「…眠る前に見た夢で終わらせてたまるか。」
ウルベルトは手紙を握りしめた。小包みの中には見たこともない細いケーブルが入っていた。
「日下部、俺は包みからここに足が付かないか調べてくる。」
「はい。じゃあ、先生の午後の予定は全部俺が引き継ぎます。」
「悪いな。これ頼むわ。」
携帯と手帳をぽいぽい渡し、鉛筆と十枚程度の紙、鉛筆を削る用と称しているスイスアーミーナイフを胸ポケットに入れた。
「新太、わかってるだろうが――」
「もし来ても、車には絶対に乗りません。外に出るときには周りの人にすぐに戻ると言います。お湯をポットにかけて行きます。」
如何にすぐ戻ろうとしたかが周りから見て一目で分かるようにする事は大切だ。
「上出来だ。疑われるようなことがあればバカのふりをしろ。できるだけ何も知らないフラミーに喋らせるんだ。」
フラミーは先に帰らせたいが、何も知らないフラミーといる事で日下部は助かる確率が上がる。一度思想犯の可能性をマークされている日下部を守れるのはフラミーだけかも知れない。
二人を天秤にかけたら間違いなく日下部を切り捨てるが、最初から切り捨てる程二人の間の絆は弱くなかった。
ウルベルトはシュレッダーの電源を入れ、やんごとなき人探しの棚の鍵を開けた。
「怪しい奴が外に見えたらここのもんは全部シュレッドしろ。」
「わかりました。」
「…火があれば良いんだけどな…。」
人類を猿から引き上げた力は今やそう易々と手に入らない。
大気を汚さないために車は電気、コンロはIH、タバコは電子、マッチやライターなどはもはやこの世に存在しない。
どの家もオール電化の世界でマッチなどはある意味ロストテクノロジーだ。
IHに鍋をかけっぱなしにして寝たとか、加湿器が暴走したとか、そういう事故でごく稀に火事が起こると皆火を珍しがる。
今の人類は猿以下だった。
ただし、アーコロジーの為には今でもガスも火も何もかもが使われている。
「じゃ、行くわ。」
「先生変な気は起こさないで下さいよ。」
「ははは、お前に言われちゃおしまいだな。」
資料室で二人は笑い合った。
ウルベルトは資料室を出ると尾行用に置いているジャケットを着た。
「フラミー、俺は少し出る。」
「でも次のご相談のお約束がもうすぐですよ?」
ウルベルトはフラミーのお団子をもちもちと握ると日下部を親指で示した。
「あいつがやるから心配すんな。」
「俺、こう見えて先生と二人だった時にちゃんとやってましたから安心して下さい。」
「そう…ですか…?」
心配そうなフラミーを抱きしめ、ポンと背を叩くとウルベルトはマスクをつけ、依頼者の忘れ物の傘を持って出かけて行った。
「さーて、仕事しようか。お茶お願いして良いですか。」
日下部はフラミーの席に座る鯛焼きをフラミーに渡した。
「はひ!お待ちくださいね!」
フラミーはナポレオンを抱いて給湯室に向かい、ポットの電源を入れると、資料室でゔーんとシュレッダーの電源が入っている音がし、電気がもったいないと電源を落とした。
やんごとなき人探しの棚の鍵も開けっ放しで、重要機密だと言うのに無用心だと鍵をかけ直し、資料室を後にした。
お茶が入ると、午後の仕事の確認を進める日下部に出した。
「どうぞぉ。」
「あ、ありがと。」
二人がいつもの業務を進めていると、ノックが響いた。
「はーい!」
依頼者が来る時間にはまだ早いが、入ってもらおうとフラミーは扉を開けた。
「こんにちは、お待ちしておりました。」
「こんにちは。」
スーツの男は胸ポケットから黒い手帳を出すと、パカリと縦に開いた。中には金色の徽章が輝いていた。
「あら?おまわりさんですか…?」
ウルベルトがどれだけ調べても川田太一などと言う者は見つからず、ベルリバーの下へたどり着くことはできなかった。
郵便局の荷物問い合わせにも引っかからない。つまり、ベルリバーからこちらを辿ることもできないと言うことだ。
(ベルさん…流石だな…。)
ウルベルトには偽装伝票を貼って、配達中の郵便屋のトラックに放り込むくらいしか方法が思い浮かばないが、それではこの時間差で届く理由がわからない。
ベルリバーは何かウルベルトにはできない芸当で荷物を送って来たのだろう。
あの電話もどこからどうやって掛けられてきたのかウルベルトには分からなかった。
