土曜日。今日は学校が休みだ。イリヤ達はベランダで洗濯物を干していた。昨日、ヴェルデでセイバーに新しい水着の代金を立て替えてもらった。それも良くないのだが、その時に二人だけで新都に出た事をセラから思いっきり叱られた。それで罰として朝からお手伝いをしていたのだ。
朝食後の皿洗いから、窓の拭き掃除を済ませ、ベランダの物干しに洗濯物を掛けていたのだ。プール授業で使った水着と新しい水着を干した。買ってすぐに下ろさず、一度水洗いするのがマメなセラらしい。
「これ、やっぱり正解よ」
「うん、可愛いよね。でも二人だけで新都はマズかったね?」
「だね。悪かったわね、イリヤ。私が引っ張って行っちゃったから」
「ううん。お姉ちゃんに可愛く思って欲しいって気持ちはわかるから。けど、クロお姉ちゃんが、学校の水着以外持っていないなんて今まで気付かなかったよ」
「いやぁ~、この夏どうするって誰かが話していたでしょう? あれを聞いてさ。短縮授業になってお姉ちゃんのところに行っても、ダサいスクール水着じゃね? 気付けて良かったわ」
「お姉ちゃんは可愛いって言ってるよ?」
「そりゃ、お姉ちゃんの目から見ればね。私達が何を着ていても可愛いとしか言わないわよ。それにお姉ちゃん自身の思い出もあるだろうし。けどね、薄紫に白いパイピングって派手に思わない? 体操服と合わせてるんだろうけど。高等部のは紺色でパイピングが学年の色だっけ? お姉ちゃんが青なんだよね」
「らしいね。イマイチだって言ってたよ。でもさ、7月の間に2回着て、それでプールが終わりなんだって。1年生や2年生だともっとプールの授業があるらしいけれど」
「3年生になるとそんなに少ないんだ?」
「だそうだよ。9月にはもうプールに入らないらしいから、もったいないって話してた」
「そうだよね。パイピングの色が違うから凛やルヴィアに譲れないものね」
「うん。でもさ、クロお姉ちゃん?」
「何?」
「水着はこれだけ? もっと安いので2~3着買っても良かったんじゃ?」
1万5千円の内訳は、イリヤがグレーとピンクの横縞が特徴のセパレートの水着で、上はブラでなくショートキャミのようなデザインにショーツだった。その上から着るタンクトップやスカートがセットになったジュニアタイプで、四点セットと思えば5千円は意外と安い。
一方、クロエのはハイビスカス柄の中央が縛ったようなブラに、これまたサイドが縛ったようなデザインのショーツを合わせたビキニだ。こちらはパレオ付きのインポートだった。なので三点セットで1万円もした。
「そうよねぇ。あなたは何着くらい持ってるの?」
「5~6着かなぁ」
「やっぱりね。それくらい要るよね。まぁ、少しずつ増やそう」
「私のじゃ、好みに合わないだろうしなぁ」
「そこまでは言わないよ。貸してくれるなら、こういうのも良いなって思うから」
「じゃあさ。使わない日で良いから、これを借りても良い?」
「良いわよ。洋服もそうだけど、たまに私がガーリーで、イリヤがボーイッシュにキメるのも良いと思うよ」
「お姉ちゃんが両方似合うからね。色々試したいよね?」
「そうそう。けどさ、クロがそういうガーリーなのが苦手だったのは驚いたなぁ」
「けれど、スカートは穿くでしょう? 制服はスカートなんだし」
制服のスカートを洗濯バサミで挟みながらイリヤが聞いた。中等部や高等部ともなると夏用の混紡でもクリーニングに出す場合が多いが、小学部のスカートは冬も夏も家で洗濯できる混紡だ。さすがにアイロンがけはセラだ。
そしてその質問に、私服のスカートを同じように挟んでいるクロエが答えた。
「なんだけど、私服のスカートは少ないらしいよ。それであっちのエルお姉ちゃんが色々用意して。自分で選んで買ったスカートなんて無いってさ」
「へぇ~。同じようでもやっぱり違うね?」
「違うね。私はママが買って来てくれるのもあるけれど、自分で選ぶ事が多いでしょう。イリヤもそうだし。でもその好みが、私の場合はブラウスやスカートが多いけれど、クロはホットパンツやオーバーオールが多いんだって」
そういうだけあって、本日のクロエは水色の半袖ブラウス姿だった。袖がパフスリーブで襟は小さな角襟。裾は白いデニム地のスカートの上に出している。髪はサイドで縛ったツインテールだ。
イリヤは黄色いキャップスリーブのTシャツにロゴ入りの白いタンクトップをレイヤーにして、下は青いデニムのホットパンツだった。髪はポニーテールだが、ゴムの部分をバンダナで縛って蝶結びにしている。
エルヴァの影響でめっきりオシャレになった小学生組だった。
「あなた達もそうじゃないの? ここに来てた頃、随分違うなぁって思ってたよ」
「そうだね。細かい部分が違ってたなぁ。元気にしてるかな?」
下着代わりのTシャツを広げながら尋ねる。
姉はハンガーに手渡されたそれを掛けていく。
「してるでしょう。あっちのイリヤは真っ黒じゃないの?」
「いやぁ、それはないよ。私と一緒で赤くなってヒリヒリしてるんじゃ?」
「二人とも肌が白いもんねぇ。やっぱり痛い?」
「うん。お風呂で見た通り。毎年の事だけどね。クロお姉ちゃんは?」
「イリヤほど日焼けは目立たないけど、お風呂でほんの少し沁みるなぁ。さぁ、干し終わった」
「じゃ、次は床掃除?」
「家の中はセラがやるから、リズと一緒に庭の掃除と草むしりよ。終わったらジュースとおやつを出してくれるって」
そんな姉妹の会話がベランダから聞こえる。
「良い事なのか悪い事なのか。罰を与えてもラクラクこなすように」
「それは喜ぶべきことだよ、セラ。成長、成長」
「そうですね。エルヴァさんのお蔭で、二人とも成長しました」
「うん。お姉さんになって来てるね。早起きになったし、良く眠るし。運動もして、ご飯もしっかり」
「そう、イリヤさんの嫌いなものが失くなっちゃって。元々好き嫌いは少なかったですけれど」
「うん。昨日の事はエルヴァに話したんでしょう? あの子が叱らなければ範囲内なんだよ」
「範囲内ですか」
「けれど、セラが叱るのは正解。これもバランスだよ。さぁ~、草むしり草むしり」
「ええ、お願いします。終わったらスイカとジュースを出しますから」
「りょ~かい」
庭の家の影にベンチを出して四人でスイカを食べた。もうすぐ夏休みだ。エルヴァが来てくれる。色んなところに連れて行ってあげたい。そしてこんな風に一緒にスイカやかき氷を食べたい。
「ママは明日のいつ帰るの?」
「朝一番と伺っていますよ」
「またどうして、朝一番?」
「お楽しみ、お楽しみ」
「ええ、お楽しみですね」
嵐のような金曜日が過ぎ、ワインを飲み干した翌朝は日曜だった。恒例のジョギングを終えたお姉様は、朝食を終えるとイリヤさんとアルバイトに向かった。セイバーさんも出て行った。
出掛ける用事もない私は、庭の草花に水をやっていた。一通り終え、蛇口の栓を止めホースを片付けていると、向かいの家の前にキャリアカーが停まった。
アイリスフィールさんや子供達が玄関から出て来る。もう、帰られていたのか。なるほど納車だったんだ。けれど普通は担当セールスが自宅まで届けてくれるか、ディーラーまで引き取りに行くだろう。キャリアカーは珍しい。よく見れば2台積みだ。これはもしかして?
門の傍まで出てみると、いつもの300SLが無かった。降ろされるクルマはS2000と、ロードスターだった。メーカーが異なるので、きっとこの日に合わせて、搬送業者に前々から依頼してあったのだろう。
S2000の色はNSXにもあるモンツァレッド・パールだろう。2004年現在の新車だから、形式はABA-AP1で栃木製作所・高根沢工場から移管された鈴鹿製作所製の200系だ。
小母様が選ぶならベース・グレードって事は無いだろうから、可変ギアレシオステアリング(VGS)が搭載されたタイプVだと思う。
カウンターを当てた時の感触や、もうひと押し切りたい時のステアリング・インフォメーションが悪化すると思うので、お姉様は嫌がりそうだけど。
ロードスターの方は16インチ・ホイールなのでRS-Ⅱだろう。だけど色がVSコンビネーションのストラトブルーマイカだ。ディーラーに前々から頼んであったのかな?
あれってどちらがどちらのものでなく、小母様とお姉様の共用なのかも。ご挨拶して尋ねてみれば、やはりそうだった。
おまけに2年後は私にも乗って欲しいと言われた。つまりはイリヤさんの事も考えての2台購入なのだろう。2台ともオープン・2シーターなんて、普通はあり得ないからね。
小母様がキチンとバックで2台のクルマを縦に並べた。この家のカーポートは縦だと綺麗に2台入るんだ? あのS2000は、何かオーラがあるなぁ。GTウィングがそのうち付きそうだ。
「エルマお姉ちゃん、どう?」
クロエちゃんとイリヤちゃんがエーデルフェルトまで着いて来た。
「お誕生日プレゼントかな? 小父様も小母様も大胆ね?」
「うん、私達もびっくりしちゃったよ」
「お姉ちゃん、喜ぶかな?」
「喜ぶだろうね。それで悩むと思うよ」
「悩むって、どういう事?」
「ご両親にさ、何かを返すなんて今更でしょう? なら、あなた達に何かをしてあげたいと考えるのがお姉様だから」
「普通でいいよ、普通で」
「水着を買ってもらえば?」
「そういうのをホンマツテントウって言わない?」
「あ、そっか」
「まぁ、黙って待ってあげて。きっと何か素敵なプレゼントがあるから」
「うん、待ってる」
「だね。エルマお姉ちゃんは?」
「考えてあったし、もう用意も済んだよ。パーティは一緒でしょう? 美遊ちゃんの分もあるからね」
「さっすが」
「ありがとう。お姉ちゃんの誕生日っていつなの?」
「お姉様は7月の21日だよ」
「じゃなくて、エルマお姉ちゃんの」
「私?」
製造年月日と賞味期限や消費期限に有効期限はエルお姉様に聞けばわかるだろうが、誕生日って? 目覚めて意識を持てたのは、実はホンの数ヶ月前なのだ。私の本当の意味での姉妹である102番と103番は、リセットされて素体に戻されたのかな? それは知らないけれど、ともかく私はそういうモノだ。
「いつだと思う?」
「7月か8月?」
「どうしてそう思うの?」
「何となく。皆んな暑い頃かなって」
「正解。7月21日だよ」
「エルヴァお姉ちゃんと同じだったの?」
そう。戸籍を作る際にこの方が都合がいいからと、そうしたのだ。
「うん。2月29日とか4月1日だったら面白かったのにね?」
「ああ、うるう年だったら4年に1回しか年を取らないからって?」
「フフ、日本の法律だと平年は2月28日が誕生日に振替だよ。4月1日は前の学年に入る最後の誕生日ね」
「3月31日じゃなくて?」
「そう」
出してあげたアスティーを飲みながらペチャクチャ話す妹達。私の事も姉だと思ってくれている。だからエルヴァお姉様がお忙しい時は、こうして私が面倒をみてあげている。今は午前中で、たまたま納車の件で出会っただけだけど、お昼からは宿題をみてあげる約束なのだ。
「今日はお手伝いないの?」
「今日はないよ。窓拭きは終わったし」
「部屋の掃除も起きてすぐにやったから」
「二人だと早いだろうね?」
「そうだね」
「宿題、持っておいで。今から頑張ればお昼前に終わるよ。そうしたら、午後から遊びに行けるよ」
「やった!」
「海の家!」
「え~。お家の人が良いよって言うなら連れて行ってあげるけど、今日は日曜日で人が多いし、暑いよ~。会うのは次のお楽しみにして、遠見の魔術を使おうよ。それを見ながら魔術を教えてあげるから」
「あ~、そっか。お兄ちゃんが居ないしね」
「その方がお姉ちゃんも喜ぶよね?」
「そうそう」
そうして二人は宿題を取りに戻った。夏休みにドカッと出す予定なのか宿題は少なかった。ほとんど聞かれる事もなく小一時間で終わった。チェックしてあげれば、間違いも一箇所あるかないかだ。
二箇所あったイリヤちゃんにしても、解釈次第で正解とも言える内容だった。だから、この場合はどうするのかをわかりやすく説明してあげて、似たような問題を即興で作って解かせてみせた。
それを終えると、勉強道具を片付けさせて裏庭の木陰に出た。ここなら涼しいし、昼間から魔術を使っても誰にも気付かれない。敷地内は結界があるし建物の中なら大丈夫なのだけど、子供はできる限り外の温度に慣らしてあげるべきだ。
「お姉ちゃん、こんなので良いの?」
「うん、これで良いよ」
バケツに水を張って行う水盆の魔術だ。流体が苦手な私でもこのくらいはできる。反射していた陽光が白くなり、ふわ~と映像が映った。二人は働く兄や姉の姿を見て大喜びだ。
