蒼穹の夢を見る。
それは幼き日の記憶。
彼の既視感の源泉となる、一つのありえない過去であった。
『あたし、ゆーふぉりあ。あなたのなまえは?』
その言葉を初めて聞いたのは、本当に幼い頃。三歳か、そこらのこと。
『くおんっていうの? ならくーちゃんだね!』
少女は親とはぐれ、その先で少年と出会った。
幼い二人。少女は少年と遊び、親が探しに来てくれるのを待つために少年の家に一時的に身を寄せる。
いずれ迎えに来る日まで。いつまでも、いつまでも。
『あたし、おおきくなったらくーちゃんとけっこんする!』
その最中に、少女が言葉にした一言。それは童子の口約束で───
悠久のユーフォリア。
そう名乗った少女が、記憶喪失であることは一日も待たずに学園中に知れ渡ることになった。
そして、それと同時に少女の礼儀正しさ、可愛さ。そういった、彼女を構成する諸々の要素によって受け入れられることになるまでにそう時間はかからなかったことは、久遠のクラスメイトで写真部に所属している生徒、阿川美里によって開催された『妹にしたいランキング』という謎のランキングで登場数日でぶっちぎりの一位を取ったことからもわかりやすい。
そんな謎のランキングについて物申したい気持ちは久遠にはあったのだが、それが開催されるよりも先にユーフォリアの存在によって久遠の周囲に変化が起きたために、未だにそれは不可能なままだった。
「なあ、ユーフォリア」
「はい、どうかしたんですかおにーちゃん?」
それとあたしのことはユーフィーって呼んでください。そう言ってぷーっと頬を膨らませているユーフォリアを相手に、多少辟易とした表情で、食事をしながら告げる久遠。用事があるとやってきたユーフォリアだが、その用事をなかなか告げず、にこにこと笑いながら一緒に朝食をとっているので、久遠の方から話をすることにしたのだ。
目覚めてからこのかた、ユーフォリアは初対面のはずの久遠のことを最初からずっとおにーちゃんと呼んでいた。他の面々に対しては名前呼びしかしないのに。そのことについてだった。
「起こしに来てくれるのは嬉しいんだけどさ。もう少し起こし方っていうものを考えてくれないかな?」
「ほえ?」
きょとんと首をかしげるユーフォリア。その可愛らしさには一切のあざとさを感じ取れず、ユーフォリアが「妹にしたい」と言われている理由を久遠は理解する。
けれど、その呼び方。おにーちゃんという呼び方は久遠にしかしないために、妹にしたい面々からすれば様々な形で嫉妬を露わにされている事実が確かにあって、そのせいで最近の久遠はクラスメイトたちに馴染めていない。
なんでお前だけユーフォリアちゃんにおにーちゃんと呼ばれているんだ、ということだった。
実際、先ほど久遠が口にした、ユーフォリアが起こしに来るということも、他のクラスにはないらしく、ユーフォリアが久遠を起こしに来たおこぼれでクラスメイトたちもユーフォリアに起こされて幸せになっている、という程度にしか、久遠以外に対しての恩恵はない。
久遠だけが、ユーフォリアに特別扱いされているのだ。
「いや、お前が俺だけを起こしに来るせいで、他の連中から睨まれてるんだけど……」
「あう……」
ユーフォリアの頭についた翼を模した飾りがしゅんと垂れる。
時折動くその飾りが一体なんなのか。それについては久遠は知らないが、彼女のころころと変わる表情に連動しているので、理解の外にあるものなのだろうと勝手に納得していた。
「おいおい、久永。何ユーフォリアちゃんを悲しませてんだぁ?」
会話をしていたら、気がつけば周囲には人が集まっていた。屈強な人も、中にはいる。それらすべてが、ユーフォリアに特別扱いされていることが気にくわない連中だった。
自称「ユーフォリアちゃんを守り隊」なのだが、結局のところはユーフォリアのことが大好きなロリコン集団でしかないと久遠は認識していた。
実際、そんな奴にユーフォリアちゃんは任せておけねえなぁ、なんて言っていた彼らだが、引き離そうと理解したユーフォリアがムッとした表情で前に出るとうっと言いながら後ろに下がる。
「なんですか、あたしのおにーちゃんに何か文句でもあるんですか」
「い、いやそういうわけじゃ……」
グイグイと迫るユーフォリア。顔の近さに多少赤くなっているその頬を見て、こいつはロリコンなのかと戦慄する久遠。襟元についている校章、そこにはおまけに学年もわかるようになっている。見れば三年。つまりは久遠の先輩である。いくらユーフォリアの容姿が整っているとしても、そこまで顔を赤くするのはロリコンの証拠。悟った瞬間に少し引いた。
