携帯電話を取り出して画面を確認すると、母さんから電話が掛かってきていた。
「うわ」
咄嗟に声が漏れてしまう。母さんから定期的に連絡は来るのだが、前回の連絡からさほど日数は経っていない。こんなに早く連絡をしてくるということは、重要な用件なのかもしれない。場合によっては、また俺を困らせる事態になりかねない。
できれば出たくないけど、そうはいかないか。
などと躊躇っていると、携帯電話の着信が鳴り止んでしまった。たぶん、もう一度掛かってくるだろう。
次に鳴ったときに出ようと心を決めた俺だったが、幾ら待てども再度着信が来る気配はなかった。
「あ……」
着信の代わりに、一通のメールが届いた。母さんか? 電話で伝えてこないということは、大事な用事ではなかったのか? 少しだけ気が楽になった俺は、何の警戒も抱かずに、メールを開封してしまった。
『勇希 食事会 友人の御令嬢と 日程未定』
母さんのメールは、非常に簡潔に、俺の脳へと情報を刻み込んだ。
何、このカレンダーに書き込んだ予定みたいなものは。俺の油断を誘っておいてからの、無駄を削ぎ落としすぎた連絡。こちらに返事など求めていない、一方的な伝達だ。この子にして、この親あり。俺ほどではないが、母さんはやっぱり人との会話能力に問題があると思われる。
それなのに、母さんにはよくわからない人脈がある。
友人の御令嬢って、言葉通りに捉えていいのだろうか。それとも、単純に相手の娘さんを敬った表現なのか。前にお見合いをした蘭の家はどうやら長い歴史のある華道の家元だったらしく、母さんは蘭の母親と親しげだった。それを考えると、母さんが普段使わない『御令嬢』という表現が特別なものに思えてくる。
本当に困ったことになりそうだ。食事会という名目らしいけど、お見合いと何が違うのだろう。大差ない気がするのだが。俺がはっきりと断らなければ、そのまま崩し的に婿入りさせられてしまう可能性も捨てきれない。
『断ってもいい?』
と俺がメールを送ると、
『たぶん無理よ。向こうから頼まれて一旦返事を保留にしたはずなのに、なぜか私が同意したかのように受け止めて母娘揃って盛り上がっていたから』
と一分以内に返信が来た。
たった今連絡を受けたばかりだというのに、もう打つ手はないらしい。なんか、毎回こんな気がする。今回は母さんが悪いわけではなく向こうの早とちりのようだから、責めるに責められない。
途方に暮れていた俺はややあって再起動し、携帯をポケットにしまった。この短いやり取りで気疲れしてしまった。自然とため息を漏らしつつ、ちょっと気分を落ち着けようと、居間のソファーに腰を下ろした。
テレビを点けてしばらく視聴しながら、俺は今日の予定を考えた。さっきのことがあったのもあるが、それとは別に今日は元々気晴らしをするつもりだった。ただ、どう気晴らしをするかまではまだ決めていなかった。
いつもみたいに家で思いっきり歌うか。それとも、外出するか。
ふと窓の外を見遣る。
よく晴れている。これから昼にかけて気温も段々と上がって、暑くなるだろう。たまには汗を掻いて、街を散策してみるのもいいか。考えているうちに予定は決まっていき、早速準備をしようと部屋に戻って着替えを始めた。
動きやすいように、格好は白いポロシャツと青いジーンズ。あとは、キャスケットの帽子と伊達眼鏡。やっぱり変装は欠かせない。でも、ポロシャツは半袖で肌が出ているから、長袖のときほど性別は誤魔化しきれない。ナンパはされるかもしれないが、そこはもう仕方がない。
準備を整えた俺は、ボディーバッグを肩にかけて身軽な格好で家を出た。
これまであまり通ってこなかった道を積極的に進み、マイペースに散歩を満喫する。見知ったはずの街だが、意外な発見があって面白い。自分の知らなかった個人のお店があったり、変わった趣の家があったり。目に留まった風景や、通りすがった猫を携帯のカメラで撮っていると、段々楽しくなってきた。
