あーっ! あーっ困りますっあーっ! メスガキこのっ! この舐めやがってっ! じゅるるるるーっ! 作:道明寺ファンブル
「――もう一度報告してくれる? 邦城? ……確か、同じような報告が何件もあった気がするの。どこだったかしら……」
斑鳩邸のある一室では、もう真夜中だというのに電気が付けられていた。
邦城――と呼ばれた男は、いつものような笑みを浮かべることも出来ずに、部屋の入り口で報告書を片手に頭を下げながら、言われた通りたった今告げた事をもう一度伝えようとする。
手は震えるが、声だけは震えないように。冷たい双眸が射抜いてくる恐怖は、斑鳩源十斎の面影を感じさせた。
「は、はい。先月中旬辺りから
「……桜田門組にパクられただけかと思ってたけど。……ま、有り得ないことね。それで?」
「買い手を鞍替えしやがった野郎の家に押し入って、その“別の業者”が売ったらしきブツを手に入れました。
失礼します、と一言断ってから邦城は報告書と一緒に手にしていた、袋に入れられた錠剤を取り出す。全体としては白色ではあるが、ところどころ青色が混じっており、目立つのは真ん中の窪みに掘られたレリーフ。薬の大きさは子指の爪ほど。
袋には黄色い付箋が付けられており、赤い字ででかでかと“該当薬物なし”と記されていた。
それを見た相手が目の色を変えるのを首筋で感じながら、邦城は続ける。
「まず――うちはMDMAと目星を付けていたんですが……中分*1の使う携帯型薬物検査装置を使っても規制薬物として検出されることはありませんでした。……ただ、これを使った――言うなれば持ち主ですね――野郎は気持ちよくぶっ飛んでいやがったんでリーガル・ハイだろうと推測しています」
「……多幸感? ドーパミンの放出に関わる薬物ってこと? ……ナルコレプシーの治療薬……それとも単純にオピオイドを改造したのかしら?」
「目下研究中です。それから……うちのドラッグよりも効き目は強いらしく、また恐らくですが副作用も抑えられているようで」
邦城の耳に、小さなため息の音が届く。それはただ厄介なことになったと自然に漏れた嘆息ではあったものの、邦城の胃を痛めつけるにはあまりある威力を有していた。
それを知ってか知らずか小さな悪魔は情報を軽く整理しては邦城の報告を聞き続ける。日常から切り離された静かな地獄に終わりはない。――状況は、あまり良い物とは言えなかった。
「……それでも最悪は薬物濫用の弱みをダシにして押し売りしてしまえばいい。だけど問題なのは――そう、問題。いい? 邦城――この程度、本来は何の問題もないの」
「は、はぁ……」
――まぁ、このまま売り上げを右肩下がりにしちゃった悪い子がどうなっちゃうかはわからないけど。……そんな呟きを聞かなかったことにしながら、邦城は話の続きを待つ。今宵の自分の役目はあくまでも事務的な報告。彼女のそれは気まぐれであろう。
「これを見て」、と突然目の前に資料が放り出され、一瞬瞠目してから、邦城はすぐにそれを手に取った。数枚にわたり、人名と電話番号、住所、備考欄などが記載されている。「うちのブツを買ってる客の名簿ですね」との邦城の言葉に反応は無かった。
問題はそこではない。そう告げられているのだと気付いた邦城は、名簿の内3割近くに描かれた赤い“×”のマークに注意を向ける。
「そのバツ印が付いている名前はね、急に薬を買うことをやめた連中のものよ。今の報告を聞く限り、掠め取られた、っていうのが事実でしょうけれど」
「……」
「今までのお得意さんも、新人さんも、関係なしに盗られていく。どこかの不躾な盗人さんが、人の家で盗んだものを、人の家で売っている。極めつけは税関の検査をすり抜ける魔法の薬。……その技術力があれば未開の地であっても繁盛できそうなものを、わざわざこの地でする理由は何? わざわざ人の客を奪っていくのは何で?」
彼女は怒っている。邦城にはそれが分かった。いつもと変わらぬ口調、それに似つかわしくないほどの雰囲気の変化。
そこまで説明されて、理解できぬほど馬鹿ではなかった邦城は、答える。
「宣戦布告……いや、もう、
その売人は、我々を潰しにかかっているのだと。
