しかし遅かった。あの商人は死んでいた。縦に薄く、一寸もない厚さにまでスライスされ、囲炉裏を囲むように並べられていた。腹部の厚み、今となっては幅、から彼であることはわかる。
いつもは〝こう〟する側だから、ビジュアルにおののくことはなかったが、別の故にてひどく動揺していた。
早すぎる。相対時間フェムトで行って戻る間に、やつはその移動を察知し、ここまで器用に人を解体してしまった。
「あっ」
あっ、だ。時間でいえばまさにフェムト、点だった。時間に精通する彼女でさえ、感知するので精一杯、点ゆえ長さはゼロ、しかし確かに存在する、点。点の時間だけ、男の気配を感知していた。
何か、何かが、自分の首と重なった。座標を同じくした。点の時間重なった。鋭く冷たい何かが。
点の時間、零時間。零時間重なった。これがもし線になったら、零を超える時間重なったら、為す術なく首は落ちる。
今更死など恐れようか。落ち着け、考えろ、現れる時間が点となる現象……
待て、本当にそれは点なのか?須臾など感知のしようがない。となると……
膝をついてあたりを見回す。薄くなった商人の遺体のほかに異様なところはない。薄い……面?
「なるほど、そういうことね」
時間に関わる能力を得るにあたって、昨夜は時間と空間について、当時知られていた事実や仮説を手当たり次第にかき集めていた。そして知ったのがブレーン宇宙論、宇宙は三次元よりも上の次元を持つ空間を漂っている、という説だ。
低次元の空間と物体が高次元方向から重なるとき、その時間は点となることがある。数直線上の点同士が動き重なるイメージだ。これは線と点、面と線、面と点、立体と……と拡張して考えることができる。
そしてなぜ重なる時間が点、零であるにもかかわらず、それを感知できたのか。これはすぐに答えを出すことができた。
これもあくまで仮説だが、数ある素粒子の中でも万有引力を媒介する重力子が、三よりも上の次元へも行き来できるのではないかと言われる。水の波が面を通るように、高次元からの万有引力が三次元の空間に響くのだ。近づけばより強う力を感じられる。
つまるところ、奴は高次元を移動して、まさに神出鬼没で三次元空間にかかわる。そしてそれは万有引力から感知可能ということだ。
「……、」
わずかな引力の揺れ、存在の証左も漏らさず感じ反応する必要がある。人の引力を分析するなどやったためしがない。
確かに存在した。他のどんな力よりも弱い万有引力の、そのわずかな揺れが。
「っは、はぁ、はぁ、」
高次元方向からの刃が首を刈る直前で大きくのけぞり、姿を現すその点で時間を止めた。
彼女自身ですら、できるなんて思わなかった。やるしかなかった。それは奇跡と呼ぶに足る神業だった。
男は顎が外れんばかりの驚愕の表情で宙に浮いている。ようやくの対面にしかし心動かされることもなく、めいっぱいの憎悪を込めて縄で縛る。
体を検める。何の形ともつかぬ、爆発をそのまま止めて固めたような、拳程度の大きさの何かを見つけた。何でできているのかもわからないし、なぜか咲夜はそれを運ぶことができなかった。これがこのふざけた能力を与えたアーティファクトとみて間違いないだろう。
懐からアーティファクトを出し時間を進める。
「……そうか、負けたのか」
「ばかね。時空の知識量で負けるわけないでしょう」
「あの子を好き放題できたんだ、これから何をされても文句は言うまい……そうだ、四次元からあんたを見てたんだが、あんた、下着のセンスは皆無だな。それと、脳に動脈瘤ができてる。そうカッカすんなよ」
我々が絵画を見るように、高次元からは三次元空間の、文字通りに全容を見ることができる。道行く人々の、骨の髄までまじまじと覗き見られるのだ。
罪人の戯言に耳を貸してやる必要もない。また時を止め、アーティファクトと一緒に館へ連行した。
「お嬢様、とにかく… あいつに近づいてはなりません。我々の能力はすべて把握されています。相手に手札を明かして賭けるなんて自殺行為です」
「…そうね、その喩えで言えば、貴女はジョーカー、いやルールを無視できる手札を持った子を、知っていると思うのだけれど?」
自分が展開した喩えにもかかわらず、咲夜はその返答を理解しかねていた。
「まあいいわ。図書館へ行ってくるから、戻るまでに拷問部屋を一つ片付けておいて頂戴」
「…ねえ、こあ」
まる一日食事もせず本を読み漁るパチュリーにせめてと泥のようなスムージー、通称「悪魔の完全食」を運んだ小悪魔を、彼女は呼び止めた。
「どうされました?あっもしかして魂くれます?」
「ええ、まあそういうことになるわね。契約を結んでほしい奴がいるの」
「なんだあ、私めが愚かしくも、貴方様の魂を欲し奉りますことを、ご存知でしょうに!」
「はいはい、死んだら馬車馬の如く働いてやるわよ。職種は選べるのよね?……じゃなくて。こっち来なさい」
二人で向かったのは、血糊が落とされた大小様々な鉄製の道具、椅子が整然と並べられた地下牢の一つだった。
「おっ!拷問ですね!遊んだら魂までくださるんですか!」
