無機質な、けれどどこか軽快な電子音を目覚ましとして、聖杯戦争二日目の朝を迎える。
昨日の疲れは未だ取れていないのか、酷い倦怠感に襲われながらも机の上に置いておいた端末を掴んで、何かあったのだろうかとその端末の液晶に表示された文字列に目を通す。すると、一瞬で現実に引き戻される。まだ目覚めていなかった脳は今自分がある状況を思い出して覚醒した。
間桐桜……すなわちは聖杯戦争の運営の一部に組み込まれたAIから渡された端末には目覚まし機能があるとは聞いていない。最初からついている機能についてはすでに桜から知らされている。これが鳴るということは、これのアドレスを知っている何者かが情報を送り込んで来たということ。
端末の液晶に映る言葉は簡素なもの。だが、だからこそ、否応無く覚悟をさせられてしまう。
光の羅列によって形作られた文字列は、確かに告げていた。
ーーー二階掲示板にて、次の対戦者を発表する。
ついに来てしまったのだと自覚する。
焦燥と不安が胸を満たす。その一文の内容は、何をどう考えても履き違えることは不可能。聖杯戦争の最初の相手ーーーすなわちは自分が殺さなければならない魔術師の名前を発表するという、これ以上ないほどに恐ろしい知らせなのだ。
「っ……!」
マイルームを脱出する。急ぎながらも最低限の装いだけは整えて。
端末に指定された二階掲示板に向けて走り出す。
緊張によって脂汗が止まらない。酩酊しているような気分になって平衡感覚を保てている気がしない。吐き気も止まらず、呼吸も荒い中、それでも見ないことには何も始まらない。
そこで発表された相手が誰であったとしても、殺しあう相手であることには変わりない。たとえそこに記された現実がなんであったとしても、それを現実として受け止めなければならない。その事実が心に暗雲として積もっていく。
そうしてたどり着いた二階掲示板、そこには何も書かれていない紙が一枚貼ってあるだけ。
けれど、そこには確かに何かが書かれている。なぜなら、その紙はこれまで存在しなかったもの。昨日はそこまで目を凝らして掲示板を確認したわけではなかったが、それでもこれまでと違う何かがあったのならばきっと見逃さなかった。
その紙の表面にノイズが走ると、確かに二つの名前が記される。片方は己の名前。そしてもう片方の名前はーーー。
マスター:間桐慎二
決戦場:一の月想海
「まさか君が一回戦の相手とはね。この本戦にいるだけでも驚きだったけど、考えてみればそれもアリかな。僕の友人に振り分けられてた以上、君も世界有数の
「慎、二……」
その、対戦相手の名前を口するよりも早く、己と殺しあう予定の
「そう言えばキミ、予選をギリギリで通過したんだって? ……いいよねえ凡俗は、いろいろハンデつけてもらってさ。でも、それが当たり前だと思ってちゃ駄目だぜ。予選とは違って、本選は一回きりの実力勝負なんだからさ」
青みがかった特徴的な毛髪。開かれた胸元からしてチャラい男、という雰囲気が漂っている。
徹底した不遜な態度、発言そのものに見下しが非常に多いながらも、その実性根そのものが腐っているわけではなく、悪いやつではない男。発言そのものに性格が如実に現れているこの人物こそが、自分の対戦相手である間桐慎二に相違なかった。
仮初ではあったが、確かに”友人”だった時の記憶は残っている。いいや、それ以前の記憶がない以上、今の”岸波智仁”にとってはあの予選最終日の記憶だけが真実。つまり、初戦からして友人が相手。その事実に、どうしても動揺を隠せない。
けれど慎二からすれば、
高らかに笑い、そして俺の記憶にある普段通りの調子でこの決定を祝福する。つまりは、俺という友人と殺し合う、この組み合わせを。
「聖杯戦争も初戦から盛り上げてくれるじゃないか。勝利のために、友人を手に掛けなければならないとね! ……ま、正々堂々と戦おうじゃないか。大丈夫、案外良い試合できると思うぜ。予選じゃ一応僕の友人として割り振られていたわけだしね」
