―― あれは!?
陽二は、部屋の外に居る
「セナ、あれ見て」
「あれっ? どうして居るんだろうね。……もしかして、レヴィと遊んだから?」
レヴィアタンから聞いた漆黒の魔物が出現する条件は、セナドゥースに刺激を与える事だ。確かに2人は繋がっているので、その対象はレヴィアタンでも問題はないのだろうが、もし本当に、彼女と“遊んであげただけで”漆黒の魔物が出るのであれば、彼は彼女に対して“チョロい”と言うよりも“不憫”な気持ちに陥ってしまうだろう。
「そんな事で?」
『どこへ行っても腫れ物扱いだった訳だし、陽二と走り回って遊んだ事は、間違いなく初体験になるし相当楽しかったんじゃね?』
無邪気に眠るレヴィアタンは、良い夢を見ているのだろうか。胸が締め付けられるようにチクッとした痛みを覚えた彼は、レヴィアタンの頭を優しく撫でた。
―― また、一緒に遊ぼうね
優しげな目を不安彩るものへと変えた彼は、それを部屋の外へ向けた。
「こっち見てるけど……」
「部屋の中は見えてないから大丈夫!」
これは唯の体験を元に推測した漆黒の魔物の生態であり、前回の戦闘時に検証済みであった。流石は唯である。
その説明をセナドゥースから受けた彼は
「それなら良かったよ。レヴィの話だと、かなり強敵みたいだし……」
そう言いながら、恐る恐る窓から隠れ見た。
手を振ってもユラユラしているだけで、セナドゥースの言う通り彼の存在に全く気付かない。これなら放置しても問題ないだろう。
―― 唯さんを呼ばなきゃな
彼は、ホッと安堵のため息をついた。
「縦笛マスター戦ってみたら?」
他人任せの意識が伝わったのだろう、セナドゥースの無茶ぶり発言が彼に
しかしこれは、縦笛マスターを撤回させるチャンスでもある。
驚愕の表情を力強いものに変えようとした彼だったが
―― いや、無理だって
一念発起ならず。諦めの早いところが彼のダメな点だが、さすがに相手が悪い。
『あーしが、サポートすれば倒せるっしょ!』
「いや、それでもちょっとねぇ」
『戦闘サポートは、あーしの得意分野だし。ちょっと陽二、アイツをカメラで撮ってみ』
困惑を抱く彼は『いーからいーから』と言うあーしさんの指示通りに、スマホのカメラ機能で撮影。
『おっ、なかなか強いじゃん。ランクはEの76、なら変身すれば余裕っしょ』
当然あーしさんは、彼が変身できる事も知っているので、それを加味しつつ太鼓判を押した。
ちなみにランクはHからで、新人/練習ダンジョンの1階に出現するノーマルのスライムがHの5。
単純に数字が大きくなればランクが上がる仕組みなので、ランクHのゴブリンが居たり、ランクGやFのゴブリンが居ても不思議ではない。
そしてこれは、種族が同じでも個体差があるという事であり、見慣れた魔物だからといって、油断は禁物だ。
ところがこれは、結界路の外やダンジョン下層部での常識であって、冒険者や国民のほとんどが知らない事実になる。
ダンジョンの上層部に出現する魔物の強さは、種族ごとに強さが安定しているため、そっちが一般常識なのだ。
話を戻すと、あーしさんの言葉には、まだまだ信憑性も実績もないわけで、彼には不安しかない
「変身は、もしもの時だけで止められてる」
と逃げの一手。
「ところで76ってなに? もしかして戦闘力とか?」
彼の脳裏にあったのは、国民的漫画に登場するスカウターである。彼も大好きなので、その手の話に食いつかない訳がない。
『大まかな値だけど、そんな感じ。でも、本当に強い奴は隠蔽も騙すのも上手っしょ。なんで頼りっきりはダメだけど、まっあの魔物は大丈夫』
なるほどね。とあーしさんの能力に感心するものの、聞きたくなってしまうのが当たり前だ。
「ちなみにだけど、俺の強さってどれくらい?」
自分の強さが数字で示される。これにわくわくしない漫画のファンはいないだろう。
―― もしかしたら隠された強さがあるかも?
