「こんばんは。どうぞこちらへ。」
ウルベルトに席を勧められた依頼者は応接セットに掛けるとぽつぽつと語り出し、フラミーはお茶を淹れに行った。
温かいお茶を出すと女性は軽く頭を下げて口をつけた。
「それで、いつも家に帰るとポストに入ってるんです、おかえりって書かれた手紙が…。その日着てた服のイラストとかもあったりして…。」
長い黒髪に綺麗に切りそろえられた前髪は凛子という名前にぴったりだ。ストーカーを怖がる姿はどこか儚げで、美しかった。
「…なるほど。手紙はとってありますか?相手に心当たりは?」
「手紙は捨てちゃってます…。相手にも心当たりはありません…。」
「警察には?」
「行きましたけど、まだ何もされてないだろうって…。それに、相手がわからなければ何もできないと…。」
「もうご相談されてるんですね。こういうのは実績も大切です。取り敢えず捨ててしまった手紙はゴミ箱に残ってる分だけでも残しておいてください。」
依頼人はうなずいた。
「警察が動くには行為の内容の証拠と相手の情報が必要です。ですので、我々の動き方としてはまず――」ウルベルトはメモ帳を一枚破き、①と書いた。「明日、佐々木様が出かける前の時間に家の周りで我々が早朝から詰めます。」
続いて②。
「ポストを写せる監視カメラを置いてストーカー行為の証拠を取ります。」
③を書き、「――佐々木様が出かける際に姿を現し、服装の確認を行い、手紙を投函するかと思うので、その相手を我々が追跡し身元の確認を行う。何者なのか判明した時点で弁護士をご紹介し再度警察へ行きます。」
ウルベルトは動き方を書いたものを佐々木に渡した。
「……今夜からは難しいでしょうか…。」
ウルベルトはふーむと唸った。
「今夜からは詰める事も可能ですが…相手が来る時間は恐らく朝なので、料金が上がるばかりであまりお勧めできません。」
佐々木は悩んだが、すがる様な瞳を見せた。
「それでも…怖くて…。」
「ではお宅までお送りしましょう。ついでに監視カメラの設置と、外から部屋の中が透けて見えないか等の確認をします。お送りは私一人で、明日一日はこの日下部と二人で動きます。――日下部、今夜の動きは二時間で入れて見積もりお出ししてくれ。」
「――はい。」
隣で話を聞きながら見積もりを作っていた日下部は印刷ボタンを押した。
ウルベルトの席の後ろの仮棚に載せられたプリンターから見積もりが出てくると、フラミーはそれを取りに行き日下部に渡した。さっと確認すると改めて日下部から佐々木に見積もりが渡り、佐々木は合計額を見てすぐに頷いた。佐々木の月給の半分ほどだった。
「――これでお願いします…。」
それを受けると、フラミーが日下部に事務所スマホを渡し、着手金の受け取りを行なった。
「では、支度しますのでお待ちください。」
ウルベルトがカバンに荷物を詰めているとフラミーが監視カメラとコートを持って寄ってきた。
「ありがと。悪いけど、片付けと鍵頼むな。」
「はい!」
コートに袖を通すと、手袋を嵌めた。
「日下部、明日駅に五時だ。俺は佐々木様をお送りして直帰する。」
「わかりました。お疲れ様です。先生。」
ウルベルトは頷くと佐々木を手招いた。
「参りましょう。」
佐々木はそそくさとウルベルトの隣に行くと、ウルベルトの開いた扉を潜った。
外は軽く毒霧が立ち込めており、二人はさっとマスクをつけた。
ウルベルトは事務所に残る二人に軽く手を挙げ、佐々木と去って行った。
ぱたりと扉が閉まると、フラミーは窓から二人の姿を見送り――ウルベルトは一度事務所に振り返り、フラミーを見ると微笑んだ。
「…心配ですか?」
パソコンを落とし、デスクに戻した日下部はフラミーの様子を見た。まるで犬が飼い主を見送るような後ろ姿だ。
「いえ、そんな事ないですよ!お仕事ですもん。」
フラミーは窓から離れると出ていた湯飲みや見積もりの控えを片付け、日下部にコートを差し出した。
「あ、ありがとうございます。」
日下部にコートを着せ終わるとフラミーもモソモソとコートを着込んだ。
