気付きは、更なる気付きを呼んだ。まずはそう、藤丸の腕を縛り付けている名状しがたき方の『腕』。これはどこから生えてきた? 自明だ。ベッドの陰から伸びてきているのが今も見える。ではベッドの下を覗き込めば憎きこの腕の持ち主と御対面できるのか? これもわかりきった問題だ。
──そんなわけはない。
何故ならば、何故ならば床に立つはずのベッドの足が、粘膜と吸盤に覆われた、数多の『腕』に飲み込まれている。いや、いいや床だけではない。壁も、天井も、藤丸立香の天地四方を囲う全てが、おぞましき腕の群生地帯と化している。ああいま、救急箱を乗せたテーブルが腕の海に呑まれた。このベッドが飲み込まれるのも時間の問題だろう。いつから己はこんな場所に居た? いつの間に部屋は変貌した? 最初に彼女の服を脱がせたときか? 首筋にキスの痕を付けたとき? それとも破瓜の痛みを与えたときか? 答えを出すことに意味が無いと分かっていても、失敗を探して脳が過去の映像をさかのぼる。そうして、意味が無いなりに得た答えから藤丸は未だ口づけを続けていた少女から反射的に仰け反った。ゴポリと栓を抜くような音を立てて藤丸の喉から引き抜かれたそれは紛れもなく部屋一面を覆うおぞましき『腕』で、
「あは、ははは」
ズルズルと『腕』を飲み込んで少女は笑う、嗤う、嘲笑う。
「今更、怖くなったのね」
いつからと問うならば、この少女をこそ問わねば ならなかったのだ。
黄金の髪はその輝きの一切を失った白に、肌は血の赤が存在しない死人の灰に変わり果てている。そして、何よりもの異常の証がこちらを見返している。瞳だ。左右の二眼ではない。額に開いた鍵穴から、第三の眼がこちらを見ている……!
「でもね、もう逃げるには遅いわ」
そう言って、少女の細腕は藤丸立香を抱き抱えるように捕らえた。仰け反った程度では逃げるには足りないから。藤丸は未だ、少女と繋がったままだから。
「私のナカは気持ちよかったでしょう?」
耳元で、囁くように
「私に喉を犯されるのは、それ以上に嬉しかったでしょう?」
魔女の呪文が紡がれていく。
「罪を犯したものは赦されなくてはいけないわ」
「そして赦されるためには、痛みが無くてはいけないの」
精根を吸い上げられているのを感じていた。全身の皮膚が恐怖で粟立っているのに、ソコだけが未だに血の熱と固さを保って赫然たる有様だ。ズルズルと内部で撫ぜ上げられる度に強いられる何度目かも分からなくなった吐精が意識を混濁とさせる。
「その『痛み』をヒトの社会は『罰』と呼ぶの」
「私達は誰もが罪人だから、誰もが赦されるように」
謳うような言葉は耳だけに心地良く、それでも、朦朧とした頭が危険信号を鳴らし続けるから先を言わせてはならないと手を伸ばそうとして、
「ああ、駄目よ。座長さん」
縛り付けられた手足は当然動くことは無かった。
「私を止められるのは、きっと、もうあなただけだけど──」
まるで、失われた誰かが居たかのように。
「──あなただって私を止められはしないわ」
可能性が指からこぼれ落ちるのを感じた。いや、この魔女の言葉が正しいのなら、こぼれ落ちたのはずっと前の事なのだろう。手遅れだったのだ。己の知り得なかった何かを取りこぼしたせいで、取り返しは付かなくなってしまった。床に落ちた硝子細工は二度と元にはもどらない。世界を、あるいは少女を救うには致命的に一手が足りなかった。
「罰を」
「貴方に罰を」
「幼い少女を犯し、傷つけた罪の対価を」
魔女の指が股に滴る血をすくう。同意の上だった、などとどうして言えようか。少なくとも彼の受けた教育は、その判断を少女にさせること自体を罪としていた。
「判決を下します」
魔女は今や判事であった。