「お姉ちゃんの水着、凄い」
隠すべきところは隠れているのだが、ブラもショーツも紐部分がやたら何本もあって拘束されているみたいだ。
おまけに色は黒で、お尻が布からはみ出ている。日本の常識では高校生が着て良いものでは無い。だけど海外のビーチに行けばこういうハイティーンは結構いる。
「大人だねぇ。イリヤ、お兄ちゃんは?」
「その後ろ。焼きそばかな? 何か焼いてるよ」
「あ、本当だ」
イリヤちゃんの髪の後ろからルビーが出て来た。
『エルマさ~ん』
「何?」
『もう一人のルビーちゃんは?』
「凛さん達は工房だよ。明日からロシアだから、午後からは荷物の用意だね」
『ああ、もうそんなに日が経っちゃったんですねぇ~』
「戻るのもすぐだよ。寂しいの?」
「ルビーって意外に仲間意識が強んだよね」
「エルお姉ちゃんの方のイリヤが持っているルビーと別れた時も寂しがっていたもんね?」
「そっか」
ルビーにはサファイアという妹が居るが、マスターの美遊ちゃんは武家屋敷に引っ越したので以前ほど頻繁に会えない。
また私のアサシンが増えたので、学校にルビーが行く必要もない。万一の時はクロエちゃんも居るし、イリヤちゃんが願えばルビーを転移させられるくらいに二人のリンクも強くなった。
なので普段はベランダの窓から飛んで来て、ここで凛さんのルビーや、ルヴィアさんのサファイアと遊んでいるのだ。
ところで、凛さんのルビーは第五次の世界で手に入れたもので、ルヴィアさんのサファイアは前回の第四次で手に入れたものだ。
私はこっそりルビーに言った。
「もう少しで調整が終わるから。来週か再来週まで待って」
私の部屋にその第四次の遠坂から手に入れたルビーがある。今はバラバラだけど。
実は保管器タイプの人形に移し替えたゾウケン君と一緒に、新しいゾウケン君の身体を開発中なのだ。そこにルビーが持つ様々な機能を盛り込もうという訳だ。
宝石剣はゾウケン君には扱えない。なら魔杖の人工精霊代りにしてしまえというアイデアだ。これだと一生懸けて自らの罪を償いたいという彼の希望と、永遠に生きたという最初の願いとも合致する。
何より魔術師として、お互いにとても興味深い研究内容だった。保管器の機能をルビーの複製にミックスするだけなので、材料さえ揃えば2週間もあれば作れる。
イリヤちゃんのルビーには調整中と話しているが、今夜中に図面を完成させて、組み立てよう。そして来週には再起動してあげよう。
ゾウケン君ことマキリ・ゾォルケンは鎧人形の目で窓の外を眺めていた。
部屋の主の勉強机には、クッキーの空き缶にバラバラの魔杖が置かれている。その横の空き缶には、製作途中のその複製がある。八割方は完成しているが、あと2~3の呪体が必要だ。
『はぁ~。理想を思い出し正気に戻れば、その理想でなく長年の妄執の方が叶うとはのぅ。人生とはわからんものじゃ』
窓の外では部屋の主から魔術を学ぶ少女達が見えた。
『無邪気で良いのぅ。ユスティーツァ、儂はお前さんに救われたようなものじゃな』
騎士の目がチカチカ光る。
『永人の末とエーデルフェルトは明日からロシアか。儂の故郷じゃ。旅の安全を祈ろうかい』
そして騎士の人形は、再び魔杖の解析に取り掛かった。自分のためでもあるが、新しい分野なので興味深い。何より刻印蟲でない、もっと矮小な蟲で魔術回路を並べ替えて属性を変化させる孫が居る世界があったと聞いては負けていられない。
男の子を女の子にするという残虐性には辟易するが、慎二には意外な才能があったのだと驚かされたものだ。今はマコトという名の女の子らしいが、元気だと聞いて嬉しかった。そんな資格は無いと思いつつも、幸せを願ってしまう己に自嘲する。
しかしその矮小な羽虫の話はゾウケンには天啓だった。宝石の理論はわからないが、蟲の理論ならわかる。何より同じユスティーツァの末でも、褐色の姉はゾウケン以上の蟲使いだ。しかもそのマコトと技術提携の契約を交わしている。
そこで三人で議論を交わし閃いたのが、魔杖の回路の蟲化だった。養分は魔力で補う事が可能だし、蟲を化石化する事で回路の劣化や死滅を防げる。
『三人寄れば文殊の知恵と言っとったのは永人だったかの? いや、あいつが話しとったのは毛利の矢じゃったか』
解析に没頭しながら呟く人形だった。
洗濯物を干し終わり、布団も干し終え、開け放った縁側から居間に戻った美遊は冷蔵庫から麦茶を取り出した。
ルヴィアの家でメイドとして働いていた美遊にとって、兄が居ない間の家事はそう苦痛ではない。ただ、役割分担がないのは少々キツいかなと思う。
とは言え、高いところのホコリ落としや拭き掃除は脚立があるし、重いものもサファイアで転身すれば運べてしまう。そうやって工夫すれば何とかなるし、何とかできるのが美遊だった。
だけれど大勢の人達に囲まれた暮らしから、兄と二人だけの生活に戻ったとき、少し寂しく感じてしまった。そしてその兄が今はアルバイトでフィンランドだ。
「お兄ちゃん、ちゃんと頑張っているかな」
そんなに無理をしないでくれと思うが、兄の金銭感覚はエルさんに鍛えられてしっかりしたものになった。その兄が請け負うといういう事は、必要な仕事なのだ。
ルヴィアの専属メイドだった頃は、毎月70万円以上貰っていた。時給千円で24時間30日の計算だとエルヴァさんに指摘され驚いたものだ。おまけにカード回収の際の臨時手当や、美遊の世界に渡った時の出張手当まであった。
今、美遊の口座には4百万円以上ある。万一の時のために残しておきなさいとエルヴァさんに言われたので、その4百万を定期にして、端数を普通口座に置いてあった。
そして兄がルヴィアさんのところで稼いでくる金額が月平均15~16万だ。二人で生活する分には困らないような気がしたが、税金に保険料、そして家の補修のためなどに積み立てないと駄目なお金がある。そして自分の学校の授業料や給食費も。
兄がアルバイトを幾つも兼ねて働く意味と理由が段々とわかってきた。家計簿を見て、学校を辞めて働こうかなと一瞬考えてしまう。
「あ~。ルヴィアさんのところのお仕事、続けてれば良かった」
『ですが美遊様。お兄様もルヴィア様も、美遊様には元気に学校へ通って欲しいのだと』
「うん、わかってる。小学生は小学生らしく。以前、ルヴィアさんが雇ってくれたのも、私の尊厳と等価交換の原則を守るためだった。それも今は理解している。でも、今月と来月がピンチ」
『お兄様、道具をかなり揃えられましたからね』
「そう……」
座卓の上に、兄の求人情報誌がある。パラパラ見ても高校生以上でなければ求人は無い。そもそも義務教育期間中のアルバイトは法律で禁止されている。
例外が学校や役所に保護者の許可などを得た場合の新聞配達だけれど、これも中学生以上だ。ルヴィアさんのあれは超法規的な措置で、エーデルフェルトの名を使う必要があったのは、家族のお手伝いという名目もあったのだ。
遠慮しないで相談して欲しいとルヴィアさんなら言うだろう。休日のお茶汲みや掃除のお手伝いだけでも給金は頂けるだろう。だけどそれは兄のプライドを傷付ける。どうしたものかと悩む美遊だった。
『美遊様。この子役モデルは小学生ですよね?』
「そう。けれどそういうのはもっと子供の頃からやっていないと。それにイリヤみたいに可愛い子がするものだと思う」
『美遊様も美少女ですよ?』
「……私みたいな愛想なしには無理」
そんな事は無いと思うが、マスターは頑固だ。
『美遊様。夕方にはエルヴァ様が戻られるのですよね? ご相談されてはいかがです?』
「……うん」
乗り気ではないようだが、夕方に電話を掛けると約束してくれた事にホッとするサファイアだった。
夕方、アルバイトから帰ったエルヴァは美遊からの電話を受け取った。6時過ぎだが外は明るい。
「もしもし、どうしました? はい……はい……。そう、貯金は? ええ、こういう時のための普通口座の端数でしょう? それを下ろして回せば良いですよ。それでお兄さんから返して貰ったら、もう一度口座に戻せば良いだけです。はい、そうしましょう。ええ、悩まないで良いですよ。そういう事はありますから」
受話器を下ろすとエルマが尋ねた。
「美遊ちゃんですか。どうされました?」
「生活費が足りなくなったので困っていたようです。士郎クンがあれこれ揃えたからですね。支度準備金をルヴィアに出させるべきでした」
「士郎さんは、まだ口座を分けていないのですね?」
「ええ、士郎クンの口座イコール生活費ですよ。それがすっからかんで、今月と来月が危ないと。光熱費は大丈夫なのか心配ですね。まぁ、それは立て替えても良いですが、エルがどこまで話していたのか。ハンターはお宝相手であろうと魔物相手であろうと、すべからく個人事業主であり自由業です。銀行によっては住宅ローンもクルマのローンも厳しいものです。それに毎回請負仕事で支払いは成功報酬ですからね。浮き沈みが激しい上に、日銭が入らないので事業資金の遣り繰りには工夫が絶対に必要です。ましてや、事業の開始はこれからで、採用されても最初は予備人員です。名を売って軌道に乗せるまでは、まだまだ時間が必要でしょう」
「道具を揃えればお金が入ると勘違いした?」
「いくら何でもそこまでは無いと思いますが、今回の仕事でお金が入るからと先行投資した積りなのでしょう。アルバイト代が振り込まれるのは来月15日辺りでしょう? そういうのを知らなかったみたいですね」
「まぁ、仕方無い面はありますが、小学生の妹を不安にさせてはいけませんね」
「まったくです。ですがこれも勉強でしょう。彼に念を押すべきは、自分の妹がそこらの5年生では無い点です。そこをもっと自覚させませんとね。賢い子は抱える悩みも普通の子とは異なるのですから」
「ですね。ルヴィアさんには?」
「彼女達は明日出発です。オーギュストさんも居ませんから、黙っていましょう。時にエルマ。あなたのアルバイトはいつからですか?」
「今月の27日からです。まさか美遊ちゃんを手伝わさせろと?」
「これこれ。請け負ったのはあなたであり桜ちゃんでしょう? そこに美遊ちゃんを捩じ込むのは契約違反ですよ。そうではなく、老人のお話相手とか、犬の散歩とか。あなたの情報網で」
「ああ! マッケンジーさんみたいな?」
「そう。そういう伝手があって信用できる家のお手伝をアサシンとさせれば良いと思いますよ。ですから、間を見てそういう人達をリストアップしてくれると助かります。実際にするかどうかは別ですし、するとしても冬休みや来年の夏休みでも良い訳です。要は何かをさせてあげれば不安も解消されるだろうと私は思います」
「ルヴィアさんならここに来いと言いそうですね?」
「言うでしょう。ですが、それを言わせないだけの地域との交流を促しませんとね。大丈夫だからと士郎クンの居ない今も一人にさせていますが、普通はあり得ませんよ。そのあり得ない環境に慣れ切っていますから、そこを徐々に直してあげませんと。あの子はおチビちゃん達と遊ばない休日は何をしているのか。もう少しこういう部分にも目を光らせるべきですね」
「アルバイトならサファイアの転身で一時的に大人には……ああ、精神面や情緒面が未発達ですとホルモンバランスが崩れますか」
「崩れるかどうかは個人差もあって一概には言えませんが、確実に精神的な悪影響があるでしょう。凛のように体験した過去であるなら、肉体に引き摺られるほどの長時間でない限り安全ですが。ですからこの方法を凛にしか明かしていないのですよ」
確かに。5年生の女の子にとって見た目の年齢を変えられる能力は誘惑が多過ぎる。それにこの他にもルビーには隠された機能がたくさんあった。本人が言う24の秘密機能(シークレットデバイス)どころではない。
そのどれもこれもが、少女の夢を叶えるものばかりなのだ。そしてそれは悪用しようと思えば、どこまでも凶悪な道具となる。完全犯罪を遂行できる道具であり兵器なのだった。
エルお姉様の知識を、ある程度引き継いでいる私は魔杖の機能を知っている。なのでエルお姉様でもあるエルヴァお姉様は、私にも一緒に子供達を導いて欲しいと期待されているのだ。
だから先程の大人になってアルバイト先を探すという案は失言だった。それをやんわりと諭して下さったのだ。
何より地域との交流不足や小学生の長期に渡る一人暮らしをかなり危惧されている。こういう部分は私やアサシンも鈍いので、聞けば驚いてしまう。
あ!
