七月が訪れ、宇留部は体調を崩した。
フラミーと会えないまま季節は夏になった。
袖無しが事務所に来たのは春の終わり、まだ寒かったというのに、もう真夏になってしまった。
四月から失い、約三ヶ月。
病院で点滴を打たれながら目を閉じ――会いそびれた時のことを思った。
カーテンの向こうから医師と日下部が話す声が聞こえる。
白いカーテンにフラミーの刺繍と、フラミーの影をぼんやりと幻視し、宇留部は限界を感じた。
(いつまでも愛してるけど…触れたい…会いたい…寂しい…。)
宇留部は取り戻せない者の重さに小さく呻いた。
日下部がカーテンの中に入って来ると、心配そうにした。
「宇留部さん、具合どうですか。」
「良くはない――かな。俺って女一人いないだけでおかしくなるんだな…。」
点滴を打たれていない自由な方の手を顔に当て宇留部は口を歪めた。
「ただの女じゃないでしょ。あなたの…世界の希望じゃないですか…。」
喉を突き上げる熱が込み上げると宇留部は世界の寒さに震えた。
「そろそろ身柄と金の交換頼んでみるのどうです?」
宇留部は起き上がると事務所用のスマホを取り出し確認した。
「…まだ少ない気がする。毎月給料入れてるだろ。それを受け取る事よりメリットがあると思わせなきゃダメだ。かなりの額が必要になる…。」
「…確かに。」
日下部は宇留部の隣に座るとノートを取り出した。
「でも毎月の支払いを増やせって言ってこなくて良かったですね。」
「なんとも言えないな…。相手に余裕がある証拠だ。じっくり受け取っていけば良いって思ってんのか――もしくは金なんかに興味ないのかだ。」
「――え?そんな事ありえるんですか?」
「もしそうだったら最悪のパターンだ。何渡してもフラミーを返しちゃ貰えねぇ。」
宇留部は常にそのパターンを考えては、そうでない事を祈った。
「――…ふぅ。点滴って無駄に長いな。あと何分?」
尋ねられた日下部は腕時計をチラリと見た。
「一時間半かかるって言われたんで…まだ四十分はかかります。」
「結構あるな。見直しでもするか。」
「そうですね。」
二人はノートを広げた。
会話を一語一句、その時聞こえた音まで書き込まれていた。
2138年7月9日
f:今日はご飯を作ってます
u:何作ってるの
mute
f:細かくは言ったらダメだって
u:そっか
ジュウジュウ(焼く音)、ブブン(メッセ受信音)
とふざけたようなメモだ。
こんなメモだが、見えてこないなりに見えてきていた。
「ったく、
「まったくですね。奥さんがうちに依頼に来てくれると話が早いんですけど。」
二人の会話は相手が既婚者だと確信しているものだった。
毎日犯人スマホには夕食どきにメッセージが届いている。
規則正しい生活。夜中に電話が来たりしないし、フラミーの語る生活の中に犯人は密接だが密着はしていない。
嫌でも帰らなければいけない様子だし、欠かさずメッセージが届くあたり夫婦仲は冷えていない。
宇留部は最初のページから全ての会話のメモをめくっていった。
「…またぷにっとさんに電話してみるか。」
日下部がワイヤレスのイヤホンを取り出す横で宇留部はアインズ・ウール・ゴウンの諸葛孔明に電話を掛けた。
部屋の外からは医療器具を乗せたワゴンが通る音や、看護師たちの軽いざわめきが聞こえた。
二人でイヤホンを付け、ぷにっと萌えが出るのを待つ。
『はーい。ウルベルトさん、こんにちは。』
「ぷにっとさん、今平気すか?」
『例によって例の如く平気ですよ〜。』
ぷにっと萌えの仕事は拘束時間は長いが就業時間中も暇な時間が多い。引退前はサイトを巡回して情報収集を行っていた。
「じゃ、いつもの謎解きの時間ですよ。」
『腕が鳴りますねぇ。』
「目の見えないキャラクターが監禁されている部屋の間取りを突き止めろ〜!いえ〜!」
宇留部の気の抜けた拍手が一瞬響いた。
「…ンン。では条件を伝えます。」
