レストランは不思議と閑散とはしておらず、だだっ広い空間で一人飯か、と今更になって恐々としていた俺は早速豆鉄砲の餌食となった。外と繋がる部分は解放されて半屋外の造りになったレストランは南国風の素朴な造りだが、配置された家具は一級品だし、巧みに置かれたインテリアでテーブルごとのプライバシーはなかなか侵し難い。
(こういう部分でも高級ホテルだってわかるよなあ)
テーブルには、思い思いにくつろぐ少女たちがカップを傾けたり、談笑したりと様々だ。
「いらっしゃいませ、お一人ですか」
「ええ、まあ。ここにいるのは……」
「彼女たちはパークのフレンズですよ。もちろんもとは動物ですが、中には人の食事を好むフレンズもいまして、混み合う時間帯以外は彼女たちにも開放しているんです」
「フレンズも普通の食事を?」
「ええ。どうやらフレンズになると、動物の際には禁忌だった食事も摂れるようになるらしく。まあもともと食べられなかったものを好んで食べる子はほとんどいませんが。どうぞこちらへ」
僅かに呆然とした俺は、慌てて案内の後をついていく。
右を見ても左を見てもフレンズだらけ。また、心の中に噛み切れない違和感が積みあがる。
「……こうして見ると、まるでヒトみたいですね。服装くらいでしか見分けがつかない」
「え? ははは、服装とは洒落た言い方でいらっしゃる。なるほど、確かに。ですがフレンズはフレンズですからねえ。可愛いですがね」
下手な冗談、と取られたらしい。陽気な雰囲気に押されておすすめらしいタコスライスを注文し、ようやく一息だ。
「はあ……」
自分でもうんざりするくらい重い溜息だった。やっぱり、こうなる。俺はフレンズをヒトのようだと感じるのに、他の人は「フレンズはフレンズ」と認識し、どうあっても崩れない。いくらフレンズたちの格好が奇抜な服装に見えても、彼らにとってはあくまで毛皮だとか、そういうものの一つなのだ。
(いい加減に慣れろって話だけどなあ。なんか、俺だけ違う世界にいるみたいだ……ほんとに俺が異常性癖なのかな)
幾度も浮かんだ疑問だが、どうせ考えても答えは出ない。出したくない。考えを誤魔化すように運ばれてきたタコスを掻き込むと、これがなかなか美味かった。チーズのコクと上質な肉の脂、さっぱりとしたレタスとトマトはシンプルながら高いレベルで調和している。
「いかがですか、こちらのお料理は」
不意に声を掛けられ、振り向くと一人の女性が微笑みを携えながら立っていた。深い青色の髪に、赤を基調としたバスガイドのような服。ホテルまで案内してくれたガイドはガールスカウトのような格好だったが、こちらはいかにもガイド然としている。
「いやあ美味しいですね、さすがです。これだけ美味しいなら十日間食べ飽きることは無さそうですよ」
「ふふ、それなら良かったです。お客様はこの後どちらへ?」
「それが何も考えていなくて。とりあえず部屋でゆっくりするのもいいかと思ってるんですけど」
「でしたら私がパークをご案内しましょうか。近くの水辺地方ではショーやペパプを見ることもできますし、足を延ばすのであればサバンナ、高山もあります。雪山は……少し遠いですから難しいかもしれませんね」
頬に手を当てこちらを見つめる女性は、ハッキリ言って美人だ。年下ではあるのだろうがバスガイドのピッタリした服装と相まって、なかなか侮れない色気を醸し出している。まったく現金な事で、盛り下がっていた俺の気分はあっという間に晴れ晴れとしていた。
しょせん、男なんてこんなものだ。美人と二人で出かけるチャンスがあるのなら、ベッドでゴロゴロしているほうが無駄なことは明白である。手を繋ぐなんて真似はしなくとも立ち上がる勢いは今日一番だ。
「じゃあ水辺までお願いできますか」
「はい、わかりました。ではバスを手配してきますので少々お待ちください」
女性は嬉しそうに微笑み、なぜかフロントのある廊下の方ではなく、外へ向かって歩いていく。
そちらにバスがあるのだろうか――なんて考えは一瞬で打ち砕かれた。唐突に浮かび上がった女性はキラキラと輝く軌跡を残し、どこかへ飛び去った。
