※この作品はR-18です。

Quatro XX ~スパイ未満のオレの胃はもう限界かもしれない~   作:滑落車博士

5 / 10
初めて来た感想が「わっふるわっふる」でした。

だが私のエロゲ脳からすると、あそこでイベントCGを回収するとバッドエンドに直行するとゴーストが叫んでいるのでキングクリムゾンします。




Case:L Loopy lovery-dovey

 リリ・ギャビストンの朝は早い。

 

 王国主席判事の娘として、その地位に相応しい行いをせねばならない。朝が早いからといって、眠そうなだらしのない表情を晒すなどという無様は許されないのだ。

 

 そう、許されないのである。

 だから、学園に通う前には、身嗜みのチェックは欠かせない。

 自慢の黒葡萄(ボルドー)色の髪も、染みや雀斑(そばかす)の無い玉の肌も、日々の手入れの成果だ。自分自身が見目麗しく生まれついたのは当然だとしても、その価値を高めていくのは己自身の努力である。

 

「ーーーうん! 今日も完璧ね!」

 

 お気に入りの白薔薇の髪留めを留めて、リリは自分の表情を確認する。自信に満ちた表情。ややもすれば高飛車とも受けとられる彼女の態度ではあるが、それは彼女自身の矜持と自負に裏打ちされている。自分がクイーンズ・メイフェア校の中でも上位に属する人間であることに疑いなどなく、ゆえに自分はその地位に相応しく、美しく聡明な人間であるように評価されねばならないのだ。リリ・ギャビストンは己の価値を確信している。

 

 リリの周囲で追従している女学生の誰よりも、リリ自身が優れているのだと確信している。それは容姿だけではない。淑女としての振る舞い、学業の成績、あらゆる面で己は優れているのだと。

 リリ・ギャビストンは負けないのではない、彼らに勝っているのだ。メイフェア校へ特別に通うことを許されているような、平民の出自を持つ学生たちとは違うのだ。決して彼らの能力を認めぬのではない。このリリ・ギャビストンは生まれの身分でも、学業でも彼らに勝っている。それは単なる根拠のない優越感などではなく、事実として彼らの上に立っているのだ。

 

 リリは、鏡の前で花のような笑顔を浮かべてみる。

 彼女は、今年で十七。

 彼女の父からも、学校を卒業する前に良縁を探すと言い含められている。昨今の風潮…自由恋愛だとか、身分違いの恋物語だとか…に胸をときめかせる同級生も多いが、彼女は違う。

 下賤な身分の者と恋に落ちるだなど、リリには考えられない。狙うならば、少なくともギャビストン家と同じくらいの家格の相手、もしくは家格が上の相手だ。一代騎士や準男爵では駄目だ、この自分が嫁ぐのであれば、それに値する家でなくては。舞踏会に出席すれば、その容姿を褒められ、貴族の男たちの視線を惹きつける自分が、その辺りの凡骨風情に靡くなど有り得ない。

 

 リリの笑顔は、野心を隠してなお、年頃の娘らしい柔らかさを保っている。

 ・・・これで、今日も自分は完璧に美しい。

 鏡に映る自分の表情を眺めて、リリは自信を一層深めるのだった。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

「先生! おっはよーございます!」

 

「うん、おはよう」

 

 朝霧の煙る道を、多くの学生が登校していく。

 そんな中、幾人もの学生に声をかけられては、微笑んで挨拶を返している教師の姿がある。

 クロフォード伯爵だ。

 

 彼がこの学校に赴任して来る前に、リリは彼のことを父の口から聞いたことがあった。先代のクロフォード卿が亡くなられてから、十年で立派な青年となって伯爵家を継ぎ、王宮でも若き伯爵として勤勉に務めをはたしているのだと。

 それから、舞踏会で何度か姿を見たことがあった。彼の周りには何人も人がいたので、結局言葉を交わすこともなかったのだけれど。

 その時から、リリは彼のことをよく覚えていた。

 

「―――おはようございます。先生」

 

 リリは、はしゃぐなどという真似はせず、自分が完璧だと信じる表情で挨拶をした。

 明るい印象を与える笑顔を、しかし、品を失わぬように。さりげなく、しかし礼を失せぬように。…もし彼女をよく知る人物がその表情をみれば、少なからず驚いただろう。普段のツンと澄ましたような険は無く、淑やかに愛らしいとさえいえる雰囲気を振りまいているのだから。