「近々集会が開かれるでしょう。この前の井上が殺された事件についても、売人が関わっている可能性が高いわ。薬についての解析は後回し。咲洲組の庭を土足で踏み荒らす不埒な輩が誰であるかを最優先で突き止めなさい。いいわね?」
手元の薬に刻まれた――龍を刺し殺す剣のレリーフを見ながら、
「……分かりました。下の連中にも指示しておきます」
深々と頭を下げた邦城は、ゆっくりと退出していった。その時の剣呑な表情は、事態の深刻さを真摯に受け止めているからこそだろう。
そうして二人のうち一人が去った部屋は、必然一人のための孤独な空間になる。この街を覆いつくさんとする不穏な空気に気付いていた少女は――
「――……おにーちゃんの、ためだよ」
静かな日々が続いた。平穏無事と言うには毎日ヤクザモンと顔を合わせるような日常ばかりではあったが、俺の周りで特筆すべき事件が起こったことも、その痕跡が見つかったこともなかった。
無論、そのような甘露に耽溺して腑抜けたつもりは毛頭なく、それが俺の不利益にならなくとも利益になることは決してないであろう事だとは分かっている。存在Ⅹの計画は今もなお着実に進行しているのだ。
だが――
「――おにーちゃんっ! 起きなさーいっ!! 今日こそはきちんと“愛妹”料理を食べて、元気よく一緒に学校行ってもらうんだからねーっ! ………って寝るなー!!」
「ぅ……あ、ああ……うむ……分かった……分かったから、お兄ちゃんの生理現象を……いじくりまわすのは……やめなさーぁやめろォ!!」
「うーむむ、本日も異常なし! ……やっぱおにーちゃん、しっかり元気してるじゃん。向こうで待ってるから、冷めないうちに支度してね」
「もっとマシな起こし方は無いのか!? 育て方を間違えたのか!? いやヤクザの娘ならそらそうだろうけど! ……あれ、というか俺、部屋に鍵かけてたよな…………?」
気にしない気にしない、とわざとらしい笑みを浮かべながら去っていく教育の必要がありそうな我が妹を尻目に――今後どうするべきかを考えてみもする。
しかしやはり現状維持に帰結してしまう。俺は――俺は間違えたのだ。……いや、存在Ⅹに気付く以前の俺が自暴自棄だったから、自業自得だと言われればそれまでだが。
俺は今、“日常”に染まりきってしまっている。夢寐も、栗生も、俺のしたことを誰かに言いふらすことをしないというのであれば、何もない平々凡々な日常というのは継続される。
故に、俺の行動はあまりにも抑制され過ぎているのだ。
洗脳アプリという武器を持っていながら、イレギュラーな行動を起こせないのはイレギュラーな状況に身を置くことが出来ていないから。
「まったく、妹というのはどいつもこいつも甘えん坊だな……決まって兄が割を食う。……うれしい理不尽ではあるのだが」
俺の目標は存在Ⅹを見つけ出す事。殺すか捕えるかはまだ決めていない。
未だ尻尾を出さないということは、これ以上相手の不手際を祈るのは意味が薄いだろう。なら狙うべきは…………。
「……奪わせは、しない。だが俺は……間抜けな顔をしてお前の掌の上で踊っている。何も知らず、何にも気づかず」
――俺に勝とうとしろ。俺を排除しようとしろ。俺の敵たれ。貴様の計画が結実する時、お前は否が応でも痕跡を残すはずだ。
今は高みの見物に興じているがいい。存在Ⅹ――俺の悔しがる顔を見ようと、貴様が俺に一歩近づいた時が最期だ。
しかしそうならそう、いくらか手を打っておくべきか――
「――おにーちゃん! まだ処理できないの!?」
「朝勃ちで遅れてるわけじゃねぇ!!」
……これで、いい。
室橋学園文化祭を一週間後に控えた6月14日。
夏の暑さがフライングし、季節を間違えた蝉たちは夏の到来より前に息絶えることを知っていながら鳴き続ける。
春は終わる。それはきっと、もう俺の知っているような終わりではない。
そう、させてはならないのだと胸に誓う。
雨上がりの湿気のせいか、嫌な予感によるものか、息苦しさは無視することにした。
――退屈な授業を微睡みつつも凌いだ後、彩美が言う所の“愛妹弁当”なるものをつつきつつ、ふと窓からグラウンドを見下ろしてみる。
文化祭は間近だ。その時のビッグイベント……ジュニアアイドル猫屋敷夢寐のソロライブのセッティングに早くも着手しているのか、学園関係者ではなさそうなスーツ姿の大人たちが忙しく走りまわっていた。
