7月14日の水曜日。
昨日は特に何もなかった。あったとすれば銀行からお金を下ろして自転車屋さんに残金を支払ったくらい。
イリヤちゃんとクロエちゃん達は短縮授業に入ったので、美遊ちゃんを誘って庭で遊んでいた。部屋のルビーはゾウケン君の頑張りで解析が完了。注文していた呪体も本日届くし、足りない宝石もルヴィアさんから入手済み。明日には再起動できるだろう。
荷物の受け取りを帰国されたオーギュストさんにお願いして、私は学園に向かった。バスに乗ればいつもの通り桜が居た。横に座り小声で話す。
「おはよう、先輩今日も?」
「おはよう。ううん、わかんない。今朝会っていないんだよ」
「ええ! まさかとっくに出ている?」
「それが……自転車は置いてあって」
そう、今朝の私はお姉様と会っていないのだ。朝食は済まされているので、早起きは相変わらずだが、学園に向かった気配がないのだ。練習に遅刻なんてされる方ではないだけに、急な体調不良だろうかと心配になる。
お姉様も私も生理は軽い方だけど、ぼちぼち始まる頃だ。お姉様の周期を掴んでいる自分に呆れるが、下手に遠慮をせず、お部屋まで伺うべきだったと後悔した。
そんな悶々とした気分で弓道場に入れば、お掃除をされていたお姉様が苦笑いで私達に視線を投げ掛け、顎で射場を指した。
なんと戸板を開け放った射場では、袴姿のイリヤさんが床磨きをされていたのだ。あの弓道着は投影だろうか?
「おはようございます、先輩。イリヤさんが何故?」
道場でお姉様はご法度だ。だからお姉様を先輩と呼ぶ。
「おはようございます。今朝も一緒に走ったのですが、すると今日はアルバイトが休みだから、弓道を見たいと」
「あららぁ」
イリヤさんはアーチャーの能力を再現できるだけでなく、その一分霊の残滓を小聖杯に持ったまま英霊となった。私達との会話は不可能だが、イリヤさんとは意思疎通ができるようで時々独り言のように話されている場合があった。
「懐かしがられて?」
「本人の興味もあったと思いますね」
煮沸室からシュンシュン音がする。美綴部長でなく衛宮先輩だ。四人ともかなり早く来ていたのだろう。だって私と桜は示し合わせて30分早いバスで来たのだから。もしかしたら始発で来たのかも知れない。
「おはようございます、先パイ」
「おはよう、桜」
「あの、あの方は?」
「うん。一緒に走っていたら、弓道部を見たいと懇願されてさ。知らなかったよ、イリヤさんも弓をやってたなんて」
そんな会話が煮沸室から聞こえたが、一体何時に走っていたんだ? そもそもあの人は弓道は知らないはずだ。そこであの人の胸に睡るアーチャーの存在を思い出したのだ。だけど弓という言い方ならアーチェリーとでも説明したのかも知れない。
掃除を終えても、弓は美綴部長が来ないと引けない。私は一昨日射させて頂いたが、1年生の的前デビューは本来今日からなのだ。4月に入部し基礎運動に体幹運動を指導され、執弓(とりゆみ)や射法八節を学び、ゴム弓を引き、素引きを繰り返し、徐々に必要な弓具を揃え、巻藁指導まで行くのが6月頃。そして7月の試験が終わった後の2回目の練習。毎年この日に1年生が初めて、的に向かって矢を射るのだ。
ゴールデンウィーク明けから的前に立って弓を引けたのは、桜のような中等部からの弓道経験者に限られる。彼女はああ見えて地味に上手い。四射中二射は確実に中てている。伊達に1年生のホープとは呼ばれないのだ。
普通は四射中一射が中たれば良い方だ。2年の先輩の中には、初めて的に中ったのが射位から射初めて4ヶ月後だったと仰る方もいる。それくらい難しいものなのだ。
それに後方から見れば、どの方の矢も山なりに飛んでいる。限りなく真っ直ぐに見えるのは、女子だとお姉様と遠峰先輩、そして美綴部長くらいなものだ。私のもヘロヘロ~と上に飛んで、ヒョロヒョロ~と落ちて的に中たっている。そんなものといえばそんなものなのだが、少し情けない。
高速カメラで捉えればどんな名人の矢でも山なりになるのは知っているし、ライフルの弾でもそれは同じで重力とはそれだけ大きいのだという事も頭では理解している。それでも女子の遠的組の矢は真っ直ぐ飛んでいるようにしか見えない。後輩心理かな?