 

「おはよう。リリ君は今日も元気そうだね」

 

 ニコリ、と笑んで彼が挨拶を返すと、リリは内心で「やった!」と歓声が出そうになるのを抑える。もちろん、そんなはしたない真似はしない。あくまで、毅然と、優雅に振る舞うのが、リリ・ギャビストンの流儀なのだから―――。

 端から見ていれば、喜色溢れる表情をしているので、全く隠せていないわかりやすさなのだが。

 

「せんせー。今度、図書館にジョセフ・マーロウの本が入るってホントー?」

 

「うん。利用者が少ないのは『高尚な』本ばかりで、君たちが読みたくなるような本が無いからだ…って、学長を説得したからね。これからは、当世風の娯楽本も、いくつかは入って来ると思うよ」

 

「やったぁ!」「先生やるぅ!」

 

「―――本当は、私もマーロウ先生の作品が好きでね。それから、ヴェルヌ先生の作品も。だから、自分が読みたかったから図書館に揃えるんだ…なんて、これは他の先生に言っちゃダメだからね?」

 

「えー?」「どーしよっかなー?」

 

 周囲の女学生たちが、黄色い声で騒ぐ。

 

 クロフォード伯爵は、今年で二十四。

 自分たちと歳が近いからか、生徒たちの中にはまるで親戚の従兄弟であるかのように親しげに話す者までいる。それを、伯爵は嫌がるような顔もせず、むしろ楽しむかのように話に花を咲かせるのだ。

 正真正銘の伯爵様でありながら、不思議と他の教師陣よりもはるかに親しみやすい存在…。というのが、クロフォード伯爵が学園に赴任し、短期間で生徒たちと築きあげた関係である。

 

「クロフォード先生っ! この間の『相談』なんだけど―――」

 

「こらっ。そういう話は、放課後にしなさい。…登校している他の生徒に聞かれても良いのかな?」

 

「あははっ! せんせー、また『相談』受けたんだー。モテモテだねぇ」

 

「あはは…。まさか、学校に来てこんな『相談』を受けるなんて、思わなかったんだけどね…」

 

 彼は、周りの女子生徒に囲まれながら、苦笑する。

 『相談』というのは、学業だとか将来についての相談―――というのは建前(うそ)で、端的に言えば恋愛相談である。

 誰が好き、誰が嫌い。そういった話題は、いつの時代も学生時代の華である。

 切欠(きっかけ)は知らないが、とある悩める学生の恋の相談に乗り、見事その恋を的確なアドバイスで成就させたとのことで―――真偽はともかく、クロフォード伯爵は『校内の恋愛相談窓口』なる綽名までつけられているのだ。賑やかな女学生だけでなく、時には屈強な体格の男子生徒まで、こっそりと彼の居る図書司書室まで訪れるという。

 

 しかし、彼の周りにいる生徒の全てが、恋愛相談を持ち込むのではない。

 

 何割かは、純粋に『面白い書籍を図書館に持ち込んでくれる、親しみやすい先生』として好いていて。また何割かは、『他人には笑われるような相談でも、親身になって聞いてくれる先生』として好いている。

 そして、その残りの数割は―――クロフォード伯爵個人を狙っている生徒たちである。

 

 『恋愛相談』と建前を掲げて図書司書室を訪れた者のうち、何割が真正の相談を持ち込んでいるのだろうか。

 新しい本が欲しい!と図書館に要望する生徒のうち、何割が元々本を読みもしないのに、先生と話をするためだけに適当なリクエストを申請したのだろうか。

 今、彼の周りに集まっている生徒とて、数人は好奇と打算とで近づいているのだろう。

 

 それには、学生たちの間でまことしやかに語られる、ある噂が関係している。

 

『クロフォード伯爵は、将来の嫁探しの為に学校で働き始めた』…という、噂だ。

 

 リリは、思うーーーなんて下世話な、下々の者らしい発想でしょう、と。

 仮にそれが真実だとて、淑女が群れなして殿方に近づくなど、とても上品な行いとは言えない。

 