おそらく、今日一番呆然としていただろう。ぽかんと開いた口をアライグマらしきフレンズを指をさして笑ってくるのも気にならないほどだ。
「お客さん、タイミングが良かったですね。リョコウバトは責任感が強くて知識もありますから、普段は人気が高くてなかなか案内してもらうのが難しいんですよ。あ、バスは玄関に着きますからそちらでお待ち頂くほうが早いですよ」
店員の羨ましそうな声が遠く聞こえた。
俺はガックリと肩を落とした――とならないのが男のサガで、今更になって(美人だし、いいか)などと他言できない複雑な気持ちをかかえたまま、レストランを後にする。
フロントでは既にリョコウバトが待っていた。胸元まで上げた手を上品に振る姿は、俺が漠然と抱いていた「フレンズは天真爛漫な動物の人間形態」というイメージを打ち砕いていく。
「お待たせしました、バスというのはこれですか?」
玄関前のロータリーはまた随分と広い。後で案内を見たところによると、数十人を一度に運ぶ大型バスが四台横に並ぶというほどだから納得だ。街中でもなかなか見ることのないロータリーだが、肝心のバスはと言えば、想像よりはるかに小さかった。軽自動車より二回りほど小さく、多分二人乗りではないだろうか。運転席と思われる場所にはラッキービーストが収まっていて、どうやら自動運転らしい。
バスガイドの女性こと、リョコウバトのフレンズは微笑んだまま頷いた。
「お客様にはこちらに乗っていただいて、私は少しだけ上を飛んで案内いたします。疑問があれば何でも聞いてくださいね」
次の瞬間、リョコウバトは軽く跳び上がるとそのまま宙に浮かびだす。さすがに二度目ともなれば衝撃は少ないが、不思議なものだ。今からでも「実は超能力で浮かんでいます」と言われたら信じてしまうかもしれない。
『経路ヲ水辺地方ニセット、発車シマス。オ客様ハシートベルトヲ締メテクダサイ。バスガ動キマス』
腕のバンクルから声が響く。ここだけ妙に電子的な音声なのが面白い。
昼下がり、空はますます青く澄み渡っている。穏やかな海は優しいさざ波を立て、太陽が反射すると無数の鱗を持つ巨大な魚のようにうねり、どこからともなく微かな残響となって耳から目蓋へ至り、寄せては引く白波を描き出す。
「こちら右手に見えますのはパーク自慢の一つ、真っ白なビーチと繋がる海をモチーフにしたアミューズメント施設でございます。ここではペンギンのアイドルユニット・ペパプの公演のほか各種水棲フレンズとの触れ合いや、海洋ジオパークの展示が目玉となっています」
海に近づくと、早くも大きな施設が見えてくる。海に半分せり出しており、どうやらここが目的地らしいのだが、なぜかバスは通り過ぎてしまった。
「あれ、今の場所じゃないんですか?」
俺は素直に疑問を口にする。そして案内役のリョコウバトを見上げて、言葉を失くしてしまった。
リョコウバトは俺を先導するため少し斜め上を飛んでいるのだが、ほんの一メートルほど上に足先がある程度の高さでしかない。彼女は膝上数センチのスカートだというのに、足を広げて飛んでいた。
つまり――白いタイツの、奥の部分。スカートの下に隠れた鼠径部を真下から覗く位置関係にあった。
「ええ、今の場所ですがもう少し先にパークの中でも人気の撮影スポットがありますから、まずはそちらにご案内します。旅の記念に、わたくしが撮影させていただきますね」
なにやら言っていることはわかる。だが、頭には入ってこない。
頭の中は彼女のスカートの中でいっぱいだ。太ももの付け根辺りには、わずかに浮き出るラインがある。タイツにつけられた段差はそのまま彼女のお尻を包み込み、うっすらとブルーに透けて見える。
凝視するのに精いっぱいで、呼吸することを忘れそうだ。
「間もなく到着しますよ、お客様……お客様?」
「え、あ、ああ。はい、大丈夫です」
「はい?」
「あ、いや……ちょっと眠くなっただけです」
首を傾げるリョコウバトに、何もかける言葉が見つからない。まさかスカートの中が気になったなどとは言えないし、それどころか。
(フレンズの足や下着が気になった、なんて言ったら頭がおかしい異常性癖、なんだよな)
