※この作品はR-18です。

煙羅亭飄々帳   作:すばみずる

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 俗に、忘八と呼ばれる者らがいる。

 仁義やらなんやら、人に備わる八つの徳を忘れちまった外道モノだ。

 慈しむ事を忘れ、敬意を忘れ、腹の中は偽りだらけ。毒まみれの言葉を吐き、道理は無視し、忠義や礼節なんぞ欠片もない。売れるのだったら親兄弟も銭に変えちまう。

 八つの徳を忘れちまっているから忘八、と言えばまぁ、字面の通り。だがここは少し、奴らを理解するためにも、文字をちょいと開いてやろう。

 冠するは忘。心を亡くすと書いて、忘れるとなる。こいつがどういうものか。

 同じようなものっつっても、忙しいってのとはまた違う。確かに仕事でこねくり回され掛け回りゃあ亡くす心もあるかもしれんが、そいつはかかずらってる間だけだ。何かに押し付けられて、心を一時、亡くしちまう。それで

 だが忘れるってのはどういうものだ?

 留めて置いた物事を、呼び起こせなくなる。あるいは、そいつを気にせず思い出させなくすることだ。

 誰かにノされて頭を打ったんでもなけりゃ、そいつは望んでやる事に違いない。呆けやうっかりで心を忘れられるほど、人間おかしく出来ちゃいない。

 つまり、自ら進んで心を亡くしちまった外道。そんな奴らを、忘八と呼ぶ。

 

 さて。

 今回の鍵となるのは、忘八ならぬ「妄八」の旦那。

 何故に心ではなくて、女を亡くしちまったのか。

 今宵語ってしんぜましょう。

 

 

 ◆

 

 

 場所は極東、日の国辺境。お天道様が出ずる国とは今や昔。時は流れて時代は巡り、残るは文明割拠の無法地帯。

 侘び寂の粋は廃れてしまい、今じゃ何処からともなく集った者らが、祖国の風を吹かせに吹かす。

 出来上がったのは歪な街。異なる文化を乱れ咲き、立派な多頭蛇(ひどら)に育っちまった。どいつもこいつも絡まりあって、結び目なんて見えやしない。

 おまけに切ろうが潰そうが、うぞうぞ新たに生え揃う。幾らお上が取り締まろうと、無法無頼は聞く耳持たぬ。

 

 誰が呼んだか『穢土』の地に、その屋敷はあった。

 

「ご主人様。朝食の準備が整いました」

 

 触り心地の良さそうな、ふわふわ毛並みの長いしっぽ。端々に見える羽毛が、その印象を彼女全体に飾り立てる。

 黒い着物にひだの多い前掛けを併せた姿は、女中であると表しながらも、魅力を隠さず引き立てていた。

 屋敷妖精――キキーモラとも呼ばれる種族だ。

 ゆらりゆらりと尾先を揺らしながら、彼女、母浦(もうら)は扉の向こうへ声を掛け続けている。

 

「早く起きないと、冷めてしまいますよ」

 

 コツン、コツンと扉を叩く。その様は急かすようにも見えるが、彼女は焦ってなどいない。形式的な呼び掛けをする事に、心を早らせる意味などないと分かっているからだ。

 つまり、こんな朝の一幕などは日常茶飯事という事。朝食の時間と定めてはいても、ここの家主が併せて起きるなど早々ありはしないと分かってはいる。

 

「では、失礼します」

 

 最初の呼び掛けより、きっかり五分。磨き抜かれた母浦の計りは、懐中時計なんかよりも正確だ。

 無礼にならない、しかし迅速さを兼ね備えた所作を以て、部屋の扉は開かれた。

 

「――」

 

 そこに広がっていたのは、闇であった。

 開け放たれた扉から差し込む光すらも飲み込む闇。まるで暗幕が下ろされたかのように、母浦の視界は黒で塗りたくられていた。

 同時に感じたのは、噎せるほどの香しい匂い。土と葉を焼いたかのようなそれは、屋敷の主が好む刻み煙草のものだ。肌にまとわりつくかのような空気ほどとなると、昨晩からずうっとこうだったのだと理解せざるを得ない。

 

「寝室では程々にと、前に言ったではありませんか」

 

 面食らう事なく母浦は呟き、同時に溜め息を吐いていた。余人が見れば異常の極みだが、この屋敷に置いては常日頃と変わるものではない。

 故にご覧の有り様は見慣れたものだが、常になっていいものでは無いだろう。何度見ても、呆れが先走る。

 それに呼応したかのように、部屋の闇が蠢いた。

 

