━━━━今思えば、俺の周りの人間は狂っていた。
早朝から酒を飲み酔っ払い、家事もせず持病の統合失調症の影響で近所に向かって大声で叫び、そこにいるはずの無い敵と戦っていたアル中の母親。
勿論本人も自分が統合失調症やアルコール依存症だという自覚は無い。
その母親の相手をするのが面倒だという理由で俺と母親を捨て、浮気相手と逃げてしまった父親。
母親が暴れているのを警察に通報せず、可哀想だと思っているのか見て見ぬフリをしていた近所の人間達。
周囲の人間に物理的危害を加えなければ、酒で暴れても警察は動かず、強制的に入院させる事は出来ないと相談にしか乗ってくれなかった、無能な保健所。
今思えば、俺がもっと上手く頭を使い動いていれば、俺の家の家庭環境は改善されていたのかもしれない。
保健所の施設以外にも、もっと色々な施設に相談しに行った方が良かったのかもしれない。
だがその施設で保健所で言った事と同じ事を言うのが面倒臭くなり、いつの日からか母親が酒を飲んで暴れるのは俺の中での当たり前となっていた。
保健所に相談しに行く途中だった時の俺は、母親は入院して病気が完治、父親も浮気もせずに、家族皆揃って同じテーブルの上に乗った飯を食べる。
…そんな一般的な、ごく普通の家庭の日常を思い描いていた。
そもそも普通の家庭とは何だ?
普通の父親とは何だ?普通の母親とは何だ?
…そして中学一年生の時、暫く洗濯をしていなかった服で学校に行った為、周囲から臭いと虐められた日の帰りの出来事だった。
父親が浮気相手と逃げたと知り、いつも以上に酒を飲んで暴れていた母親。
遂には外に出て父親の名前を叫びながら暴れ狂う始末だった。
もう限界だった。
その時家の近くに集まっていた近所の人間達からどう思われようが関係無かった。
これで流石に警察も動くだろうという考えもとっくに消えていた。
"…もう逃げよう。"
兎に角遠くへ。
俺の知り合いに絶対に会う事のないような兎に角遠い場所へ。
家でも外でも自分の落ち着ける場所が無くなっていた俺は、母親の財布からありったけの金を抜き取り、その日初めて最寄り駅から電車に乗って県外に出た。
…暫くして、その電車の終点に到着した。
新宿駅…聞いた事はあっても来た事は一度もなかった。
駅を出た時、最初に感じたのは夜にも関わらず、皆それぞれの目的地へと向かっていた人の多さだった。
自分の中の都会は通勤、通学ラッシュ時の田舎の最寄り駅周辺だったので、それをも圧倒する人の数は異常だった。
俺はただ何も考えずに歩き出した。
家族や知り合いに会わなければ、もう何でも良かった。
…それから段々と夜も更け、駅周辺の灯りも徐々に消えて、大通りを歩いていた人達も徐々に数が減ってきていた。
俺はと言うと、まるで迷宮のような新宿駅を行ったり来たりしていて迷子になっていた。
時刻も既に深夜二十二時を回っていた。
こんな時間に中学一年生が外を出歩いているのはおかしい。
そう感じていたであろう周囲の大人達は、別に俺を助けてくれる訳でも無く、まるで俺を居ない者として扱うように俺の横を通り過ぎて行った。
更に時間が時間という事もあり、酒で酔っ払った変な奴等にも絡まれた。
俺が一番大嫌いな人間の状態である。
一緒にいるだけでも腹が立ってきたので、俺は一目散に人がいない方に走り出した。
…気付くと俺は駅とは違い、周囲がとても明るい場所にいた。
何故その時の俺がそこに来たのかは分からない。
夜道の街頭に虫が集っているのと同じ原理だろうか。
そこが明るい場所であれば、その分だけそこを歩いている人の数が多くなる。
だがその場所を歩いていたのは、先程駅前を歩いていた人達とは全く違う雰囲気の者達だった。
黒や赤のスーツに、サングラス、指輪、高そうな靴…明らかに何奴も此奴も堅気の人間じゃない。
"帰りたい"
もう二度と故郷には帰らないと誓ったはずなのに、あまりの恐怖心の影響でそう思ってしまった。
