あーっ! あーっ困りますっあーっ! メスガキこのっ! この舐めやがってっ! じゅるるるるーっ! 作:道明寺ファンブル
――気付けば日は傾き始め、鋭角に木の葉の間から廃病院を照らし続けていた。
その日の光を浴びながら俺は廃病院の朽ちた壁に背中を預け、火照った身体と頭を冷やす。
……梅雨時の涼しくもない温い風が通り過ぎるだけで、服は蒸れるしまったく当初の目的を果たせてはいないのだが。
どうしても静かな外で考えなくてはならないことがあった。
直感に近いのかもしれない。俺は――俺は本当に、存在Ⅹに近づけているのだろうか?
足がかりは掴めようもない。
夢寐は俺が傍にいるし分かるが、おかしくなった様子なんて見受けられなかった。
そのうえ天宮栗生は――まあこれは奴が目を覚ましたら確認することだが――おそらく存在Ⅹではない。
関わってるかどうかも怪しい。
存在Ⅹは俺をこの街から追い出した。
つまり奴が敵視しているこの俺が不利益を被るような、そんな事態こそが奴の仕業だと確信できる。
今回はなんだ?
栗生は夢寐を陥れようとした。
俺の傍に夢寐がいたからか? だとしても迂遠すぎる――いや、無意味と言っていい。
――分からないことが多すぎる。
存在Ⅹの思惑が不明瞭すぎるからか。
「俺が夢寐に陥れられた時……それは、いつだった?」
自問自答する。
あやふやな記憶が答える。
「こんな……じめじめとしていた時期だったか……いや、それとも寒さの厳しい日に……? ああ、クソ――」
ナイーヴな自分の心に苛立ってきた。
あの日の出来事、それに追随する人生の転落は、その程度の情報をかき消してしまうほどのショックを俺に与えていた。
だから……そう。
俺はまだ何も知らないのではないか。
そんな懸念が浮かび上がってくるのだ。
「おそらく存在Ⅹは洗脳アプリを使って俺を排斥した。だから今回もそうであろうと思っていたが……それこそ、何故だ? 人を操れるアプリを持っておきながら、やったことが人を使って俺を追い出しただけ、だと? 慎重というにも臆病すぎる。俺を直接洗脳アプリで操ってしまえば済む話ではないか」
必要とされる情報を欠いた薄い思索は堂々巡り。
今はじめじめした風も心地良い。額に手を当てると熱さを感じた。
「…………これで、いいのか?」
復讐は果たせなくとも、たぶん、俺がこの街から排斥されることは無い。
なら。
なら、いいのではないか?
ただの一学生として生きて、斑鳩興業の一社員となり、平社員として生を終えるとしても。
……もちろん、存在Ⅹに対する憤懣が薄れたわけではない。
その必要性が今揺らいでいるというだけで。
「っ……」
口の中に、鉄の錆びのような味が広がる。
「なるものか……俺だってもう、罪人だろうが」
――忘れて、なるものか。
犯した罪を無かったことにしてなるものか。
存在Ⅹへの復讐は――俺がこの時代を生きる理由だろうが。
「……ふぅぅ」
……と、長い長い思考にいい感じの区切りがついたところで、廃病院の入り口の方から音が聞こえた。そちらに顔を向けるでもなく、俺は声を掛ける。
「やっと目が覚めたのか――栗生?」
「…………」
脱いだ服を乱れてはいるが纏った天宮栗生が、ふらつきながら外に出てくる。
ゆっくりとした動作でこちらを見つめてきた。光の差さない、絶望の澱んだ瞳を向けて。
「斑鳩……右京…………」
「ああ」
激情に身を任せて俺に攻撃するでも罵倒するでもなく、か細い声で俺の名を呼ぶだけ。
しかし意外だったのは――彼女は一目散に逃げるという選択すらしなかったということ。
ふらふらとこちらに近づいてきた。
