店からこっそりと追いかけてきた数人の女性客を撒くために、十分ほど街を練り歩く。堂々と追われていたら撒けなかったかもしれないけど、相手に遠慮の気持ちがあって助かった。どうにか尾行を振り払うことに成功し、俺は駅に向かった。
電車に乗って、数駅離れた場所へ移動する。今まで下車したことのないところだ。デートや買い物は最寄り駅周辺や他の駅近くで事足りているから、今回のように用事がなければたぶん訪れることはなかったと思う。
駅前に出て、目的地に行く前に携帯を取り出す。念のために目的地の場所を確認してから歩き出した。
見慣れない景色。通行人に不審に思われない程度に辺りを見回しながら、歩くこと数分。
目的地に到着した。
目の前にはそびえ立つ巨大なビル。手前には広い敷地があって、噴水や植え込み、ベンチ、不可思議なモニュメントなどが置かれている。正面に見える入口からは、土曜日であるというのにスーツ姿の人たちが出入りしていた。
正面の自動ドアを通って、エントランスに入った。
ふと頭上を見上げてみれば、解放的な吹き抜けの空間。一階から上階へと向かうエレベーターが透明なガラス越しに確認できる。都会のよくあるオフィスビルといった感じ。広々としたエントランスには待合用のソファーが多く、数人が座っていた。
まだ待ち合わせまで時間がある。それまでソファーに座っていよう。
「こんにちは」
エントランスを横切っている途中で、横から声を掛けられた。
足を止めて横を見ると、灰色のパンツスーツに身を包み、首から社員証を下げた女性が一人立っていた。髪をひっつめにして、眼鏡を掛けている。表情は硬く、初対面ではちょっとだけ身構えてしまう。如何にも仕事ができる風の見た目をしたその人は、コツコツとヒールの音を鳴らしてこちらに歩み寄ってくる。
「岩戸勇希さん、ですよね?」
名前を呼ばれ、俺はすぐに察した。
「はい」
「ああ、やっぱり!」
俺が返事をし、帽子と眼鏡を外すと、彼女はわかりやすく笑顔を深めた。
「一目でわかりましたよ。やっぱり、普通の人とオーラが違いますね!」
楽しげに話す彼女に、俺は少しだけ呆気に取られた。さっき見たときはちょっと冷たい雰囲気の人かと思ったのだが、こうして話してみると何とも気さくな感じだ。黙っているときとのギャップが激しい。
「あ、すみません、急に変なこと言っちゃって」
「いえ」
俺が黙っているのを見て、驚かせてしまったのだと思ったようだ。確かに少しだけ驚いたけど、俺が黙ったのは単純にコミュニケーション能力に少々難があるためだ。
「口下手なもので」
「そうなんですね。なるほどなるほど、クール系ってことですね!」
彼女は顔の前で両手の親指と人差し指を触れ合わせて四角い枠を作ると、その枠の中に俺を収めた。片目を閉じて、俺を捉える姿はカメラを構える撮影者のようだ。品定めするように、やや興奮気味に様々な角度から被写体である俺を捉える彼女は、明らかに変人だった。
「いやぁ、やっぱり素材が良いですね! これほどの原石と出会えるなんて!」
俺が止めないのが悪いのか、彼女はしばらく暴走状態に入った。
擦れ違う人から好奇の視線を向けられつつ、早く落ち着かないかなと思っていると、ようやく満足したようだ。額を手で拭い仕草をした後、大人しくなった。
「ふう、では早速、スタジオに行きましょうか!」
早速と言うにはあまりに時間が掛かっているが、ツッコむのはやめておいた。
歩き出す彼女。その後に続いて数歩歩いたところで、彼女が急に足を止めた。
「あっ!」
と何かを思い出した様子で声を上げ、くるりとこちらに向き直る。
そして、懐から小さなケースを取り出すと、そこから手の平サイズの薄くて四角い紙を引き抜いた。
「申し遅れました。私、こういう者です」
軽く頭を下げ、彼女が両手で差し出してきたのは、名刺だ。
書かれているのは会社の名前と部署、そこに在籍する女性の名前や連絡先。
彼女はこれでも、大手出版社のファッション雑誌の編集長だった。
カシャ、とシャッター音が鳴る。一回だけでなく、二回、三回と立て続けに。俺はその音を聞きながら、無言で向けられたカメラに目線を向ける。
「いいですね。では、次は右手で帽子を押さえてみてください」
言われた通り、被っていたキャスケット帽を手で押さえる。