やがて部長や顧問の先生とコーチがいらした。美綴部長は遅刻でなく、お迎えに出ていらしたのだ。
見学者としてイリヤさんが紹介された後、お姉様達3年生が、私達1年生2~3人にお一人の割合で付いた。全員雪駄に履き替える。雪駄と下カケに足袋は入部の際に買う必需品だった。
私達1年生は弓と矢を持ち、これから矢道に降りるのだ。そして5メートルくらいの距離から的を射る練習をする。この練習の意味は安土を越えないためだった。
28メートルも離れるとほんの少しの手元のブレで、安土を越えて場外に矢が飛び出る場合が想定される。こうなると大変危険だ。なので5メートルの距離で矢が纏まるまで、先輩方から個別に指導されるのだ。
弓道もアーチェリーも、ピストル射撃やライフル射撃と同じ殺傷能力のある道具を使う。だから安全確認と安全を確保する行動が求められる。先輩方も口が酸っぱくなるほど念を押されている。当然といえば当然なのだが、皆んなここは真剣だ。
「弓手をしっかり意識して! 先輩が見ているからと緊張しちゃダメよ」
「お前もだ。緊張し過ぎて、握り込んでるぞ。そうそう、それで良い。いつもの柔らかい手の内で良いんだ」
「矢所が前に行くのは最初は仕方無いわ。とにかく矢を纏めましょう」
矢所が前とは、矢が的の右に飛ぶ事をいう。理由は七つくらいあるらしいが、一番多い原因は弓を強く握り込んでしまって、角見(ツノミ)が効いていないからだ。和弓は親指と中指の輪の中で支え、親指の根本で角見を効かせ射るものなのだ。
これをしないと矢は右に飛ぶ。それは和弓の構造上どうしようもない事だ。だけどこれを知り、これを覚えないと上達しない。
もう少し詳しくいうと、手の平の親指と人差指の間、その親指側の根本を角見という。この部分を右斜め前、天井から見れば反時計方向へ少し押す意識を持つ。こうして弦が戻るチカラを反時計方向へ方向づけてあげるのだ。その結果が弓返りだ。
つまり弓を落とさない程度に握る必要はあるが、弓返りを殺すほど握り込んではいけないという事だ。弓を学べば、角見、虎口、天文筋、掌根といった、普段使わない手の平の部分に対する名詞が出て来る。だけどめげずに、それぞれがどういう働きをするのかを覚えないと正しく弓は扱えない。
そしてその手の内の──手の使い方や指の使い方は、その昔は秘中の秘で奥義だった。だから『手の内を隠す』とか『手の内を明かす』という言葉が残っているのだ。
「今年は多いなぁ」
「1年生が誰も辞めてないんだよ」
「らしいな?」
「それでも男子は何人か辞めたろう?」
「それが一人も」
3年生男子先輩の会話だ。弓道は華々しく見えるかも知れないが、初心者にはハードルが高く厳しい。弓具を揃える金銭的な面もそうだが、身体をしっかり造らないと先に進めないからだ。
なのでゴム弓引きで大半の1年生は音を上げて辞めてしまう。やっと弓を持たせて貰えても、弦を引くだけの素引きが待っている。
実際に矢を射る巻藁まで行けば、少しは我慢も報われるのだが、的に向かって射るのは7月に入った今日からだ。これでも早い方らしく、他校だと9月に入ってからという弓道部もある。
だからどこの弓道部も入部希望者の半数は辞めるものと考えている。なのに今年は誰も辞めていなかった。
「エルヴァさんのお陰よね?」
「うん。あの人が自分も新人だからって、1年生と一緒になって草むしりや的張りを頑張ってくれて」
「色々、相談にも乗ってくれているらしいね?」
「1年生が本当に楽しそうなのよ」
「一人だけ経験者だからって、逆の意味であれこれプレッシャーがあったと思うけれど、間桐さんも固さが取れて自然だわ」
「だよね。美綴さんも衛宮君も楽だと思うわ。男子まで引っ張られて雰囲気良いもの」
「私は悔しいよ。もっと早くあいつと出会っていたら」
「薫……」
「スランプにならなかったって?」
「メンタルの問題だから、スランプはあったと思う。けど、もっと早く抜け出せたろうなぁ」
「う~ん」
3年生女子の先輩方だ。
「先輩、見て下さ~い」
「ああ、ごめんごめん」
お姉様、凄いな。
「周りを見ずに、一つ一つをチェックしながらマイペースで射て御覧なさい。弓道も再現芸術ですよ。あなたが今まで学んで来た事を再現するだけです」
お姉様だ。誰だ、ラッキーな1年女子は。気になってそっちを見ようとしたら私の番になってしまった。頭を切り替え、ゆっくりと引分ける。エキスパンダーを目一杯左右に引いて、身体をその真ん中に分け入れるイメージ。
通常、人は右利きが多い。だから左手(弓手・押手)を使わず、右手(馬手・妻手・勝手)だけで弦を引こうとしてしまう。それをそうではないと身体に覚えさせるための練習道具がゴム弓なのだ。私はゴム弓免除とされているけれど、自室にはゴム弓を置いていて、勉強や研究の合間に肩凝り解消策として毎日引いている。
大三からググ~ッと引っ張ると肩甲骨の裏の凝りが解れる。実はこれを学園に入る前からやっていた。アサシンを引き連れ海外に出た時もやっていたのだ。そのゴム弓はエルお姉様を通してイリヤお姉様が私のためにと、こちらに居る時にご用意下さったものだった。きっとあの方達はこうなる未来を予測されていたのだろう。
私は無心に射た。四射とも中白に皆中。まぁ、この距離だしね。
「やりました! 先輩!」
「ほらね。そんなものですよ」
あ、あの子も皆中か。小躍りしている。手取り足取り教わったのか。羨ましいやら恨めしいやら。いかん、いかん。