宇留部はフラミーの歩いた歩数、音の聞こえた角度などを細かく伝えた。
『…今日のはずいぶん難しいですね?』
「だろ?俺の残念なおつむじゃクリアできねぇんすよ。」
『今度家行くから、一緒にプレイさせて下さい。』
「……俺がクリアしたら貸しますから。全部解かれちゃ面白くない。」
ぷにっと萌えは納得と不納得の間でうなずいた。
『…仕方ないですね。えーと、ここはワンルームです。』
「俺もそこまではわかります。」
『窓は休日の日暮を感知する時間的に南西。キッチンは北西に壁付け。ベッドは窓の東側です。窓に対して横長な形をしている部屋です。舞台は――アーコロジーでしょう。』
宇留部は認めたくなかった事実にうなずいた。
「決め手は窓の高さですか?」
『そうです。プレイヤーが床に座って窓枠に頬杖をつけるところを見ると、ただの採光にしては些か大きすぎます。デザイナーズなら分かりますが、そんな所は無駄に高いので監禁先には選ばない。恐らく手すりが外についていて、窓枠から軽く体を乗り出して洗濯物を干したりすることが可能なように作られているんでしょう。ベランダが付いている規模ではないので、犯人少しケチりましたね。まぁ洗濯物なんて外に干させないんでしょうけど。』
日下部が漏らさずにメモを取り、予測の間取りを書き始めた。
「アーコロジーだとすると、風呂もスチームバスじゃなさそうだな。一五一二サイズの風呂が入っていると想定して、広さは――」
『えぇ、広さは二十から二十五平米辺りでしょう。洗濯機も間違いなく置いている。ただ、ひとつ疑問があります。』
「なんです?」
ぷにっとは少し唸った。
『繋がれたプレイヤーは家を自由に歩き回れて、風呂に入ったりトイレに行ったりしていますよね?』
「ですね…?」
『普通に考えれば風呂に入れるだけの長さがあれば玄関に届きます。何故プレイヤーは外に助けを求めないんでしょう。窓は開けられなくしているんでしょうけど。部屋をこれだけ自由に動き回り、害されない心の余裕があるところを見ると、脱出を試みて心を折られた訳でもなさそうです。プレイヤーに逃げる意欲を感じない。しかし、プレイヤーは逃げ出したい。プレイヤーは何か大切なものを握られているんでしょうか?それをなんとかする事はできないのかな…。』
宇留部は複雑な笑いを漏らした。
「ぷにっとさん。最初に盲目のキャラだって言ったでしょ。」
『あぁ〜そうでしたね!ははは。』
「とにかく、参考になりました。また電話させてください。」
『いつでも付き合いますよ〜。もう無理だと思ったらいつでもお家行きますからね〜。』
「はは、ありがとうございます。それじゃ。」
『はーい。お大事に。』
宇留部が電話を切ると――日下部の手から鉛筆が落ちた。
「あ、落ちたぞ。」
鉛筆はフラミーが削ってくれなくなったので、先が小さく丸くなってはじめて削られる。
日下部の鉛筆の先はもうほとんどまん丸くんなっていた。
「……先生…。」
日下部は仕事ではない、二人の時は宇留部さんと呼ぶ。
宇留部は鉛筆を返すと日下部の顔を覗き込んだ。
「どうした…?」
「…先生の楽しいお友達は…あの……。」
「……あぁ。多分、全部わかってるよ。」
ぷにっと萌えは電話を切るとしばらくスマホを眺めた。
消えたベルリバー。恐らく全ギルメンの下を訪れた聞いたこともない部署の警察。ウルベルトが必死に探している「プレイヤー」。
(何が起きてるっていうんですか…ウルベルトさん…。)
ぷにっとはタブラに電話を掛けた。
『はいはい。どうも。』
「タブラさん。フラミーさんはアーコロジーです。南西に窓があります。ワンルーム、ベランダ無しの物干し付きです。」
『なるほど。それに加えて駐車場付き、乃至は駐車場近距離が見込まれてるんでしたっけ。防音的に考えて賃貸マンションと言うより、分譲マンションを個人オーナーが貸しているとみた方が良いかもしれませんね。意外と早く見つかるかもしれません。ウルベルトさんに家賃的お勧め街として単身者の多い街と、駐車場の付いている単身者用の分譲マンション、駐車場の近いマンションをピックアップして送ります。』
