穏やかな微笑みを見せる表情。小柄な体躯と幼さを感じさせる面立ちなのに、優美な魅力を放っている。帽子を被った頭から伸びる長い髪をさらりと風に流し、少女は淀みのない動きで俺の肩に手を回し、抱き寄せた。
「行きましょう?」
何が何やら。戸惑っていた俺は少女に耳打ちされ、理解して頷いた。
「え、ちょっと、待って……」
少女と共に歩き出そうとした俺へと、女性が慌てた様子で手を伸ばす。しかし、それが俺の体に触れることはなかった。少女が女性を軽く一瞥し、笑い掛ける。ただそれだけのことで女性が怯んだからだ。
「この人、私の男なので」
少女の放った言葉が決定打となった。手を伸ばした体勢のまま硬直していた女性は、がっくりと肩を落とす。女性の中で諦めがついたらしい。よくわからないが、女同士でしかわからない何らかの勝負が決着したようだった。
身長差のせいで多少無理している感じはあったが、少女は俺の肩を抱いたまま往来を行く。通行人の注目を否応なく集めている。ナンパから助けてもらった身であるために無下にはできず、俺はしばらく少女に身を任せた。
通りを抜けて、俺たちは小路に入った。そこで少女は足を止めて俺へと向かい合う。
「困っていたみたいだったから助けたのだけど、迷惑だったかしら?」
「いえ、ありがとうございます」
あのまま行けば誘惑に負けていた可能性があった。一時の欲に目が眩んで肉体関係を築き、ろくに考えずにハーレムを拡大すれば今後の生活に悪影響を及ぼすこともあるだろう。ナンパしてくる相手が皆、リサのように優しい相手とは限らないのだから。少女に助けてもらえて正解だったと思う。
「ところで、今日は一人で出掛けていたの?」
「はい」
「危険ね。女性は狼なんだから。あなたみたいな人が一人で出掛けていたら、簡単に食べられてしまうわよ?」
「俺、無防備でしたか?」
「そうね。もうちょっと自分のことを知ったほうがいいわ。あなたは特に人を惹き寄せる魅力的な容姿と雰囲気をしているから。女からすればご馳走ね」
俺が自覚している自分の魅力と、周囲が感じる魅力には明確な差がある。わかっていたつもりだが、こうやってはっきりと言葉にされるとまだ認識が甘かったのだと実感する。
「まあ、私も人のことは言えないけれどね」
少女は非常に目を惹く容貌をしている。帽子とフレームの厚い眼鏡をつけていても、それを完全に隠し切ることは不可能だ。俺と同様に、自分の意思に関わらず人々の視線を集めてしまうのだろう。たとえるならば、プライベートを楽しむ芸能人のような――。
「あ……」
と、そこまで考えたところで、俺はこの少女に見覚えがあることに気がついた。
「どうかしたの?」
落ち着き払い、気品を漂わせる整った風貌。直接会ったことがあれば、簡単には忘れることはないと思う。となれば、直接ではなくて、テレビとか動画とかで目にしたということになるのだけど。
じっと見つめながら考え込む俺を見て、少女は何を思ったのかくすりと笑った。
「ああ、さすがにバレてしまったみたいね?」
そう言うなり、少女は帽子を脱ぎ、眼鏡を外した。
たった二つ。彼女の容姿を隠すものが取り払われただけで、魅力が跳ね上がる。俺が感じていたものはあくまで彼女を構成する断片であり、素顔を晒したことによってその全てが明らかとなる。
キラキラと輝きを放つような華やかな容貌。肌に感じる洗練された空気感。
彼女は『一般人』ではないと断言できる。
間違いない。彼女は――。
「私は
「人違いでした」
「えぇっ!?」
俺の勘違いだった。実際には見覚えはなかったのだが、この人はきっと芸能人なのだろう。
「え、えっと、私のことを知っているわけではないのかしら?」
白鷺千聖と名乗った少女は微かに動揺したようで、口元を引き攣らせていた。
「残念ながら」
「そう……。あなた、テレビはあまり見ないのかしら?」
「たまに見る程度で」
居間で寛ぐときには見るけど、それ以外は動画サイトで動画とかを見ることのほうが多くなっている。テレビ番組より凝縮された短い時間で面白い動画がたくさん見られるし、番組よりも長い時間であっても、終始のめり込めるような動画もある。俺自身が歌の配信とかでもお世話になっているのもあって、着実にテレビ離れが進みつつある。
「今のアイドルや女優とか、全然わからなくて」
たぶん、アイドルか女優のいずれかだと思われる白鷺さんに言い訳をすると、白鷺さんは顎に手を当てて何やら思案を始めた。
「やっぱり、
呟き始めた白鷺さん。手持ち無沙汰になった俺は、周りに誰の目もなかったから、変装を解いた。変装は未だに慣れない。あまり帽子を被る人間ではなかったし、目も良いから眼鏡も掛けることもなかった。見た目で適当に選んだ伊達眼鏡だったけど、もっとつけ心地のいいものを選べば良かった。新しいものを買いに行こうかな。
いろいろと検討していると、白鷺さんが呟くのをやめて俺の顔に目を向けていた。
「当たり前だけど、私が知っているからといって、向こうも私のことを知っているなんて都合が良すぎるわよね……」
「何か?」
「いいえ、何でもないわ」
白鷺さんが残念そうに俺を見ていた気がしたが、気のせいだったようだ。
白鷺さんはこほんと空咳を打った。気持ちを切り替えた様子で口を開いた。
「改めまして、私の名前は白鷺千聖。一応、子供のころから女優として活動しているの。今は事務所主導で結成された、Pastel*Palettesという五人組のガールズバンドグループに所属していて、ベースを担当しているわ。パスパレの知名度はまだ低いけど、ぜひ、この機会に覚えてもらえると嬉しいわ」
