「ありがとうございました…。先生…。」
「いえ…何もお力になれず…。残念です…。」
宇留部は嫌な仕事もあったもんだと――依頼者女性の娘の死を告げ報酬を受け取った。
「…いえ。主人もずっと、もう生きてはいないだろうって言っていましたから…。覚悟はしておりましたの…。」
「ご主人にも写真を見せて差し上げてください。彼女が最後に過ごした姿を。」
依頼者は数度頭を下げ事務所を後にした。
宇留部は業務決済用のスマホを立ち上げ、売り上げを見るとつまらなそうに相談用応接ソファに掛けた。
足をソファの肘おきに放り出し寝転がる。
「はーぁあっと…。日下部、俺は少し寝る。」
「え、先生。でも次の予定は三十分程度で出発って書かれてますよ?聞き取り調査だって。」
「わかってる。でも俺は寝不足なの。」
日下部はニヒリと笑った。
「そろそろフラミーさんと一緒に暮らして二週間ですし、繋がれました?」
「繋がれねぇから寝れないんだろうが。繋がって疲れて泥みたいに寝てぇよ。」
宇留部はぷんすこと鼻を鳴らすと顔にクッションを乗せ、腕を組んで目を閉じた。
「あーあー、靴くらい脱いでくださいよ。寝れないくらい悶々とするならとっとと抱けばいいのに。」
「俺はあれの心が欲しいの。身体は二の次なの。」
「身体が繋がれば心も繋がりそうですけどねぇ。」
「知った風な口きいて。」
「はは、じゃあ今夜終わったら女の子のいるお店行きましょうよ!」
「いかねぇよ、女はめんどくさいし無駄に高い。」
「女性に女心を聞く会ですよ!ガールズバーなら大して高くないですし!」
宇留部はそれを聞くと顔に乗せたクッションを退けた。
「…それはありだな。うちのギルドの女子はちょっと変わってるから。」
日下部が小さくガッツポーズするのを視界の端に捉えると、宇留部は付け足した。
「おい、おごんねぇぞ。」
「えー先生いつも奢ってくれてたのにフラミーさんと暮らすようになって奢ってくれなくなっちゃいましたよねぇ。」
フラミーのせいではなく、日下部の尻拭いの為に丸々一ヶ月分の金がなくなったせいだというのに――何も知らない男からは直球のブーイングだ。
「フラミーは関係ねぇよ。お前って本当めんどくさい奴。」
ごちゃごちゃと話しているとスマホが鳴った。
「っち、もうアラームが鳴りやがった。」
結局寝れずにスマホを開けば待受はてんとう虫の刺繍。
ロックを解除すると、白いカーテンに夢中で刺繍をするフラミーの写真。盗撮したのを待ち受けにしていた。
フラミーはユグドラシルをしない時は大抵昼寝をしているか、白いカーテンに刺繍をしている。
いつかカーテンにたくさんの生き物と草花を刺繍して草原のようにしたいと言っていたが――まだてんとう虫とハリネズミ、草が二本だ。
宇留部はフラミーを見ると立ち上がった。
「じゃ、行くか。日下部、お前も来い。」
「はい。何持って行きます?」
「紙と鉛筆、そいから
訝しむ日下部を他所に宇留部は殆どの貴重品を事務所の金庫にしまった。
「ほら、早くしろ。」
「は、はい。」
日下部が金庫に荷物をしまい始めると、宇留部はまっさらな紙を十枚程度と鉛筆だけを持ち、ポケットにしまった。
鉛筆を削るためのスイスアーミーナイフを胸ポケットに入れ、チャンネルを合わせたインカムを日下部に投げた。
「…あの、人に話聞きにいくんですよね?この装備は…それにスマホ置いてったら電車乗れなくないですか?」
「この装備が万が一の時お前と俺の命を守る。先方までは歩いていく。」
「えぇ!?歩いてどこまでですか?」
「少し遠回りして向かうけど、一時間半も歩けば着くだろ。」
「い、一時間半!?スマホなきゃ地図だってないじゃないですか。」
