閉ざした瞼に落ちてくる、小さなキス。蕩けるような甘い声が、鼓膜を優しく震わせる。
聞き慣れたその声は、私の精神を子供に戻してしまう。でも、甘えてばかりではいけない事を本当は理解してるのよ。
それでも甘えてしまうのは、その声の主がその程度では怒らない事を知ってるから。見捨てられたりしない事を、知ってるからだろう。
「ナミ……そろそろ昼だ。起きないと夕飯まで何も食えなくなるぞ」
「んっ……あと、5分……」
モゾモゾと近くにあった布を引っ張って言えば、フワリとかけられるそれ。そしてかけられた布ごと強く抱き締められたと思った瞬間、バンッと言う大きな音が聞こえて目が覚める。
でも、完全覚醒はしてなかったらしい。怒った顔のベックを見てへにゃりと情けない笑顔を向けてしまう位には、寝惚けていた。
「おはよ、ベック」
モゾモゾと手を出して、甘えるように両手を差し伸べると、逞しいその腕が支えるように起こしてくれる。そのままスリスリとその胸に擦り寄れば、それまで怒っていた筈のベックの空気が優しいものに変わった。
ゆっくりと歩み寄ってくれるベックの瞳には、今私しか映っていない。ベックがすぐ近くで甘い声を響かせる。
「しょうがない甘ったれだ」
「……嫌い……?」
ベックに嫌われるのは、嫌だな。そう思ってベックを見上げたけど、全身にまとわりついた気怠さのせいで、中々頭が覚醒してくれない。
なんか、私昨日……色々あった気がする。そう言えば、どうしてこの世界の男達は毎回毎回、相手の許可を得ずに、寧ろ嫌がってるのに中に出すのかな。
半濁したままでそんな事を思い、少しいじけたような気分になる。そんな私の頭を撫でながら、ベックは笑った。
撫でてくれるその手が、物凄く気持ちいい。ベックの掌、温かいなぁ。
「いいや、俺にだけ甘えてくれるのなら、いっこうに構わない」
「俺は構う!なんで俺にはそんな甘え方しないのに、ベックはそれなんだよ!?」
騒ぎ出したシャンクスに、そう言えばさっき甘ったるく起こしてきたのはシャンクスだったなと気付く。いつの間に、ベックと入れ替わったんだろう。
考えてみれば眼福である。どちらも相当いい男なんだろうと思うのに、そのふたりが甘やかな眼差しで此方を見て居るのだから。
巫女様とか、半狂乱になりそう。……でも、私から見たら保護者の枠なんだよね。
本当に贅沢。あ、成程!
「うん、幸せな夢かも知れない。もう少し、このままでいたいなぁ」
「……お頭、ダメだ。ナミはまだ寝てる」
「みたいだな。ルーに言って何か軽食運ばせるか」
シャンクスはベックの言葉にそう返すけど、ベックはそれに嫌そうな顔をする。ベックって冷静だし賢いけど、表情はちゃんと変わるのよね。
感情を隠すとか抑え込むとかしないから、それは本当に良かったと思う。そう言えばベックもシャンクスもお酒好きで女の人も嫌いじゃないのに、あんまりそういう所行かないよね。
やっぱり性病が心配なのかな。この世界ゴムが無さそうだし、そう考えたら当然かもね。
「それが良いだろうな。ただ、こうなってるのはあんたの責任だと忘れるなよ。ナミの体力考えて、程々にしとけと言ってるのに……」
「お前な、天性の煽り女相手にそれが出来たら男じゃねェよ」
「……俺は、出来たが?」
「お前はおかしいんだよ!!」
2人のそんな会話を聞き流しながら、でも楽しそうなその様子につい、ふふっと笑えば同時に声が止まる。それを見ながら、仲良しさんねと笑えば何故か溜息が落とされて、シャンクスの顔が近付いてきた。
そのまま舌先で私の上唇を舐め、下唇を甘噛みし、啄むように繰り返される。それを無意識で受け止め口を開けば、ゆっくりと味わうように滑り込んで来た舌が、暫し戯れに遊ぶ。
擽ったくて、クスクスと笑えば息を飲む音が聞こえて、今度こそ深く重なろうとした唇が、いや……その顔が、突然遠のく。見れば私を抱き起こしてくれてるベックが、絶対零度の眼差しでシャンクスを見ていた。
「寝惚けてる女を襲うな」
「お前、だって今の……!」
「間違いなく、寝ぼけ過ぎてルフィ辺りと間違えてるぞ。そうなればその内〝ルフィおはよ、愛してるわ〟とか言い出して、お頭の理性が切れる未来しか見えねェよ」
ベックはそう言うと煙を吐き出す。煙草から立ち上る紫煙は濃い白なのに、ベックが吐き出すそれは薄い白だから大半をその体の中に残してるのだろう。
肺が真っ黒になっちゃうんだから。まぁ、愛煙家にそんな事言っても無駄なのは間違いないけど。
「ベックはいつから預言者になったんだよ!?」
「……あんたの事とナミに関しては、予言じゃねェよ。これ迄の行動パターンから、簡単に推察出来る安定的な未来予想だ」
そんな会話を聞きながら、次第に私の頭がハッキリしてくる。すると今自分が身に付けてるのが、恐らく先程シャンクスに掛けてもらったマントのようなコートだけだと気付く。
それをはだけさせて、ベックに手を伸ばして居たのだ。……私、何してんの!?