『うわぁ……うわぁ……本当ですかこれ。なんていう嫌がらせなんですか。普通、私が嫌がらせをする側でしょう? ……うん、これも全部あの恋愛脳のせいです。そういうことにしておきましょう』
アサシンはアサシンで何か驚いて嫌そうな声を上げているが、今はそれに気をかけていられない。
言いたいことだけを言って去って行った慎二の愉快気な声が廊下に響き渡り、それを聞きながらも俺は掲示板の前から動くことができなかった。
ーーー
そのことを頭が受け入れてくれない。確かに言葉としては理解できるのだが、実感が全くわかない。現実でなければいいのに、と。そんな感情ばかりが湧いてくる。
いや、たとえ誰が相手だったとしても、形は違えど戸惑いは現れただろうが、それでもやはり友人との殺し合いとなると戸惑いは一入だ。
「あれ、また端末が……」
呆然と立ちすくんでいると、また端末から電子音が鳴り響く。
自分に友人との殺し合いを告げたという事実がこの音に対して陰鬱な印象を与えるのだが、それでも鳴った現実は何も変わらない。
けれど、多少の嫌悪を持ちながらも取り出した端末には見慣れぬ専門用語だけが記されていたのだった。
ーーー
ーーー第一層にて取得されたし
その言葉の意味がわからず、一人でその場で考え込んでいると、気がつけば言峰ーーーつまりは、この聖杯戦争において最も情報を持つであろう
「聖杯戦争本戦の参加者は皆、六日の
言峰はそれを”試練”と称したが、すでに友人と殺し合わなければならないこの状況こそが試練と言われても納得しかできない現状。多少やることが増えた程度では、試練と仰々しく言われても実感できない。
言峰曰く、七日目の一騎打ち。正面対決。その舞台となる決戦場には、ある定められた資格が必要だということ。決戦場の扉を開くには、文字通り”鍵”が必要となってくるのだ。
その鍵こそが、端末に記された
六日間の猶予の内、参加者たちは二つの暗号鍵入手を義務付けられている。目的の代物はアリーナの指定された階層に現れるため、マスターは皆、まずは暗号鍵獲得に奔走することとなるだろう。
無論、それを失敗してしまえばーーー考えるまでもない。戦いの場に立つ資格すら持たない人物がどうなるのか、そんなことはわかりきっている。
「加えて説明しておこう。七日目の決戦以前での私闘は禁止されている。アリーナであれ、学園であれ、システム側から強制終了および罰則を与えることもあるから気を付けたまえ」
「わかったよ……」
「ふむ、それならばいい」
それにしても、と言峰は淡々と言葉を発しながらも口元の笑みを隠しきれずにいる。
どことなく底意地の悪さが滲み出た微笑。これから放たれる言葉に嫌な気配しかしない。それなのに、「何か重要な情報があるかもしれない」と彼の立場が思わせるために、その言葉を聞かないという選択肢は存在しないのが、余計にいやらしい。
「君の対戦相手は知り合いのようだな。
人が考えたくないことを的確に思い出させる言峰に対して、胸の内で悪態をつかずにはいられない。
できることなら、今すぐにでも運営役のNPCを変えてはもらえないだろうか。
コツコツと音を立てて去っていく言峰を見送って、一度ため息をつく。
暗号鍵の取得、そして友人との決戦。覚悟していないわけではなかったが、流石にその事実がもたらした衝撃はそう簡単に拭えるはずもない。
昨日、今日と学園内にいるマスター同士の会話を聞いていると間桐慎二という男は、どうやら世界有数のハッカーであるらしいことを把握できた。その実力、ここが”電脳”空間であることを考えれば上から数えた方がきっと早い段階にいるだろう。
決して侮っているわけではない。侮れるはずもない。
寧ろ、敗北の未来がより鮮明に見えるのは記憶も信念も持たない俺の方。
躊躇している余裕など無いと理解しているのに、友人と戦うことにいまだ決心がつかないのも、紛れもない事実である。この迷いが、どれだけ遅くとも決戦当日には致命傷となることも分かっている、それなのに―――。
「別にマスターさんが迷うのはいいんですけど」