世間の常識から外れたことをわざわざ口にするほど幼い時期はとうの昔。鈍い痛みを訴えるのは、イチモツのポジションが悪かったからだ。
まさか自分がいやらしい視線の対象になっていることなど思ってもいないだろうリョコウバトは俺の誤魔化しにあっさりと納得してくれたようだ。
「ふふ、今日は天気が良いですからね。では写真撮影をしたら眠ってしまう前に海獣園とライブステージにご案内します」
そういって微笑む姿も、今となってはどこか扇情的にすら思える――のは俺がおかしいのだろう。
驚くべきことにリョコウバトはスマホのカメラも操り、大海原を背景に孤独に微笑む孤独な俺を写してくれた。さらに驚いたのは、その直後にタイマーを使って俺とのツーショットまで撮ってくれたことだ。さすがに手を繋ぐとかそういった事は無いにせよ、思い出としては十分である。それも、フレンズとの撮影とはつまり俺だけにとっては女性とのツーショットだ。
「ありがとうございます、良いお土産になりますよ」
「ふふふ、そう言っていただけると幸いです。では次へ向かいましょう、案内はお任せくださいね」
フレンズは動物だ。動物だけに感情は素直で、嬉しいときは本当に嬉しいのだと聞く。だとすれば、幸せそうに微笑みながら俺の手を引いてくれるのは、彼女も楽しく思ってくれているのだろうか。
彼女は人間ではないと自分に言い聞かせながら、俺は手袋越しに柔らかい掌の温もりを感じていた。
緩やかな風を受けながら、俺とリョコウバトは身を寄せるようにバスに座り、来た道を戻り始めた。なぜ座るのかと聞いたら「少し、疲れてしまいました」などと思わせぶりな事を言うのだから勘弁してほしい。まして狭い座席では、互いの膝頭が触れ合う事さえある。
「リョコウバト……さんは普段からこういうことをしていると聞きましたが、仕事としてやっているんですか」
「いいえ、これは私が好きだからしていること。こうやって色んな人と旅をしている気分になるのが好きなんです。こうしている間は、一人じゃないから」
寂しそうだな、と思ったのも束の間。柔らかく甘い香りが俺にもたれ掛かり、耳にかかる彼女の揺らぐ声が、背筋から下腹部まで走り抜ける。ゾワゾワと、体の奥をくすぐるような恐ろしいものが。
「……なに、を」
「だって」
唾液が、熱い。
ぬかるんだ彼女の吐息は俺の顎を撫で、ゆっくりと上へ、上へと撫でまわしていく。やがて耳に届いた時、生理的な呼吸の中に、粘つく音がした。
「私の仲間はもう、いないんです。どうして? どうして、私は一人で生きているのでしょう。私はどうやって生きていけばいいの?」
ズボン越しに太ももに彼女の手が触れた。それだけだったら良かった、まだ、なんとかなった。羽根が触れるような軽やかさで細い指が太ももの内側をなぞり、だんだんと鼠径部にたどり着くまでは。
そして、見てしまった。悲痛な叫びに変わりつつある言葉で知ってしまった。深い青色の前髪が崩れ、白かった頬が朱に染まり、潤んだ瞳の奥で底知れない孤独感が彼女を苛んでいることを。
気付いた時にはもう、遅い。軽くて柔らかな身体を抱きすくめている自分が半ば信じられなかったが、もう半分は納得していた。俺は、やっぱり異常性癖なんだと。
「あ……お客さま……それ、は」
リョコウバトの声が震えているのは、きっと羞恥によるものだ。その証拠に、彼女のふっくらとしたお尻をスカート越しに撫でまわしても目線をあちこちに投げるばかりで、拒否の仕草は出てこない。
「いけません、ヒトとの交尾なんて、聞いたこと、あ、んっ……」
言葉だけだ。腕の中で俺を見上げるリョコウバトの顎を掴み、上を向かせても抵抗は無し。舌で小さくハリのある唇をつつくと、大人しくキスを受け入れる。そのまま唇で甘く噛みつく俺に彼女も唇を合わせて、ちゅぱ、と間の抜けた唾液の弾ける音がした。
至近距離でかかる互いの呼吸が視界と意識に霞をかけてしまう。それも、悪くない気がした。すっかり上気した顔のリョコウバトは肩で息をしている。
「リョコウバト、さん」
「お、お客様、私、わたしっ!」
『マモナク海獣園デス。降車準備ヲオ願イ致シマス』
強く、互いを抱きしめ合ったその瞬間に電子音声が響き渡る。
