日本の村に眠る淫習を訪ねて、柳沢研究室レポート 今に残る日本の村のエロ風習 ⭐︎各話読み切り 新作はイラスト付き 作:みなぽん
「廃れモノ」についての一考察
――周縁化装置としての村落差別慣行――
「廃れモノ(すたれもの)」とは、特定の村落共同体において共有される非公式なレッテルであり、明文化された掟ではないにもかかわらず、強い拘束力を持って個人を周縁へと追いやる社会的装置である。
本風習の特徴は、固定された身分ではなく、流動的に選ばれる「最も弱い立場の成員」に適用される点にある。高齢者、未亡人、病者、独身女性、帰村者、失職者など、その時々の共同体にとって「異物」あるいは「不安の象徴」と見なされた者が、暗黙の合意によって廃れモノとされる。
史料および口承から推測される起源は、江戸時代中期にまで遡る。
この時代、年貢負担の増加、五人組制度による相互監視、身分固定による閉塞感は、農村社会に慢性的な心理的圧迫をもたらしていた。そのストレスの逃げ場として、共同体内部に「許容された攻撃対象」を設定する行為が発生したと考えられる。
重要なのは、廃れモノが罪人ではないという点である。
むしろ、明確な違反行為を伴わないからこそ、誰もが「次の廃れモノ」になり得るという恐怖が共有され、村落秩序は逆説的に維持される。差別は暴力的であると同時に、秩序維持装置として機能している。
近代以降、法制度の整備と表面的な平等意識の浸透により、「廃れモノ」という呼称そのものは公的空間から姿を消した。と言われるが形を変え、現在もなお生存している。
村人たちは、自らを加害者とは認識しない。
むしろ「心配している」「距離を置いているだけ」「普通であろうとしている」と語る。その無自覚さこそが、廃れモノという制度の最も根深い部分である。
結論として、廃れモノとは特定個人の属性ではなく、共同体が抱える不安と鬱屈が生み出す役割であり、誰かがそこに置かれ続けない限り、村は平穏を保てない構造を持つと言える。
そしてその役割に一度割り当てられた者が、再び「普通」に戻ることは、ほとんど許されない。
廃れモノとは、排除である以前に――忘却を拒む記号なのである。
山に囲まれた上島家は、村はずれの水田に寄り添うように建っていた。
瓦屋根の下では、祖父母と孫、それから――28歳の引きこもりの叔母が、同じ釜の飯を食べている。
上島悦子は、朝になると縁側に座り、何もない田んぼをぼんやり眺めている。
会社で心を壊して戻ってきてから、もう四年。村では「働かない女」「腫れ物」として、遠巻きに扱われていた。村では、彼女のことを「廃れモノ」と呼んだ。
「……また噂、されてた?」
夕方、学校から帰った達也が、長靴を脱ぎながら小さく聞いた。
悦子は少し驚いた顔をしてから、曖昧に笑う。
「まあね。畑に出ないのは怠けだって」
「叔母さん、朝はちゃんと野菜の世話してるのに」
達也は憤るように言う。受験を控えた高校三年生。模試の判定は思わしくなく、将来への不安が胸に溜まっているはずなのに、彼はいつも悦子のことを先に気にした。
悦子は、その優しさが少し怖かった。
自分が寄りかかれば、この子まで村に潰されてしまう気がして。
それでも――。
「達也は、どこか行きたい大学あるの?」
「……東京、かな。でも、俺なんかが行っていいのか分からない」
夕焼けに染まる畦道を、二人並んで歩く。
稲穂が風に揺れ、遠くでカエルが鳴く。
「ねえ、達也」
「うん」
「逃げることは、悪いことじゃないよ」
悦子は自分に言い聞かせるように、そう言った。
村に残った自分と、村から出ようとする彼。立場は違うのに、似た痛みを抱えている。
「叔母さんは、逃げたんだよね」
「……そう」
「でも、生きてる」
