寝取り要素を含みます。
「──あ、お帰りなさい歩くん。学校お疲れ様っ」
「はい。ただいま帰りました」
学校から帰った歩が玄関のドアを開けると、明るい声が部屋の奥から響いた。
挨拶を返してから、荷物を廊下の棚いれに置いて脱衣所で制服を着替える。そのまま行こうとしたが、あの人の前に出るのだと思い直して少し髪型を整えた。
リビングへ入る。夕食の準備中なのだろう、居間に併設されたキッチンからいい匂いが漂っている。くつくつとなべが沸いているコンロの前で、一人の女性が立っていた。
身長は160cm程度。腰まで届く絹糸のような銀髪がさらりと流れている。貴族風の赤い服を豊かな胸が押し上げているが、下品な印象はなくどこか気品を感じさせる。外出時は履いている足を包むブーツを今は外しており、短めのスカートから白く長い生足が大胆に露出していた。
(………何度見ても、お姫様みたいに綺麗な人だなあ)
ふと見惚れてしまう歩に、料理中の彼女が振り返る。
「夕ごはんはもうちょっと待っててね、歩くん。お風呂もいれてあるから先に入る?」
「あ、いえ。お手伝いします」
「えっ? いいのいいの、用意は私がするから」
お皿やコップを出すくらいなら自分もやれるだろうと思い申し出たが、彼女は慌てたように言った。ぱたぱたと手のひらを向けて、キッチンに入りかけた歩を止めようとする。
「でも、一人だけじゃ大変じゃないですか? それに全部やって貰ってしまうのも……」
「良いのよ、気にしないで。これは私がやりたくてやっているんだもの。約束でしょう、お盆休みの身の回りのお世話は私がする、っていう」
手伝ってくれようとする気持ちは嬉しいけどね、と微笑んで言う。
そう言われてしまえば、歩からこれ以上迫るのも無粋というものだ。ここは素直に厚意に甘えるべきだろうと歩は思い直した。
「そうでしたね、すいません。じゃあ先にお風呂に入ってきます」
「うん、どうぞ。……あ、夏だからってシャワーだけじゃなくてちゃんと湯船に入るのよ。しっかり肩まで浸かって暖まるコト。気温が高くてもね、意外とお腹は冷えてたりするものなんだから。それと私の部屋から海外産の良いソープを待ってきたから使ってみて。肌に優しくて潤い成分があってね、私オススメの愛用品よ。それから洗面所の戸棚に……」
「は、はい。ありがとうございます」
まるで自分の子の面倒を見る母のような、いやそれ以上の甲斐甲斐しさを受けて嬉しいと同時に気恥ずかしくなってしまう歩。
そんな少年へ、彼女────アイリスフィール・フォン・アインツベルンは生き生きとお節介を焼くのだった。
歩とアイリは数日前から、奇妙な共同生活を送っている。
その発端は、両儀式によるものだった。
アイリと式は親友であり、ともに結婚及び出産済みの人妻だ。
二人はひょんなことで出会い、すぐに意気投合した。単に性格が合っただけでなく、境遇も似ている所があった。夫は仕事柄家を空けることが多く、他の家族も式の娘は塾や知り合い宅へ入り浸り、アイリの方は海外へ留学へ行っている。時折帰っては来るものの、一年に一度か二度といった程度だ。放ったらかしにされ、夫婦仲はかなり冷めていた。
そこへ同じような悩みを持つ相手を見つけ、すぐに二人はお互いの家へ頻繁に招き合うほど親密になっていった。それからしばらくして、もうひとりメディアというこれまた似た立場にある女性とも知り合い、三人でよく過ごすようになった。メディアは少し気難しい所があったものの決して悪人というわけではない。むしろ着飾らず率直な言動には好感が持てるくらいだった。
そんな事情から親友たちのことを信頼しているアイリだったが、数日前その両儀式から思わぬことを提案された。
それは、最近式が親しくなったという、歩という名の少年の面倒を見てみないか──ということだった。
なんでも歩の母親は色々な事情で家を離れることが多く、このお盆休みは丸々不在らしい。もちろん報酬は出すからその間の家事手伝いをしないかという。そこには歩への心配だけでなく、家族がおらずひとり寂しく家で鬱々としているアイリへストレスを発散する場を与えよう、という式の気遣いがあることにアイリは気付いていた。
