風が吹けば、それに煽られて蜜柑の葉が揺れる。そうして揺れる事で木の葉が擦れて聞き慣れた音が耳に届く。
蜜柑の香りが潮の香りに混ざって届くのを感じて、心が少しだけ落ち着いた気がした。夜なのもあり、蜜柑の実は食べ頃にならないと良く見えないけど、逆を言えば月の光で食べ頃の蜜柑は輝いて見える。
そっと甲板に降ろしてもらい、私はゆっくりと蜜柑の樹に近付いた。その中で食べ頃と分かる子を見繕い、特に甘味の強い子をもぎ取るとルフィに投げ渡す。
受け取ったルフィはにししっと笑うと、頂きますと言ってから皮ごと食べるから、それを見て苦くない?なんて聞いてしまう。それにルフィは不思議そうに首を傾げて、甘いぞなんて言うから自然と笑みが浮かぶ。
柵に腰を降ろして、そっとハープを爪弾く。ルフィと私がここに来たのは、何か話したかったからだと思うのに双方無言のまま何も言葉が浮かんで来ない。
蜜柑を食べきったらしいルフィは、私を見て二年前はしなかった顔をする。遠くにある、触れられないモノを見るような、そんな眼差しで……切なそうに微笑んで、私を見詰めていた。
「……ナミにさ、俺……嫌われたかなって……不安だった」
「ルフィ?」
「いつも不安になる。ナミだけは俺を嫌わないって知ってるのに、怖くなるんだ。世界よりも俺を優先してくれる仲間達だと知ってて、信頼してるから、不安とかそう言うの無いのに……。ナミだけは、俺じゃない誰かに奪われんじゃねェかって、いつも……怖い」
そう言ってルフィは自分の両手を見詰める。能力的にも筋力的にも強くなったルフィなのに、皆も強くなった筈なのに、恋愛だけは力だけではどうにもならない事を突きつけられた気がした。
だから私は、言葉に詰まる。何を言えば正解なのか分からないから。
方程式とは違って、必ずと言える正しい答えが見付からない。でも、黙っているのは許されないと知っているの。
「私も不安になるわ。……強くなった気がしてても、結局誰にも抵抗できなくて……。何度も、多くの人にこの身体を許して来た。時には、私から求めた事もあるのよ」
「……うん」
「なのにね、後悔してないの。……奪われたり、暴かれたりしたのは確かに嫌だったし、苦痛だと思う。精一杯の抵抗だってしたわ。でも、中には私から……誘った事さえあるし、普通に受け入れた事もあるんだから……っ」
声を詰まらせながらしか紡げない私の言葉に、ルフィは小さく頷く。隠しているから、バレた時が怖いんだと思って口にした真実は……言葉にしてみて、身体が震える現実が待っていた。
〝いつか〟捨てられるのならば、早い方が良い。デートしようなんて誘ったけど……島に着く前にこの事に決着つけないと、楽しむ事も、吹っ切る事もできない気がしたの。
「ルフィじゃない相手に縋り付いて、甘えて、そんな事をした私はきっと……誰よりも汚い。醜いってわかってて……なのに、後悔なんてした事も無いのよ。……だから、ルフィには私を捨てる権利があるわ」
「俺、わかってた」
「え?」
「……ナミはさ、汚くも醜くもないんだ。ただ、綺麗すぎるだけだ」
静かな声だと思う。大好きな、真面目な声なのに、威圧感も何も無い……凪いだ声。
風が髪を揺らす。ルフィの瞳に、情けない顔した私が映ってるのが見える。
「そんな事ないわ!私は、被害者じゃないの。ルフィに黙っていたら、捨てられないんじゃないかって、そんな卑怯な事考えて……!!」
真っ直ぐな眼差しが痛い。怒りの無いルフィの様子が、寧ろ怖いの。
慟哭のような、金切り声のような、自分の声。それが耳障りで、慰めなんかいらないから早く切り捨ててと願ってしまう。
なのにルフィは静かに言葉を紡ぐ。まるでそれが、当然の事であるかのように。
「ナミにそれを抱えている事はできなかったよ。ナミはさ、自分で思ってるよりずっと素直で、わかりやすい」
「え?」
「俺に対しても、他の誰に対しても、ナミは真っ直ぐに向き合うんだ。全てを受け入れて、受け止めて、その傷や痛みに敏感に反応して……癒そうとする」
「それ、は……」
もしも、癒せるなら癒したいけど……私にそんな大それた事はできない。ただ、泣いてる事は、苦しんでる事には気付いてしまう。
だから、見捨てられないのは間違いない。だけど、それがルフィを裏切っていい理由になんてならない事もわかってるの。
「ナミのその優しさに、俺達は救われた。ナミは綺麗すぎるから、痛みに気付けちまう。だからこそ……傷付いてる相手を見捨てられないんだ」
「ルフィ……」
「俺が愛してるのは、そんな優しいを通り越して甘ったるいナミなんだ。甘いナミが好きなのに、そのナミの行動を理由に捨てるとか……有り得ねェだろ」
声が、出せない。だって、ルフィは本当に愛しそうに私に笑いかけるから。