仕上げに赤い鯛焼きクッションを待合用ソファに置くとハンカチを掛け、腹をポンポンと叩く。
「おやすみ、ナポレオン。また明日ね。」
「…な、なぽれおん…。ナポレオンフィッシュ…?」
「じゃ、帰りましょう!」
「あ、はい。」
二人はマスクをして駅に向かった。
フラミーは気にしないと言っていたが、日下部は自分が行けば良かったなと若干気にした。
「――村瀬さん、たまには飲みにでも行きますか?先生は見積もり通りなら二時間はかかりますし。」
カメラを何点か設置し、画がきちんと撮れているかを確認したり、自己防衛アドバイスをして帰ってくるとなるとサッと家に送って帰ってくるとは行かない。
「私お酒とっても弱いんですよね。多分ご迷惑おかけしちゃうと思います。だから…。」
「あぁ、俺そういうの地元の飲みで慣れてるんで大丈夫っすよ。歓迎会もしてないですし、たまには部下の会でも開きましょうよ!」
フラミーは数度迷ってから頷いた。これまでの職場でも飲み会はあったのだ。烏龍茶女だったが。
「あのぅ、宇留部先生の家の近くでも良いですか?」
「もちろんです。よく先生と行ってたバーが近くに有るんですけどどうです?美味いですよ!」
「あ、家から歩いて行ける所ですか?えっと――サン・マロ?」
「そこです!サン・マロ知ってましたか。良い店ですよね。俺歓迎会変わりに奢りますよ!」
「っえ!おごりとかは良いですよ!ほんとに!」
二人は駅に向かった。
薄暗いバーで日下部とフラミーは肩を並べていた。二人ともウルベルトにここで飲んでいると連絡を入れておいた。
「そういえばカーテンの刺繍って進んでます?」
「進んでますよぉ!次は池作ってナポレオン泳がせようかなぁ!」
フラミーは足をプラプラさせご機嫌だった。まだ大丈夫そうだ。日下部が三杯飲む頃にフラミーはようやく少なめのカクテルを一杯飲み切ろうかと言うところだ。
「ナポレオンフィッシュは海の魚じゃないんすか?」
「もしかしてナポレオンは池にいたらだめです?」
フラミーに見上げられると、日下部はムムと唸り、首を振った。
「いや、池でも良いですね。」
「ふふ、良かったぁ。」
嬉しそうに笑うフラミーを見ながら日下部は赤い鯛焼きをもらって帰って良かったなぁと思った。
ウルベルトの大切にしているものは大切にしたい。
「――村瀬さん、良かったらおかわり頼んで下さい。本当に奢りますから。」
フラミーはぷるぷると首を振った。
「いえ、もうお腹いっぱいですから。」
これ以上飲むとイエローゾーンだ。
「はは、遠慮しなくて良いのに。すみません、マスター。村瀬さんの締めにオススメの一杯お願いします。」
「日下部君が奢るなんて珍しいですね。宇留部さんにいつも奢ってもらってたイメージしかないですよ。」
マスターは慣れた手つきでラム、オレンジキュラソー、人造生クリームを20mlづつシェイカーにいれると振り始めた。
「いやぁ。俺も後輩持ったからカッコつけたくて…と言うのは冗談で、村瀬さんは宇留部さんの一部みたいなもんなんで、宇留部さんに返すつもりで奢りたいんです。」
「あ、やっぱり村瀬さんは宇留部さんの良い人でしたか。」マスターはそう言うと恐縮しているフラミーを楽しげに見た。「それで日下部君は宇留部さんに奢られた分返してるってわけかな?」
「まさにそんな感じです。」
数百万おごられた日下部は苦笑し、マスターは白いカクテルを注いだ。
「食後にぴったりなこちらを。デザート代わりに――パリジャン・ブロンドです。」
フラミーが口を挟む暇もなく出てきてしまった。
逆三角形に一本足がついた可愛らしいカクテルグラスに入る濃厚そうな液体は甘い香りがしていた。たった60mlなのでたいした量ではない。カップ四分の一だ。人によっては一口で飲めてしまう。
フラミーは戦々恐々とほんの一口飲んだ。
「――あ、とっても甘くて飲みやすいです!本当にデザートみたい。」
果物のジューシーな香りと濃厚でクリーミーなテイストにフラミーはほぅっとうっとりした。
二杯はフラミーの中で危険ゾーンだが、この量なら平気だろう。
