その夜、ロンドンの病院から一人の赤ん坊が姿を消した。
白い肌とエメラルドグリーンの瞳。
産み落とされたばかりの柔らかい肌を夜風にさらして、赤ん坊は男の腕に護られていた。
男は慈しむように紅い瞳を細めて、指先で腕の中の小さな命を撫でる。
「セイバー、いや、アルトリア……」
彼女の第二の人生は、その始まりの日に、全てが決定されてしまったのだった。
私がバトンをもらったとき、前にふたり、うしろにひとりいた。
すぐ前にいる彼は、さっきのバトンの受け渡しに失敗して、スピードが出ていない。
難なく抜き去って、次。
わっと歓声があがる。
「抜いたー!」
「トリア!もうひとり!」
声援を受けながら疾走。
カーブの後の直線で、ぐんぐん距離を詰める。
前を走る男子の背中が大きく迫って、そのまま。
「わああ抜いたぞーー!」
「トリアかっこいいーーー!」
トップになって、目の前には白いゴールテープのみ。
私はたくさんの賞賛を受けながら、テープを切った。
運動会の花形である選抜リレーが終わって、閉会式。その後間もなく解散になった。私は友達と共に観覧席に行って、彼を探した。
「ギル」
金髪の長身は見つけやすい。私はすぐに駆け寄った。
「アルトリア。選抜リレー、見ていたぞ。すごいではないか。我も鼻が高いぞ」
褒めはやす彼に、くすぐったいような気分だ。
小学校最後の運動会。ギルに私の活躍を見てもらえたのは、何だかうれしい。
すると、周りに居た何人かの母親たちも、私に話しかけてきた。
「アルトリアちゃん、すごい活躍だったわね」
「本当に。男の子よりも早いんだものね」
「ありがとうございます」
にこにこと話しかけてくる彼女たちに一応礼を言うが、本当は、早く立ち去って欲しかった。
だって、ギルと話したくて、そのきっかけとして私に声をかけているのはわかっているのだから。
しかし彼女たちの話は続いた。私に声をかけてから、自然と彼へと会話の相手を移すことに、どうやら成功したようだ。
私は居心地の悪さを感じた。
「ギル。私が一番だったから、今日はごちそうですか?」
「よかろう。ディナーの予約をしてやる」
苦笑しながら頷く彼をひっぱって、私は足早に人混みを後にした。
「我が他の女と話すのが気に食わぬか? あやつらには、連れ合いもいるというのに」
帰り道、彼はからかうように言ってきた。
「……別に、そんなつもりはありません。他の保護者の方との交流は必要ですから、お話するのは全然構いませんよ」
「そうか」
「そうです」
周囲には、下校途中の親子連れが何組も歩いていた。
その大抵は、両親と連れ立っている。
子供をはさんで、両脇にお父さんとお母さん。家族のテンプレートのような構成だ。
一方で、私の隣には空席があった。
……別に、そのように席が埋まっていることが幸せの条件というわけではない。でも、彼はどう思っているのだろう。
ギルは結婚していない。死別や離婚というわけでもない。私が養子であり、彼が血の繋がった父親ではないことも、とっくの昔に教えられていた。
……しかし、彼の今後のためには、結婚くらい考えた方が良いのかもしれない。私くらい大きな連れ子がいたのでは、難しいのかもしれないけど。
それとも私がそんな心配をするまでもなく、もう、お付き合いしている女性がいるのだろうか。
私には、言いにくいというだけで……。
何気なく眺めて、そして、はっとして彼の手を放した。
「どうした?」
「いいえ、なんでも」
手を繋いで歩いているのは、高学年に見える中では私だけだと気付いたのだ。
「なんだ、恥ずかしくなったのか? 我は父子で手を繋いでいるのは別段変だとは思わないが」
「変ですよ! もう六年生なんですから!」
そういえばこの前も、トリアちゃんの家は外国の人だからスキンシップが多いのかと、友達に聞かれたばかりだった。
回りからも、ちょっとべたべたし過ぎに見えているのだろう。
……気をつけよう。もう子供じゃないんだから。
冬木での聖杯戦争の後、次なる召喚は程なくして行われた。
元より聖杯戦争というものは、全世界で行われている儀式だ。冬木ばかりがその舞台ではない。
通常英霊は、記憶を持たない。
死者であるために。
しかしどうやら、我が受肉していた期間については、生者として扱われるものらしい。
召喚に応じた直後、我の脳裏に過ぎった鮮烈なヴィジョン。
それは、我が妻の頬を撫でた最期だった。
その地での聖杯戦争は、三日三晩で幕を閉じた。当然の結果だ。
再び受肉を果たしたこの現世で、成し得ねばならないことがあるのだから。
セイバーを、手に入れるのだ。