歩いているうちに、徐々に人通りの多い場所へと出ていき、少しずつ人の数が増えてきた。
日曜日の朝を優雅に過ごす美人な年上女性。部活動に向かう途中らしい、美少女中学生の集団。目に入る人は例外なく美人揃いで、いつも通り視線を奪われていると、見ていることに気付かれて顔を見られてしまう。帽子を目深に被って俯いても、既に顔を見られてしまった後で手遅れだった。
「ねえ、ちょっと。あの人、格好よくない?」
「あ、本当だ。すごいイケメン……!」
「この辺に住んでる人?」
「チンポは? 巨根?」
「ズボンの上からじゃわからないって」
「どっちにしても、あの見た目だったら休まずハメ倒せるよねー」
「組み伏せてマンコでチンポガシガシ犯して、無理矢理受精したい」
「あー、早く処女卒業したいなぁ……」
思春期真っ盛りの女子中学生らしい、欲望ただ漏れの会話だ。今日も通常運転だなと日常を実感しつつ、足を進める。駅前や大型のショッピングモールからほど近い場所で、まだ行ったことのないところはないかと探索を続ける。
「ねえ」
突然声を掛けられた。肩に手を置かれ、振り向くと、そこには先ほど擦れ違った女性がいた。年の頃は二十代半ばくらい。足はスラリと長く、背が高いためにモデルのようだ。毛先を緩く巻いた長い髪と、眦がツンと吊り上がった眼が大人の色気を醸し出している。衣服やアクセサリーも派手過ぎず、自分の魅力を引き立てるような品のある装いに統一している。
前世ならば、男に一生困らないだろうその女性は、獲物を狙うような眼差しを俺へ向けていた。
「さっき、私のこと、見ていたわよね?」
見ていたのは事実だが、俺はどう答えようかと迷った。
「誘われたのかと思ったけど、違った?」
女性は言いながら、俺へと距離を詰めてくる。ふわりと香水の匂いが鼻に届く。それによって緊張感が緩み、その隙を突かれて距離を詰められる。身を寄せて頬に手を当てられ、撫でられてしまう。
このまま大人の魅力に身を委ねてみるのもいいとは思うが、昔と違って俺を取り巻く環境は変化している。最近になって恋人が急激に増えたから、新しい恋人を作るにしても、彼女たちとの関係も考慮に入れなくてはいけない。
目の前にいる女性は顔面偏差値の高すぎるこの世界の芸能界でも通用しそうな容姿をしているが、恋人たちと打ち解けられるかどうかはわからない。俺の恋人のうち大人はまりなだけで、他は全員女子高生。バンドや音楽に関わりがあるという共通点がある。この女性の趣味が一人だけ大きく違っていては、溶け込めないということもあるわけだ。
それに、性格も全員いいから、人間関係も良好だ。友希那と蘭が事あるごとに衝突し合っているが、あれは仲良く喧嘩をしているといった感じだろう。
この女性の性格はどうなのか。
「どうしたの?」
考えていると、よりいっそう距離を詰められる。道の端へと追いやられる。公衆の面前で通りがかる通行人の視線に晒されているが、気にしていないようだ。今もぐいぐいと迫ってきた。
乳房が俺の胸板に押しつけられ、形を歪めていく。
この柔らかさと漂ってくる甘い香りに屈してしまいそうになる。どうしようか。一回くらい誘いに乗ってもいいだろうか。でも、そのまま流されてしまいそうで、一回で済まなさそうな気がする。
「二人になれる場所に行きましょうか?」
潜めた声で囁かれ、脱力したところへ、肩を抱かれそうになる。
「待ち合わせ場所にいないと思ったら、こんなところにいたのね? 探したわよ?」
そんなとき、横から誰かに声を掛けられた。
聞いたことはないけど、耳当たりの良い声。俺は女性と共に視線を横へと振り向け、そこに立つ声の主の姿を捉えた。
間違いなく俺を真っ直ぐ見据えていたその人物は、変装状態の俺と同じく眼鏡と帽子を身に着けた、女子高生くらいの少女だった。淑やかそうで、一般人にはない煌びやかなオーラを纏っている。見るからに只者ではない少女は、見ず知らずの俺の腕を引っ張った。