今被っているのは自前の帽子じゃなくて、用意された衣装だ。帽子も衣装も全て秋用。冬ほど厚着ではないとはいえ、夏と違って肌の露出は殆どない。今は室内で冷房が利いているから問題ないけど、外だったら今頃全身に汗が滲んでいたと思う。
ファッション誌では、実際の季節の数か月前から撮影を行うようだ。秋物のコーディネートだったら夏場に。そう考えると、モデルは華やかに見えていろいろと大変だ。などと思いながら、俺はカメラを構える女性の指示に従ってポーズを取った。
俺は今、編集長さんに案内されたスタジオでモデルをしている。モデルといっても専属契約を結んでいるわけではないから、読者モデルだけど。それでも、俺を選んでくれたことには変わりはなく、真面目に取り組む。
それに何より、これはこころのお母さん、弦巻さんからの要求でもあった。
知人の出版社で発行しているファッション誌のモデルをしてほしい。弦巻さんからそう言われたときはどうしてそんなことを頼んでくるのかと驚いたものだ。
どういった話の流れかは知らないけど、編集長さんに俺の写真を見せたところ、是非モデルにという話があったようだ。本人の与り知らぬところで写真を他人に見せるのはどうなのだろうかと思いはしたものの、後の祭り。弦巻さんと編集長さんの間で話が勝手に盛り上がってしまい、俺がモデルのアルバイトをすることがその時点でほぼ確定してしまったようだ。
困った弦巻さんは、そうした経緯で俺に要求をごり押ししたようだった。
傍迷惑な話だけど、結果的には何の問題もなかった。
アルバイト代もしっかりと貰えるし、モデルという仕事に興味はあった。せっかく美少年として生まれたのだから、それを活かさない手はない。かと言って、アイドルとか俳優を志す勇気は湧かず、芸能事務所からの誘いはあっても全て断ってきた。
読者モデルという、言ってしまえばアルバイトのような関係が今の俺にはちょうどいいのかもしれない。
「はい。一旦休憩入れましょう、お疲れ様です」
「わかりました」
ポーズを取って身動きを止めながら被写体になるというのは、慣れないと結構疲れる。アマチュアである読者モデルなら尚更だ。それをスタッフさんたちは理解してくれているようで、小まめに休憩を入れてくれる。
椅子に座って休憩する中、カメラさんと編集長さんが写真を見ながら話し合っている。このポーズがいいとか、このアングルがいいとか、次はこうしようとか。二人の顔は真剣そのもので、それを見ていると身が引き締まる。
もっと頑張ろう。編集長さんの言うオーラというのはよくわからないけど、雑誌を見る人を惹きつけられるようになりたい。俺の気持ちでどうこうなるものではないと理解しているけど、表情の機微でも多少なりとも変わるはずだ。
「よし……」
気合を入れて、俺は自分に言い聞かせる。
「そろそろ再開しましょう」
その言葉で椅子から立ち上がった俺は、再びカメラの前に移動した。
撮影中、俺はただ自分の役割に徹した。カメラさんの指示で、普段しないポーズや表情を作った。一度気合を入れたからか、日常生活では意図的に造れないような柔らかい笑顔も、アンニュイな表情も浮かべられた。
俺を撮るカメラさんや、編集長さんが息を呑むのがわかった。
自分ではまだ実感が湧かないけど、モデルらしい雰囲気作りができているようだ。
別の衣装に着替えて、メイクも変えて、撮影は続く。何だか段々と編集長さんたちの熱が上がってきているようで、それが他のスタッフさんたちにも伝染していた。その渦中に俺も取り込まれて、より良い被写体になろうと意識が昂った。
そんな想いに、俺自身の体に宿る才能とやらが応えたのかもしれない。なれる気がした。読者を釘付けにする理想のモデルに。できる気がした。この場にいる大勢のスタッフすらも魅了し尽くす表情を。
「で、では、次は寂しげに、笑ってみてくださいっ!」
さっきまでは普通に喋っていたカメラさんが緊張した声音で言った。それに俺は素直に応えて、自分が思う寂しげな微笑を浮かべてみせた。
直後、スタジオ全体が静まり返った。カメラさんの声も、物音一つしない。室内にいる女性スタッフ全員が見惚れたような視線を俺に送って、呼吸も忘れて硬直していた。
遅れて聞こえてきたシャッター音。
「この子、最高の逸材だわ……」
思わず漏れたような編集長さんの声が、静かな空間に響いた。