「痛っ……」
突然の頭痛で意識を取り戻す。
目を開けてもぼんやりとする視界では、遠くに見える灯り以外真っ暗で何もわからない。
ただ、冷たい風が頬を撫でたことで、今自分が外にいるのだということだけは辛うじて把握できた。
しかし何故外で寝ているのかと痛む頭で記憶をたどり、ああそうだったと思い出す。
確かあのあと自転車を飛ばし、橋のすぐ近くまで来た時だった。
自転車が石か何かを踏んで前輪が浮き上がり、そのまま立て直せずに転倒。そのまま土手を転がり落ちて――
――そこからの記憶はないが、頭が痛いしきっと何かにぶつけて打ったんだろう。
そこまで思い出すと、今度は意識を飛ばすほどの衝撃で頭を打ったのだから怪我していないだろうかという不安が沸き上がって来る。
恐る恐る額に手を当てるが血で濡れた様子はない。
多少ほっとしながらも、一応確認ついでにそのまま少しずつ手を頭頂部の方に伸ばしていくと――
ふに。
突然指先が柔らかいものに触る。
ふにふに。
もう一度つついてみる。
何だか病みつきになりそうな柔らかさだ。
ついついもう一度つついてしまいそうになるが、昼間の様子を思い出してみてもこの川べりにそんな柔らかいものなどあっただろうか。
少し怖くなってきてはいたが、それでもその正体を確かめようと再度“それ”をつついて。
「んんっ」
ふにっという感触と同時に、真上のかなり近くから女の子の声が聞こえて、反射的に手を引っ込める。
いったい何がいるのかという疑問は、雲の切れ目から差し込んだ月の光によってすぐに明らかとなった。
月明かりに浮かぶのは銀に輝く長い二つの三つ編みと、雪のように白い肌、閉じられた目からは精緻な筆遣いによって描かれたような長いまつげが伸びている。
――美少女の顔。
一瞬自分が頭を打ったせいで、ついに虚構と現実の区別がつかなくなったのかもと考え、目を閉じ、こすり、それから再び開けてみるが――やっぱり目の前には美少女がいた。
目の前の彼女はうーん、と眠そうな声を上げてからゆっくりと目を開き、こちらの目とその真ん丸な青い瞳が合うと、にっこりと笑みを浮かべた。
「あ、起きましたか?」
どういう状況なのか今一つつかめず疑問符を頭に浮かべていると、彼女は意識が無かったですもんね、と苦笑する。
「えっとですね、土手から落ちて来たのは覚えてますか?」
「ああ、そこまでは」
「大分ひどい落ち方をしたみたいで、落ちてきた後ピクリとも動かないのが心配になって見に来たんです。それで一応血とかは出て無いみたいだったんですけれど、意識が無いまま放っておく訳にもいかないですし、それに地面だと固いかなって思ってこうしてみたんですけれど」
「こうしてるって……?」
と、彼女がそこまで言ってようやく、自分が膝枕をされていることに気が付いた。
頭の痛みで気づかなかったが、意識を集中してみれば確かに後頭部には固い地面でなく何か柔らかいものが当たっていたし、膝枕されていたのであれば、彼女の顔が真上にあったのも納得――って何を納得しているのか。
女の子に膝枕をされているということに気づいて恥ずかしいやら照れくさいやらで、頭の痛みも忘れて、勢いよく上体をおこす。
「どうしましたか⁉ 何かまずかったですか?!」
彼女がいきなり起き上がったことに驚いたような、自分に不備があったのかとおろおろするような、そんな声を上げる。
「ああいや、まずくはないんだけど――」
いや全然まずくはない。むしろ個人的には女の子に膝枕なんて、それもこんな美少女になんて、事故ったことを含めて考えてもおつりがくるくらいの美味しいことなんだけれど。
と、起き上がってしまった事をちょっとだけ後悔しながら彼女の方を見て、そして今さらながら彼女が地面に足を投げ出して座っているという事に気付く。
考えて見れば、自分が膝枕をされているということは、する側は当然地面に座らなければならないということだ。
こんな寒い日に地面へ座らせてしまったことに引け目を感じ、目の前で地面に足を投げ出している少女に手を差し伸べる。
「あー、介抱ありがとう。だけど、君の足とか服とかは、大丈夫?」
一瞬きょとんとした少女だったが、すぐに合点がいったようで慌てて手をふるふると振った。
「別に、私の事はいいんですよ。服も、その何というか今さらなところがありますし」
「そうは言ってもなぁ……」
黒のスカートな上に夜闇の中では目立ちづらいが、それでも土やら草の汁で汚れていることは想像に難くない。
「クリーニング代出すからちょっと待ってて、いくら位かかりそう?」