「お姉様、それよりも!」
「どうしました?」
「あの子達、26日の月曜日から1週間、8月の1日まで自然学校では?」
「ああ、そうでしたね。士郎クンが戻っても美遊ちゃんが居ないのか」
「ええ。準備などの様子見は私が行いますが」
「気持ちの問題ですね? ここは素直にクロエちゃん達に話しましょう。一生に一回の行事ですから、心置きなく楽しんで欲しいです」
「ですね」
この冬木市を擁する県は5年生になると自然学校という長丁場の林間学校がある。他府県では夏休み中が多いのだが、通常は春か秋に行われるのだ。
しかし穂群原学園は私学だ。なので県からの予算で各市町村が行うこの行事に、参画はしていても日程は大幅に異なっていたのだった。
「よく思い付きました。そうですよね。それがあるから、エルヴァちゃんの来日が8月2日からに決まったのでした」
何とも盛りだくさんだけれど、夏休みの宿題はどうするのだろう? 気付けばお盆が過ぎちゃうぞ?
晩御飯はお姉様と一緒に作った。豚ヒレの生姜焼きに、庭に植えたプチトマトと枝豆の豆腐サラダ、納豆汁に梅干しという献立だ。
どれもこれも夏バテ防止のメニューだった。生姜焼きにバラ肉でなくヒレを使うのは、タンパク質と疲労回復に有効なビタミンB1が豊富だからだ。
豆腐サラダもタンパク質とミネラルを摂るため。梅干しも疲労回復を促進するクエン酸が多く含まれ、塩分不足を補える。納豆汁はムチンで胃壁を護り、食欲を増進させる効果がある。
明日からロシアに行く凛さんやルヴィアさんを思っての料理でもある。高温多湿な日本での体調を引き摺ると、乾燥していて涼しいロシアでは体調を崩しやすい。しっかり何でも貪欲に食べて元気に帰って来て欲しい。
「夏場のロシアは何が美味しいの?」
「ピロシキとピクルスです。年柄年中ありますが、あの惣菜パンと漬物があれば取り敢えず生きていけます」
「惣菜パンって」
「日本のカレーパンはピロシキから着想を得たという説もありますよ? とにかく多種多様なのでパン屋さんで驚くと思います。それとチョールヌイ・フレーブという黒パンがロシアの主流です。街角ではブリヌイという惣菜クレープ屋さんがあると思いますので、それを買食いしても楽しいですね。ボルシチは現地でボルシィと言います。チは発音しませんので注意して下さい。ピロシキもピラシキです。ビーフストロガノフにキエフ風カツレツはカロリーの塊です。避けた方が無難ですよ。ペリメニという水餃子は、凛もルヴィアも気にいると思います。ガルブツィというお米の入ったロールキャベツは、似た料理がフィンランドにもありますね。グレーチニバヤ・カーシャという蕎麦の実のリゾットも試してみて下さい」
凛さんとルヴィアさんが何度も聞き直しメモに録っていた。
「ちょっとした大きさの街になると、今のシーズンですと二百メートルおきくらいにアイスを売っています。それとベリー類の露店。ベリーをヤーガダと言いますが、モルスというヤーガダ・ジュースも夏の定番です。『ヤーガダは自然がくれる最高の薬』とまで、あちらでは言われていますよ。この辺の感覚はルヴィアならわかるでしょう」
「ええ」
フィンランドはドイツと同じくジャガイモがお米代わりだ。そしてロシアと同じくベリー類が豊富で、日本人の思うそれとは違うが、お米も料理に使われている。黒パンが多いのも同じだ。これは気候の関係でそうならざるを得ないのだった。
「口に合うかどうかはわかりませんが、飲料水を買うよりクワスというビールもどきの方が安いです。これも水分補給の手として覚えておいて下さい」
さすが、お姉様は良くご存知だ。
食後、お風呂に入ろうかというタイミングで桜から電話があった。明日の部活に付いてだった。何だろうと思ったが、早めに行って道場を清掃しようとのお誘いだった。途中入部の私が少しでも早く溶け込めるようにとの配慮だろう。勿論、快く承諾した。
翌朝の7月12日。荷物を纏め制服に着替え食堂に降りると、エルヴァお姉様がいらした。凛さんとルヴィアさんを見送るためだった。お二人を見送った後、朝食を済ませ細々した朝の用事を終えて出ようとすれば、お姉様も出て行こうとする。
「もう出られるのですか?」
「はい。久々の道場ですから、掃除をしたくて」
ダメじゃん。1年生が3年生の先輩にそれをさせちゃ。けれどこの人はこれがマイペースなのだ。
私はバス通学だが、お姉様は自転車だ。この時間差がどう出るか? 私は慌ててバス停に向かった。荷物はどうとでもできるが、バス停までの徒歩時間に待ち時間の合計12~13分が痛い。到着したバスに乗り込めば、予定通り桜が乗っていた。
「おはよう」
「おはよう。不味いよ。ウチのお姉様、もう自転車で出ちゃった」
「え~」
学園前で止まったバスから校門まで私達は走った。守衛さんに挨拶し、道場まで行けばもう鍵が開いている。煮沸室に美綴部長がいらした。
「おはよう。間桐にアインツベルン」
「お、おはようございます。美綴部長」
「おはようございます。本日からお世話になります」
「お、決めてくれたか。間桐から聞いていたが、弓具もある程度揃えたらしいな?」
「はい」
何を揃えたのかを美綴部長が検分して下さった。
「良いものを揃えたな。ヤル気を感じるよ。けど、道衣まで?」
私はチラリと桜を見た。これの意味するところには、たぶんに乙女心が働いている。
どこの弓道部の方に聞いて頂いても、弓道着を新1年生が揃えるのは、弓道を続ける決心を着けた秋以降だ。まずはユガケ(カケ)であり矢であり、衣類なら足袋だ。学校によっては冬になって予選のシーズンが来る前に購入許可がやっと降りる場合もある。
だけど穂群原には中等部にも弓道部があり、桜は最初から弓道着で練習に参加していた。他の1年生は体操服なのに。これが随分と気恥ずかしかったらしく、私に弓道着を買え買えと煩かったのだ。
「ヤル気の現れだと好意的に受け止める者がほとんどだろう。皆んなアインツベルン先輩の妹と知っているから、影で文句を言う奴も出ないだろうし。着付けはわかるか?」
「はい。そのアインツベルン先輩にレクチャーして頂きました」
「そうか。じゃ、二人とも着替えてこい」
「はい」
「はい」
そうして更衣室で着替えていると、お姉様が現れた。
「おはようございます、アインツベルン先輩」
「おはようございます……先輩」
「おはようございます。何だか変な気分ですね。エルマとは家でも挨拶しただけに」
お姉様が笑うので、私も釣られて笑ってしまった。いかん、いかん。
そしてお姉様が私の弓道着を少しだけ手直しして下さった。
「偉そうにしていますけれど、弓道の袴は私も数ヶ月前に初めて着けましてね。その時は間桐さんの予備を借りて、遠峰さんに教えて頂きながら着たものです。剣道や合気道で袴は慣れていた積もりでしたが、行灯袴である事と、それまで帯を結ぶ事が無かったので、結構戸惑いしました」
合気道の袴は足さばきを隠す目的があり、道衣は柔道着を利用する。袴の着用は確か男性が有段者で女性は三級からだったと思う。そして角帯などは使わずそのまま着装する。前紐は後ろで蝶結び。後ろ紐は前で結び、横に差し込む。
剣道は袴の着用が正装であり、道衣は専用。角帯もない。前紐は後ろで蝶結びして、後ろ紐を前で十文字に結んでいたと思う。そして男女どちらも腰板ありだ。
だけど弓道は角帯を必ず締める。そして女性の袴に腰板は無い。前紐は後ろで蝶結びにしても、余りを角帯に回したりする。後ろ紐は前でクロスさせ後ろで結ぶ。これは前側に余計なものがあると弦が引っ掛かるからだ。
そしてこの角帯には片ばさみ、一文字結び、神田結び、横一文字結び、袴下の結び、貝の口結びなどの結び方があり、お姉様が戸惑ったのは袴下の結びをいきなり教わったからだった。(武道とは関係なく片ばさみと一文字結び、それと横一文字結びは元々ご存知だった)
着物だと博多織の角帯が良いと言われるが、弓道では米澤織が良いとされる。ただしこれは男性向けの話で、女性のましてや高校生だと2~3千円の安い帯がほとんどだ。もっと安いマジックテープで留めるタイプもあるけれど、穂群原の弓道部は自分で結ぶ角帯だった。
「この横の切れ込みが弓道の袴は深いので、中の道衣がたくし上がってパンチラしやすいですから注意なさい。今日は勝負パンツだと男の子にアピールしたいなら良いですけど」
「ちょっ!?」
相変わらずさらっと冗談を仰る。桜が顔を赤くした。そして私の弓道着はほとんどバッチリらしいが、気になるところが少しだけあったようだ。そこを教えて頂き、私達は射場に出た。衛宮先輩も射場に居た。お姉様とご一緒だものね。
美綴部長が外した戸板を運ぶのを手伝う。戸板は射場の前と後ろの二箇所あるが、夏場は後ろ側の戸板は外しっぱなしだ。重要なのは前側で、学校によってはシャッターの場合もある。弓道場は開放的にならざるを得ないので、この戸板やシャッターが無いと夜間が無防備になる。
何より弓と矢は殺傷能力のある武器でもあるのだ。だから不用心な事は許されない。そして戸板は夜露や突然の雨、台風などに備えるためのものでもあった。
また、冬場は戸板の位置に戸板と同じ大きさの、ナイロンを張った木枠を立てる。この透明なナイロンの要所要所に丸く穴を空け、そこから射るのだ。こうするとストーブの暖気が最小しか逃げない。
裏返せば、これくらいしないと暑くて寒いのが弓道場だった。夏季の早朝練習が多いのも、扇風機以外の冷房が無いからだった。その扇風機も矢を射る場所には向いていない。集中力を乱すからだ。
桜曰く、『虫除けスプレーと虫除けグッズは必需品だよ? 会に入った時に弓手の人差し指を刺される人が多いから』。その蚊は、なんて嫌なところを嫌なシーンで刺すのだろう。
その後、1年生だけで掃除をと動いたら、楽しみを奪うなとお姉様に叱られた。なので五人で掃除をした。
「アインツベルン、そう気を張るな。掃除は先輩後輩関係ないから」
「はい」
神棚の水を換えているお姉様に、審判席の畳を拭き掃除していた衛宮先輩が声を掛けた。
「エルマってエルヴァさんに似て、真面目だなぁ」
「真面目過ぎるのもどうかと思いますが。ま、悪い事ではありませんよね」
「そうだよ。それがエルマの良いところだよ」
掃除の最中に早い人が数人やって来て、私達が準備運動を終える頃に全員が揃った。
「皆んな、集まってくれ。おはようございます」
「おはようございます」
美綴部長の号令で全員で挨拶を交わし、次に神棚や矢道に向かって礼をした。その後、私を紹介してくれた。
「今日から新しい仲間が入る。知っている者も多いと思うが、1-Dのアインツベルンだ。アインツベルン先輩の妹だが、陸上部と散々悩んでこちらに決めてくれた。もう既に道衣も揃えている。やる気ある新人だから、虐めるなよ? イジメたら、アインツベルン先輩にシバカれるぞ?」
「うへぇ~」
そこで促された私は全員に自己紹介した。
「お世話になります。新入部員のエルマ・フォン・アインツベルンです。至らない点が多々あると思いますが、皆様どうぞよろしくお願い致します」
私は拍手をもって迎えられたのだが、3年の遠峰薫前部長がお姉様と何か話していた。気になってチラッと見れば、お姉様が手を挙げた。
「はい。アインツベルン先輩、何でしょう?」
「その名字呼びを止めて、エルヴァ、エルマでお願いできませんか? 部長が妹を呼ぶたびにビクッとしますので」
『あ~』とか『お~』とか声が漏れ聞こえる。それはそうだろうな。
「それでなくとも、美綴部長にいつ殴られるのかとビクビクしていますのに」
お姉様……。
「先輩! 空手道場でコテンパンにされているのはこちらですよ!」
皆んなは大爆笑で、美綴部長は顔を赤くして抗議した。
これが美綴部長の優しさだ。部長が空手二段で道場の師範代なのは有名だ。この他、剣道も二段で薙刀も二段だったと思う。そんな美綴部長にお姉様は勝ってしまう。これを強調する事で、あるのかないのか知らないけれど、イジメの防止策としたのだ。
「ゴホン。では、『エルヴァ先輩』に『エルマ』で統一しよう」
この〆は衛宮先輩。お姉様曰く、体育祭の後から衛宮先輩は随分と変わったそうだ。
確かに何か頼もしさが増した感じがする。おい、桜、ポワ~ンとするな。
「エルヴァ先ぱ~い」
「遠峰先輩……」
3年生が3年生に先輩と言ってどうするのだ……。衛宮先輩も困っている。
「エルマ、これ引いてみろ」
そう言って美綴部長が弓を用意して下さった。道場に「お~」とか「やっぱり」という声が広がった。理由は至極明快で1年生の新人に、いきなり弓を引かせる事などまず無いからだ。普通は経験者であっても、基礎体力を見て、ゴム弓を引かせ、ある程度の射型を見てからだと思う。
私は弓道場の隅っこの鏡の前で、矢は番えず自前の下カケとユガケをはめて弓を引いてみようとした。
お姉様が慌ててすっ飛んで来た。
「はい?」
「はい、じゃない。エルマ、胸当て!」
思いっきり忘れていた。買ったは良いけど、掃除の邪魔だと更衣室のロッカーの中に置きっぱなしだった。見れば桜はいつの間にか着けていた。ちゃっかりしてるなぁ。
着け方を全然知らないので、お姉様に教えて頂いた。弓の引き方を教わる時はお姉様のお部屋だったので、胸当てを借りていた。
それも毎回着けて頂いてたので、私は自分で着けた事すら無かった。入部にあたって道衣や袴の着付けは何度も教わったのに。しまったなぁ。
この胸当ては、左流しか右流しかは決まっていないそうだ。
「決まっていないんですか?」
「決まっていません。弓道教本にも書かれていません」
弓道教本とは弓道を歩む者のバイブルだ。お姉様は一巻から四巻までの全巻お持ちだが、普通は一巻しか誰も揃えない。私も取り敢えず一巻だけ買った。
ちなみに一巻は射法編で、射法八節や射に於ける礼や作法といった体配に、心得などが書かれている。弓道部に所属する高校生なら誰しもが手に取り目にする本だ。この弓道場にも5~6冊は置いてある。
次の二巻は射技編で、八節が事細かに書かれてあるらしい。そして三巻は続射技編で二巻を補足する内容だとか。お姉様にはアインツベルンの魔術師ならすんなり理解できると言われたけれど。本当かな?