「……ふむ? 意思はあるにもかかわらず憎く思ってるこの俺に無防備に近づくとはどういう了見だ?」
「なんだって……いいでしょ。別に、危害を加える、ってわけじゃないんだから……」
「…………」
余計に訳が分からなかった。
ただとにかく起きてきたのならやることがある。
彼女は寝起きで頭が冴えないでいるのだろうと結論付け、俺はスマホの洗脳アプリ――それの『人格操作』を購入しておく。
……レイプポイントなるものがまた大きく増えていたのは言うまでもない。
そしてこれについて、実は先ほど神に訊いて分かったことがあるのだが……
『洗脳アプリの同じ洗脳は基本的に一つしか使えない。前に使った洗脳は後に使った洗脳に上書きされるようになっておるぞ』
ということらしい。
前に夢寐にやったような、複合して洗脳するのは神的に『ありよりのあり』らしい。
だから俺はついでに『記憶操作』も購入し、起動した。
……こんだけ洗脳のバリエーションあるくせに、なんで洗脳をキャンセルするものがないんだか。
「栗生、こっちを向け」
「え……?」
デフォルト――つまり何も操作しないということで記憶操作の洗脳を施す。
これがゴリ押しではあるもののキャンセルになってくれればいいんだが……
「……なに、してるわけ」
“Complete!”の表記がスマホに映し出された。
……これで、もし存在Ⅹが情報を隠匿しようと栗生を洗脳していたとしても大丈夫、なはず。
それから人格操作を起動し――ダイアログで『人格:素直』を選択。
時間は……まあ2分でいいか。
「よしもう一回こっちを向け」
「……はぁ?」
――“Complete!”
「っ!」
途端にその表情を青ざめさせていき、瞳を潤ませる栗生に安息の暇を与えず訊ねる。
「……天宮栗生。素直に答えろ――今回の夢寐についての件、誰に指示されたことだ?」
目を見て、多少声を低くして、より素直になれるように。
「指示、されてません」
「…………」
だから――その返答に、思わず空を仰いでしまった。
「私が考えて、私が、実行、っ、しました……」
「協力者は」
「ひとり……夢寐を、昔、ストーカー、して、っ、その人と、出会って、それで……っ」
――ああ。
もう、いい。
お前は、お前の意思で夢寐を陥れたんだな……?
「ひ、っ……ぁ」
心の中でのつぶやきが口から漏れ出ていたのか、栗生の表情がさらに緊迫したものになる。
俺も人のことを言えないほどの悪人ではあるが……ある程度信頼していたからこそ、失望もまた大きかった。
「…………」
帰ろう。
あの子に――夢寐に伝えるかどうかも、帰ってから考えよう。
俺は踵を返し、
山を下りようとして、
「――ま、って……」
後ろから服の裾を掴まれる。
「まって、くだ、さい……」
洗脳の解けていない、素直なままの栗生が。
「…………また犯されたいのか? 苦痛がまだ足りなかったか?」
振り向けば、まだ恐怖に満ちた顔をしているのに。
「い、いたい、こわい……もう、いや、です……やめて、ほしい……」
「ならその手を――」
「――でも」
その目は。
目だけは。
なぜか、再び光をともしていた。
「なんだって、します…………」
見慣れた輝きを、していた。
「脱げというなら、脱ぎます……またシたいというのなら、シます、から…………」
そしてまた、聞きなれたようなセリフを吐き出した。
「――夢寐を、返して……
「――――――ぁ」
…………。
……………………。
………………………………。
「
歩く。
背後から聞こえる泣声から逃げるように。
歩く。歩く。歩いて、歩きながら、思う――
――お前は、夢寐を陥れようとしていたのではなかったのか……?