「お気に召したようで何よりでございます。うちの女性の常連さんは必ず最後に飲まれていきますよ。」
「さすがマスター。」
マスターも日下部も丸い笑顔を作った。
「そう言えば先生も刺繍やってるんですか?」
「やってますよぉ!今山羊さん作ってるところです。」
フラミーはごそごそとポケットをまさぐりスマホを取り出そうとするとポロリと落とした。
「「っあ。」」
日下部と二人揃い拾おうとするとゴチンっと二人は額をぶつけた。
「いたた…。」「いつつ…。」
日下部は頭を抱えるフラミーに拾ったスマホを渡した。受け取ったフラミーの手元は若干怪しかった。
「大丈夫ですか?」
「んぅ…へいきです。せんぱぃも大丈夫ですか?」
火照った顔に潤む瞳で見上げられると、日下部も軽く酔った頭で数度瞬きした。
(か、かわ――)
思いかけて頭を振った。
「俺は石頭なんで全然問題ありません。」
「良かった。――みて、これうるべせんせいの山羊さんですよぉ。」
横向きの山羊の体が半分だけできていた。
「ははは、やっぱり先生は下手ですね。なんかこう言うモンスターいそう。」
「む、へたじゃないです。可愛いです。」
「あ、はい。かわいいです。うん。かわいい。」
酷い棒読みだった。
「ふふ、そうでしょう。なんて言ったってうるべるとさんもやぎさんですからね。」
フラミーは楽しげにそう言うと頬杖をついてちびちびとカクテルを飲んだ。
「それ、気に入りました?」
「はひ!とっても。こんなのはじめてで、なんか、おとなになった気がします。んふふ。」
「ははは。大人にですか?俺、先生に十二の村瀬さんよりガキだって前に言われましたよ。」
「えぇ?うるべせんせいは私を買い被りすぎなんれすよぉ。」
若干呂律が怪しかった。
「実は俺も言われた時にはそんな風には見えないって言っちゃいました。でも、なんか最近は先生が何でそう言ったのか分かり始めた気がします。村瀬さんみたいに、できない事をできないって言ったり、知らない事を知らないって正直に言う勇気って俺はまだないです。むしろどんどんそれを言えなくなって…出来るって思い込んで…最初から俺も助けを求めれば良かったのに…。自分の事過信して飾り立ててるうちは子供なのかな。」
フラミーは若干意識が闇に吸い込まれそうになっていたが、真剣に耳を傾け――照れ臭そうに笑った。
「えへへ、だれでも新しい会社入ったばっかりのうちはそういうものですよぉ。」
「…そうじゃないんです。」日下部は首を振ると、爪先が軽く床に触れる高い椅子を少し回し、フラミーの方へ体を向けた。「村瀬さんのはもっと、業務とか関係なくて、何に対しても根本的に正直で――」
日下部が切実そうにフラミーにズイッと近付いた瞬間、フラミーの携帯がブーブーブーっと揺れた。
「あ、でんわ。」
「――きっと先生ですよ。出て下さい、気にせずに。」
日下部は少し熱くなってしまったと反省し、カウンターに向き直った。
「はひ、わたしです。」
『あ、俺。悪いんだけど、今夜帰れないから先に寝てて――宇留部先生ぇ――大丈夫ですから、少し待って下さい――うっうぅっ――あーとにかく寝てろ。おやすみ。』
向こうから佐々木の声がする電話がぶつっと切れるとフラミーはスマホを耳からゆっくり離した。
「先生、駅着きましたって?思ったより早かったな。」
日下部が良かった良かったと言っていると、フラミーは眉をハの字に下げた。
「――うるべせんせい…今夜、帰れないみたいです。」
日下部は数度瞬くと、何かを考えるような素振りを見せてから適度に離れたところにいるマスターを手招きスマホを渡した。その仕草はウルベルトのものによく似ていた。
「すみません、お会計お願いします。」
「はーい。はじめて日下部君に会計するなぁ。次はもっと早く来てよ。前は毎週来てたのに日下部君二ヶ月ぶりでしょ。」
「もうそんなに経ちましたか。じゃあ、次は近いうちに先生と三人で来ますね。」
「待ってますよ〜。」
日下部は隣の椅子に置いておいたコートを持つとフラミーにもコートを差し出した。
「村瀬さん。少し早いですけど、帰りましょう。」
「は、はひ。」
「――じゃ、マスター。また。」