室橋学園はより一層文化祭色に染まりつつある。
ご丁寧にハート形に整えられた卵焼きを口に放り込む。
何も知らないやつが見れば誤解間違いなし、って所を除けば他は一級品なのに。嬉しくないわけではないんだが……それは俺の“中身”がおっさん寄りだからだろう。多感な時期にこんなラブの大洪水弁当渡されたら微妙な心持ちになっていただろうな……。
なんて考えていたところ、俺の電話に着信が入る。……時間通りだな、今日も。
相手先の名前を見ることもなく、応答する。
「……もしもし、夢寐?」
「あ、もしもしっ、おにぃちゃん……えへへ。今日も、時間……いい?」
もちろんだ――と答えた俺に、騒がしかった教室が少しだけ静まり返った。気にしないように外を見つめ続けるが、背後にいくらか視線が突き刺さっているのを感じ取れる。
……当たり前だよな。今学園中の噂を総なめにしているジュニアアイドルと、冴えない男が仲良さげに電話していたら誰だって驚く。“親戚のおにぃちゃん”なんて無理ある設定も、無いよりかは幾倍もマシだったろう。
「今、学園のグラウンドで夢寐のステージのセッティングがされてるよ。……しっかし、すごいな、お前の人気っぷりは。たかが文化祭――それも一日限りの舞台に凄まじい数が動員されてるし、あのカメラマンはDVD撮影用か……テレビ局か? 本当にアイドル、なんだよな」
「ぅ……あ、あんまり、そういう話……聞きたくない、かも……」
全国に放送されるかもしれない、何て言われてもプレッシャーになるだけか。
ただ、露骨に弱気になる夢寐というのも珍しい気がして、自然と笑みが零れてしまった。電話から聞こえる、照れたような、怒ったような声が耳に心地良い。
「……大丈夫か、レッスンの方は? 朝から夕まで結構なハードスケジュールらしいじゃないか。何か手伝えそうなことがあったら遠慮なく言えよ?」
「う、ううん! 大体の事は、もう覚えちゃったり、してるから……ダンスとかの方は、平気。……でも…………」
「ん?」
「すこし……さびしい」
……無理もない。学園を休んでのレッスンが始まってから、夢寐は友達に会えてすらいないだろう。こうして昼頃になると俺に電話を掛けてくるが、昼休憩が終われば彼女は夕方までレッスンに追われる。
小学生には厳しい事のように思えるが……わざわざこの学園でのライブなんて、事務所などの一任では決まらないだろう。きっと知ってて彼女はそうすることを選んだのだ。
遠慮なく言え、とかっこつけたばかりだ。
多少周りの視線が気に掛かるが背に腹は代えられない。
少し待ってろ、と伝えてから電話をビデオ通話に切り替える。夢寐の息を呑むような声が聞こえた。
「ほら、あー……こうして顔が見えた方が……なんというか、寂しくない……みたいな……」
全然かっこつけられなかった。
完全に失敗だ。“俺実は有名人と仲良いんだぜ!”的なアピールのために教室を選んだのは。
小さな笑いが上がった後、スマホの画面に夢寐の顔が写った。向こうもビデオ通話に切り替えたんだろう。
「お顔が、真っ赤……ふふ」
昼休憩に入ったばかりなのだろう、上気した頬は赤く、とめどなく流れる汗により白い服――学園指定の体操服だろうか――が肌に張り付いていた。
悪戯っぽく笑うその姿に……何と言えばいいのか。この子には敵わないな、と感じざるをえなかった。
「ありがと、おにぃちゃん」
そうはにかんだ夢寐に、寂しさはもう感じられなかったから、なんだかんだこれで良かったのだ。……という風に無理やり納得する。
その後は時間が許す限り他愛ない話を交わし合った。
――例えば愛溢れすぎ弁当の事だったり、レッスンの講師のお姉さんが怖い、だとか……毎朝の登校で、栗生まで俺をお兄ちゃん呼びし始めたことが気に食わない彩美が、鬱憤を俺で晴らそうとしたり、などなど。
栗生と俺の関係が多少改善されたことを夢寐は知っている。だから栗生についての話にも笑って耳を傾けるばかりだった。
……弁当を食べ終わり、休憩時間も後わずかとなった時、
「おにぃちゃん……文化祭、みんなで……まわろ? 栗生ちゃんと、彩美ちゃんも誘って……」
その誘いに、俺は――
「……ああ」