攫ってきた赤子を連れて、日本へ戻った。
現世において唯一記憶のあるこの地は住みやすい。本来ならば見知った冬木の地が良いのだが、そこは避けた。我らを知る者がいたのでは、邪魔立てをされるかもしれぬ。
アルトリアが分別の付く歳には、我が本当の父親ではないと、教えた。
髪色や肌色は似てはいるが、顔立ちは違う人種のものだ。彼女はすんなりと納得したのだった。
賢しい子供だった。
我の手も、使用人の手も煩わせぬ、不気味なほどに物わかりの良い子供。
上手く甘えることが出来ない。弱音を吐くことが出来ない。
愛されることを苦手とする、不器用な性分。
それはこの環境が作り出したものなのか、魂に備わっている性質なのか。
何にせよ、そのような彼女がひどく愛おしいのだった。
彼女が話を切り出したのは、ディナーの途中だった。
メインディッシュのステーキを目の前にしても上の空だから、腹の調子でも悪いのかと思ったが、どうやら考え事をしていたようだ。
「ギルは、結婚とか考えていないのですか?」
「……いきなり何だ?」
「いえ……。もしかしたら、お付き合いしている女性くらい、居るのではないかと」
彼女は目を伏せた。
「私の友達もみんな、ギルのことをかっこいいって言いますし、私もそう思います。もし私に遠慮しているのだったら、大丈夫です。新しくお母さんが出来ても、きっと仲良くします。もしそういう人が出来たりしたら、教えて下さいね」
早口でそれだけ言うと、アルトリアは黙ってしまった。ナイフとフォークも皿に置いたまま、ちびちびとジュースの入ったグラスに口を付ける。とても、本当に平気だという態度には見えなかった。
ただ、そうでなければならないという、彼女の価値観がそう言わせている。
話し方も、我を父と呼ばないことも、我がそのように教育した結果だ。しかし、中身はそうはいかない。意図してセイバーらしく育てられるのは、上辺だけだ。
それでも、彼女はセイバーだった。
生真面目さと凛々しさを備えて、生きていく上で最低限必要であろうレベルの狡ささえも持ち合わせていない。魂がすでにそうなのだ。
その気性は、この娘がセイバーの生まれ変わりであることを、疑いようもない事実として裏付けていた。
「本当に平気か?」
神妙な面持ちで尋ねると、彼女は目を丸くして顔を上げた。
「え、いるの、ですか?」
傷ついたような表情を隠せないで、目を泳がせる。
我に、自分以上に大切な人がいたとしたら、それは彼女を傷つける事件なのだろう。それはなんとも愛おしく、心地よい動揺だった。
「……いや、そのような女はいない」
だが、あまり不安にさせては可哀想だ。
「安心したか?」
笑みを噛み殺しながら聞くと、彼女は我に返ったように、再び表情を取り繕った。
「安心って、だから結婚しても良いって言ってるのに、安心とかじゃないです!」
「そうか」
再びステーキを食べ始めたアルトリアを眺め、グラスに残っていたワインを空ける。そして何気なく浮かんだ言葉を口にした。
「ああ、でも、想っている女性ならば、いるな」
「……片思いですか?」
「さあ? どうだろうな」
再び表情を曇らせる彼女を、愛おしく観察した。
ギルの仕事についてはよく知らないけれど、経営とかに携わる偉い立場の人らしい。
私は世に言われる“お嬢様”なんだろうか。家は広いし、家事のために定期的に業者さんが来たりもする。ピアノは習ってないけど。
ギルは一般的なお父さんよりも、ずっと家に居られる時間が長い。その日も彼はご飯時にはうちに居て、私の作った夕飯を食べた。夕飯の支度は当番制だ。……やっぱり私は、お嬢様ではないかもしれない。
夕飯を食べ終わって、リビングのソファーでテレビを見ているときだった。
私の目を奪ったのは、水中トンネルやイルカのショー。リニューアルオープンした水族館の特集だった。
紙吹雪みたいにカラフルな熱帯魚が、頭の上を行ったり来たりする。可愛いイルカは、飼育員のお姉さんの言うことをよく聞いた。
「すごいですね。とても賢いです」
「近くではないか。行ってみたいのならば、連れて行ってやっても良いぞ」
「本当ですか!」
水族館。遠足で行った以来だ。
「明日は日曜だな。このように紹介された翌日では混み合うだろうが……。行ってみるか?」
「はい、とっても楽しみです!」
ギルと出かけられるのは久しぶりだ。水族館も嬉しいが、それが何より嬉しい。友達にはお父さんが嫌いだという子が多いけれど、私はそんな風に思ったことはなかった。
水族館に行くのなら、青い服を着て行こうか。