最後の四巻は理念と射技詳論といい、教本作りに携わった先生方個別の弓道理念が書かれてあり、各論総出で読みにくいと感じた二巻・三巻に筋が通るらしい。
お偉い先生でも言葉にするのは難しいのだと思う。そこ、群盲象を撫でるとか言うとお姉様にシバかれるぞ?
それはさておき、穂群原学園弓道部では公式試合の場合、右が幅広になるように揃えているとお姉様が教えて下さった。見れば確かに皆さんそうなっている。
とは言え、会で弦は胸の谷間に来る。だから左を幅広にする方が理に適っているとも仰っていた。
胸当てを着け終えると、もう一度与えられた弓を手に取った。道場には新入部員や弓のない部員のための弓と弦が幾つも用意してある。主にグラス弓がほとんどだけれど、中には試合にも使えそうなグラスカーボン弓もある。
8キロから16キロ辺りまで、万遍なく弓力が揃っているのはグラス弓で、これを使って自分の弓力や引き尺を調べるのだ。
だけど私が与えられた弓は、その試し引きの弓では無かったらしい。
軽く弦の調子をみた。少し強めだろうか? キロ数にしたら13キロくらい?
美綴部長は15キロで、遠峰先輩は16キロだそうだ。お姉様は18キロを引かれている。この三方は遠的の選手でもあり、体幹がしっかりされている。だから特別と言えば特別だ。
高校生の女子なら10キロから12キロ辺りが通常で、15キロや16キロは女子の上限だろうと桜に聞いていた。12キロを引く桜より強い、けれど遠的をなさる先輩方より弱い。それでも初心者向けでは無いだろう。
私は美綴部長を見た。部長は軽く頷いて、ギリ粉の使い方を教えて下さった。ユガケの中指の先に少しだけつける。
もう一度美綴部長を見た。今度は目線で引いてみろと仰っている。だから私は弓を引いてみる事にした。
射法八節を思い出しながらスーッと息を吸う。その瞬間に弓道場の空気というか雰囲気が色付いた。わかりにくいだろうけど、先程の部員の皆さんでなく、この弓道場に迎えられた気がしたのだ。ハッとして神棚に向かって黙礼した。
弓道場は矢を射る場所を射位といい、正面の的を設置する場所を安土という。この間の距離が28メートルだ。その射位と安土の間を矢道という。後で射終わった矢を取りに行く場合にこの矢道を通ってはいけない。必ず端にある矢取り道を通る。
これはライフルなどの射撃場と同じだ。看的所という中たり外れを観測する場所があるのも同じだろう。
そして射位の後ろが本座。試合の時に次の選手が控える場所だ。この射位と本座を併せて定めの座という。
穂群原学園の弓道場には、定めの座の後方に控えの場所があるが、学園のここは狭く、半分が普段戸板で遮られていた。夏場はこの戸板を外して風通しを良くする。だから今はやや広い。
そして控えの後ろには一段下がった土間があり、巻藁などが置かれていた。穂群原の弓道部ではこの土間も控えと呼んでいる。
その土間の更に後ろに更衣室や煮沸室がある。今朝美綴部長はここでお茶を沸かしていたのだ。大きな薬缶四つが流しに張った水で冷やされている。
部長がやる事では無いと思うか、部長だからこそやる事なのか。少なからず学園弓道部では毎年部長と副部長がお茶沸かしの担当だ。
なお、部長という呼び名は学校ごとに変わると思う。顧問の先生を部長として、生徒の纏め役をキャプテンや主将とする場合と、顧問は顧問で纏め役を部長とする場合もある。
穂群原弓道部が後者だけれど、少し変わっているのは必ず新2年生のレギュラーから部長が選ばれる点だ。
これは春から始まる試合に向けての団結心を促す意味と、なおかつレギュラーの3年生に伸び伸び射て貰う意味があるのだそうだ。だから女子チームから一名、男子チームから一名が選出される。
要は試合に於けるキャプテンなのだ。そして部長や副部長の目の届かないところを3年生がフォローするという伝統があった。
この事をお姉様は最初からご存知で、それで纏まった団結心を崩せないと、遠的競技に絞った経緯があったそうだ。
さて、先程の射位だが。ここで構えると身体は右側が正面となる。ここが上座だ。どこの弓道場もこの右正面に神棚や審判席がある。大きな大会だと控えの位置に審判席が来る場合もあるが、上座にある場合が多いと思う。
若干違和感があるのは、矢道が一段下がっているからだ。つまりあちらが客席で射位を舞台と捉えると、上手と下手が反対になるのだ。
私は今、土間の端っこで矢を番えずに弓を引いている。この練習を素引きという。ゴム弓が終わった1年生や、巻藁が一杯の場合は2年生や3年生もこれを良くする。
お姉様は部屋に予備の弓を置いていて、弦にタオルを巻いて時々素引きをされている。お姉様は和弓を引く事で、逸る心や狙う心を抑えていらっしゃるのだ。
「確かエルヴァ先輩は予備の弓を持っていたな。家で引かせて貰っているのか?」
「はい」
ただ、お姉様が不思議なのは素引きでタオルを巻かれる点だ。いや、素引き練習は会まで持っていった後、弦を離さずに戻すので、指先保護の観点からも何ら間違ってはいない。だけど疑問なのだ。そこを少し私なりの言葉で説明しよう。
弦を引く時に右手を守るのと、弦を引っ掛けて引き絞った状態を持続させる道具をユガケという。
漢字では弽、或いは弓懸と書き、ユガケもしくは略してカケと呼ぶ。鹿革でできたこのグローブは、弓を射るのに必須の道具だ。
三本指、四本指、五本全部を通すタイプなどがあり、流派によって大まかに決まっている。学生弓道ならほぼ三つ指だ。そしてその下に填める手袋を下カケというのだけれど、穂群原学園弓道部ではどちらも三本指のタイプと決まっていた。
下カケは左手に填める押手ガケ同様に好みの部分がある。押手ガケは填める人も居れば填めない人も居るが、下カケはユガケ同様必須だ。では何が好みかというと色や柄だ。足袋のように外から見えないので、白以外の派手な色や柄が多いし、またそういうのが好まれていた。
お姉様は押手ガケは填めない。それは良い、そこは好みだ。けれど、ここからが疑問の本題なのだけど、あの方はアーチャーに転身した時、両手とも素手なのだ。わかるかな?
飛ばすのは矢の形に変形させた剣なのだ。洋弓は和弓と違い、弓の左側に矢を架ける。そしてそこには矢を架ける切り欠きが存在している。そこをレストと言うのだけど、それがあるから左手を怪我せずに済むのだ。
だけど和弓のレストは自分の左親指の上となる。だから押手ガケが存在する。しかも射るのは剣でなく矢だ。だから押手ガケを使わない人も居るし、好みの問題とされるのだ。
ところがお姉様はフェイルノートを握る時は数キロは重さがある剣を飛ばす。しかも──お姉様の義兄であるアーチャーさんもしなかった右レストのフェイルノートを素手で引くのだ。
そしてアーチェリーパラドックスを矢のたわみでなく、角見を効かせる事で補正する。だから残心で弓は前に倒れず、和弓のように弓返りしている。
何よりお姉様のような右レストの方が次の矢の装填が早く、速射が効く。これは歴史上弓の名手と呼ばれた人が皆んなやってきた事だ。
そして角見を効かせられるので、たわまない硬い剣を射るのにより向いているのだ。弓の硬さに勝るシャフトの硬い矢は、洋弓の場合左へ飛ぼうとする。そして右レストなら右へ飛ぶ。
それを右に番えレストを浅くして弓の中心線からズラす事で角見を効かせ、真っ直ぐに飛ばすのだ。いくらシュッと細くして、矢筈を付けて投影してあっても、剣は刃が付いているし、何より重さが尋常じゃない。それらの事を考慮して編み出した技法なのだろう。
だけど異常だ。それを飛ばすのが魔術だと言えばそれまでだし、義兄のアーチャーさんが先達としてやってきた事だ。だけど見ている私としては、いつ左手を切らないかと心配になる。
それを考えれば、和弓の矢なんて空気みたいに軽いし安全だろう。弓の強さも弦の硬さもそうだ。なのに素引きではタオルを巻かれる。それも18キロ程度の弓力の弓で。
剣を飛ばすほどの弦を引ける人が随分とおとなしい。そこが私は不思議なのだ。それが練習であり、指だけでなく空弓で弓を傷めないための正しい方法だと理解できるのに首をひねってしまう。
きっと──弓や弦の強化に、身体強化、腕力強化、指先強化などを幾層も重ね掛け──矢となる剣の構造変換に概念変換、それと概念強化ができる人でないと、あのフェイルノートで剣を射る事はできない。
あれは弓を引く人だけでなく、魔術師が見ても異様な事なのだと理解できてしまうから納得行かないのだと思う。
「あの先輩ほど強いのは無理だろうが、思った通り良い引きだ。八節は先輩から?」
「はい、学んでいます」
「良し。今度はこちらを気にせず、お前のペースで通してみろ」
「はい」
ちらりとお姉様を見た。コクリと小さく頷いた。お姉様の妹だからと、美綴部長が直々に指導して下さっているのだ。
だから私はお姉様に教わった通りに執弓の姿勢から足踏みし、胴造り・弓構え・打起しをした。引分けで焦らぬようグッと気持ちを引き締め、ゆっくりと会へ持って行き、心の中で七つ数え離さずにゆっくり戻し、精神的な残心へと移った。
「良いぞ、エルマ。もしかしたら12キロくらいでも良いかも知れないが、弓を揃える時は13キロから始めても良いだろうな」
「この弓は、13キロですか?」
「ああ。矢がイーストンの1914だろ? なら、そんなものかなって。間桐に連れて行って貰ったんだろう? あの店は弓力と矢尺はきっちり測るんだ。それで1913でなく1914を薦められたなら、この先は引きが強くなるって事だ。だからこっちもわかりやすいんだよ」
なろほど。銘柄を見て矢尺とシャフトの太さから弓力を逆算したのか。
「それと申し訳ないが、この後は控えからエルヴァ先輩や遠峰先輩の射を見学させて貰え」
「はい?」
あれ? 何か失敗した?