そこで、慎二が現れてから少し変な様子を見せていたアサシンが霊体化を解いて姿を見せる。
視覚情報としてアサシンのことを確認できたことで、その表情には確かにこれまでとは違う何かを見つけることができる。……これは、一番近いのは遠坂と話をした時に見せていた苛立ちのようなものが一番近いだろうか。
「とりあえず、マスターさんは『生きたい』なんて行って私を呼んだんですよ。それを一回戦で終わらせるつもりですか? ……どれだけ遅くとも、七日目には覚悟を決めないとダメです。そのことだけは、理解しておいてくださいね」
……驚いた。アサシンは他人相手に嫌がらせのようなことや皮肉を言いながらも、どちらかというと頑張らなくていい、諦めてもいい、と相手を甘やかす側の存在だと思っていたのだが。まさか覚悟を決めろ、なんてことを彼女から言われたことは全くの予想外だった。
「まあ、確かに私はどっちかっていうとマスターさんの考えてる側で間違ってないですよ。……ただ、あれに負けるのが嫌だっていう個人的なそれです」
「アサシンは、慎二のことを知ってるのか……?」
そうでもなければ、出会ってからの行動に説明がつかないような気がする。
少なくともこれまでの発言は、全く知らない人物に対してのものではなかった。
「うーん。あの間桐慎二とは知り合いではないですよ。ここに召喚されるまでは、あのワカメヘアーとは出会ったことはありませんし」
「じゃあ、なんでまた……」
「女の子には色々とあるんですよ」
その言葉でピシャリと話を終えたアサシンは、ところでいいんですかと口にする。
「いいって、何が……?」
「アリーナに行かなくてもいいんですかってことです。あのマスター、多分これから暗号鍵を取りに行くんですよ? 鉢合わせになる危険性はありますけど、こっちも情報はいりますし、そうでなくても暗号鍵を取らないと負けなんです。情報を取るか、それとも安全を取るか」
ああ、そうか。今日もアリーナに向かわなければならないし、そうなれば慎二と鉢合わせする危険性はある。
彼のことだ。サーヴァントか、あるいは自分の実力か。これは彼が予選の時と性格が同じママだという前提のもとに成り立っているが、何かしらの自慢をするためにきっとアリーナで待ち構えているはずだ。
だったら、いつ行ったとしてもそこまで変わることはない。前進するだけ。
自分を苛む迷いは、未だ晴れる気配は見えず。けれどそれを理解して、闇雲にであっても前に進むしかないのだ。それを怠れば待ち受けるのは”死”だけ。全力で抗わなければならない。
無抵抗の敗北だけは認めるわけにはいかないのだ。
それは、やれることをやらないままに流されるのは堕落だと断じた、予選の時の己の言葉を嘘にはしないためにも。
ーーーアリーナ:一の月想海、第一層
二度目のアリーナへの侵入。けれどそこには一度目とは違って明確な目的が存在する。
言峰の説明によれば、この階層のどこかに決戦場に入るための鍵の一つが存在するらしいが、それに関しては一切の情報がない今、虱潰しに探すしかないのだろう。
「マスターさん。やっぱり、さっきのマスターがいるみたいです。……判断はあなたに任せますよ。これを情報を得る好機として取るか、それとも何もわかっていない現状ではただの窮地と取るか」
「……慎二が下手に失敗したりしてない、増長しているうちじゃないと得られない情報もあるんじゃない、かな」
それは、確実に今でなければ手に入れられない。次に出会った時には慢心、増長を捨て去っている可能性だってある。そんな、今日でしか手に入れられない可能性を考えれば、接触も、そして逃げもどちらも有効な一手だ。
……とは言っても、そちらばかりに目を向けて暗号鍵の取得を忘れてしまっては意味がない。
携帯端末でこのアリーナの地図を出すと、今の所踏破した場所までーーーつまりは昨日最後のエネミーを倒した地点までのマップは完成している。……この範囲内で慎二と出会うことがあるのなら、その時は一戦交えてもいいかもしれない。もしもの場合は逃げるための道筋がわかっている、ということなのだから。
