Quatro XX ~スパイ未満のオレの胃はもう限界かもしれない~ 作:滑落車博士
・・・最初に彼女を見た時の表情は、泣き顔だった。
王宮の片隅、殆どの者が寄り付かない裏庭の、井戸の側。
当時のレスターは一四歳でまだ子供ではあったが、大人の世界がまるで理解らぬほどには幼くはなかった。だから、教育係を仰せつかっていた母が血相を変えているのも、王宮中を侍女たちが探し回っているのも、理解していた。
その少女を見つけることができたのは、ただの偶然だろう。あるいは、まだ大人たちよりも多少なり歳の近かった彼の動きが、少女がとった行動と結果的に近かっただけかもしれない。
いずれにせよ、第一発見者はレスターだった。
レスターは、その少女の姿をよく覚えている。
短い金色の髪に、小さな背丈。当時既に成長期を迎えていたレスターからすれば、とても小さなその姿。華奢な身体を掻き抱くようにして、庭の片隅に蹲ってた。
顔は伏せられていたが、震える肩と漏れる嗚咽から、目蓋を濡らしていることは見て取れた。
『ーーー姫様っ!』
おそらく、自分は駆け寄ったのだろう。
逸る心のまま隣に座り、お戻りくださいだとか、皆が心配しておりますだとか、そんな言葉を言ってしまったに違いない。
レスターは思う。
当時の自分は、碌な
そして……自分は何を言ったのだろう。
何かしら、言葉をかけた筈だ。
記憶とは曖昧で、常に美化される物だ。
だからレスターは、断言できる。
自分はーーー絶対に価値のある言葉を紡いではいない。
その時に、少女の心の支えになれたのなら、どれほど光栄な事だったろう。少しばかり年上の少年が、年下の少女に優しい言葉をかけてあげられたのなら、それはどんなに誇らしい思い出になっただろう。
だから、自分は立派な人間ではない。
顔を上げた少女の瞳の色を、よく覚えている。
涙に濡れた
泣きはらした目の周りが赤くなっていて、透けるような白い肌に痛々しかった。
瞳に浮かんでいる表情は、諦念。そして絶望。
およそ、十歳にも満たない少女がする表情ではなかった。
宮中の大人たちでさえ浮かべぬような、恐ろしく疲れ切ったような精彩のなさ。
蹲った少女から、その瞳で見上げられて…。
少年であったレスターは、恐ろしくなった。
少女が、ではない。
少女にこんな表情をさせてしまうのは、一体何なのであろうか、と恐ろしくなったのだ。
『ーーーなんでわたしは王女なんだろう』
蚊の泣くような、細い声。
その声は、レスターの耳にも届いていた。
なんで。どうして。
その問いに、レスターは答えた記憶がない。
だから大勢の大人たちが集まってきて、口々に心配の言葉を述べ、少女を王宮に連れ帰ってしまってもーーーその問いが胸に突き刺さったままだった。
これが、小さな少女との最初の記憶。
失われた過去の、最初の一頁だった。
ーーーーーーーーーー
扉を叩き、返事を確認して恭しく入室する。
「ーーー失礼いたします」
王宮からは、落ちていく夕陽とロンドン市街がよく見える。王宮が所在するのは、『アルビオン』という名の由来とも言える白灰岩層の丘の上である。宮殿からの眺めは、ロンドンの他の何処よりも遠くを見渡すことができる。そして今まさに、遠くの稜線に太陽の下端が差し掛かり、空は茜色から藍色へと色の濃淡を移り変わらせていた。
「レスター・リンジー=クロフォード。
・・・シャーロット王女の求めに応じ、参上仕りました」
入ってきた扉を閉め、最大限の敬意を持って立礼する。
呼ばれればいかなるときでも馳せ参じ、そのペンを以て王家に奉じよ…。
…とは、クロフォード伯爵家の家訓である。
しかしそれが無くとも、レスターは王女に対し無二の敬意を以て仕えている。
「こちらへお座りください」
レスターに声をかけるのは、王女ではなく側使えの侍女である。
当然、部屋にはその他にも侍女が多くおり、扉の外には衛兵が付いている。
机と椅子の横に立ち、懐に抱えた仕事道具…ペンに印章、紙といったもの…を捧げ持ち、
「それでは、失礼いたします」
断りをつけてから座る。慇懃にも思えるが、王宮内における儀礼とは煩雑なものである。今回は急ぎの仕事であり、これでも諸々を省略しているのだ。
「急に呼びたててごめんなさい。
実は、今晩ロンドンで開催される舞踏会に祝賀文を送らなくてはいけなくなったの」
声の主は、シャーロット姫。
アルビオン王国の王女である。
流れる髪は金糸、瞳の輝きは
その声は凛と響き、されど紡ぐ言の葉は慈愛に満ちている。