と期待が膨らむのも自然な流れだ。
『12。変身すれば80くらい』
「12っ!? 俺ってクソ弱いじゃん」
現実はこんなものだろう。隠された強さを持っていたとしたら、とっくの昔に開花して活躍中だ。とは言え12は決して低い数字ではなく、中堅の冒険者や王国兵士と同じくらいだ。
数字で可視できる……時として残酷と思う事もあるが、現状を正確に知れるアドバンテージは、ある意味大きい。
『心配すんなし。変身禁止でも魔砲だっけ? あれを20発くらいぶち込めばいけるし!』
あーしさんは、彼の変身できないと言う逃げ道を、真っ向からぶち壊すプランを出した。
「ちょっ無理を言うなよ。俺はまだ、魔砲を1発準備するのに1分はかかるのに、20発とか……」
「マスターここで
「その手間は、魔砲に使うべきだと思うんだけど……」
『その通りっしょ。陽二の魔法も物理攻撃も弱すぎてアイツには意味なし。現段階で通用するのは魔技だけだし』
「魔技って、物理攻撃じゃないの?」
彼が疑問に思うのも当然だ。直接殴ったりするわけだし。
『それが違うっしょ。物理に見えて物理じゃなく魔法かと思えば魔法でもない、それが『魔王勇闘技』って聞いたし』
「誰に!?」
彼の疑問は当然だろう。
あーしさんは、ついさっき誕生したのも同然なのだ。魔技に詳しい人物は限られており、当然ながら接触する機会などなかったのだから。
『取りあえず戦ってみればいいし』
しかしあーしさんはマイクの調子が悪いのか、彼の言葉をスルーすると話を戦闘に逸らした。
「だから無茶を言うなって」
『大丈夫。あーしがフォローするし……たぶん』
「たぶんかよ!」
△△
なんやかんやで結局戦う事になり、あーしさんが作戦を練って、彼でも倒せる方法を発表した。
まずは
次に両足へ
最後に、魔技9級で新たに取得した
強化系は重ねがけが有効で、即効性が高く効果も期待できる反面、身体に大きな負荷がかかり得られる経験値も減少するデメリットがある。
しかしながら漆黒の魔物は強敵である。経験値を気にしている場合ではない。
作戦は実にシンプル。
漆黒の魔物が認識できない室内で魔砲を準備して、あーしさんの号令で突進からの魔砲ぶちかまし。そして室内へ素早く逃げる。
この繰り返し、つまりヒット&エスケープである。
あーしさんの
魔砲を受けた漆黒の魔物は、毎回吹っ飛ばされると元の位置に戻る行動を繰り返したのち、周囲をきょろきょろと見回していた。唯の検証通り、本当に室内が見えていなかったのだ。
―― 半信半疑だったけど、これなら倒せるっ!
