「いやさ、うちの子も一歳になったし、記念って訳じゃないけど家族で旅行にでも行こうかって話になってね。せっかくだから初めての海に来てみたのよ」
「そっか、もう一年になるんですね。早いなあ」
そう朗らかに笑う彼女────
美綴綾子先輩は、変わらず美人のままだった。
肩口までで切り揃えられた髪も、猫っぽい吊り目もあの頃のまま。いや、髪は少しロングになっただろうか。それでも、一児の母でありながら学生の頃と遜色ないスタイルを保っているのは羨ましいところだ。
美綴先輩は大学で出会った男性と交際し、卒業と同時に結婚した。招待された結婚式で初めて見たのだけど、眼鏡をかけた大人びた男性だった。
美綴先輩がお付き合いしている、というのは姉さん経由で聞いていたけど、早い結婚にはそれは驚いたものだった。特に一番驚いていた……もといショックを受けていたのはライダーだったけれど。
「しかし暑いねー。あ、桜は一人? な訳ないよね、衛宮と来てんの?」
「あ、いえ。えーと、お友達と来てまして、今はちょっと席を外してますけど、はい」
「ふうん?」
美綴先輩が首を傾げる。たぶん脳内では『桜にそんな親しい友達いたっけ、でも直接聞くのは失礼かな』なんて思考が巡っていそうだ。
「あ、綾子さんのご家族はどこに?」
「今は一人だよ。旦那と子どもは宿で待ってる。ここにはちょっと散歩で来ただけ、すぐ近くなんだ」
結婚を期に私は美綴先輩を名前で呼ぶようになった。最初は慣れなかったけれど、美綴先輩とは今でも数ヶ月に一度は会ってお茶をする間柄で、そのうち違和感もなくなった。
といっても今年会うのは正月の挨拶ぶりか。美綴先輩は子育てで忙しく、私もまあ……色々あったせいであまり会えなかった。結婚式にも来てくれたけど落ち着いて話す暇はなかったし、恒例になった春の花見は欠席だったし。
…………それにしても。
ぱたぱたと手のひらで扇いでいる美綴先輩を盗み見る。
美綴先輩が結婚するなんて、あの頃からは想像できなかった事だ。この人を射止める男性なんて現れるのだろうか、なんてちょっと失礼な事を思っていた。
でも、蓋を開けてみれば先輩は仲間内の誰よりも早く結婚して、子どもも作った。それは美綴先輩本人も自分で自分が意外だと言っていた。実際、高校の頃は浮わついた噂の一つもない人だったし、姉さんは『不意打ちだ』なんて悔しがっていたっけ。
だけどこうして見ると、美綴先輩はとても幸せそうで、むしろあるべき所に収まったように感じるから不思議だ。会うたびにお互いの近況報告をするけど、家族仲良くやっているみたいだし。
なにより、妻になったからか母になったからか、美綴先輩はとても──有り体に言えば色っぽくなった。凛々しさの中に女性としての匂いを漂わせるようになって、私でもときどきくらっときてしまうくらい。
今は実家の道場を師範代として切り盛りしているけれど、美綴先輩目当てに来る人もいるのだとか。それも頷ける雰囲気だ。勿論、そんな不埒な輩は全て叩き出すか、根性を鍛え直しているみたいだけど。
「ん。そういえば、桜はリング嵌めてないの?」
「りんぐ? ですか?」
「指輪よ、指輪」
美綴先輩が左手をかざす。その薬指には銀色の輪が輝いていた。
「あっ、あー……その、昨日海水浴に行ったんですよ。その時なくさないようにって外して、そのままですね」
「ああ、そういうコト。ならしょうがないけど、ちゃんと着けておいた方がいいよ。変なのが寄ってこないとも限らない」
「変なの、ですか」
「そうよ。私が言うのも何だけどさ、桜は元々美人だったけど、結婚してから尚更じゃない。衛宮がついてれば大丈夫だろうけどこういう出先じゃ何が起こるか分からないし。ナンパとかされない? 旅行、女だけで来てるんでしょ」
「そんな、ナンパなんて別にっ。まあ……確かに女の子だけですけど、はい、全然問題ないです」
「? ならいいんだけど」
取り繕うのも一苦労だ。美綴先輩としても目の前の後輩が浮気旅行の真っ最中だなんて夢にも思わないだろうから、流石にバレる事はない、と思うけど。
「はー、暑。……お、桜じゃん。なんか思い出すね」
「はい?」
「ほら、上」
仰ぎ見ると、言われてみれば。名を呼ばれたのかと思いきや、私たちが日陰に使っているのは大きな桜の木だった。学校だから、そりゃあ桜ぐらい植えてあるか。
「ほら、桜の入学式。衛宮や藤村先生と記念撮影したよね。いやぁ感慨深いね、あの時はまさか衛宮と桜が結婚するなんて思っちゃいなかったよ」
「そう……ですね。私も──」
「そうだ、確かデータ持ってたな」
美綴先輩がスマホをいじる。古風な人に見えて、しっかり電子機器にも精通しているのだ。姉さんと違って。
「ほらこれ。いやー、皆若いなー」
「………………」
ああ、よく覚えている。
私と先輩、それに美綴先輩や柳洞先輩、そして藤村先生が写っている。たしか、藤村先生が葛木先生にお願いして撮って貰ったのだったか。