「いきます! えーい!」
少女の放つ分身する桃色の魔力矢が、蒼黒の魔力弾が、要所要所に配置されているエネミーたちを消滅させていく。
彼女が扱うのは、
少なくとも、暗殺者なのだから、正面からの戦闘で扱うこれは本当の意味での武器だとは思えない。
木の枝をそのまま手折って持ってきました、と言われれば納得できてしまいそうな、花が咲いている弓。それは通常の弓であるはずがなく、人間が扱う弓と呼ばれるものとは別種の、あるいは神話か何かの時代、通常の人間ではないものが使用した弓なのかもしれない。
こうして考えると、ますますアサシンの真名がわからない。そもそも正面戦闘である程度の戦果をあげられる時点で闇に潜み暗殺を行う者としてはアウトな気がする。暗殺特化ならば、一般人ならばともかく、そうでない相手には勝ち目がないだろう。
そう思えばこそ、この「サーヴァント同士の戦闘」を強いる聖杯戦争は、アサシンのクラスには厳しくできていると思ってしまう。
「おや……?」
そんなことを考えながらも歩みを止めることはない。
アリーナの奥に進むにつれ、入ってから感じていた気配は常に大きくなり続ける。おそらく、きっと間違いなくこの奥に
慎重に、アリーナのマップを確認しながら逃げるルートを頭に叩き込んで奥へと進むと、やがてそれは姿を現した。
「やはりいましたね、間桐慎二とそのサーヴァント」
通路を塞ぐ形で待ち受けていたのは、敵マスターである間桐慎二と……おそらくは彼のサーヴァントであろう
俺たちの姿を見かけた途端、慎二は待っていたと言わんばかりに朗笑を上げる。
その笑みは嫌味なぐらい自慢気に歪んでいた。
「遅かったじゃないか、岸波。お前があまりにモタモタしているから、僕はもう暗号鍵をゲットしちゃったよ! ははは! 悪いね、これも天才の為せる技ってやつさ!」
「へー、すごいですねー」
「ははは! そうだろう、そうだろう! 岸波のサーヴァントは見る目があるな!」
アサシンの棒読みの褒め言葉なのに、慎二はそれに機嫌を良くしたのか、さらに高笑いの威勢が増した。
自信満々、意気揚々。そんな言葉が似合う彼はきっと、暗号鍵を取ってから自分に見せつけるためだけにこのアリーナに待ち伏せしていたのだろう。やはり、慎二の性格はかなりわかりやすい。……いいや、どちらかというと子供っぽいのか?
「まあ、そんな顔するなよ。如何ともしがたい実力の差ってやつさ。ついでだ。僕のサーヴァントを見せてあげるよ。八つ裂きにしちゃってよ、なあ!」
その言葉とともに、真横にいたサーヴァントが前に出る。
鐔の広い帽子を目深に被った、マントに身を包みその痩身を隠した男。
マスターの命令を受けて、その男は覇気を解放する。
「ーーーよかろう、マスター。約定に従い、汝の敵を殲滅しよう」
それは、恐怖の象徴だった。
彼の放つ覇気は誰しもが恐れ。
彼の瞳は視界に映る全てを暴く。
そんな錯覚すらも抱いてしまうような、求道者としか思えぬ存在だった。
俺も、アサシンも、その存在には勝てないと一瞬とはいえ思ってしまう。
それこそが、俺たちと慎二のサーヴァントとの間に存在する、絶対的なまでの差としか言いようがないものだった。
だけど、どうして彼ほどの存在が慎二に従っているのだろうか? いくら慎二が優秀なハッカーだからといっても、彼を従えられるほど優秀な存在だとはとても思えない。
「なに、この男の目的は、我にとっても懐かしいものであったがゆえに」
俺が言葉にする前に、心の中を見透かしたかのように慎二のサーヴァントは語る。
「知りたい。たったそれだけのこと。けれど我からすれば『他者を頂点に導いた感覚』を知らず、我がマスターは己の願いを知らないままに、けれどその願いを叶える方法だけを理解している。ならばこそ、それを
ーーー勝てない。
たった数言、彼の言葉を聞いただけでそれを理解する。
けれど、だからと言って諦めるわけにはいかない。まだ、自分は何もしていない。そんな状況下で諦めていいはずがない。だからこそ、この場を切り抜けないとーーー!!