「はーい、お気をつけて〜。今夜は空気悪いみたいですからマスクして帰ってくださいね〜。」
二人がマスクをして外に出ると、たしかに来た時より毒霧は濃くなっていた。
「先生ん家まで送ります。」
「ごめいわくおかけします。」
「いえ。気にしないでください。」
二人で店の外に出ると、フラミーは足下がふわふわと柔らかくなり、ぐねぐねと重力のかかる場所が変わる感覚に襲われていた。
(…あ、あれ…なんか…わたし…。)
想像の百倍は酔っている。
フラミーは困った困ったと心の中で唸りながら歩いた。
女子しかいない会では千鳥足になる事や寝る事も有るが、男性のいる席でそう言うことになるのは初めてだ。
「――村瀬さん?」
「あ、あの…せんぱぁぃ…。」
酒の味がしそうなとろけた声だった。
「は、はい。」
「あの…あの…わたし、すこし歩いてからかえるんで…さきにかえってくらさい…。」
「え?できませんよ。霧も深めですし、目にも悪いですから早く帰りましょう。」
フラミーは意識が黒く塗りつぶされて行く感覚に怯えた。
「あ、あと…おうち…どのくらい?」
「後五分くらいですよ。」
「ごふん…ごふんごふん。」
心の中で必死に一から数字を数えた。六十秒が五回。三百秒数えれば家だ。大したことはない。できるはずだ。
人生史上これまで家に帰り着けなかったことは一度もないのだから。
そうしていると、日下部が心配そうにするのも見えなくなり、前にウルベルトが素数を数えていたことや、カレンダーをくれたこと、初めて二人で飲んだ夜を思い出した。
参った参ったと思っていると、コツンっと爪先が何かにぶつかった。
「っきゃぅ。」
「大丈夫ですか?足上げて。階段気をつけて。」
「はぇ、かいらん…?」
「うん、もう家だから。」
フラミーは日下部がいつの間にか鞄を持ってくれていたことに気が付いた。
「あ、ご、ごめんなたぃ…。」
「俺もごめん。そんなに酒ダメだったって思わなくって…。」
日下部に手を引かれて階段を上って行くと、日下部がフラミーの鞄を開いて見せた。
「鍵どこかな。」
「ぁ…ぅんと…ぅんと…。」
鍵を取り出すが、鍵穴にうまく鍵が入らず、フラミーは鍵穴に何か詰まっているんじゃないかと思った。実にけしからん。
「貸して下さい。」
日下部はさっと鍵を開けると鞄にフラミーの鍵を戻した。
「っはぁ…よ、よかった…おうち…。」
日下部はちらりと腕時計を確認した。
家に入り、マスクを首下にずるりと下ろすと靴を脱ぎ捨てた。
フラミーももたもたと靴を脱ぎ、日下部に手を引かれて部屋に入った。
「水入れるから、待ってて。」
フラミーを壁にもたれさせるようにウルベルトのベッドに座らせると日下部は勝手知ったるキッチンで水を注いだ。
「飲める?」
「ぅん…ぅ…ん…のめる…。」
フラミーは首の後ろにあるマスクの金具をごにょごにょと外そうとした。ハムスターが毛繕いするような様子だった。
「ぁ…れ…?とれなぃ……。」
日下部は水を一度置いて、フラミーのマスクに手をかけるとフラミーはビクリと肩を震わせた。
「あ、ごめん。マスク外すよ?」
「っふぇ…はずれないから…へぃきれす…。」
「外れるから。じっとしてて下さい。」
フラミーの横に膝をつき、首の後ろの固定ホックを外そうと覗き込んだ。
強張るフラミーが「ゃ…」と小さく漏らす熱い息が、後ろを覗き込む日下部の首にかかる頃、金具に髪が引っかかっているのが見えた。
ガスマスクは耳にかけ、さらにずれないように首の後ろで止める。ぱっと見はただの黒いマスクだ。当然素材は布ではないが。
鼻まで覆うつるりとしたデザインに、口の左右辺りに二箇所少しだけ出っぱったフィルターがついている。ガスマスクと言うといかにもいかつい物を想像しがちだが、ガスマスクの技術は年々向上していて、フィルターは小さくなっていっている。
「っ…これのせいで外れねんだ…。うーんと…髪引っ張っちゃったら言って。」
「っぁん!」
言ってるそばから痛かったらしくフラミーは顎を上げた。
「ご、ごめ!」
しかし、うまく金具がはずれ、ぽろりとマスクが落ちた。