「助かります。それから、フラミーさんは外に出られない理由と助けを求められない理由があるようです。フラミーさんの様子はどうですか?」
『一昨日朱雀さんに来た電話では少し落ち込んでいそうだったとの事です。勉強もあまり身に入らない雰囲気だったと。』
「…ウルベルトさんも何も言いませんでしたが…病院にいるようでした。相当参ってるんでしょうね。」
『…フラミーさんが助けを求められない理由と、ウルベルトさんが警察を呼べない理由が解れば我々も動けるんですけどねぇ。』
「そこが一番のネックですね。警察はベルリバーさんのこともありますし、警戒した方が良さそうです…。」
『えぇ。朱雀さんと一緒に我が家に泊まった日、ベルリバーさんの話をしたウルベルトさんの様子から言って警察はまずそうでした。…ベルリバーさんもフラミーさんくらい元気にしてると良いんですけど…。』
「同感です。……たっちさんに相談はできないんでしょうか?」
タブラは唸った。
『もしするとしても、我々ではなくウルベルトさんがするべきでしょう。プライドとフラミーさんなら、彼はフラミーさんを選ぶと私は信じています。ですので、既に相談しているか、していなければ――』
「できない相応の理由がある、という訳ですね。分かりました。余計な事はしないでおきます。とりあえずウルベルトさんにはもう無理だと思ったらいつでも家に行くとは伝えました。」
『彼なら真意も伝わったでしょう。取り敢えず、私は情報をウルベルトさんに流します。』
「はーい。頼みますね。」
『任せてください。では。アインズ・ウール・ゴウンに栄光あれ。』
「栄光あれ。」
電話を切るとぷにっとは立ち上がり、大きく伸びた。
点滴効果でかなり体が軽くなった宇留部は日下部と家路についた。
液状食料を飲みながら、フラミーがアーコロジーにいると確信を持ち、会話を読み直した。
相手は金目的ではないかも知れない。
フラミーの給料だけでは先程のぷにっと萌えの言ったような物件をアーコロジーで借りて衣食住を満たすことは難しい。フラミーの養育費の返済は未だにフラミーの口座から落ちているし、大して残らない。
もし金目的だとこじつけるなら、今は投資時期だと我慢して持ち出しを諦め、巨額の身代金と引き換えに――と言ったところだろうか。
どうもしっくり来なかった。
ずっと感じてきた違和感が音を立て始めていた。
「………。」
そうしていると、全てを分かっていそうなタブラから白々しいメールが届き、ふっと笑った。
「日下部、このマンション近いところから虱潰しに当たってこう。取り敢えずリスト送るわ。」
日下部はそれを受け取ると地図を開き、回るルートと一日何軒確認できそうか計算し始めた。
もしかしたら、一番近いアーコロジーではないかも知れない。しかし、近いところから始めるしかないだろう。
相手が金目的ではなさそうなら急いだほうが良い気がした。真なる目的が判らなければ何が地雷かも解らない。
「俺明日は不動産屋行って金積もうと思う。三月と四月に契約成立したタブラさんとぷにっとさんの言ったものに近い物件を不動産流通システムで検索させてもらう。」
「わかりました。俺は取り敢えず事務所運営しておくんで、契約された不動産リスト手に入ったら、この大量のマンションリストと照らし合わせましょう。」
三月、四月は新生活に向けて不動産が良く動く季節だ。調査は難航するだろう。
しかし、それでも――「…動くかと思うとワクワクするな。」
「本当すね。何もできない間が一番しんどかったです。」
二人笑うと、宇留部は腕時計をチラリと確認した。
「…そろそろ電話の時間かな。」