ぜひの部分を強調されて、少し圧を感じた。
「どうも。俺は岩戸勇希です」
「なるほど……。それが本名なのね……」
「え?」
「ああ、気にしないで。こちらの話だから」
ということなので、気にしないことにした。
それにしても、Pastel*Palettesか。プロのバンドグループは全部網羅していたつもりだったけど、全然知らなかった。知名度が低いというのは本当かもしれないけど、もう少し広くアンテナを張っておいた良さそうだ。
「で、話を元に戻すけど、一人で外出をするんだったら、油断せずに変装はしっかりとすること。それに、女性をじろじろと見ないほうがいいわ。男に見つめられると、好意を寄せられているのだと勘違いする女は多いの」
「はい」
「一か所に留まり続けるのもよくないわ。すぐに声を掛けられるから。声を掛けられても、はっきりと断って、なるべく人通りの多いところへ移動しないと」
「はい」
「あとは――」
説教が始まった。どれもわかっていることだったが、守れていないことだったため、反論の余地はない。さすがに正座するまではいかなかったが、俺は平身低頭の心境で白鷺さんの言葉に耳を傾けた。
「これくらいかしらね」
話が落ち着いたのは、約五分後のことだった。白鷺さんはどこかスッキリとした表情をしていた。最後のほうは俺というより、男全般に対する不満だった。普段はガードが堅いのに夏になると途端に緩くなるとか、集団でいると警戒心が薄くなるだとか。
口を酸っぱくして言ってくれるのを見て、白鷺さんは優しい人なのだと理解した。普通、初対面の相手にここまで良くしてくれる人はいない。
それに芸能人で、バンド活動をしている美少女。俺のハーレムに組み込むのに適した人材だった。
でも、話を聞いている感じでは、白鷺さんは軽い男が苦手なようだ。女に対して警戒心の高い男に好感を抱いているように感じられる。
ここで連絡先を聞くのは得策ではないかもしれない。
だからといって、ここで逃すには惜しい。ぜひともお近づきになりたい。
どうしようかと悩み、食い入るように見つめてしまう。
「な、なにかしら?」
相談相手になってもらうのはどうだろう。そこから徐々に親しくなって、頃合いを見計らって、家に誘ってみようか。
「ちょ、ちょっと……」
そう心に決めたところで、俺はいつの間にか白鷺さんに詰め寄っていた。相手の息遣いが顔に当たるほどの距離感。白鷺さんはどぎまぎしつつも、顔を赤らめて潤んだ瞳に俺を映している。
なんだかキスくらいはいけそうな感じだけど、さすがにそれは速まりすぎだ。
落ち着くために一旦俺が距離を取ると、白鷺さんは「ぁ……」と声を漏らした。控え目に伸ばした白く小さな手が途中止まって、考え直すように引き下がる。両手を胸元に移動させてもじもじとしていた。
今の仕草で確信できたけど、白鷺さんにも男への興味はありそうだ。だからといって詰め寄りすぎれば、一気に嫌われてしまいかねないから慎重にいかないと。
「ねえ……?」
そう思っていたから、向こうからこんなお願いをされるとは思わなかった。
「ここで会ったのも何かの縁だし、もしよければ……」
そっと、白鷺さんは携帯電話を差し出してきた。その行動の意味するところはつまり、連絡先の交換だろう。突然降って湧いた幸運に、俺は遠慮なく飛びついた。
携帯電話を取り出して、連絡先を交換する。
二人の間にできた繋がり。胸が沸き立つのを感じる。
「ありがとう」
目線を上げて白鷺さんの顔を見る。
何気ない行動のはずだったが、俺はちょっと戸惑った。
白鷺さんは笑っていた。それは穏やかな笑顔とは呼べないものだった。
内に秘めた黒い欲望が思わず滲み出て、美しくも妖しい笑みを象ったかのような。瞳にはさっきまであった光が失われ、陰りが差したように見える。白い頬は上気したままで、ピンク色の薄い唇から漏れ出る吐息は濃い熱を帯びていた。
「白鷺さん? どうかした?」
思わず声を掛けた瞬間、一瞬の瞬きを挟むと、白鷺さんは元の表情に戻っていた。そのあまりにも急激な変貌は、逆に俺の見間違いだったのかと思わせるものだった。
「いえ、ちょっと、嬉しくて」
恥ずかしそうに笑う白鷺さんからはもう邪念は消えていた。元の清楚な雰囲気を放っている。それはあまりにも自然で、さっきまでの様子が嘘のようだ。
たぶん、見間違いか。
「ごめんなさい。この後用事があるから。そろそろこの辺で失礼させてもらうわね?」
「あ、うん」
俺みたいに予定もなくうろついていたわけではなく、用事の途中でたまたま俺を見掛けて助けてくれただけのようだ。
「また今度、ゆっくりお話ししましょうね」
白鷺さんは別れを告げた後、そそくさとその場を移動し始めた。途中で何度か後ろを振り返って、俺へと軽く手を振ってくれた。その白鷺さんに不自然な点はなく、表情はにこやかだった。やっぱり、さっきの表情は見間違いだったようだ。
白鷺さんがいなくなってから、俺は変装し直した。帽子を目深に被って、眼鏡をしっかりと掛ける。白鷺さんの言われた点は特に注意しないと。それでもナンパには引っ掛かると思うけど、今度はちゃんと考えて対処しよう。
「ん……?」
俺は歩き出して小道を出ようとした。そのとき、白鷺さんが歩き去った方向から視線を感じたと思ったけど、そこには誰もいなかった。
少し気を張りすぎかもしれない。肩から余計な力を抜きつつ、俺は散歩を再開した。