彼女たちと出会わなかった俺の、灰色の文化祭の記憶を端っこに追いやって頷くのだった。
そんな、今となってはもうありふれた日常の一幕――
――ピロン、と。一通のメッセージを受け取った。
――こっちも時間通りか。律義な奴。
放課を知らせるチャイムが鳴り響く。部活に所属しているわけでも、文化祭準備で何か役割があるわけでもなかった俺は真っすぐ校門へと向かってきていた。
「……初等部と高等部じゃ下校時刻も違うっていうのに……どうしてもやめないんだな、栗生?」
「良いじゃない。恋に恋するような少女は待ち合わせって言うイベントが大好きなんだから、お兄ちゃん」
遠くから顔を覗かせる積乱雲をじっと見つめていた人影が――天宮栗生が退屈さを感じさせない笑みで振り向く。あるいは長い待ち時間も、彼女を退屈させるまでには至らなかったのかもしれない。
「冗談よ」、と可愛らしい仕草と共に綻ぶ栗生だったが……。どうせ校門で出くわすのにいちいち待ち合わせのメッセージを送ってくるあたり、こういうイベントが大好きっていう点については嘘じゃないんだろうな。
早速家路につく俺と並んだ栗生は、自然な動きで俺の腕を取った。
……最早、この光景を誰に見られどんな噂を立てられようが気にするまい。妹に“二股ぁ!”なんて言われようが気にすることは無いのだ、うん。
「彩美ちゃんは今日も?」
「ああ……また遅いってよ。あれでいて初等部の生徒会長だからな、各学年の出し物がルールを破っていないかとか全員が帰ったあと逐一確認する必要があるとか。そうでなくとも、自分のクラスの出し物の準備にも追われているらしいし」
俺のクラスも栗生のクラスも、文化祭では売店になるから仕事があるのはほぼ当日だけになる。飾りつけなどは女子に任せて、帰宅部だったりは特に何もすることなく帰る奴の方が多い。
本当は彩美の事も待ってやるべきなんだろうが、当の本人に遠慮されてしまったからな。
栗生に対しての敵愾心は相変わらずのようだったが。
夢寐は“おにぃちゃんを取られちゃうと思ってるんじゃないかな”みたいに言っていたものの、どうだろうか。
いらない気を遣っているだけのような気もするんだよな。
だって実の兄に“二股”だぞ?
「……かわいいわよね、彩美ちゃんって。小動物みたいで」
……身の危険を感じた上での本能的な行動だったりするのかもしれないが。
こいつの相当な夢寐への溺愛っぷりから薄々勘付いていたが、相手が年下だったり少しでも妹っぽい要素を持っていると途端に変貌するんだよな。
正しく小動物を食らわんとする猛禽類みたいに。
ま、まあ仲は悪くないんだ。例え妹の名を口にした栗生が瞳に妖しい光を携えているとしても、きっと仲良くなりたいだけなんだ。
「――夢寐は、いつも通りだった。俺が少し……いやかなり赤っ恥をかいた気もするが、元気そうだった」
急な話題の転換に栗生も乗ってくる。
「恥って……なぁに、それ? ……もしかして、まだ自分のクラスで夢寐と通話してるの?」
「有名人と親しかったらちょっとぐらい自慢したくもなるだろ」
「お兄ちゃんって俗物ー……。というか、私だって有名人よ? 夢寐と比べられちゃうと見劣りするかもしれないけど……わっ」
彼女が掴む手とは反対の左手で、栗生の頭をがしがしと撫でた。
驚いたような声を上げて不機嫌そうな目で睨んでくるが、俺と彼女の距離は離れない。それは成長とも捉えて良い進展だった。
「自慢するまでもなく、お前が見せつけてるだろうが」
「……そうね、ふふっ! じゃあインスタに載せてもいいかしら、ツーショット。公式のアカウントで」
「調子に乗るな」
俺が死ぬ。
「そもそも、俺としてはお前らの事は自慢できるが、お前らからしたら俺の事は自慢でも何でもないだろうが」
「…………そんなこと」
「……いや、別に卑屈になっているわけじゃない。あくまで対外的に、な?」
先日までの栗生だったなら、ここぞとばかりに罵倒してくるのが普通だったろう。
俺はまだ距離感を測り損ねていたのだ。表情を曇らす栗生に、別の話題がないか思案していたところ――
「お兄ちゃんは、自分の事、好き?」
そんな問いを投げかけられる。
何かの言葉遊びではないのだろうということは、彼女の真剣なまなざしから察していた。
自分の事が好きかどうか?