宇留部は猿を見るような目で日下部を見た。
「何のために建物や電柱に住居表示があんだよ。それに標識だってある。通りと信号機の名前は覚えたから。おい、お前こっち来い。」
日下部は不安そうに白紙のメモを握り宇留部に近付いた。
「手ぇ上げな。」
大人しく手を挙げると宇留部はぺたぺたと日下部を触り身体のチェックをした。
そしてその腕に着いているスマートウォッチを外すと金庫に放り込んだ。
ナンバーと鍵の二重型のアナログ金庫だ。
「先生の時計はいいんですか?」
「俺のこれはスタンドアローン――っつうかただの巻き時計だから問題ない。行くぞ。」
そもそもインターネットに接続する力を持たない化石だ。
二人は軽装で出掛けた。
「足痛くなりました…。」
「帰りはタクシーで近くまで帰るか。一人事務所にスマホ取りにいって。」
二人は怪しい雑居ビルの前でインカムを着けた。
「テステス。」――『テステス。』
「問題ないな、お前はここにいろ。俺が話聞いてくるから。重要だと思ったことはそっちにも流すからメモしろよ。」
「わかりました…。」
宇留部は軽快な足取りでガードレールを越えると向かいにあったビルに入って行ってしまった。
日下部はビルの外でじっとインカムが鳴るのを待った。何を聞きに来たんだろうか。
スマホもなく、やることがないので汚らしい空を眺めた。
そして――ザザザと言う音と共に『それで箱は今どこに?』
それがイヤホンから聞こえると初めて聞く箱の話にハッとしメモを取り出した。
『我々の聞いた話では富士に行かなければいけないと。』
『富士?箱は山にあるっていうんですか…?』
『いえ、そこで箱の鍵について知る者が過ごしてるとか。』
『…あんな場所に?まるきり仙人ですね。』
富士山は黒い死の山だ。かつて生い茂っていた樹海は全て死に、木の墓場と呼ばれている。
『ところで、宇留部先生。――先生は最近特高に目を付けられているようですが、それはまた何故。』
日下部は自分のせいだと唇を噛んだ。
『うちの助手が少しやらかしましてね。』
『そうですか…。宇留部先生には悪いのですが、これで我々の協力関係はおしまいにしませんか。』
『ま、待ってください!そんな!』
『四日に何百万も特高に賄賂を送ったようじゃないで――』
そこで通信は切れた。日下部の手は震えていた。
「せ、せんせい…!」
日下部は慌ててガードレールを跨ぎ、宇留部の入って行ったビルの階段を駆け上った。
「――先生!!」
蹴破るように部屋に入ると中では宇留部と向かい合う腕のない男。
「日下部!!お前は下にいろって言っただろうが!!」
「で、でも先生、特高に賄賂って!!」
「宇留部先生、やはり我々はここまでです。」
男は宇留部達と同じように荷物一つ持っていなかった。
「そんな!ここで手を切られちゃ俺は箱に行き着けない!!」
「特高に目を付けられたのに箱を追えば殺されますよ。宇留部先生、精々長生きしてください。」
すたすたと男は立ち去って行ってしまった。
宇留部はガンっと扉を叩くとマスクをつけ、日下部を一瞥もせずに部屋を後にした。
「せ、先生…賄賂って…俺のせいで払ったんですか…?」
本当にめんどくさい奴もいたものだと宇留部は無視して階段を降りた。
見つかったと思った箱への道は消失した。
特高に目をつけられている者に下手に情報を渡せば箱が潰されかねない。
仕方のない事だろう。向こうも命がけだ。
――そして見覚えのある景色が下には広がっていた。
場違いな程に綺麗なスーツに身を包む男達。
「まさか何百万も…俺知らなくって…。」
「黙れ。」
「先生、でも!」