そして二周目に入ろうかという時、桜に声を掛けられた。
「エルマ、何をやってるの? あなたと私は免除だってば」
「へ?」
「こっちに来て、2年の先輩方と素引き練習よ。お手洗いにでも行ったのかと思えば矢道にいるし」
多忙な美綴部長が伝え忘れたらしい。私は桜とともに控えの土間で素引きを繰り返した。この後、2年の先輩方が巻藁をみて下さった。
「エルマは残心が綺麗だね」
「巻藁でも的前でも変わらないね。中たったかどうかが気にならないの?」
「それは気になりますよ。ですけど正しい射型を、正しい順序で行い、正しく再現すれば答えはいつも同じだからと。後は風など外部の影響だから、自分がキチンとできていないと、どのくらい補正すればいいのかわからなくなる、とエルヴァ先輩が」
「それを家で聞けるんだから羨ましいわ」
「よく言うわよ? そのアドヴァイスにメンタル面は考慮されないの?」
「メンタルですか。心は自分だけのものだから、自分でコントロールする他はないって仰いますね」
「はぁ~、エルヴァ先輩だなぁ」
皆さんの中でのお姉様の評価はカンストというか天元突破していた。だって4月半ばから始めた人が7月現在で初段なのだから。
顧問の先生も藤村先生も二段以上は確実で、コーチに至っては礼儀も体配(作法)も申し分無し、年齢的に無理だろうけど実力は大学生の四段を越えているとまで仰っている。
しかも的中率が異常だ。調子の悪い時でも一の黒か二の白で、普段はそれが試合であっても中白を外さないのだ。メンタルが並ではない。
五段のコーチのお師匠様が教士で七段なのだが、この方がお姉様の事を耳に入れ、一目見ようと遠的の試合に来て下さった事があった。そしてご覧になられて、唸られたのだ。
少し横道に逸れるが、遠的の的は1メートルと大きいけれど距離は60メートルと遠い。なので近的より狙いを上に定める必要がある。
この狙い方には、大三から持って行く方法(一引き)と、近的と同じ方法で会まで持っていき、腰を切って狙いを変える方法(二引き)の二通りがある。教本では前者が正しいとされているが、後者の方法が狙いやすい。
これは誰でもそうだと思う。特に近的と遠的の両方をされる方ならなおさらだろう。基本同じ射型で通せるのだから。
だけどお姉様は、弓道の場合であるならば必ず大三から持って行く。そして実戦でフェイルノートを使う場合なら、大三前の打起しから狙いを付けていらっしゃった。
そんなに多くの場面を見たわけではないが、それは狙う標的が100メートル先であろうが1000メートル先であろうが関係なしだった。きっと狩猟で培われた技法なのだろう。
そしてもとの話だ。お姉様はその先生がご覧になられている前で、得点的の中央金色(黄色)圏に、連続して四本の矢を刺したのだ。
先生が唸られたのはお姉様の腕前に対してだけではなかったと思う。そこに纏める精神力と胆力、そして観ている人を高揚させる気迫のこもった射に唸られたのだ。
これは勝手な想像だけど、七段の教士の先生であろうと八段の範士の先生であろうと、戦場に立って弓を引いた経験は無いだろう。ましてや普通の高校生なら特にだ。
だけどお姉様はそれを何度か体験されている。この差だと私は思うのだけれど、どうだろうか?
常在戦場という言葉はあるけれど、誰も日々そこまで気を張って生きては居ない。交通戦争という言葉があるのに、交差点で左右を確認する高校生は皆無に近いだろう。だからこそ武道を学ぶ事に意味があると思う。
そして弓道だ。私は、正直八割方陸上部に入るつもりでいた。だけど振り返って考えたのだ。どちらがよりお姉様のお考えを知る事ができるかと。そして入部するにあたり、様々な本を読んだ。直接お姉様にお尋ねもしたし教わった。
そこである事に気付いた。ホムンクルスの血を引く半分機械みたいな私達ならいざ知らず、衛宮士郎さんはどうしてあんなに巧いのかと。
『弓に弦を張って準備をしている時に、今日は外れないってわかってしまう事があるんだ。メンタルとか調子とか、全てが揃ってしまうのかな? 何? ゾーンに入った? ああ、そうだ、そんな感じだ』
衛宮先輩の言葉だ。正確には衛宮先輩と1年男子との会話の一部なのだけど。質問はどうしてそんなに中たるのか? そこから発展していった会話の一部だ。このゾーンという言葉が耳に残った。
弓道は真面目に2年続けても、的中率が50パーセント行けば良い方の難しい競技だ。道具が進化しアーチェリー・パラドックスを克服した──きちんとした手順を踏めば的にそこそこ中たるアーチェリーではない。
旧態依然の上下アンバランスな弓を現代も引き続け──アーチェリー・パラドックスを自分で補正して射らなければならない、とことんまでストイックな個人競技が弓道なのだ。
確かに現代の和弓では天然素材の竹でなく、グラスファイバーやグラスカーボンが広く使われている。戦国時代が舞台の大河ドラマでも、使われているのは節もない、のっぺりしたグラスファイバー弓だったりする。それくらい普通の人は、いや番組制作のプロデューサーですら知らないのが和弓の世界だ。
それはともかく、素材が現代のものに置き換わっても、昔ながらの手法で射るのが弓道だ。左手(弓手)の角見を効かせるのも、引分けから会までに右手(馬手)が若干捻られるのも、このアーチェリー・パラドックスの補正に他ならない。だから、射た後に弓返りするのだ。またこれができないと耳や頬、女の子なら胸を弦で払ってしまう。