次はいつ電話すると教えてもらえなくなったが、一定の時間に電話は来る。掛かってこない日は必ずメッセージが来る。文章は必ず「無事です。また明日」これだけだ。
最初は胃を痛くしたものだ。この誰が打っているのか分からない文面ではいくら無事だと書かれていても無事を心配してしまう。
宇留部が再びノートに視線を落とすと――ぶぶんとスマホが揺れた。
ハッとしスマホを取ると一瞬で電話に出た。
「文香!」
『透さぁん。』
「どうだ?元気にしてるか?」
昨日も電話したが、大抵聞いていた。
『はひ!透さんは?元気にしてますか?』
「元気だよ。」
大急ぎでメモを取り始めていた日下部は病院に行ったことは言わないのかと顔を上げた。
その顔には心配を掛けたくないと書いてあるようだった。
ふと清書されたノートを見た日下部は口を開いた。
「先生は今日点滴を打ちに行きました。栄養ですけど。」
『っえ!?て、点滴!?』
「おい!勝手に言うなよ!」
「かなり参ってて、こないだ会いそびれたのが効いてるみたいです。このままじゃ先生――」
「日下部!!」
胸ぐらを掴むと、スマホの向こうのフラミーがどうかしようとする音がした。
『や、やだよ!透さん!!お、お願い行かせ――』
ぷつりとミュートになると宇留部はずっと大人しくできていたフラミーが暴れたりして、何か痛い目に合うのではないかとさっと血が凍った。
「て、てめぇ!!日下部!!フラミーになんかあったらどうすんだよ!!」
日下部は両手を自分の方へ煽り、もっと言えとでも言うようにジェスチャーした。
「…ん?――おら、日下部!」
ウルベルトが日下部を叱り付ける声が響く部屋でフラミーは出かけようとしてたっちに腕を掴まれていた。
「お願いします!行きたいの!!また顔見るだけ!お願い!!」
「今ウルベルトさんは家だから行っても見えません!それに、元気だって言ったでしょう!」
「やだ、やだやだ!お願いします!お願いしますから!」
「日下部君は栄養だって言いました!命にも体にも別状ありませんよ、少し疲れが出ただけでしょう!」
「お願い…お願い……。わたし…あのひとに何かあったら…。」
「――あぁ、もう!」
フラミーの目から涙が落ち始めるとたっちは抱き寄せ、娘にするようにフラミーの背をポンポンと何度も叩いた。
「大丈夫です!ウルベルトさんはそんな事でくたばる男じゃないです!!泣かないで!」
「はなしてよぉ…あのひとが本当に元気か…見に行かせてよお…。」
「落ち着いて。落ち着いて…。良い子ですから…。」
「子供じゃないのに、子供じゃないのに…。」
「よく聞いてください、フラミーさん。声で分かるでしょう。ウルベルトさんが元気なのか。私にだってわかります…。耳を澄まして…。」
やんややんやと日下部の怒られる声がする。
フラミーは確かに元気がある時のウルベルトの声だと思った。
「……はひ…。」
「ほら、ウルベルトさんに本当に平気か聞いてごらん…。」
落ち着いたフラミーを離すと、フラミーはミュートを切った。
「ウルベルトさん…平気…?」
『平気だよ…。ほんとに…平気だから、無理しないでくれ…。』
「うん…。」
フラミーはたっちに背をさすられながら頷いた。
たっちはちらりと時計を確認すると、画面に映る赤いボタンに指を伸ばした。フラミーはいつもの終わりの合図に「じゃあ…また夢で…」といつもの別れの挨拶を告げ、電話は切られた。
ウルベルトは電話が切れると日下部に向き直った。
「で、何なんだよ。危ない真似しやがって。」
「…宇留部さん、この六月の会話や、ここやここを見てください。」
日下部が指差すところには――
u:夜付き合わされてんの?文香。
mute
f:ウルベルトさんご心配なくですよ。
――と書かれていた。
そして他にも、いくつかの会話を見せた後、今日日下部が取ったメモを差し出される。
こちらには――
f:いやだよ透さん。お願い行かせて。
mute
f:ウルベルトさん平気?