お気に入りの青いワンピースをクローゼットから出して、タンスの取っ手に架けておく。
カメラも持って行かなくては。デジカメを充電してから寝よう。
私はバッグの中に必要な物をしっかり準備して、ベッドの脇に置いた。
約束の日。朝方に目が覚めた。まだ6時だから、いつもならばもう少し寝ている。
おなかが痛い。
風邪だろうか。
トイレに行くと、下着に血が付いていた。茶色くなっていたけれど、それが血だということは不思議とわかった。4年生のときに授業で習ったから、知っている。生理というやつだ。
そう気が付いて同時にとても、不安な気分になった。
昔は、私の面倒を見る家政婦さんがいたのだ。今よりも私は幼かったし、ギルガメッシュは仕事であまり家にいられなかったから。今も居てくれれば、相談出来たのに。胸が大きくなり始めてブラジャーが必要になったときは、一緒に買いに行ってもらったのだ。
そのときのように相談できる女性が今近くにいないのは、ひどく心細かった。
どうしよう。
おなかが痛い。
授業で配布された生理用品は、どこにしまっただろう。
腹痛をこらえながら、私は机の奥を探した。
下着を替えて、見つけ出したそれを付ける。なんだかごわごわして違和感があるし、恥ずかしいことのように感じた。
その後はベッドに戻っても、上手く寝入ることが出来なかった。
「アルトリア。少し、顔色が悪いように見えるが」
リビングに降りて行くと、ギルは目ざとくそう言った。
「そうですか?」
私は努めていつも通りに振る舞おうとした。
彼に話すのには抵抗があった。それに、体調が悪いとわかったら、今日遊びに行く予定が流れてしまうかもしれない。
平気なふりをして、席に着く。
でもだめだ。
朝食を残すなんて、私らしくない。そう思って押し込もうとするが、胃が受け付けてくれなかった。
「……食欲がないのか?」
「おなかが……痛くて。でも、ちょっと横になってれば平気です」
私は背中を丸めながら階段を上り、自室のベッドに戻った。
布団に潜り込むが、しばらく目を閉じていても楽にならない。少し休めば平気だろうと思ったのだが、さっきよりも痛くなっている気がする。
少しでも楽な姿勢を探そうと、もぞもぞ寝返りを打っているうちに、ギルが様子を見に来た。
「風邪か? 熱は計ったのか」
「えっと……」
なんて答えたら良いだろう。生理だと口に出すことが出来なくて、もごもごと口ごもってしまう。
「病院に行くか?」
「違います、大丈夫です、あの、病院は大丈夫です」
病院に行ったって治らないだろう。たとえ痛み止めをもらうことが出来ても、ギルにばれてしまう。
「…………生理、か?」
思いついた様にぽつりと、ギルは言った。
びっくりして、……私はこくりと頷いた。
「いつからだ」
「今朝、です」
「生理用品は?」
「学校で前にもらったやつを使いました」
「足りぬだろう」
彼は下の階から、茶色い紙袋を取ってきた。
「そろそろだろうからな。いや、遅い方か」
手渡された紙袋の中身を確かめながら絶句する。必要なものは揃っているようだ。
「担任の先生も男親しかいないからと気を遣った様でな、準備しておくように言われていた」
「……そう、ですか」
私は気が抜けて、ぽかんと彼を見た。
こんなに簡単に、済む話だったのか。
「何故隠した? お前の成長は喜ばしいことだ」
ベッドサイドに腰掛けて、彼は私の頭を撫でた。
「水族館にはまた今度連れて行ってやる。腹痛が良くなったら、ケーキを買って来て祝おう」
恥ずかしく思って隠していたのが、馬鹿みたいだ。
水族館は残念だけど、また今度、絶対に連れて行ってもらおう。
「お前が大人になったということだ。……おめでとう、アルトリア」
彼は私の額にキスをした。
その言葉にそれ以上の意味が含まれていたことは、このときにはまだ、わからなかった。
うちは広い。
高層マンションの最上階とその一つ下の階をぶち抜いた作りで、二階立てのようになっている。私ひとりで掃除をするのは大変なので、定期的にハウスクリーニングの人が来ることになっていた。
でも、やっぱりそれだけでは足りない。私は暇をみて掃除をしていた。
彼の部屋のウォークインクローゼット。バッグや小物類が置いてある棚の隅っこに、それはあった。
ギルは男性にしてはアクセサリーなんかをよく持っている方だとは思うけど、その包みは少し、不自然だった。可愛らしい手提げ袋の中に、高級そうな、小さな箱。ギルがたまに買ってきてくれるチョコレートの包みに、雰囲気は似ていた。
つまり……女性用のもののように、見えた。
勝手に開けてしまうのは良くない。
