「荻部の兄貴、荻部の兄貴は居ますか」
「いねえよ。荻部はまた玉の唾つけに行ってらあ」
「ああ、
「仕方ねえさ、あそこの娘っ子なら。ってぇ、なんでえ関朗。てめえ、門番役じゃあなかったか」
「それなんですが、少し野暮用がありまして。少しのあいだ代わりに他のを立たせてますので、その連絡をと」
「ほーう。よくまぁ代わりがいたもんだな。まぁ、早めに戻ってやれよ。今じゃあ進んでやる奴なんざ、てめえくらいしかいねえんだからな」
「承知してます。それじゃあ、ちょいと失礼……」
橋の欄干に腰掛ける銀髪の女。本人はぼおっとしているだけなのだろうが、傍から見ればそれだけで絵になる。
見惚れてしまえば一昼夜過ぎてしまう。惜しむ気持ちを殺しながらも、関朗は声を掛ける。
「待たせたな」
目線が向けられる。滲む微笑み。それだけで心が絆されそうになるのを、関朗自身も危うく思っていた。
仮にも忘八。それが、女に騙されたらどれほどの笑い話になるというのか。
「わざわざ報告だなんて、真面目だねぇ。少しくらいバレないんじゃあないかい?」
「そういう問題じゃあない。番をしなきゃあいけない人間が現を抜かしてたらどうなる」
「ふーん……」
意味深気な声を出す女。その視線は関朗から外れていた。
追ってみると、関朗に代わって門番役を任された男がいる。どうやら女に心底見惚れているらしく、出来る限り前で見よう、前で見ようとじりじりふわふわ近寄ってきているのが分かる。
「いいのかい、あれ」
「……」
怒鳴りつけてやろうかと思ったが、役目を変わってもらった手前、中々そういう訳にもいかない。
関朗はせめて場所を変えようと提案し、女はそれに了承する。
橋を渡っていく間、二人は背後からの視線を感じ続けていた。
◆
口の軽い男ではない、とお依は思った。
実際、関朗から語られた事は、大して有益とは思えず、誰が聞いても問題の無い程度のもの。
それは荻部が早見に語られたの同じくらいであるとは、まだ知らない。
お依が白藤の依頼であるというのを明かしても、
「他所の者に頼んでいるとは思わなかった」
と言うだけだった。
これなら、先ほど色香に惑わされた代わりの門番の方が良かったかもしれない。今でも、橋の中ほど手前で何とかお依の姿を見ようとしているが、果たしてその位置は門番と言えるのか。客の入りが悪いのが幸いだろうか。
「どうにも、淡泊な答えだねぇ」
「そうか?」
「そうとも。忘八者ってのは、同族の繋がりは強いと思っていたんだよ。違うかい?」
への字に曲げた口元を掻く関朗。
「俺は新入りだからな」
「いくら揃いの半纏を着てても情は薄いって?」
「そうだな」
「そうかい」
「そうだ」
口は軽くないが、上手くもない。関朗への評価に、やや書き加えるお依。
これ以上は望めないか、と話を切り上げようとしたところで、はたと気付く。
「ん?」
何かが、聞こえる。川のせせらぎにも掻き消えそうなほどのものだが、常なるものではない音が、お依の耳に届いた。
それが女の泣き声と思い当たるまでに、さほど時間はいらなかった。
「思ったよりもお早い時間だこと。この声なんだろう? 泣き声ってのは」
問われる関朗だが、返事は無い。目は虚空を泳ぎ、上の空であると物語っていた。
舌打ちを一つ。お依が間抜けのデコを指先でつつく。
「――あ、あぁ?」
「起きたかい? 泣き声ってのは、これの事だね?」
暫く状況が掴めなかった様子の関朗だが、すぐに頷きで返す。
「なるほどねぇ。こんなか細くても効果抜群とは、中々だ」
「か細い? 俺にははっきりと聞こえるぞ」
「まっ、そうだろうさ。人の耳ってのは、都合が良いように出来てるからねぇ」
男に強く働き掛ける声だ。僅かばかり届けばそれまで、心地の良い音を求めて、耳は無意識の内に研ぎ澄まされてしまう。
「惑わされたくないなら、そこら辺の草でも耳に詰めておきなよ」
「あ、ああ――けど、これくらいの声、今まで大丈夫だったのに――」
ぶつぶつと呟く関朗を無視して、お依は周囲を見る。どこかに声の主が居る筈なのだ。この機会を逃す訳にはいかない。
だが見つかったのは、ふらふらと橋を渡っていく代わりの門番役の男だけ。
「畜生――」
「おやまぁ――」
関朗とお依。両者とも、呆れた声。しかし、次の言葉の色は違った。
「――今行く」
「――都合が良い」
道理の通り、走り出そうとする関朗。
当然の如く、男の様子を見守るお依。
両者、相手の言葉に首を傾げた。
「このまま行けばまた姿を消すかもしれない。止めなければ」
「あのまま歩けば嘆き女の元へ行くかもしれない。好都合だ」