アサシンと敵サーヴァントが相対した瞬間、そんな情報と警報と赤色が視界を埋め尽くす。
運営たるセラフからの警告。
その戦いの即時終結を求める、秩序を守ることを目的とする声がアリーナ全体に響き渡った。
「なに、もうバレたのかよ!?」
「狼狽するな、慎二。強制終了よりも先に終わらせればよいだけのことであろう?」
けれどそれは彼らの戦意を抑える役割を果たすことはない。
痩身の男性はどこからか槍を取り出し、構える。完全に戦闘を行うための態勢を整えていた。
「下がってください、マスターさん!!」
聞いたことがないほどに大声を出したアサシンの言葉、直後俺の体はアサシンに引っ張られて、わずかに遅れて俺の目の前でアサシンの放った矢とサーヴァントの槍とが激突する。
人知を超えたサーヴァント同士の攻撃のぶつかり合い。その結末は、相手にノックバックすらも与えることなく消滅したアサシンの魔力矢の消失という形で、明確に勝敗を決していた。
槍という長物。突いて、戻してという動作はあるし、連撃にはそこまで適していない武器。
それに対して向かうアサシンの攻撃は分裂する魔力の矢と、無数の蒼黒の魔力弾。
数を頼りに敵サーヴァントを攻め立てるアサシン。四方八方から延々と繰り返される飽和時間差攻撃。その威力、速度ともに全てを弾き切るなど不可能なはずの代物なのにーーー。
「ふっーーー!」
それは、まるで蝶が舞うかのように軽やかな動きで。
それでいて現代の
少女の放つ、美麗な、どこか色気すらも感じさせる色合いの攻撃の数々。それは瞬間的に周囲に張られた結界が全て防ぎきる。あの一瞬、槍で空間を薙いだだけで全ての魔術師が青褪めるような強力な結界を張り巡らせていた。
防ぐ青年に息切れなどは存在せず。彼の扱う魔導の秘奥は、彼自身にとってはその程度のものでしかないということを如実に示している。簡素な詠唱とともに放たれた魔術は、一発一発がアサシンの魔力弾の数倍にも及ぶ魔力が込められていて、それをアサシンが先程放ったのと同数発射する。
(アサシンは、手を抜いていない。……それなのに……それなのに!)
どうしようもなく存在する力の差が、この状況を生み出している。
戦況は誰がどう見ても、間違いなくこちらの劣勢だと告げる、そんな状況。
苦悶の表情のアサシンと、余裕綽々の慎二のサーヴァント。アサシンが敗北するのは時間の問題というような状況下。それに終わりを告げたのは、一つの警告だった。
「……ちっ、……セラフに感知されたか。まあいい、とどめを刺すまでもないからね」
アリーナに入った時のような、異常な感覚。存在する空間そのものが変質したかのような感覚が終わると、自分たちの立ち位置は、慎二も含めて戦闘直前に戻っていた。
危なかった。あと少しでも続いていたらどうなっていたのかわからない。その事実を認識できてしまい、身震いしてしまう。
勝負がつかなかった、というのは渡り合えた、互角だったということではない。
なんとか生き延びたという安堵。セラフからの警告は、戦いの邪魔をする警鐘ではなく、俺たちの命を救う天啓。この生存は、まさしく運が良かったということに他ならない。
「そうやってゴミのように這いつくばっていればいいよ! 泣いて頼めば、子分にでもしてやるよ! あははははっ!!」
慎二の哄笑。けれど事ここに至っては彼の高笑いも否定できない。
普通に戦っていれば、この時点で俺たちは死んでいたのだ。それだけの実力差が、アサシンと敵サーヴァントの間にはあって、英霊としての格もあったりするのだろうが、ここにはマスターとしての実力差も大きく含まれている。
やがて慎二たちはこの圧倒的な戦果に満足したのかアリーナから転移する形で脱出する。それを引き留めることもできずに見送った自分たち。胸の内にはこの結果に対する屈辱が。そして何より、己の不甲斐なさが。もしももっとまともなマスターであったなら、彼女は押し負けることはなかったかもしれない。