 彼の年齢を考えれば、嫁探しは不思議な話ではない。むしろ、伯爵家という立場を思えば、許嫁だとか浮いた話の一つでもあっておかしくはない。

 しかし、彼は未だに独身であり、結婚する予定も、お付き合いのある女性もいないらしい(これは、『恋愛相談』に行った女生徒が貴重な情報として持ち帰り、噂話として校内を駆け巡っている)。そうして、あわよくば玉の輿に乗ろうかと、野心的に近づく生徒もいるのだという。

 

 仮に彼の心を射止めれば、伯爵夫人の座が手に入るかも―――と表現すれば俗っぽくなるか。

 

  下世話な話である……が、『真実』を知るリリからすれば、クラスメイトたちが噂話に盛り上がり、『ひょっとしたら自分が伯爵様に見初められるかも!?』などと想像を膨らませるのを、呆れを通り越して微笑ましく思うのだ。

 

 そう、リリは知っている。

 家の事情で、彼が今に至るまで恋や愛といった世界に関われなかったことも。

 

 この学校に来た、本当の理由もーーー。

 

「はいはい、そろそろ急がないと遅刻してしまうよ。用事は、また放課後に、ね?」

 

「ちぇーっ」「またねー、せんせー!」

 

 予鈴を聞きながら、多くの生徒が蜘蛛の子を散らすように動き出す。

 途中までちゃんと登校しているのに、立ち話で遅刻するなど馬鹿らしい。

 みな、笑いながらも駆け足でそれぞれの教室に歩き出していて―――。

 

「―――リリ君」

 

 決して大きくない、呼び止められる声。

 目線を向けると、クロフォード伯爵…レスターが、穏やかに微笑んでいた。

 

「また、放課後に、ね?」

 

 リリは、無言で首肯した。そして、教室へと向かう。

 

 そう私は、リリ・ギャビストンは、彼の秘密を知っているのだ。

 同時に、彼もリリの秘密を共有している。

 

 それを考えると、リリは口元から喜色を隠せなくなりそうで、早く放課後にならないかしら、なんてことを思うのだった。

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

「―――失礼します、先生」

 

 

 リリは、放課後に図書司書室を訪れていた。

 借りていた書籍を返却するため…というのは、仮初の口実だ。

 

 本当の理由は別にある―――。

 

「やあ、よく来てくれたね」

 

 レスターが手元で開いていたのは、『バズカヴィル家の猫』 今朝がた生徒との話題に上っていた本だろう。

 彼はリリを見遣って、教室で見たのと同じ微笑みを浮かべる。

 

 リリは、それを不思議な笑顔だと思う。

 

 リリと同じくらいの男子学生は、事あるごとに誰其れがが好きだの、とある年頃の異性を狙っているだのといった、品位の無い会話を大声でするものだ。そういう時、男がどういう目つきをするのかを、リリはよく知っている。

 

 好奇の視線、期待の表情、ある種の欲望に身を焦がす熱情といった物…リリは、それらを知っている。学校内でも相応に美しいという自負のある彼女は、告白だのといったモノを少なからず受けていたからだ。それら全てを、リリはすげなく振っている。

 

 たしかに、純粋なる憧れや好意で近寄ってきた者もいる…一つ下の男子生徒が、なけなしの勇気を振り絞って正面からリリに告白してきたときには、彼女だって無碍にするのが心苦しく感じたし、告白を拒絶した後もその少年には好感さえ抱いてさえいる。

 

 だが、ほとんどの男は、駄目だ。

 

 下卑た欲望が隠せていない爛々とした目つき、まるで自分が断られるとさえ思っていない幼稚な思考、身分違いという事実を考慮に入れない盲目さ、相手の心情を斟酌さえできない自分勝手さ―――つまるところ、リリは同級生の男に辟易していたのだ。

 

 まるで、女(じぶん)をトロフィーにしか思っていないような視線。リリの顔だけを見て近づいてくる男たちは、それこそ猿と同じなのではとさえ思う。

 

 その点、『彼』は違っていた。

 決して自分を子供扱いしない視線、女性として扱ってくれる配慮。

 けれど、そこに下卑た物は感じられない。大人の世界の一員として、淑女(レディ)として、リリを尊重してくれる優しさがある。

 これがしっかりとした大人の貴族というものか、とリリは嬉しく思うのだ。そして、彼の信頼に応えられる自分自身を、誇らしくも思うのである。……本心の奥底のリリ自身も自覚していない淡い想いが、期待に応えたい、もっと彼の役に立てたら、などと憧れに似た感情で揺らされるのである。