ウルベルトは他に鈴川家と電子タバコ会社の裁判記録を取りに行ったが、まだ裁判まで行っていないのか――そもそもその情報が特高から出されたブラフだったのか存在しなかった。
(週末はフカマを探しに行かなきゃな…。)
あのおかしなケーブルは置いておいて、ウルベルトはしばらく土日は忙しくなりそうだなと思った。
ベルリバーは袖無し――腕を失ったかつて特高にいた男に会いにいけと言っているが、袖無しとの連絡手段は全て潰れている。袖無しも探し直さなければいけない。
目ぼしい情報は手に入らずにウルベルトは事務所に戻ってきた。
とっぷり日が暮れた中、明かりの盛れる事務所が見えて来るとウルベルトの中には安堵が広がった。
軽い足取りで近付いて行くと、階段の前には場違いな程に上等なスーツに身を包む男がいた。
雨上がりの世界は綺麗な空気だと言うのにその口にはマスク。
まさかとウルベルトには嫌な動悸が走る。
(上は無事なのか。)
どうするかと思っていると、スーツの男はこちらに気付いた。
(っくそが…。)
お互い近付いて行くと――それが何者なのかすぐにわかった。
この男の顔を見て安堵する日が来るとは。
「たっち、どうかしたか。お前が俺のところに来るなんて珍しいな。」
ウルベルトはいわゆるキャリア組の超ド級の勝ち組"おまわりさん"と向き合った。
「こんばんは。宇留部さん、少し話があります。」
ウルベルトは静かにうなずいた。
「…ついて来てくれ。」
二人は階段を登り、二階の事務所の前を通り過ぎた。
ちらりと窓の中を見ると二人はいなかった。
今は一時報告を必要とする依頼者が来ているはずだ。
きっと二人は応接セットにいるのだろう。
ここが特高――特にF班に目を付けられることはない。
ベルリバーの情報隠蔽工作は完璧だった。
屋上に着くと、たっち・みーはマスクを外した。
「お、お前良いのか。」
アーコロジーの住民達は繭の外でマスクを外す事は殆どない。
ふぅ…と息をついたたっち・みーの目は悲しげだった。重苦しい空気を纏い、口を開く。
「ウルベルトさん…。用件は二つです。ひとつ目は――謝りに来ました。約束を守れそうにないので。」
「…わざわざここまで来て何の約束だよ。」
「私は中から世界を変えるとあなたに話しましたね。」
ウルベルトはうなずいた。
体制を守ろうとする男はウルベルトの敵だ。
「――後戻りできない事を知りました。結婚式には行けそうにありません。」
たっち・みーは特高とは無関係の場所にいる。しかし、その職業の性質上特高の動きが耳に入ることもあるのかもしれない。
「…フラミーを悲しませるような真似は許さねぇぞ。あいつはお前も来るって聞いて喜んでたんだ。」
「……私がいけばせっかくのフラミーさんの門出が汚れます。」
「お前ともあろう男が…。たっち、お前は何を知ってる。」
「何も…。何も知らなければ、何の力もありません。しかし――私は何でも知れる、力を持てるところまで早急に駆け上がらなければいけません。」
「たっち、お前がこっちで一緒に動いてくれればこのクソッタレな世界も壊せる。」
「今の社会を否定しても意味なんかないですよ。ルールの中で正しく行われない事は全て罪です。あなたの言う世界を壊すという行いは、今あるルールを破らずにはいられないでしょう。新たな火種を生み、新たなあなたが生まれるだけです。」
ウルベルトの中に爆発するような怒りが燃え盛った。数度深呼吸をし、頭を落ち着ける。
「……お前らがベルさんを殺したのは法に則ったから正義だとでも言いたいのか。」
「…それを知ってるという事は、あなたも関わっているんですね。」
「いいや、関わってない。あいつが勝手にやったことだ。」ウルベルトは身を守る為に即答し、拳を握りしめた。「龍巳、お前は関わってるのか。」
たっち・みーは首を振った。
「いいえ、関わっていません。後から知っただけです…。」
「真実か。」
静かに頷く姿に嘘はなさそうだった。
「……二つ目の要件です。ウルベルトさん、フラミーさんと幸せに暮らすためにも深間事件から手を引きなさい。あんなものが生む世界にはどうせ価値なんかない。」
「………深間事件だと…。」