悦子はそう言って、照れたように笑った。
その横顔を見て、達也の胸が、きゅっと締めつけられる。
胸が張り裂けそうだった。その衝動は突然、背骨から湧き上がってきた。<div>
「……ッ!」達也は踵を返し、悦子の体を覆うように抱き寄せた。土臭い夕方の風の中で、石鹸と柑橘のような彼女の匂いだけが鮮明だった。柔らかな肩と背中が掌に吸いつき、首筋の脈拍が耳元で響いた。
「達也、」
悦子は一瞬身を固くしたが、抵抗しなかった。ただ長い溜息のように深呼吸し、少年の乱れた制服の襟口に額を預けた。
「誰か来るよ」 震える声でそう言ったが、その腕を振りほどこうとはしない。むしろ両手を達也の腰に回し、確かめるように指先に力を込めた。
数秒間、互いの存在だけが世界の全てになった。
周囲のカエルの合唱も、虫の羽音さえも消え去った。
達也はゆっくりと顔を傾けた。視界いっぱいに広がる叔母の頬は茜色に染まり、睫毛の影が小刻みに揺れていた。鼻先が触れた瞬間、悦子がそっと瞼を閉じるのが見えた。
唇が触れた。
最初は恐る恐る。二度目に深く重ねると、甘く湿った吐息が漏れた。それは初めて知る女性の味であり、同時にどうしようもなく懐かしい味でもあった。
稲穂の海がざわめき、二つの影を一つに溶かした。時間は止まったかのようだった。
しばらくして達也が身体を離すと、悦子はゆっくりと目を開けた。頬には涙が伝っている。だが微笑んでいた。
「……いけないことだね」
「分かってる」
「でも――温かかった」
その言葉に胸を突かれた達也は再び強く抱きしめた。
今度は理性を超えて泣きたくなるほどの切なさが込み上げてきた。この人がいる限り、自分は壊れないだろうと確信できた。たとえそれが不条理だと知りつつも。
これは恋と呼んではいけない。
けれど、名前をつけない想いほど、人を温めることもある。
翌日、村の寄り合いで悦子はまた冷たい視線を浴びるだろう。
達也は受験で何度も心を折られるだろう。
それでも、夕焼けの畦道で名前を呼び合える限り、二人は大丈夫だと――そう、信じたかった。
その噂は、雷鳴のように派手ではなかった。
夕立が来る前の、湿った空気のように――じわじわと、確実に広がった。
「上島んとこの悦子さん、あの廃れ者が、達也くんと二人きりで散歩してるんだって」
「まあ……あの年で?」
「廃れ者は常識が無いわねぇ」
「ここに帰ってくるまでは、東京で男漁りしてたらしいわ」
「高校時代優等生だったのにねぇ」
朝の直売所。
悦子が野菜を並べていると、声はちゃんと聞こえる音量で投げられた。
笑い声。
好奇心と嫌悪が混じった、ぬるい視線。
悦子は何も言わず、トマトの向きを直す。
手が、少し震えている。
「……叔母さん」
学校を帰りの達也が、遠くからそれを見ていた。
胸の奥が、熱く、痛くなる。
その日の夕方、事件は起きた。
直売所の帰り道に悦子は技能実習生の2人組に納屋に連れ込まれたのだ。
手引きしたのは実習生の雇い主の佐伯悠美。
「この子達も、ストレス解消が必要なのよ、廃れモノでもちんぽケースくらいにはなるでしょ」と嘲笑う。
「ヤラセてクダサイ」
雨上がりの泥濘が靴底に粘りついていた。
納屋の古びた壁に背中を押し付けられた悦子の口を、タオルが塞ぐ。
腐った藁の匂いと男たちの汗が混じる。
「おいおい暴れんなよ」
中国語訛りの荒い声。
「悠美さんがスタレモノハセックスオッケーって言うから」
金属ベルトのバックルが軋む。
悦子は必死で抵抗したが力では抗し得ない
扉の陰で佐伯悠美が携帯を弄んでいる。
「ほら早く犯しな、やりたい放題だからねそいつ!」
薄い唇が吊り上がる。
「それにしても廃れモノも…使いようよね」
「日本女のおまんこ!」男が嫌がる悦子を肉槍で突き刺した!