愛してるその瞳で、その表情で、伝えて来るから。本当に許されるんじゃないかって、期待に胸が疼く。
ルフィはそんな私に言葉を続ける。困ったみたいな顔で笑いながら。
「俺、全部知ってた。ナミが罪悪感抱えている事も、俺に捨てられたくないって無理してたのも。でも、そのままにしてたら、ナミは俺に対してその罪悪感を理由に離れて行かないってのもわかってたから、自分から言うまで知らないフリしてたんだ」
ルフィもまた、抱えているものがあったのだと気付く。だからこそ、ルフィも不安を抱いてたんだ。
恋愛は人の心を豊かにもするけど、同時に臆病にも、傲慢にもする。人を愛する事は、ともすれば何よりも難しい事なのかも知れない。
なら、ルフィがそうしてくれたように、私も答えなければ。私がルフィを捨てる事だけは有り得ないと、伝えなければいけない。
「ルフィを私は捨てたりしないわ。ルフィになら、殺されても本望だもの」
「俺も、ナミを手放したりしない……ってか、できねェよ。俺は、ナミが笑っててくれるならそれだけでいいんだ」
「え?」
そんな馬鹿な……とは言えなくて。言葉が上手く纏まらない。
ルフィは軽く笑って、少しだけ視線を動かして星を見る。それから私に視線を戻して、太陽みたいないつもの笑顔で言った。
「ナミって、博愛主義みたいな所あるから、俺だけを愛してくれなんて言わねェし、それを理由で捨てるとか有り得ねェ。なのにナミは、それが悪い事みたいに考えてんだろ」
「だって、ルフィ以外に……」
「うん、そりゃヤだけどさ。いいんだよ、それくらいの事ナミは気にしなくて。ナミは真面目すぎる」
「そんな馬鹿な話……」
「ナミが〝俺の傍で〟無理しないで、自然に俺を愛してくれるなら……それだけでいい。そうしたら俺がナミを手放せない。男は力があるから何時でも誰を相手にでも出来る。その対象にナミが選ばれやすいんだから、守れない俺が悪いんだよ」
ルフィは嘘を付けない。つまりこれは、ルフィの本心。
互いに心の内を晒して、なのに傷つけ合う事が無いなんて有り得るとは思わなかった。もう、恋人で居られなくなるんだって……そう、覚悟してたのに。
「ルフィ……私を、甘やかさないで。私、ダメになっちゃう」
「甘やかしてない。ホントの事だ。男はどっかで発散しても良くて、女は駄目とか可笑しいだろ。だから、気にすんな。……もしナミが駄目になって、1人で立てなくなっても、ナミは俺の恋人だし、1人で立てないなら支え合えばいいだけだろ」
ルフィは太陽みたいに笑う。真っ暗な夜の海でも、ルフィがいれば何も怖い事なんてないと思えるの。
海と空の境界線さえ分からなくて、空よりも暗い海の中に沈みそうになっても、ルフィがいるなら戻って来られる。ルフィは温かな道標。
「ありがとう、ルフィ」
「ん?……おう!ナミもありがとう。これからも宜しくな!!」
絶対に手放さない。絶対に捨てない。
互いに誓い合って、でも、きっと互いにわかってるの。いざとなった時、私達は愛よりも先に別なものを優先してしまう事を。
それでもいい。私は、ルフィの航海士である事が誇りだから。
持って来たハープを爪弾いて、アーロンの元に居た頃はそれも出来なかった事を思い出す。何の楽しみも、生きる希望も見いだせなかった前世で、何も考えなくて済むからと、人の声が聞けるからと絶望の緩和をする為に聞いていた音楽。
それは今、ナミちゃんとは違う今のナミとしての私を作るきっかけとなれた。この世に、何一つ無駄な事なんて無いんだと、こうして痛感させられるのだ。
「何か、歌うのか?」
「暗くても、構わないなら……」
「ナミが歌う姿好きだから、歌はなんでもいいぞ。でも、俺がまだ聞いた事ないやつだと嬉しい」
知らないものはワクワクするからと言うルフィに、少しだけ困って……それから歌う物を決めた。
音を確認するようにハープを少しだけ鳴らして、小さく頷く。大丈夫、歌えるわ。
「〝Home〟」
この曲は、ドラムを使いたいけど……この際ワガママは言えないかなと思って口にした時、ヨホホって聞こえて振り向いてしまう。するとそこに居たのはブルックで、ドラムの前に座っていた。
驚いて動きを止めた私に、ロビンが微笑みながら机の上に置いてあった先程描きあげたその譜面をブルックに差し出す。前甲板の芝生の上に、皆が集まっていた。
怯えて彷徨い歩いていた筈のチョッパーやウソップも、寝た筈のゾロも、酒を飲んでた筈の錦えもんやサンジ君も……。なんで……と、思って呼吸さえ止めてた私に、ルフィが舌打ちする。
「皆聞いてたんだな!?」
「ただイチャつく感じの空気じゃ無かったんだ、当然だろ。麦藁屋がナミを手放すなら、ナミが麦藁屋を捨てるなら、こんなチャンスはねェからな」
悪びれも無いローちゃんの言葉に皆が頷く。それにルフィは怒るけど、ブルックは気にしてないのか突然ドラムを叩き始めるから私は歌う為に気持ちを切り替えるしか無くなった。
