ピンポーン
朝の微睡を破ったその音がチャイムの音だと理解した瞬間、胃に氷を流し込まれたような感覚で一気に目が覚める。
昨日と同じ、睡眠を妨げるチャイムの音。
通販にしろ知人にしろ、今日誰かがこの家を訪ねてくる予定など入っていない。
思い当たる相手はただ一人、昨日来た紫色の女しかいなかった。
ピンポーン
せっつかせるようにもう一度チャイムが鳴る。
出る気にはならないが、例え来ているのがだれであれ確認はしておきたい。
隣に寝ているあかりちゃんを起こさぬよう、そして何より訪問者に気づかれぬよう音をたてず起き上がる。
寝ているあかりちゃんが苦しそうに眉をしかめているのが少しばかり気がかりだが、今はそれより先に訪問者へ対処しなくてはなるまい。
足音を消したまま、玄関の方ではなくキッチンへと向かう。目的は普段埃をかぶっているインターホンだ。
玄関に直接出るのと距離も大して変わらず、キッチンのドアの裏にある為、ドアを閉めないとまともに使えないという使い勝手の悪さからほとんどその存在を忘れかけていたが、完全に忘れてしまっていなくて助かった。
果たしてキッチンへのドアを閉めた所でインターホンの画面に映っていたのは、昨日の結月と名乗ったあの紫色の女性と男たちのセットだった。
まさかもう一度訪ねてくるとは思わず、街中で出会ってしまう事を恐れて実家への出発を明日まで伸ばそうとしていた訳だが、これならさっさと昨日のうちに行ってしまった方が良かっただろうか――いや、今更後悔しても詮無い。
どうする? このまま静かに居留守していれば立ち去ってくれないだろうか。
「いるのは分かっていますから、早めに出て来ていただけると助かるのですけど」
画面向こうから考えていたことを読まれたみたいなことを突然言われ、体がビクッと反応してしまいそうになる。
構造的にインターホンの外から中が見える筈がないとは分かっていても、こちらの目を射抜くようなアメジストの瞳は、画面のこちら側を見通しているのではないかと疑わずにはいられない。
動揺で乱れた呼吸を整えて、考えを巡らせる。
向こうはこちらが家にいると確信しているようだし、仮にそれがブラフだったとしても何かの弾みで居留守だと露見した場合、何故出なかったのか、疚しいことでもあったのかと余計に疑われかねない。
だとすれば、ここはインターホンで対応して時間を稼ぎ、その間にあかりちゃんに隠れてもらうなりして対処した方がいいだろう。
「はい、何でしょうか?」
覚悟を決めて応答ボタンを押す。
「先日お邪魔させていただいた結月ゆかりです、朝早くから申し訳ありません」
相変わらず丁寧な口調だが、どことなく昨日よりとげがあるような気がする。
「いえいえ。それで、何の御用でしょうか」
「そうですね、先ずはこちらを見ていただきたいのですが」
言うが早いか彼女はずい、とタブレットの画面をカメラに近づける。
映っていたのは自分とあかりちゃんが並んで歩いているのを上から撮った映像。
周囲の光景から先日のモール内で取られた映像であることは間違いないだろう。
「……これはモールに設置された監視カメラで一昨日撮られた映像ですが、このあかり型と行動を共にしているのはあなたですよね?」
一昔前の監視カメラと違い、今の監視カメラは素人でも顔の区別が付く程度には十分高精度だ。
流石にこれを自分ではないと言い張るのは無理がある。
「……ええ、そうですね」
「昨日お伺いした際にはこの子に見覚えが無いとおっしゃっていた筈ですが?」
「ああ、申し訳ありません。昨日はお恥ずかしながら寝起きだったもので、記憶がぼんやりしていたんですよ」
「彼女は結構特徴的な外見をしていると思うのですが」
「いやー、本当に申し訳ない。低血圧なせいで本当に朝は弱いんですよ、そういえば一昨日会いましたね」
自分でも驚くほどすらすらと嘘が口から流れ出る。
紫の女性はいぶかし気に片眉をひそめたが、会ったことを認めたからか、それに関してはこれ以上追求してこなかった。
「……そうですか。では改めて、このあかり型は問題を抱えており、マスター、つまり所有者の下から逃げ出している野良個体です。迅速に回収、処置を行わなければならないのでもし匿っているのなら即座に引き渡して頂きたいのですが」
っ――やっぱりそう来るよな。
『処置』という言葉に舌打ちしそうなのをぐっとこらえ、この場を切り抜ける為頭を回す。
「いや、彼女とはモールの近くで会って道案内しただけなんですよ。ここらに住んでる人でモールの場所を知らないのは変だなと思ってたけど、そういう事だったんですね」
少し無理があるとは思うが、これ以外に良い言い訳が思いつかなかった。
「道案内ですか……それにしては随分と長い道案内だったみたいですけれど」
フリップされたタブレットは、次々とあかりちゃんと一緒に居るシーンを流していく。
不幸中の幸いは、一緒にランジェリーショップに入った所と、あかりちゃんをトイレに連れ込んだ瞬間は撮られていなかった事だろうか。
一階のスーパーあたりでマキさんに話しかけられた所で映像は最後なのか、そこで彼女は後ろの黒服にタブレットを渡した。
「残念ながら一緒に店を出るところは確認できませんでしたが、楽しそうにお話ししているような映像もありましたし、これで道案内しただけというのは少し信じがたいですね」
「いやいや、だってあんなかわいい子に声をかけられたんですよ? あなたのように相手に困らなそうな女性には分からないと思いますけど、女の子と縁が無い自分としては是非ともお近づきになりたいと思うに決まってるじゃないですか」
「……つまり、ナンパしていたと?」