「黙れ。特高が来てる。」
日下部はハッと口をつぐんだ。
「長生きして下さい、か。富士の話も雲行きがあやしいな…。裏口は…――ダメだな。」
宇留部は階段を昇り始めた。
「先生…どうするんですか…?やっぱりスマホがなきゃ…。」
「箱がらみだったら特高に賄賂は通用しない。奴らも箱を死ぬ気で探してるからな。下手にスマホを持ってればしらばっくれても全部洗いざらい見られるし、使ってなくてもどこに行ったかGPSの履歴が残る。何かあった時にここにきた履歴を見られたら問答無用に拐われかねん。特にお前はやばい。電車使ってのこのこ桜田門行きやがって。だから直ぐにうちまで特高が来たんだ。駅で降りるお前と映像照合されたんだよ。後は街のカメラで芋づる式だ。三百年前に井伊直弼殺した水戸藩の奴らだってお前より賢かったろうよ。」
階段を上り切り屋上に出ると、隣のビルとそう高さが違わない事を確認した。そしてビル同士の幅もほとんどない。
「三十センチってところか。行けるところまで屋上散歩だな。」
ひょいと隣のビルに移ると日下部もなんとか付いて行った。
「はぁ、本当最悪だわ。お前が急げって言うから急いで箱探したらこれだよ。」
「すみません…。」
「しばらく動けねぇなこれは。ベルさん頼みになっちまう。」
「…ベルさんて先生のおともだちって奴ですか?」
「そうだ。俺の"楽しいおともだち"だよ。帰ったらベルさんに富士のこと話すためにアポ取るわ。まぁ嘘かもしれないけどな。」
二人はいくつもビルの上を行き、流石に飛び移れないと言うところで立ち止まった。
「先生、ここ鍵かかってます。」
「当たり前だろ。この規模の建物だし映画じゃないんだがら。」
ビルはかなり大きめで、綺麗だった。宇留部は塔屋のドアの前からしっしと日下部を払った。
鉛筆削用のスイスアーミーナイフを取り出し、丸く掴む形のドアノブを外し始めた。メモに使おうとしていた紙をしき、外れたネジを丁寧に並べていく。時折紙に元の状態とパーツの内容をメモしながら。
「…す、すごい…泥棒だ…。」
「日下部、俺はお前が楽しく学生生活送ってたような歳よりずっと昔からこう言うことをやり続けてる。昔は泥棒だってしたし、今も箱がらみの必要な情報だと思えばいくらでも盗んでる。今は一丁前にスーツなんか着てるけどな、俺は小卒の負け組のクソッタレなんだよ。お前みたいに高校まで出てるお坊ちゃんとは違うの。俺もフラミーも一人でそうやって生きて来てんの。誰もけつなんか拭いてくれやしない。まぁフラミーは盗みなんかしないけどな。」
日下部は宇留部の手元を眺めながら頷いた。
「…先生、さっきの人もそうなんですかね。」
「あれは似て非なる存在だよ。調べた所によると昔はやんごとねぇ特高にいた。腕をなくしてアーコロジーから都落ちさ。だから俺たちみたいな、いたいけな市民よりも持ってる情報は多かった。だけど――まぁあれともここまでだな。」
「特高はまた事務所にくるんでしょうか…。」
「来ないと思うぜ。これはもう関わるなって言う脅しだ。あいつだって俺たちが本当に捕まれば自分の情報喋られて道連れなんだから。――取れたわ。」
ドアはギィ…っと開いた。
「カメラあるか?」
二人は細く開いた扉の中を確認した。
「多分…ないです…。」
「よし。入れ。――ほんじゃ、のぶ直すか。」
「え、直すんですか!?」
「当たり前だろ…お前おぼっちゃまん君のくせに育ち悪いな。」
日下部は数度瞬きをした。
「さ、さすが先生です…。」
「…お前本当に俺がそんな親切な理由でこれ直してると思ってんの?」
「い、いえ…はい…。」