わかっている。でも。
胸がざわつくのを止められず、私は箱を開けた。
中に入っていた四角いケースは、ドラマなどで見たことがあった。だから、それが何なのかもう、検討は付いた。
手触りの良い生地の、丸みを帯びたケースをひらく。
……なんて、美しいのだろう。
部屋の明かりを赤く反射させて、指輪は輝いた。
ルビー、だろうか。私はそれしか、赤い宝石の名前を知らない。大きな宝石がきらきらして、その回りにも小さな石がちりばめられている。
彼の瞳の色によく似ていた。
これは、彼が誰かにプレゼントするものなのだろう。
こんなにも素敵なものを貰えるその女性は、きっと彼に、とても愛されているのだ。
……私、大丈夫って言ったのに。
新しくお母さんが出来たとしたら、ギルは、私とその人のどっちがより大切なのか、とか。私はお洗濯なんかをしなくて良くなるんだろうけど、私がごはんを作ってあげることもなくなるんだろうけど。そしたら、友達と遊べる時間も増える。
いいことばかりのはずだ。
それなのに。
クローゼットの端にその箱をもどして、私は足早に彼の部屋を出た。
ここに、居たくなかった。
寝衣を来てバスルームから出て来たアルトリアは、リビングのソファーで雑誌を読んでいた我を一瞥もせず、キッチンへ向かう。
グラスにミネラルウォーターを注いで飲み干すと、彼女は立ち去ろうとした。
彼女は普段、寝る前にはリビングでしばらくテレビを見ている。
しかしこの頃は、風呂から出て来るとほぼ自室に直行だった。
「まだ、体調が良くないのか?」
「大丈夫です」
ここ数日、アルトリアは様子がおかしい。反抗期というやつなのだろうか。我と距離を取ろうとしていることが、ありありと窺えた。
それならばそれでも良いのだが。親に反抗するのは自立心の表れであり、それも成長過程のひとつだ。
だが、その寂しげな表情は、それとは少し違うように感じた。
「何があった」
「別に……何も」
「我には聞かれたくないことか」
彼女は目を泳がせた。
「…………はい」
何かあった、ということは認めてしまう返答なのだが。
「まあ、我には話しづらいこともあるだろう。無理には聞かぬが」
その言葉の何かが引っかかったのか、彼女は視線を上げた。
ぽつりと呟く。
「ギルも、私に話していないことがあるんでしょう……?」
意外な言葉だ。つまり、それが原因だというのだろうか。我が何かトリアに話していないことがあって、それが彼女の機嫌を損ねていると?
「……何の話だ? 正直、見当が付かない」
彼女が視線を上げたそれに、一瞬身構えた。
敵意。怒り。
そのような攻撃的な感情。
「見ました」
それは、一瞬で影を潜めた。しかし、そんな激しい感情が彼女に宿っていることは、驚くべき事態だった。彼我の信頼関係を揺るがすような、思った以上に重大な問題。続く話の重さを覚悟して、先を促す。
「見た、とは?」
「先に謝っておきます。ごめんなさい。人の物を勝手に開けるのは悪いことです。でも、掃除をしていてクローゼットで見つけてしまったのです」
彼女は、口に出すことを躊躇った。
「…………指輪、を」
その指輪にはもちろん心当たりがあったが、それを見て彼女が考えたことを推察するのに、少しばかり時間がかかった。
なるほど、そういうことか。
今回ばかりは、笑みが零れるのを抑えられなかった。
いつ渡そうかと思っていたが。
「どうして笑うのですか! 私は……!」
我の態度をどう取ったのか、彼女は声を荒げた。
可愛らしい瞳に涙を溜めて。
「確かにあれは、結婚指輪だが……」
この時代の風習を踏まえて、用意したものだ。我が肯定したことで、彼女は息を飲んだ。
「なぜそのように怒ることがあるのだ? 我に、指輪を渡す相手がいるとして」
「いないって、言ったじゃないですか! お付き合いしている人はいないって! 嘘つき!」
大きな瞳から、どっと涙が溢れた。
「嘘つき! 嫌い! ギルなんて大嫌い!」
彼女は罵声を浴びせると、勢い良く階段を昇って行った。
ばたんとドアを開閉する音が聞こえる。自室へ逃込んだのだろう。
少々勿体付け過ぎたかもしれない。この誤解は早々に解いてやらねば可哀想だ。
……その結果、彼女は別の苦悩を抱えることになるのだが。
我はゆっくりと、アルトリアの部屋の前まで歩いた。
「アルトリア」
ギルが部屋の外から呼びかけた。
私はドアに鍵をかけて枕に突っ伏したまま、その声を無視した。
「あれはお前の誤解だ」
嘘。聞きたくない。
「お前よりも大切な者などいない」
嘘。嘘。もういやだ。
「ここを開けろ。……渡す物がある」
……?