水を差すにこれほどのモノがあるだろうか。お互いに文字通り跳び上がるほどの勢いで離れ、目の前には信じられないといわんばかりの表情で俺を見つめるリョコウバトがいた。そして俺も同じような表情をしているに違いない。
バスだけが動く間抜けな数秒間、先に我に返ったのはリョコウバトの方だった。
「と、到着いたしましたので、私はこれで失礼します、お、お帰りの際は、ヒトの係員の方がいますので、そちらにお願いしますっ、では、その、ご、ごめんなさいっ」
つっかえながらも早口でまくし立て、全速力で飛び去っていく。首まで真っ赤に染まった彼女を、俺は見送る事しかできなかった。
「……何やってんだ俺は。真昼間から、外だぞ……」
人に見られていたら頭のおかしな奴の誹りは免れない。後悔と憂鬱と、それを上回りかねない口惜しさに対して、俺は頭を抱える事しかできない。後悔先に立たず、とはまさしくこのことだ。
どれだけの間そうしていたのか、ようやく我に返って時計を見ると長針が正反対に周っていた。下腹部の鈍い痛みは懸命に無視することにしてバスを降り、明るい方角へ向かう。
そこは言うなれば中央ホールのようなものらしい。ショップやレストランが隣接し、デカデカと目立つ案内図には「PPP LIVE」だとか、「イルカ&アシカのフレンズ」だとかがポップな色遣いで書かれている。それぞれホールから放射状に廊下が伸びていて、それらのブースに繋がっているようだ。
おそらく、普段は人で賑わっているのだろう。行列を捌くためのポールの後がくっきり残っていて、ホールの隅に追いやられたポールとカラフルなロープが物寂しく佇んでいる。
「係員、いないな」
賑わっていて当然の場所に、見渡しても人っ子一人いないというのはなかなか恐怖だ。この年になってもそう簡単に拭えない不安が忍び寄ってくるが、それを表に出すほど子供でもない。
わざとらしく足音を立てながら「イルカ&アシカのフレンズ」と書かれたゲートをくぐった。さしたる理由は無い。強いて言えば、そちらの方が少しだけ明るかった。
「おーい、誰かいないかあ。参ったなあ」
心の底から漏れた弱音が廊下で響き、やけに大きく聞こえてくる。だが、もうそれでもいい。音が聞こえるだけマシだ。もはやヤケクソである。
「そういえば初日のオプションでホテルで何かあったような気がするぞ。なんだっけ、あれはライブがどうとかだったっけか……ん?」
たぶん、声の演技をさせたら俺は一発落第だ。迷演技を遮ってくれることを心のどこかで望んでいたに違いない。もしかしたら顔も赤いかもしれない。
聞き間違いかと思うほど微かな物音に耳を傾けると、しばらくして何か音がした。それから何度か同じ音が繰り返される。
「水の音、か?」
音に導かれ、奥へ奥へと進んでいく。やがて眼前に現れたのは、いわゆるイルカショーで使われるような、水槽を中心として半円状に座席が広がる空間だった。普通の水族館に比べるとサイズが小さい気がするのは、多分フレンズがショーの中心になるからだろう。
照明が落とされているせいか、水槽は差し込む太陽の明かりが身勝手に反射して輝いている。水面が動き、強烈な光が目を焼きそうになって思わず手を掲げる。
指の隙間から垣間見た先にいたのは、一人の少女だった。いや、少女というには少し成熟していて、女性と呼ぶ方が正しいはずだ。
逆光の煌めきから逃れた俺を襲ったのは――この、心を揺さぶり打ち壊そうとする激しい感情をどんな言葉にすれば言い表せるだろうか。さっきのリョコウバトで湧き上がった情欲のせいもあるかもしれないが、それに加えて胸の詰まる想いが視界を歪ませる。頬が紅潮する。
言葉を失い、ただ立ち尽くす俺に気付いた女性は笑みを浮かべて手を振った。
「こんにちは、私はカリフォルニアアシカ。貴方はお客さんですね、残念ですけど今日はショーはありませんよ」
少し低めの落ち着きのある声で、カリフォルニアアシカを名乗る女性――フレンズは言った。ここで「ああそうなんですね、失礼しました」と踵を返せる人物は、きっとマトモな人間だ。
けど俺は違った。もう、頭のイカれた異常性癖の持ち主でいい。