そして2年以上弓道を学んでいる3年生の方々でも上位の人は、衛宮先輩の話していた『ゾーン』を体験されている。練習で53連中したとか、前回の試合から62連中しているとか仰られる先輩がチラホラいる。
衛宮先輩という人は、聞くところによると高等部に上がってから僅か2回しか外していないそうだ。それも練習中だけ。大会や試合では必ず皆中なのだった。
並行世界の同一人物が弓の英霊に至るのは、その天賦の才能があってこそだ。魔術師としては、どうしても固有結界に目を奪われるが、本当の凄さはその弓の腕前にあると私は思う。
並行世界の衛宮さんはその属性と起源から剣に惹かれていたが、衛宮先輩にそれは無い。だから才能が活きている。発揮されている。これは美遊ちゃんのお兄さんにしてもそうだ。この二人は聖剣の鞘に毒されていない。弓を続けて欲しいと思うのは私だけでは無いだろう。
対するお姉様のそれは、何かが違っていた。腕前という意味のレベルは衛宮先輩と変わらないと思う。だけどステージというかベクトルというか、狙っているものが違うように感じる。そう、次元というか領域が違うのだ。
この次元は三次元の上の四次元という意味ではない。領域と言い換えた方に私の真意がある。例えるならこのホシの法則と火星の法則が異なり、英語とドイツ語が異なるような。そんな違いだ。
目に見える事柄だけを並べるなら、まず入部以来、的から外していない点が上げられる。お姉様にとって、28メートルなら中白以外は外れなのだろう。
元々60メートルから70メートルは離れた動態の獲物の眉間や心臓を狙う人なのだから。武器を持つ相手の腕を貫き、サーヴァントや黒化英霊を倒して来た人なのだから。
だけどそんな事は美遊ちゃんのお兄さんにも、きっとクロエちゃんにもできる事だと思う。問題は、この器用な人が英霊のチカラを一切使っていない点にあった。
言葉に上手くできないけれど、学んで磨いたり培って来たもの、それがある条件下では英霊に匹敵すると言うか。英霊の能力を省いても、元々この人はそういう人だったのだと思えてしまうというか。
要は究極の一を幾つかのジャンルで持ち合わせているのだ。この天に愛された人は。だから、遠的の一番内の円の中に全矢を納めても、ケロッとされていたのだ。
そんなお姉様が1年生の指導を終え、射場に戻られた。他の3年生や1年生も矢を取って戻って来られた。
「では暫く休憩! 水分補給をしっかり。その後1年生は2年生と交代して素引きだ。先輩方から受けたアドヴァイスを思い出し、一つ一つ意識しながら的があるつもりで弓を引く事。2年生と3年生のレギュラーは三的使って交代しながら、本番のつもりの三人立てで一人20射。残るメンバーは空いた的前で交代しながら自分の射を高めて」
さすがに暑くなってきた。特に矢道に居た3年生と1年生は汗だくだ。お姉様は冷えたタオルと凍らせたお茶を持参されていた。いつ用意したんだ? 昨夜から?
「エルヴァの弓が観たいのになぁ」
イリヤさんだ。2年生がゴム弓を引かせたらあっさりだったので、先程まで私達と同じく素引きや巻藁をされていたのだ。
「エルヴァさんのご親戚でしたよね? 以前いらしてくれたお姉さんのイリヤスフィールさんにそっくりですな?」
「ええ、母親同士が姉妹なので似てますね。名前も同じなんですよ」
「あなたも弓を?」
「私は洋弓です。それも自己流ですよ」
「どうです、一度和弓を射てみませんか? 素引きを見た限り大丈夫そうですし」
「そうですね。練習のお邪魔にならなければ」
それでコーチの薦めもあり、イリヤさんが的前に立つ事になった。場所は左端で上座の反対。私が初めて射た場所であり、レギュラー外やお姉様達遠的組が練習に使っている場所だ。壁の鏡は閉じられている。
レギュラー外の部員が見守る。これは以前、イリヤお姉様が射たのを見て感動した部員が多いからだ。ひょっとしてこの人もと、皆んなが考えてしまうのだ。実情を知っている私もドキドキした。
お姉様はご自分の弓と矢を差し出された。ユガケと胸当ては既に着けられている。ユガケは部の備品だが、下カケはお姉様の予備だった。そして基礎的なレクチャーをされた後、跪坐で後ろに控えられた。何かあった場合に即座に立てるようにだろう。
あ、今気付いた。先日は薄手の馬乗り袴だったのに、今日は行灯袴だ。矢道練習だとわかっていたからだね。
キッと的を睨むイリヤさん。実はここは想像。だって控えに居る私からは、的に向かうお顔が見えないから。けれど弓道的にこの物見は不味いだろう。
足踏みは一発だけどやや狭い。胴造りの体配も作法とは全然違う。弓構えなんて最初から物見をしているだけに何か変だ。けれど頭上から糸で釣られたかのように身体の芯は真っすぐで、両肩のラインも腰も足の位置も歪んでいない。
おもむろに打起しから大三へ一気に向かう。これで弓が真っ直ぐ上がっているから不思議だ。
「I am the bone of my sword.」
誰にも聞こえない程の小さな呟き。これは聴力を強化していたので聞こえた。
この瞬間から道場のマナが渦を巻いてイリヤさんに集まって行った。誰も気づかないと思ったが、衛宮先輩と遠峰先輩が振り向いた。このお二人は魔術師では無いが、未遠の血を引いている。勘というより本能で気付いた感じだ。
宝具でも放つのか? お姉様がそのままにしているので大丈夫だとは思うが、一体何を?