「アルトリア」
仕方なく、ドアのところまで歩いた。
手だけ出して受け取って、すぐ扉を閉めよう。なんだかわからないけど、顔を合わせるのはいやだ。
そう考えて、しぶしぶ鍵を開けた、その瞬間。
「あ!」
ドアが開いて、身体が引き寄せられた。
彼に抱き寄せられたのだと、一拍遅れて気が付く。
「やっ!」
私を抱きしめる腕を振り解こうとするが、びくともしない。
「騙して鍵を開けさせて、卑怯です! また嘘を……!」
「嘘ではない」
ギルは床に膝を付いて、私に視線を近付けた。
彼の掌に握られている小さな箱には見覚えがあった。
「これはお前のために作らせたものだ」
「私、に……?」
彼はこれを結婚指輪だと認めたというのに、何を言っているのか。
「言っただろう。想い人ならばいると。これは前世より決まっていたことだ。お前より大切な者などいない。我の百年を超える過去を遡ろうと、我が寵愛を受け取ることが出来る女はお前しかいない」
彼の言っていることが理解できなかった。
前世?
百年をこえる?
混乱する私に、彼はあの、綺麗な赤い宝石の指輪を差し出した。
「我が妻となれ、アルトリア」
その宝石と同じ赤い瞳が、上目遣いに私を捕らえた。
背筋に冷たいものが走る。
こわい。
彼の声はいつもの通り優しかったが、その眼差しは私が見たことがないものだった。
攻撃性に似た、それが何なのか、わからない。
後退ろうとするが、私の腰に回されている彼の腕がそれを許さなかった。
「ギル……?」
彼の顔が近づいて、唇に柔らかいものが触れる。
キス、された。
それは、恋人同士がすることだ。
私たち親子がするようなことではない。彼は何と言ったか。妻に、なれ、と……?
状況を理解出来ない。上手く思考が働かない。
抱き上げられて、自分のベッドに横たえられてもなお、私は茫然と彼の顔を見つめていた。
頬を、彼の大きな手が撫でる。
再び唇を合わされて、でも、先ほどのようにすぐに離れようとはしなかった。彼の舌が唇をなぞる。
「んッ!?」
硬直していた身体が、思い出したようにそれを拒んだ。
引き離そうと手足をばたつかせるが、押さえ込むように抱きしめられて、抵抗を封じられた。
「アルトリア……大丈夫だ。愛してやろうというだけだ。我に愛されたいと、そう思っているのだろう……?」
耳元で囁く声は、催眠術のようだった。
確かに私はつい先ほどまで、彼の愛情を失うことを恐れて泣いていたのだ。彼が言うことを信じるならば、それは私の求めていたもののはずだった。
でも、そうじゃない。
今までとは違う。
無条件に、際限なく与えられてきた愛情は、いま、その対価を求めている。
私は彼に、何かを差し出さなければもう、それは得られないのだ。
緊張と混乱で、足が震える。指先が冷たくなっているのを意識した。
「怯えずとも良い。……今はまだ、お前の悦いことだけをしてやろう」
そういうことをされるのだと、わかった。漠然とした知識は持っていた。それは、駄目なことだ。汚くて、気持ちの悪いことだ。
再び優しく抱きしめられて、でも、その感覚さえ希薄になっていた。
中断された行為の、その続きが始まる。
三度目の口付けを、私は目を閉じて受け入れた。唇をなぞっていた舌先が、口の中に入ってこようとする。思わず、彼の服を握り締めた。おかしな話だ。私をこうして追い詰めているのは彼だというのに、縋る相手も、彼しかいないのだ。
大きな掌が、縋り付いた私の手を包む。
少し力が抜けた隙を突いて、彼の舌が口内に侵入した。柔らかくて、ざらざらする。口の中を舐められて、ぴりぴりするような不思議な感覚が生まれた。
「ん……ふ」
息が苦しくて出た声は、自分のものとは信じ難いような響きを持っていた。
服の中に腕を差し入れられて、直に肌を触られる。
小さくふくらみを持った胸に指先が届いて、身体がびくりと跳ねた。
彼の指の感触に、頭が沸騰する。
その先端を指が掠める度に恥ずかしい感覚が生まれて、そこから気を逸らそうと必死に顔を背けた。
呼吸が荒くなっている。気付かれたくなくて、何とか息を整えようとする。でもそんな器用なことは出来なくて、苦しくて、歯を食いしばった。
「よい。我慢するな」