初めて聞くフカマスミレへの謎の手掛かりにウルベルトはごくりと唾を飲んだ。こんな時に袖無し――腕を失った特高上がりのあの男とまだ繋がれていたら聞けたと言うのに。ベルリバーはこれを聞かせたかったのだろう。
「私も内部にいてのうのうと出世だけを目指して来たわけではないです。警察内部でも都市伝説として語られる特高深間班、深間の残した謎の箱…。」
「ま、待て!お前は何の話をしてるんだ!!まさか箱の中身を――知っていることを全て話せ!!」
「残念ながら私の知ることはここまでです。あなたよりは詳しかったようですね。」龍巳は疲れたように笑った。「ウルベルトさん。世界は…人の意思は捻じ曲げようとしても思い通りになることなどありません。」
「あの人を捻じ曲げようとしてユグドラシル辞めさせちまったお前が言えることか…!」
クラン、ナインズ・オウン・ゴールにいたあの人はウルベルトの恩人だ。
たっち・みーが手を握りしめる音がした。血が滲むのが見えた。
「学ばない私じゃないですよ。」たっち・みーは一息ついた。「――私もユグドラシルはやめます。あなたとの仲間の関係も…ベルリバーさんと友人だった事も…全ておしまいです。あなたの悪意で世界を救えるなら、見せてください。ただし、私はあなたを止めます。ベルリバーさんの命のためにも私はもう戻れない。これは私の十字架です。」
「屁理屈捏ねやがって。ベルさんを想うなら世界をぶっ壊せよ……お前のやり方じゃベルさんの目指したものを潰すだけだ…。」
「この世界の維持のために殺されたベルリバーさんの命をあなたも無駄にしないでください。」
「ま、まさかお前…中から変えるとか言ってたのもやめる気か。」
「いいえ。私は私の家族の暮らす世界が壊れないように、摩擦がないように、誰も気がつかないスピードで変えてみせますよ…。ウルベルトさん、仲間としての関係はおしまいだと言いましたが、――こうしましょう。元から私とあなたは出会っていなかった。私はあなたのことを何も知りません。この先私の前にあなたが現れるとき、悪のままで対峙するなら、我々は敵だ。」
背中を預け合って戦い、一度は肩を抱き合ったこともあった二人は決別の時を迎えた。
「……そうかよ。お前が悪のままで俺の前に現れないことを祈るしかないな。」
「……私は正義を為しますよ。」
「やってみろ。正義の定義は悪より難しいぞ、龍巳。本当の正義の味方になれ。俺は明日を望んでるだけのいたいけな市民だ。」
「どうかいたいけな市民になってください。フラミーさんの為にも。あの人には何も罪はない。さっき、健気にあなたを信じて電話をかけてましたよ。"たっちさんだったんですか、すぐにウルベルトさんを呼びますね"って、日下部君のポケットの中だか、金庫の中だかにあるあなたの携帯に。全くよくやりますよ。あなたはもう既にフラミーさんを裏切って――」
ここまで冷静に話し合いを続けて来たウルベルトはたっち・みーの胸ぐらを掴み上げた。
「俺があいつを裏切るだと。もう一回でも言ってみろ、公務執行妨害だか暴行罪だか知らねぇがぶん殴るぞ。俺はあいつの為になら命だってくれてやれるんだ。」
「そう思うなら本当にいたいけな市民になって、あの人に平和な人生を捧げてください。それがフラミーさんのためです。」
「…あいつの為だと。お前にあいつの何が分かる。肉親ひとり持たずに孤児院で育って、財産は名前だけだと生まれた時から自分で自分のけつを拭いて、多額の負債を抱えさせる社会に感謝しながら、未来の自分に謝りながら生きてきた…!自分の世界がたった一畳や三畳しかなかったあいつの何が!!」
フラミーはこの世界じゃない場所に行けるとしたら、間違いなく帰ろうとは思わないだろう。
「孤児…そうだったんですか…。――だから可哀想で広い世界を綺麗にして見せてやりたい、ですか?いつも綺麗なものを見せてやるって言ってましたもんね。それとも彼女に育てた以上の金を要求する社会への復讐ですか?悪いのは彼女の親でしょう。つまらないエゴイズムに付き合わせるのはやめなさい。――そんな物は愛じゃない。」
「てめぇ!!」
ウルベルトが拳を振りかぶると、たっち・みーは抵抗もせずに目を閉じた。
そう言えばフラミーを諦めるか、箱を諦めるかしてくれるかもしれないと信じたから。
どちらか諦めて欲しいと願うのは無関係なフラミーへの友情故――そしてウルベルトへの最後の友情故。