スマホから発せられた、洗脳アプリの洗脳終了の合図も、俺の耳には残らなかった。
――斑鳩源十斎から着信があったのは山を下りて丁度の事だった。
圏外ではなくなるエリアギリギリの事であったため、もしや先ほどからずっとかけていたのではないかとも思ったがそれも杞憂だったようで。
開口一番は短い一言だけだった。
『家に帰ってこい』
一般家庭ならいざ知れず、親からの電話で帰ってこい、などと言われるのは記憶にある限り今回が初めて。
もしくは言外になにかを察せと伝えているのかもしれないが……。
不出来な息子はテレパシーを使えんのだ。
「なにかおありでしょうか、お父さん? もしかして、夢寐――今家に寝かせているあの子が粗相をしたとか?」
『会合だ。組の者が殺された』
「…………それは……穏やかではないですね。緊急で開かれるということでよろしいでしょうか? 遅れるので先に始めていただけると……」
『それは構わぬ。己は要件を伝えたに過ぎん。――ただ心しておけ、殺された奴は表でも裏でも影の薄い下っ端だった。人間関係の怨嗟で殺されたでも、
「アサルトライフル……現代日本で、ですか?」
『そうだ。己が潰した派閥の中にそのような長物を使っている人間は居らんはずだ』
――次から次へと……。
頭を抱えたくなる衝動を抑えて、俺は事務的に質問を投げかける。
「桜田門組*1の連中は嗅ぎつけるでしょうか?」
『否。今回はこちらが先手を打った――その後の
「……分かりました。急ぎでそちらに向かいます。間に合わないようでしたら後程
そう伝えるとどちらかともなく電話を切る。
……ああ、疲れた。なんか、この時代にいるんだなぁと感じるぜ……。
咲洲組――組長の息子である俺はある程度の権限を持たせてもらっている。
例えば組の人間を動かしたりとか……まあ源十斎に確認を取らなきゃいけないが。
それもこれも、彩美のため。
俺が代わりに裏社会で手を汚すためだ。
重い足取りのまま、最寄りの駅へ向かう。
「…………?」
駅に近づくにつれ、開発が進んでいるおかげでにぎわいを見せる繁華街に景色は移り変わっていく。
今日は休日だからか、まだ日の沈まない時間帯でも主婦が買い物をし、若い男は居酒屋の開店準備を始め、壮年の男女は飲み会の場所を吟味していた。
それは見慣れた光景だったが……。
違和感があった。にぎわい方が違う、というのか……。
「チッ……到这里预先来、还没找到!?」
浅黒い肌をした白いスーツの少女……のような女性が、繁華街の喧騒に負けないぐらいの声で叫んでいた。
ああ、と合点がいく。
「外国人が多いのか」
よく見ると日本人じゃない顔の造りをしている人が大勢いる。
金髪だったり、中国人っぽかったり、どちらかというとアジア系の人間が多い。
……そんな世界的に有名な場所ってわけでもないんだがな。
イベントかなんかやってるのかもしれない。
どこもかしこも外国人観光客を呼び込もうと必死だからな……。
「さて……」
親父殿にどやされないためにも、俺はそそくさと家路につくのだった。
「――ってなわけですよ、若旦那」
「さも今まで説明してたみたいなセリフですけど、俺今来たばっかですよね?」
やはり家に着くころには会合はすでに終わってしまっていたので。
丁度部屋から出てきた邦城――俺を懇意にしてくれる構成員のうちの一人と縁側で顔を合わせ会合の様子を聞くことにしたのだった。
「……まー酷い有様ですわ。酷いっつっても全員が『仇討ちじゃあ!』なんて息巻いてるわけじゃなくて……ほら、死んだ――井上、って言うんですがね、あいつは下っ端も下っ端なチンピラ野郎だったもんですから、会合に参加した重鎮連中は全く興味を示してませんでしたよ。……浮かばれねぇな、あいつも」
死んだ人間の事を悼んでるのか、夕暮れに差し掛かった日の光が眩しいのか、邦城は顔をしかめていた。
会合の様子については概ね予想通り。……ウチの派閥が元々血気盛んな荒くれ者の寄せ集めなだけあって、一部を除いて映画やドラマで見る任侠団体の絆みたいなものは皆無に等しい。
「ですがお父さんが会合を開いたということは」
「ええ、とにかく死因が死因なもんですからね。井上がどっかに喧嘩吹っ掛けたとしても死ぬときは事故に見せかけるか、海に沈めるか、さもなくばチャカかドスで死んでるはずですから」
咲洲組も武器はかなりの数保有している。
だが輸入のリスクや街中で所持する際の隠匿性を鑑みて全ては拳銃など小さな武器ばかりだ。
「死体周辺の状況は?」
「場所は井上が住んでたところから、あいつが良く通ってた雀荘までの道の途中にあるタバコ屋近くの路地裏だそうです。運よくタバコ屋の主人が出かけてて、うちの組のモンが偶然発見したんですが……昨日の大雨のせいで死体はかなりひどい状態でした。たぶん、そのせいで証拠とかも全部流れちまったみたいで」
「……咲洲組を狙っていると考えるには情報不足ですね。それにあそこ周辺はかなり人通りが少なく治安も悪い。イキった不良が軍の横流し品を使用して、その相手が偶然井上さんだっただけ――とも考えられませんか?」
「そう言ったんですがね、組長は何か確信があるのか、兎に角気を緩めるな、と」
もちろん、俺が言った可能性も、そうじゃない可能性もある。
つまり、咲洲組を狙った犯行であるという可能性。……前回みたいに警察が介入して来たら、悪事が全部暴かれる。警察には頼れない。
「もしじわじわと一人一人殺してくるような相手だったら……」
「絶対に誰かがキレて大事にするでしょうね、組長も一応それを懸念してらっしゃった」
呪詛のように刻み込まれた単語を浮かべずにはいられなかった。
――存在Ⅹ……。
お前の本当の狙いは一体なんだ?