「いやぁぁぁ!!」
「あ、起きたな。ナミ、大丈夫か?」
ニコニコと楽しそうに笑うシャンクスをキッと睨み付けてから、ベックに視線を移す。なんでシャンクスは私に、服の1枚も着せといてくれないのよ。
もし寝惚けてコート借りてなかったら、私何も着てない所で……!私っ……!
無意識で縋るように見て居たのだろう。ベックはその眼差しだけで大丈夫だと伝えてくれるから、少し心に余裕が出来て言語っぽいものを口にできた。
「シャンクスのバカ!ベック、シャンクスが苛める!」
「大丈夫だ。今夜から俺の部屋に来い。ナミが嫌がる事は何もしないから」
「ベックー……」
もうヤダ。泣きそう。
シャンクスに愛されてるとか、幻想だったんだ。シャンクスにとって私なんか、ていのいいオモチャなんだわ。
「待てコラ!ベックも男だぞ!?」
「……俺には、合意なく女を押さえ込み犯す趣味なんざねェ。特にナミに対しては、な」
「ウグッ……」
ベックからシャンクスのそれに腕を通すように言われて従えば、横抱きに抱き上げられて他からは素肌が見えないようにして部屋を連れ出してくれる。そんなベックに甘えながら、ベックの部屋に素直に運ばれたけど……。
机、本棚、ベッドしかないその部屋に何となく笑ってしまう。そう言えば服って何処に入れてるんだろう。
クローゼットの1つも見受けられなくて、机やベッドの横に武器が積まれてるけど、それだけなのだから気になってしまう。そんな私をベッドに降ろすと、少し待ってるようにと言われた数秒後、ベッドの下から取り出された衣服を目の前に置かれる。
「今、食事を持ってくるから、その間に着替えてるといい。鍵はかけて行くから、ドアを破壊されない限り見られる事はねェさ」
「……ありがとう」
「ナミ、お頭が嫌いになったか?」
「なれないから、悲しい。……シャンクスは、私の事、本当はどうでもいいのよ。物珍しいオモチャくらいにしか思ってないんだわ」
情けない。シャンクスの想いは受け取れないと、そう言ってる癖にそれが本当は本気じゃなかったと知っただけでこんなに取り乱してる。
私はなんて我儘なんだろう。もう、消えてしまいたい。
「あの人は、本気だ」
「え?」
「あの人は、見せびらかしたいタイプだからな。ナミの性格的にそんな事されたらどうなるか、少し考えりゃ分かるだろうに……なんか浮かれてんだよな」
「本気で、オモチャだと……なるほ「馬鹿か。お頭がナミを傷付けるのも許せねェし、許す気もねェが、お頭の想いをナミに否定する権利はねェぞ」」
珍しく怒りを滲ませたそれにビクリと身体が震える。ベックにこんなに強く怒気を向けられた事なんて、これ迄なかった。
いつも、大人として笑って許してくれてたんだ。でも、ベックにとって許せない事を私はしてしまったらしい。
「ナミがお頭を受け入れないのは、好きでいい。ルフィが好きだから、裏切れないから、理由は何でもいい。ナミの意志を尊重する」
「ベック……」
「だが、お頭がナミを想ってるそれを否定する事は許さねェ。受け入れろとは言わねェが、否定もするな。……あの人は、ナミの為なら世界を滅ぼすぞ」
「まさ、か……そんな事は……」
声が掠れる。声が、震える。
否定したいけど、シャンクスなら確かに世界だって滅ぼせるだろうと気付いてしまったから。でも、私の為にならなんて、そんな事信じられないし、認めちゃいけないと思う。
