あーっ! あーっ困りますっあーっ! メスガキこのっ! この舐めやがってっ! じゅるるるるーっ! 作:道明寺ファンブル
夜の静寂に支配されたリビングの中に、少女の声が響き渡る。
緊張を隠すような手擦りの音、浅くなっていく息、落ち着かないように身じろぎした時の服が擦れる音。意識しなくとも耳に届く音、しかしそのどれもが遠いものに聞こえた。
天宮栗生――と呼ばれていた少女が、誘拐犯らしき男から掛かってきた電話に応答しており、その隣では片耳のイヤホンに意識を傾ける若旦那――斑鳩右京の姿があった。
『井上を殺した奴が関わっている可能性がある』――とは彩美から聞き及んでいたが、その可能性に気付いたのは他でもない右京だったか。
……気落ちしきった、誘拐された娘の帰りを待つ家族たちの前で煙草を吹かすわけにもいかず、手持ち無沙汰になっていた邦城に、隣から小さい手が伸びてくる。
袖を引かれたので見てみれば、斑鳩彩美が手招きしていた。邦城は静かに耳を近づける。
「……いろいろと動いてくれて、こんなこと言うのもなんだと思うけれど――良くあれだけの人数を連れてこれたわね、源十斎には何も言われなかったのかしら?」
「元々、組長の指示でいつでも動かせるだけの人数は置いてありましたんで。……さすがに組長に無断で動かせるわけでもないんで、一応許可を取りに行ったんですが……井上が死んだ事件に関わってるかもしれない、と言ったら二つ返事で」
その言葉に彩美は怪訝そうな顔をする。やはり――というべきか。今回もそうだが、この前の集会でのあの言葉。たかが下っ端一人死んだ程度で警戒を強いるなんてこと、組員だけでなく、この少女でさえ理解に難いものだったのだろう。
井上に特別な想いがあったわけあるまい。あの事件そのものに何らかの脅威を感じているに違いなく――ならばなぜその情報を下に知らせないのか、謎は堂々巡りするばかりであった。
源十斎の思惑を解き明かすことに見切りをつけた彩美は、声のトーンを落として訊ねる。
「犯人を捕らえることが最優先になるわけね。あの人の気性だから、どうせ夢寐ちゃんについては」
「後に回せ、と」
「…………そう。まあ分かっちゃいたけれども……そっちの方が都合が良いってことも、分かってるけれども」
二人して右京の方を見つめてしまう。
「……若旦那は変わられましたね。あっちの方が素だって言われても納得できそうなくらい、まっとうに生きてるっちゃそうだと思いますよ」
「嬉しい事よ、もちろん。……だから殺せない。良いわね、邦城。後に回せは“捨て置け”って意味じゃないの――ちゃんと救いだしてよね? あれでも、友達らしく思ってるんだから」
「――と、若頭がおっしゃるわけで。……ちゃんと聞いてましたかい、赤坂殿? あなたの言う所の“愛娘”……そっちを優先したところで内緒にしててくれるらしいですが」
邦城は胸ポケットのスマホ――先ほど繋げっぱなしにしておくと言っていたものだ――にそう話しかけた。
それに一瞬、彩美は不思議そうな顔をしていたが……端末から聞こえてくる声に合点がいったのか、周りを憚りつつもおかしそうに笑う。
『――こちとら一言一句来世に持ち越すレベルで刻んでおいたわよぉ、クーちゃんっ!』