そう思えばこそ、心の中には申し訳なさもある。俺たちはその場で押し黙りわずかな時を過ごした。
「で、どうしますか、マスターさん?」
「どうするって……」
アサシンの瞳は諦めてしまいますか、と告げている。この圧倒的なまでの実力差、これを今日含めて残り五日で埋めるのは難しいだろう、と。それなら諦めてしまうのも間違いではないのでは、と思わせてしまう魔性、堕落を容認する少女の瞳に流されてしまいそう。
けれど、それを容認してはならない。
六日間で埋めることは難しい/可能性はゼロではない。
勝ち目なんて最初からない/それは終わってみるまでわからない。
ゆえに、諦めるわけにはいかない。
「そうですか……なんとなく、マスターさんの性格もわかってきた気がします」
「え……?」
「とりあえず、そういうことなら今回の一件で手に入れられた情報を精査しておきましょうか」
「……慎二のサーヴァント」
ついさっきまで戦ったサーヴァント。その攻撃は魔術主体で、どちらかというと槍を中心として戦う感じではなかった。となるとそのクラスはーーー
「多分、
そう、魔術師のサーヴァント。さすがに本職ではないのに、いくら本来の力を発揮できないからといってもただの補助のための技だけで同じサーヴァントの攻撃を全て無効化できるとは思えない。はっきりと断言しきれるわけではないが、その可能性を見つけられた。
「今回に関しては、接触は情報を得る好機だったみたいですね。……まあ、無謀なことには変わりありませんでしたけど」
「そう、だね……」
そうだ。情報を得られたことを喜んでいる暇はない。今回の戦いは、いつ敗北していたとしてもまるでおかしくはなかった。
だが、だからと言ってこれからの接触は全て控える、なんてことは言えない。
情報とは刹那の内に現れ、そして気づかぬうちに消えていく貴重な代物。虎穴に入れば虎児を得ず。敵を知りたいと望むのなら、時に危険を冒すことも必要である。そのことを、ようやく自覚する。受けたダメージは大きいが、今回に関してはこの接触に対して価値を見出すことはできた。
この圧倒的なまでの実力差にご満悦だった慎二は、すでにアリーナより校舎へと帰還している。それはつまり、今日においては誰にもアリーナ探索の邪魔をされることはない、ということ。
それは実に好都合だ。今のうちにアリーナ全域の踏破とエネミーを通じての戦闘訓練。そしてそれに伴う
「さすがにこれぐらいの敵なら……!」
迷宮の最奥に向けて進む中、エネミーを無数に刈り取っている中でこれまでのものとは違う、特別なアイテムフォルダとその前に立つ番人らしきエネミーを発見した。
言葉を発する前にアサシンはすでに交戦を開始、そして瞬殺まで終えていた。周囲には何もないことを確認してそのアイテムフォルダに触れると、カチリという音がしてそのアイテムフォルダが開錠された。
「これが……」
「ええ、多分神父さんが言っていた暗号鍵でしょうね」
それは薄っぺらいカードキーのようなもの。一度端末に収納すると、端末内部のストレージには
「もう、出口……」
「これでアリーナ全踏破ですね」
わーすごーい、なんて棒読みのまま告げるアサシン。そんな小馬鹿にするような声だが、興味がないというわけではなく、確かに一日で完全に踏破したことへの呆れが見える。彼女からしても、一日で全踏破は少しは心動かされるものだったらしい。
彼女の予想を超えられた、ということでいいのだろうか?
まあ、たとえそうでなかったとしても、最終的には「あのサーヴァントを倒せないだろう」という予想を越えればそれで十分なのだ。
ーーーだから、自分にもできることを見つけなければ。
戦いから逃げ出すわけにはいかない。そして何より、これは己の戦いなのだから自分がアサシンに甘えるだけではダメだ。そう決意して、アリーナの出口から帰還した。
ここのカーマちゃんはパールヴァティーとは正反対。依り代の記憶も深く残っていたりいなかったり