「ええ。死後の魂を支配してほしいの。フランを攫ったあの男よ。ただし、まだ死なせないようにね」
あの男は紅魔館の面子が持つ能力を徹底的に調べ上げていた。妖怪を生け捕りにして売りさばいていたようだから、たとえ彼が人間だといっても、練ったであろう策は無視できない。きっとあのふざけた次元転移の他に何か隠しているに違いない。少なくとも紅い月を砕くほどの驚異を孕んでいる。
しかしそれは、現世に縛られ、三次元の網にへばりついて暮らす者に限った話である。現世の理など異界の者には通じない。というので異界たる西洋地獄の住人として小悪魔にこの件を頼むことにした。
彼女は能力を公にしていない。悪魔であることから推察できることはパチュリーと、図書館に数万ある本のうち数冊にしか載っていない。
いざとなれば肉体を捨てられる。現世に持つそれなど、現世で活動するための依代でしかなく、そこから抜け出したあとは現世のいかなる手段を用いようと、縛り付けることはできない。
そして彼の死後、彼女に魂を従わせてしまえば彼の仇を完全に封じられる、といった魂胆だった。
「それじゃ、契約できたら教えて」
鈍い突起が無数に並んだ椅子に、男は縛り付けられていた。その周りをてくてく歩きながら呟く。
「この写真は?あぁ、すごいことやってんじゃん……ねえ、楽しかった?私も舐めてみたかったなあ、あの子の血」
男の肩にもたれかかる。
「私、貴方に嫉妬してるの。あの愛らしい体を独り占めした貴方に……これが、あの子を仕留めた槍?」
沸き立ったやかんの湯を男の股に注ぎ込む。
「おもちゃって、ただ啼いていればいいんでしょう?」
貴方ならもう勘づいてると思うけれど、私は悪魔。あの紫色の魔女との契約で、あいつに仕えてる。あいつの意向で、あなたはここから生きて出られないし、死んだ後は私が面倒を見てあげなきゃいけないの。……死ぬことはどうにもできないとして、もし死後、強力な力を得られるとしたら……
貴方は選ばなきゃいけない。ここで緩慢な死を迎えて東洋の奈落で罪を贖うか、さっさと死んで私のもとで力を手にするか。
汝一切の望みを捨てよ……まさかその望みを、人間の貴方が拾うことになるなんて、ダンテも知らなかったでしょうね。
……契約成立ね。ひと思いに殺してあげる。
「……フラン?」
部屋に真綿が散乱している。いつもは物を壊したらその都度罰として食事を抜いてきたが、こんな時だから、何も咎められない。平生、罰すると半日はいじけるばかりだったから、このやり方は間違っているのかもしれない。
彼女のうずくまる棺の中は血でベタベタに汚れていた。連れ帰ってからというもの、激しい自傷を止められないでいる。頭蓋を派手に割ったままぴくりとも動かない時さえあった。
妖精たちは怖がって誰も寄り付かない。咲夜は弱音ひとつ吐かず献身的に世話をしてくれてはいるが、当惑しやつれているのは、誰が見ても明らかだった。
フランはしばらく一睡もできないでいた。喚き暴れるばかりで何も語ってはくれない。今は泣き疲れたのか、じっと黙って棺の壁を見つめている。
「ついてきてほしいのだけど……動かないなら担いでいくわよ」
結局担ぐことになった。米の小袋でも運ぶように、右肩に腹を乗せる。
その足取りはひどく重かった。あの男を、フラン自身の手で死なせ、彼の存在を直接否定させることで、未だ引きずる恐怖を消してしまおうという算段だが、彼に会わせることは彼女に多大な負担を強いることになる。
こんな時ほど妙に早く着いてしまうものだ。五体満足、六体不満足ともいえる男の牢に。
「準備はできています。さあこれを」
下ろしたフランに、小悪魔が歌うように話しかけ銀のナイフを手渡そうとする。しかしフランは応えない。
息を殺し、立ったまま動かない彼女の背中を押し、一緒に歩き出した。しかし男に近づくにつれ彼女は重心を後ろに移す。接近の拒否を必死に示しているように感ぜられ、レミリアは心臓を握り潰されるようだった。
「大丈夫。気を確かに持ちなさい」
男の目がフランの歩みを牽制した。傾いた駒がついに倒れるように、腰を抜かしてしまった。
「さあ持って」
ナイフの柄を強引に掴ませたフランの手を外側からレミリアの手が包みリードする。彼女はそれを頑なに拒む。
「やめてお願い、やだ、あ、ああ」
――やめろ。自分こそ本意じゃない。
もはやフランの手とナイフを握ってレミリアが刺さんとすると言った方が適切かもしれない。手を前に進めるほど、焼け石でも食わされるようなフランの表情が、レミリアの胸をずたずたに切り裂いた。
心臓を潰し、胸を裂いてまで強行されるこの〝儀式〟は、しかし突然に終わりを迎えた。
「……お嬢様。いくらなんでもあんまりでしょう」
ナイフは何の前触れもなく姿を消し、引き換えに現れた咲夜が二人をむりやりに引き剥がした。心臓も胸もとうに塵となったフランをひしと抱きしめ、吐き捨てるように投げた言葉だった。
「咲夜。どういうつもり」
「主とて容認できません。実の妹になんて仕打ちを!」
ついにレミリアと目も合わせず、咲夜は人形にするようにフランを抱き込んで牢を出ていった。