……いや、実際おかしいのかもしれなかった。キャピキャピした声色――を塗りつぶすかのようなドスの効いた声。いわゆる、オカマである。
しかし分かりやすくもあり、だからこそ彩美は彼が
通話相手、赤坂に苦い思い出でもあるのか、クーちゃんと呼ばれた邦城は半ば白目をむきながら事務的に返答をする。
「い、今は誘拐犯相手と対話中です。情報は入り次第そちらに伝えますんで、す、すぐに対応できるようにしていただければ……」
『……なんか段々遠くなってってない? 気のせいかしら』
気のせいでもなく遠ざかっていっている。端末越しにむわっとしたオーラが纏わりついてきそうだった。
『ともかくそういうことなら、こちらも救出を最優先に動くことにするわぁ。お嬢様のお墨付きでもあるわけですしねぇ~?』
彩美まで遠ざかる。スマホは床に置かれていた。
「……と、とりあえず後のことは気にしなくていいわ。どうせ夢寐ちゃんのアイドル事業を一番支援してるのは
短い『了解』との答えに、彩美も邦城も揃って息を吐く。
……ふざけた言動をよくするが、赤坂は咲洲組の荒事を担当する部門、そこを従えるトップの内一人だ。腕に関して言えば心配はいらないだろうし、他トップと比べて人間味もあれば話も通じやすい。彼は味方だと断言できる。
無論背中は預けられないが。貞操的なアレで。
そして丁度、邦城たちが地図に目を落としたと同時、イヤホンを外しながら右京が近づいてきた。
「まずは――上々です。次の連絡までに情報を整理しておきたい」
ファーストコンタクトが成されたのだ。
――短いやり取りだったが、得られたものは大きかった。
栗生は緊張からか床に座り込んで浅い呼吸を繰り返している。……流石に負担が重いか。長引かせるわけにはいかないだろう。
「電話での応答で気付いたことですが――便宜上連絡係とします――その男は日本語が不自由でした」
日本語を習いたての外国人が話す日本語、と言えばわかりやすいだろう。
特徴的な拙さ、日常的な会話でしか意味が通じなかったことを鑑みるに栗生だって気付いているはず。
「……続けて」
「これについて自信はそんなにないのですが……中国人よりの訛り方だったなと。さらに、事務的な受け答えはほぼ不自由なくできていたので、おそらくは在日中国人――日本で就労する外人かと」
素人意見ながら、俺の中ではそうだと確信が強まっていた。
アメリカ人や中国人だけでなく、韓国人、フランス人やドイツ人など、国によって日本語の訛り方が違っていたりもする。この場合だと――『そり舌音』なんかがそうだ。
……前科アリでも就けるような職場には大抵外国人がいたからな。
その時の知識が役に立ってくれたとは言え、なんと微妙な……。
「わかったわ。あくまでも仮定として、だけど――相手は在日中国人として話を進めましょう」
「そうなると臭くなるのは……この辺になりますね。木を隠すなら森の中――在日外国人を隠すなら在日外国人の多いとこで、って」
彩美のタブレットを使って地図のとある一地区に丸が付けられる。見るからに開発途上区、自治体の手も入らないスラム――無論、俺には覚えがあった。
井上が殺された時、調査に行ったあのアパート群のところがそうだ。……それに関係があると言ったのは存在Xの影があったからなんだが、色々ときな臭く繋がってきたな?