 

 

「ごめんね。教職員が動き回るよりも、ここの生徒が動いた方が怪しまれないから…」

 

「いいえ、先生。それが私の【任務】ですもの」

 

 すまなそうに言うレスターに、リリは微笑んで返す。

 そう、リリはこの伯爵が急に学園に来た本当の理由を知っているのである。

 そして、単なる先生と生徒ではない、特別な秘密を共有しているのだ。

 

 

「それで、シャーロット姫の周辺だけれど…」

「ええ、こちらを見ていただきたいのですけれど」

 

 リリが、現像した複数の写真を手渡す。

 

「・・・ベアトリス。男爵家の娘で、プリンセスのおそらく唯一の『友人』です

 …顔は、ご存じなのですよね?」

 

「うん、校舎ですれ違ったことは何度かあったよ。授業は受け持っていないのだけれど。

 でも、―――驚いたな」

 

 リリが見せたのは、ここ数日で撮影した放課後のプリンセスを隠し撮りした写真である。

 その中に、プリンセスと一緒に映っているのは、胡桃色(ユグランス)の髪をした小柄な少女だ。

 

 彼女はベアトリス。

 『空気姫』と呼ばれ、学内でも誰を連れる訳でも無く一人で過ごしているシャーロット姫に、唯一近づける人物。

 その存在はリリが表現した『友人』というものよりも深いようで、まるで傍仕えしている忠実なメイドのようでさえある。

 リリが撮影した写真の中には、甲斐甲斐しく献身的に姫の身辺に控え、紅茶を淹れて談笑する姿も映されている。男爵家の娘としての振る舞いというよりも、小動物めいた少女が姫君の傍で可愛らしく働いているといった風情だ。

 

「え、と。―――驚いた、とは?」

 

「ああ、ごめん。シャーロット姫が、随分とお優しく微笑まれていたものだから。

 この娘は、ずいぶんと姫から信頼されているようだな、と思ってね」

 

 リリも、もう一度、写真を眺める。

 放課後の中庭で、微笑まれているプリンセスと、その横で嬉しそうにしているベアトリス。

 なるほど、これまで王宮でプリンセスと話されていた伯爵でも、見たことの無い表情だったのか、と。

 

「そうですね…。プリンセスも、あの子にだけは心を開かれているようです。

 学校でも、他の者たちを連れて歩いている姿は、見たことがありませんね」

 

「成程・・・」

 

 レスターは、天井を見上げて、しばし瞑目した。

 

「率直に言ってほしい。リリ君の眼から見て、彼女は『黒』かい?」

 

「それは、無いと思いますわ」

 

「根拠を教えて欲しいかな」

 

 まず、とリリは説明する。

 

「ベアトリスさんがこちらの学校に来られたのは、随分と前のことです。

 もちろん壁が崩れた後のことではありますが…それでも、潜伏の仕込みをするには幼すぎる年齢で入学しています。

 その頃から学校に共和国が入り込み、プリンセスに近づいていたとは考えにくいかと」

 

「だが、それほどに昔からスパイとして潜入していた可能性は否定できないんじゃないかな」

 

「二番目の理由ですが、彼女はスパイが潜入してると仮定するには、少々目立ちすぎています。

 

 …この学校に通う者であれば、プリンセスがベアトリスさんを連れて歩いているのを見たことがあるはずです。プリンセスが他にも大勢のご友人を連れているならともかく、ここまで親しくしているのはベアトリスさん一人だけ。

 

 たしかに、プリンセスに何かがあれば怪しいのは彼女ですが、逆に言えば一番疑われてしまうのが彼女の立ち位置です。

 隠れようとしているスパイが、あれほど近くに居るのは考えずらいかと」

 

 たとえば、プリンセスが仮に毒殺でもされたら、容疑者の中にベアトリスは入ってしまう。

 なぜなら、毒見役も通さずに紅茶を淹れ、共に午後の紅茶を嗜んでいるのを複数人が何度も見ているからである。

 

