「……はい。すいません、せっかく来たのに。はい、少し休みますね」
ぱたん。
と、ドアを閉めた。
ホテルの自室で一人、ベッドに寝転がった。
──昨日、学校で美綴先輩に会ったのが二日目。
三日間の予定の旅行は、今日で最後の日を迎えていた。
今日を過ごして、明日の朝ホテルをチェックアウトしたら終わりだ。他に予定もあるし明日には帰ると先輩に言ってある。だから延長は出来ない。
出来ない、のだけど。昨日から、私は部屋に引き込もっていた。
「ん────」
スマホが鳴った。画面を見てみると美綴先輩からの連絡で、自分たちはもう帰るとのこと。また予定が合ったらお茶しにいこう、とある。
「……美綴先輩、怪しんでたな」
返信しながら一人ごちる。
今まで、もっと近しい人──藤村先生や先輩にだって私と彼の関係を怪しまれた事はなかった。
でも、同じ人妻、それも同性の先輩後輩という事で動揺してしまったのか、昨日の美綴先輩に対しては落ち着いて対応出来なかった。深く悟られはしないだろうけど、何か隠していると思われたのは間違いないと思う。
「…………幸せそうだったなぁ…………」
別に、今さら自分の不貞に怖じ気づいた訳じゃない。
ただ、美綴先輩の姿を見て、自分を省みた。
それもまた、私の見知った人の中で唯一、私と同じ人妻だからなのだろうか。とにかく、かつて同じ高校に通い同じ部活で汗を流した同年代の女性が送る結婚生活を、他人事だとは思えなかった。
だから想像してしまったのだと思う。私のこの先の結婚生活を。
美綴先輩の家族の話を聞いて、家族写真を見て、結婚式で見た美綴先輩夫婦の姿を思い出して。いずれ私も同じ様になると思った。
それは恐らく、思い違いじゃない。私が浮気なんかやめて大人しく先輩との夫婦関係を歩んで行ったら、きっと美綴先輩のような暖かく幸せな家庭を築いていたのだろうな、と思った。きっと先輩が、藤村先生が、色んな人たちがそうしてくれるのだろう、と。
でも──だからといって簡単に彼との関係を放り投げられるかと言ったら、最早それも怪しい。
そして不倫関係を止められるか分からないという事は、つまり止められないという意味に等しい気がする。
それくらい私と彼は深く繋がってしまった。身体だけの関係の頃だったら、どうとでもなっていたのだろう。自分で処理するなり、姉さんやライダーに力を借りるなり。それを私が望み、求めれば。
けれど、もう今は違う。お互い、精神にも踏み込んでしまった。今の私たちを性欲解消するだけの間柄とはとても形容出来ないだろう。
彼に病み付きになっている。
有り体に言えば──
「……す、き……」
とたん、身体がカッと熱くなった。
きゅうっとお腹の底が絞られて、あの人の精を求め始めている。
「っ、ふ……♥️ もう、今はそんな気分じゃないのに……っ」
少し昂っただけですぐこれだ。私の性欲と身体の直結具合といったらない。
……思うに、幼少の頃の経験が影響しているのだろう。心が落ち着く前に、人を好きになる前に性交と快楽だけ教えられてしまった。
だからか、私は身体の言うことに抗えない節がある。もっと言えば、子宮の疼きに、おまんこの求める要求にひたすら従順になってしまう。
それは時に心を通り越すほどに。いや、心を浸潤させて──侵食させて。
これまではどうせ先輩しか見ていなかったから支障なかった。けれど、今はもう違う。
「はあ、もうっ────」
頭をぶんぶんと振って熱を散らした。
自分で不倫旅行に発っていて今さら何を考えているのだろうか。
「彼にも悪いコトしちゃったな……」
昨日気分が乗らないといったら彼はあっさりと受け入れてくれた。曰く、『ヤりたくない時にヤっても疲れるだけ』との事。そしてさっき今日も休みたいとお願いした時も、渋々ながらだけど認めてくれた。
そんな事もまた、私と彼の関係の変化を表しているのだろう。
とはいえ、流石にこのまま今日もぼうっとしたまま過ごして明日になったら帰る、なんて訳にはいかない。
彼には今夜、話をすると伝えてある。
これからどうするのか。深入りし過ぎたこの関係を続ける事を望むのか、私の気持ちを。
熱病に浮かされていたみたいな時間は終わって、現実に引き戻された。
たぶん、決断するべきなのだろう。いきなりに思えるけれど、きっかけがあればいつかは来る事で、それが美綴先輩との再会だった。
清算する時が来たのだ。私と彼の関係を。
「………………」
といっても、急に答えなんて出ない。
今までの私にとって、先輩との関係は何より大切なものだった。
けれども、今や彼との関係も同じくらい、棄て難い。
思い出されるのは、背反する記憶だ。
穏やかで幸せな記憶と本能的な快楽に塗れた記憶。
常識的に考えてどちらを選ぶべきかといえば、それは前者だろうに、私は迷ってしまっていた。
「……つかれた。ちょっと眠ろう」
頭が痛くなりそうだ。悩み過ぎて答えの出ない袋小路に陥っている。
両目をかたく瞑る。
逃避するように眠りに落ちた。
♦♦♦♦♦♦♦♦♦
夢を見た。
先輩と過ごす夢だ。
私は主婦としてお仕事にいく先輩を見送る。毎朝お弁当と水筒を用意して渡して、行ってらっしゃいの挨拶をする。
衛宮邸は広く、一人でお掃除するのはたいへんだ。でも毎日のように藤村先生や姉さんが来て散らかして、でも散らかした以上に片付けていってくれるので、意外とどうにかなっていた。
