」
「俺も」
「本当に……?」
「本当」
「じゃあキスして……?」
「もう何回もしてるけど」
「まだ足りない。ほら」
蘭が舌を左右に動かす。俺からキスをしろということか。俺は促されるまま舌を舐め上げる。舌に優しく往復ビンタを放ち、唾液をつけた。そんなことをしているうちに蘭が我慢できなくなったのか、自分から舌を動かしてきた。
「ん、ちゅ、ぴちゃ、くちゅ、くちゅ、ちゅぷっ」
蘭と口づけを交わし合い、途中で口づけを止め、見つめ合ってからまたキスを再開する。そんな風に朝の時間を過ごしていく。このままだと興奮が抑えられなくなる。そう思ったところで、蘭の携帯電話が鳴った。
「ごめん」
俺の唇をぺろりと舐めて唾液を拭った蘭は、体を起こしてポケットから携帯を取り出し、何かを確認している。その様子をただ眺めているのもおかしいから、俺も自分の携帯を手に取った。
ついさっき母さんから届いたばかりのメールを確認する。俺と蘭の縁談という用事を済ませたため、海外の拠点に戻るようだ。既に仕度を整えて家を出たらしい。さすがに今回はゆっくりしていくかと思いきや、相変わらずのフットワークの軽さだ。
母さんは、俺がどのような決断をしようが応援してくれるようだった。今回の縁談は美竹家、特に美竹さんのお母様を満足させるためのものらしかった。男の競争率が高いこのご時世で、どうにか俺と蘭の間に関係を築こうという美竹家の思惑のようで、それは今こうして果たされている。
『あなたの人生よ。人に迷惑を掛けない範囲であれば、あなたの好きに生きなさい。何かあったら早めに連絡をちょうだい。仕事を調整して日本に戻るから』
母さんからのお言葉により、俺のハーレム生活はこれで完全に容認された。今まで別に遠慮をしていたわけではないが、これで大手を振るって恋人作りに一層励むことができるようになった。
と言っても、今までと何かが大きく変わるということはない。日常を楽しみながら好みの女とイチャイチャするだけだ。今日も蘭と時間の許す限り愛し合うつもりだ。
「勇希、ごめん。時間を忘れてた……」
「え」
と思いきや、蘭のほうは都合が合わないようだ。
「今日、CiRCLEのスタジオでバンドの練習があるから」
「そっか」
練習なら仕方ない。続きをしたいという欲求を飲み込み、俺は蘭から手を離した。蘭も名残惜しそうに俺を見ていたけど、ややあって俺の膝から床へと降りた。
俺は蘭とともに玄関に向かった。
「忘れ物は?」
「大丈夫」
靴を履き、蘭が持ち物を確認するが、問題ないらしい。
帰り支度を済ませた蘭を見守っていると、蘭は扉に手をかけたまま俺のほうを見た。俺を見据え、何かを言おうとして口を開閉した。しかし、言いよどんでいる。恥ずかしそうに顔を赤らめて目線を一度逸らしたが、覚悟を決めたように俺を見た。
「ねぇ」
「ん?」
「また、来てもいい……?」
「勿論」
俺が言うと、蘭の口元が微かに緩んだ。俺を映す瞳に欲望の色が滲み出て、蘭の視線が俺の体を這う。ねっとりと視姦されているのを感じていると、また携帯の音が鳴った。蘭はそれではっと我に帰ると、たった今の欲望丸出しな自分を恥じるようにして慌てて扉を開いた。
「それじゃあ、また……」
ほんのりと赤みを残しつつ、無理矢理澄ました顔のまま、蘭は最後に俺を振り向いて言った。「うん」と俺が手を振って見送ると、蘭が外に出て目の前で扉がバタンと閉じ、室内が途端に静かになった。
玄関前に立っているのもおかしいから、部屋に戻ってソファーに座る。しばらく携帯を弄ったりテレビを見たりしていたが、何か落ち着かない。さっきまで傍にいた蘭がいなくなって人肌が恋しくなったというのもあるが、今はもっと別の感情も渦巻いていた。
「練習か……」
蘭はバンドの練習と言っていた。一人で音楽を完結させる俺とは違い、仲間たちの音を重ね合わせ、一つの音楽を作り出すのだ。それは今日も熱心に練習をしているらしいRoseliaも同じで、俺とは違う楽しみ方をしている。
これまでバンドを組もうと思わなかった俺だが、皆が羨ましくなってきた。俺には友達はいるが、全員音楽に疎い。同じ学校内でバンドを組んでいる男子たちはいるが、メンバーは揃っているため、俺が入る余地もない。