「…………考えた事、無かったな」
「そう」
「こんな答えで良いのか?」
「うん……その答えで、なんとなく分かってきたことも、あるような気も、しなくもない、かな」
曖昧だな。
その質問にどのような意図があったのか、訊こうとする前に、栗生は俺の腕を引っ張り走り始めた。
「お、おい」
「ちょっとだけ寄り道しましょ? 私おすすめのクレープを奢ってあげるからっ、お兄ちゃん!」
どういう風の吹き回しだろうか。
それは分からなかったが、満面の笑みを浮かべる少女にそれを訊くのは野暮のような気がして。
ただ、強く握られた腕の感触だけが、天上の空よりも色濃く記憶に残っていた。
――ヒグラシが鳴く。橙色の空は、いつか見た時のそれよりもずっと深い色をしていた。
……ちょっとの寄り道だったはずなんだけどな。なんとなく、こうなる予感もしてたっちゃあしてたけども。
「なんだかすごーーーく、時間が経つのが早い気がする……でも半日の授業なんかよりよっぽど濃い時間だったような気もする」
「それはお前に不良の素質があるからだろう」
「じゃあ、お兄ちゃんも素質ばっちりって感じ?」
「……ああ、俺ほど不良に向いてるやつもそうそういないさ」
血筋的なアレで。
「でもちょっと……こういうの憧れだったかもしんない。アイドルってだけで生活に規則正しさが求められて、肩身が狭い思いをして。……だから、こうやってお兄ちゃんみたいな人と気のすむまで遊びほうけるっていうのが、こんなにも楽しいのかも」
「なんで俺みたいな人と遊ぶと、求められてる規則正しさを無視できるんだ?」
「おまわりさんこのひとです」
「体のいい言い訳用かよ……」
洒落にならないからな、それ。
……この子にお兄ちゃんと呼ばれるようになったあの日のように、俺達は住宅街の静かな道を並んで歩いていく。
こういう生き方だって、十分規則正しいじゃないか、と思う。
正しい在り方だ。
本当に、知らなかった。知るべきではなかった。日常の居心地の良さなど。
今でも思う。この子や夢寐が俺を憎んでくれたらどれだけ良かったか――などと、それが甘えだとは分かっているんだが。
そしてこうも思う。
俺が夢寐をレイプして、栗生をレイプして、彼女たちの懐の広さに甘え――そしてようやく手に入った安寧の日。
……それしかなかったのか。そうするしかなかったのならば、俺の夢は滑稽なぐらい身の丈に合わないものだったのではないか。
だとするならば、斑鳩の血は……“呪い”だ。
頭に浮かぶのは彩美の姿。今朝のように明るく、元気で、賢いのに馬鹿みたいに笑うあの姿。
あの子から見える世界は、ちゃんと穏やかだろうか? 日常を、夢見てはいないだろうか? ……そう考えると、やはり斑鳩の血の呪いを一身に受けるべきはこの俺だ。彩美じゃない。
きっといつか。
この子たちと笑い合う日は無くなるだろう。
「……お兄ちゃん?」
「ん、ああ……悪い、何も聞いてなかった。なんか話してたか?」
「ううん」
“どうしたの”とでも聞きたそうな表情だった。安心させるように微笑みかけてやる。
なんとなく。
なんとなく、だが――。
存在Ⅹへの復讐の理由が、少しずつ変わっていっていくような気がしてならない。
それが良い変化か悪い変化か、俺には分からなかった。
……思考を断ち切り、空の向こうを見やる。反対側の空はもうすでに暗くなっていた。
「もう日没だな……夢寐はもう帰ってる頃か」
ならば今の時刻は六時くらいってところか? 時間を忘れて、とはよく言うがマジで遊びすぎたな。
まあ、昼休みの時の通話の話題にはなるだろう――と、明日の事を考えようとして、
「ん?」
「電話?」