どこからどこまでがお前の掌の上なんだ?
「……若旦那? 顔色が悪いですよ?」
「いえ――明日は我が身と、そう思っただけです」
……いや。
今日は疲れてるんだ。
だからどんなことでも存在Ⅹに結びつけてしまうのかもしれない。
こういう事柄こそ客観的に見なければいけないか。
人が死んだ、俺にまで危険が及ぶ可能性がある。気を付ければいいだけだ。
それじゃ、と薄い笑みを浮かべながら去っていく邦城に最後訊ねる。
「邦城さん」
「はい?」
「今この辺で何かしらのイベントとかやっていましたっけ?」
邦城は数秒考えこむように唸ると、
「やってないはずですが、それがなにか?」
「…………いいえ、なんでもありません。ありがとうございました」
…………。
…………どうしても、何かの思惑を予感しないわけにはいかなかった。
その後は源十斎に遅れたことを詫びにいき(案の定相手にされなかったが)、やってきていた重鎮たちに挨拶を済まし、また無理矢理酒に付き合わされたりとしていた。
そんなわけで、夢寐のところに顔を出す頃には外はもう真っ暗になってしまっていた。
「……あ、おにーちゃん。遅かったね」
「彩美……? どうしたんだ、夢寐に何か用でもあったのか?」
部屋の前には彩美が立っていた。
足元には水の入った桶と何枚かの濡れたタオル。
「…………もしかして、看病しててくれたのか?」
「そうだよー? おにーちゃんってば、焦って家に連れ込んできたのかと思えば、夢寐ちゃん放置してどっか遊び行っちゃうんだもん! これはプリン一個でも足りないかなー?」
生意気な妹は口を尖らせて腕を組んで俺をジト目で睨みつけてくる。
……しかしそうか。一人にしたのは確かにマズかったな……夢寐からしてみれば、起きたら知らない場所にいたわけだし。
どうやらその侘びに何を貰おうかと思索している彩美に近づき、その頭を撫でてやった。
「悪かった……それと、ありがとうな? ……それで、何が欲しいんだ? 高い物じゃなかったら、お兄ちゃんがなんか買ってやるぞ?」
「ぁ、ぅ……もう、すごいの貰っちゃった」
顔を赤くした彩美が埋めるように俺の腰に抱き着いてくる。
相変わらず直球の好意に弱い奴め。意地悪も兼ねてさらさらな髪の毛をぐちゃぐちゃにするよう撫でまわす。
「うぎゃーーー! すぐそうやって茶化すんだからもーーーーーー!! ろーきっく! ろーきーーーっく!!」
「うおあぶねぇ!?」
涙目になった彩美が珍しく感情的になって俺にキックを見舞おうとしてきた。……主にすね目掛けて。
好意に弱いのはお互い様なのかもな、実は。
「もー知らない! 彩美怒ったんだから! 絶対にお詫びとしていつか一緒に遊んでもらうんだからねーーーー!!」
そんな微笑ましい捨てゼリフを吐いて走り去っていく彩美に、
「うちの妹はかわいいなぁ」
思わず零れる誉め言葉。
「ありがとー! 実はおにーちゃんも案外かっこいいよー!!」
「いや聞こえてんのかい」
そう苦笑しながらも、床に置いてあった桶と、たぶん俺にも看病しろということなのか掛けてあった新しいタオルを手に取って、夢寐の眠る部屋に入ろうとして、
「……夢寐も、かわ、いい……?」
「…………」
もう一人。
俺を兄と呼ぶ手のかかる少女が襖の隙間からこちらを見ていることに気付くのであった。
「――熱は無さそうだな。頭がボーっとしたりとかはないか? 手足が痺れたりとかは?」
「だいじょう、ぶ……彩美、ちゃんが……看病してくれた、から」
「……らしいな」
先ほどの、俺にデコピンを食らわされて横になるまで『かわいい? かわいい?』としつこく訊いてきた夢寐の姿を思い出して肩をすくめる。
額に手を触れてみるが熱は無さそうだ。それに食欲もあったみたいで、隣には空になった土鍋と茶碗があった。彩美がおじやでも作ってくれたのだろう。
ただあんなことがあった後だ。安静にしておくべきだと考えたのは彩美ものようで、夢寐は今日も泊まることになったみたいだ。