裸身で、幼く、木槌を持たなくとも、その言葉に従わねばならぬと思わせる威厳があった。
「犯したように犯されなさい」
そして同時に被害者であった。故に下されたのは判決という名の報復だった。真っ当な裁判ではない。然り。魔女が行う裁判が、魔女裁判でなくて何だというのか。
ベッドが沈んでゆく。深く、深く、海の底へ向かうメッセージ・イン・ア・ボトルのように。床も、大地も既に形を為してはいなかった。おぞましき『腕』は360度全方向に犇めき、蠢き、しかし決して触れては来ず、まるで仕留めた獲物を前にした野犬の群の様相だ。
「それじゃあ私は次の判決があるから」
そう言って魔女は実にあっさりと立ち上がり、必然的に最後の繋がりもあっさりと断たれて、
「私にはそんなに悪い体験でもなかったから、貴方にとってもそうであることを願っているわ」
『腕』の内のいくつかが頭を垂れるが如く整列して形を為したそれは肉の螺旋階段であった。魔女は、一段一段、二足を用いて、ソラへと昇っていく。光は唯一上に、螺旋階段の伸びる先だけにある。魔女が一段階段を昇る度に、自分が数メートルも落ちていくような錯覚を覚えた。
役目を終えた段が下から順に解けて、藤丸を取り囲む群れの中に混じる。その内のいくつかの先端が横一文字に避けて硬質の白い何かをガチガチと鳴らしているあれは、歯か。つまりは口か。そうだ、確か己は口付けから始めたはずだと思い至ると同時にまさにその口を持つ『腕』が這い寄る。見上げれば最後の光も、魔女も消え失せていた。全ての段が解けて、まるで愛し子に触れるかのように口を持つ『腕』が手の甲を口付ける/食い破る。
そも、藤丸立香の罪とは何であるか。劇と称して祈るために閉じられた敬虔な人々の眼を開いたことか。幼い少女を肉欲のまま犯したことか。
いいや。少なくとも今、糾弾されている罪はそれらとは違うものだ。
ある夜。今ではないある夜。一人の少女が狼に、あるいは動く屍体に、あるいは四本の腕と夥しい牙持つ怪物に追われていた。少女には一歩で七リーグを行くブーツも空飛ぶ魔法の絨毯もなく、痩せこけた手に持つのは精々が見えざるものを見えさせる粉薬程度。逃げながら深い森を走るには、体も、仲間も、何もかもが足りなかった。故に当然の帰結として少女はその肉体も、命も、少女が持っていた何もかもを貪られた。
しかしこれは本来ならば避けられたはずの自体であった。怠慢か、あるいは耽溺か、どちらにせよある個人のある選択が、こんなにも痛ましい死に至らしめた。もっと救われる最期だってあり得たというのに。
即ちその個人こそが藤丸立香。人類最後のマスター。魔女に拐かされた者。窮極に繋がる瞳を得た魔女はその可能性を知ることができ、そして許さなかった。
故に少年は、少女と同じように、身体を引き裂かれ、食い千切られ、その後に僅かに残った肉片が蹂躙されてようやくその罰を終える。
『野犬の群れの様相だ』などとは笑わせるものだ。アレは直截に少女を食い漁った狼のメタファーでしかなかった。魔女にとって何が痛みをもたらすかなど些末事に過ぎない。痛みが与えられる事こそが彼女の目的だ。どれほど大根役者であろうと役をもって舞台に上がれば魔女はそれを良しとする。現に藤丸は自身に行われている捕食が、再現、再演であることに気付いてもいない。まず令呪を奪い、次に詠唱を行えないよう喉を潰された、等と年齢不相応に戦場慣れした頭で考えている。それが意味するのは単に少女がそう食われた、ただそれだけだというのに。
だがその無意味な思考もじきに終わる。身体を食い尽くされてはグールとしての蘇生も叶わず、ただ空虚な死が訪れるのみだろう。ああ、いま。前に伸ばされようとしていた手の無い腕がパタリと落ちた。死だ。後にはおぞましき『腕』たちの咀嚼音だけが暗闇に木霊する。