強化を解除した後の反動は怖いが、一方的に攻撃できる状況を作り出す『ぶっ飛ばす威力』と『退避する速さ』は必須条件。
―― くっくっく。これはまさに
ちょっと調子にのり始めた彼は、そんな事を考えていた。すると16回目の待機中のこと、あーしさんが指示する事なく黙り込んだ。
「どうしたん? あとちょっとで倒せるんだろう」
『……アイツ、弱くなってね? もっかいカメラで撮ってみ』
カシャ
『20に落ちてるし。ダメージを受けたら弱くなる……?』
「そりゃあ弱ってきたら減るんじゃないか?」
そんな2人の会話を、同じ事の繰り返しで飽きていたセナドゥースは、口を挟まず静かに見守っていた。
すると
『陽二は今……17。よし。こっからガチでいくし!』
「おおっ! マスターがんばって!」
変化の兆しを感じとった彼女は、声援を送る。彼の頑張りを目にして、
「まじで? このまま倒せばいいだろう」
『あーしが面白くないし。指示を出すから、その通りにやれば大丈夫だし!』
―― 何が面白くないだよ……せっかく調子よく進んでいるのに
とは言えあーしさんはやる気まんまんで、撤回はない。駄々をこねても無駄だと割りきった彼は、頭の中で計算を始めた。
―― 最初の76をHPと仮定すると、残りが20だから……15発で56ダメージ与えて。割ると、魔砲1発のダメージは3.7か。そんで残りHPを3.7で割ったら……あと6発ぶち込めば倒せるのか、ちょっと多いけど……
「よし、やってやろうじゃないか!」
『当然だし!』
△△
最初の1発だけ撃てる準備をした彼は、素早さを殺してしまう可能性を考慮して、スマホを内側にセットしたヘルメットだけを装備して外へ出た。
すると彼に気付いた漆黒の魔物は、お前が
「しゃっ!」
『右ななめ前2歩、左足を前に踏み込んで、そのまま逆突きで魔砲』
気合いを入れ自然体に身構えた陽二の耳に、あーしさんの指示が飛ぶ。
―― なるほど。
あーしさんの指示の出し方を理解した彼は、指示通り魔技のステップで正確に動き出した。すると動く前の場所に、漆黒の魔物の攻撃が襲いかかり空を切った。
彼の行動は続いていた。
続けて前に踏み込み魔砲を撃つと、
「どっせーい!」
腰の入った力強い魔砲が、完璧なタイミングで
――!?
思いもよらない攻撃を受けた漆黒の魔物は、くの字に折れ曲がりながら軽く吹っ飛ばされた。
「すげー。めっちゃきれいに入った!」
『あたりまえだしクラッカーだし。次の準備!』
漆黒の魔物は途中で踏ん張って勢いをころすと、カクカクした動きで戻って来た。
『クリティカルっしょ! 風前の灯火!』
会心の一撃だったのか、人で例えると足に来てる状態だろう。明らかに動きが遅くなった。
それを見た彼は軽くぴょんぴょんとジャンプしたあと、自然体に構え魔砲の準備を始めた。
『顔、右横、左上、顔、顔、顔』
彼の前まで戻ってきた漆黒の魔物は、肉弾戦が得意なのか黒い拳をブンブンと振り回す。蹴りによる攻撃は皆無のようだ。なので両腕に注視し、あーしさんの指示に耳を傾けている彼は、簡単に攻撃を避けていた。
『やるじゃん陽二。それなら次の課題だし、一旦魔砲は解除して、こんどは両手に魔砲を作ってみ』
―― 両手?
一旦魔砲を解除。こんどは両手同時に魔力を集める気持ちで魔砲を作る。彼は
―― なるほど
と、漆黒の魔物の攻撃を避けながらコツを理解した。両手をひとつの腕だと考えると、意外にも容易かったのだ。また、漆黒の魔物の攻撃に集中していたので、その合間合間で両手に魔砲を作ろうとする動作はほぼ無意識。雑念が混ざる余地がなかったのも、コツを掴むのに一役買っていた。
―― 面白い。不謹慎だけど、これはいい練習になる!