ペコリと頭を下げ、3年のお姉様方の後ろに行くと、遠峰前部長がこっそり教えて下さった。
「お前もエルヴァと同じで綺麗な型だな。未熟な部分もあるけど筋が良いよ。本当は美綴もお前に射させたいんだろうなぁ。だけど、今はコーチも顧問も居ないんで、新人にいきなり矢を射させられないんだよ」
ああ、そういう事か。なら巻藁も無理だろう。ゴム弓や巻藁免除でいきなり的前に行って、他人の弓と矢で皆中してしまったお姉様が異常なのだ。普通は巻藁に行くまでに、1ヶ月はゴム弓を引かなければならないそうだから。だから私は先輩方の射をじっと見学させて頂いた。
女子の先輩ではお姉様と遠峰先輩がダントツだ。特にお姉様は私と身長や体格が近いので参考になる。
とは言っても実は、私の方が3センチ背が高いのだ。私は桜と同じで156センチある。これがエルお姉様のご希望なのだろう。
元々、私の身体は、あの方が意識を移して活動するための素体を改造したものである。宝具が体内にあるために妊娠できないあの方が、子をなすための機能も盛り込まれている。
その分、本家の『ラインの黄金』より劣化していて、取り込める数に制限がある。例えばAUOの『王の財宝』なら2セットまでが限度らしい。
「エルが弓道部に入るとあなたみたいな感じなのでしょうね」
右横に下がり正座されたお姉様がポソリと言う。そうなのだろうか? 記憶という名の記録をなぞっているのだから、ある程度はそうだろうと思うし、身体も借り物の感覚がある。けれど、意識は私だけのものだと思う。
いや、エルお姉様の人格を改良したものだから、それすらも借り物なのかも知れない。それでも私は私だと思いたい。そもそも射法八節はお姉様に教えて頂いたのだ。
このところ私はそんなアイデンティティに悩む事があった。そんな私の細やかな迷いと反発心を感じ取られたのか、お姉様はクスリと笑われた。
「エルマはエルマでしょうに」
やはりお見通しか。
「見ていましたよ。私のような狙いに行き過ぎる、悪い癖をあなたから感じませんでした。このまま頑張りなさい。獲物を狙うなら負けませんが、弓道は2年後のあなたに今の私だと勝てないでしょう」
仰る意味はわかる。だけどお姉様は射型がお美しいだけでなく、引き絞った馬手も、弓を押す弓手も一切ブレない。何も間違っていないのに。
「私のは間違いだらけですよ。私の矢は半矢だと獲物が可哀想だから必中を目指した矢です。獲物と向き合う矢なのです。ですが、あなたは自分と向き合っている。自分の精神と戦っている。それが正しいと思います」
弓道では二本の内一本が中たる事を、片矢、四半矢、二本中たれば半矢、羽分け、束中(そくちゅう)という場合がある。四射なら三本目を三ツ矢、四本中たれば皆中という。たぶんにローカルな要素があるので、一中、二中、三中、皆中で通しているところがほとんどだと思う。
そしてお姉様が使った半矢は狩猟用語の方で、獲物の急所を外した状態を指している。手負いの獣は恐ろしい。なので必ずトドメを刺さなければならない。だからこその必中なのだが、お姉様は弓道に於いてそれは間違っていると仰られているのだ。
エルヴァお姉様はイリヤお姉様の射を理想とされている。私もそこに行けると信じて下さっているのだろうか?
思わず横顔を見た。的前に入っている人を真っ直ぐ見詰める、私より大人びた褐色のそのお顔は、とても優しいお顔だった。
数度の休憩を挟み、気温が上がり始める9時頃に顧問の先生とコーチがいらした。藤村先生は小学部の授業があるので、早朝練習に参加されない。この期間は来ても放課後だ。
美綴部長に呼ばれ、私は顧問の先生の前で再び弓を引いた。今度は巻藁だった。蝉の声が煩い。
「いかがでしょう、先生、コーチ」
「さすがは姉妹だなぁ。美綴さん、そのまま射て貰いなさい」
そうして許可が出たので、美綴部長の指導の下に諸注意を受けた私は諸矢をたばさみて的に向かった。単に自前の矢を射ただけだけど。
でも徒然草の九二段は弓道を歩む者に留まらず、頷ける人が多い内容だと思う。一球入魂だとか一期一会だとか庭球する心だとか、似たような戒めの言葉がたくさんあるのだから。
諸矢とは二本一組の矢を言う。別名は一手(ひとて)。先に射る矢が甲矢(はや/早矢・兄矢とも)で、矢筈(矢のお尻/弦に掛けるところ)から見て、羽が反時計回りになっている。
後の矢は乙矢(おとや/弟矢とも)といい、こちらは羽が時計回りになっている。それぞれの羽が描く螺旋が逆方向なのに気付いたのは、お姉様の矢をじっくり眺めさせて頂いてからだった。
試合では四本一組なので三の矢、四の矢を丙矢・丁矢と言うのかと思っていたらそんな言葉は無かった。二本ずつ持つので、三番目と四番目も甲矢と乙矢だ。
そして弓具店に矢を買いに行けば、必ず六本一組でセット販売されている。試合の時は予備の矢が必要な場合もあるので、それで六本一組なのだ。甲矢三本に乙矢が三本だ。
ともあれ徒然草のこの段は、『初心者は二本目の矢を持つな』と弓の先生が指導されたという話で、二本持てば一本目が駄目でも後があると心に隙きが出来るので一本で決めなさいという意味だった。
デジカメのデータカードと、大昔のシートフィルムの写真などを例にすればわかるだろうか? 予備がある、後にもチャンスがある、そうなると人はついつい甘えてしまう。そんな甘えというか、弛んだ心を棄てなさいという教えなのだ。
カメラならモータードライブのような連射機能は要らない。ライフルならボルトアクションで良い。その一射で決めてみせる。その心だ。だって決定的瞬間はその一瞬、その刹那にしか無いのだから。
ちなみに庭球する心とは本当の題が『この一球』という。全文はこうだ。
『この一球は絶対無二の一球なり。されば、心身を挙げて一打すべし。この一球一打に技を磨き体力を鍛え、精神力を養うべきなり。この一打に今の自己を発揮すべし。これを庭球する心という』
だから私は精神を無にして、お姉様に教わった事をここに全て叩き付ける気持ちで八節を四度繰り返した。
何とか無事皆中だったけれど、お姉様みたいに全部ど真ん中とは行かなかった。特に三射目は後3センチ下だと外れて地面に掃けていた。外す事より、的枠に中たり欠けさせてしまう方が嫌だとお姉様は仰っていた。
練習用はガムテープ張りだけど、試合用は薄めた洗濯糊で的紙をパンパンに張るのだそうだ。欠けるとそれが難しくなるらしい。だからギリギリセーフだとホッとした。
「お見事!」
美綴部長だ。弓道に於いては本当はこんな風に声を出してはいけない。試合でも中たれば『良し/よ~し』、皆中で『良し』プラス拍手だ。例外は横拍手? 先輩が皆中を縦と言い、五人全員が的中した場合を横皆中と話していて、その時にも拍手があるそうだ。ここはちょっと曖昧だけど。
ともかく、それ以外は審査でもシ~ンと静かに待たなければならない。だけど今は練習中であり、先輩が後輩の指導にあたっている中での会話でしかない。だから許されるのだった。
そして何がお見事かというと、弓道は中心が満点とかそういう点数制度は無い。どこに中たったかでなく、的そのものに中たったか外れたかで勝敗が決る。だからバラバラな私のこれもお見事となるのだった。
試合はたいてい五人でチームを組む。稀に三人。それぞれ五人立て、三人立てというが、一人四射なのは変わらない。つまり五人なら20射、三人なら12射、どちらが外していないかで争うのが団体戦だった。
この五人の中に入る事を目指して、皆んな弓を引いているのだ。
「姉妹揃って度胸あるなぁ」
「とんでもない新人が来たな」
「今年の夏も女子に負けるのか……」
男子の先輩方が悲しい事を。
「正射必中だ! 気持ちが弱くなると射型が乱れる。いつもの自分で良いんだぞ?」
それを叱って激励する衛宮先輩。
対する女子は先輩も1年も大騒ぎだった。的前から下がった私に皆さんが声を掛けて下さった。特に桜は手を握って喜んでくれた。
お姉様が隣に立った。
「思った通りの射でしたね。部長や先輩方にお礼を忘れず。弦を張ってくれたのも、弦と弓の調子を見てくれたのも先輩方ですよ」
「あ!」
弓道場では、変なクセが付いた弓を矯正する場合を除いて、弓に弦を張ったままにして帰らない。学生が使うグラスファイバー製やカーボン製の弓なら矯正なんてまずしないから、必ず弦を外して弦巻という道具に巻き取っておく。この巻き方にも弦が捩れたりしない正しい方法があるのできちんと覚えなければならないのだ。
美綴部長は私を少し観察しただけで、どのくらいの強さの弓が必要かを瞬時に察し、2年の先輩方に指示を出されていたのだ。しまった。練習開始から随分経って、張り板で弓を押している方に気付いていたのに。てっきりご自分の弓だとばかり。
私は大慌てで部長にお礼を言い、弓を用意して下さった先輩を教えて頂き、お礼に向かった。
「お前の妹、コメツキバッタみたいだな?」
「ああいうのも、お礼参りというのでしょうか?」
「お礼巡りだろう?」
「ああ、なるほど」
お姉様と遠峰先輩だ。聞こえてますよ?