それで――昨日のことについて、夢寐が何かトラウマを持ったのではないかとも思ったが……見たところ、平気そうだ。
PTSDの症状としてフラッシュバックなんてものもある。
そう考えると、彩美一人がつきっきりで看病していたのも良かったのかもしれない。
「…………」
「…………」
考え込んでいたから、お互いに無言になっていた。
何か話題はないかと辺りに視線を巡らせていると、布団から延びた手が俺の膝をつついた。
「おにぃちゃん」
そしてきゅ、と頼りない力でズボンを掴む。
「今日は、一緒に寝てくれない、の?」
「え」
「ここ」
片側の掛け布団を持ち上げて、小さな手でぽんぽんと空いたところを叩いた。
汗ばんで張り付いた服がまたなんとも艶めかしい。
「あれは、その、応急処置というかだな……!」
「……いや?」
悩ましい声を出されて、俺は流れるような動作で布団という鞘に納まるのであった。
……上目遣いは卑怯じゃないか?
そして布団の中は想像通りかなり蒸れていた。
――犯罪的な言い方をすれば、ジュニアアイドルの汗により。
さらに言えば昨日風呂に入らなかった幼女の汗だ。……それでいてなぜこんないい匂いがするのかが謎だった。
部屋の唯一の明かりだった行燈を消して、昨夜と同じような暗闇に包まれる。
「……………………」
寝れるかこんなもん。
……そういえば、夢寐が敬語を使わなくなったな。
遠慮が無くなったというかなんというか……。
悶々とした時間が進んでいく。
そして。
唐突に、夢寐が口を開いた。
「おにぃちゃん」
「……ん? なんだ?」
「――栗生ちゃんに、手、出したの?」
本当に唐突だった。
唐突過ぎて言葉が詰まった。
栗生とのメッセージのやり取りは夢寐に見られる前に削除しておいたはずだ。
なら栗生が夢寐に連絡した? そんな、バカな――いや、しかし――
「否定、しないんだ」
…………今度は息まで詰まった。
「やっぱり、今日お出かけしてたのは、そのため、だったんだ……?」
「…………ぁ、ちが、違うぞ、夢寐、俺は――」
「手を出さないでって、言ったのに……っ! 夢寐だけにって、言ったのに!」
俺の傍らで夢寐が震えていた。
俺の服を力強くつかみ、涙を我慢しているような震え声で俺を糾弾した。
俺は彼女を抱きしめることも、ここから立ち去ることもできず、見えもしない天井をただ眺めることしかできない。
「……薄々、そうなんじゃないかって、思ってた。おにぃちゃん、すごく怖い顔してたから……もしかしたら、って思って」
「…………」
「おにぃちゃんは悪くて優しい人だから……きっと誰かのために、怒れる人で……怒ると、怖い人で……夢寐、なんかのために、怒ってるのかもしれないって……でも、気付いた時には、もうお昼過ぎてて……おにぃちゃんも栗生ちゃんも電話に出てくれなくて……っ!」
彼女の言っているその人間像は誰の事なのだろう、と一瞬思ってしまった。
誰かのために怒れる人? そんなことはない。夢寐の件について栗生に失望はしたが、結局栗生をレイプしたことは自分の存在Ⅹに対する復讐心によるものでしかないのだから。
「あの時は……夢寐が、夢寐だけにしてって言った時は……おにぃちゃんは怖い人だと思ってて……だけど、だけど今は、違くてっ! だから、だから、辛い……辛いよ」
こつん、と夢寐の額が俺の肩に当たった。
「おにぃちゃんが、酷いことしちゃうのも、栗生ちゃんが、酷い目に遭っちゃうのも!」
……だけど俺は、夢寐の間違った斑鳩右京像を正すよりも先に、
「――じゃあ赦すのか!? お前は自分を裏切った天宮栗生という人間を赦すというのか!?」
そんな言葉が口から出ていた。
彼女を慮っての言葉ではなく、もっとエゴに塗れた意味を持って。
「赦す、赦さない、じゃないよ」
「……は?」
「…………栗生ちゃんは……ううん、きっとあの人も、なにも悪くないんだから」
だから真正面から、しかも気が狂ったとしか思えない言葉に叩き潰され絶句するしかなかった。
悪くない? お前を裏切った栗生が? お前を襲ったストーカーが?