この時の彼は所謂、
△△
ロウソクの火が消える前の最後っ屁なのか、漆黒の魔物の攻撃速度が最高潮に達してきた。
『全部受け流せしー!』
「やったるぜ!」
魔砲の準備を終えた両腕は、撃たずに保つことで防御にも使える。それはつまり、受け流す力にもなるのだ。
上げ受け、うち受け、外受け、下段払い、手刀、前腕などなど。彼は、自身が知る方法で受け流す。既にあーしさんからの指示はなく、彼が、彼ひとりの力で、見て・感じて・受けていた。
ランスロットとの朝練、並びに夜練で身に付いたものが、この場で発揮されていた。
「見える。見えるぜおやじー!」
たまに軽口を覗かせるものの、それは油断ではなく心の余裕だ。心の余裕は視界の広さを生み、その証拠に攻撃をさばく動作に一切の乱れがない。
だがしかし、それも紙一重であり、一歩間違えばガラガラと崩れ落ちる要因になる。
『調子にのんなし。次は流したと同時に攻撃。でも当てんなし、軽く触れるだけだし。身体をもっと使って体重もしっかり移動して ―― 止まんな! 常に動いて中心を意識しろし!』
「お、おすっ!」
あーしさんのスイッチが入って、鬼教官が爆誕した。だが、まだ甘い方である。アスモデウスの方が口は優しいのに、うるさくて厳しいのだ。彼も気づいているだろう。桜やランスロットが、なぜアスモデウスを恐れるのか……
と、そんな事は置いといて。
あーしさんは彼に、受け流しながら同時に攻撃しろと言った。
それはつまり、防御に徹するのではなく、間合いを詰めながら攻撃をかわし、または流すのを同時に行い攻撃する事を意味していた。
攻防一体。
理想的な言葉だが、簡単にできる事ではない。
1歩を、踏み出す勇気が必要であり、当然ながら、危険度から何もかもが跳ね上がる。
もっと理想的に言えば、相手が攻撃するその瞬間こそが、最も弱く、虚をつける瞬間となるのだろうが、1歩程度で届くはずもないので、今の彼には無縁だ。
それ以前に、1歩踏み出すだけでも今の彼には、ハイリスク・ハイリターン。決まれば、必然的にカウンターっぽくなり、数倍ものダメージを与える事ができるだろう。
だが、その逆もしかり。
彼は慎重にタイミングをはかるが、
チート染みたセンスを持つ化け物も世の中には居るだろうが、達人に近づく道は、経験しかない。
幾度の経験をへて、その瞬間を感じ取り体が勝手に反応するまで。
―― ここだっ!
彼は攻撃を、踏み込みながら左
ドンッ
漆黒の魔物が霧散していく……最後の衝撃は、彼の拳に痛みとは違う何かを返してくるものだった。
「ありがとうございましたっ!」
彼の口は、無意識に動いていた。敵に対してお礼を言ってしまった。いや、言わなければ、伝えなければならないと感じてしまったのだ。
『なんで、倒すし!!』
△△
室内に戻った彼は、全ての強化技を解除すると、
―― 痛っ!!
技を解除した彼に訪れたのは反動。特に、両手両足への反動が酷かった。彼は産まれたばかりの子鹿の様に、プルプルと震える足で立とうとして転倒を繰り返すと、とうとう諦めて寝転んでしまった。
その姿にセナドゥースがひと言!
「さすがマスターやったね!」
「ご期待に添えたみたいだね」
彼は大の字に寝転んだまま呟くと、自己回復を高める
《つっかべは、つっかべで治せ!》
彼は若い頃、友だちに言われた筋肉痛を治す方法を思い返していた。その意味は“筋肉痛の原因となった行動で筋肉痛は治せる”そんな意味だ。
医学的根拠は全くなく、お婆ちゃんの知恵袋的なものであるが、若い頃に得た“経験”の一部は、何年経っても色褪せる事なく脳裏の片隅に佇み、不意に顔を覗かせるものだ。
とは言え、いま同じ事をやれるか? と問われれば100%無理だと彼は考えているし、出来てもやりたくない今日この頃の気分の彼は、懐かしいなぁと思いつつ超回復に期待しながらマッサージを続けた。
ちなみに回復魔法でも治せない事はないが、回復魔法も万能ではなく、この国での治療は『薬』の方が頭2つ分くらいリードしてるのが現状で、アスモデウスのような回復魔法を使える人材は少なく、それと同時に属性の関係もあってか、後塵を拝する結果となっているのだ。
しかし今回の彼の場合は、自己回復に任せた方が、体作りを含め本人のためになるだろう。
話は変わるが、彼は
―― 豊くん教えてくんないかねぇ