やるとすると一からメンバーを探す必要があるが、そこまではちょっと待てない。
今、何かをしたい。歌の配信でもしようか。SNSで告知もせずとも、大勢の人が集まって俺の歌を聞いてくれる。しかし、と俺は思い直した。相手の反応を文章でしか確認できないインターネットでは満たされそうにない。
たまには気分を変えてみよう。
俺はソファーから立ち上がり、帰宅の準備を整えると、マンションを出た。
真っ直ぐに足を運んだ先は自宅だ。母さんは既に家を出たため、施錠された家の鍵を開ける。中に入って最初に行ったのは、変装だ。帽子を普段よりもさらに目深に被り、黒縁の伊達眼鏡を掛ける。性別のわかりにくいユニセックスの装いに改め、洗面所の前に立つ。
鏡に映っていたのは、中性的すぎて性別不詳の高校生だった。一見して性別を断定することは困難だ。おそらくはボーイッシュな少女だと思われるだろう。前回、モカとのデートで待ち合わせをしている際には男だとばれて軟派されてしまったが、今回はより中性的な服装にしたから大丈夫だと思いたい。
変装を終えると、次は防音室に向かった。そして、中に置いてある楽器を順繰りに見回す。ギター、ベース、キーボード、ドラム。その他にもいろいろな楽器や機材がある。全て父さんが遺し、俺が引き継いで手入れを定期的に行ってきた。
燐子にも言っていなかったけど、俺は密かに楽器の練習をしていた。一種類に限らず、様々な楽器に触れた。俺の体はスペックが無駄に高く、一通り弾けるようになってはいるが、一つの楽器を専門にした人にはさすがに技術は劣る。
でも、誰かに聞かせるには十分な技量は既に有していた。
俺はずらりと並びギターの中から、目についたそれを手に取った。
「借りるよ、父さん」
尖ったボディが特徴的なギター、ランダムスター。その名前が表す通り、少し歪な星型のようにも見える。だが、星と違って色は金色ではなく白一色だ。ピカピカに磨き上げた表面には俺の顔が薄っすらと映っている。
俺は白いランダムスターと手のひらサイズのミニアンプをギターケースに収め、家を出た。
外は晴れている。七月も目前に迫りつつあるが、気温はちょうどいい。昼前の温かな陽射しを受けて歩いていく。駅前に近づくに連れて人通りは多くなってきていた。ランチタイムを目前とした飲食店からいい匂いが漂ってくる中、駅前の広場に辿り着いた。
これからここで、路上ライブをする予定だ。
路上ライブが禁止されている場所もあるが、あまり騒がしくしなければ、この区域での路上ライブは市から許可されている。ストリートミュージシャンや学生が小規模のライブを行っているのをたまに見かける。
俺は人のいない隅のほうへと移動し、ギターケースを置いた。ギターを取り出し、シールドケーブルでギターとミニアンプと繋ぐ。ギターを肩から提げて構え、チューニングを兼ねて音を出す。ギターを触りたてのときにはチューナーを使っていたが、音を覚えてからは耳で調整している。
試しに人気ドラマで聞き馴染みのある曲を奏でてみれば、ミニアンプから控えめに増幅された音が周囲に広がった。近くを通りがかった人たちの視線が集まる。この曲を知っている、もしくは単純に音に引かれた、はたまたランダムスターという変形ギターに興味を引かれた人たちだ。
視線は集まるが、誰かが近づいてくることはない。今どき、路上ライブなど珍しいものでもない。余程の腕がなければ、道行く人の足を止めることなどできない。当然、ギター歴の浅い俺には人を惹きつける演奏はできない。
いつかはギターだけでも観客を魅了したいと思うが、今じゃない。
今日の主役は俺の歌で、ギターはその脇役だ。
往来の喧騒を搔き乱さない程度の音量と、よく晴れた休日の昼下がりに相応しい穏やかで明るい選曲。せめて少しでも、聞いてくれた人たちを温かい気持ちにさせてあげられますように。俺はその願いを声に込め、歌い出す。できるだけ性別や正体がバレないように変装もしたし、普段とは少し声色も変えるつもりだが、バレたらバレたで別に構わない。今はただ音楽を楽しもうと思った。