お依の言葉に理が感じられないほど、関朗は愚かではない。
しかし、新入りとはいえ忘八者であり、ましてや拭いきれない信義がある内は、仲間の危険を見逃すことは出来ない。
だが、しかし、だが――思考は短い。 僅かな時間だが、確実に関朗の脚は躊躇した。その様子に、お依は口角を吊り上げる。
「駄目だよぅ、どっちつかずは」
ふぅ、と。まるで煙管の煙を吹きかけるように、関朗の顔へ吐息を掛ける。
頬を撫でる息に、関朗は更に狼狽したようだった。
その様子に満足したのか、お依は歩き始める。
「さて、じゃあ、見物といこうかねぇ――」
覚束ない足取りの門番が、橋を渡り終える。
その後を悠々と歩いていくお依。関朗はただ、それを追い掛ける事しか出来なかった。
「もし、奴の命が危うければ、俺は助ける」
お依への言葉、のつもりなのだろう。しかしそれは、自分自身へ言い含めているようにしか思えないものだった。
それを指摘するほど、お依は無粋ではない。そうかい、とだけ返し、追跡を続ける。
門番は導かれる様に歩く。引力は弱いながらも、確実に女の下へ吸い寄せられているようだった。
「さぁて、鬼娘が出るか、蛇娘が出るか……」
「……嘆き女なんだろう?」
呑気なお依の言葉に、関朗のツッコミが入った。 お依はそれを意図して無視しする。
どんどんと進む一人と二人。岡場所からはどんどんと遠ざかっている。
やがて門番は立ち止まり、川から離れる様に細道へと入っていった。
「おっと、見失ったら事だ」
すぐさま追い掛けられるように同じ路地へと入る二人。
門番との距離はそれほど離されてはいないが、川から離れたせいか、路地ではよりはっきりと女の泣き声が聞こえてきていた。
「うっ……」
呻きのような声を上げる関朗。だがそれは、苦しみから来るものではないとお依はすぐさま理解した。何せ、旦那もよく似た声を漏らすのだから。
お依の視線が、関朗の下腹部へと走る。案の定、関朗の分身が、服の下から主張していた。
くつくつと笑うお依から逃れるように、耳に詰めた草の詰め物に手をやる関朗。お依は少し笑いはするも、それ以上は追及しなかった。追っているものを考えれば、男の身であればそうなるのは当たり前だったからだ。
そして、耳栓などしている筈も無い門番が、より強い影響を受けるのは自明の理で――。
「あっ」
とどちらともなく声を上げた時には、門番は狂ったかのように走り出していた。
すぐさま追い掛けようとする二人だが、慣れない路地と下腹部の熱さに邪魔をされ、あえなく見失ってしまう。
「おい、おい! 見物とか言って、何も出来てないぞ! どうするんだ!」
羞恥と自憤からか、声を荒げる関朗。お依も少しばかり困り顔をするが、すぐに笑顔を戻す。
「ここまで来れば、後は泣き声を辿っていけばいいさ。それっ、どこに進むと興奮するかねぇ?」
「春の馬か、俺は!」
「おっと、いきり立たせた息子をそんな風に自慢するとは、なかなか自信家だ」
弄られるのは愉快ではなかったが、会話しているだけでも関朗の頭は落ち着きを取り戻す。少なくとも泣き声に頭が満たされていなければ、先の門番の様にはならないだろう。
それをお依がを狙ってやったのか、関係なく弄ったのかは、関朗の分かるところではない。
「まぁ、立ってるだけで『眩み』そうっていうなら、無理する事は無い。とりあえず、私は行くからねぇ」
「誰が、この程度で。進むさ、進むに決まってる――」
再び歩き始める二人。だがその背後から、荒々しい足音が聞こえてきた。
「な、んだ?」
振り返った関朗が見たのは、見慣れているものではあったが、見慣れないものだった。
自分と同じ、「娚娚娚」の文字の入った忘八半纏を着た男達。狭い路地を、競うかのように走ってくる。五、六人はいるだろうか。もっとだろうか。新入りとはいえ、関朗が顔を知る者もいる。
見慣れないのは、その形相。含まれた想いは笑いか、喜びか――何と知れない凶貌は、とてもまともとは思えない。
あるいは、門番もそういう顔だったのか。そう思い当たり、関朗の全身が総毛立った。
「さぁて、どうしようか? 私は行くけど、引っ張りはしないよ」
お依の問い掛けは、関朗が寒気に襲われると同時に投げられた。
あの泣き声を聴き続ければそうなるのか。であれば、進めば自分もただでは済むまい。しかしこのまま棒立ちでは、仲間に轢き殺されかねない。
迷う。だが、嘲るような女の声が耳に蘇り、戸惑いを吹き飛ばした。
「――走る!」
再度となった決断は早い。 その言葉に満足したような顔のお依。
追いながらも追われる、奇妙な追跡と逃走が始まった。