ただ、まだ夢寐の誘拐と井上の殺害がつながったわけじゃない。それぞれが別のものだというならまた問題ではあるが、知っておかないと悪手を打つことになろう。
素早いフリック操作でスマホのメモ帳に情報を打ち込んでいく彩美を横目に、今度は邦城と話し合う。情報のやり取りではなく、推測を論ずるのだ。
「向こうに“ブレーン”――犯人を操ってる人間がいるんじゃないかと疑っているんですが……どうでしょうか」
「言語の壁があり意志疎通もままならない外国人が人質交渉なんてやらないだろう――ってことですかい。……そいつぁどうでしょう、考え付かないわけでもないでしょうし、アイドルなんてサブカルチャー、街中でだって目につきますから、そこから計画を立てても不思議じゃありません」
「……しかし可能性としてはどうでしょうか。足がついても切り捨てやすい在日外国人を選んで犯罪に及んだという可能性は?」
「となると、要求は足のつく金銭以外の可能性が高いか……とは言え結論付けるにはあまりにも論拠に乏しいでしょうや」
……耳の裏を掻きながら邦城は続ける。
「……それでも、少なくとも相手は複数人いるでしょうね。たとえ夕方での犯行とは言え、夏も近いこの時期じゃまだ明るい。人目を憚りながらとなると迅速に……それこそ幾人かで攫った方がバレにくいですから」
「――犯罪心理学の研究じゃ、仲間が多いほど犯罪行為に走る確率も高くなりがちってされてるらしいわ。単なる性犯罪者ならともかく、大掛かりな人質交渉までしようとしてるんだもの、きっとそうでしょう」
情報を打ち込み終わった彩美が顔を上げる。
「それで――おにーちゃん、向こうからの要求は無かったの?」
「ああ、それなんだが――」
ファーストコンタクト。相手が最初っから要求を投げかけるつもりだったのか否かは分からないが、数回の取り留めもない会話で電話は終わったのだった。
もちろん電話の相手が猫屋敷一家から栗生へと変わったことによる警戒などもあるかもしれない。
あからさまに疑う素振りは無かったが……それは次の連絡で分かることだ。
律義に時間を指定して電話を切られたので、これっきり、ってことは無いと思うが……。
『夢寐の友達』、『同じジュニアアイドルの天宮栗生』――信憑性はある……というか事実だ。アイドルを狙っての犯行なら知ってて当然だろうし。
「……夢寐ちゃんは今日お兄さんの誕生日を祝うために帰り道を変えた。誘拐されたであろう地点は本来の帰り道から結構離れていたし――計画が元からあったとしても、誘拐のタイミングは本当に偶然だったんじゃないかしら」
「なら今は焦りながら要求を考えてる真っ最中……だったりするんですかねぇ?」
「なんにせよ、それなら向こうは多少なりとも動揺しているでしょうね。どうにかしてそこを突ければいいんですが……」
心配なのは栗生のことだ。
言わずもがな他の二人にも分かっているのだろう、いたたまれない空気が一瞬流れる。
「次の連絡はいつと?」
リビングに掛かっていた時計を見ながら答える。まだ余裕はあった。
「なら栗生ちゃんの傍にいてあげて。……こっちは人員を何人か割いて捜索に当たらせるわ。こっちのことは彩美たちがやってるから、ね?」
「……悪いな。どこまでも世話になる」
……その優しさは、あまり嬉しくないものではあるが。
その厚意に甘え、俺は栗生の方へと歩いていく。
緊張した空間に、物音が冷たく響くが、栗生はそれに反応する気力すら無いらしい。
足先に彼女の脚が触れるんじゃないか、というほどに近づいて、やっとこちらを見上げた。
元々この家にあったものか、ペットボトルの水を両手で持っているが、蓋が開いてるにもかかわらず少しも水嵩が減っていない。
……見るからにこわばってるな。
肩にでも触れようものなら驚いて水を落としかねないので、まずペットボトルを取ってふたを閉めてやる。
「ぁ……」
酸素が頭に行き渡ってないかのような、抜けたような顔をしていた。
一種のトランス状態にあるのだろう。何もない空間を掴み続ける栗生の手を両手で握りしめる。水をずっと持っていたから冷たくなっていた。
徐々に栗生の瞳に光が戻ってくるのと同じように、手にも力が込められていく。
やがて縋るように手繰り寄せ、俺に寄りかかるようにしなだれかかった。
「……まだ、頑張れる」
弱音も虚栄の言葉も無い。
そこにあるのは正真正銘、殻の無い天宮栗生そのものである。
触れれば傷つけてしまいそうなほど、彼女はさらけ出している。
「大丈夫、お兄ちゃん……」
……それは、俺だからだろうか? 俺が彼女にとって特別だからだろうか?