痛みと混乱の中、意識が飛ぶ。
頭蓋の中に白い花火が弾けた。
生理反射としての痙攣――いや、“快”という単語に置き換えてはならない何か。
だが体は反応し、声にならない悲鳴が喉を焼いた。
悦子は思った。この村では私は人間じゃなくて、ただのモノなんだ。
「コイツ濡れてキタヨ」男は獣のように腰を振った。
剥き出しにされた乳房が悲しげに揺れた。
タオルを噛まされた口から声にもならない喘ぎが漏れる。
佐伯悠美は動画を撮りながら嗤った。
「あんた、絶望顔も似合うわね。悔しいの?廃れモノのくせに!これで自殺してくれたら助かるんだけど」
「ナカニダシテイイデスカ?」と問われ「出しちゃいなよ。」悠美は笑う
男の一人が、悦子の首を絞める
「中にダス!」
「ガハァッ……!」
薄れていく意識の中で、膣内に熱いほとばしりを感じる。
次の男は悦子を犬のように這わせて後ろから貫いた!
「アッ……アッ!」
突かれるたびに短い悲鳴が漏れる。
痛みの合間に交じる妙な疼き。
「気持ちイイ?」と悠美。
悦子は涙で霞む瞳で睨むしか出来ない。
「廃れモノのくせに反抗的ね」
男が勃起をしゃぶらせようとした時、外で足音がした。
「……まさか」
男達は慌ててズボンを穿き、外へ飛び出す。入れ替わりに入ってきたのは達也だった。
「叔母さん?!」
そこにいたのは血の気を失い裸でうずくまる悦子。床に白濁液が広がっている。
「どうして……」
達也は震える手で上着を脱ぎかけたが、その前に悦子が弱々しく立ち上がった。
「見ないで……」
声は掠れている。
「助けられなくてごめん」
達也は震えながら言った。
「私こそごめんね、こんなところ見せて」
悦子は微笑んだが、表情筋がうまく動かない。
「帰ろう、ここを早く出よう」
その夜、悦子は達也に風呂場で身体を綺麗にしてもらった。
温かいお湯の中で悦子は初めて声をあげて泣いた。
「もうすぐ冬休みに入るから、その時に一緒にここを出よう」
「でもお金がないよ……」
「俺の貯金で、とりあえず東京に住める。後はバイトしながら大学を目指すよ」
「ダメ、あなたにはちゃんと進学してほしい。私のことはいいから……」
「そんなこと言わないで。俺と一緒にいて欲しい」
「私のせいで人生棒に振るの?」
「好きだから、それだけだよ」
達也の真剣な眼差しに、悦子は黙ってしまった。
それから数日が過ぎた。村では悦子への悪意ある噂が流れた。
彼女たちの実習生を連れ込んでいかがわしいことをしていたと言う。
祖父が声を荒げ、祖母が泣き、父母は黙り込む。
悦子は、その前で立ち尽くしていた。
「俺が…あいつらに…言ってくる」
達也が、拳を握りしめて言った。
「やめなさい!」
悦子の声は、思った以上に鋭かった。
「村の人と争って、得することなんてない!」
「でも……!」
「お願い、達也。あなたまで壊れないで」
その言葉が、達也の中で何かを切った。
「叔母さんは、いつもそうだ」
低い声。
「我慢して、黙って、全部飲み込んで……」
「それが大人だから」
「違う!」
達也は叫んだ。
「俺は、叔母さんみたいになりたくない!」
沈黙。
悦子の心臓が、きしんだ音を立てた。
「……そう」
それだけ言って、悦子は部屋に戻った。
受験まで、あと三週間。
達也は机に向かっていたが、文字は頭に入らない。
スマホには、村の匿名掲示板のスクショ。
『あの子、あの廃れモノの悦子に影響されて進学諦めるらしい』
『親も甘いよね』
――違う。
でも、違うと言い切れなかった。