「ぁ…とれた…。」
「はは、良かった。ほら、飲んで。」
フラつかないよう肩を抱いて水を飲ませるとフラミーはほぅっと一息つき寝息を立てた。
「…今夜、宇留部さんは帰らないんだよな…。」
日下部はフラミーをそっと寝かせた。
「っち、素人が。思いっきり顔殴りやがって。」
ウルベルトは警察署で切れた口の端を拭った。
「宇留部先生ぇ…、うっうぅ…。」
「あー大丈夫ですから。むしろこれで全て解決します。ご安心ください。」
遡ること二時間前――。
「なるほど、あそこが佐々木様のお部屋ですね。」
宇留部は依頼者佐々木凛子と共にマンションを見上げていた。通りからよく見える角部屋だ。
さっと辺りを見渡し、部屋とマンションの玄関を見張ることが出来る場所を確認した。
数カ所メモを取ると集合ポストに向かい、カメラ設置場所を検討する。
佐々木は今日の手紙を取り出すと気持ち悪そうに顔を歪めた。
「拝見しても?」
「あの…これってやっぱり取っておかないとダメですか…。」
宇留部はうなずいた。
「証拠は必要です。これがないとまた警察に追い払われます。」
佐々木は辛そうにし、宇留部に手紙を渡した。
受け取り、内容をサラリと読む。
今日も可愛いだとか、その色も似合うけど昨日の方がいいだとか、今月の生理始まったんだねだとか、今度は上手に描けたから捨てないでねなどと書かれており、気色悪さが凝縮されていてものすごい嫌悪感だ。
間違いなくゴミが漁られている。
宇留部は口に手を当てると数秒考えた。――宇留部の考える探偵らしいかっこいい考察ポーズだった。続けていたら癖になった。
(ゴミの日を把握していて…ゴミを触っていても不自然じゃない人物か…。これは思ったより早く解決しそうだな…。)
二人はエレベーターで四階に上がると、佐々木がドアに鍵を差し込んだ。
そして「――あれ?佐々木さんこんばんは。……そっち、彼氏ですか?」隣の部屋のドアから顔を出した小太りの男性に声をかけられた。
「こんばんは。この方は――」
宇留部は佐々木にさっと手を挙げ代わりに答えた。
「彼氏です。どうも。うちの凜子さんがお世話になってます。」
佐々木は戸惑うように宇留部を見た。
男の視線の中には蠢くものがあった。
「…か、か、かれし…。」
「そうです。今度結婚するのでお隣同士仲良く――」
そこまで言うと男は助走をつけて宇留部を思い切り殴りつけた。
「――ッ!」
顎に入ったパンチで口の端と中が切れた。一瞬脳みそが揺れ視界が回った。
「キャー!」
「ぼ、ぼ、ぼくの凜子に!!凜子はぼくのもんだぞ!!」
宇留部はスマホの電源ボタンを十回連打し、追加で三発ほど殴られた。
痛い。とても痛い。
「やっぱりあんたが凜子さんに手紙を送ってる男か。」
宇留部の耳には『事件ですか?事故ですか?』と非常に小さな声が届いた。
「だとしたらなんだよ!!凜子は毎日それを楽しみにしてんだぞ!!」
「っあーいたい!いたいいたい!ころされる。助けてくれー。」
宇留部は情けない声でそう言った。――次の瞬間男を後ろ手に捻り上げて伏せさせると、スマホを耳に当てた。
ショートカットキー連打によって自動通報されていた為に、電話の繋がる向こうは焦っていた。
『もしもーし!大丈夫ですかー!』
「あ、すみません。命の危険を感じるくらい殴られていたもので。助けて下さい。」
『すぐに近くの警官を向かわせます!』
宇留部が電話を切ると、佐々木は泣いていた。
「さて、こっからが骨が折れるな。」
宇留部は私人逮捕した男を床に押し付けたまま、口内に広がった鉄くささをぺっと吐いた。
すぐに警察は現れ、男を引き渡すとその場であれこれと話をさせられ――――宇留部は警察署に来た。
男は暴行の現行犯で逮捕された。余罪としてストーカー行為をぶひぶひと話し、事件はスピード解決した。
「宇留部先生ぇ…すみません、ほんとにすみません…。」
めそめそと泣いている依頼者を慰めてやるウルベルトの顔には白いガーゼが三箇所も貼られている。
口の端の切れているところにも小さなテープ状の絆創膏がついていて、下手な作り笑いをすると痛んだ。