覚醒と催眠の狭間に揺蕩う少女は、ただ懇願するように俺を抱きしめた。
彼女にとっては、それまでの行為だったのかもしれないが。
俺はふと、いつかのこの子の姿を重ねてしまう。
――“信じて”。
まるで、子が親に褒めてもらおうとするみたいに。誰かに認めてもらおうとするのを望んでいるみたいに。
さて――はて――
俺にそれが出来ていただろうか。俺にそれが出来るだろうか。今も崩れそうな彼女ではダメではないかと思わないわけではないだろうに。
あるいは――頼れと。そう言うことか。俺は背負っていると?
いや、それこそ間違いかもしれない。『お兄ちゃん』と、そう呼ぶのなら。俺たちで助けてやろうと、そういうわけか。
どこまで気づいているのだろうか? 存在Xが関わっているかもしれない、そしてもしそうなら、お前たちの日常に諸悪の根源を呼び込んだのは他でもない俺で。俺が本来、一人で解決すべき問題だと考えていること。
杞憂か。だが、どこまでもお前は俺の傍にいる。
物理的なものだけじゃない、精神的に、近い場所にいる。
俺は今、お前を支えている。俺がいなくなったら倒れるだろう。
しかし
「……心底、理解が及ばないな、お前たちは」
……ああ、そうか。お前たちは――
だから分からない。復讐に燃えようとしないお前たちが分からない。俺に無い強さを持つお前たちが分からない。
分からないから遠ざけて。分からないから一緒にいてなおも独りであろうとした。
怖いな。ああ、怖いとも。俺はこの子たちに復讐する権利があると言いながらも、それをされるのが怖くてたまらないのだ。
優しくするなと言ったところで、恨みをぶつけられるよりはマシのはずなのだ。
俺はただ――ただ、自分が気持ちよくあればいいというだけのエゴイストだ。
そんな人間が、どうやって誰かを信じよう? 自分だけしか考えてこなかった人間が、どうしていきなり誰かに頼れよう?
「……」
あの日――この子が俺を兄と呼ぶようになった日。
あれから幾日かが経ったが、変われたってことは無かった。
そりゃ、以前までの刺々しさは無くなって、比較的関係は円満になってきてはいるものの、距離はある。
遊んだりもするし、ふざけたりもするし、同じ話題で笑ったりもするけれど、あの日の出来事が棘みたいに刺さったままだ。
変われていない。……俺が。
きっと、あの子にも……夢寐にも、見透かされているんだろうか。ちゃんと話したことは無い。だけれども……あの子の強さを知った日から、何か溝が生まれたような気もしていた。
「どうすれば」
変わらない。残され続けている。前世から。何も。
信じることを知らなかった。裏切られたから。だけど彼女たちには、その芯たる何かがあったのだから。
「どうすれば、俺はお前たちを信じるようになれるんだろうな?」
俺が近づいてみようと、思った。
距離があると。溝があると。それを埋めようとしないのは俺だ。遠くにいるんだ、分かりもしないだろうさ。
少しずつ活気の戻っていく、憎たらしいほど整った顔立ちをこちらに向ける栗生が、笑った。
「頑固者ね。ふつう、そんなことで悩んだりなんてしないわよ……?」
「悪かったよ、ふつうじゃなくて」
「それに、タイミングだって悪いし」
「それは……大事なことなんだ」
「うん」
ほぼ覚醒しきっているにもかかわらず、栗生はこちらに体重を預けたまま。
こちらを見上げた顔に、俺に無い類の輝きを見る。
「……何が引っかかってるの、お兄ちゃんの中で」
「引っかかってる……そういうわけでは、無いんだろうな。ただ知らないんだ。信じることなんて長いことしていなかったし……それに、俺は今、周りが敵だとしてもおかしくないって状況に身を置いてる。ご立派に高説垂れたが、怖いんだよ、結局」
妹が、父親が、同じ組織の人間が、顔見知りの人間が、俺を陥れた犯人かもしれない。
復讐、大いに結構。……されど、その矛先がこの子たちから、俺へと向けられたら。怖くて仕方ない。
「何かあったのね? 過去に……そうなっちゃったような、出来事が」
「……
一度は夢寐による裏切り、それから勘当までの一連の騒動。もう一つは――
……それらの経験が、安易に心をさらけ出すのを良しとしない。もし裏切られたら? そんな疑問が渦巻き続けている。
「……こんな、全然人生経験の浅い私みたいなのが言うのも、なんだけど」
そう前置きして、
「この人は裏切らないから大丈夫――そう信じる人だっている。でもこの世界はきっとそれだけじゃないよね、とも思う。生まれてから死ぬまで、誰かに裏切られるって経験がない人ならそれでいいかもしれない。だってそれって、すごく幸せなことだから」
「……まるで違うみたいな言い方をするんだな」
「私は違う」
……違うのか? 信じるってそういうものではないのか?