その夜、停電が起きた。
嵐のせいで、家中が闇に沈む。
縁側で、ろうそくを挟んで向かい合う二人。
「……あの時の言葉、取り消す」
達也が言った。
「叔母さんみたいになりたくない、なんて」
「いいよ。本音でしょ」
「違う。本当は――」
言葉が、詰まる。
「俺、叔母さんがいなくなる方が怖い」
悦子の指が、ろうそくの縁を掴んだ。
「それって恋じゃない」
「分かってる」
「分かってるなら、そんな目で見ないで」
揺れる炎。
影が、二人の距離を誇張する。
「俺は、叔母さんを選ばないと前に進めない気がする」
「社会不適応者の私は、あなたの足枷になる」
沈黙のあと、悦子は立ち上がった。
「達也は、ここを出て」
「叔母さんは?」
「私は……ここに残る、だって私は廃れモノだもん」
そう言った声は、震えていた。
「違う!俺の大事な人だ!」
闇が二人の輪郭をぼやけさせた。炎が映し出した達也の顔は、怒りではなく深い苦悩に満ちていた。
「私は…廃れモノだよ?」悦子の声が揺れる。
「叔母さんのことを恥じたことなんて一度もない」達也の掌がろうそくを挟んで伸び、悦子の手首に触れた。
「俺が怖いのは……叔母さんが傷つくことと、俺自身が無力なことだけだ」
その手は震えていた。強がりではない事実を悟り、悦子の膝が崩れそうになる。
言葉は熱を持ちすぎて火傷しそうだった。悦子は瞼を伏せた。
脳裏に納屋の記憶が蘇る。肌を撫でた埃と欲望の感触。佐伯悠美の愉悦の笑い声。
「私……汚れてる」呟くような声が暗がりに溶けた。「あんな奴らに……」
「関係ない」達也が遮った。「汚れてるのは奴らの方だ。叔母さんは―綺麗だ―」
突然、悦子が立ち上がりかけた達也のシャツを引っぱった。バランスを崩し、達也は彼女を抱える格好で縁側に倒れ込んだ。
「……震えてるよ」達也が耳元で囁いた。確かに悦子の肩は小刻みに震えていた。涙腺が熱くて仕方がない。
達也がそのまま身体を起こすと、悦子の背中と腰を支えながら静かに抱きしめた。服越しに互いの鼓動が伝わる。
「愛してる❤」囁き声が鎖骨をくすぐる。「こうすれば……」
「……バカ」悦子が顎を彼の肩に乗せた。
悦子は深く息を吸い込んだ。
汗と石鹸と少年特有の皮脂の匂い。不思議と安心する。
「ねぇ」悦子が唇を動かさずに言う。「あの時……私、感じたんだ」
「何を?」
「あの奴らの……暴力なのに……身体が」
「言わなくていい」達也が急いで遮った。「嫌な思い出を思い出させたくない」
「そうじゃない」悦子が顔を上げる。ろうそくの薄明かりで涙袋が光る。
「感じたのは“生きている”ってこと。どんな形でも……」
その言葉に達也の瞳が翳った。「変な意味じゃないよな……」
「違う」悦子が首を振る。「恐怖の先にある生の実感。もしまた奪われるなら……せめて自分の意思で好きな人に渡したいって、、達也のことずっと考えていた」
沈黙の幕が降りた。庭の虫が一斉に鳴きやむ。
達也がゆっくりと唇を重ねた。以前よりもずっと強い意志で。舌先が歯列を割り、唾液が混ざる音が闇に響く。悦子は逃げなかった。むしろ腕を達也の首に絡め、髪を握りしめた。
「……いいの?」唇が触れ合いながら問う。
「分からない」正直な答え。
「だけど、怖がらないなら……」
悦子はうなずいた。
布団へ移動する間も手は離れなかった。月明かりが障子を通して青白く畳を照らす。達也が優しく押し倒すと、布擦れの音が大きくなった。
「ゆっくりする」達也が囁く。悦子の寝巻きの紐を解く指が緊張で滑る。