そんな時、ルフィがドラムセットに手を伸ばして、私の目の前に持って来る。どうしたのかと見詰めれば、少しだけ頬を染めて、言った。
「ハープで悲しいの歌われたら、そのまま消えちまいそうだから……こっち使ってくれよ」
「そしたら、ブルックが困るでしょ」
「ヨホホ!ご心配なく!私にはギターがありますから!!」
その言葉に視線を向ければ、もう逃げられない。私はドラムの前に座り、確かめるように少しだけ音を鳴らす。
それに合わせてブルックも音を少し出すから、互いに視線を合わせて頷いた。初めて合わせるのにとか、そんな事はブルックが相手の時は不要な心配だと、私は既に知っているの。
だから私は、ドラムを鳴らして歌い出す。家族を想って作ったと言われる曲に、私の想いを乗せて。
「ーーー」
幼い頃、自分が異分子である事に気が付いたその瞬間から私は幸福になる資格は無いのだと理解していた。だからせめて私という異端を受け入れてくれた人達の幸福を願って、私は海に出たのよ。
「ーーー」
前世の事を思い出したのはつい最近で、でも、生まれ変われたら幸せになれるんじゃないかと思っていた前世の自分が、間違っていた事を証明しただけ。生まれ変わっても私は、楽にさえなれなかったもの。
「ーーー」
絶望の時がいつか来ると知識では知っていたのに、運命に抗えると信じて疑っていなかった。だから……目の前で皆が消えて行っても、必要だからと諦める事も出来たの。
なのにね、エースが私のせいで倒れた時……私は無力を痛感して、何も出来ずに泣いてる事しか出来なかった。何が起きたのか、それさえ私には分からなかったのよ。
「ーーー」
それでもそんな私を支えてくれる人達がいたから、立ち上がれたんだわ。だから
「ーーー」
これ迄生きてきた人生の中で、出逢った大切な人の顔が、大切な人達の存在が、胸の中で強く息づいて私の活力となる。だからこの声が届くように、私は歌い続けるのかもしれない。
「ーーー」
良い思い出なんて殆どないのに、
「ーーー」
初めから私に用意されていた運命の中で、待ち受けていたのは
「ーーー」
「ーーー」
それでも自分で自分に言い聞かせてた。〝私は私として〟守ると決めたのだから、最後まで足掻いてみせるって。
「ーーー」
今、これ迄の全てを超えたくて、まだ道は尽きてないと信じて突き進んでる。崩れ落ちるにはまだ早すぎるし、乗り越えられると言えるようになったの。
「ーーー」
今の私に、大切な人達に、死神の鎌が振り下ろされるその瞬間迄は……壊れる事はない。最期の瞬間まで立ち続けて、大切な人達の悲しい運命は覆して見せると決意してる。
「ーーー」
英詞に入る時、その部分は本来の歌詞のままでは意味が通じないとわかっているから、勝手に変えた物を入れた。この歌詞にはこの世界には無い物が多かったし、この部分こそがこの歌の本来の歌い手が心に抱く大切な部分だから、勝手に歌う事はしたく無かったの。
「ーーー」
必ず、後何年かかっても、何十年かかったとしても、仲間達の夢が全て叶うその時まで、私は
「ーーー」
何度諦めそうになっても、何度倒れてしまっても、心に抱く夢がある限り進んで行くと決めたから。幾度でも立ち上がるわ。
「ーーー」
私を愛してくれる人達に、私の歌が、作品が、大切な意味を持つと言うなら……描き続ける。今〝宝玉〟としての活動がどれ程罪深いのだとしても、その罪を抱えて生き続けるわ。
歌と演奏はほぼ同時に終わった。ブルックは表情が分からないけど、皆が呆然と私を見ているのが少し怖い。
歌詞と私の思考は必ずしも1致してないから、私の心の内は伝わらないとわかっている。それでも、見透かされてるような気がしてしまうのは何故なんだろう。
「……くそ、なんで、今ナミを抱けないんだ」
「ルフィ、皆の前で何言ってんの!?」
突然言われたルフィからの言葉で即座に茹だる。皆がいるのにと思うから、ドラムの前から立ち上がって、フラフラと後退ってしまった。
「ナミが悪いんだぞ。俺の伝わってて欲しい事は何もわかってない癖にそんな歌で皆に想いを伝えて、でも、俺を大好きな事だけは……強く想ってくれてる事だけは俺に伝えるんだから!!」
「意味わかんないから!!」
ルフィと突然喧嘩を始めた私にロビンが笑う。島に着くまでのお楽しみねとルフィを宥めて、私を女部屋へと連れ帰ってくれた。
その後表ではどんな状態になっていたのか、それを私は理解していなかった。今の私は、もう〝
それでも、ルフィと互いに心を見せ合えた今夜はきっと……大切な時間だったとわかってる。ロビンに促されるままに、先に寝ていたモモちゃんを真ん中にするようにして、私達は布団に入り朝になるのを待つ事にした。