たくし上げるようにして衣服を取り去られる。露わになった胸を隠そうとするより前に、彼は胸に口を付けた。
「や、ぁ……っ」
初めての感覚に、頭が真っ白になった。
濡れていて、温かい中に包まれる。
もうこの異変を隠そうとする余裕なんてなくて、浅い呼吸を繰り返した。
「ああ……、赤く尖って、可愛らしい……」
唇を離すと、うっとりとした口調で彼は呟いた。
「もっと、お前の身体が見たい」
彼がパジャマの下に手を掛けるのを、私は反射的に手で制していた。
「あ、うっ」
私はどうなってしまったのか。言葉が上手く出て来ない。彼の手を掴んだ腕も、震えていた。
「恥ずかしい、か?怖いか?」
どちらも合っている。
「……ギル、いつもと、違う。怖い……っ」
「違わぬ。小さき頃より、お前を愛することに変わりはない……」
胸から、唇が這って、腹に。それが下へ下へと降りて行く。
ズボンがずらされて、一緒に下着にも手をかけられた。
唇の感触が、太腿に、膝に、降りて、降りて。足のつま先にまで来たときには、私は一糸纏わぬ姿にされていた。
「……っ」
小さいころ、一緒にお風呂に入ったことならある。でも、これはそういうことではないのだ。
彼の赤い視線が、素肌の上を這い回る。いま自分がどんな姿になっているのか。考えただけで、消え入りたいような羞恥心がこみ上げて来た。
彼は、私の知っているギルとは全く違っていた。
優しかった瞳は欲情を映して、私を……そのような対象として見なす。
「アルトリア……愛い」
私の身体を撫でさすっていた手が、膝の裏に差し込まれた。
そのまま、膝を立てるようにして片足を折り曲げられる。
「や! やめてっ!」
恥ずかしい、一番見られたくない部分が、彼の前に晒された。
身を捻って逃げようとしても、離してはもらえない。
心臓の音が頭にがんがん響いて、全身から嫌な汗が吹き出して気持ちが悪くて、自分の泣きわめく声がうるさくて。
もう、なにがなんだかわからない。
どうしてこんなに泣いてるのに、彼は私にひどいことをするんだろう。
こんな仕打ち、堪えられない。
「そのように拒むな……大丈夫だから。ただ、この身体を愛でてやるだけだ」
彼は泣き止まない私の頭を撫でた。
やがて私は、声を張り上げて泣くことに疲れてしまって、抵抗する力も抜けていった。
彼の手が太腿をそっと撫でて、そして、肝心な部分に辿り着く。
「いや……いや」
指で割り開かれて、息を飲んだ。
「すぐ、悦くなる……」
彼が、そこに顔をうずめる。
「あっ、あっ!」
電気が走ったようだった。
なにをされたのかよくわからない。
痺れる感覚が、その場所に彼の舌が触れる度に、私を襲う。
必死に彼を引き剥がそうとするが、だめだ。力が入らなくて、のぼせたように頭が働かなくなって、身体が震えた。
「……っ、ああ、こんなになって……濡れやすいのだな」
昂揚して荒くなった彼の熱い息がかかって、そこがじんじんと痺れた。
指が、私の意識したことのない場所をなぞって、そして、指の先が。
「許して、や! ぁあっ!」
先ほどの場所に吸い付かれて、背筋が仰け反った。抗議しようとする声は全部甘い悲鳴に変わってしまって、言葉なんて全て奪われてしまった。
いつの間にか、私の中に、彼の指が埋め込まれている。広げるようにゆっくりと掻き回されて、初めて自分の中に感じる異物に、目眩がした。
口と指で与えられる強烈な感覚が、内蔵をせり上がって来る。
昇ってくるそれを必死に押さえ込もうと、唇を噛んだ。
「うっ……あ、ふ」
恥ずかしくて、こわくて、気持ち悪くて、気持ち良い。
追い詰められて、どうして良いのかわからない。快感を散らそうと、大きく息をした。
苦しくて、涙が出る。
彼にしがみつくように、肩に爪を立てた。
「ああ、そうか。気をやったことがないのか……。我慢することはない」
ギルは優しく言って、そして。
敏感な部分に、そっと、歯を立てられた。
「ひゃあああ! っあ、あぁ……っ」
何かがはじけて、身体が跳ねた。気持ちいい波が、身体を覆う。
彼の指を締め付けて、中がびくびく動くのが止められない。
視界が歪んでよくわからないまま、私は、ぼうっと彼を見た。
「……っ、我慢が効かぬ、な」