なぜかリョコウバトの唇の感触が鮮烈に蘇る。柔らかく、生ぬるい唾液と舌が絡み合った記憶が俺の首に手を掛けて囁いてくる。甘い誘惑に逆らえるような忍耐は、存在しなかった。
「君は、カリフォルニアアシカさんは、一人ですか」
「私? ええ、今日は一匹ですが。ショーが無いので練習でもと思いまして」
「ショー……貴方が」
「その通り。ふふふ、これでも私とバンドウイルカさんのショーは人気なんですよ。残念ながらしばらくは貸し切りだとかで、三日後にホテルであるショーまではお休みですけど。ああ、なるほど。貴方が貸し切りのお客さんですね? そんなに私達のショーが見たかったんですね」
彼女は得意げに唇を緩め、浮かんでいた体を水の中に沈めていく。そのまま遠ざかって姿を消した彼女に、俺は慌てて階段を駆け下りた。子供のように水槽に手を当てて覗き込む姿は滑稽なものに違いない。
しかし俺にとっては絶望的なのだ。大袈裟でもなんでもない。だから水中をロケットのように勢いよく泳ぎ近づいてきた彼女が、水槽越しにその両手を俺の手に重ねてくれた時、思春期かと間違えるほど心が高鳴った。
間近に見たカリフォルニアアシカの顔は美しかった。リョコウバトも美しかったが種類が違うのだろうか、少し釣り目気味の目に、すっきりとした鼻立ち、下唇の膨らみは理知的な女性を思わせる。眼鏡が邪魔じゃないのかと邪推しそうになって、彼女がフレンズだと気付く。
不意に、カリフォルニアアシカは勢いよく水面に上がると、そのままの勢いで空中に跳び上がり、くるくると回りながら水槽の前のステージに着地した。
「ハイ! なんて、いかがです? これくらいはまだまだ前座ですよ」
きらきらと眩しい水飛沫の中で微笑む彼女は美しかった……いや、素直に言おう。俺は完全に心を奪われていた。気付けば熱心に拍手をしていて、まるで少年の頃に戻ったみたいだ。
「凄かった、いえ素敵でした。正直言ってフレンズのショーがどういうものなのか全く知らなかったんですが、貴方のおかげで完全に見る目が変わった気がします。本当に素晴らしかったです」
「あら……ふふ、そこまで言ってもらえると気分がいいですね。そうですか、フレンズのショーは初めてですか。ではもう少し見せてあげましょうか?」
「いいんですか? 良ければ、是非」
「ええ、もちろん。ただバンドウイルカさんがいないので私一人でできるものだけですが」
「それで構いません、お願いします」
構いません、とはよく言ったものだ。本音では、それが良いです、と口にしたかった。
カリフォルニアアシカは頷くと、脇にある階段を軽やかに駆けあがっていく。
俺の感覚はもう、完全にイカれていた。彼女の足跡がペタペタと残るだけで心が高鳴り、彼女の胸が谷間が見えるカットの黒い水着の中で揺れると生唾が邪魔になる。すらりと伸びた脚の付け根は張りのあるお尻が自己主張していて、それに貼り付く半透明のパレオが酷く淫靡に揺れている。
彼女が手を振るのに応えつつ、俺は最前列の席に腰掛けた。なんてことはない。痛みを感じるほど熱い下腹部の興奮のせいで立っているのが難しかっただけだ。
「さあ皆さん行きますよ! 最後までうまくできたら、たくさんの拍手をお願いします!」
いつもの口上なのだろう。俺に向かってウインクをして、非常に綺麗な姿勢で水槽に飛び込むと凄まじい勢いで泳ぎ出す。そしていくつかのボールを水面に浮かべると、上手に下から小突き備え付けのバスケットゴールに入れていく。
俺はもう、夢中になって手を叩いていた。彼女の一つ一つの芸、仕草が心を捕らえて離さない。この時下腹部に気をやっていたら大人しくなっていたことに気付いたかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。
やがて最後に大きくジャンプをすると、空中で体を捻りながら浮き輪を投げ、体操のように着地をして両手を伸ばす。その腕には予定調和のように浮き輪がかかり、最後に彼女が「ハイ!」と声を上げる。
「どうです? 一人ですからこの程度ですが、本来のショーならもっと……」
「最高でした。本当に、どう言葉にしたらいいかわからないけど、見れてよかった!」