「起き抜けの一服くらい、いいじゃあないか。厳しいねぇ、母浦は」

 

 同時に拗ねたような声。部屋を覆っていた闇は、母浦の溜め息から逃げるように小さくなっていく。それはさながら、扇がれた煙が如く。

 差し込む日光は食われずに済むようになり、ようやく部屋の様相を成してきた。

 塗り潰されていた豪奢な寝台の上には、尚も闇煙を纏うように煙管を吹かす美女。陽光に煌めく銀糸の様な髪はただ美しい。一糸纏わぬ姿だというのに、妖しさより艶やかさよりも、心を揺さぶる神秘を醸し出していた。

 

「おはようございます、お依(より)様。お目覚めであれば返事くらいはなさって下さい」

「そいつは悪い。少し夢中になってたから、さ」

 

 つつ、と漂う煙に指を這わせるお依。その仕草に煙は渦を巻きながらも、細指へとまとわりつく。

 

「それに、この濃い匂いは起き抜けの一服という程では無いでしょう。身体に毒とは言いませんが、節度を弁えてこそ人の上に立つ者として示しがつくというものです」

 

 努めて真面目に説く母浦だが、説かれているお依はどこ吹く風。煙を伴いながら、指先で己の身体を撫で始めた。

 腹から胸元、その先端へ。双丘を踊り、首筋から耳元にまで。まるで煙に自身の身体を案内するかの如く、白い指がゆっくり、ゆっくりと舐め上げていった。

 その軌跡を記すかのように、黒い煙は一筋の帯となり、お依の身体へまとわりつく。その様子を見て、お依は満足そうに薄らと笑みを溢す。

 指は止まることなく滑り、谷間を抜け、臍をなぞり、下腹部まで至り、そして――

 

「聞いておられますか」

 

 ぶわり、と部屋内に風が吹く。母浦が大きなしっぽを振った為だ。

 いくら不可思議な動きをしても、煙は煙。あえなく風に巻かれて散ってしまう。

 

「あらら。なにさ、母浦。ヒトの楽しみを邪魔するもんじゃないよ」

「まずは朝食をどうぞ。その後であれば、お邪魔はしませんので」

「朝ご飯ねぇ。私はもう『お腹いっぱい』だけど……仕方ないか」

 

 名残惜しそうにお依は腹を撫でるが、納得はした様子。そこら辺に投げてあった着物を手に――

 

「お依様」

 

 ――取ろうとし、母浦の睨みに動きが止まる。その隙を突き、汚れ物共々回収していく母浦。

 

「ちぇっ」

「何が『ちぇっ』ですか。面倒くさがっては駄目ですよ」

「はぁい」

 

 ぶうたれながらも、寝台から降りるお依。その様子を横目で見ながら溜め息を吐く。

 そして中空を舞う煙に対しても、また、溜め息。

 

「そろそろ降りてきては如何ですか、主様」

 

 今度は手の平でぱたぱたと煙を煽る母浦。ゆらりゆらゆら、押し退けられる黒い煙。

 だが、散らない。それどころか、煙はその密度をより高めていく。黒く、黒く、黒々と。

 やがて大きさを増し、膨らみ、影絵のように姿を作り始める。薄ぼんやりとした煙に輪郭が定まらないが、それもすぐに実像を帯び始めた。

 やがて出来上がったのは、一人の男。墨よりも濃い髪を掻く様子は、尋常から外れた現れ方をしたとは到底思えないほど、普通の人間のようだった。

 

「おはようございます、主様」

 

 大きく伸びをする男に、母浦は恭しく礼をする。

 

「おはよう、母浦。手間を掛けてすまない」

「何を仰います。これが私の使命なのですから」

 

 男の申し訳なさそうな声に、微笑みを返す母浦。言葉に偽りは欠片もなく、笑みには慈愛が満ち溢れていた。

 その後ろから、お依がひょこりと顔を出す。

 

「あれ、戻っちまったのかい? もう少し遊ぼうかと思ったのに」

「はいはい、後になさって下さい。主様も、ご準備を」

 

 お依の顔をぼふりとしっぽで覆う母浦。わぷ、と声を上げて顔に手を当てるが、それほど強く当たってはいない。

 

「うう、毛が口に……早見(はやみ)ぃ、母浦が虐めるよう」

 

 しかし、そんな優しい忠告もどこ吹く風のお依。するりと母浦の脇を抜け、男――早見の腕にすがり付く。長い脚を艶かしく、かつ自然に絡ませようとするのは忘れない。

 

「お言葉ですが、お依様。この母浦、毎日の毛漉きは欠かしておりません。万が一にも毛が口に入るなどと言うことは……」

 