とはいえ、その提案に素直に乗ることは出来なかった。式は歩を誠実でおとなしく、邪気のない可愛らしい少年だという。しかし以前式との会話に出したように、件の少年のことはアイリも知っていた。式の擁護とは裏腹に耳に入る少年の話題と言えば金髪美女と歩いていたとか、女子高生の管理人さんと仲良くなったとかいうことばかり。アイリも以前小柄な金髪の少女と彼が一緒に部屋に入っていく所を見たことがある。それに夫婦仲は冷めているとはいえ、おいそれと年頃の男の子と二人きりになるわけにはいかなかった。
しかし、不思議なのは式の態度である。アイリが彼女の提案に二の足を踏んでいると、かなり熱心に説得してくる。きっと相性が合うはすだ、たまには私たち以外の若者と接して気分転換してみるのもどうだ、悪い奴じゃないから──と少年とアイリの接触をどうにも推してくるのだ。身持ちが固く異性になど興味の無さそうな式のことだ、まさか少年と怪しい関係にあるなどということは無いだろうが、懇意にしてはいるらしかった。
メディアにも相談したものの、興味なさげに『さあ、好きにすれば』と言われるだけ。迷ったあげく、アイリは結局折れることにした。初日は式の面会のもとに少年と顔合わせして、二日目からは一人で少年の部屋へ訪れるようになった。
そして今。
五日目に入った現在では、アイリは歩との関係をスタートして本当に良かったと式に感謝の気持ちさえ抱いていた。
「どうかな、肉じゃが。久しぶりに作ったんだけど」
「すごく美味しいですっ」
「ふふ、なら良かった」
学校帰りでお腹が空いていた歩がごはんを掻き込むのを、嬉しそうに見るアイリ。
しばらく他人に食事を作るということをしていなかったし、こうやって自分が作った料理を美味しそうに食べて貰うというのも久々だ。喜びと、夢中で食べてくれる少年の愛嬌を感じる。
最初こそどんな男の子だろうと緊張していたアイリだったが、すぐに歩が式の言っていた通りの少年だと判った。この年代の少年としては珍しいくらいに他人に配慮が出来るし、邪気がない。今日も本来は休みのところを、自主的に学校で勉強してきたのだという。式が気に入るのも判る、良い少年だった。
なにより、ちょっとからかうと慌てたり、好きな女の子はいないかと聞くと照れたりと可愛らしく反応してくれる。異性との談笑というものをほとんどしてこなかったアイリにとっては楽しく刺激的なことだった。
元々の予定では共同生活は食事や掃除洗濯の時だけという話だったのに、今では朝食を作りに来たアイリが歩の家を出るのは夕食後になっていた。入浴と就寝以外は歩の部屋に入り浸っているような状態だ。
「……ごちそうさまです。すいません、作って貰ってばっかりで」
「もう、だからいいんだってばっ。あんまり遠慮するのも良くないのよ? そんなコトより、もっとちゃんと誉めて欲しいな」
「ご、ごめんなさい。その、また食べたいくらい美味しかったです」
「あら、嬉しいコト言ってくれるじゃない。それじゃあまた作っちゃおうかしら」
くすくす笑うアイリに、歩はむず痒い思いだ。
歩としても、式に突然この状況を提案された時は当惑した。まったく面識のない年上の女性と過ごせと言われたのだから当然だ。
とはいえ女性に対する興味は津々な歩である。式にアイリの人柄を説明されたうえ、その北欧系の美貌を見て一目で魅了されてしまった。アイリよりよっぽど抵抗は少なかったと言えるだろう。
「それじゃ、お皿洗わなきゃ。流しまで持ってきてくれる?」
「あ、皿洗いくらいは僕にやらせてください。アイリさんのぶんも」
「えー? もう、別にいいのに。……でもお言葉に甘えちゃおうかな」
歩の親切心に嬉しそうにして食器を預けるアイリ。
シンクでお皿を洗う歩の隣で、使った調味料や具材を片付けていく。
「あ。そうだ」
「はい?」
ふとアイリに話し掛けられ、歩は手を動かしながら答えた。