「承知しております、プリンセス。
間に合うよう書き上げてみせます」
レスターは筆記具を準備しつつ、プリンセスを安心させるように頷いてみせる。
王族とは、多忙だ。
本来予定していた都合が折り合わなくなり、別の集まりに出席しなくてはいけないことも。他の公務を優先して、先約に代わりの人間を手配しなくてはならないことも、ままある。
今回の仕事は、本来であれば王位継承権第二位の兄君が送るべき祝賀文を、急遽シャーロット姫が送らねばならなくなった、という物だ。
その政治的な事情については、レスターは知らない。
王宮内の政治力学についてそれほど深く知り得る立場にないし、若干の推測はできたとしても口に出せば不忠となる。
故にーーーできる事は、求められるがままにペンを揮うだけである。
「姫様、この度は時間がありませぬ。口述筆記をしますので、どのようなお祝いの言葉を述べられるのか、大意をお伝えいただければと思うのですが」
「ええ。頼むわね」
王家を代表して、王国科学者の忠勤を称え、更なる科学の発展を願う激励の文章。
しかしーーーと、レスターは思う。
シャーロット王女に仕事が回ってきたということは、いよいよ王立科学協会の権威にも陰りが見えているのかも知れないな、と。
王立科学協会。
その名の通り、アルビオン王家が設立し、今も出資している『科学研究を振興し、科学者による研究を後押しし、その研究を広く世に広める為の組織』である。
その構成員は、ロンドン革命以来減り続けている。
何故か。
共和国と争っている時に、
既に、多くの科学者は軍での研究に取り組んでおり、極秘とされた研究については成果はおろか研究者の所在すら判らない。
協会の会員は、最盛期の四分の一ほど。
残っているのは、学術を広く世に広めんとする学者の鑑か、秘匿されなかった分野の研究者か、あるいは派閥や政治を嫌って黙々と開発や発明を行う職人気質の人間だけである。
「とは言え、彼らの研究が無駄になる訳ではないものね…」
シャーロット王女は、僅かに声色へ憂いを滲ませながら、祝辞の言葉を紡ぐ。
レスターは、それを黙して筆記し、文にしたためる。
ーーープリンセスは、科学技術や学問といったものに対して興味がお有りのようで、それは傍から聞いていて驚くほどに造詣が深い。
それはいつであったか。王立博物館に展示されていた、御伽話に登場する
今、この祝賀文においても、そうだ。
此方が例示をするまでもなく、研究者の直近の研究成果を諳んじ、それがいかなる面で賞賛に値するのかを、姫様自身のお言葉でお伝えになられている。
「ーーーと、こんな感じでどうかしら?」
「完璧です。姫様がこれだけご歓心を示されていることが伝われば、各分野の研究者は一層奮励努力することでしょう」
口述であるため、若干の修辞で文章を飾る必要はあるだろうが…内容には非の打ちどころがない。それこそ、これだけ多方面の学問について語ることができるものは、王宮内においても多くはないだろう。
「ーーー、ーーー」
兄君よりも姫様の方が適任でしたな、という言葉を呑み込む。
たとえ冗談だとしても、王家の一員を蔑する言葉は口の端にも上せてはならぬ。
レスター・リンジー=クロフォードがプリンセスの能力を素晴らしいと感じていても。
今回の仕事は、忙しい兄君の代わりに『空気姫』が儀礼的に、事務的に行う仕事だからである。
「ーーーでは、急ぎ文にしたため、送らせていただきます。…内容の確認はなさいますか」
「いえ…。もう時間がないわ。私もこれから晩餐会へ出席するため着替えます。そちらで良いように取り計らってくださる?」
「はっ、心得ました!」
着替えるとあれば、男であるレスターは急ぎ退出せねばならない。
席を辞する為に、彼は筆記具をまとめ始めーーー。
「―――クロフォード卿」
呼び止められた。
時間が無いと伝えた姫君が、不意に自分を呼んだ事にレスターは困惑しながらも、身を正してプリンセスに正対する。
彼女の顔に一瞬浮かんだのは、何の色だったか。
見て取ることも困難な、僅かな躊躇いがそこにはあった。
次の瞬間、ニコリと笑った表情は、いつもの優しい姫で。
「ーーー何でもないわ。どうか、お願いね?」
十年の歳月。
それは、『一人の小さな女の子』を『美しく聡明な
素晴らしいことだ。喜ばしいことだ。
一国の姫君と、ただの若い伯爵。
交わされる言葉など、無い。
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