私の聞いたことのない、掠れた声。
太腿にあたったそれは、未知の感触だった。
「や! やだっ!」
朦朧としていた意識が一瞬で冴えて、私は逃れようとした。跳ね起きようとしたのを抱き留められて、私はただ、混乱した。
「トリア、大丈夫だ、そのようなことはしない。……お前のここではまだ、無理だからな。今は、気持ち良いことだけだ……」
震えていた四肢は徐々に落ち着きを取り戻していった。
彼の言うことはよくわからなくて、でも、逃げられないのだということは、残酷なまでにはっきりしている。
状況を諦めてしまうと、強張っていた身体から力が抜けていった。
「良い子だ」
大人しくなった私を慈しむように微笑んで、彼は私の頭を撫でた。
足を揃えられて、身体に付く位に折り曲げられる。もちろんそんな記憶はないのだけれど、おむつを替えられるような体勢に、恥ずかしさがこみ上げて来る。
そのまま、硬く筋張った異物が、足の付け根に挟み込まれた。
生々しいその感触を意識したくなくて、でも、先ほどの気持ち良い場所に添えられて、そこが熱くなってくる。
「う、あ……っ」
ゆっくりと、挟み込まれたそれが動かされる。たまらない感覚に、上擦った声が漏れた。
少しずつ、動きが激しくなる。
押し潰されて、ぐちゃぐちゃに擦れる。
「ひっ、あ、あてないで! あ、あ、ぁっ」
あの感覚がこみ上げてきて、全身を支配した。
身動きも取れないまま、彼が動くのに合わせて、悲鳴のような声を上げることしか出来ない。
上り詰める感覚がまた襲ってきて、シーツを強く握り締めた。
「……ぁっ、あぁ……っ」
内ももを摺り合わすように身体が動いてしまい、足に挟まれていたものがびくびく震えた。
「アルトリア……っ」
腹の上にどろどろとした温かいものが出されて、それによって自分はもう、ひどく汚れた存在になってしまったような、そんな気がした。
私は部屋を出ることなく朝を迎えた。
床に座って毛布にくるまったまま、何度も睡眠と覚醒を繰り返した。あまり覚えていないけれど、夢見は良くなかった。
悪夢だった。
……あれが、その悪夢のひとつだったなら。
机の上に置かれたままの小さな箱の存在が、その希望を打ち砕く。
物音がして、びくりと身体が跳ねた。
彼がリビングに降りる足音。私は息を殺して、耳をそばだてた。
ギルが支度を終えて出て行ったのを見計らって、私は恐る恐る扉を開けた。
しんと静まりかえった家の中。
リビングにはいつも通り、私の朝ご飯がラップをかけて置いてあった。
何も変わらない、朝。
トーストとベーコンエッグは、トーストとベーコンエッグの味がした。
当たり前だけど。
パンをかじりながら、私は泣いた。
学校に、行かないと。
いま、私の心はどうかしていて、そんな風にいつも通りのことが出来るような、そんな様子ではないのはわかっていた。
でも、普段通りにしていたかったのだ。
何事もなかったように振る舞いたかった。
それで元に戻るなんて、そんな都合の良いことはないって、わかっているのに。
学校に着いても、なんだか私は上の空だった。
教室で友達と会話をしながら、それを遠くから見ている自分がいる。話の内容なんて、まったく耳に入ってこなかった。
世界が、違って見えた。
重い重い、罪を背負ってしまった。みんなと同じように、ここに居て良いのだろうか。
「……トリアちゃん、どうしたの? 具合悪い?」
私ははっとして顔を上げた。
「いえ、大丈夫です。なんでもありません」
「でも顔色悪いよ」
話していたみんなが、私の顔を覗き込んだ。どうやら、ひどく血色の悪い顔をしているようだ。いつもと同じようにしていたいのに、私の身体は変調を訴えていた。
目眩がする。
それは周囲の視線を感じて、よりひどくなった。
見ないでほしい。
こんな私を。
「保健室に……行ってきます」
逃げるようにして、私はその場を立ち去った。
保健室の先生とは、普段からそれなりに顔を合わせている。私を見てどこを怪我したのかと当然のように聞く。体調が悪いことを伝えると、彼女は目を丸くした。
「トリアちゃんが怪我以外で来るなんてめずらしいわね。怪我ではよく来るけど」
「すみません」
「謝ることじゃないけど。熱計ってみて」