「そういえばさ、聞いてなかったと思って。……歩くんと式って、どうやって知り合ったの? 式からはすっごく信頼されてるみたいだし。お友達の私が言うのもなんだけど、けっこうあの娘に心を開かせるのはタイヘンだと思うんだけどな」
「あー……えっと」
言葉に詰まる。そう問われても、まさか率直に『陰から自分を想って発情していた式をまんまと手篭めにしました。今では週一で密会する関係です』などと言えるはずもない。どうにか誤魔化そうと、適当なことをでっち上げる。
「そのですね、えーっと。あの、共通の友人がいまして。このマンションの、ライダーさんって言うんですが。その繋がりで顔見知りになったんです。別に怪しいもんじゃありません」
「ふーん……?」
訝しそうにするアイリ。歩も嘘は言っていないが真実も言っていない。もっと踏み込もうとアイリが再度尋ねてきた。
「じゃあさ、そのライダーさんとはどうやって知り合ったの? ……もういいか、ぶっちゃけて聞いちゃうね。歩くんってさ、色んな女の子と仲が良いみたいじゃない。あれってホントなの?」
「ええっ!? そ、そのう……」
大胆な質問をされ目を白黒させる歩。すっかり皿洗いの手は止まってしまっていた。
答えられずあたふたする少年をじっと見てから、ふっとアイリは表情を緩めた。
「ま、いいわ。事情があるみたいだし。歩くんなら悪いコトはしてないでしょう。……いちおう聞くけど、してないわよね? 実は女の子とあそび呆けてるとか」
「な、ないですないですっ。僕なんてほら、まだ子どもですからっ」
「ふふ、そうよね。あ、でも歩くんは十分大人だと思うわよ。今まで一人の時は歩くんが家を守ってたんだものね。中学生でも、それだけしっかりしてたら立派だわ」
「そ、そうでしょうか」
ええそうよ、と笑うアイリに少し後ろめたい気分。実際の所は日替わりで誰かの部屋に泊まるか誰かが泊まりにくるかという毎日であり、アイリとの共同生活の事も式とのベッドの中で聞いたのだった。
「……っと。皿洗い終わったので拭きますね」
「お疲れさま。じゃあ私が棚に入れていくから、順番に渡してくれる?」
「判りました」
歩が布で拭いた食器を渡すと、アイリがテキパキと棚に置いていく。四日目ともなればアイリも勝手知ったるもので、置場所に迷うこともない。
お皿を渡しつつ、歩はアイリを盗み見た。
(……本当に綺麗な人だなあ。それに綺麗なだけじゃなくて、ちょっとこう……お母さん、って感じがするというか)
さらさらの銀糸から垣間見える、人形のように整った顔。
しかしそこに無機質な印象はない。むしろ二十代後半の外見だというのに高貴な無邪気さや母性といったものが湛えられている。そのアンバランスさがまた彼女の独特な魅力になっていた。
(……いつもは一人で寂しく家にいるんだっけ。いや、最近は式さんとかといるみたいだけど。……僕と一緒にいて、少しは楽しく思ってくれたらいいな)
ぼうっとして考える歩。
──それがいけなかったのかもしれない。ふと、皿を渡す歩の手と、受け取るアイリの手が触れてしまった。
「あ」
「っ────!!」
慌てたのか、アイリが弾かれるように手をひっこめる。
二人の間でちょうど手渡しされていた平皿が、ガシャンと床に落ち、割れてしまった。
「ごめんなさい! 大丈夫ですか、アイリさんっ」
「あ……わ、私のほうこそごめんなさい。ちょっとびっくりしちゃって」
すぐさま床に散らばった破片を拾い集める歩とアイリ。破片が残ったら足裏を怪我してしまうかも知れない。見落とさないように拾い集めていく。
と、
「あ、痛っ……」
「アイリさん? ……うわ、血が出ちゃってるじゃないですかっ」
破片で切ってしまったのか、アイリの指に傷が出来ていた。深く切ってはいないらしいが、ひとすじの鮮血が伝っている。
「うわ、まずいな……絆創膏あったっけ」
「だ、大丈夫よ歩くん。このくらい」
「駄目ですっ!」
「っ……」
鋭く言った歩に、少し気圧されるアイリ。