「美綴は心配しすぎだ。間桐のためにも上手い1年女子が欲しい気持ちもわかるけどな。でも今年の1年は頑張ってるよ」
「ですよね」
「この時期まで、誰も辞めてないんだろ? お前のせいで練習場所が益々なくなるなぁ」
「私のせいですか?」
「褒め言葉だ。だから美綴も余計に肩入れしてしまうんだろう。エルマのためってより、お前へのお礼で。けど、ああいう礼節を忘れないタイプは誰からも好かれるよ。姉貴そっくりだ」
「肩の荷が下りたら他人事ですね、遠峰前部長?」
「エルヴァ。お前は自分の妹なのに、随分と冷たいな?」
「弓道は仲間が居ても、戦う相手は常に自分自身です。自分と向き合えるあの子は好きですよ」
「フン、言ってろ。良い顔しやがって。けど、弓道部に来てくれて良かったよ」
「ですね。こればかりは無理強いもできませんから。陸上部に行くのかと、内心ビクビクでした」
「やっぱり入って欲しかったんだ?」
「私より向いていると思っていましたから」
「そうなのか?」
「ええ。今は駆け出しでまだまだですが、以前道場で射てくれた姉に匹敵する才能があると思います」
「イリヤスフィールさんだっけ。綺麗な射型だったな」
「はい」
「そうとう特訓したろう?」
「それが物覚えのいい子でしてね。少しレクチャーした程度です」
「本当かよ?」
「本当ですよ。私は弓道こそしていませんでしたが、他の武道も学びつつ、コンパウンドボウを引いていました。そして身近な姉から弓道に関する肝要な部分は事前に聞いていましたし、素引きまではやっていました。ですがあの子は完全にゼロからですよ?」
「そうか。他の武道は?」
「やっていません。私が教えた空手の型程度です。姉達からも型程度は学んだ可能性はありますが、生来読書好きなのですね。弓道教本は言わずとも買っていたようです」
「十分に熱心だ。それに環境が整ってるのはラッキーだ。だから筋が良い。このまま行けば良い弓引きになるよ」
「そうなってくれれば嬉しいですね」
「なぁ? あの子が試合に出る頃は、ここに私らは居ないんだ。寂しいな?」
「ええ。だから残せるだけのものを全部残して行きます。遠的も近的も」
女子の五人立て選手の中に遠峰前部長は入っていない。お姉様との遠的に絞られたからだ。ただ、その実力が惜しいと先生やコーチが、遠峰先輩とお姉様を個人戦でもエントリーされていた。
そして惜しんだのは、ルヴィアさんやオーギュストさんもだった。何故かお姉様は1年生から穂群原に在籍している事になっていた。
先々月の5月中旬に総体の一次予選があり、そこで遠峰先輩は遠的個人で予選を突破された。お姉様に至っては遠的も近的も1位で予選突破、この後6月末にあった総体予選個人決定戦でも、遠近どちらも皆中で決め個人優勝。個人での総体行きを果たした。遠峰先輩も遠的転向が効いたのか、決定戦で2位。お姉様と並んで個人での総体出場を勝ち取った。
度肝を抜かれるのが決定戦の時の遠的だ。的中制でなく得点制だったのだが、60メートル離れた中央金色の10点圏にお姉様は四本の矢を突き立てたのだ。全国に行けばこのクラスの女子も稀に居るそうだが、予選レベルではまず見ないらしい。ここでお姉様は一気に有名になってしまった。
このお二人に美綴部長が加わって遠的のチームとなるのだが、こちらも一次予選を1位で通り、決定戦も優勝した。当然全国行き決定だ。
ただ、残念なのは近的の五人立てだった。こちらにも美綴部長が出ているのだが、一次予選こそ2位だったが、決定戦は4位止まりだった。遠峰先輩が抜けた穴は本当に大きい。
また五人立ての補欠がお姉様だったので、今回初試合の白石先輩はかなり悔やんでいたらしい。
五人の団結心が固まっているのを壊すわけにはいかない、誰かを押しのけてまで弓道をしたくないとお姉様は入部の条件として選手を辞退していたのは先程も述べた通りだ。
だけどお姉様の腕前を惜しんだ先生や先輩方が遠的を薦められ、遠的競技で参加される事となった。そこへ乗ったのがスランプだった遠峰先輩だ。結局練習を重ねられるうちに、遠峰先輩は近的レギュラーの座を降りてしまったという経緯があったのだ。
そこで遠峰先輩に代わる近的レギュラーとして、白羽の矢が立ったのが2年の白石先輩だった。初試合は他の2年も同じだ。十分頑張った成績だとお聞きしている。
だけど自分が許せなかったのだろう。大人びて来ても高校生はまだまだ子供だ。いっときは辞めるとまで言い張っていたそうだ。それを叱って激励したのが遠峰先輩だと聞いている。
何を話したのかは知らない。けれど白石先輩は弓道を辞めず、今日も元気に弓を引いている。むしろ誰よりも率先して掃除や手入れをなさっている。今の女子弓道部員は雰囲気がとても良いとは桜の弁だ。
対する男子は、近的五人立てが県の一次予選は2位だったが、決定戦の同中競射で敗退してしまった。ただ個人の近的に3年生の先輩が、遠的に衛宮先輩がエントリーしており、こちらは一次予選も決定戦も好成績でお二人とも全国の切符を手に入れられた。チームとしては不本意だけど、部としては五人も選手を全国に送り出せた。これは歴史ある弓道部としても初の快挙だった。
それとは別に今月18日に県主催の弓道大会があって、男女近的チームは今そこを目指して猛練習をしている。その次は8月中旬のブロック大会、8月下旬の総体が待っている。10月中旬には新人戦と選抜の個人と団体が始まる。この他にも県やブロックによって私学大会や、ウチは関係ないが公立大会などがあるので、弓道も結構試合は多い。
熱心な練習が終わったのは11時だった。お姉様の今週のご予定は、月水金と部活に出て、後はアルバイトだそうだ。対する衛宮先輩は今から海の家に行くという。試合前なのに、男の人って何だか凄い。
「衛宮はバイトか?」
「ああ。今日は落ち着いて働けるからな」
「どういう意味だ?」
「あ、いや。一心不乱に焼きそばを焼いていると、無心になる瞬間があって。それが今度の試合で活かせるかなと」
「わけわかんねーッ!」
「衛宮だなぁ。焼きそばで無我の境地か。それ柳洞に言ってやれよ。山に籠もるより良いぞって」
「バ、バカ言うな。ケンカになるだろ?」
「俺達弓引きの目指す境地を、焼きそばで得られると言ったのはお前だぞ?」
「あ! スマン!」
落ち着ける理由はお姉様のお尻がない事か。けれど料理をすれば無心になるとはこの人の場合、本当の事だと思う。
そのお姉様は、新都の喫茶店で待っていると仰るとピューッと帰ってしまわれた。桜のマンションに近い喫茶店の事だが、あそこでセイバーさんがアルバイトをしている。様子見と食事を兼ねてかな?
守護者のイリヤさんは朝から海の家だし、帰っても凛さんもルヴィアさんも居ない。だから外食に誘って下さったのだろう。私は桜に声を掛け、二人で新都行きのバスに乗った。
バス停を降りると、喫茶店の前の横断防止柵にお姉様の自転車が立て掛けられていた。中に入ると奥の席にお姉様が座ってらっしゃり、小説を読まれていた。
「何をお読みに?」
「朝だ徹夜の麻雀放浪記」
嘘ばっかり。どう見てもタイトルがキリル文字だ。ちらりと見れば『Братья Карамазовы』、たぶん『カラマーゾフの兄弟』のロシア語版だ。桜が驚いている。でも桜、ウチのお姉様はこんな人だよ。
「おごりますから、お好きなのを注文なさい」
本からちらりと目線を上げたお姉様がそう仰った。それで私と桜はお礼を言って、お昼の日替わりランチセットを注文した。
私が焼き魚の和食セット。サケかサバを選べて、ここに小鉢が二品付く。味噌汁、食後の紅茶かコーヒー付きで700円だ。桜は生姜焼きの洋食セット。小鉢は和食と違い、サラダとポテト、それと海藻ともやしのマリネだ。ここにスープと食後のドリンクが付いて同じく700円。
このお店はアラカルトも豊富で、ホットサンドやパスタも美味しいとは桜の弁だ。定番のたまごサンドやオムライスなどの卵料理がしっかりしているのは以前から気付いていたが、ハンバーグやミックスランチの付け合せのナポリタンも美味しい。お姉様曰く、フェデリーニ(細麺)で端がカリカリしたナポリタンは他では味わえない絶品だそうだ。クロエちゃんはパフェやプリンアラモードが良いと話していた。あの子は誰とここまで来るんだ?
運んで来たのはセイバーさんと大学生くらいの人。お姉様とはパスで話しているのか、私達を見ても驚かない。そのお姉様はナポリタンとミックスサンドのハーフセットだった。
「アインツベルン先輩?」
「今日からエルヴァですよ」
「あ、はい。エルヴァ先輩、家でナポリタンを作るとベチャッとするんですね。ここまでカリッとしなくていいですが、もっちりさせるには何か工夫があるんですか?」
そんなのを何故お姉様が知っていると桜は思ったのだろうか?
「他のパスタと同じく塩で茹でるのですが、この時に1分ほど多めに茹でて下さい。その後ザルにとって氷水でシメて、水気をしっかり取ってからバットにパスタを広げて、一人前に付き大さじ半分程度のサラダ油を馴染ませ、冷蔵庫で一晩寝かします。ここがコツですよ。そして翌日に計量カップでケチャップを量りつつ合わせます。デルモンテならトマト感、カゴメならスパイス感、ハインツなら甘みが増します。ここにウスターソースを隠し味に足してオリジナルのケチャップを作るのですね。これも大切ですよ」
おお! 知ってるんだ?
「次にフライパンに油を引いて、具材を炒め、しんなりして来たら火を弱めて具材を寄せて、開いた部分でケチャップを温めます。ここでケチャップに含まれる水分をある程度飛ばぜたら、一度火から避けておきます。そして別のフライパンでパスタを温め、火が通れば先程の具やケチャップの方のフライパンに移し替えて馴染ませるように炒めます。最後に火を止めて仕上げにバターを少しだけ入れて混ぜるのですね。これで出来上がりですよ」
「思ったより時間も手間も掛かるんですね?」
「ええ。寝かせるなんて業務用の作り置きが、良い方に転んだ感じですしね。ケチャップとソース、それと仕上げのバターは必須ですよ」
意外なものにまでお詳しいなぁ。
「こういうお店ならではの洋食料理って他に何がありますか?」
「洋食屋さんでなく喫茶店のような?」
「そうです」
「それなら、北海道は釧路のスパカツ、根室のエスカロップとその相似品、石川県金沢市のハントンライス、福井のボルガライス、大阪、神戸、長崎の各種トルコライス、沖縄のタコライスなどは押さえておきたいですね。特に根室のエスカロップ系は赤と白の他に、スタミナライスやオリエンタルライス、パンチライスにビドックライスとアイデアの宝庫です。根室人恐るべしですよ。中でもオーブンを使うフロレンテンなどはグラタン好きなら一度はチャレンジして欲しいですね」
「ちょっ!? 先輩、一気に話さないで下さい! 何ですかそれ? エスカリ?」
「エスカロップです。一番普及しているのは白エスカで、バターライスの上にトンカツを乗せてデミグラスソースを掛ける料理ですよ。バターライスにパセリを入れたり、ほうれん草を混ぜたり、工夫の余地が幾らでもある、洋風ソースカツ丼と考えて頂ければ。赤はケチャップライスで、スタミナはエスカロップのような味付けライスでなく白いご飯の上にトンカツを乗せ、その上から野菜炒めを乗せ、半熟の目玉焼きを乗せた料理です。これも中華風にアレンジできますね。白いご飯かバターライスに、トンカツでなく豚ソテーか生姜焼きを乗せてナポリタンや生野菜を添えて目玉焼きを乗せればパンチライスです。ケチャップライスにミートボールと生野菜ならビドックライス。カレーピラフに牛のサガリの焼き肉を乗せ、ステーキソースを掛ければオリエンタルライスです。フロレンテンは別系統で、スパゲッティにハヤシライスのソースとホワイトソースを掛けてオーブンで焼いて、温野菜と目玉焼きを乗せたものですよ」
桜が戸惑うのも無理はない。どうしてこんなのまで。ただ、理由はわかる。お姉様の元であるエルお姉様は、イリヤお姉様や巫女のイリヤお姉様達と高2の夏に北海道へツーリングに行ったのだ。
その時にB級グルメ研究家でもある巫女のイリヤお姉様から、色々と教えられたのだろう。
「ボルガライスってどういう?」
「ボルガライスはオムライスの上にトンカツを乗せてデミグラスソースやトマトソースを掛けたものです。当然オムライスの中もケチャップライス以外が使われたりします。トルコライスは地域がバラバラで定義が難しいですが、基本はピラフにナポリタン、そしてトンカツのプレートランチです。大阪のトルコライスはケチャップを使ったチキンライスに薄焼き卵を乗せてデミグラスソースですから、赤エスカやボルガライスに似ていますね。神戸のはバターライスやピラフにカレーを掛けて、生卵を落としたものです。なんば界隈の名物カレーやセイロンライスほどぐちゃぐちゃ感が無いので好みですが、お店がほとんど残っていないのが辛いですね。カレーピラフにすじ肉やホルモンをトッピングして、カレー味でないソースを掛けてオリエンタルライス風にすればご当地グルメで生き残れたのに。私ならカスのスープも付けますよ」
このカスは油カスの意味で、動物の内臓から油脂を絞り出した後のものを言う。今は牛の小腸や豚の胃に鶏皮が多いのだったかな。大阪のかすウドンは牛の小腸だったと思う。
「意外なのは佐賀のシシリアンライスですね。ご飯の上に焼き肉と生野菜を乗っけてマヨネーズをブッ掛けただけとも言えますが、あれが結構美味しいです。ともあれどれもこれも洋食のミックスグリルと、ライスをワンプレートで乗せた物のアレンジ版だと思えば良いでしょう。ミソはスプーン一本かフォーク一本で食べられる時間の無い人向けの料理から始まっている点です。こういう発想の要諦さえ押さえれば、オリジナルを間桐さんも考えられるでしょう」
「は、はぁ……」
こんなの高1の女の子が一気に聞かされたら堪ったもんじゃない。幾ら料理好きでも限度があるよ。
だけど興に乗ったお姉様のマシンガン薀蓄トークは収まらない。