やはり少し考えたが、彼女とこのまま別れてしまえば後悔が残るだろうと、財布を引っ張り出すために彼女へ向けていた手を後ろポケットへ回す。
が、彼女はぴょこんと立ち上がり、ぶんぶんと頭を振る。
その行動は子供っぽさを感じるものだったが、それによって二つの三つ編みが絹束のように宙を舞い、月光を受けてキラキラと輝くさまは、まるで一枚の絵のような美しさだった。
「いいんです、私が勝手にやったことですから」
「いや、でもそういう訳には……」
「本当にいいんです!!」
「あー、そう? だったら無理にとは言わないけど……。ともかく、ありがとうな」
きっと、ここまで頑なに否定するには何か理由があるのだろうと引き下がると、彼女はほっとしたように息をついた。
「いえいえ、それじゃあ今度こそ事故を起こさないように気を付けて帰ってくださいね」
「いや、それを言うなら君こそ夜遅いんだし、気を付けて帰りなよ」
と、なぜかそれを聞いた瞬間、彼女の歯切れが悪くなり、更にわかりやすいことには目を逸らしている。
「あー、はい……そうですね……」
明らかに怪しいというか、何か事情がありますと自ら白状しているようなものだ。きっと嘘がつけない子なんだろう。
ただ、それ故に余計彼女をこの場に放置しておくなんてことは出来る訳が無かった。
「いや、まさかここから帰らないつもりなのか?」
一応ここに居続けることは無いだろうと思って聞いたが、彼女は一瞬固まって、それからますます挙動不審になる。
「い、いや私は――! ほら! 星を見に来たのでもうしばらく――」
「……今日は曇りだぞ」
「……あっ」
「…………因みにもうすぐ雪も降り始めるらしいぞ」
「えっ……あ、あー……えーと……」
誤魔化そうとするものの、言葉を紡ぎあぐねて鯉のように口をパクパクさせる彼女を見ながら何となく予想を立ててみる。
顔立ちから年齢は中学生ぐらいに見えるし、もしかして家出だろうか?
「何か、ご両親と喧嘩でもしたのか?」
まあ、家出したくなる気持ちと言うのも分からないでもない。何を隠そう自分も思春期にはそういうことがあったものだ。
今思い返せば本当に何でもない発言や行動に対して、よくあれだけ反抗出来たものだとも思うが。
その問いに、しばらく答えづらそうにあー、とかうー、とか唸っていたので、きっとそうなんだろうと当たりをつけて、話を続ける。
「あー、別に家出が悪いって言ってる訳じゃなくてな。ただ、君みたいな子がこんな夜遅くに外を出歩いてるのは危ないし、友達の家とか泊めてもらえそうにはないのか?」
彼女は、何故だかますます困ったようにしばらく眉根を寄せていたが、やがて観念したように話し始めた。
「……自分で言うのもなんですけど、実は私、野良ボイスロイドなんです」
「…………マジか」
これで、ボイスロイドだと明かされたのはマキさんに続き二回目となった訳だが、やっぱり全く分からなかった。
マキさんとちょくちょく会っているのだし見分けられるはず、という自信があっただけに地味にショックだ。
それはそれとして。
「にしても君みたいな子が『野良』なのか」
『野良ヒューマノイド』。実際にこうしてみたのは初めてだが、話には聞いたことがある。
俗称ではあるが、何らかの原因で所有者の命令に従わず、逃走してしまった個体の事をそう呼ぶんだったはずだ。
ただ、今までの彼女を見ていると、ニュースで報道されるようにどこかが壊れて狂暴化していたり、狂っていたりするようにはとても見えない。
むしろ、マキさんと比べても遜色ないほどに人間らしかった。
そんなことを考えていると、彼女は真剣な表情で勢いよく頭を下げた。
「あ、あの……お願いです!! 私がここにいる事、黙っておいてくれませんか?」
「それは、誰に?」
「え? その、マスターとか警察の人とか?」
言っておきながら彼女自身も分かっていないらしい。
ただ、その真剣さからはどうしても所有者の所には帰りたくない、という強い意志が感じられた。
兎も角、命の、と言うほどではないかもしれないけれど、恩人の情報を売るような真似などするつもりはない。
「勿論」と答えると、彼女はひとまず安堵した様だった。
だが、野良ボイスロイドだと分かったからといって、それはこんな所で彼女に一晩を過ごさせていい理由にはならないだろう。
「ところで、やっぱり今晩はここで過ごすつもりなのか?」
「はい……他に行くところも無いですし、この橋の下なら少しは雨風も凌げますし」