そして八節を続け、引分けに持って行かれた。この時、空気までがイリヤさんに集まって行く気がした。試合が近く練習に集中していたであろう、今まさに神経が最高に研ぎ澄まされている男女のレギュラーメンバーが、ここでギョッとされた。
衛宮先輩や遠峰先輩に、美綴部長、その他何人かのレギュラーは手を止めて、とうとうこちらに来た。それくらい放つ気が凄まじい。
誰にもわからないだろうが、目のチャンネルを切り替えると、磁力線のようにマナやオーラがイリヤさんの足から頭に向かって取り巻いているのが視える。
会に至り、弦は極限まで張り詰めている。なのに身体も手もブレれず、ただ自然に離れるのを静かに待っている。おそらく見ている人全員の頭の中では既に離れているだろう。そんな長い長い会。あ、蝉が鳴いていない……。
余りの事に対処できない。この緊張に耐えられない。いよいよ私も床に手を付きそうになった。
そんな途轍もない長い会の後に放たれた矢は、カーンという物凄く大きな弦音(ツルネ)を立て放たれた。キンやキーンではない、パシャッとかカシュッとかでもない。
どこまでも伸びやかで道場に響き渡る、澄み切ったカーンだ。もっと小さな音で遠くから聞こえたなら、鹿威し(ししおどし)が落ちたような清涼な音と思えたろう。
だけどそれは道場の天井にこだまして、超新星の放つ最後のパルスかのように私を襲った。耳に入る音はカーンでも、細胞レベルで感じる音波は、ホムンクルスのこの身体にはキツ過ぎた。私は踏み止まらないと意識を失いそうだった。
弓の上下、弦を掛ける筈(弭)を削り出した残りの部分の弦側を関板というが、弦音は矢を放った弦がそこに当たって鳴ると言われる。だけど今のはそうではなく、戻ろうとする弦が空気を引き裂く音のようにも感じた。
お姉様みたいな紫電を放つかのような気迫の矢では無い。大きなお城の何十もの部屋を隔てる襖を端から端まで一気に貫くような矢だ。
会に入る時に、少し気負っている気はした。だけど岩を砕くとか、盾すら貫いて敵を倒すような矢ではない。
放たれた矢は、どこまでも真っ直ぐ飛ぼうとする矢だと感じた。三十三間堂を水平に飛ばせるような矢にも思えた。これはイリヤさんの心だ。なのに、見失った。見失ってしまった。
この弓道場は安土の裏が竹林で人は入れない。だから矢道の途中に矢よけのネットなどぶら下がっていない。だから視界は良好だ。なのに飛んだ矢の行く末がわからなかった。霞的からパーンという音もしない。
ただ……中白のど真ん中からいつの間にか、ワープしたかのように黒尾羽の矢羽が生えていた。目を凝らせばお姉様らしい赤い矢筈も見えている。あの大きな弦音は的中の音も重なっていたのだ。お姉様とイリヤさん以外の誰にも飛ぶ矢の軌跡は追えなかっただろう。
二射目もカーンと道場に音が響いた。もう全員がイリヤさんの一挙手一投足を見逃すまいと集中していた。だけど二射目の矢も離れた瞬間から見えなかった。消える魔球か? どこだ? どこに飛んだ? まったくの行方不明だ。
「どこだ?」
「どこに飛んだの?」
顧問の先生とコーチ、それに部員の全員が首を捻っている。『まさか』と言ったのは遠峰先輩と衛宮先輩だ。
「あ~もう。矢羽とシャフト、傷んだかな?」
お姉様だ。え? と思ったら、中白から生えた矢羽に隠れて見え辛い、数ミリもずれていない場所に穴が空いているのを強化した目がやっと捉えた。なんと的を抜け、安土にめり込んでいるのだ。
イリヤさんはお姉様の弓具を傷めたくないので、強化して使ったらしい。サーヴァントは最低でも常人の10倍は身体能力が向上するとか。18キロの弓が百数キロはあったのかも知れない。どんな剛弓だ。
「アインツベルンさん、どこだかわかるかな?」
「ええ。甲矢の矢羽の隙間を抜けて安土にめり込んでいるのだと。土の固め方が甘かったのかも知れませんね」
「え~~~~っ!?」
お姉様がコーチの疑問に答えられた。先生のみならず、皆んなが驚いている。当然だろうなぁ。
ああ、と感嘆の声を漏らしたのはやはり遠峰先輩と衛宮先輩だった。お姉様がこのお二人を高く評価されるのが良くわかる。弓返りしたまま残心していたイリヤさんが、お姉様だけに聞こえる小さな声で仰った。
「マズかった?」
「少し……」
少しじゃなく思いっきりやり過ぎだ。全員が集まっていたので、お姉様は頭を下げ矢を取りに行かせて欲しいと申し出た。そして許可が出たので、矢取り道から的場に向かわれた。看的担当の人に合図を送られ、安土に出られた。
雪駄の赤い鼻緒と白い道衣が、青々とした夏の芝生に映える。暗くて見えづらい安土で黒い袴が影に溶けた。が、的を外されると、やはり安土から二本目の矢羽が生えていた。
これまた身体強化を掛けたお姉様が二本の矢をスッと抜き、安土を均して霞的を設置し直し戻られた。こうする事であの辺の安土が柔らかかったのだと錯覚させるのだ。
「良かったぁ~、矢が無事で」
カーボン製で高いんだよね、お姉様の矢は。羽も本物の大鷲の尾羽根らしいし。イリヤお姉様が秘蔵している矢は尾白鷲の石打なのだとか。
石打は尾羽根の一番外側の羽で、一つの個体から二つしか取れない希少品だ。しかも尾白鷲はワシントン条約で売買禁止となっている。となれば希少品の中の超希少品だ。なので羽だけで数十万の値打ちがあると知識の中にある。