先輩は必要ないと言ってくれたけれど、私も働いている。以前は週に数回はパートに行って家計の足しにしていた。でも、訳あってここしばらく行くことが出来ていない。
私のお腹には赤ちゃんがいた。
元気な男の子だ。時折、訴えるように私のお腹を蹴る。それを周りの人は、特に藤村先生はたいそう喜んでお腹に頬擦りなんかしたりしていた。
こんなお腹で外で働けるわけがないので、今は内職をしている。パートと比べれば収入は減るけれど、何もしないよりはマシだろう。
子育てについては美綴先輩がたくさんの事を教えてくれた。相談にも乗ってくれて、本当に頭が上がらない。今でも数ヵ月に一度の付き合いは途切れていなくて、最近は大きくなった美綴先輩のお子さんも一緒にいたりなんかする。
家事はライダーが手伝ってくれて、相変わらず無口だけど優しく、私の身を慮ってくれている。ちょっと、先輩にちょっかいを掛けるのは見過ごせないけれど。
最近は姉さんも一緒になって家事に顔を出す事がある。でも意外と不器用というか機械に弱い所があって、思わぬ失敗をしたりする。それをからかうと肩をいからせて怒ってそっぽを向かれてしまう。でもやっぱりライダーや藤村先生と同じように、いやそれ以上に、姉妹として私に親身になってくれる。
そして先輩は──私の愛する旦那さまだ。
私に笑い掛けてくれる。
私を心配してくれる。
私を愛してくれる。
私の、私だけの正義の味方でいてくれる。
もうあの戦いは終わって、後始末も済んで、劇的な事なんて何も起こらない。
特別な出来事はなく、代わりに惨い不幸もない。
ただ静かで穏やかなばかりの幸せな未来。
そんな、優しい夢を見た。
♦♦♦♦♦♦♦♦♦
ヴーッ、ヴーッ。
「────、ぅ…………」
短い眠りから覚めた。
寝覚めは晴れやかだ。たっぷり深く眠ったあとの覚醒のように、身も心も清々しい。
「……今の、夢」
ポツリと呟く。
珍しく夢の内容をはっきり覚えている。これも美綴先輩と語り合ったからこそ見たのだろうか、何にも代え難い将来の夢。
かつて、まだ間桐家に囚われていたころ夢見たような、しがらみから解放された日々の光景。
そして今、私が倫理に外れた事さえしなければ、それに手が届く所まで来たのだと自覚した。
そして心のどこかで、自分が何を選ぶべきなのかも、また。
「先輩────」
あの日の光景を思い浮かべる。
雨の中、抱き締めてくれた、あの──
ヴ────ッ。
「あ、電話……」
そうか。寝起きで気付かなかったけど、私は携帯に着信があって目が覚めたらしい。
今掛けてくるという事は彼だろう。今日これからの予定についてか。それともやっぱりエッチしたいとかだろうか。
「はい、もしもし」
『あ、桜。突然わるいな』
瞬間、息が詰まった。
「…………先、輩?」
『ああ、俺。旅行中すまない。いま大丈夫か?』
「は……い、はい。だいじょうぶ、です」
『そっか。いや、別に大したコトじゃないんだけどさ、このまえ替えの電球、買ったよな? トイレ用のヤツ。あれ、どこにしまったか覚えてないか? さっき切れちゃってさ、夜トイレが真っ暗なのはイヤだーって藤ねえがうるさいんだ』
先輩は、
私の夫は、いつもと変わらない様子で話し掛けてくる。
出会った頃と同じ、一本まっすぐ芯の通った、私の好きな声。
「そう……ですね。たしか、廊下の途中にある納戸の籠のなかに入れたかなって」
『あれ? おかしいな、そこはさっき見たんだけど』
がらりと戸を開けて、廊下を歩いていく音。映像を見なくても、先輩があの家のどこをどのように動いているのか、手に取るように分かる。
『えっと……うわ、あったあった。他の物の下敷きになってた。後でここも整理しておくか』
『士郎ー? 桜ちゃん知ってたー?』
『あー、あったよ藤ねえ! ……ん、ごめんな桜。楽しいとこ邪魔しちゃって』
「いえ、そんな。邪魔だなんて」
『あ、そうだ。いま暇なのか? 一人?』
「はい。今はちょっと、個別に休憩というコトで。部屋にいるんですけど」
『そっか。じゃあ聞いていいかな、旅行どんな感じだ? 危ないコトとかなかったか?』
「──────」
…………ああ、きっとこちらが本題なのだろう。
いくらグループでの旅行といっても、わたしが魔術に通じているといっても、数日家から離れさせるなんて先輩からしたら心配なはず。
だけど先輩は恥ずかしがり屋な所があるから、理由をくっつけて連絡してきてくれたんだ。不器用で、ばればれだけど。私の事を思って。
「……はい、かまいません。今は海岸近くのホテルにいるんですけど、すごくいい眺めなんです。あ、そうだ。大ニュースがあるんですっ。私と先輩のお知り合いにばったりでくわしたんですけど、誰だと思います?」
『え……俺と桜の? ……誰だろう、高校の時の先生とか?』
「当たらずとも遠からずですね。実は昨日、美綴先輩と……」
それから、私たちの会話は思いがけず弾んだ。
旅行の話から美綴先輩の話になって、高校の思い出話になって。それから屋敷の外壁の塗り直しだとか、そろそろ車を買おうかとか、夫婦の将来の話まで。
夢で見たビジョンはより鮮明になっていく。
この人といればあの夢の通りの未来が来ると確信する。
先輩とそんな話をしているうちに──いやそのずっと前から。
とっくに、私の心は決まっていた。
♦♦♦♦♦♦♦♦♦
準備はできた。
もう迷う事はない。
ずっと外していた指輪を嵌めて、彼の部屋へと向かった。