こんな写真を見たからか、学校に美綴先輩といるからか。当時の事がまざまざと脳裏に浮かぶ。
────少し、目眩がした。
それから美綴先輩としばらく話し込んだ。
近況報告だけじゃない。先輩は私の事を思ってくれているのだろう、新婚生活のアドバイスとか、子どもが出来た際の心構えとか、様々な事を教えてくれた。旅行先で開放的になっている為か、夫との出会いや、ちょっと踏み込んだ夜の営みの話まで。……子どもが出来たからか最近相手してくれないんだ、なんて言われても反応に困るのだが。
それでも、やっぱり美綴先輩は今でも頼れる人で。私にとって憧れの存在の一人なのだった。
「────ん。まず、時間潰し過ぎたかな。旦那から連絡来ちゃった」
不意に震えたスマホを見て美綴先輩が言った。確かに、自分も携帯を見たらかなり時間が経っている。
「それじゃ、そろそろ帰るとするよ。そっちはどうする?」
「私は、もうちょっと居ようかなって」
「そっか。熱中症にならないようにね、ここなら日陰だから大丈夫だと思うけど」
そう言って美綴先輩は立ち上がった。
傍らに置いていた帽子を被る。つば広の麦わら帽子で、これがまたよく似合っていた。
「それじゃ──あ、そうだ」
美綴先輩はそれとなく周りを窺ったようだった。それから、私の耳元で囁く。
「気を付けなさいよ、海水浴場に近いからだと思うけど、この辺りけっこう柄の悪いのもいるみたいだからさ。さっきもチンピラっぽいのと擦れ違ったんだ」
「は、はあ」
「タトゥー貼ってピアスじゃらじゃら着けて、あからさまなヤツ。ここは人目があるから心配ないだろうけど、一人にならないよう注意しな」
「……あ、ありがとうございます~」
心配して貰えるのは有難いけど、はっきり言ってこんな所にそんな人、いるとしたら一人しかいない。
「ま、桜も武道の心得はあるもんな、自分の身くらい守れるか。それじゃまたね。衛宮によろしく」
「はい。綾子さんも、また」
からりとあの頃と変わらない笑みを浮かべて、美綴先輩は去っていった。
♦♦♦♦♦♦♦♦♦
「桜、何か隠してるな」
桜と別れ、綾子は呟いた。
綾子にとって、桜は今でも後輩というイメージが強い。どことなく世話を焼きたくなってしまうのだ。
定期的に桜と会っている綾子だったが、今年は子育て等で忙しく、年始の挨拶以来会っていない。春の花見にも顔を出せなかった。
だから半年以上振りの思いがけない再会になったのだが、桜の妙な動揺にはすぐに気が付いた。どこかよそよそしいと言うか、明らかに落ち着かない様子だったのだ。
「衛宮と上手くいってない……とは思えないけどな、あの二人に限って。まあ外から分かるコトじゃないけど──」
他人の夫婦生活に口出しなどするものではないが、桜と士郎を他人と放っておくほど綾子は無関心ではいられない。そういう性分だった。
旅行から帰ったら遠坂や藤村先生にそれとなく伝えてみようか、と綾子は思った。とはいえ綾子が気付くような異変だ、あの二人はとっくに分かっているのかも知れないが。
「……心配いらないとは思うけど。しっかし、また更に綺麗になってて驚いたな……」
綾子も自分の容姿には自信があるが、桜と並べば見劣りするのは自覚していた。顔もそうだし、何より学生時代から豊満だった桜のスタイルは今や暴力的といってもいい程だ。先ほど心配をしたのもその為。たとえ結婚指輪をちらつかせていても言い寄られそうな外見なのに、それを身に付けてもいないとなると男なんて誘蛾灯に惹かれる羽虫のように寄ってくるのではなかろうか。
「いや、ぜったいナンパ野郎が寄ってくるよな。しかも女だけの旅行で。いちいち断るの鬱陶しくないのかな────」
当然ながら綾子の思考に『士郎以外の男と来てるんじゃないか』なんて閃きはない。もしあれば桜の不安定な様子と併せてなにか勘づいたかも知れないが、健全で潔癖を地でいく彼女にそんな友人の貞操を疑う思考は存在しなかった。
「ま、今はいいか。細かいコトは帰った後だな」
綾子も綾子で旅行に来ている身だ。いま桜の事を自分がいつまでも考えていたってどうにもならないと切り換える事にした。
桜といたグラウンドを出て校舎の脇を通り、校門へ向かう。校門の外の道に車が見えた。夫が迎えに来てくれたのだろう。
手のひらで庇をつくる。
と────
「……うわ」
来たときも擦れ違った男がいた。駐輪場の屋根の下で煙草を吸っている。
あからさまに身体に視線を這い回されて綾子の背筋に寒気が走った。胸元や尻に視線が刺さるのがはっきりと分かる。
武芸百般の心得がある綾子にとってあんなチンピラにやられるつもりはないが、女性としての嫌悪感はまた別の話だ。
一瞬、桜を置いてきたのはまずかったかと思ったが、そのうち連れが戻ると言っていたし流石に心配し過ぎのきらいがあるかと思い直す。
背中に視線を感じながら、綾子は足早に通り過ぎていった。