調子に乗っていたのもあるだろう。彼女の手を取り、少し冷えた柔肌を包みこむ。とてもじゃないが普通なら嫌がられるし、人間相手であれば許されることとは思わない。だが彼女はフレンズで、常識的に考えれば俺に下心なんてあるはずがないのだ。
「ふふふ、ありがとうございます。お客さんみたいに真っ直ぐに褒めて貰えるのは本当に嬉しいんですよ。私達にとって最高のご褒美ですから、じゃぱりまんよりずっと価値があります……いえ、私としてはカレー味のじゃぱりまんは相当なご褒美でもあるんですけど」
軽く手を引くとカリフォルニアアシカは特に抵抗もせずステージから降りて、俺の正面に立った。
背丈は俺より少し小さい。ちょうど俺の目線に彼女の頭頂部が来て、両翼というか、アシカの両足のように横に広がった髪が濡れているにもかかわらず張り出しており、彼女がフレンズだと分かりやすく示している。
だが、そんな事よりも全身から水を滴らせる彼女の様子ときたら。濡れたまつ毛と唇が輝き、胸の谷間に落ちていく雫の行き先は俺を狂わせる。ステージから降りた拍子に大きく揺れた双丘のせいで、息が詰まりそうだ。
俺にとっては一瞬だったが、客観的には多分数秒は経過したはずだ。不思議そうに首を傾げた彼女にこのまま無言でいるわけにもいかない。幸いなことに、彼女は会話の糸口を残してくれたのだから。
「カリフォルニアアシカさんはじゃぱりまん、がお好きなんですか?」
「ええ、フレンズによってはジャパリスティックだとかが好みの子もいますけど、私は断然じゃぱりまんです」
「なるほど。確か、フレンズが食べる……食事らしいですね。いろんな味がある、って聞いたことがあります。そういえば人間が食べても美味しいとかテレビで言ってたような。僕もカレーは大好きですから、食べてみようかな」
「それはお目が高いですね。ええ、とても美味しいですから是非食べてみてください」
「貴方も、今日はじゃぱりまんを食べるんですか?」
俺の言葉にカリフォルニアアシカは露骨に肩を落とす。
「いえ……私達、ショーをするフレンズはショーをした後のご褒美として大好物を貰う事にしてるんです。その方がショーに身が入るし、みんなで喜びながら食べるのが美味しいですから。ただ、次のショーは三日後なので……」
「それまでは、お預け?」
「そういうことです」
それが嫌だと感じているわけではなさそうだった。だが声は明らかにじゃぱりまんへの憧憬が滲んでいて、食べられるものならすぐにでも、と言葉無く語っている。
チャンスだ、と心が叫ぶ。頭は既に働いている。理性と感情が同じ方向を向いているのだ、自分で驚くほど口は滑らかに動いた。
「なら一緒に食べませんか、じゃぱりまん」
「え?」
「ショーなら今、見せて貰いました。たくさんのお客さんに比べたら俺一人の拍手は大したこと無いかもしれませんが、本当に素晴らしいショーだったんです。それだけは見ていた観客が、俺が保証します。みんなで喜びを分かち合うには敵わないけど、俺でよければお相手させてもらえませんか。貴方ともっと話したいんです」
情けないことに最後はただの欲望である。普通の女性なら見え見えの下心に呆れられているかもしれない。
しかし、カリフォルニアアシカはといえば、少し逡巡を見せたものの微笑みを見せてくれた。
「ふふっ。そんな風に言って貰えたのは初めてかもしれません。わかりました、お客さんのためです。一緒に食べて差し上げても構いませんよ?」
「ありがとうございます。じゃあ、すぐ買ってきます!」
「あ、ちょっと……」
後ろから何か聞こえた気がしたが、はやる心を引き留めるには及ばない。引き留められておけばよかった、と後悔するには数分の時間を要した。
考えなしに動いては得られるものも得られない。走ってホールまで戻った俺を待っていたのは「ところでじゃぱりまんはどこに売っているのか」という当然の疑問だった。唯一の心当たりであった売店は本日閉店と無情な立札で塞がれているではないか。一手目にして八方塞がりだ。