 プリンセスの私物が盗まれたとしたら、毎日私室に出入りして身の回りの世話をしているベアトリスも疑われる。プリンセスが狙われる事件が発生したのなら、ベアトリスがその時に何処に居たのかが確認されるだろう―――それくらいに、普段から側に控えている少女なのだ。逆に言えば、疑われたくない人間が存在するには、姫の横という立ち位置はあまりに目立つ。

 

 それこそ、ベアトリスがスパイであるという推論を成立させるには、当事者であるプリンセスが実は口裏合わせをしている…というくらいに無理のある論理の飛躍をしなければならないだろう。

 

「第三に―――これは、証拠としては弱いのですけれど…」

 

「言ってみてくれ。どんな意見でも、多い方が良い物だよ」

 

「・・・これは友人から聞いた話なのですけれど。彼女、あまり運動も得意ではないとの話で。…小柄な体格で、運動も苦手…少し、スパイというイメージにそぐわないのかな、と思いますの。それに、彼女の性格も、聞くところでは、控えめで気弱な性格だそうです。…姫様と過ごされている時間の全てが演技だとすると、とんでもない大女優になってしまいますわ」

 

 だから、リリは、調査対象であったベアトリスを、あまり疑ってはいない。

 

 男爵家の娘にしてはプリンセスに近すぎるとも思うが、その在り方にしても友人と呼ぶよりは専属の侍女といった方が近い。それも、この上なくプリンセスに対して憧憬の念を持っているように見えるのだ。そうでなくては、人をあまり近づけないプリンセスが何年も側に置かないだろう。二人の関係性は、積み重ねた時間を感じさせるところがある。

 

 レスターが自身で言ったように、『プリンセスがこんなにも優しく微笑まれている』のだ。もし万が一、それが虚構であるのならば、嘘ならば。

 それこそ世に友情など無いのではと思わせるほど…二人の距離は近いものであるように見えた。

 

 それに、

 

「男爵家の娘が、わざわざプリンセスを狙う理由が無い気がいたしますの。彼女は『白』では?」

 

「うーん…」

 

 リリの答えに、レスターは眉間に皺を寄せて答えた。

 

「・・・それでも、『灰色(グレー)』だね。事実、最もシャーロット姫に近いのは、このベアトリス嬢だ」

 

「それは―――」

 

「それに彼女がスパイじゃなくても、スパイに利用される可能性がある。

 

 ―――脅迫だとか、暴力とか。手段は色々と、ね」

 

「・・・っ!?」

 

 レスターは、机に腕を組んで続ける。

 教室で授業をする先生とも、登下校時の優しい先生とも違う。少し厳しい視線をした表情。

 

「共和国スパイは、こう思うかもしれない。

 

 なるほど、あのベアトリスという少女を操り人形にすれば、自分たちは隠れたまま情報を盗めるかもしれないぞ、と」

 

「そ、その手段というのは」

 

「……『知り合い』から、聞いたんだが、人間の多くは『人』と『金』で裏切るそうだよ。

 他にも、暴力で脅され命を狙われれば、多くの人間は無理矢理従わされるだろうね。

 

 だから、ベアトリス嬢が『限りなく白に近い灰』だとしても、注意しないわけにはいかない」

 

 それは、学生の身であるリリには実感の湧かない、暗闇の世界の論理だった。

 リリは考えた、この子は怪しくないと。

 クロフォードは考えるのだ、全ては怪しいし、仮に『白』でも利用されうるのだ、と。

 

「・・・これは、仮定の話だが。

 

 例えば、リリ君がお父上を人質に取られたとしよう。

 そして、共和国スパイに脅迫される。―――『王国の情報を盗み出さなければ、父親の命はないぞ』、と」

 

「そんな…」

 

「拒絶すれば、スパイは宣言通りにリリ君のお父上を害するだろう。

 だが、情報を手に入れられていない以上、スパイは決して諦めないだろう。

 

 次は、こう来る―――『これで判っただろう。次は母親、最後はお前だ』、と」

 

 想像を巡らし、顔を青くするリリに、レスターは「例え話だよ」と、笑って見せた。机の上に置かれた、茶菓子を勧め、食べるようにと促す。

 

「・・・スパイは、手段を選ばない。

 あるいは、こう来るかもしれない。

 