「はぁ…。ここ壊れてたら誰か入ったと思うだろ。通報されたり調べられたりしたら困る。お家に帰るまでが遠足だって聞いたことないのかよ。」
宇留部は黙々とノブを直すと、鍵をかけ直し、スタスタと降りて行った。日下部は不法侵入は当然初めてだ。
何階か降りた頃、ざわめきと人の話し声が聞こえ日下部はピタリと止まった。
「どした、行くぞ。」
「え、でも人が…。」
「どう見てもオフィスビルなんだから当たり前だろ。ちょうど昼飯時だし。」
宇留部の前にOL達が出てくると日下部はギクリと固まった。
「――あ、お疲れ様です。」
「お疲れ様でーす。」「お疲れ様ですー。」「え?誰?カッコよくない?」「お客さんでしょ。」
OL達はきゃぴきゃぴとランチに去って行った。階段は使わない方が普通なようだ。
「俺も偉くなったもんだ。ほら、お前も普通にしてろ。普通にしてない奴が一番怪しい。それに肉の壁の中が一番安全だ。木を隠すなら森。水を隠すなら海。」
「水を…?それって先生が作った言葉ですか?」
「…なかったっけ?」
二人はOLやら昼食を買いに行くサラリーマンに混じってエレベーターに乗った。
ぎゅうぎゅう詰めの静寂のエレベーターの中で、宇留部が考え事をしようとしていると、ぐぅ〜と巨大な音が鳴った。
「す、すみません…。」
日下部は条件反射で謝った。くすくすと笑われながら、名乗り出た事を恥じた。
「…腹減ったよな、長引いたし。帰社する前に俺たちも昼飯食うか。」
「帰社…そ、そうですね。何食べます?」
「うーん、中川は何食べたい?」
唐突に中川と呼ばれた日下部が瞬きしていると宇留部に足を踏まれた。
「っぅ――!先生、俺はなんでも良いです!」
「……先輩だろ。いつまでも学生気分でいるなよ。」
再びエレベーターの中にくすくすと笑い声が溢れ、二人はエレベーターを降りた。
「これからランチですよね!」「お二人よかったらランチ一緒にどうですか?」「美味しいお店知ってるんですよ!」
さっきすれ違ったOL達がいた。
角の立たない方法で行くと決め、宇留部が「良いですよ。」と笑顔で応えていると、日下部はこっそりと耳打ちした。
「でも、スマホないっすよ…。」
「あ……完全に忘れてた。」
「せ、先生ーー!!」
完全キャッシュレス時代の辛い所だ。
ひそひそと話す二人を前にOL達はきゃぴきゃぴしていた。
――そして「ウルベルトさん?」とあまりにもなじみ深い声がした。
ハッと振り返ると「も、ももんがさん…?」
「はは、やっぱり。エレベーターで声聞いておかしいなって思ったんですよ。」
「モモンガさん、ここで働いてたんですか?」
「いえ、俺は営業でたまたまです。ウルベルトさんは?」
「――俺も営業でたまたま来ました。」
「へぇー!奇遇ですね!」
宇留部はここぞとばかりに女子に振り返った。
「皆さんすみません。親会社の人がいたんで、ランチはまた来週同じ時間にここで。」
にっこりと女が好きそうな笑顔を作るとOL達は残念そうにし、「じゃあ、連絡先交換しておきます?」と言った。
「……いえ、親会社の人の前でちょっと…ね。」
OLは確かにとうなずくと、じゃあ来週ここで、と去って行った。当然来週ここに来る気はない。
「――ふぅ、危なかった。」
「ウルベルトさん。」
「はい、モモンガさん助かりまし――」
「何ナンパしてんですか。フラミーさんに言い付けますよ。まじで。」
「えっ…ち、違うんですよ?あっちが声掛けてきて――なぁ?」
日下部に視線を送ると日下部は急いで頷いた。
「え、はい。先輩は行く気満々だったんですけど、俺たちスマホなくって。」
宇留部はおもいっきり日下部の頭を殴った。
「お前お義兄さんの前で余計なこと言うんじゃない!」