ポケットの中のスマホが震えた。聞き慣れた着メロが鳴る。電話だ。
相手先は――見慣れた名前。夢寐の兄貴からだった。
「……もしもし? どうした、いきな――」
『む、夢寐がそこにいたりしないか!? あ、と、というか今どこにいる? もしかしてもう家か?』
「いや……今は栗生の――夢寐の友人の家の近くだが。……少し落ち着け、夢寐は…………夢寐は、帰って、来ていない、のか…………?」
単なる状況整理のための言葉だった。そのはずだった。だが言うにつれ現実味を帯びるその言葉に、喉がひりつき口が渇くのを感じた。
尋常じゃない雰囲気に栗生さえも呑まれ、不安げな瞳を俺に向けてくる。……対する向こうの答えは無言だった。十分すぎる証明だ。
「待て、待て、落ち着け、落ち着け」
自分に言い聞かせるように呟いてから、
「レッスンが長引いてるんじゃないのか? 文化祭はもう一週間後先だ、夢寐がもう少し練習したいって講師に頼んだとか」
『今教室の方にいるんだが、夢寐はもう帰ったらしいんだ……一時間も、前に……連絡も、取れない』
「――――馬鹿な」
わずかな希望さえも握りつぶされていく。一時間。それは余りある時間だ。何に対し?
そんなの、決まっている。俺が知らないわけがない。
「ゆう、かい」
「え……?」
『……け、警察に頼むべきか? む、夢寐は、大丈夫……大丈夫、だよな?』
「今、お前ん家には誰がいる」
『親が』
警察。頼るべき。一般論で言えば。
これは――これは奴の仕業か? いやしかしどうしてこのタイミングで? 俺が目当てではないのか? ――いや早合点はすまい。ただの誘拐犯だという可能性もある。――違う! それすら希望的観測だ。だが……だが。もはや賭けるしかないというのであれば。
「――警察には頼らない方が良い。これは……これは現実的な話だが、最悪一時間前に夢寐が攫われたと仮定する場合、無傷での……奪還は……難しい…………ッ」
『……なら、どうするべきなんだ』
「もちろん、夢寐がスマホの電源を切ってどこかで道草を食っているという可能性も捨てきれない。お前はその場所周辺で夢寐の目撃情報を出来る限り集めてくれ。俺も中央区を中心に夢寐を探してみる」
『…………』
「それから親御さんには電話の前で待機するように伝えておいてくれ。もし不審な電話が一通でも入った場合俺に連絡するようにも言っておいてくれ……最悪の場合は、それだけがあの子を救う手立てになる」
『わかっ……た』
電話が、切れる。
俺はただ唖然とするしかなかった。
「夢寐が……どう、したの」
それは、懇願にも似ていた。
「お兄ちゃん! 教えて! 夢寐が、どうしたの!」
「ダメだ……と言っても無駄か。……夢寐と連絡がつかなくなった。まだ家にも帰っていないそうだ。暫定的に行方不明と考えた方が良い」
「うそ…………」
なんだ、これは。
一体、なんだ。あの子が一体、何をした?
意識が切り替わっていくのを感じる。
頭に血が上っているはずなのに、心は冷たくなっていく。
「なら、二手に分かれて夢寐を――!」
「許可できない。お前だって危険な状態だ。さっきはお前が一人で探しに行ってしまいそうだからと教えてやったんだ」
「っ……」
「…………俺の傍を離れないって、約束できるか?」
「う……うんっ!」
ヒグラシが鳴き止む。空に見えていた雲たちは消え、皮肉なぐらい満天の星空が月にも負けず輝いている。
夜の帳が降り始めた。だがそれで終わりではなかった。長い一日の始まりを示唆しているようでもあった。
俺達は駆け出す。夢寐は、きっと見つからないことを予感しつつも――
六時を報せる『エリーゼのために』が鳴り響く。