熱なんてないのはわかっているけど、そういう決まりなんだろう。
「三十六度五分。平熱ね」
体温計を受け取った先生は、読み上げて保健室の利用者名簿に書き写した。
「でも確かに顔色悪いし……。家に帰っても、お父さん日中はお仕事でいないんだっけ?」
「は、はい。夕方までは帰って来ないと思います、ちょっと寝不足なだけなので大丈夫です」
不意に彼のことを聞かれて、動揺した。早口だったかもしれない。
「……お父さんと何かあったの? 怒られた?」
先生はそんな私の様子に気が付いたようだ。
何があったのか先生に言ったら、どうなるんだろう。
私を助けてくれるんじゃないか。そしたらもう、ひどいことをされなくて済む。
助けて。
助けてほしい。
「少し、喧嘩をしただけです。あまりそういうことはないので、眠れなくなってしまって」
自分でも驚くほど流暢に、私は嘘を吐いていた。
言えるわけが、ない。
だって、わかりきったことじゃないか。
話せば私は、ギルの側から引き離される。
「そう。トリアちゃんはお父さんとは仲良しだもんね。早く仲直りできるといいけど。ベッドは空いてるし、ちょっと寝て行ったら?」
「……ありがとうございます」
保健室のベッドはひたすらに真っ白で無機質で。
その空白は居心地が良くて、すぐに眠りにつくことができた。
「おかえり、アルトリア。夕飯は我が作る日だが、なにか要望はあるか」
学校から帰って来たアルトリアは、我の顔を見て硬直した。
我はこの時間にはまだ帰って来ていないことが多い。顔を合わせない内に、自室に籠城する気でいたのだろう。右手に下げているコンビニの袋は、おそらくそのために買ってきた食料だ。
「…………いえ」
「今日の給食は何だった?」
「え、と、カレーです。牛肉の」
「そうか。ではそれ以外のものにしよう」
彼女は神妙な顔で頷いて、階段を上っていった。
夕飯の時分、彼女を呼ぶと、素直に部屋から出て来た。
先ほど普通に会話してしまったからには、そうするしかなかったのだろう。
夕食を摂りながらつけているテレビの感想を我が言うと、それなりに相槌を打つ。素っ気ない態度ではあるが、会話に応じることは応じた。
むしろ、これまでと同じように振る舞おうと、彼女は努めていた。
そうすることで何もかも元に戻るのだと、そう信じているかのように。
「アルトリア」
食事が済んだのを見計らって、問いかけた。全てをなかったことにしようという彼女に、こんな話を切り出すのは酷だろうが。
「我が嫌いになったか?」
「…………何故、そんなことを聞くのですか」
彼女の言うとおり、それは意味の無い問いかけだった。
アルトリアはここへ、我の元へ戻って来た。
あのような行為を強いられながら、それでもなお、我の手の届く場所に自らを置いたのだ。
「我はお前の夫として、不足か?」
「不足だとかそういう話ではありません。貴方は私の父親です……。血が繋がっていないとしても、そうとしか見られない」
「もちろんそうだ。我とて十二年間、お前の父親を務めてきたのだ。我が娘としてお前を愛しく想う気持ちは変わらない」
「それでは何故……」
「娘としてだけでは足りぬ。更に妻としても愛でてやろうというのだ」
そっと頭を撫でてやると、びくりと身を震わせた。
「これはお前が生まれるよりも前から決まっていたことだ。お前は、我が妻となる存在だ」
硬直した身体を抱き寄せる。
「いやっ……」
「アルトリア。今すぐ返答を聞こうとは思っていない。前世がどうあれ、今回の生をどう生きるかはお前の自由だからな」
本当は、彼女に選択権などない。
これは、非情で、一方的な駆け引きだ。
「ただ、我により多く愛される道を示してやった、それだけだ」
天涯孤独の少女。
幼い頃から、我以外に頼るものはなかった。彼女の世話役として雇った使用人は、短い期間でころころと変えた。我以上に懐かれては困るからだ。
彼女には、この手を取る以外に道はない。
可愛い娘が悩み、胸を痛める姿は痛ましいものではあったが、これは必要な儀式だ。
そして、その苦悩を補って余りあるほどに、幸せにしてやれるだろう。
怯える大きな瞳の側にキスを落とし、そのまま、滑らかな肌に唇を這わせた。