「俺は、ナミの為なら世界を敵に回すのも厭わねェが、あの人は世界を滅ぼす。持ってる地力が違ェからな。……そんな激情が暴走しかねねェし、俺はこれでもあの人の副だ。あの人はやり方を間違えてるし、傷付けられて信用出来なくなるのも分かるが……あの人の想いを否定しないでくれ」
「ごめん、なさい」
謝罪した私に、わかってくれたなら良いとでも言わんばかりにベックは優しく笑ってくれる。そのまま無言で頭をポフポフと撫でてから移動するベックの背中を見送り、私はモゾモゾと着替えを開始した。
そうね、私に否定する権利はない。都合が悪くなったからと、あの真っ直ぐに絡み付く想いを否定するのは許されないわ。
息を吐き出して、気持ちを落ち着かせるとふと気になってしまった。……ベックって、同じデザインの服何着有るんだろう。
昨日脱がされたのも、その前に何回か借りてるのも、今のこれもデザインが全く同じ。色も、サイズも……。
とりあえずいつものように、大き過ぎる部分は勝手に腰や肘の所で縛り、海賊映画に出て来る雑用さんみたいな出で立ちになる。そうして窓ガラスに映る自分の姿を確認すれば、おかしい所はないけど……。
……なんか、海賊みたいだわ。いや、職業は海賊なんだけどさ。
いつもが海賊とは思えない姿をしてるからか、なんだか新鮮。窓に映る姿に色々考えていたら、いつの間にか帰って来たベックに可笑しそうに笑われてしまう。
「とりあえず、食事にしよう」
「でも……」
椅子は机にあるひとつだけ。どうしたらいいのかと視線を泳がせれば、ベッドを顎で示されるのでちょこんと座る事にする。
そんな私の横に腰掛けて、1つしかないそのイスを引っ張ると持ってきたトレイをそこに置く。そうして、程よく焦げ目のついたトーストにバターを塗りながら楽しそうに私を見てくる。
「俺と同じ物を着ててこうも違うとはな。……可愛い」
「そうやって女を誑かしてるのね?その内刺されるんだから」
私の言葉にベックは心底可笑しそうに、けれども楽しそうに笑い出す。ここは動揺するとか、反省するとかして欲しかったんだけどな。
むくれる私を愛しそうに見て、ベックは問い掛けてくる。その声は砂糖菓子なんかより、ずっと甘い。
「俺を刺せるレベルの強さを持っていて、賢くて、可愛い女は俺の知る限り1人しか居ないから問題ねェさ。……ジャムか蜂蜜を塗るか?」
「バターの上に?」
「美味いよ。試してみるといい」
そう言って勝手に蜂蜜を重ね塗りするベックの手元から、視線をトレイに移す。ふんわりとしたオムレツと、カリカリベーコン。
トマトとサニーレタスに守られるようにして、器の中心に居るのはポテトサラダ。そして、私に対する究極の甘やかしだろう、蜜柑ジュースが置かれている。
「ホットミルクは後でルーが持ってきてくれるから、今はビタミン補給しておくといい。ほら、トースト」
「自分で食べられるから!」
手渡しではなく、目の前に差し出される厚切りトースト。食べるまで引くつもりは無いらしいと気付いて、仕方なくベックの手にあるそれに齧り付く。
サクサクのパンに染み込んだ芳醇なバターとまろやかな甘さの蜂蜜は、驚く程にマッチして口の中で蕩けていく。……この蜂蜜、美味しい!