「焦らなくていい」悦子が微笑む。笑みの端に涙が滲んでいた。「ただ……普通に愛してほしい。汚れた記憶を塗り替えられるくらい」
達也は頷いた。指先が素肌を滑るたび、悦子の背中が弓なりに反った。痛みではなく安堵が走る。胸元に落ちた唇の温もりが過去の傷跡を溶かしていく。
「ここは……僕だけのもの」達也が乳首を咥えながら呟く。
「うん……あなただけの……」悦子の声が途切れる。呼吸が浅くなる。
「もっとしていい?」達也が顔を上げて言う。「触ってほしい」
悦子の手が達也の背中を伝い、硬くなったものを捉えた。
躊躇いながらも上下に擦ると、彼の喉仏が上下するのが見えた。
「悦子さん……すごい……」
「達也……私の名前……」
「悦子……」
名前を呼ばれるたび、悦子の中で何かが砕けていく。
達也が入り口を探ると、すでに潤みが溢れていた。
「いい?痛かったら言って」
「来て」
細い一言に導かれ、達也が身体を進める。狭く熱い隘路が徐々に迎え入れる。悦子は脚を絡め、全身で彼を引き寄せた。
「入ってる……全部……」
「分かる……悦子の中……」
緩やかな抽送が始まる。最初はぎこちなさがあったが、すぐにリズムが生まれた。揺れる毎に布団が擦れ合い、息遣いが乱れる。
悦子は達也の首筋に顔を埋めながら叫びそうになる声を殺した。
「すご……っ…もう……!」
「我慢しないで……全部受け止めるから」
その言葉が最後の一線を越えさせた。悦子の内部が収縮し、達也を締め付ける。同時に彼も最奥で果てた。熱い奔流が注がれる感覚に悦子は放心状態で天井を見つめた。月が雲間から覗き、二人の重なった影を壁に浮かび上がらせた。
「終わった……?」悦子が呟く。
「まだ終わってない」達也が汗で濡れた前髪を払う。「これからが本番だ」
その夜、二人は何度も愛し合った。体力を消耗しても、互いの体温だけが確かな灯火だった。納屋での恐怖や村の差別など、全て遠くへ吹き飛ぶ。悦子は久しぶりに心から眠ることができた。夢は見なかった。
翌朝、鳥の声で目覚める。隣には達也の寝顔。昨晩の激しさが嘘のような幼さがあった。悦子はそっと頬に口づけた。
「ありがとう」独り言のように呟き、布団から抜け出す。身体のあちこちに痛みがあるが、心は清々しかった。
台所へ行くと祖父が茶を淹れていた。湯気越しに目が合う。
「おはよう」普段通りに言う。
「……ああ」
祖父の賢吉は新聞から顔を上げずに答えた。しかし紙面は逆さまであった。
悦子は気づかないふりをして卵を取り出した。フライパンの上で油が跳ねる音が心地よい。
そこへ達也が現れ、「おはよう」と微笑む。昨夜のことなど微塵も感じさせない自然さで。
悦子は卵焼きを皿に乗せながら言った。「今日は一日中雨予報だよ」
「じゃあ、勉強教えてくれる?」達也が尋ねる。
「もちろん」悦子が笑う。「ただし朝食の後にね」
日常が戻り始める。しかしその基盤は昨日よりずっと強固になっていた。食卓についた達也は祖父の視線を真正面から受け止め、堂々と味噌汁を啜った。
食器を洗い終えた悦子が庭先に出ると、紫陽花が蕾を膨らませていた。梅雨明けの兆し。彼女は屈んで花弁に触れ、昨夜のことを思い出す。肉体に刻まれた痛みと共に、心の奥に宿った灯火。
朝食後、祖父の賢吉が二人を呼んだ。
居間には湯気立つ茶が三杯。賢吉は黙って湯飲みを掲げる。
「……飲め」
言われるままに啜ると、緑茶の苦みが舌に沁みた。
沈黙が続く。