歩にとって女性の身体とは大切に扱わなければいけないものだ。しかもそれがアイリのような魅力的で美しい淑女とあれば尚更。血が流れるほどの切り傷など、見過ごしていいものではなかった。
「駄目だ、無いなあ。……仕方ないか。アイリさん、このタオルを巻いておいてください。薬局で絆創膏と消毒液を買ってきますから」
「え、あ、歩くん」
おろおろするアイリを置いて、歩は薬局へと走っていった。
♦♦♦♦♦♦♦♦♦
「……うわ、運がない」
歩のマンションから歩いて15分ほど。
近場にある大型薬局で必要なものを揃えた歩は、自動ドアをくぐると悪態をついた。
行き道では曇っている程度だった空は、今ではかなり激しい雨に変わっていた。もう夕飯時過ぎということもあり辺りは一気に真っ暗になっている。
数分待ったが、雨が弱まる気配はない。コンビニなら売り物の傘を出すだろうが薬局では見込めないだろう。しかしこのままアイリをずっと待たせておくわけにもいかない。
「まあ、もう一度お風呂に入ればいいんだし。走っちゃおうか」
ビニール袋を握りしめる。そのまま歩が走り出そうとすると、
「──あっ、いたいた。ちょうどいいタイミングで来れたみたいね、私」
前方から。歩の家の傘を差したアイリが、歩の方へ雨の中を近付いてきた。
「あ、アイリさん? そんな、待っててくれれば良かったのに」
「そういうわけにもいかないでしょ。自分の為に出ていった男の子にこんな雨の中を走らせるほど人でなしじゃないわよ、私」
片手で傘を握るアイリ。
もう片方の手は、歩に巻かれたタオルが握られている。やはり痛いのだろう、そちらは刺激しないように垂れ下がっていた。
「すいません、アイリさん。まだ痛いですよね」
「もうっ、歩くん。だから、さっきも言ったでしょう」
隣に立ったアイリが、歩に笑顔を向けて言う。
「そういうときはね、すいませんよりありがとうの方が嬉しいのよ。親しい間なら尚更ね」
「……あはは、そうでしたね。はい、ありがとうございます、アイリさん。……正直、アイリさんが見えたとき、すごく嬉しかったです」
「そうそう、そういうのが一番よ。言われた方も、ああやって良かったなー、って思えるんだから」
くすくす、と笑い合う二人。
だがいつまでもこうしていては、せっかく急いだ意味がないというものだ。気を取り直して歩とアイリが家路に着こうとすると。
「……あれ。アイリさん、もしかして傘、一人分ですか?」
「………………あっ」
ぽかんとするアイリ。
片腕を怪我して使えないせいもあったのか。アイリが持ってきた傘は、無事な腕で差してきた一本だけだった。
「う、ううっ。私ってもしかして、もうボケてるのかしら……」
「そ、そんなことはない……と思いますよ」
「ああっ、歩くんのフォローも苦し紛れっぽい……!」
歩とアイリは、雨の夜道を歩いていく。
雨はさらに激しくなり、水滴が傘を打つ。路面が車のライトを反射してきらきらと輝いていた。
「歩くん、交代しようか? ずっと持ってると疲れるでしょう」
「大丈夫です。このくらいなんでもないですよ」
歩が傘を握り直す。
わざわざ来て貰ったのだからと、帰り道では歩が傘を持っていた。アイリの方が幾分か背が高いので、腕を上げ続ける格好になっている。それなりに辛いはずだが、少年は弱音を吐かず傘を持って差し続けていた。
年若いといえど男子としての意地なのかな、と微笑ましく思うアイリ。しかし、ふと気付く。
(……あれ。歩くんの肩、濡れちゃってる)
傘を差していない方の歩の半身はほとんど雨から守られず、濡れてしまっている。
アイリが自分の身体を確かめる。吹き込んだ雨で少しは濡れているがそれだけだ。歩側の半身も、もう片方も綺麗そのもの。
つまり、
(歩くん、これ……二人ともっていうより、私が濡れないように傘を差してるんだ)
そう認識した途端。
──どき、と軽く心臓が鳴った。
(……あれ、なにドキッとしてるんだろ)
?? と胸に手を当てて首を傾げるアイリ。