と考えたりもするが、彼もただ指を咥えて待っているだけではなく、火と水の同時ヒールの改良版。4属性ヒールを開発中なのを付け加えておく。
体のケアを終え、痛みがある程度治まった彼は、そのまま寝ることにした。初めて『全体強化』と『部分強化』を使ったので、少しだけ体に不安があったのだ。それに箪笥の中なら外の時間の3倍過ごせるので、お得。回復にはもってこいだ。
『陽二よくやったし、眠れ、永遠に』
あーしさんから労いの言葉を賜った彼は「2度と起きるなってか?」をモゴモゴ呟きながら、マッサージで生まれた睡魔に身を任せた。
△△
「おきる、陽二」
彼は、息苦しさと重みを感じて目を覚ました。
「あさ、目覚め、開ける、め」
「ふがふが」
目を開くと、彼の上にレヴィアタンが居た。かわいい小さな手で彼の口を押さえるのと、鼻の穴の探索に大忙しだ。
なんておちゃめな魔王だろうか。
彼女にやられている彼も、当然の如く悪い気になっておらず、むしろご褒美だとお祭り気分待ったなしだ。
「おはよう。起こしてくれて、ありがとうね」
レヴィアタンの頭を
―― 帰ってナーナと寝るか
それを2人に告げようとして、思い出した。
「レヴィって、おなか空かないの?」
「草いっぱい、おなかも、すぐ生える」
―― 本当に草を食べてるのかよ……
『一括管理』を操作した彼は、新人/練習用ダンジョンでドロップしたオーブタの肉を、全てレヴィアタンに渡した。
「食べる、いいの?」
当然だ! 心行くまで食べてほしいと切に思った彼は、笑顔で
非常に心が痛かったので
「気付かなくて、ごめんね」
と添えた。
そして、食料を買い込んで持ち込もうと、元世界の母ちゃんに誓った。すると大喜びしたレヴィアタンは、渡したお肉を持ってスキップランランラン、外へ飛び出した。
「まさか生で食べる気?」
「もやす、たべる、焦がれて、ありがと」
―― 何で焼くんだろうか。取りあえず調理する道具と場所も用意しなきゃな
『陽二に言っとく事あるし』
「びっくりしたな、突然驚かすなよ。なに?」
『外では、スマホの機能とあーしたちの事は内緒にしとくし。来たるべき日には伝えるって言ってるし』
「ああ、あとの2人か……」
『直接2人と話せればいいけど、まだ無理みたいだし……まあ聞く事はできるし? それまでは、あーしが橋渡しを務めてやるし』
―― スマホが喋ると不思議に思われるから、話しかける時は人目を気にして行動しろって事か? 桜たちなら大丈夫だと思うけどなぁ
「了解、秘密にしとくよ。セナ、帰るね」
「うん。魔力の残量には注意してよ」
「あいよ」
△△
―― 重い……
箪笥から戻った彼は、のし掛かる重さに気づき目を開いた。
―― なんだこれ?
目の前にあった物体、それはナーナの尻尾。それと、顔じゅうにベタっとしたクモの巣みたいな物が貼り付いていた。
ペリペリ
「なんだこれ?
光源を作り確認すると、うっすらと蛇模様のある両面テープみたいな物が、顔の前に大量にあった。
「起きたか陽二。見てみよ、面白い物が撮れたのぢゃ」
「どうしておまえが部屋にいるんだよ。あっ、そんな事より俺の
確かにここは、彼女所有の屋敷だ。それでも貸し与えている部屋に、無断で入っていいかと言えば、そうではない。それも深夜に、男の部屋へ女の子ひとりでだ。一歩間違えば、ご用からの唯お母さま直々の折檻直通ルートに乗ってしまう。
ところが彼には、唯の折檻を恐れる事と比較対象にすらなり得ない『推しの音声』が頭にあり、つい文句を口にした。
そんな事を言われても、桜からすれば全く意味がわからないのも当然だったが、彼女は今とても興奮していて、彼の文句も親の敵を見るような視線もろとも、無邪気な子どもが見せる高揚した表情で吹き飛ばした。
「バリッとしてぢゃ。メリッときて、ウニウニとペリペリぺリぢゃ!」
そんな表情で嬉しそうに言われれば、頭に血が上った荒くれ冒険者ですら一発で毒気を抜かれてしまうだろう。また、彼女の擬音混じりの説明は、彼の好みだったのも大きい。
スッと、1プレイ後の賢者モード並みの冷静さを取り戻すと、彼は状況の把握に努めた。
―― なるほどね
状況を分析した彼は、ナーナが脱皮をした事にたどり着いた。桜の説明だけでは全く意味が分からないが、状況を理解した上で聴けば、その情景がありありと伝わって来るではないか。
―― お前、やるな!