 『父上が死後、ギャビストン家は共和国と内通していた、という噂を立ててやるぞ』…とね」

 

「…っ! なんて、卑劣な…!」

 

 想定を超える卑怯卑劣に、リリの眼が義憤に燃える。ギャビストン家は、代々法服貴族として由緒のある家柄である。それの誇りを、共和国に傷つけられることなどあってはならない。そして、スパイはその貴族の誇りまでも利用するというのだ。それは決して許されざるものであった。

 

「ベアトリス君個人はシャーロット姫の味方かもしれない。…だが、その周囲は判らない。

 

 これは、秘密にしておいて欲しいんだが―――彼女は、実家である男爵家に問題を抱えていてね。そういった『隙』を、スパイが狙い撃ちにする可能性だって、ある」

 

 レスターは、真剣な口調で呟くと、ふっと表情を緩めた。

 

「・・・一応、今は学校の先生だからね。生徒が共和国のスパイなんかに利用される危険があるなら、守ってやらなくちゃって思うんだよ」

 

「先生―――」

 

 照れたように鼻を掻く姿を見て、リリは思う。自分よりも大人で、『スパイ探し』なんて秘密の仕事をしているとしても…この人は、優しい人なのだ。伯爵という家柄を感じさせず、どの生徒にも分け隔てなく接する姿勢。ベアトリスという男爵家の娘を、本当に慮っているのが伝わってくる。ベアトリスを『灰色』と表現するのだって、きっと本心からのものでなく、レスターが自身で言及したように、一人の少女が卑劣にも利用されうるという危険性を考慮に入れたものなのだろう。

 

「―――大丈夫です、先生っ。このリリ・ギャビストンもお手伝いさせて頂きますからっ」

 

「・・・でも、無理はしないでくれよ。リリ君も、同じく大切な生徒の一人であることに変わりはないんだからね」

 

 優しく笑みを交わして、リリは心の片隅で想う。

 

 たしかに、秘密を共有して隠れて任務を行う仲間ではあるのだけれど。

 嗚呼、『大切な生徒の一人』ではなく、リリ・ギャビストンを見てくれるのならば―――。

 

 そんな淡い想いを抱えるリリの表情は、可愛らしい十七歳の少女だった。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

「随分と非道いのね、『先生』? 大切な生徒を利用するだなんて」

 

「否定はできないのが辛いところだね」

 

 リリが退室して、しばらくの時間が経った。

 

 相談に来る学生もいなくなり、夕闇が迫ってくる時間帯。

 部屋には、レスターしかいない…その筈であった。

 

 突然、部屋の片隅から声が生じて、レスターに語り掛けてくる。

 彼は一瞥すらせずに、その声に応じた。

 

 数瞬の後、姿を表したのはステファニーである。

 無論、スパイといえど、虚空から現れるという芸当はできない。

 種を明かせば、この図書司書室には閉架となっている小部屋が接続しており、彼女はそこに潜んでいたのだ。

 レスターが屋敷で見慣れているメイド服姿ではなく、ちゃんとした学生服を着た姿である。

 

 

「それで、知っているかもしれないが、彼女がリリ・ギャビストン。

 ノルマンディー公の息がかかっていて、目下校内の共和国スパイを捜索中というわけだ」

 

「クロフォード先生は『校内の恋愛相談窓口』でしたね。成程、それも隠れ蓑、と」

 

「相談の数割は、真正の恋愛相談だよ。それについては、口を割る気は毛頭ないかな」

 

「では、残りの数割は?」

 

「どちらのスパイも居るよ。キミと同じようにね」

 

 ステファニーは作り笑顔を返しながら思う。

 ―――この男の笑顔は、基本的に虚実というものが無い。

 嘘を吐いているときも、真実を語るときも、同じ笑顔を浮かべている。

 まるで同じだ。私のようなスパイと同じ。

 そうでなければ詐欺師の笑顔。

 

「まさか、伯爵様にここまで詐欺師の才能があるとは思いませんでした」

 

「無能よりは万倍良いだろう?