「お兄ちゃん、私ね……今、お兄ちゃんになら裏切られてもいいと思っているの」
「……なに?」
「もちろん、夢寐にも――もしそうなったらすっごく悲しいし、嫌だし、怒ったりもするかもしれないけれど……甘い考えだから、言えることなのかもしれないけど……私は、そう思ってる」
…………。
「知らない人に酷いことされたならともかく、あなたたちにされたなら、きっと何か理由があったんじゃないかって考えると思う。そして、どうすればこんなことにならなかったんだろうって思うんじゃないかな」
――“だから、きっとそこには理由があったんじゃないかな、って考える。相手が悪いんじゃなくて、夢寐が悪いんじゃないのかなって考えてみる”。
それは他でもない夢寐の言葉。あの子の場合相手を限定しない狂気的なまでの信念があったが、そこに大小あれど栗生の考えも同じぐらいどうかしているだろう。
やはり痛い。俺が夢寐に出来なかったこと。取り返しのつかない過ちをしてしまった原因。何一つあの子の事を考えられなかった最初の復讐。
「だってやっぱり、酷いことされてもまた一緒にいたいって思うから」
――“信じてるから”。
「友達だもん。――裏切られても大丈夫ってことを、信じてるの。私は」
……………………俺が、友達?
ハッとして栗生の顔を見るが、嘘を吐いたような気配は微塵もしない。
それどころか生気を取り戻した表情は、今まで以上に快活なものに見えた。
…………そして何と言った? 裏切られても大丈夫?
裏切られても、一緒にいたいと思える――それを信じる。それでは、まるで――
「私が信じているのは自分自身。他の誰よりも分かってる人間のことだし、何から何まで一緒の唯一無二の存在」
「…………」
「だからこそ私はあなたに――お兄ちゃんに全部曝け出せるの。だってそうでしょう? あなたに酷いことされたって――ねぇ、お兄ちゃん? 私も、夢寐も、あなたの近くにいたもん」
「あ……」
心の底から――俺と一緒にいたいと、そう思ってくれている?
糾弾し憎悪し、殺されても仕方ないはずのこの俺と――?
……いや、そうか。
怖い。怖いさ。だとしても、それでいいんじゃないか――何よりも信じられるものが俺の中にあるのだから。
「は……」
笑ってしまう。馬鹿馬鹿しい。滑稽だ。
こんな俺が……人並みに誰かを想っているわけだ。
「そうだな……ずっと一緒にいられたら――思わないわけが、ないさ」
それまでにどんな禍根があろうと、俺は。
「…………友達、いなかったからなぁ」
面倒くさく拗れてしまったんだよ。そんな人間が大切に思うんだ、簡単には離さない。
……あーあ、あーあー、なんか顔が見れねぇや。何一丁前に照れてるんだか。情けない所なんざ何回だって見せただろうに。
「……お兄ちゃん?」
いいさ、どうせ新しく貰い受けた生だ。腐った部分なんて切り捨ててしまえばいい。
しかし、そうか――知らなかったな。裏切られてもいいと、そう思えるだけでどれだけ気が楽になるか。
機会を与えてくれた誘拐犯には感謝だな。地獄の果てまで追い回してやる。
「――夢寐を一緒に助けてくれるか、栗生?」
「……っ! うん、約束っ!」
――時計の長針がかちりと動く音がする。
それとほぼ同時に栗生の持つスマホから着信音が流れ出した。俺は彩美たちと顔を見合わせてから、栗生に出るよう指示する。
「ちゃんと頼ってよね、お兄ちゃん」
応答する。
セカンドコンタクトの始まりだった――
電話の相手はファーストコンタクト時と変わらなかった。中国人寄りの訛り方の日本語を話す男の声が片耳から聞こえてくる。
先ほどの応答時は栗生に違和感を抱かせないことに必死だったが……今回から本当の交渉になっていくだろう。まず警察に連絡していないかを確認し、本題に入る。
『人質は無事だ。だから、返してほしければこちらの要求に応えろ。応えなければ命の保証は出来ない』
「……はい」
『20:30までに現金三百万を用意しろ。用意が出来たら連絡しろ。時間を過ぎても連絡が無かったら、人質は殺す』
……三百万? たった、それだけか?