そんな条約に実は大鷲もリストアップされているので、お姉様のこれも大概なのだ。弓具店の店主の秘蔵品を譲って頂いたらしいけれど。
ま、あの店でお姉様はジュラルミンの矢から始まって、数ヶ月の間に何セットも矢や弓を買われている。先日も試合のために遠的用のカーボン矢を揃えられたので、近的練習にもカーボンを使われるようになったのだ。
皆んなジュラルミンの安い矢なのに。だけど先輩方は曲がらなく強靭なカーボン矢の方が後々お得だと口を揃えて仰る。
私も入部にあたって、道衣と雪駄にユガケと下カケ、そして矢筒と矢を先に揃えたのだが、その時にお姉様からカーボンを選びなさいと言われていた。だけどお金の問題でなく、ジュラルミンの方が何となく飛ぶイメージが私にはあったのだ。本当は羽根の方が重要なんだけどね。
ちなみに弓は借りられても、矢とユガケは自分で揃えろという弓道部がほとんどだと思う。漢字で書くなら弓偏に世に木で弽だから案外と覚えるのだが、読めと言われると悩むのがユガケだ。
鹿革で作られたこれは、使う内に手の中で育つ。育ったユガケは何物にも代え難い。だから『カケ替えの無いもの』の語源となったそうだ。
そんなお話を聞かされていたので、ユガケは奮発した。手形合わせで、5万くらいするものを選んだ。高校生にしたら頑張った方だ。
でも大正解。手に馴染むし、部で使うギリ粉との相性が良い。離れが良いというのか、悩まないのだ。道具で楽をできるならそれに越した事はない。店長さんのお薦めだったが、蓋を開ければお姉様も遠峰先輩や美綴部長も同じユガケだった。
なお左手の手の内に使う滑り止めの粉を筆粉というが、こちらはギリ粉と違い使う人と使わない人とまちまちだ。お姉様は全然使わない。また遠峰先輩は筆粉でなくイカ粉というイカの甲を削った粉を使われていた。手汗や肌の乾燥などは個人差があるから、これまた人それぞれなのだった。
私の矢はジュラルミンで矢羽は白いターキー。矧ぎ(はぎ)糸はピンクにした。桜はピンクのもっと薄い桜色にしている。下カケと同じで皆んなこういうところで自己主張しているのだ。矢筒はお姉様がワインレッドで、私と桜のはピンクだ。
また、矢を揃えたのは持っていないと備品の矢で練習させられるからだった。桜に聞いていたが、備品の矢は歴代の初心者が使って来たので、微妙にシャフトが曲がっていたり、羽にクセがあって真っ直ぐ飛ばないものが混ざっているのだとか。
これは巻藁矢も同じだと聞いていた。なので私は矢だけでなく、鏃(矢尻/板付)と羽が専用の巻藁矢も揃えていた。自前の巻藁矢を持つ1年生は、今のところ男女併せても私と桜だけだ。
その前に弓道着の1年生が私と桜だけなんだけど。とはいえ、2年生以上は全員弓道着だし、矢筒の中に七本目として巻藁矢が必ず入っている。
さっきのでお姉様の矢は矢筈が欠けたみたいだけれど、ここは交換できる。赤い矢筈も元々のアイボリーから交換されていたのだ。これは練習の時に自分の矢だとわかるようにだった。試合の時はアイボリーに戻す人もいる。中には何十個もの矢筈を買い求め、自分の弓の中仕掛けとぴったり合うように個体を選ばれたり、調整されたりする人もいる。とかく弓道をされる方は真面目な人が多いと思う。
イリヤさんがお姉様に謝っていた。加減が本当にわからなかったみたいだ。矢筈が欠けるほどだから、中仕掛けや弦も駄目になったようだけど、お姉様は笑っていて怒っていない。
イリヤちゃんと同じで元々天然気味な人だし、憎めない人なのだ。結局二射で下がり、先生方と話されていた。おかしな爆弾発言が無い事を祈ろう。
練習もたけなわの頃、交代で矢を射ていた先輩方が締めにお姉様に射て欲しいと申し出た。快く承諾されたお姉様が本座から射位へ執弓の姿勢で進み的前に入った。この段階で歩き方や弓の構え、体配への気配りが違う。
「やった。やっとエルヴァの弓が観られるね?」
「弓というより射ですよ。それと静かに」
「は~い」
イリヤさんは……。けれどお姉様は全然気にせず、的前では昇段試験と同じように座射から始められた。跪坐で右に90度回る時の弓が上に向いてカッコいい。細かな事を遠峰先輩が2年生や1年生に解説している。後輩達に体配を見せて下さっているのだ。私も食い入るように見詰めた。
替えられたばかりの予備の弦の中仕掛けを確かめるように、二本持った矢の、甲矢の矢筈を手の内に隠すようにして番えられた。
もう一本の薬指と小指で挟んだ乙矢は甲矢と水平に揃っている。肘も真っ直ぐ横に伸びて綺麗だ。立ち上がる時も矢筈は隠している。
これは神棚や審判席のある上座の方から、不細工なところはお見せしませんという礼儀なのだ。最初に射る甲矢の羽が時計回りなのも、そちらが羽の表側だからだ。
目線はいつも体の正面、足踏みで足元を見たりしないで一発で決める。弓道部では二足でなく一足の足踏みが基本だが、お姉様は左足を右足に寄せず、ピタリと毎回同じ矢束の幅と60度の角度を出す。
一度弓の本筈(本弭/もとはず)を左膝に立て、乙矢を馬手で抜き、腰に添えられた。
この時に普通は顔が的に向くのだが、足踏みが完璧なお姉様は絶対に正面からお顔を動かさない。審査の時はキチンとされるそうだが、こういう場合は絶対にお顔を動かさない。多分、この段階で真っ暗闇になっても、的のどこかには中たるのではないだろうか。