これから面倒な聴取に付き合い、もう一度佐々木を家に送り届けるとなると帰宅は夜明けよりも先になりそうだ。
宇留部がめんどくさいなぁと思っていると、静まる署内を走るような靴音が響いた。
「――先生!」
声の主を見ると宇留部はベンチから腰を浮かせた。
「日下部!?お前どうして!」
「はぁ、っはぁ…む、村瀬さんに、帰れないって…電話――っはぁ…。だ、だから、なんか事情がと思って、佐々木様のお宅へお尋ねしようとしたら…警察がいて…ここだろうと思って来ました。」
宇留部は息切れしている日下部の側によるとポンポンと背を叩いた。フラミーに電話してから割とすぐに来たので、相当走っただろう。
「お前にしちゃ冴えてるな。でもなんであんな時間にフラ――村瀬といたんだ?」
「新歓開いてました。メッセージ見れてなかったんすね。でもちゃんと村瀬さんは家に届けたんで安心してください。それより顔大丈夫ですか。」
新歓――飲んだのかと思うとフラミーが心配になったが、この男のこの様子から言って何も起こっていないだろう。
「そっか、顔なら大したことない。でも大袈裟に痛がってやったよ。少しでも罪が重くなるようにな。」
笑うとやはり口の端が痛かった。
「はは、良かったです。帰れないって聞いたから、念のために先生のパーカーとズボン持ってきました。拘束長いと思いますし、楽な格好に着替えて下さい。」
日下部に袋を差し出されると宇留部は受け取り、側にいてと言う佐々木を日下部に任せてトイレに行った。
フラミーはいつもの時間通りに鳴ったアラームを脊髄反射で止めると目を覚ました。
夜に無意識に風呂に入っていたようでちゃんとパジャマに着替えていて髪も解いていた。寝落ちしがちなフラミーにはよくあることだ。
ズキズキと痛む頭を抑えて起き上がろうとするとグイッと引っ張られ抱き締められた。
「や、やだ!先輩!!ごめんなさい!!」
「なに?昨日日下部になんかされたのか?」
「はぇ…?」
心配そうにフラミーの頬に触れ顔を覗き込んだのはウルベルトだった。
「うゆべるとさん…?」
「俺だよ。フラミー、平気か?」
ベッドの中で密着する体はフラミーの鼓動を早めるが――すぐにそんなものは吹き飛んだ。
フラミーはウルベルトの顔に手を伸ばしてガーゼに触れた。
「――っいて。」
「ど、どしたの?これ、傷だらけ。痛い?」
泣きそうになっているフラミーに、ウルベルトは困ったように笑った。
「俺は何ともないよ。お前は大丈夫なのか?日下部に何もされてないんだろうな?」
「わ、私もへいき…。昨日…先輩がマスク外してくれて…それで、ウルベルトさんは帰ってこないって言ってたから…一瞬先輩かと思ったの…。」
「そうか。あいつフラミーに触ったんだな。後で殴っとくよ。」
「えっ、あの、えっと、触られはしましたけど、介抱のため仕方なくと言いますか、気遣われてと言いますか、私がまた眠くなっちゃったせいと言いますか――」
フラミーがあわあわするとウルベルトは離れた体をギュウと抱き締めた。
「冗談。ちゃんとお前を届けてくれたことに感謝してるよ。けどな、お前日下部相手だったとしても男と二人なのに寝落ちするほど飲んだらダメだろ?オフ会にも来なかったお前が自衛できないと思ってる訳じゃないけど…心配だよ。お前の事守るって言ったって離れてる夜には限度があるんだから…。」
「…ウルベルトさん…ごめんなさい…。とっても反省してます…。」
「いいよ。何もなかったんだから。言いたくなっただけ。気を付けな。」
ウルベルトはフラミーが誰かと遊びに行くことを咎めるつもりはない。二人で会う男はモモンガと日下部くらいに抑えて欲しいが。
「――と言うわけでもう少し寝よう。せっかく俺のベッドにお前もいることだし。」
途端にいつもの調子に戻ったウルベルトはうきうきとフラミーを抱きしめて目を閉じた。
「あの、ウルベルトさん、今朝のお仕事は?」
「昨日の夜で片付けて来たよ。今日の午前中はもう日下部に任せて休むことにした。」
フラミーはそれを聞くとウルベルトの胸から離れた。