確かに現金にすれば大金ではあるが……有名人を捕まえて、その程度で終わるのか?
「……」
……と、いけないな。栗生に指示を出さなければいけないか。
手元にあった紙を使って夢寐の両親に現金300万円をいますぐ用意できるか訊いてみると、何のためらいもなく頷いた。24時間やってる銀行もある。そこは心配いらないだろう。
そちらにはすぐに金を下ろしてくるよう言っておき、栗生には、
(人質の安否が確認したい。出来るだけ夢寐の情報を引き出してくれ)
と筆談で伝える。今のところ夢寐が無事だというのは犯人がそう言っているだけだからだ。
栗生もそれに頷くと、恐る恐る口を開く。
「あの……夢寐は、本当に無事なんですか? 声を聴かせてもらえませんか?」
『……』
「お願いします! 無事なのを確認するだけで、良いんです。お金も用意します、だからどうか!」
『今は……気絶している。声は聞かせられない。だが無事だ』
――どうだ、信用に足るか? 夢寐が無事だと断言できるか?
……無理だろう。確認するようにこちらを見てくる栗生に首を振って答えた。
「…………写真で、良いんです」
『……』
「声が聴けなくとも、写真さえあれば! ……お願いします、友達なんです……! だからどうか、無事なのを確認させてください!」
その叫びに、しばし沈黙する相手。
気絶しているというのが本当なら、写真ぐらいは取れるだろう。
そして何よりも――そこから何か読み取れるものがあるかもしれなかった。
『分かった』
それを知ってか知らずか、答えが返ってくる。
『すぐ後に写真を送る。こちらからの連絡はもうしない。金を用意しろ。人質を助けたいなら』
「あ、ありがとう、ございます……!」
電話は切れる。
ドッと押し寄せる疲れに耐えながらも、栗生は今か今かとスマホを握りしめる。
――通知音。メッセンジャーアプリ、夢寐からだった。
「ぁ……!」
身体を縛られてはいるものの、目立った外傷の無い夢寐の写真――犯人から送られてきたものだ。
ほっとしたように表情を緩める栗生が、その感情を共有したいかのようにこちらを向く。
「……………………お兄、ちゃん?」
「……いや、分かってる。無事だと知れて安心しているが……お手柄だぞ、栗生」
「え、えっ?」
訳も分からず頭を撫でられた栗生が戸惑っていたが今はどうでもいい。
重要なのは写真。そこに写っていた情報であった。邦城と彩美に目配せする。
「奴らの居場所がほぼ確定しました。捜索班はそのままに、他の人間も数人を残して合流させてください」
「どういうこと?」
「これを見てくれ」
二人のもとに駆け寄ると、送られてきた写真を共有して彩美のタブレットに表示させる。
夢寐が気を失っている写真――だが重要なのはそこじゃない。
「ここに犯人の男のものらしき足が写っているな?」
どうやら見下ろして写真を撮ろうとした時に自分の足まで写真に写り込んでしまっていたらしい。
そこに重要性を感じなかったのかそのまま送ってきたみたいだが……狙ってやったのではないのなら相当愚かだ。
「何かしら、これ……親指が変な曲がり方してる……?」
「こいつぁ……外反母趾?」
「はい。ここまで分かりやすく曲がっているので、身体的特徴などではないでしょう」
外反母趾。本来であるならば足にまっ直ぐに伸びる親指が、何らかの影響を受け角度をつけ曲がってしまう病気。
