作業に一区切りがついて集中が途切れたとき、蝉の鳴き声が聞こえてきた。何気なしに顔を上げると、閉めっぱなしのカーテンの隙間から日差しが入り込んでいた。
最後に時計を見たときは、未明の暗い時間帯だった。そこからずっと没頭していたのだが、いつの間にやら日が昇っている。時間を忘れていたみたいだ。自分の集中力に驚くやら呆れるやら感じつつ、机の前に向かっていた俺は椅子から腰を上げた。
「ちょっと疲れた……」
長時間座っていたせいで体が凝り固まっていた。少し体を解すだけで溜まっていた疲労が抜けていき、全身が気力に満ちていく。相も変わらない自分の肉体の異常性を認識しながらも、いつも通りのことなので今さら気にしない。
窓の前に立ってカーテンを開く。
外には雲一つない青空が広がっていた。絶好の外出日和だ。
とは言っても、今すぐは出掛けられない。まだ作業が残っているから。
窓から注ぐ朝の陽射しを受けて明るくなった部屋で、引き続き机の上のパソコンに向かう。立ち上げていた動画編集ソフトを使って、作成途中の動画を仕上げていく。
それから小一時間ほどして作業が完了した。
昨日から時間を掛けて作った一本の動画。それを俺は、まりなに共有した。
あとはまりなに動画を確認してもらい、必要があれば修正を加える。
今から共有しても、当然すぐには確認してもらえない。一旦、自分の手持ち作業はなくなったことになる。一仕事終えて解放された気分になって、俺はようやく外出することに決めた。まあ、昼前から別の用事が入っているから、ほんの少しの自由時間だけど。
眠気覚ましにシャワーを浴び、念入りに洗顔をする。本当は徹夜するつもりは全くなかったけど、つい調子に乗って作業を進めてしまった。そのおかげで予定よりもだいぶ早く動画が作れたのはいいことだけど、目の隈が出来ていないか気になった。いつもは気にしないけど、今日はちょっとだけ普段とは違う予定が入っているから。
「大丈夫だった」
しかし、そこは我が自慢の体。大丈夫だろうという楽観的な考えは的外れではなく、浴室の鏡に映ったのはいつも通りの血色の良い顔色だった。これならば、この後の用事で会う人にも文句を言われることもないと思う。
シャワーを浴び終えて、髪を乾かしてから着替えをする。
身に着ける服装は、七月下旬に相応しいポロシャツと、夏用のチノパン。それと、キャスケット帽を目深に被る。伊達メガネも忘れない。鏡の前で自分の姿を確認すれば、遠目からでは男だとはっきりわからないだろう。骨格とかは厚着のできない夏場では誤魔化しようがないから、これ以上の性別詐称は不可能だ。
これでもナンパされるときはされるだろうけど、そのときには、以前出会って連絡先を交換して以来、交流を続けている白鷺さんの助言に従ってとにかく人目を避ける行動を心掛ける。
必要最低限の物を詰めたショルダーバッグを肩掛けにして、俺は家を出た。
外に出た瞬間、陽射しが照りつける。まだ朝なのだが、今日は随分と日が強い。
七月上旬だった先々週、友希那と蘭とペットプレイをした日の夜はそこまで夏を感じなかったけど、これからは日が落ちても暑い日が続いていくのだろう。汗だくセックスがいっぱいできるということだ。
涼しい部屋でのセックスもいいけど、汗を掻きながらのセックスもいい。
妄想を膨らませながら、俺は駅から少し離れた場所にある喫茶店に向かった。
「いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ」
朝からやっているその店に入って、カウンターに立つギャルソンエプロン姿の老紳士然とした男性に声を掛けられた。落ち着きのある風貌からして、たぶん店主さんだ。他に店員はいない。
窓際の席に着く。店内は落ち着いていて、今日が土曜日とはいえ朝だからか客は少ない。落ち着いたBGMが流れる店内では、数人の客がゆったりとした朝の時間を朝食と共に楽しんでいた。
客の視線もなく、通りを歩く人の数もそれほど多くはないから気にしなくて良さそうだ。俺は帽子と伊達メガネを外すことにした。
「お冷やをお持ちしました」
「ありがとうございます。注文いいですか?」
「はい、承ります」
お冷を持ってきてくれた店主さんに、サンドイッチと珈琲のセットメニューを注文した。
待っている間、暇つぶしにと携帯を取り出す。
そして動画サイトを開き、とあるチャンネルを開く。
その名前は『CiRCLE』。名前から察せられる通り、ライブハウス『CiRCLE』のチャンネルだ。
つい先日、作成されたばかりのチャンネルで、投稿されている動画は少ない。最初に投稿されたのがCiRCLEに関する紹介動画だ。最寄り駅から入店までの流れ、施設内部の紹介、スタジオの予約等の利用方法、機材の使い方なども網羅してある。
これを見れば、バンドを組んで初めてライブハウスを使う人でも気軽に訪れて利用してもらえる、と思っている。
ちょっと自信がない理由は、この動画を作ったのは俺主導によるもので、撮影から編集まで俺が全て行ったからだ。まりなにはOKを貰ったが、正直こういう動画の作成には慣れていないから不安だった。