「いやまあ、雨風はしのげるかもしれないけど……」
この真冬の夜に雨風だけ凌げても、気温はどうにもなるまい。
しんしんと降る雪の下、彼女が夜風に吹かれながら体育座りで震えている姿を思い浮かべると、ますます彼女をこのまま放置することなど出来そうにも無かった。
だが、自分にできそうなことと言えば……
「……その、なんだ……君さえ良ければ家に来ないか?」
「え?」
突然の提案に彼女はきょとんとした表情を浮かべた。
そりゃそうだろう、さっき会ったばかりの人にいきなりそんな事を言われたら、自分だってそうなる。
だがここら近辺には、泊まれるような施設は無いし、彼女を預かってくれるような知り合いもいない。それくらいしかいい案が思いつかなかったのだ。
「ああ、そのなんだ。変な意味じゃなくてだな……さっきも言ったように今晩は雪が降るらしいし、そしたら凄く冷えるだろ? それが分かってるのに、君みたいな女の子をここに置いたまま帰るのはあまりに忍びないというか何というか……ともかく、ここにいるよかいいと思うんだけど、どうかな?」
彼女はその言葉に一瞬ぱっと顔をほころばせたが、すぐその喜びは霧散し目を伏せてしまう。
「でもそれは……あなたに迷惑をかけてしまうじゃないですか。私は大丈夫ですから、本当に気にしないでください」
「いや、そんな表情で言われたら逆に気になるし、それに迷惑ではないからそっちこそ気にしないでよ」
「でも……」
きっと本音では、彼女だって暖かい家の中で過ごせるなら過ごしたいはずだ。誰だって好き好んでこんな寒空の下、屋外に一人でいたくはないだろう。
だが、そんな本音よりも遠慮の方が勝ってしまっていて、素直に首を縦に振れないようだ。
それならば……少し考えてから、改めて彼女に提案する。
「……分かった、じゃあお礼ってことでどうだろう」
「お礼、ですか?」
「さっき君が介抱してくれたお礼に家に招待する、と。これなら君も遠慮しなくていいんじゃないか?」
彼女はしばらく黙って考えてから
「私は人間じゃなくてボイスロイドなのに、どうしてそこまで優しくしてくれてるんですか?」
不安げに揺れる瞳を向けてきた。
「いや、別に人間だとかボイスロイドだとかは関係ないだろ。君がどうして野良になったのかは分からないけど、少なくとも今行く場所が無くて困ってるのだけは確かなことで、目の前で恩人が困ってたら力になりたいと思うのは自然な感情じゃないか?」
彼女は驚いたように目を見開いて、それから目じりに雫を浮かべた。思いもしなかった反応に、思わず狼狽してしまう。
「うぇ⁉ なんか悪いこと言ったか⁉ だったらすまん!」
「いえ、そうじゃなくて!! ……ただ、私のことを人間みたいに思ってもらえて嬉しかっただけですから」
普段マキさんを見ている自分としては、そんな事くらい当たり前だと思っていたが、もしかして彼女の所有者は違ったのだろうか。少し彼女が野良になった経緯が気になったが、聞かれたくないことかもしれないし、あまり根掘り葉掘り聞くものでもないだろう。
ぐしぐしと涙をぬぐった彼女は、遠慮がちな小声だったものの口を開いた。
「……実は、とても寒くて今日ここで過ごすのはしんどいなって思ってたんです。だから、お言葉に甘えてもいいですか?」
「勿論。じゃ、行こうか」
彼女に手招きして土手の上を見上げる。
幸いにして、自転車は上の方で倒れており、土手の上にあげるのに、そこまで苦労することはなさそうだった。
それよりも土手は45度とまでは言わずともかなり急であり、彼女に手を貸した方がいいか、と尋ねようしたところでまだ彼女の名前を聞いていないことを思い出す。
「そういえば、名前知らないのも不便だし、教えてもらってもいいかな?」
「名前ですか……固有名をつけられる前に逃げちゃったんですよね。一応、モデル名はアカリと言うんですが……」
それなら自分が名前をつけた方がいいのだろうか。
そう思って彼女をまじまじと見るが、何となくその名前が一番彼女には合っているような気がした。
だが、流石に型名をそのまま呼び捨てするのは冷たい感じがする。
「……じゃあ、あかりちゃんって呼んでいいかな?」
彼女改めあかりちゃんは嬉しそうに頷く。
「はい! えーと、じゃあおにいさんの名前も教えてもらっていいですか?」
「ああそれもそうだ、俺は――」
自転車を起こしながら彼女に名前を教える。
自分に対する呼称が『おじさん』ではなかったことに少し安堵して。
今日はあと一話いくのでよければ続きもどうぞ