親指の付け根、関節部分が赤く腫れあがっているように見えることから間違いは無いだろう。
それの何が重要なのか。
答えは外反母趾になりやすい
それ以外にもヒールだったり合わない靴を履いていてもそうなるが、おそらくこの場合は――
「――安全靴。工事現場などで足先を保護するために硬い物をつま先芯として被せて作られる靴ですが、普通の靴に比べてつま先が狭くなってしまうので外反母趾にもなりやすい」
「……工事現場」
ぼうっとして、聞いているのか聞いていないのか分からない夢寐の兄へと質問する。
「……教えてくれ、夢寐が攫われた場所の工事……お前は知っていたか?」
「…………いや、知らなかった」
栗生や邦城、彩美にも同じ質問を投げかけるが答えはどれも似通っていた。
そう、知らない。なんせ地盤改良工事だ、新しい建物が出来るわけでもないし、知っている人間と言えば周りに住んでいる人間か――
「もしかして――若旦那、そこの工事会社の作業員が臭いと――?」
「以前のこの街は他に類を見ないほどの開発ブームでした。マンションを建てビルを建て、中央に人を集めましたが――人手が足りなかった。動かそうと思えば動かせたが、如何せん人の労働は高くつく。だから――」
「在日外国人を呼び込んだ……!」
あのアパート群はその時の名残である。安く働かせ、高く儲ける――これが街の選んだ選択だったからだ。
だが金も身寄りもない人間にとっては仕事に就けるまたとない機会だ。だから今もなお安賃金で働かされる在日外国人があそこに集まっていく。
「工事会社をいますぐ調べてください。おそらく社員寮に犯人が潜んでいるはずです」
「……待って、おにーちゃん。そうなると……狙っていたってことになるわよね? でも夢寐ちゃんはたまたまその道を通っただけなのよ?」
「開発ブームは過ぎたとしてしても、まだこの街は人を集めようと躍起だ。いつかは都合の良い場所の工事の仕事が入るだろうし、工事なんてものが無くても奴らは夢寐をさらったかもしれない」
ただ運よく工事があって、それを知っていて、犯行に及んだとするのなら。
それこそ、こちらにとって運が良かった。無論、不幸中の幸いというものではあるが。
「分かった。邦城?」
「もう向こうは動き出してますよ」
胸ポケットからスマホを取り出し、邦城はそれをひらひらと振った。
「……おにーちゃん一人でも良かったんじゃないかしら、もう」
「備えあれば患いなし、って言うだろう? まだ解決したわけじゃない。もう少し、頼らせてもらおう」
彩美が拗ねたように呟く。
苦笑しながらその頭を撫でていると、
「右京……」
夢寐の兄に声を掛けられる。
「夢寐は、あの子は――」
「助けるさ」
最悪の事態なんて想定すらしていない――と思わせるぐらいの笑みを浮かべて言い放つ。
「栗生と彩美と――そして俺と、文化祭一緒に回らないかってね、誘われたから」
「……」
名前を呼ばれた子たちが俺の顔を見る。
「約束は……守らなきゃな」
それに希望を見出したかは分からない。だが俺たちは一歩近づいた。
なら、掴めるはずだ。あの子の手を。そして救えるはずだ、猫屋敷夢寐を。
――時刻は20:05。夢寐の両親が帰宅。現金三百万を用意。
次の連絡で、人質引き渡しまで行きつくだろう。
ここが、正念場だ。