――と書かれていた。
「…これは…。」
「そうです。他は全部透さんなのに、ミュート後だけは文香さんは昔のようにウルベルトさんと呼んでいます。」
「でも、だからどうした…?」
「…分かりませんけど…相手は文香さんと話をする時、宇留部さんのこと、ウルベルトさんって呼んでるんじゃないですか…?だから、文香さんはそれに釣られて、もしくは救難信号として、ミュート後だけは宇留部さんをウルベルトさんと呼ぶ…。」
ウルベルトはそれを聞くとまさかと顔を上げた。
「相手は…ユグドラシル関係か…?」
「わかりません…。監禁の始まった最初の頃に文香さんが宇留部さんをウルベルトさんと呼んでいるのを聞いて、コードネーム的にそう呼んでいるだけなのかもしれません。でも、もしユグドラシル関係なら…楽しいお友達に相談は…。漏れでもしたら…。」
「……俺をウルベルトさんと呼んで…腰が低くて…箱を理解して…フラミーを大切に扱って…金に余裕があって…アーコロジーに住んでやがって…既婚者……。」
ウルベルトはガンッと机を叩いた。
「やりやがったな…!龍巳!!」
「ま、まだそうとは決まってませんから、俺のただのこじ付けの想像ですから落ち着いてください。例えそうだとしても、龍巳さんなら一層ヤバいですよ。俺達みたいに箱側じゃなくて警察側です。下手な真似したら、宇留部さんも文香さんも血祭りです。」
「…何にしてもフラミーの確保の為にマンションの捜索をする。それから、龍巳の自宅の捜索。明日は俺は予定通り不動産屋に金を積む。めぼしい物件に行って様子を見る。これはもし龍巳じゃなくても必要なことだしな。」
冷静に順序立てるウルベルトから立ち昇る怒気は並みのものではなかった。
「宇留部さん、見つけられるまで落ち着いて電話してくださいね…?」
「任せろ。俺はその気になれば小学生にだってなれる男だ。」
何の自慢にもならない事を堂々と言うとウルベルトはギリッと手を握りしめた。
次の日から二人の行脚は始まった。
日中働き、フラミーからの電話に事務所か自宅で出る。
二人はマークされている危険性があったのでスマホを家に置き、歩いてアーコロジーに行った。再びの寝不足の日々だ。
電話がかかって来る時間の前後に日下部が絞られたリストのマンションの入り口側に張り込み、龍巳らしき者の出入りがないかを確認し、念のために止めてある車の全てのナンバーを控えると言う地道な作業を続けた。
土日はいつ電話が掛かってくるか分からず、動けなかった。
日下部が一番大変だった。足が豆だらけになり、ウルベルトの壮絶なる半年のフラミー情報の抹消行脚を思った。
弱音は吐かなかった。ここで恩を返せなかったら、もう一生何一つ返せないと日下部も必死だった。
そうして過ごしていると、ある夜明けにウルベルトは龍巳の自宅を見付けた。
よく行くと言っていた公園の特徴や妻子の名前、娘の幼稚園行事――。不愉快なほどに龍巳の情報は持っている。
伊達に十二年いがみ合っていなかった。
ウルベルトは妻か娘を攫ってやろうかと、幸せの赤い屋根の家を睨み付けた。
ただ、推測だけで龍巳が本当に犯人なのかは分からなかったし、フラミーの居場所も分からなかった。
奪われる痛みを知る男は先走らなかった。
しかし、死獣天朱雀に電話する事を許し、勉強の道具を与え、必要以上の金を求めてこない様子は十中八九龍巳が犯人だと思わされた。
日下部の当たるマンションは龍巳の家からそう遠くないものへとシフトした。
そしてまた別のある日、電話を待つ為に家に帰ると――モモンガからメールが届いた。
元気にしているか、幸せにしているか、フラミーはどうだと色々なことが書かれていた。
もうモモンガと遊んでいたのが何十年も昔のように感じた。
一番下には来週ユグドラシルがサービスを終了すると言う文言。
良かったら皆で最終日遊びませんかと書かれていた。
ウルベルトはそれを見ると、「フラミーは何が何でも絶対に幸せにして見せます。最終日行けたら行きます!」と返した。