 ボクだって死にたくはないからね。全力で動いているだけさ」

 

 大した訓練もなしに両陣営を騙し、同時に信用させようというのだ。

 多少レスターの演技に才能があったところで、正気の沙汰ではない。

 

 彼は、あの晩に自身で語ったように、己の命すら捨てた保身無き『蝙蝠』だ。

 死ぬことを恐れていないから、生きて騙すことに躊躇が無い。

 最悪―――と、ステファニーは笑顔で思う。

 

「―――私は、貴方をまだ信じていないわよ。怪しかったら、つい撃ってしまうかも」

 

「できれば、ボクの背中を撃つ瞬間まで判断を保留してくれると嬉しいんだけどね。

 

 大丈夫、こちらから裏切ることは無いさ」

 

「だといいんだけどね」

 

 ステファニーの声色に、甘い色は無い。

 

 『あの晩』に、ステファニーは彼を籠絡しようとして…失敗した。

 それは、彼女の中に思い出したくもない記憶として存在する。

 彼女の人生の中でも、最大級の汚点となるだろう失敗を、忘れることは無いだろう。

 

 

『どうして、抱かなかったの』

 ・・・そう、暗闇で問うステファニーの言葉に、

『キミが、ステキな淑女だからさ』…と彼、レスターは返した。

 

 ―――なんだ、その答えは。

 抱けばよかったではないか、私たちと同じように騙し騙され、そして死ぬ人間なのだから。

 安易な同情でもしているのか。大切にすれば情が沸くとでも思っているのか。

 くだらない。

 

 それでも、ほんの少しだけは。肌を晒さず、女の武器を使わずに済んだことへの安堵もあって…ステファニーは、やはりこの男は信じられないな、と思いを強くするのだった。

 

「ともかく―――この一月で、王国側の学園内の体制は確立したといっていい。

 

 キミも、気を付けるように。無関係の場所でキミたちが掴まっても、ボクは無関係の一教師だ」

 

「あら? では、私たちは貴方を『共和国に内通していたモグラだ!』と叫びますよ?」

 

「なら、ボクは『相手を油断させ、尻尾を出させるための策だった』と強弁するよ。

 信じてもらえるかはともかく、共和国(キミたち)を牽制はさせてもらわないと、ね」

 

 笑い合って、紅茶を飲んで、茶菓子を食べる。

 笑顔の下に何を潜ませているのかを探りながら、机の下で銃把を握る。

 情報を売って、買って。敵を売って、仲間を売って。

 その先に何を手に入れるのかも知らぬまま、水面下で探り合う。

 

 

「―――では、私はこれで。…次の金曜には、お屋敷に伺いますから」

 

「お願いするね。学食も悪くはないんだけれど…毎食というと、少しばかり飽きてきたところだ。

 学長に改善要求でも出すかなぁ…」

 

 辟易としたように呟くレスターに、ステファニーは微笑する。

 アルビオン人にしては、レスターは美食家だ。それこそ、伯爵家の財力を使ってでも食堂の改善を計ってしまうかもしれない…。長くはない付き合いとはいえ、彼の食事に対する並々ならぬ関心は知っている。そのうち、この若き伯爵は『校内の食事の質向上』なる題目を掲げて、学長室に突撃してしまうかもしれない。スパイとしてはともかく、そういった気取らなさという部分は、彼の微笑ましい美徳に思えるのだった。

 

「では、次の金曜に、屋敷で」

 

「ええ、さようなら、『先生』」

 

 別離(わかれ)の挨拶に、レスターは跪いてステファニーの手を取った。

 そして、軽く口付ける。

 まるで貴婦人にするかのように。物語の愛(ミンネ)のように。

 それは憧憬であって、愛欲ではないと証するような、軽い口付けであった。

 

 ステファニーは、無言で部屋を後にした。

 

 彼が口付けた手…手袋をつけていて、彼は素肌にさえ触れていなかった…を一瞥して、思う。

 廊下を振り返っても、もはや生徒の影は一つもない。誰もいない、がらんとした図書館。

 ―――彼は、何を考えているのだろう。

 二重スパイをするには、謎めいた行動原理。

 自分を抱きすらしなかった、それならば信用も信頼もいらないと、自分を押しとどめた。

 

 やはり、よくわからない男だ。信用はできない。

 自分は情になど流されない、いつか、きっと殺すことになるだろう―――。

 

 そう、ステファニーは何度目かの確認をして、寮へ戻った。

 …自分が、どんな表情をしているのかも、知らぬままで。

 

 

 

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