だけど、動画の再生数などを見ると、要らない心配だったかもしれない。あらゆる伝手を使って宣伝したおかげもあるとはいえ、作ったばかりのチャンネルの最初の動画とは思えない視聴回数の多さだ。実際にこれを見て初めてライブハウスに足を運んだ人からのコメントも寄せられている。
そして、その後に投稿した動画も好評を得ている。
それは、CiRCLEスタッフである俺による初心者向けのギター練習動画だ。ギター歴の浅い俺だけど、だからこそ苦戦したところや上達したきっかけなどを鮮明に覚えている。そういった点をまとめて、できるだけ初心者に寄り添った動画を作ったつもりだ。
ちなみに、俺の顔は出していないし、説明も字幕で声は出していない。今のところ、動画内で『ゆうき』としての要素は出していないし、俺自身のチャンネル内でもCiRCLEの宣伝はしていない。俺のチャンネルの登録者は今となっては信じられないほど増加していて、その影響度がどれほどのものになるか見当もつかなかったからだ。
だから、現時点では俺自身のチャンネルを除いて、俺の持ち得る人脈からCiRCLEのチャンネルの宣伝をしてもらうに留めた。もっとも、俺がCiRCLEのスタッフとして働いていることや、まりなと一緒にスタッフとしてCiRCLEのライブイベントに出演したことは一部の人間に既にばれているから、要らぬ配慮だったかもしれないけど。
それはさておき、いずれの動画も最初の踏み出しとしては上々だった。
これらは全部、まりなに以前、進路相談した際に思い至ったことだ。
自分の活動場所の一つにもなったCiRCLE。今後も俺を支えてくれるだろうその場所を、俺の手でも盛り上げていきたい。これをきっかけにしてバンドというものに出会って、音楽の道を志す人が現れてくれたら嬉しい。そういった想いでまりなに提案し、専用のチャンネルと動画を作って認知度を上げていくことにしたのだった。
俺は今後も、スタッフとして動画を上げていくつもりだ。さっき作ってまりなに共有したばかりの動画も、CiRCLEチャンネルに投稿する予定のものだ。
これが、今俺がやっている活動の一つ。
「お待たせいたしました。BLEサンドイッチとオリジナルブレンド珈琲のセットです」
「ありがとうございます」
「ごゆっくりどうぞ」
動画やコメントを見返していると、注文したサンドイッチと珈琲を店主さんが運んできてくれた。カップに注がれた真っ黒な珈琲から立ち昇る湯気と、心が落ち着くようなかぐわしい香り。夏だけど、ホットを頼んで良かった。店内は冷房が利いているから涼しいし、珈琲を飲むからにはできるだけ香りを楽しみたかったから。
ベーコンとレタス、薄焼き卵を挟んだボリュームのあるサンドイッチに齧りつく。シャキシャキとしたレタスと、ベーコンのジューシーな味わい。パンに薄く塗ってあるマスタードと、塩気のある薄焼き卵との相性は抜群。
そして、そこへ流しこんだ珈琲の苦味。全ての味が洗い流されるわけではなく、これまたサンドイッチと絶妙にマッチした味。
リサとのデートで羽沢珈琲店に行く前は、俺はそこまで珈琲に興味がなかった。駅前にあるこの店も存在は知っていたけど、入店したことはなかった。こんなことだったらもっと前からこの店に来ていれば良かったと後悔した。
でも、そんな後悔の味すらも美味に感じる。
しばらく俺は、サンドイッチと珈琲に舌鼓を打った。
そのときの俺はきっと、だいぶ頬が緩んでいたのだろう。普段の無表情からは考えられない明るい笑顔を見せていたのかもしれない。自分で言うのもなんだけど、その笑顔は異性を魅了するには十分な破壊力を持っている。
夢中になってサンドイッチと珈琲を味わっていた俺は、後になって気づいた。
さっきまで空いていた店内が、急激に混み始めていることに。いつの間にやら俺の周りの席には大勢の女性客が集い、遠慮のない視線を俺に集中させ、中にはこっそりと携帯のカメラを向けている人もいた。
「やっば、格好良すぎ……。マジ眼福……」
「かっこかわいい……。尊い……。食らい尽くしたい……。エロ同人みたいに……」
「一般人、なわけないか……。アイドル……? それともモデル……?」
「デビューしてたらすぐ気づくはずだけど……。私たちの情報網から逃れるとは……。顔覚えたからね……?」
「声、掛けてみよっか……」
「いや、レベル高すぎてさすがに声掛けられないでしょ……」
「だよね……。あー、あんな彼氏がいたらな〜……」
それに気づいた瞬間、俺は声を掛けられてしまう前に慌てて席を立ち、帽子と伊達眼鏡をつけながらレジへと逃げるように向かった。
「是非、またお越しくださいませ」
お会計を済ませた帰り際、レジ対応をしてくれた店主さんに満面の笑顔で渡されたのは、アルバイト募集中と書かれたチラシだった。この状況で渡されても困ってしまうけど、お客さんがたくさん来て嬉しそうな店主さんにチラシを返すことなどできるはずもなく、俺はチラシを握ったまま店を出ることにした。
今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。