そう思い走り出した瞬間、俺は誰かにぶつかってその場で尻もちを着いてしまった。
「…痛ってえなァッ!!」
顔を上げるとそこには金髪オールバックにサングラス、真っ黒なスーツを身に付けたドラマでしか見た事が無いようなやくざかチンピラが立っていた。
殺される。
そう思い恐怖のあまり声が出なかった。
逃げたいのに腰が抜けて立つことが出来ない。
「あ…あっ、あ…」
「この餓鬼…どこに目付けて歩いてんだぁッ!!」
そう言うと男は拳を上げ、俺の頭を目掛け振り下ろした。
俺はもうその時点でコップ一杯は小便を漏らしていたと思う。
━━━━━その時だった。
「ッ!?」
「やめなさい」
目を開けると、そこには男の拳を掌で受け止めていた同じく黒いスーツ姿の身長百八十センチメートルぐらいの大女が立っていた。
「こんな子供相手にマジになるんじゃないわよ、大人気ない」
「はい組長!すいやせんしたっ!」
組長と呼ばれたその女は、俺の方を見ると手を差し伸べて来た。
「大丈夫、僕?立てる?」
「は、はい…ありがとうございます」
この女もやくざなのだろうか?
その時の彼女の顔は極道の人間だという事を感じさせない、とても優しい表情をしていた。
だが本当に怖い人間ほど、他人に対して優しくしてくる奴はいない。
その事をもっと早くに気付いて置くべきだった。
だが今の俺の味方はこの女しかいない。
初対面からまだ一分も経過していないというのに、俺はその女を完全に信用し、今の状況を何とかして欲しいと思ってしまった。
…その前に俺は恐怖心で完全に忘れ去られていた股間の湿りの存在に気が付いた。
恐怖心の次に、俺の中では羞恥心が身体の底から込み上げてきた。
「んっ…」
「あらあら、漏らしちゃってるじゃない。ちょっと貴方やりすぎよ」
「へい…すいやせん」
「まぁいいわ、ちょっと君着いてきなさい」
「え?」
知らない人に着いて行ってはいけない。
そんな誰しもが教わる幼い頃からのルール等、今の俺にはどうでもよかった。
着いた先は、まるで一流ホテルのようなマンションの最上階だった。
俺は途中で下っ端が買っていたドン・キホーテの袋に入った新品のパンツに履き替えた後、大きな窓のガラスに顔と手を密着させてその場所から外の光景を眺めた。
二十四階建ての最上階という事もあり、今の状況を忘れさせてくれるような、正しく一万ドルの夜景がそこにはあった。
「わああ…」
「うふふっ、綺麗な眺めでしょう?」
「ほらっ、あれが東京タワーで、あれがスカイツリーよ」
「凄い凄い!」
東京タワーもスカイツリーも写真でしか見た事が無かった。
もし家族皆であそこに行った未来に辿り着けていたら、今よりももっと楽しめたのだろか。
そう思うと再び俺の表情は曇り始める。
「…」
女は俺の表情を伺うと俺にとって一番聞いて欲しかった質問をされた。
「貴方、どうしてこの街に来たの?」
「この街にはね、貴方のような子供はいてはいけない場所なのよ?」
「それに時間帯が時間帯だし」
「終電逃してお家に帰れなくなったとかかしら?」
俺はその瞬間、これまで起こった事全てを話した
両親の事、それに対しての近所や施設の対応等…今まで抑えてきた感情を全てその女にぶつけた。
「…なるほどね」
「貴方、まだ子供なのにそういう施設に誰の力も借りずに一人で相談に行くなんて…頑張ったわね」
「うう…」
全てを話し鼻水まで垂らして号泣していた俺を、彼女は優しく抱き締めてくれた。
すると女は俺に対してこう言った。
「貴方…暫く家の組に住む代わり働いてみない?」
「…え?」
「この家、そしてこの街に住むからには私が直々に貴方を鍛えてあげる」
「もう二度と、さっきみたいな人に絡まれてもおしっこを漏らさずやり返せる程強い人にね?」
「…」
…その質問が俺にとって人生最大の分岐点になる。
まぁあの時に嫌だと答えていた場合も、あの女もタダで返すつもりは無かっただろうが…