このままでは彼女に良いところを見せられない、青い焦りがコゲ付く寸前の俺を救ってくれたのは、海に繋がるルートの曲がり角からひょっこり顔を出した幼い女の子だった。半ズボンに青を基調とした服、帽子の下からは紺色の髪が伸び、軽く結ばれてある。顔立ちはどこかで見たような気がしたが思い出せない。係員を伴った少女はトテテ、と近寄ってくる。
「おじさん、何してるの?」
「え、あ、いや。じゃぱりまんが無いかと思って」
「じゃぱりまん?」
「お客様、申し訳ありません。本日は売店が臨時休業のため食品の提供はご遠慮いただいております。ホテルの食堂であればご注文いただけますよ」
「そう、ですか……」
係員の態度は親切丁寧だった。文句のつけようもない。ただ、俺の馬鹿みたいなプライドがカリフォルニアアシカに格好悪いところを見せるという恥を嫌っているだけ。
大の大人がこの程度のことで大げさに落ち込むことなど、係員としても想定外なのだろう。肩を落とした俺に困惑し、場をいたたまれない雰囲気が支配していく。それを打ち破ったのは、少女のくすくすと笑う無邪気な姿だった。
「変なの、大人なのにじゃぱりまんが食べられなくて悲しいんだ。ださーい」
言い返す言葉も無い。たぶん、俺が彼女の側で目撃していたら、同じように「ださい大人だ」と思うだろう。
「お兄ちゃんには格好つけてたクセにぃ」
「お兄ちゃん?」
「飛行機でお兄ちゃんと話してたでしょ、隣に座ってたじゃない」
「ああ……」
言われて、飛行機の中の記憶が蘇る。なるほど、確かにあの子と目の前の少女は、家族と言われてみればよく似ている。服装も同じような感じだったように思う。
「あの子、双子だったのか」
「そーだよ。ほら、一緒のかばんとスケッチブックでしょ」
歯を見せながら笑う少女は鞄からスケッチブックを取り出し、なぜか自信満々で掲げてみせた。ひらがなで「ともえ」と書かれた表紙は真新しいが、確かに飛行機で少年に見せて貰ったものと同じブランドだ。
「お兄さんや家族と一緒じゃないの?」
「ううん、お兄ちゃんたちは先にサバンナに行っちゃった。私は暑いの嫌いだからこっちに連れてきてもらったの。でもペパプも他のフレンズもみーんな海に行っちゃって居ないの」
嘆く少女は全く、感情豊かだ。身振り手振りが大きくコロコロを表情を変える。俺と係員は出番も無い。
ただ、俺はカリフォルニアアシカを待たせている。これで彼女に飽きられ、帰られてしまった日には最悪だ。強引に話題を切り上げ踵を返そうとする俺に、少女は勿体ぶった声を上げた。
「ねえおじさん、これ、なぁーんだっ」
「え? あ、それって!」
少女は鞄から丸いモノを二つ取り出した。幼い子供の手には少し大きいそれは、コンビニの肉まんのような見た目をしている。そんなモノはこの場では一つしかないだろう。
「ふふー、じゃぱりまん! フレンズと食べようと思って持ってきたんだー」
幼い子供がドヤ顔で胸を張るのは微笑ましさが先に立つ。そして係員の目は俺を向いた。その目が言いたい言葉は分かり切っている。「まさか本当にそんな大人げないことを?」と語る視線を振り切り、膝をつく。
「お嬢さん。そのじゃぱりまん、おじさんに譲ってもらえませんか」
ドン引きする係員の視線は、俺にとって恥だ。しかし少女に物乞いすることで傷つく沽券と、カリフォルニアアシカに張る見栄を比べるのなら、俺は見栄を取る。
もし難しければ土下座の一つや二つすら厭わない覚悟だったが、この世は案外優しいものだ。「いいよ!」との一言でじゃぱりまんは恙なく譲渡され、優しくないのは係員のなんとも言えない目だけである。
しかし、ボロボロになった沽券でも崩れ切るにはまだ早い。財布を取り出し、小銭入れの中から一つのコインを取り出した。
「それ、お金? ジャパリコイン?」
「これは昔のお金でね。持ってると幸せになれる、誰かとの縁が結ばれるって言われてるお金だよ。お礼にあげる」
「ふーん……」
不思議そうに銀色の貨幣を眺めたあと、少女のポケットに収まったコインは実は結構貴重なものだ。懐的にはかなり痛いのだが仕方ない。
もう一度少女に礼を言って小走りにカリフォルニアアシカの元へ戻る。振り返ると、少女が大きく手を振っているのが見えた。