「落ち着け、ユーフォリア」
とは言っても、このままグイグイとユーフォリアに何か言わせたら、明日以降、ユーフォリアがいない間に何をされるのかわかったものではない。こいつらは要するに、ユーフォリアに構われている自分に対しての文句を言いたいだけなのだ、と久遠は理解している。
ユーフォリアがかばうようなことをすれば、これ以降何をするのかわかったものではない。もう遅いかもしれないが、一応は止めておく。
「つーん」
「おい、ユーフォリア……?」
なのだが、ユーフォリアはなぜか久遠の言葉に返事をしない。どころか、つーんなどと口にして聞こえてませんと言わんばかりの姿。
この数日、ユーフォリアが懐いてばかりの姿しか見ていなかったために、そして今もユーフォリアは久遠のために怒っていたために、その姿を見て驚愕したのは久遠も、そして「ユーフォリアを守り隊」の面々も同じ。
けれど、その理由について予想がついたのが久遠の方が先だというのはやはり、共に過ごした時間の違いということだろうか。ため息をつきながらもおそらくは正解だと思われる言葉を放つ。
「ユーフィー」
「! えへへ、なんですかー?」
ぴょーんと、名前を呼ばれるとすぐに飛んできたユーフォリアにバフッと勢いよく抱きつかれる。ぴょこぴょこと羽飾りを動かして、まるで忠犬か何かにしか見えないユーフォリア。その笑顔はまるで向日葵のように輝いていて、さすがにユーフォリアちゃんを守り隊の連中もこの笑顔を崩すつもりにはなれなかったらしい。気がつけば消えていた。
えへーえへへーと笑って腰回りに抱きついているユーフォリア。さっきまで何を話していたのかすら忘れてしまったらしい。哀れ、ユーフォリアちゃんを守り隊はその存在をそこまで大きなものとは見られていなかった。
とはいえ、これで「落ち着け」というのも……より正確には「あいつらには突っかかるな」というのもその当人がいなくなっているせいで特に意味がない。
「なんで俺がおにーちゃんなんだ?」
きっと、誰もが気になっていること。数日間あったのにも関わらず、なぜか誰も聞こうとは思わなかった……というよりは誰か一人が「おにーちゃん」であるなら、きっと自分も呼んでもらえると思って誰一人としてそこに言及しなかったその事実に、ついに呼ばれている当人が触れた。
「ふえっ? だっておにーちゃんはおにーちゃんですし」
「いや、別に血が繋がってるわけでもなんでもないだろ……?」
「でも、おにーちゃんがそばにいると安心するんです。だからおにーちゃんはあたしのおにーちゃんです」
理論だった言葉ではない。安心、という言葉の意味はわからない。安心できる理由なんて、この数日間で見つかるような───いいや、初日からおにーちゃん呼ばわりだったためにこの数日で久遠に対して知ったことすら、意味がない。
「おにーちゃんを最初に見たときから、おにーちゃんが優しい人だって心がわかりました」
もしかしたら、どこかで出会ったことがあったかもしれませんね、と笑って頬を擦り付けるユーフォリア。
既視感に苛まれる久遠としても、もしかしたらという思いがないわけではなかったが、本当に出会ったのかもしれないという思いが、そのタイミングでユーフォリアの言葉によって明確な形を持って膨れ上がる。
「少なくとも、俺の記憶にはお前に出会った記憶はないよ」
「そうなんですか……」
しゅんとするユーフォリアの羽。それを見て、さすがにこんな特徴的な相手に出会っていたら忘れることなんてないだろう、と膨らんだ疑念が縮んでいく。
だが、だからこそ、どうしてここまで既視感が強いのかわからない。
ユーフォリアと共にいれば、その疑念も解除されるのだろうか。そのことを望んでいるのかすらわからないまま、久遠は抱きついているユーフォリアのちょうどいいところにある頭を撫でる。
「ふにゃあ……」
「そういえば、ユーフィーは何か用事があるんじゃなかったか?」
「あっ、はい。そうでした!」
そこで告げた言葉に思い出したと言わんばかりのユーフォリア。そういうところが子供っぽいな、と思わないわけではなかったが、ユーフォリアの可愛らしさがはっきりと示されていることには変わりないし、これ以上話を長引かせるのもどうかと思っていた。
久遠たちは今回、調理班でも後片付け班でもないので、他の人に任せることになる。その人たちの時間を縛り付けるわけには行かない。
「今日、デートしてください!」