テレビは点いているのに、全員が音を忘れたように黙している。
やがて賢吉が袂から茶封筒を取り出した。表には悦子・達也名義で預金通帳。
「開けろ」
達也が慎重に破き、ページを開くと桁違いの数字が並んでいた。
「じーちゃん……これ」
「ワシが若い頃から少しずつ貯めたものだ」
賢吉の手が微かに震えている。
「お前たちには……自由になってもらいたい」
賢吉の目尻が濡れている。
「この村は……古い血で窒息するような所だ」
窓の外で雀が鳴く。
「廃れモノ呼ばわりされる悦子も、将来を潰されそうな達也も……ここにいたら腐る」
言葉を切り、唾を飲む音がやけに大きく響いた。
「東京へ行け」
その一言にすべてが詰まっていた。
「でも、じいちゃんたちは?」悦子の声が詰まる。
「ワシらはもう充分生きた」
賢吉は遠くを見るような目で言った。
「この家は古いが柱は太い。朽ちるまで守るつもりだ」
茶碗の底に沈殿した粉が渦を作る。
「ワシは……村を捨てる勇気がなかった」
その告白に、達也の眉が動いた。
「お前たちにはそうならないでほしい」
「父さんと母さんは?」
「賛成した。行かせていいと言っとる」
「でも……」
「行け」
賢吉が背を丸め、肩を震わせた。
「頼む……これ以上傷つかんでくれ……」
沈黙の帳が降りる。
雀の声だけが浮遊している。
やがて悦子が立ち上がり、賢吉の横に跪いた。
「お父さん、lありがとう」
その声に涙が混じる。
「私……きっと幸せになるから」
賢吉は答えず、皺だらけの手で娘の肩を叩いた。
「達也約束してくれるか?」
「うん」
「悦子を幸せにしてくれ」
翌朝、雨上がりの畦道を三人が歩いていた。
悦子と達也の荷物はスーツケース二つ分。
駅までのバス停まで徒歩十分。
「忘れ物はないか?」賢吉が念を押す。
「大丈夫」達也が笑う。
「もし寂しくなったら電話するから」悦子が冗談めかす。
停留所に黄緑色の小型バスが来た。
運転席には見覚えのある壮年の男性。
「よお悦ちゃん、達也くん」
「お久しぶりです」
乗客は二人だけ。
バスが出発すると、賢吉は手を振らずに見送った。
車窓から見える姿が次第に小さくなる。
角を曲がる直前、悦子が小さく手を挙げると賢吉も片手を挙げた。
二人きりの座席。雨粒が窓ガラスを伝い落ちる。
「本当に……よかったの?」達也が小声で訊く。
「うん」
「これからどうしよう」
「まずは住むところ探そう。安いアパートとか」
「大学はどうする?」
「合格できる自信ないよ」
「大丈夫。私が教えるから」
「それじゃ夫婦みたいだな」達也が冗談っぽく笑う。
悦子は答えず窓の外を見た。
「達也」
「うん?」
「もし……辛くなったら戻ってもいいんだよ」
「戻る? どこへ?」
「ここに」
「戻らない」達也は即答した。「悦子さんがいるところが俺の居場所だから」
その言葉に悦子の頬が赤らむ。
バスはトンネルに入り、外の景色が闇に沈む。
暗がりの中で達也がそっと悦子の手を握った。
掌に彼の鼓動が伝わる。
出口の光が近づく。
新しい季節が始まる予感に胸が高鳴った。
窓を開けると潮風が流れ込んできた。
海沿いの高速道路。雨上がりの水平線は銀色に輝いている。
「見て」悦子が指さす。「虹が出てる」
半円の七色は二人の未来を象徴しているように思えた。
不安はある。けれどそれ以上に希望があった。
悦子は密かに誓った。
(もう誰にも踏みにじらせない)
バスは速度を上げた。l
雲間から差す陽光が二人の旅路を祝福するように輝いていた。