しかし――「行けねぇだろうな。」
苦笑まじりにこぼした。
すると電話が鳴り、フラミーと話しながら、自分で会話のメモを取っていった。
日下部の張っている今回のマンションはどうだったろうかと奔走してくれる弟を思った。
龍巳を家から尾行したいが、龍巳が日中に出向く先は警察署だし、そんな物の周りを再び日下部にうろつかせる事はできなかった。
それに、尾行に気付かない男ではないと言うのが一番厄介なところだった。
西暦二一三八年七月三十一日木曜日、逢う魔が時。
何故、何かが変わるときは津波のように全てが変わってしまうのだろう。
離れた者とすら互いの運命を呼び合い、最初から決められていたようにその時へ向かってしまう。
ウルベルトはやはり今日はログインできそうにないなといつも通り仕事をした。
頭の中には龍巳なのか、龍巳じゃないのかと言うことだけがしつこく響いた。
相手が龍巳なら手荒な真似やおかしな真似は一切されていないだろう。もはや龍巳であって欲しかった。
夕暮れ時に龍巳の家からある程度近くのマンションへ行く日下部を見送り、ウルベルトは日下部がやり切れなかった今日の仕事を引き継いで進めた。
夜が訪れ、残業をしているといつもの電話が掛かって来た。
手帳を開くといつものように応答した。
「文香、俺だよ。元気にしてたか?」
『透さん!元気ですよ。今日もお疲れ様でしたぁ。』
今日もフラミーは元気そうだった。
「ありがとさん、でも今日はまだ働いてんだ。最近は日下部に払う残業手当てケチってんの。なんてな、はは。」
『むぅ。私が働いてないのにお給料貰ってるから…。』
「気にしないでいいよ。金なんかただの数字だって言ったろ。」
『ありがとうございます…。でも、いつかきっと帰るから…それで、私の役目を果たすから…。』
「待ってるよ。何日だって、何年だって、何十年だって。」
二人は沈黙した。
――そして、運命のメールは届く。
三人の携帯はほとんど同時に鳴った。
それぞれの機種の持つバイブレーションが受信を告げた。
〈皆さん、お元気にしていますか?ついに今日はユグドラシル最終日です。俺は帰り次第インしますから、皆さんも良かったら来てくださいね。〉
たっちは自分の胸の中で鳴ったスマホをハッと抑え、フラミーのスマホの向こうの空気を伺うように息を潜めた。
フラミーはテーブルに置いてあるスマホに表示されたモモンガからのメッセージを読み、寂しそうに笑った。
「モモンガさんから今日でユグドラシルおしまいですって。」
『――あぁ。本当だな。』
ウルベルトはいつもと変わらない声音でそう言った。
たっちは注意深く耳を澄ませた。
「透さんはインします?最後ですし。」
『…そうだな。今日の仕事はもうおしまいにして…帰って飯食ったらインしようかな…。』
ゆっくりと片付けを始めたような音がした。
「今日は何食べるんです?」
『お前の好きな奴食うよ。いつ帰って来ても良いように買ってあるんだ。でも、そろそろ賞味期限切れるからさ。』
たっちは気付かれなかったようだと安堵に小さな息を吐いた。
二人がユグドラシルを惜しむ会話を聞きながら、今日作れたコードに絶縁テープを巻いていく。
フラミーの髪を避けると今日作ったコードをコネクターに入れた。
カチリと軽い音を立てて噛み合い、今度こそこのコードパズルが正解か確かめる為にパソコンに接続した。
フラミーの首とパソコンの間をケーブルが渡る。
――すると、パソコンからポーンと音が鳴った。
デバイスドライバーのダウンロードの許可のポップアップが表示されるとたっちとフラミーは目を剥いた。
「そ、そんな!!箱が!!消さないで!!」
フラミーが首の後ろからコネクターを引き抜こうとすると、たっちはそれを抑えた。
『な、おい!やめろ!!』
「っは、離して下さい!!私の!!透さんの希望なのに!!」
二人はガタガタともつれた。
たっちはフラミーをうつ伏せに抑えると、フラミーは声を上げた。
「っあぁ!やめてください!!私――ンゥ!」