アカシア蜂蜜とは違うけど、その辺の安物では決してない。そんな私の考えに気付いたのか、ベックはクスクスと笑いながら教えてくれる。
「向日葵の蜂蜜だ。ナミなら喜ぶと思ったが、そんなに気に入ったか?」
「うん、美味しい」
「なら、ほら……残すなよ」
「でも、こんな食べ方したら、太っちゃう……」
太ったナミちゃんとか、許されない気がするわ。そう思った時、ベックがスっとその瞳を細めるから内心でヒィッと悲鳴をあげてしまう。
「ナミ、食べ物を粗末にするつもりか」
「しません。ちゃんと食べます」
「いい子だ」
言われるままにもう1口齧ると、口の端に蜂蜜がついてしまう。それを指先で拭おうとした途端、目の前にベックの顔が現れて1瞬早く舐め取られてしまった。
「甘いな」
至近距離から囁かれて、心臓がバクンと跳ね上がった。赤くなるのを抑えられずに、ジロリと睨め付けてもベックは飄々としている。
「ナミが嫌がる事はしないが、惚れた女に多少触れるくらい……許されるんじゃないか?」
「うっ……」
「……今はもう、悪戯しないから食っちまえ」
そう言って漸くお皿に乗せて渡してくれたので、それをベックの方をチラチラ見ながら食べていると、本当に可愛いなと言って頭を撫でられてしまう。もう既に、意味が分からない。
兄バカも、ここまで来れば立派な才能だと思う。蜂蜜とバターの恐ろしい程の相性に感動しつつ、でもこれのカロリーってなんて考えた時ベックが言う。
「望まない運動で体力等を消耗してるから、補給しとけ。肌から艶が消え失せるぞ」
まだまだ若い、ピチピチの20歳に向かってベックはなんて事言うのだろうか。でも、お肌は20歳をピークに衰えるとよく聞いたもの、警戒して当然よね。
その上生活圏は海の上だから、どうしたってお肌には悪条件となる。ならば、言われるままに食べ尽くしてしまおう。
サラダとオムレツも食べ切り、ジュースを飲んでいたらドアが開かれた。するとルーが姿を見せて、楽しそうに笑ってくれる。
「久しぶりだな!ナミ」
「ルー!」
飛び付いた私を軽々と受け止めて、大きくなったなと言ってくれるそれにありがとうと頷けばほらと渡されたカップ。でももう、お腹いっぱいである。
「今、ちょっと、入る気がしないの」
「「飲め」」
「2人とも、鬼!?」
「仕方ない。蜂蜜も入れてやろう」
そう言ってルーにより蜂蜜を投入されては、飲まない訳にもいかない。この食事だけでどれ程のカロリーを摂取したのかなんて、考えない事にした。
そうして食事を終えると、ルーはやる事があるらしく去って行く。ベックは机に向かって書類仕事をしてるから、私はどうしたらいいのかと困ってしまう。
邪魔はしたくないけど、表に出たらシャンクスに捕まりそうだし。そうなるとベックが助けに来て、迷惑かけちゃうわよね。
「ナミ、暇なら計算が間違ってないか、そっちの束確認してくれ」
言われるままに示された先を見て頷くと、ベックは次々と書類にペンを走らせて行く。その様子にカッコイイわと1人で頷いてから、頼まれた事をこなす為に視線を向けた。
幾つか見つけたミスを付箋で修正して、元の並びに直して重ねた時に部屋へと入って来たヤソップが私の手荷物を返してくれた。どうやら、シャンクスから奪い返してくれたらしい。
「薬とかも揃ってるとは思うが、確認しとけよ」
「ありがとう」
「……お頭を、嫌わないでやって欲しい。アレで、本気でナミの事……」
そう言って困ったような顔をしたヤソップは言葉を止めて首を振る。やっぱいいや、なんて言って。
私が仲間を想うのと同じように、ヤソップもシャンクスを想ってる。そして、私の事を大切に想うが故に言い淀んでくれたのだろう。
それが分かるから、笑ってしまう。私、幸せ者だなぁ。
「私、シャンクスの事好きよ。でも、ルフィのものなの。諦めて貰えたら嬉しいけど、シャンクスは海賊だもの、諦めたりしないでしょう?」
「ナミ」
「まぁ、後数年もしたら若いお嬢ちゃんじゃ無くなるから、そんな気も起きなくなるわよ。ありがとう、ヤソップ」
クスクスと笑えばヤソップが呆れを隠さない顔と声を向けて来た。なんでそんな顔されるのか分からないわ。
「ナミは、男をわかってねェな。100歳になっても、可愛い相手になら襲いかかるぞ、男ってのは」
「そんな馬鹿な。その頃には枯れてるでしょ」
「だから、甘いってんだよ。枯れててもやり方はあるんだ。ナミは死んでも油断なんかするなよ」
死んだ先でさえ油断するなと言われるなんて、それは言い過ぎだろうと肩を落とす私にヤソップはパパは心配だよなんて言ってくるので、クスクスと笑って適当に頷く。そんな私とヤソップを、ベックは優しい眼差しで見詰めてくれていた。
シャボンディ諸島は、もう、目前に迫っている。別れの時は近付いていた。