モモンガやフラミーとの友情は尽きる事はないだろう。
ただ、結果的にでも友人をひとり見殺しにしてしまった事への罪の意識はたっち・みーの中であまりにも重すぎた。
自分はアインズ・ウール・ゴウンに相応しくない。あそこにいる皆の友として相応しくない。
ウルベルトの拳はアリが歩くようなスピードに見えた。
警察官と違って訓練を積んでいるわけでも、誰かを取り押さえ慣れているわけでもない。
いや、全くの一般市民よりは慣れているかもしれないが、たっち・みーには遠く及ばなかった。
顔の前に風が届くと、龍巳は目を開けた。
宇留部の拳は震えていて、龍巳の顔に降り注ぐことはなかった。
「っくそ…くそぉ…。てめぇの殴られた面見て、てめぇを殴った俺の拳を見てあいつが喜ぶかよ…。」
宇留部は龍巳を突き放すと階段へ向かった。
「……ウルベルトさん…。」
「…たっち、お前のことは嫌いだったけど、楽しかったよ。」
「…私もです。」
「………龍巳、早くマスクしろ。お前達の命は長い。可愛い娘もいるんだろ。」
「…宇留部さん、あなたもなるべくマスクをして下さい。外の空気は…あまりにも――」
「今日は汚くねぇよ。」
宇留部は振り返らずに降りて行った。
コツコツと階段を踏む音が終わると、扉を開ける音がし、暖かそうな声がした。
「ただいまー。」「先生!おかえりなさい!」「あ、ウルベルトさん!お出かけした後たっちさんが来たんですよ。タッチの差で。なんちゃって。」「はは、そっか。電話出れなくてごめんな。」「先生電話のことを…。」「いえ、私は全然!今日ログインしたらたっちさんにご用件聞いてくださいね!」「わかったよ。ありがとな。」
扉が閉まる音がすると、屋上には強い孤独感と寂寥感、そして静寂だけが残った。
「……帰りますか。」
龍巳は二度と宇留部に会わない事を祈り、階段を下りた。
二階の宇留部の事務所の中では今日初めて見たフラミーが幸せそうに赤い鯛焼きを抱いて何かをしていて、何度か会ったことがある日下部が真剣な顔をしてウルベルトに何かを耳打ちしていた。宇留部と一瞬目が合う。
龍巳はフラミーが孤児だったなんてついさっきまで知らなかった。
孤児達は養育費を死ぬまで払うと有名だ。その額は龍巳をしても多額と思うほどのもので、利息や養育費などと綺麗な名目を付けて集金されているが、言いがかりのような金額だ。それを払っているのに社会保障も払わされる。
(…幸せになって欲しいですよ…フラミーさん…。どうしてモモンガさんじゃなくて…ウルベルトさんなんですか…。)
龍巳は宇留部探偵事務所の前を通り過ぎ、さらに階段を下りて行った。
「――おりょ?」
ナポレオンを扉の横に置かれた待合ソファに寝かせてやろうと振り返ったフラミーは友人の横顔を見た気がした。
「どしたー。」
「ウルベルトさん、今たっちさんが…。」
「はぁ?いたら入ってくんだろ?寝ぼけてんのか?」
ウルベルトにそう言われると、フラミーはおかしいなぁと呟きながらナポレオンを寝かせハンカチを掛けてやった。
「え…?たっちさん…引退ですか…?」
モモンガは己の耳を疑った。
「で、でも俺達、まだやり残したことすごいたくさん…行ってない場所もたくさんあるじゃないですか…。」
「モモンガさん…。」
「それに、たっちさんがいないとアインズ・ウール・ゴウンは…誰が支えるって言うんですか…。たっちさんがいるから皆ここにいるのに…たっちさん――」
「モモンガさん、解ってください。」
たっち・みー最終ログイン日。
悪魔の師弟は二人、肩を並べていた。
「…あの日、たっちさんが話したかったのってこの事だったんでしょうか。」
フラミーは寂しそうにワールド・チャンピオンを眺めた。
「そうかもな。」
「止めて欲しかったかな…?」
「いや、あいつは止めたとしても聞かなかったよ。」
ウルベルトは「これで引退なのにベルさんが来れなくて残念だね」と話す面々の声に目を閉じた。
他にもフラミー達の結婚パーティーでまた会えると言う声もある。
ベルリバーにも、たっち・みーにも二度と会えないなどと思う者はいなかった。
「…綺麗な空だな。」
ウルベルトは第六階層の空を見上げると呟いた。
…さよなら…さよなら…
崩壊が始まってる…
次回#27式