口には出したくないので、心の中で桜を讃えた彼は、自分の上で脱皮を敢行したであろうナーナを優しく抱き上げると、ベッドに寝かせ直し脱け殻を拾い集めた。
―― 尻尾だけかと思ったら、全身脱皮だよっ!
粘着性も薄れていたので、床の上にきれに広げてみた。
―― これだけ大きければ『
と考える彼の対面では、桜が脱け殻を興味深く観察しており、「おー」とか「ふむふむ」と好奇心旺盛ぶりを発揮していた。
ちょっとかわいいな。と思った彼は立ち上がると、ナーナに目を向けた。
ナーナは、少し大きくなっていた。髪の毛は赤みが強くなって肩口まで伸びており、褐色だった肌は美白に変わっていた。
おっぱいさんも順調のようだ。
ベッドの下に桜から借りたシャツが落ちていたが、自分で脱いで脱皮したのか、桜が脱がしたのかは分からない。
「それ、うんこじゃないから。で、どうしてお前がここに居るんだ?」
どこから取り出したのか、小さい枝で脱け殻をツンツンしていた桜に問いただした。
「ママ……母様と眠っておったのぢゃが、どうしてもしっくりこない場面があったのでな、編集し直そうかと思って抜け出したのぢゃ。その道中ピーンとな、わらわのアンテナに引っかかったのぢゃよ。来てみて正解ぢゃった、面白い映像が撮れたわ!」
親子なので当然だが、桜と唯は同じベッドで眠っているのだ。
―― こいつ……いいアンテナを持ってんな。あと、わざわざ言い直す必要もないから、もうママって呼べよ。みんな知ってるし、誰も気にしないっつーの。
「編集ってゴブリンとの?」
「その前の、魔物軍団VSゼラレッドぢゃ」
「それって、見学してもいいか?」
彼は桜の案内で、編集作業を行う廊下を歩いていた。その手にはナーナの脱け殻があり、部屋に飾るからと頼まれたのだ。
パチッ
明るくなった編集室は10畳程の広さで、部屋の至るところに機材類が置いてあり、中央の机の上にはモニターが2つ設置してあった。その前には大企業の社長が座っていそうなゴージャスな椅子が置いてある。
脱け殻を棚の上に置いた彼はその椅子に座らせられ、膝の上に桜がちょこんと乗って、編集作業がスタートした。
編集作業を見た事がない彼は、興味深くアレコレと質問をしながら作業を見守っていたものの、同じ映像が繰り返される作業が多く、興味も失せてしまった。
―― 見てるだけって、案外つまんねーな。
暇になった彼は丁度いい機会なので、自作を考えていた桜印MP回復薬の素材を尋ねた。
「あれか、あれの作り方は――――」
作業を中断する事なく説明を始めた桜の言葉を、復唱しながらスマホのメモ帳に記録(口頭で伝えれば、あーしさんが記録してくれる)
Aグループ
凍らせた魔茸、1個
ボッキンミミズの環帯を除いた部分、2匹分
アーリーレッドの皮、1個分
サクラノアケビ、丸ごと1個
を調合すると『桜印万能薬』ができる。
Bグループ
サクラノヒカリのもみ殻、200g
ダンジョンナマズの精巣か卵巣、200g
を調合すると、バイ〇グラも真っ青で逃げ出す『桜印精力剤』ができる。
10Lの水にAを溶かすと、赤色の液体になる。
Bを少しずつ投入。激しく反応するので注意。
反応が収束すると透明な液体に変化し、約2Lに減る。
これを小分けすれば、桜印MP回復薬が約10本完成する。
「ありがとう。作ってみるよ」
「素材は、全てこのフロアで取れる物ばかりぢゃ」
「ついでだけど、
桜は振り向くと、笑いながら言った。
「そんな物はない」
―― !?