もう故郷の家に帰らなくて済むのなら、俺の答えは決まっていた。
「はい…僕を、ここで働かせて下さい…」
こうして俺は、歌舞伎町を制する組の一つである、皇斬江率いる皇組に、十三歳にして極道入りする事になる。
それから四年間、俺は斬江に格闘、射撃、極道のいろは、学校では教えてくれない現代社会をずる賢く生きる術までを叩き込まれた。
その勉強が終わると、俺と斬江は一緒の飯を食い、一緒に風呂に入り、一緒に寝る毎日を送った。
その時は、まるで本当の母親と生活しているような、今まで生きていた中でとても幸せな時間を過ごしていた。
…そんな幸せな日々も、ある日終わりを告げる。
ある日…俺は斬江に呼び出され、いつも授業を受けていたあのマンションの屋上に向かった。
今日もまたいつもみたいな親子ごっこが出来る。
一階から二十四階まで向かうエレベーターの中で、今日は斬江とどんな事をしようか妄想にふけっていた。
斬江の部屋の前に着くと、俺はリズム良くドアを二回ノックした。
「…入りなさい」
「…?」
いつもの斬江じゃない。
怒っているのだろうか、俺のノックに対して低い声で彼女はそう返事をした。
「…失礼します」
「来たわね、大和」
声だけでなく、表情もいつものようなにこやかな物ではなくて、組長専用の机に縦肘をつきながら真顔でこちらを睨んでいた。
やはり斬江は何か怒っているのだろうか。
俺は言葉を慎重に選び、こう問いかけた。
「あの…何か怒っていらっしゃるのですか?」
「怒っていないわ、けれどこれから真剣な話があるの…そこに座って頂戴」
「…?はい…」
これまで見せなかった表情から語られる斬江の話とは、一体どういう内容の物なのか。
俺は彼女の向かいにある椅子に座ると、口から予想もしていなかった事を耳にした。
「…貴方は一人前の極道よ、もう私から教えられる事は何も無いわ」
「…え?」
「貴方はもうこの歌舞伎町で立派に生きていく事が出来るわ」
…ショックだった。
もうあの楽しかった授業が受けられない。
そう悲しんでいる隙を与えず、彼女は更にこう続けた。
「…この四年間、今まで私は貴方に色々な恩を売ってきたわね」
「今度は一人前になった貴方が、私に恩を返す番よ?」
「今まで貴方を育ててきた分…四千億円を返して頂戴」
「…んなっ!?」
四千億円。
当時十七歳からの俺にしたら、四千億という数字はあまりにも荷が重すぎて、途方に暮れるようなレベルの数字だった。
「そんな、そんな大金…」
「あら?組長である私自らが教えてあげる授業なんてタダじゃないに決まってるじゃない」
「勿論払えるわよね?」
「そ、それは…」
「今まで貴方がこの街で生活をして来れたのは、誰のおかげかしら?」
「…」
何も言い返せなかった。
恩というのは受ける事は良い事でも、返さないのは悪い。
そうずっと四年前から斬江に言い聞かされていた為、その事はよく分かっているつもりだった。
だがその時の俺は、恩返しの仕方を金で返す。しかもその額が四千億円という多額に何とも納得がいかなかった。
しかしどうやって斬江に反論をするかどうかが思いつかない。
俺は下を俯いて黙っている事しか出来ずにいた。
「…」
「…恨むんなら自分を恨みなさいね」
「この世ではいと言ってはいけない質問は二つ…」
「赤の他人の連帯保証人になる事と、家みたいなやくざの勧誘よ」
「…ッ!!」
確かに自分のせいだ。
自分があの時、斬江に着いていかなければ…こんな事にはならなかったのだ。
もうあの故郷にいた時のようには逃げられない。
もしこの街を出れたとしても、どこまでもどこまでも斬江が追ってくるような気がしたからだ。
そうやって震えていると、追い打ちをかけるように斬江は俺も耳元でこう囁いた。
「…もしも払わずに逃げたら、その時は容赦しねえからな」
「はい…」
…その時から俺は、感情を捨て、自分の為に生きる事をやめた。