「沖縄に行けばタコライスは無視で良いです、あれならロコモコの方が美味しいですから。それより喫茶店か洋食屋さんでAランチを頼みましょう、絶対にAですよ? 後悔するほど出て来ますので。それと大衆食堂に入った場合はメニューの味噌汁とおかずに騙されてはいけません。定食に付くお味噌汁はおつゆとして別にあります。メニューの味噌汁は味噌汁定食の略です。うどん鉢にこれでもかと具が入った味噌汁がご飯とお漬物と一緒に出て来ますから。場合によっては小鉢風の少量のおかずも付いて来ます。そして『おかず』ですが。これは『おかず』という名の定食です。チャンプルー系の炒めモノに薄焼き卵が乗ったモノが、あちらでは『おかず』という固有名詞を持つのですね。材料は日替わりの場合もあります。これにご飯と、お漬物やおつゆが付いています。悪い事は言いません。ソーキそばのような郷土料理は案外と口に合わないものですが、チャンプルーは誰でも大丈夫だと思います。なので、目指すは大衆食堂ですよ。ブランチならポーク玉子定食、そして沖縄のちゃんぽんですね」
「ポーク玉子は豚肉と卵の炒めものですか?」
「いえ。沖縄ではランチョンミート、いわゆるスパムをポークといい、豚肉とは区別しています。ちゃんぽんは野菜炒めの乗った豚骨塩ラーメンでなく、卵で綴じた野菜炒めが乗った丼ものです。チャンプルーもちゃんぽんもごった炒めの意味ですよ。ほとんど台湾に近い離れた小島の文化は、味噌・醤油などは日本そのものでも、アメリカや東南アジアの文化を取り入れつつ独自に展開しました。この変化も自分なりに消化できれば、新たなレシピが生み出せますよね」
もう少しお話をお聞きしたいと思ったが、入ったのがお昼前だったので、段々とランチ目当てのお客で混んで来た。なので私達は会計を済ませてお店を一度出た。
「あの、エルヴァ先輩。もしよろしければ、家に寄って行かれませんか?」
桜の提案だ。士郎さんの家で一緒に料理を作ったりもしていたので、お姉様と桜の仲はとても良好だ。何よりお姉様が味方だと、桜が一番理解している。お姉様にしても、桜は単なる後輩というだけでなく、妹分としても可愛がっていた。
この辺は凛さんの代わりという意味もあるし、凛さんもお姉様が見守って下さると安心なのでお願いされてもいた。なので二つ返事でお邪魔する事になった。
目的地は間桐第二マンション。隣に間桐第一マンションがどど~んと建っていて、どちらも一棟二百戸以上ある大規模マンションだ。
第一マンションの半数が賃貸で、残りと第二マンション全部が分譲である。両方とも名の通り間桐の物件だ。
間桐鶴野が間桐雁夜に資産を譲る10年前に、間桐が持っていた土地を売ったり流用したりして新築したマンションだ。冬木市にはこの他に、中規模マンション数棟と、2DKや1DKが中心の小規模賃貸マンションも業者に委託して管理していた。
これは当時の間桐雁夜の知識では、臓硯が保有していた電力会社や鉄道会社に旧公社の安定株はともかく、他の銘柄を上手く運用できないと鶴野が判断した結果だった。
また鶴野だけでなく雁夜も桜に資産を残そうと考えたからでもあった。そうでもしなければ、鶴野も雁夜も桜とまともに接する事ができなくなる。あの兄弟は小心者だが、感性は意外とまともなのだ。
また、ここの間桐の管理物件数は他の世界より少ないが、手堅いとはエルヴァお姉様の見解だ。エルお姉様がいらっしゃる世界では、第一マンションまでが公園で、第二マンションの敷地に、もう少し小さな第一と第二の二棟が建っているのみだ。後はテナントビルが数棟があるだけと、事業規模が全然異なっている。
これはエルお姉様の方の鶴野さんが、慎一さんに絆されて聖杯の泥で焼け落ちる前の家や土地を地上げしたからだった。これにより間桐は資産のほとんどを手放し、土地は遠坂や市に売却済みであった。
なので鶴野さんは個人で会計事務所を開いてはいるが、軌道に乗るまで大変だったらしい。そんな訳で慎一さんと慎二さんの兄弟は子供の頃からマンション住まいだったのだ。
今はエルお姉様が建てられたビルの中でワンフロアを所持して親子仲良く暮らしている。
では何故慎一さんは地上げしたのか。そう、あの人には並行世界の出来事を夢で見るという、エルお姉様と似たような特殊な才能があったのだ。それで悲劇を回避しようと資産を手放したのだ。これに感激したエルお姉様は霊地開発のパートナーに間桐慎一さんを迎え入れていた。
一方、雁夜さんはルポライターからジャンルを広げ、トラベリング・ライター、グルメ・ライターとして著名になっていた。また、遠坂の方は市やアインツベルンと組んで、次々とビルやマンション、ショッピングモールなどを建てていた。浮き沈みはあれど、それぞれが幸せになっているのがエルお姉様の世界だった。
そんな第二マンションは分譲でも冬木にしては価格帯が高かった。ラウンジ備え付けのロビーは広々とし、パーティルームにゲストルームまで備わっている高級マンションだ。その最上階である15階、そこの一番端の南東向き角が桜の家だ。5LDKで南に面したリビングの日照は最高。今時分は暑いくらいだ。
そして東に面した桜の部屋は新都の開発地区が一望に見渡せる。夜だとイルミネーションが綺麗だそうだ。
「良い部屋ですね」
お茶を頂きながら、初めてここに来たお姉様が褒めている。だけどチェックしているのは間取りや日当たりでなく、もっと別なところだ。
隅々まで行き渡った掃除や窓ガラスではない。それは生活感の無さだった。まるでショールームなのだ。10年近くも暮らしている筈なのに簡素と言うか無駄がない。
この家に招かれた友人は私が初めてで、二番目がお姉様となる。小・中学生時代もロビーのパーティルームやゲストルームを利用するだけで、家の中まで入った人は居なかったのだ。
これは桜が雁夜さんに遠慮しているからだった。親子仲が悪い訳でなく、どこか深いところで見えない線引きがあるのだ。
それが友人を遠ざける。それが親友と呼べる人を作れなくする。間桐桜は頑固な面もあるが、根は素直で気立てが良い。そして人の心を慮れる。それが美点であると同時に、引っ込み思案にも見える欠点となっていた。
思うにお姉様は雁夜さんか別の誰かから相談を受けていたのだと思う。それで同学年になる私に、桜と友達になれと仰ったのだと思う。
お姉様から依頼を受けた私は桜を観察した。そして発見した。実は遠坂凛さんと同じで、桜は押しにかなり弱い。そこで私は押して押して押しまくって友人となり、相談事を聞く仲となり、今のような親友となったのだ。結構大変だったんだぞ?
そしてお姉様は今、桜の小・中学生時代を考えている。桜は桜なりに今の境遇に幸せを感じている。けれど、幼い頃から養子と知っていたので、どこかで遠慮してしまう。ここに自分が居て良いのかと迷う。
その迷いがこの幸せを手放したくないという、妙な固執に繋がるのだ。行き届き過ぎた掃除や衛宮先輩への恋心、そういうのに如実に現れていると思う。
だけど、今回彼女はお姉様を自分から招いた。もしかしたら、変わりつつあるのかも知れない。いや、きっとそうだ。これなら凛さんも記憶が無かったか忘れていた事にして、桜との関係を最近知った風に装い、新たな関係を築くよう促せる気もする。
料理談義を楽しまれているお姉様をふと見やれば、ご自分のブラウスを軽く引っ張ってみせた。視線は話し相手の桜から離していないが、私にそういうジェスチャーをした。
ああ、桜は自宅なのに制服から私服に着替えていない。つまり彼女の中では、今回の事も学園生活の延長なのだ。おそらくそこまでは考えていないだろうし、そんな線引きをしているつもりもないだろう。
だけどそれが桜の深層心理だとお姉様は見破ったのだ。今日はここまでだろう。アルバイトでまた一歩前進してくれる事を願って私達は御暇した。
「難しいですね?」
「いえ。あなたは良くやっています。それに今は私のお願い関係なしに親友でしょう?」
そう仰って綺麗なウィンクをされた。確かに……私の借り物という感情と桜の感情は似ている。私と桜は合うとお姉様は最初からわかっていらしたのだ。敵わないなと呆然としている私を置いて、お姉様はマンションの来客駐輪場から自転車で走り去った。
気を取り直した私はバス停に向かって歩いたのだが、一つだけバス停を飛ばした。何となく歩きたかったのだ。そして何も考えず左の脇道に入った。プチ冒険とでも名付けようか。そういう気分ってあるよね?
自己分析するにそれはお姉様に圧倒されても、負けていられない頑張ろうと、気持ちが前向きに切り替わる兆候だったのだと思う。
ビルとビルの間に見える青空はどこまでも遠く、そして学園指定の革靴の下のアスファルトは陽炎が立ち昇るほど熱い。ショートソックスより上の、スネやふくらはぎもヒリヒリ熱い。
時々真夏でもハイソックスを履く女の子が居るが、あの気持ちがわかった。スカートは夏用の薄い混紡だけれど、これまた結構蒸れる。うなじに汗が一筋流れた。
喫茶店も桜の家もエアコンが掛かっていたから、余計に暑く感じるのだ。たまらず私はブラウスの一番上の小さな隠しボタンを外した。上級生に睨まれるので、学園内では絶対にできないイケナイ行為だ。
これが2年生以上だと、この隠しボタンの前に男子の詰め襟と同じようなホックを自分で付けたりできる。いや、本当は制服改造なので駄目なんだろうけど、上級生は皆んなやっている。
あのお姉様ですらやっているのだから、このハイネックのブラウスがいかに暑いかわかろうものだ。誰かに見られていないかと、小心者の私は辺りを伺った。
すると目に飛び込むのは珍しい看板に、太陽を反射する窓ガラス。何度も来ている新都なのに、知らない街並みがそこに広がっていたのだ。
「こういうプチ冒険って面白いなぁ。そうだ、こんな風に自転車でフラッと走ると面白いかも。自転車、買おうかな?」
こういうのを何と言うのだろう? 千載一遇? 時宜を得た? ともかく思い付いた目の前に自転車屋さんがあったのだ。
「こんな裏通りに自転車屋さん?」
そのお店のウインドウには海外製のロードバイクが何台も飾ってあり、中を覗けばスポーツ用の自転車ばかりで、いわゆるお買い物用のママチャリは一台も置いていなかった。
「もしかしてここって……」
たぶんお姉様の自転車もここで買われたのだと思う。だって冬木にこんな専門店が何店もあるとは思えないから。
「何かお探しですか?」
キョロキョロしていたら、お店の人に声を掛けられた。ざっくりした格好の、けれど爽やかな男性だった。
「え~と。あまり詳しく無いんですが、姉が随分とシンプルな自転車に乗っていて。ああいうのが欲しいなって」
「安ちゃん、サーリーのあの子の妹さんじゃないか? 制服が穂群原だし、お顔もソックリだぞ?」
奥から声がした。日差しが眩しいので中が暗くてお顔が見えない。
「お名前が……あった、あった。アインツベルンさん?」
伝票に残っているらしい。やはりここだった。私はお店の中に入った。思った以上にたくさんの自転車が置いてある。天井までぎっしりだ。奥の作業場? には、天井いっぱいにフレームだけがぶら下がっていた。
この人が店長さんだろう。お髭の似合う、日に焼けた40代くらいのオジさん。
「そうです、それが姉です。サーリーって言うんですか?」
「それがブランド名で、お姉さんが乗られている車種はスチームローラーですね。シンプルなのが良いの? 坂を登ったり遠出をしたりはしないのかな?」
「ああ、遠出かぁ。してみたいですね。坂って言うのは? どういう意味ですか?」
店長さんが自転車の後ろを指差した。
「こっちの自転車のここを見て。これが変速機なんだ。自転車が軽くとも、お姉さんのはこういう変速機が無いから、坂が厳しいんだよ」
「そうなんですか? 姉は毎日その自転車で学園に通っていますよ?」
店長さんも安さんと呼ばれていたお店の人も驚いている。
「只者じゃないとは思っていたけど、お姉さん凄過ぎだよ」
「あの学園坂をシングルで登る女の子か。お姉さん、モテる?」
随分な質問だけど、言いたい事はわかる。
「人気ありますね」
「やっぱり。でもね、真似はしない方が良いよ。オジさんはこんな変速機付きのクロスバイクをお薦めするけどね」
「ああ、これって前も変速するんですか?」
「そう。フロントが3段で、リアが8段。3掛ける8で24段変速だよ。けれどチェーンが斜めになるのは良くないから、使えるのは実質半分ちょいの15段変速くらいだけどね。少しでもシンプルに見える方が良いなら、マウンテンバイク寄りでなく、ロードバイク寄りのクロスバイクを選ぶと良いよ」
そこから色々とお話を聞かせて頂いた。促されテーブルのある椅子に腰掛けると、別の店員さんがよく冷えた麦茶を出して下さった。
そして店長さんが、レース目的の自転車と遊び目的の自転車、カッコだけで飽きが来る自転車と何時までも使い続けられる自転車、同じ長距離でも速く走るための自転車と旅を目的とする自転車の違いなどを教えて下さった。
買うかどうかもわからないのにとても親切だ。本当に自転車が好きで、自転車仲間が増えて欲しいのだという純粋な気持ちが伝わる。
だから私は目的が余り定まっていない事、さっきの知らない風景に感動した気持ちを素直に伝えた。
「それをポタリングって言うんだよ」
「ポタリング?」
「うん。サイクリングをピクニックに置き換えるなら、ポタリングは自転車で行う散歩だよ」
なるほど。折り畳み自転車だと、そういうのが似合いそう。
「折り畳みはお薦めしないよ。それと小さな自転車も」
「え? どうしてですか?」
「タイヤの周長が短いから、同じ距離を走るにしても何十回も何百回も車輪が多く回るんだね。するとこの軸の部分が痛みやすいんだ。何より折り畳みは軽くなければ意味がない。部屋に持って上がるにせよ、電車に乗せるにせよ、12~13キロの自転車と20キロ近い自転車じゃかなり違うよ? 仮に5キロの差としても、5キロのお米や1リットルのお水5本の重さを想像してご覧。折り畳めるって言葉の便利さに誤魔化されちゃダメだよ」
本当だ。言われてみるとその通りだ。それにお姉様みたいにどこかに立てかけても良いし、スタンドを付けても良いのだから。
「それに旅先でも乗り慣れた大きさの方が便利だよ。自転車を運ぶ事を輪行って言うんだけれど、それも前輪を外すとか小さくする方法はあるし、大人になってクルマに乗せるにしても、折り畳みである必要性はそう無いと思うよ。どうしても必要性が出て来た時に、2台目にブロンプトンなどを選べば良いと思うな」
そう仰ってブロンプトンやKHSにCleanSpeedといった知らないブランドのカタログを見せて下さった。どれもこれもいい値段するなぁ。
安くて軽いのはDAHONというブランドだという。けれどその分、着いているパーツも安いのだそうだ。
「アルミほど軽くないけど、16インチのダホンはまぁまぁだけどね。でもそれなら最初からブロンプトンやBD-1を選ぶべきだろうね」
BD-1って20万もするの?!