「あ、私も行かなきゃ。」
「フラミー。」
「先輩にだけ任せてなんていられないですし、」
「フラミー。」
「私、お二人の分までたくさん働かなきゃいけないですし――」
「フラミー。良いから。静かにして。」
ウルベルトは張り切ろうとするフラミーを引っ張り寄せ直した。
「お前の午前中の仕事は俺のそばで看病することだよ。な、そばにいてくれ。傷が痛くて辛い。」
さも哀れっぽい声でそう言うと、フラミーはひどく心配したようだった。
「ウルベルトさん…。分かりました。いたいですよね…。」
(ちょれぇなぁ。)
ウルベルトは心の中でベッと舌を出した。
が――「とりあえず、先輩に午前中行かないって連絡して、冷蔵庫に何か良い液食ないか見て来るんで待ってて下さい。」尚も布団から出て行こうとするので腕の力を強めた。
行かせたら四百パーセントここには戻ってこないだろう。
「良いから。一晩中働いてて眠いからここで大人しく抱き枕になってろって。」
「でも看病しないと…。」
「添い寝してもらうのが看病なの。ついでにキスしてくれると治りが早まる。」
腕の中のフラミーはきょとんとしてウルベルトを見上げた。
「タブラさんも言ってたろ?キスするとストレス値が下がって副交感神経が活性化されるって。副交感神経が優勢な時は免疫機能が高まる。つまり傷口にバイ菌が入っててもすぐに治る。」
前半はタブラが言っていた言葉だが、最後のは適当だ。
ウルベルトは言うだけならただだと朗々と言った。
「そんでもってキス中に脳内に出るエンドルフィンには痛み止めの――」
ウルベルトの胸の辺りを掴んでフラミーが首を伸ばす。鼻がこつんとぶつかると柔らかな唇がふにょりと触れ、すぐに離れた。
「――ぇ?」
どんな音も鳴らない、触れただけのキスだった。
ウルベルトは痛みも眠気も食欲も全てを忘れた。
「い、いたくなくなった…?」
布団の中でほろほろに溶けた顔をしたフラミーの目は恥じらいからか潤んでいた。
ウルベルトはこれは夢だろうかと傷に触れた。
「いてっ。」
「や、やっぱりだめでしたぁ。」
フラミーが恥ずかしそうに口を押さえてひーんと言っているのを無視し、ウルベルトは軽く起き上がるとこっちを向いていたフラミーの肩を押して仰向けにさせた。
「うるべるとさん…?」
「ありがと、めっちゃ効いた。もう少しさせて。」
顔の横に肘を付くと、頭を抱えるようにしてキスし直した。
唇が繋がり、唇を舐められるとフラミーは身を固くした。
「開けて。」
フラミーは首を振った。
「そ、そんなのしたことな――ンッ。」
ウルベルトの舌は何の遠慮もなく侵入した。
口の中の形を覚えようとするように這い回り、舌を見つけ出すと絡まりついた。
「っんっん…んはぁっ。」
「はぁ…おまえ…きすへただな…。」
ウルベルトは唇を離すとフラミーの頭を何度も撫でた。
「は、はゎ…あの…ごめ…。」
「いいよ、教えてやれる方が嬉しい。」
ウルベルトはひとつ息をつくと再び瑞々しい場所に唇を落とした。
「うるっ…ん…。っあっ…んっぁ。」
ぬちぬちと舌が口の中を出入りするとフラミーの体の力は抜けていった。
たどたどしく不慣れな息遣いに脳を焼かれる。
柔らかな舌を招き入れるように吸うと――「っいて。」
やっておきながら口の中の切れているところが痛かった。
フラミーはぼんやりと目を開けると呟いた。
「はぁ、はぅ…血のあじ…。」
「っはぁ…ごめ……調子乗った…。」
大人しく唇を離したがウルベルトの息は荒く、下半身には痛いほどに血が集まっていた。
フラミーにジョニーが触れないように気を付けて抱きしめるとウルベルトは素数を数えた。
賢者にならんとするがジョニーはご機嫌だ。
(つらい。)
目を閉じてさっきの感触を一度忘れようとしているとフラミーがウルベルトの背に手を回した。
(とてもつらい。)
背を撫でる真っ直ぐな手つきは心配そうだった。
(しっかりしろよ…俺ぇ…。)
腰がひけている男はフラミーが寝入っても眠れずに出勤時間を迎えた。
やったぜ
えへえへえへ
次回書けてないです!
珍しい!明日から明後日か…!