忘八の荻部が茶屋の二階へ上がろうと息巻いた時、お依はと言うと、早見を送り出した時と変わらず呑気に煙管を吹かしていた。
そこから数秒もしない内に、荒々しく二階の障子が開けられる。部屋の中には当然、くつろぐお依の姿がある。
見様によっては――あるいはそうとしか見えないが――遊女のような恰好のお依。だがそれを、荻部が咎める事は無い。
視界には入っている。認識はしている。しかし、それを異常と思えていない。自身が見つけるべきものを定めておきながら、いま目の前にある物と照らし合わせる機能が停止してしまっている。
ゆえに。茶屋としては相応しくない色香を放つ女性も、それが座る布団も、見ているのに見えていない。
「ご苦労様」
お依の声。その耳に入るが、聞こえていない。細目を出来うる限りに見開き、どう因縁を付けようかと血眼になっているというのに、肝心なものからは目を逸らしている。
そのままドタバタと賑やかに押し入れだのなんだのとひっくり返し始めるが、お依が居る場には一切立ち入らない荻部。その様子を、にやにや笑いながら眺めるお依。
姿を晦まさず、ただ認知の中に失認を生み出す。そこに居て当たり前と思わせるのであれば、疑い詮索すらも透過させる。ぬらりひょんとしての一端。何の力を振るうでもなく、ただ其処に居るだけで、お依はこの歪みを生み出す。
天井裏に頭を突っ込んで探し回る荻部の半纏に書かれた、「娚娚娚」の文字。男女の交わりと、
忘八者らの天下である岡場所周辺で、美人の店員のいる茶屋となれば、忘八者が一人や二人、玉出しの為に駆け回るのも不思議じゃあない。
しかし、と。お依はそこはかとなく、妙な予感を感じた。この茶屋に対してのちょっかいは、一体何ゆえ行われているのだろう?
本来の依頼とは関係の無い物事。その上、ああ見えてお蛍は抜け目が無い。いくら探られても腹は痛くないどころかまさぐり返すくらいの気概がある。早見に相談したところで、余計な事に首を突っ込むなと釘を刺されるに決まっている、とお依は考える。
と、なると。
「ちょいと、行ってみるかねえ」
気になるものは仕方がない。
窓を開け放つ音を背後に、悠々と階段を降りていく。そのまま素知らぬ顔で早見の傍を通り抜けようとして、足を止める。
こちらに気付く様子の無い旦那の顔を見て数秒考え、煙管から口を離す。
「ま、お守り、お守り」
灰を落としたばかりの煙管を早見の懐に滑らせ、歩いていく。
残された灰は、そよぐ風に流され消えていった。
◆
千寿岡場所、正門前。
しかし、お天道様が威張り散らす頃には、その内側はおよそ人並みと呼べるだろう騒々しさがある。
女達は巳の刻(午前10時頃)に起き始め、朝食や入浴を済ませる。花屋や庭師などの職人が彩りを作り出し、昼見世の行われる未の刻(午後2時頃)には全てが整えられるようになる。
夜遊びの出来ない侍などを的にした昼の張見世ではあるが、ここ最近の客の入りはよろしくない。女の泣き声がする、という噂は、広まってしまえばどうにもつかないものでもあった。
客が来ないともなれば必然、門番の役も暇となる。
「暇だ」
呟いたところで、返答はない。もう一人でも門番が居ればまだ話相手になるものだが、近頃の人手不足の煽りを受けての孤独だった。
単なる人不足なら、よそからいくらでも持ってこさせる事は可能だ。他の岡場所では、十手をちらつかせている門番もいるのだとか。
しかし、ここ千寿岡場所ではそうもいかない。噂の蔓延とは、それほど深刻な問題でもあった。
何せ、追わせた人がいなくなるのだ。門番ともなると、一番矢面に立たされるもの。誘い出されるとすれば真っ先だろう。誰もなろうとはしなかった。
「……暇だ」
そんな中で新参者の関朗は唯一、門番の役を買って出た。怖れが無い訳では無い。しかし、下っ端に近い自分にお鉢が回ると読んでいたというのもあるし、自分は大丈夫だろうという漠然として根拠のない自信もあった。そしてそれは今日まで門番を続けられた事で尚裏付けられた。
もっとも、泣き声が聞こえてきても、なにか無性に近付きなくなるとか、そういった想いが湧かなかっただけなのだが。はて、本当にあれが恐ろしいものなのか。それすら疑う余裕さえあった。
そうした中、まともにしていた門番らしい業務と言えば、張見世の度に開閉する正門くらい。やる気も湧かず、ぼおっとしてしまうのも無理も無かっただろう。
その女が来るまでは。
白銀の髪。大きく見せた肩。着崩した着物からは豊かな胸とすらりと長い脚を覗かせ、見る者の目を奪う。
遊女どころか、かの遊郭の太夫でさえも届くとは思えない美貌が、関朗の前に居た。
「――」
あまりにも唐突な現れ方に、声すら出ない関朗。夢か幻か、と疑っても、掻き消える様子はどこにもない。
女はというと、関朗ではなく門の向こうに目をやっている。顎に手を当てている様子から、何かに悩んでいるようにも見える。
身体の隅々を無遠慮に見てしまいたい欲望に駆られる関朗だが、辛うじて自身の任を思い出す。即ち、千寿岡場所の門番。相応しくない者に門を閉ざす役目がある。
廓というものは、女を売るという性質から、女の立ち入りには非常に敏感だ。入る女も、出る女も許してはいけない。
一度踏み入れれば、遊女として身をやつす事を意味する。そこから出るとなると厳しく罰せられ、場合によれば適切な処分がされてしまう。
余計な面倒ごとを増やす必要はない。何より――目の前の女性が女として売られる事に、抵抗感があった事は、関朗は否定出来ないだろう。
「それ以上、近寄らないようにしてくれ」
なんとか口に出来た警告は、忘八者としては力の籠らないものだった。
しかし、女に対しては無意味ではなかった。今始めて気付いた、とばかりに関朗の顔をまじまじと見ている。
顔の火照りを感じながらも、門番としての言葉を続ける。
「一度入れば、死ぬまで出れねえ。そうはなりたくねえだろう」
そう言い、門の前に立ち塞がる。女はうんともすんとも言わずに見ているばかりで、話を聞いているのかどうか分かりにくい。
関朗は、これ以上どう言ってみればいいのか迷う。しかし女の方が行動が早い。たった一歩で、その美しい顔を関朗の鼻先まで寄せてしまうのだから。
「驚かせてごめんよ」
近付くな、とか、話聞いてんのか、とか、なんでそんなにいい匂いするんだ、とか、諸々の文句が関朗の喉を詰まらせる。
しかし、呼吸すらも躊躇う距離で見る美人の笑顔を見ている内に、言葉なんて容易く氷解してしまう。
「すこぉし、聞きたい事があるんだけどねぇ。今、暇?」
否と言えるほど、関朗は強くはなかった。