「死にかけてたんだぞ、お前は……! 悪く無いわけ、あるか! もしかして記憶が混濁しているのか!? なら教えてやる、お前はなぁ――」
「全部覚えてるよ。おにぃちゃんが来てくれなかった、ら……なんて、考えたくない、ぐらい」
「~~~~~~っ!」
耐え切れず俺は行燈をもう一度つけ、横に置いてあったスマホを手に取り即座に洗脳アプリを起動する。
『人格操作』――『人格:素直』――『2分』
その画面を夢寐に見せつけ、“Complete!”の表示が出てからもう一度訊く。
「憎いだろう!? 憎いよな!? 裏切られたんだから――日常を、脅かされたんだから!」
夢寐に覆いかぶさるように、彼女を見つめる。
もし人格操作されていて、夢寐がおかしくなっていたのだとしても、これで――
「ううん」
「…………ぁ、な」
それでも夢寐の返答は変わらなかった。
それどころか、さらに瞳の輝きが増していた。
「信じてるから」
「なぜ、だ」
「友達、だから」
“――夢寐を、返して……
「そんな顔をしないで、おにぃちゃん? もちろん、苦しかったし、怖かったし、寂しかったよ?」
「なら――!」
「だから、きっとそこには理由があったんじゃないかな、って考える。相手が悪いんじゃなくて、夢寐が悪いんじゃないのかなって考えてみる」
「お前は悪くない! お前は被害者だ!」
「
「……………………」
「おにぃちゃんのやさしさは分かってるから。おにぃちゃんのことは大好きだから。……おにぃちゃん――それでも、夢寐だけにして。友達には手を出さないで」
洗脳により饒舌になった夢寐の言葉に、俺はもう何も言えなくなっていた。
狂人のように思えるほどの強い意志がその瞳に宿っていたから。その瞳が俺を射抜いていたから。
「……ま、ぁ……最初、びっくりしちゃって、おにぃちゃんに攻撃しようとしちゃった夢寐が言うのもなんだけど、ね?」
「…………ぜ、だ」
「おにぃちゃん?」
「……………………い、や。分かった……お前の言う通りにするよ。お前もお前で怒らしたら怖そうだしな」
「えへへ、ごめんね?」
「……ったく、何歳も上の強姦魔に啖呵斬るとかどんな胆力だよ。寝るぞ、もう」
行燈の明かりを消して、また暗闇の中におぼれる。
丁度洗脳が解けたらしい夢寐が少し不思議そうな顔をしながらも幸せそうな笑みを浮かべて俺に抱き着いてくる。
――信じる。
その言葉は、なぜだか妙に俺の心に突き刺さってきた。
彼女はおかしい。百人に訊いても百人が口を揃えて言うだろう。
だけど彼女の強さはそのおかしさあってのものなのかもしれない。妄信、まさしくそれに尽きる。
ああ。
だから。
痛いのだ。
“――じゃあ赦すのか!? お前は自分を裏切った天宮栗生という人間を赦すというのか!?”
それは――俺が最初に出来なかったことだから。