この小さな間の後に胴造りだ。両肩を結ぶ線、腰の左右を結ぶ線、両足の土踏まずを結ぶ線が全て水平で、正中線と直角になって三重十文字が整っている。
弓構えも滞りがない。流れるように自然で、取懸けもごく自然。弓手はいつもの場所を既に握られている。
その弓手はタマゴを握られているかのように指が柔らかいが、上向いた親指と中指が作り出す輪は弓を絶対に離さないと思える。きちんと掌根で弓を掴んでいるからだ。ここでやっと物見(的に顔を向けて確認)に入られる。
物見ができたら打起しは前方45度。弓手と馬手の間隔は矢引きと同じ。弓手で寝ている赤ちゃんを横腹を、馬手で脇を掴んで高い高いするようなイメージ。だから手首は柔らかい。すると弓は真っ直ぐ天井に向かって上がって行く。
大三(押大目引三分一)で手の内が凡そ定まった後、弓手は的に向かって軽く中押しするだけ。ここで手の内が完成している。勿論引分ける時の馬手の肘も重要だ。
この射法八節はとても大切なので、お姉様もノートにメモを取っている。この大三から引分けに関するお姉様のメモにこうある。『シェ~を決めつつ、変身する気持ちで』『おサ~ルさ~んだよ~』……何が何だかよくわからない。
『矢に両肩の線を近づける』とか、『弓の中に身体を割って入る』とか、『心身弓の合一を目指す』とかの方が私にはピンと来る。
ともあれお姉様の引分けは、末筈(末弭/うらはず/弓の上端、弦輪(日の輪)をかける部分)と本筈(本弭/もとはず/弓の下端、弦輪(月の輪)をかける部分)が、終始綺麗に垂直だ。弓と矢の十文字、弓手と弓の十文字、ユガケと弓の懸口十文字、胸の中筋と両肩の十文字、首筋と矢の十文字、以上を五重十文字というが、会に入るまでも入った後もその五重十文字が崩れないのだ。
会に入れば彫像のように動かない。矢への頬付けと口割りの位置は見事だ。ここは本当に難しいと思う。筋肉や骨格に拠って出来ない人がいるからだ。
西欧人と同じ流線型の頭蓋骨を持つ私達なら、案外と楽勝なのだけれど、顔が丸い人は難しいと思う。引分けまでは誤魔化せても、顔は細くならないからだ。
中には生まれつき90度左に首が回らない人も居る。そしてそういう人の会は決まって首が後ろに反る。胸弦を意識しすぎても後ろに反りやすい。学生の、特に女子に多いと思う。
対するお姉様のお顔は真っ直ぐ的に向いている。そして引き尺も常に一定している。後は『永遠の引分け』から自然に『離れ』るのを待つだけだ。もうこの段階で中るのは見えている。
『無駄な力は矢筋に流す』とか、離れに関しては私のノートにもびっしりあれこれ書いてあるが、お姉様のメモには『クルクルパーになれ』と書かれてあるだけだ。無心になって余計なチカラを出すなという意味だろうけど、何だかなぁ。
だけどお姉様は離れるのを待っていない。ご自分で引き金を引かれ、撃鉄を落とされる。既に頭の中の的には、何十本、何百本もの矢が刺さっているのだ。早気も遅気も関係ない。この場で必要な最適な解が自然と出るまで、見えない矢を放たれているのだ。
始めて射た日の夜に、私は三射目の事を尋ねた。何故教わった通りにしたのに外れたのかと。そうするとお姉様は、こう仰った。『最適な時に離れていないから』だと。
最適な時とは何だろう。最適な解と同じだと思うのだが、何か微妙に違う気もする。ともかくお姉様にとっての離れは最適な時なのだ。ただ、何十本目の矢が最適なのかはケースバイケースだとも仰られる。自然な流れと身体の緊張感が、その最適な時と重なるのが最良と頭でわかっていても、機を自らが作ってしまう自分は未熟だと寂しそうに仰られた。
そんな事はないのに。だって放たれた矢は中白に刺さっている。二射目も連続で中白だ。矢継ぎで矢を傷めぬよう数センチずらされているのがわかるのに。
三射目も四射目も結果は同じだ。それでも拍手を受けるお姉様の笑顔は目が笑っていなかった。まるで残心されるお姿が心残りがあるように思えてしまう。
「弓道は奥が深いんだね? あの子があんなに迷うなんて」
「お姉様は何を迷われているのかわかりますか?」
「弓道は人の道なんだろうね。自然の触覚としての自分が弾き出した答えと、繰り返される練習で弾き出される答えがズレてるのよ。昔の私みたいなアイデンティティで悩むんじゃなくて、こっちで悩むのかって驚きだわ。本当に真面目なんだから」
「それって……?」
「昔、ある人がさ。好きだった弓道を肩に火傷を負ったからって辞めたのよ。でもね、それは辞める機会を伺っていたの。何故ならその人は人を救けるために生きていたから、実戦的に変貌していく自分の弓に疑問を持ったのね。中るのがわかるとか、そんなゾーンの話も言い訳なの。問題は早気だったのよ。それも悩むような早気でなく、中たるという確信を持った早気。わかる? 彼にとっての最適な離れは、弓道から逸脱した早気でしかあり得なかったのよ」
残滓の人の話だ。これはわかる。戦場の弓はそうならざるを得ないだろう。だってそれは本当の意味での早気では無いから。弓道経験者の目線からだと早気であっても、刹那の会はきちんとあるのだから。