「えっ、お、お義兄さんって、フラミーさんのお兄さんですか?」
「あ、フラミーさん知ってるんですね。でも兄じゃないですよ。保護者って言われがちですけど。それにしても二人でスマホ忘れるってどんな状況ですか?タクシーにとか?」
モモンガが歩き出すと宇留部と日下部は続いた。
「いやぁ、ちょっと訳ありで。モモンガさん後で返すから昼飯食べさせてください。」
「はぁ…本当にウルベルトさんでフラミーさん大丈夫なのかなー。」
「はは、それは安心して下さいよ。」
ビルを出ると三人は適当な液状食料屋に入った。
「まぁ、ウルベルトさんはフラミーさん以外の女子に興味ないタイプですしね。――俺牛丼味で。」
「そうですよ。俺は女に使う時間あったら魔法の詠唱考えてたいです。――俺は牛すき味で。」
「俺はねぎだく味にします!――あ、でも今夜はガールズバー行くんですよ!良かったら一緒にど――」
日下部はまた殴られた。
「――中川、お前クビになりたいのか?」
「す、すみません…。」
「ウルベルトさん…フラミーさん泣かせたら本当許しませんよ。」
「モモンガさん、違うんですよ?本当に。俺はフラミーの気持ちというか、女心を知るために仕方なく行くんです。」
モモンガは液状食料を飲みながらウルベルトを胡散臭そうに眺めた。
「本人に聞けば早いじゃないですか。そんなもん。」
「フラミーに俺とえっちどう?とかチューさせてほしいんだけどって言えないでしょ。」
それを聞いた瞬間モモンガは咳き込んだ。
「――ッ、……本当にまだ何もしてないんですか?」
「してないっすよ…。買い物の時に手繋ぐくらい。」
「だから、先輩は寝不足なんです。一晩悶々して寝られないらしいです。」
「…それは…なんていうか…思ったよりウルベルトさんって損な男ですね。」
「これも一つの愛の示し方だと思って諦めてますよ。しょっちゅうトイレこもってジョニー落ち着かせて……フラミーは俺の腹がゆるいと思ってるせいで食物繊維系の液食と乳酸菌添加の液食買ってくるんすよ。」
「あー…気遣われてますね…。」
ウルベルトは手帳に挟んであるフラミーの手紙を読もうと胸ポケットに手を突っ込んだ――が、手帳はなかった。
フラミーはウルベルトが起きるより先に出かける時は手紙を必ず残して行ってくれる。ウルベルトの大事なコレクションだ。何ならそろそろアルバムにしたい。
「……早く事務所戻らないとダメだなこりゃ。そろそろ禁断症状だ。」
「スマホないと落ち着かないですよね。」
「スマホも手帳もないとダメだ…。モモンガさん、ご馳走さんでした。帰ったら送金しますから。」
「お金困ってるなら急がなくても良いですよ。」
ウルベルトはフラミーにタンスを買いたい事を思い出すと少し悩んだが食事一回分をケチったところで焼け石に水だ。すぐに首を左右に振った。
「いや、すぐ送ります。こいつの分も。」
三人は味気ない食事を済ませると店を出た。
「じゃあ、俺は駅なんで。」
「俺たちはこっちですから。またナザリックで。」
「はーい、またー。」
宇留部と日下部は念入りに遠回りをして二時間掛けて事務所に戻った。
「さーて、フラミー見ましょうね〜。」
うきうきと金庫を開け、日下部に荷物を返してやり、金庫を閉めるとスマホを手にソファに座った。
「はぁ。しばらく箱探しはできないし、俺も刺繍覚えるかな。」
「あの、先生。」
「何?お前も刺繍やるか?」
日下部は申し訳なさそうに立っていた。
「俺、先生にちゃんとお金返しますから…。」
「また済んだことうだうだ言ってんのか。そんなだからお前はいつまでも童貞なんだろ。」
宇留部の言葉に日下部は首を振った。