彼女の瞳に軽蔑の色が混じった気がしないでもないが、それより大事なのはマキさんの助言通り、帽子が隠れるのに役立っていたという事を彼女が自白してくれたことだ。
これで移動時にあかりちゃんの存在が露見するかもという憂いは無くなった、後はこの場を乗り切ればいい。
「まぁ、そんな所ですよ。顛末については覗き見てご存知のように、焦りすぎたせいで振られてしまいましたけどね」
紫の女性は考え込む。
きっと都合がよすぎる話だとは思われているだろうが、その一方で確たる証拠がない以上こう言われてしまってはこれ以上突っ込みようが無いはずだ。
とはいえこれ以上追求されて嘘を重ね続けていては、いずれどこかで破綻してしまう訳で、出来れば早々に引き上げてほしいのだが。
「成程、ご協力ありがとうございます」
緊張の糸が緩む。
その一瞬後に続く言葉も知らずに。
「……ただ、もう一つ協力して頂きたいことがあるのですが」
乗り切ったと少しでも安堵してしまったがゆえに、緊張の糸がブツリと切れてしまいそうだった。
「な、なんでしょうか?」
震えそうになる声帯に力を込めて何とか音として整える。
「実はこのアパート近辺で、そのあかり型がネットワークに接続した履歴が残っているんです。そこで、このアパートにあかり型が隠れていないか確認したいのですが」
それは明に部屋へと招き入れて探させろという事だった。
「それは――ちょっと、今は部屋が汚いので出来ればご遠慮したいところなんですが」
「大丈夫ですよ、玄関に入れていただければ十秒とかからず確認できるので。それに、野良個体の中には倫理コードが破壊された結果、平気で人を傷つける危険な個体もいますので、あなたの安全の為にもご協力願います」
クソ、嫌なカードを切られた。
ネットワークに接続した履歴というのが本当の事かブラフかはさておき、これだけなら何とか口先だけで切り抜けれたかもしれない。
だが、安全の為というカードを切られて尚拒否するのはあまりに怪しすぎる。あかりちゃんがいると自白しているのと変わりない。
どうすればいい? ここさえ切り抜ければ状況は一気に楽になるのに――
そんな自分の煩悶を察知したかのように、彼女はふっ、と目元を緩めて口を開く。
「……無いとは思いますが一応言っておきますと、たとえあかり型を匿っていたとしても今なら不問に付すのですけれど」
少し和らげられた声は、まるで悪魔が契約を囁くように
「どうしますか? まだ、間に合いますよ?」
瞬間、冷酷なまでの冷静さが動揺も焦りも全てを押し流した。
……嗚呼、なるほど。あかりちゃんを売ればお前はお咎め無しってことか――!!
「――ははは、もしかして疑ってます? ご期待に沿えず申し訳ないですが、匿ってたりはしないですねぇ」
苛つかせるように、わざとおどけた声で答えてやる。
大切な人を犠牲にして安寧を得る?
そんなもの最高に最悪だ。
冗談にしたってあまりに笑えない。
その答えに、紫の回収課は両脇に立つ男たちと同じように表情を滑落させた。
「……いいんですね? これであかり型が見つかった場合、しかるべき処置を取らせていただくことになりますが」
「そう言われても、居ないものを居ると偽ったって何のメリットもありませんのでねぇ」
その声は先ほど以上に冷たさを伴ったものになるが、きっと自分の声もそれと同じくらい冷え切っていることだろう。
「それでは部屋に入れていただけますよね?」
「分かりました。……ただ、少しだけ待ってくれませんか?」
「何故ですか? もし時間稼ぎをしようと――」
「ああ違う違う、今ちょっと裸でしてね」
「は、はだかっ――?!」
美人な割にそっち側の耐性は無いのか、回収課の女は顔を真っ赤にする。
これならば――
「あ、もしかして男の裸に興味があります? それならこちらは気にしないので別に今すぐ全裸で出ても――」
「~~っ! わかりました! 分かりましたから!! 少し待ってますから服を着てから出てください!!」
明らか訴えられてもおかしくないセクハラ発言な自覚はあるが、その甲斐あって彼女は一層顔を真っ赤にし、見えても無いのにインターホンから目を背けた。
よし、これで多少の時間は稼げただろう。
今のうちにあかりちゃんを何とか家から避難させなければ。
そういえばここは二階だが、幸いにも窓の下には降りれる高さにブロック塀があったはずだ。そこからしばらくの間逃げて貰えばいいだろう。
冷静になった為か打開策も思いつくことが出来、後は早くあかりちゃんを起こして――と和室のふすまを開けるが、そこにあかりちゃんの姿は無かった。
代わりに部屋の窓が開いており、そこから刺すような冬の風が吹き込んでいる。
まさかと慌てて窓から身を乗り出すと、今まさに帽子をかぶったあかりちゃんがブロック塀の向こう端から道路へと飛び降りようとしているところだった。
『あかりちゃん!!』
危うく回収課がいるのに呼び止めそうになって、すんでの所で踏みとどまる。
と、あかりちゃんもこちらに気づいたようだった。
その顔に浮かぶのは、今にも泣きだしそうな、だが同時に悲壮な決意を決めたような表情。
そんな表情で、あかりちゃんはそっと口を開いた。
「ごめんなさい、さようなら」
聞き取れるか聞き取れないか分からないほどの小さな声だったが確かにそう言って、あかりちゃんはブロック塀から飛び降りた。
まるでこれが永遠の別れだと言わんばかりに。
「くっそ!」
もしかしてさっきのやりとりを聞いていたのだろうか。
本当なら今すぐにでもその後を追いたいところだったが、先に回収課への対処をしなければなるまい。
噛みしめた唇からは、うっすらと鉄の味がした。