そういえば、今までもこういうことが何度かあった。例えば歩に手料理を誉めて貰った時。例えば一緒に買い物へ出掛けて、歩に手を引いて案内して貰った時。例えば、お風呂上がりでまだ下しか着ていない歩と出くわしてしまった時。
彼との共同生活では、今まで感じたことのない不思議な鼓動を感じることがあった。それは日の経過と共に感じる機会が多く、また強くなっている気がした。
(……うーん。不整脈? いやいや、だからまだそこまで年取ってないってば)
見当外れのことを思うアイリ。
奇しくも、それは式の狙い通りの事象だった。
式は大まかなアイリの過去を聞いている。それと式自身が見立てたアイリの性格から、彼女の恋愛感情についてある推測をしていた。
アイリは一般的な恋愛過程を踏んでいるとは言い難い。恋を知る前に妻になり、愛を知る前に母になった。確かにそれらの感情は結果的にアイリの中に生まれたのだろう。だが、それはあくまで後から追い付いてきたもの。現在進行形で積み重ね、味わった経験はないのではないか、と。
要するに人妻であり母親であるアイリは、同時にまだまともな恋愛経験を積んだことのない、恋愛処女とでもいうべき女性なのではないかということだ。
それはまさしく図星だった。歩があまり男くささのない、中性的な少年であるということもあったのだろう。中学生くらいの恋愛情動のままのアイリの心は、ひょんなことから出逢った少年にこれ幸いと遅れて来た初恋を覚えさせて貰おうとしていた。
しかし、それだけではない。アイリが持て余していたのはもうひとつ。母親となりいみじくもアイリの中に生まれた母性は、家族を失ったことで溢れ爆発しそうになっていた。そこへそれを存分にぶつけられる少年が現れたのだ。
親友を『旦那様』に献上し、あわよくば二人仲良く可愛がって貰おうと目論んでいた式。
そんな彼女でも想定していないほどに、歩はアイリの欲求を満たし尽くしてしまう少年だったのである。
「アイリさん、傷痛みませんか? もうすぐ着きますからね」
「う……うん。平気よ」
話しながら歩く二人の脇を、道路の雨水を巻き上げながら車が走っていく。
(……あ、そっか。さっきからたまに立ち位置を変えてると思ったら歩くん、道路側に立って私を水跳ねから庇ってくれてるんだ)
アイリよりも小柄な身体で彼女をエスコートする歩。
そんな姿に、またキュンとしてしまう初心な人妻だった。
「それじゃ、また明日ね。歩くん」
「はいっ。おやすみなさい、アイリさん」
ばたん、と歩の部屋のドアを閉じて。
廊下に出たアイリは、ふうとため息をついてドアに背中を預けた。まだ夜空を雨が降りしきっている。
(……なんで、こんなに寂しくなるんだろ)
歩との時間が終わり、彼の部屋から薄暗い夜のマンションの廊下に出たとき。毎回、以前ひとりで家にいるとき感じていたのよりもずっと強い寂しさが胸を打つのだ。
思えば彼と会うようになってから、ドキドキしたり嬉しくなったり寂しくなったりという心の動きが増えている気がする。それは怖いようで、またどこか幸せな感情だった。
(……まだ、手が熱を持ってるみたい)
指に巻かれた絆創膏を撫でる。ちょっと緩めに巻かれたそれは、歩が巻いてくれたもの。ついさっき、自分ではやりにくいだろうからとアイリの手を握って優しく巻いてくれたのだ。
(…………ん…………)
何となしに、唇へそれを触れさせてみる。
この程度の傷が熱を持っているはずはないだろう。だというのに、じんわりと唇が熱くなった。
数秒間その熱を味わってから、はっと気を取り直す。
(な、なにしてるんだろ、私。こんなところ他の人に見られたら変に思われちゃう)
ぶんぶんと頭を振って熱を覚まし、自分の部屋へ歩いていく。
その途中。
「……早く、また明日が来ないかな」
ざあざあという雨音に掻き消されるくらいの小声で、アイリは呟いていた。
アイリ編では読者の方から頂いたアイデアをいくつか入れてみました。メッセージを下さった方々、ありがとうございました。
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