けれど確かにどれもこれも12キロ程度だ。チラシ広告で見る折り畳みは17キロくらいあったと思う。それに数万円や数千円でそういう自転車が売られる理由も詳しく教えて下さった。
「この辺り、初めてのお客さんには必ず説明しているんだけど、お姉さんには必要なかったね」
なんとお姉様は最初からサーリーのスチームローラーをサイズ指定で指名され、車輪やブレーキなどのパーツまで全部指定して行ったのだとか。凄いなぁ。私は知れば知るほど、エルヴァお姉様やエルお姉様の拘りというか好き者ぶりがわかった。
店長さんのお話はとても面白く、聞いていて私はワクワクした。心が勝手に走っちゃうのだ。お店の中なのに、気分はどこまでもどこまでも遠くへ走って行った。自転車のハンドルを握って、見知らぬ街の風景を見て感動している私がそこに居た。
今までは深く考えず、漠然とスクーターが良いなと思っていたけれど、段々と冬木もあちこちにバイクやスクーターを気軽に止められなくなって来ている。けれど自転車なら、私が思い付く限りの範囲に駐輪場がある。
盗難やイタズラの危険は魔術師なら回避できる。だからといって高級なカーボンのロードバイクに乗りたいワケでは無い。お気軽でお手軽に日常の足としてどこにでも行きたい。そして長く乗り続けたい。
そうなるとサーリーというブランドはとても私に合っていて、遊べる自転車を提供しているメーカーだと思えた。
「このペーサーというフレームは去年出たロードバイク・タイプなんだ。で、こっちのクロスチェックが、シクロクロスっていう未舗装路を走ったりするレース用から派生したタイプなんだね。どちらも街乗り用のオシャレな自転車にカスタマイズできるよ」
それでお客さん用に組み上げた自転車の画像をパソコンで見せて下さった。サーリーだとクロスチェックが圧倒的に多い。ああ、ペーサーが去年からだから少ないのか。ハンドルを普通のフラットハンドルにして、前カゴを付けたり、泥除けを付けたり。どれもこれもオシャレでカッコいい。
「これは?」
「これはロングホールトラッカーといって旅用の自転車だね。ミソは昔のランドナーやツーリズムに着想を得つつ、現代的なグラン・キャンピングになっているところかな? このダウンチューブの下を見て。ここにもボトルが付けられるんだ。タイヤもMTB用のが使えるしね。少し手を入れれば自転車の世界一周も可能だよ」
「自転車で世界一周!?」
「いるんだよ。そういう人は、昔から。だってその人も見知らぬ街の風景を見て感動したいんだから」
あ、そうか。同じなんだ。ただ、私の範囲が狭いだけで。だけどなぁ。
「ペーサーかなぁ」
「そうだね。ペーサーで色々カスタムする方が似合うと思うな」
そこからまたモニターで画像を見ていった。
ふむふむ……あれ? こういう知識はエルお姉様から引き継いでいないのかな?
そうか。私はエルヴァお姉様の補助だから、不要な知識は削られているんだった。それでお姉様のお手伝いをしながら料理を学んでいるのだ。改めてその事実を思い知らされた。何だかちょっと悔しい。
『エルマはエルマでしょうに』
唐突にお姉様の言葉が頭に浮かんだ。もしかしてエルヴァお姉様だけでなく、エルお姉様もそう考えられて私をこういう風にした?
何故かそう思えた。私は携帯電話でお姉様に電話を掛けた。今どこに居て何をしているのかを話せば、急いで戻って来て下さった。
「いらっしゃい。調子どう?」
「バッチリですね。妹が来ているそうで」
「うん。奥で迷っているよ。自転車預かってあげるから、行ってあげて」
「はい」
そんな会話が店頭から聞こえて、お姉様がいらした。
「自転車を作るのですか?」
買うとか手に入れると仰らない。作るのかと聞いてくる。なんて新鮮な言葉だろう。
「はい。作りたいと思います」
店長さんやスタッフとのお話で、少し具体的になった私なりの用途やイメージをお姉様に説明した。
「クロスチェックはカンチブレーキかVブレーキになります。ペーサーならキャリパーブレーキです。構造の違いもありますが、一番大きな違いは引き量です。それによってブレーキレバーが変わります。そしてハンドル形状が必然的に決まってきます。クロスチェックの場合ならフラットハンドルでもドロップハンドルでも対応できますが、ペーサーは少し工夫が必要ですし、後々の融通が利き辛いと思います。ですが、とてもあなたらしいと私は思います」
『あなたらしい』、なんて嬉しい言葉だろう。補助部品としての私でなく、妹としての私の個性を認めて下さるのだ。顔が熱くなるのがわかる。紅潮しているのだろう。
「お姉さん、これ固定で乗ってるの?」
「はい」
何かとんでもない事らしい。お店の人が驚いていた。
結局、お姉様とあれこれパーツを選び、内金を入れ総額30万円弱の自転車を注文してしまった。残金は組み上がった後で良いと言われたが、今週中に支払う事とした。
選んだ自転車は、サーリーのペーサーというフレーム。サイズは50センチで色は水色、淡いブルーだ。お姉様のスチームローラーは49センチなので私の方が少し大きい。本当ならお姉様も私も46センチくらいだろう。けれど手足が長いのでこのサイズに乗れてしまう。
ハンドルはフラットハンドルを選んだ。そこに小さな前カゴを付けて貰う。学生カバンが入るような大きさではないが、ランチボックスが二つは入りそうな籐製の蓋付き。本来はミニベロという小さな自転車向けのもので、このお店のオリジナルだった。
余り売れなかったらしく、メーカーで生産中止になったそうだ。追加もないので在庫にある3コで終わりなのだとか。色も最初は数種類あったらしいけれど、オレンジが残っていたのでそれにした。
ドロップハンドルのロードバイクなら前カゴなんて邪道も邪道だし、そもそも付けられないと思う。けれどフラットハンドルなら付けられる。何よりこの自転車はそういう事をするためのフレームだ。
「お姉様のハンドルは上にグッと上がってますね? あれはフラットハンドルとは違うんですか?」
「あれはライザーバーです。BEAMというメーカーのXOBハンドルバーと言って、75ミリ上がったタイプです。それの左右を切り落としていますね」
なるほど肩幅に合わせて切っているのか。店長さんに聞けば、ライザーバーの方がカゴが馴染むしグリップの邪魔になり辛いと仰った。なのでフラットハンドルをライザーバーに変更した。
ブレーキレバーやワイヤーの逃げの関係で、カゴの位置が微妙に想像していたのと異なる場合があるから、組み上がる前にもう一度来て欲しいと言われた。ん~、なるほどね。
ブレーキはロングアーチ・タイプを選んだ。これは泥除けを付けるためだった。ロードバイクと思えばかなり邪道らしいが、お姉様はこういうどこでも乗れる自転車は飽きが来ないと仰られた。
タイヤもお姉様みたいな700×23cでなく28cにした。細すぎると怖いんだよね。
私は慣れないから見た目で怖いと思ったのだが、お姉様や店長さんが言うには、18cとかだと、路側帯の排水口の溝にタイヤが取られてコケる場合があるそうだ。
そして、自転車でコケる事を落車というらしい。お姉様にコケた経験がおありですかと聞けば、落車は無いが放車はあると仰った。
それはエルお姉様だった頃の事らしく、自転車を捨てて転移したのだそうだ。
転移しなければ、大型トラックとマッドマックスだったと言う。そんな新しい言葉を作らないで欲しい。
「メーカーもわかっていますね。ジオメトリーがロードというだけで、ワイヤーはトップチューブの上ですし、ダボの多さもそうです。これで前後にディスクが付けられて、ボトルケージのダボがダウンチューブ下やフォークの左右にあれば、オールウェザーなトラベリング・バイクにできますのに」
余談だがお姉様がストラグラー650Bというフレームで組まれたのは、これから10数年後だ。この頃の私は無知だったけれど、当時はディスクブレーキのシクロクロスなんてレモンが唯一出していただけで、ビアンキが出したのは少し後だった。
そして学園を卒業なさったお姉様は3年間英国で暮らされ、あちらではパグスレーに乗られていた。その後1年ほど海外を転々とされ、日本に戻られたのは私がムーンランダーを作った頃だった。高校生になったクロエちゃんやイリヤちゃんに振り回されていた頃でもあった。
なお、ブレーキはメーカーがシマノでBR-R600というらしい。左前の右後ろはヨーロッパ仕様。お姉様もこうされている。車輪は何が良いのかサッパリなのでお姉様が選んでくれた。DTスイス? そんな名だった。
「スポークがDTスイスで、リムはアラヤで?」
「ええ。フロントもラジアルでなくタンジェントで。6本取りの柔らかい手組で、乗り心地重視で組んであげて下さい」
「そうだね。初心者にはその方が良いか。お姉さん、本当は組めるんじゃないの?」
「振れ取り台もニップル回しも持っていませんよ」
何か色々考えてくれているようだ。
「サドルはどうしよう?」
「お姉様のは何ですか?」
「私のはブルックスのB17スペシャルです。レースでもなければお尻にパッドがあるズボンを履かないでしょう? まして私は今みたいな制服のスカートで乗る場合がほとんどです。ですからコンフォートな昔ながらの革製にしようと。そうなるとブルックスしかあり得ません」
「お薦めってありますか?」
「こればっかりは自分のお尻と相談してくれとしか言えませんが。敢えて言うなら、ハンドルの高さで腰やお尻に掛かる負荷が変化します。ドロップハンドルの下を握るなら、細長く前かがみになっても漕ぎやすいものを、アップハンドルで上半身が立つならお尻に体重が乗りますから、座面が広くお尻が痛くならないよう、ゲルが入っていたりスプリングが利いたものを選べば良いでしょう」
結局私はブルックスのB67という後ろにスプリングが2本あるタイプを選んだ。お姉様と同じB17のスタンダードなら色んな色があって良いのになぁ。
「慣れた頃にB17スタンダードに替えれば良いですよ」
そうだな。そうしよう。
コンポというその他のパーツはシマノの105シリーズから選んだ。5505という前が3段のタイプだ。確か52-42-30という歯数なのだが、52は慣れないと踏めないとお姉様が仰る。
「踏めないってどういう意味ですか?」
「重いからですよ。普通の女の子は52なんてまず踏めません。あなたが選んだリア・カセットが13-25でしょう? レース用ではありませんからこれでも軽い方です。それでも最初は14か15でヒーヒー言うのが目に見えていますよ」
「そうなんですか……」
「これも慣れですよ、慣れ。何より冬木の街乗りなら、センターとインナーで十分です」
そんなものなのか。
そうしてお店を出て、バス停まで一緒に歩いた。お姉様は自転車を押している。
「あなたはジャンルが偏っていたとしてもエルの知識があります。そこがあなたの強みであると同時に、その偏りが料理や今回の自転車で感じた違和感になっているのですね。そして何より経験がありません。これからあなたが自分でそれを学んで行くしか無い訳です。できれば、それを喜びと感じて欲しいですね」
そうか、なるほどだ。それがエルお姉様やエルヴァお姉様の願いだったんだ。これから私は、私だけの体験をして行くのだ。そう考えれば何だかワクワクして来た。
「自転車だけではありませんよ。弓道もバイクもクルマも、これから体験する事はすべてあなただけの世界ですよ」
ハッとしてお姉様のお顔を見た。的前で正射必中を目指して練習している部員を見ていた時と同じ優しいお顔。
私は思わずお姉様に抱き付いた。この方が姉で良かった。心からそう思った。
「暑いから離れて下さい」
お姉様はシビアだった。