「作った事あるぞ。
「その完全回復薬と呼ばれる物は、蘇生薬に届かなかった紛い物で、変化薬と呼ばれる物ぢゃ。調合した者を喜ばせ、落胆させる失敗作。なぜか完成品には『完全』と付くが、先のAとたいして効果は変わらん。実はわらわも、数十回以上失敗しておるからのう」
―― 変化薬? そう言えば豊くんも『その薬に固定したのは初めて見た』とか言ってたしな。
「じぁあ俺が作った完全万能薬は、桜印万能薬より効能が高かったのか? 変化薬を知ってそうな豊くんが、報酬として欲しがったし」
「桜印より有能なはずはない、単に珍しかっただけぢゃ。わらわもその変化は初めて耳にしたしのう」
「負け犬のなんとか」
「なんぢゃとー!? まあよい。先程の続きちゃが、実は蘇生薬はな、いくつか残っておる。そんな物はないと言うたのは“失われた調合技術”と言う意味ぢゃ。ぢゃが、調合研究の過程で誕生した薬もある。存命なら四肢をも復活できる『復元薬』ぢゃ」
それから30分後――
桜が作業を終えて振り向くと、彼はぐっすり眠っていた。調合素材も判明したし、飽きたし、桜は温かいし、邪魔はできないし、自分から着いてきた訳だしと、まあもろもろ考えているうちに眠ってしまったのだ。
友達の家に遊びに行って漫画を読みあさり、しまいにはベッドで寝てしまう事がある。何しに来たのか分からないのと、同じである。
「たわけ者め。栗に目あり、サクラベニタケに耳ありぢゃ!」
モニターには、陽二とランスロットが栗拾いをしている場面が映し出されていた。昨日、桜の
場面はコロコロと変わる。
展望台での待ち合わせ、ファミレスでの会話、協会でのタイトルマッチ、パトリシアの鉄壁ディフェンス、などなど
昨日の事だ。
いったん屋敷に戻り、本部へとんぼ返り。とその時、桜のアンテナは何かをキャッチした。
導かれるまま感じるまま、屋敷の裏手の雑木林に、タングリ拾いをしている2人を見かけたのだ。しかし多忙を極めていた彼女は、声をかけずに
当然、盗み見るためではない。そんな悪い子じゃない桜は、面白い事があれば良いなぁ……くらいの軽い気持ちだったのだ。
椅子のリクライニングをゆっくり倒すと、そのまま彼の胸に耳を当てた。前回、恥ずかしい姿を
そのリベンジの意味もあったが
“どうして彼の鼓動を、耳にすると落ち着くのか?”
その正体を、確かめなければならない。と思っていた好奇心旺盛な桜ちゃんであった。
それから10分後―― ベッドに娘が居ない事に気付いた母親が、編集室へ探しに訪れた。
口を大きく開けてイビキを響かせる陽二と、その上ですやすやと天使の様に眠っている娘を発見した。
おもわず口角が上がってしまう。
自分の胸の中でしか見せない幸せそうな寝顔が、安心しきった無防備な姿が、そこにあった。
唯はふと思う。
あの事件がなければ、穏やかな春風の中で父娘がこんな風に眠りにつき、その横で幸せを感じながら2人の寝顔を見守る事ができたのだろう……と
それは唯の夢であり願いであり、幸せだ。
親子3人で過ごした時間は、ほんのわずかだった。
必ず取り戻す。止まっている家族の時間を、再び動かすために。
椅子の隣へ座り込むと、娘の手を握りしめ自分の頬に当てると目をつぶった。