 不服とばかりに母浦が弁解するが、直ぐにそれは無駄と気付く。お依がよよ、と泣き崩れるような素振りを見せつつ、肢体の柔らかさと滑らかさを最大限に味わって貰おうとしているのは誰の目にも明らかだったからだ。

 

「依、待て。少し待て。俺の支度をさせてくれ」

 

 母浦に不穏な気配を感じ取った早見は、すぐさまお依を引き剥がそうとする。しかしその抵抗は、暖簾に手を当てるかのように手応えが無い。

 

「なにさ、早見も好きだろう? ほら、こうやって押し付けるのなんて、昨日は堪らない風だったじゃないか」

「お前の身体でそれをやって耐えられる男がいるもんか――ではなく、これ以上、母浦を刺激するなと言ってるんだ。早く離れろって」

「それなら、もっと力を籠めればいいじゃあないか。早見が本気なら、女の細腕くらい、へいちゃらだろう?」

 

 まるで、早見が望んで絡まれているかのような言い草。それが強ち間違っていないのだから恐ろしい。

 勿論、早見にしてみれば、朝から母浦の血圧を上げるのを推奨したい訳ではない。しかしかといって、お依ほどの女が自身にしなだれかかっているという事実に若干の理性が溶けているのも無視出来ない。

 押し返そうとする手を胸元に誘導されてしまえば、その柔肉を味わわなくてはならないというもの。そこにお依の上ずったくぐもり声を聴かされてしまえば、止まる指などありはしない。どこまでも沈んでしまいそうな、しかし瑞々しさからか押し返そうともする肌は、雄としての本能をどこまでも刺激する。

 

「ぅんっ……」

 

 滑る指が、優しい尖りに触れる。それだけで、まるで高価な楽器のようにお依は上質な声で鳴く。生娘のような反応に、思わずその顔を覗き込んでしまう。

 肌はやや上気し、口許は薄く開き、瞳はどこか蕩けたように此方を見返していた。

 この程度の触れ合いは、二人の間で幾度となく繰り返されたもの。そうであったとしても、愛しさが昂らせた感情に偽りは無かった。それはお依にしても、そして早見にしても。

 無防備を晒す唇を奪おうと、早見の顔が迫り――

 

「そこまでになさって下さい」

 

 鈍い快音が、早見の額に響いた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 つつがなく終えた朝食の後。

 縁側で寛ぐ早見に、お依は尚もじゃれついていた。

 

「あらら、腫れてるんじゃあないか、これ。大丈夫かい?」

 

 胡座の上に頭を乗せたお依。今朝の『終止符』の痕跡が気になるのか、早見の額をずっと触れ続けている。

 

「心配するつもりなら、ペタペタ触らないでくれ」

 

 当然のように早見の言葉は無視される。ここでお依を振り払えば余計に構って来るだけと分かっている早見は、黙って受け入れる他無かった。

 

「母浦も少しは加減しなきゃあねぇ」

「そもそも、依がおかしな真似をしなければ良かったじゃないか」

「そこはそれ。愛しの旦那様を可愛がるのも、嫁の勤めって奴じゃあないかい?」

 

 にこり、と笑うお依。柳葉めいた細い目と、繊月よろしく弧を描く口。人を馬鹿にしたようなその顔は、ひたすらに多幸感を沸き上がらせる。

 それこそぬらりひょんという妖の妙であり、お依その人の魅力であるとは、早見も百も承知だ。惚れた弱味である、という事も含めて。

 

「依」

「なにさ、旦那様?」

 

 早見の頬に手を当てたまま、お依は答える。ほんの少し動かす指先も、男を艶やかにくすぐる。

 ――その手練手管と共に、ぬらりひょんが纏う気は尋常のそれではない。まともに中れば理性など紙屑のように吹き飛び、ただ情欲を貪るだけの二人と化してもおかしくはない。

 

「足が痺れる」

 

 しかし、こと彼女の旦那であれば別。その程度の接触でどうにかなってしまっていれば、身が持たないというもの。

 ――今朝がたの出来事が、合意であったということの証左に成り得るのだが。

 兎も角、素知らぬ顔で『甘え』ようとしたお依を、無慈悲にも早見は足から突き落とす。ごつり、と板張りへ頭突く音。

 

「今日はそろそろ客が来るんだ。支度は整えておかないと」

 

 うぐぐ、とお依の呻く声も余所に、すたすたと歩み去る早見。

 その行動が生真面目さから来たものか、はたまた猛る己を静める為かは、誰も知る由も無い。

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