「俺は童貞じゃないです。特高にいくら払ったんですか?」
「あー、あれがあればフラミーにタンスたくさん買ってやれたのになぁ。」
「先生、ふざけないでください。」
宇留部は事務所用スマホを日下部に放った。すぐさま立ち上げ、残金を遡って行くと、日下部の指はピタリと止まり、わなわなと震えた。
「…こ、こ、こんなに…。」
賄賂系は領収書が出ない為経費にすることもできない。毎年の確定申告はもう手元にない金の分まで耳を揃えて納税している。
「知ったからにはお前しばらく俺に飯奢れ。」
「…おごります…。先生、俺…しばらく給料は――」
「いらないって言ったら本当にやらないぞ。でも生活できないだろ、そんなんじゃ。」
「はい…。」
「大人になった気になって自分で責任取れないこと言うなよ。本当の大人は自分で責任取れることしかしないし、言わない。お前なりに誠意を見せようってのはわかるけどな、責任の取れない言葉なんか誠意にもならん。」
宇留部はそういうと自分のスマホを立ち上げ、恐縮する日下部を無視してフラミーを眺めた。
「――はぁ。早く帰って天使に会いてぇなぁ…。」
「先生もう帰っちゃうのぉ?」
「あぁ、悪いけどもう帰るわ。」
宇留部は若干つまらなそうにカウンターの向こうにいる女子たちに告げた。
「まだ一時間ですよ?」
日下部はもう少し遊んで行きたそうだ。
「俺はもうフラミーに会いたくて死ぬ…。」
ゴツンッとカウンターに頭を落とした宇留部に女子は首を傾げた。
「ふらみー?」
「先生の彼女ですよ。」
「えー!先生彼女いたんだぁ!」「じゃあさっき言ってた"女が抱かれたい時はいつ"とかって彼女さんの話ですかぁ?」「セクハラ的な口説きかと思ったねぇ!」「先生なら無しじゃなかったのにぃ。」
宇留部はカウンターに頭を置いたまま告げた。
「俺はフラミー以外無し。じゃ、かいさーん。」
まっじめぇ〜!と言う声を聞きながら初めて日下部に払わせて店の外に出た。
「はー。他人の金で飲む酒はうまいな。」
「…奢るのって結構大変ですね。」
「それ給料少ないって愚痴?」
「いえ!友達の中じゃ一番貰ってますから!満足してます!」
少しでも色を付けてやろうと思ってしまうのは、親の死後端金を叩きつけられた自分と重ねているせいか。
「零細企業にいるお前が一番ってやばいな。来月から減らすか…。」
宇留部が真面目に呟くと日下部は慌てた。
「えぇ!それは勘弁してください!」
「はは、給料いらねぇって言おうとしてた奴のセリフかね。」
「宇留部さんの話してくれた責任ってやつです!」
宇留部は日下部と笑い合いながら家路についた。
前なら泊まって行くか聞いたり、宇留部家の近くにあるバーで二次会しようと言うようなタイミングだが、二人は何も提案し合わずに別れた。
家が見えてくると足早になる。
宇留部は階段を駆け上がった。
次に住むなら絶対エレベーターのあるマンションがいい。とはいえ、エレベーターがあっても走っていた気がする。
じっとしていられない。
はやる気持ちを抑えもせずに鍵を開け、中に入ると――鍵の開く音を聞きつけたフラミーがすぐに部屋の扉を開いた。
「ウルベルトさん!おかえりなさーい!」
「フラミー!ただいま!」
靴と鞄を放り出して激突するように抱きしめるとほろ酔い気分に任せて何度も頭に頬擦りした。
「お前のために世界綺麗にしてやりたいけど、もう少し時間かかりそうだ。ごめん。でも必ず綺麗にするから。待っててくれ。」
「えへ?なんですか?あなたといる世界はとっても綺麗ですよ!」
ウルベルトは泣きたい気持ちになったが笑った。
ベルリバーさんの死が近づいて来た…
次回#14キス
きききききっす