ハンカチを丸めて口に詰め、手近なところにある失敗作のコードで
『フラミーに触るんじゃねぇ!!龍巳!!』
たっちとフラミーはスマホに顔を上げた。
「――やはり気付いて!!」
『モモンガさんに感謝してもしきれねぇなぁ!?龍巳、俺は忠告したはずだぞ!!守りたいものがあるならよく考えろってな!!』
たっちの頭の中を、ウルベルトが結婚を皆に報告した日のことが駆け巡った。
『――お前ももう腐った世界の維持者から足洗ったらどうだ。このままじゃいつ可愛い娘や妻が攫われるかも解んないぜ。』
『…そんな事は起こりません。警察をなんだと思っているんですか。それより、フラミーさんの為にも何か普通の企業に勤めて――』
『それで俺がアーコロジーを支える柱になったらお前は満足か。だがな、俺はいつかぶっ壊すもんを支える柱になる気はない。』
『……まだそんな事を。家庭を持つ意味がわからないんですか。』
『お前も、守りたいものがあるならよく考えな。知らないうちに恨みを買うと怖いぜ。』
『…分からず屋が。』
『そりゃどうも。』
「――まさか!!外道が!!」
『お前にだけは言われたくねぇわ!!』
ウルベルトの走る音が聞こえた。
まだまだある失敗作のコードでフラミーの手足をまとめて縛り上げ、画面に映るYESを押した。
パソコンがガリガリと読み込みを始めるとスマホを開いた。
ウルベルトのマークは真っ直ぐ駅へ向かっていた。
「っくそ!!」
『お上品なお前もそんな言葉を知ってるとはな!!』
妻に電話を掛ける。――が、今頃はみっちゃんとお風呂に入っている時間だ。繋がらなかった。
帰らなければ。
フラミーをちらりと見るとフラミーは身をよじり、窓に向かっていた。こうなってはフラミーを置いていけば何をどうしてもフラミーは逃げ出すだろう。
「フラミーさん、ちょっと失礼します!」
ウルベルトとの電話を切り、たっちは自由のきかないフラミーを肩に担いでパソコンを持ちドアを開けた。
二つ隣の部屋に帰ろうとしていた人が驚愕に目を見開いた。
「あ、あんた――!」
何かを言われる前に急いでポケットから警察章を出す。
「私は警察です!人質の解放を行いました!!本官は急ぐのでこれで!!」
解ったとも解らないとも言われる前にたっちは背を向けた。
部屋の鍵はスマホのタッチキーのために自動で鍵がかかる。
帰宅者の多い時間だ。たっちはこれでは保たないと思いながら一心不乱に階段を下った。
皆エレベーターを使う為になんとか誰にも会わずに地下駐車場に降りることに成功すると、車のドアを開け、フラミーを後部座席に乗せた。
「――文香さん!?龍巳ッ!!」
急ぎ扉を閉め、自分達を呼ぶ声に振り返ると日下部がいた。
「っく!日下部君!!まさかこんな所まで!!」
「ここだったとは!運命はうちの先生に味方してるらしいな!!」
日下部は真っ直ぐ走ってくると握り締めた拳を奮い――たっちに届くはずもなく、鳩尾を殴られた。
「――ッンェ"!」
「御免!!君も世界と菫さんの為を想うなら私に任せなさい!!」
日下部は地に膝をつき、すぐに呼吸を取り戻すとたっちのスーツを掴んだ。
「っ――ごれのどごが世界ど文香ざんの為なんだ!!」
「私は箱を壊します!!そうすればもう誰も箱に殺されない!!亡くなったあなたのご両親もあなたがこんな箱に振り回されるのをよしと思うはずがありません!!」
「亡くなっだだど!!思想犯だなんで決め付げでお前らが殺じだ癖に!!ぞの人の全では先生にも世界にも必要だ!!」
「――く!所詮宇留部透の右腕か!!」
たっちは日下部を振り払うと運転席に向かった。
スモークがかかるせいで中が見えない後部座席からごつんっと窓に何かがぶつかった音がし――車は出た。
車が見えなくなってしまうと、日下部は口を拭いにやりと笑った。
「――へ、先生なら気付いたぜ。甘ちゃんが。」
龍巳はウルベルトとウルベルトの事務所のマークが着実にアーコロジーに近付いてくるのを見ると唇を噛んだ。
(…今日じゃない…。もっと前から私だと気付かれていた…!)
車を走らせながら、スマホのAIのエージェントに妻へ電話をかけてくれと声をかけた。
コール音がし甘く愛らしい声がした。
『はぁーい!パパァ?』
「みっちゃん、ママに代わって!」
『ママはねぇ、髪乾かしてる!』
「いいから代わって!」
みっちゃんはムッと声を上げ、ブォーと音のする方へ近付いていった。
『ママァ、パパが代わってってぇ。――髪乾いたらね。お話ししててあげて。――パパァ、ママは髪かわしてるから代わりにみっちゃんがお話ししてあげるよ。』
「みっちゃん、じゃあ今すぐ出かける準備をしなさい!!」
『ママァ、パパがお出かけの準備してって。――えぇ?晩ご飯ならもう食べたって言って。――パパァ、ママがご飯食べたってぇ。』
みっちゃんではダメだ。
「みっちゃん、スピーカーにして!」
『ママァ、スピーカーどれぇ?――はいはい、ここよ。』
画面に触れる音がした瞬間龍巳は叫んだ。
「今すぐ出かける準備をしてくれ!そこにいちゃいけない!」
『何?どうしたの?』
「良いから僕を信じて!数日分の荷物まとめて!」
訝しむような雰囲気が広がり――『わかった。すぐに準備する。』
警察官の妻としての自覚が幼馴染みの愛する妻を動かした。
電話の向こうが慌ただしくなる。
龍巳は少し無理な運転で家に向かった。
ウルベルトの位置は――まだ大丈夫だ。
家の前に着くとたっちは車を止め、フラミーに振り返った。
額をごつん、ごつんと窓にぶつけ、赤くなっている。
「フラミーさん、いけません!この窓は拳銃でだって割れないんだから、頼むから大人しくしていてください!」
首の後ろと繋げている助手席に置いたパソコンのダウンロード表示バーは未だ何パーセントも進んでいなかった。
フラミーの顔にジャケットをかけ、額がこれ以上少しでも傷つかないようにすると車を降りた。
玄関には車が着いた音を聞きつけ、妻とみっちゃんが出てきていた。
「あなた!」
車に乗るのだろうと思っている様子の妻に駆け寄ると、たっちはスマホを取り出した。
信頼できる警察大学校の頃からの友人の警察官の名と住所を選択すると、妻に送った。
「いいかい、そこに行って僕が迎えに行くまで世話になるんだ!」
「え、あなたは!?」
「僕はやらなきゃならないことがある!行ってくれ、駅は使わずに!」
「大丈夫なの!?ねぇ!」
「大丈夫だから!とにかく急いで、みっちゃんの為にも!」
みっちゃんはただならぬ様子に泣きそうになっていた。
「さぁ早く!!」
促されると妻は強く頷き、タクシーを捉まえるためにみっちゃんの手を引いて小走りで大通りに向かった。
背を見送る間もなく龍巳は車に戻った。
フラミーはもそもそとジャケットを取ろうと動いていた。
これで心配材料はない。ふっと息を吐くとハンドルを握った。
「フラミーさん、動かしますよ!」
車を出し、どうするべきか考える。
とにかく家を離れ――どこか、ウルベルト達の思いもしない場所へ。
龍巳は途中車をスタンドで充電し、ウルベルトの位置を確認した。
「……やはり家に行ったか…。」
人の嫁を誘拐しているので仕方がないが――自分と違ってウルベルトは妻に危害を加えないとは思えなかった。
妻が向かっている先の友に頼むとメッセージを入れた。
「フラミーさん、おでこ見せてください。」
噛み付くような顔をするフラミーの額は血が滲んでいた。
「…ああ…こんな…。」
車に積んである救急セットから大判の絆創膏を出すとぺたりと貼った。
フラミーと過ごした四ヶ月は楽しかった。
側にいすぎたせいで、龍巳の心はすでにフラミーを自分の家族と錯覚していた。
龍巳はフラミーの傷付く様子に傷付いた。
「…もう少し離れましょう。」
電車で来ることが難しい場所を目指して、フラミーの心が少しでも安らぐ場所を目指して、龍巳は再び車を出した。
次が最終回になるかなぁ…。
うぅ…皆さん幸せになってください…。
次回#43僕らの新世界から