そして中たるとは、敵の数を減らし、自らの生を長らえ、自軍を守る最適な解だ。それは弓道では無いけれど、何ら間違っていない。
実戦的な弓術では弓返りさせないと聞いた憶えがある。矢継ぎ早に矢を番えるためだ。だから手首を意図的に返して弓返しさせて、矢の軌道を保ち即座に戻すのだとか。それでも八節はあるし、離れも残心もある。リズムやテンポが違うだけで。
元寇で知られるモンゴルの弓も、矢を右に番え弓返しさせて射る。コンポジット・ボウやホース・ボウと言われるあの短い弓は、威力と速射性と携行性を同時に成り立たせる優れた弓だ。
どんなに威力があろうと、ウェールズやイングランドのロングボウは馬上で使えない。
ヨーロッパイチイやニレの木の芯材と辺材の境目から作られるロングボウは、最低でも弓力40キロ以上で、70キロが普通だったとも言われる。
よって百年戦争でのイングランドは、貴族の没落で台頭してきた自由農民(ヨーマン)を給金で雇い、娯楽を禁じ弓兵に仕立て上げた。
彼らは左腕や左胸が異常発達し、左右の体格が異なるほどだったという。普通は弦を引く方の右腕が太くなると思うのだがロングボウは逆だった。
そして和弓だ。ロングボウと並ぶ長弓なのに、馬上でも引けるこの弓の存在は、重鎧に身を固めた騎士の歴史しか知らない欧州人には驚きだったろう。だって私が一番驚いているのだから。勿論、戦場で使われた和弓と弓道の弓は強さも威力も違ったと思う。
「けれどエルヴァのはそんなレベルをも越えているの。自然との調和が既に成されているのよ。だってさ、生まれついての自然の触覚なんだもの」
言われてみればそうだ。お姉様も私もイリヤさんもホムンクルの血を引いている。だから記憶力が良い。身体が一度覚えた型は、寸分違わず毎回再現できる。風邪でもひいて体調が崩れない限りは。それが私達だ。
そして自然との調和。これに関して私は劣っている気がする。だって私にはユスティーツァ様の声が聞こえないからだ。ここが作り物なのだろう。それはさておき。
「誰よりもあの子の方が正しい場所に近いの。その正しいところへ皆んなが切磋琢磨して向かっているのよ。だけどそれは、ただの人には一生理解出来ないし至れない境地でもあるのね。ところがそこに最初から一番近いのがエルヴァなワケ。つまりあの子の前には誰も居ないの」
そうだ。そういう事になってしまう。それがお寂しいのだろうか? なにか今更な気がする。
「でもさ。同じイリヤスフィールでも私はあの子の実の姉では無いわ。だからあの子の苦しみをわかってあげられても、手を引いてあげられないのね。エルマ、この世界ではあなたがそれをしなければならないのよ?」
確かにイリヤお姉様は長年弓道を嗜まれている。そして同じ自然の触覚だ。だけど……。ああ……やっとわかった。エルヴァお姉様はそれにプラスして、英霊の、アーチャーのチカラまで持っている。その矛盾だ。矛盾というかそれが余計なのだ。
弓道に於いては余計なものは要らないとされる。お姉様にとっては、英霊のチカラこそが余計で邪魔だったのだ。その自分ではどうしようもない事に悩まれていたのだ。
そしてイリヤさんは真逆で、英霊のチカラを受け入れている。それは自然体だからでなく、それが自然だと割り切れるからだ。だけどお姉様にそれはできない。その天賦をボーナスやギフトやラッキーと受け入れられない。
そのチカラはお姉様にとってはインチキなのだ。実の姉のイリヤお姉様をも越える才能を、御本人はインチキだと考えていらっしゃるのだ。
だから自然の触覚としては劣るけれど、その分普通の人と変わらない私がお姉様の指標というか目印というか、そういうのになるのか……。う~ん……。
だけど、元から才能があり努力を惜しまず、それを工夫しながら継続させる事ができる人に、一足飛びで常人の前を走り抜けられる能力は、それはタダで貰えても確かに余計なお世話だろうなとは思う。
むしろお姉様の本来の才能を曇らせ、足を引っ張っているところがあるのかも知れない。
だってその英霊が人だった頃の能力値が十なら、お姉様は千や万の単位だ。元の人を腐す積もりは無いけれど、求めて得た技能が余りにも違う。英霊の能力を手に入れて常人の十倍になろうが百倍になろうが、ベクトルの違う能力は邪魔でしかない。それにお姉様にしても義兄を恨みたくは無いだろう。だから黙っているのだ。きっとそこなのだと思う。
カードを受け入れる事は、エルお姉様から分かれたエルヴァお姉様には生きるために必要な事だった。これはクロちゃんやクロエちゃんも同じだ。
だけど、アクシデントの結果だったクロちゃんと違い、クロエちゃんの時は選択肢があった。それでもお姉様がアーチャーのカードを選んだのは、ご自分が先人として導けるからだろう。もしかしたらだけど、クロエちゃんが一人前になれば、お姉様は弓を置くお積もりなのでは? そんな事は無いと思うけれど……。
「ほぼ正解。クロエちゃんの事もあるけれど、自分の納得できる型……射だっけ? それができなくなれば、あの子はいつでも辞めるだろうね。覚悟とかでなく、けじめとして。それを心に留め置いているから、ああいう射ができるのよ。だってあの子は本気で弓道が好きになっているから。胸の人が言ってるわ。辞めないで欲しいって」
本気で好き……。イリヤさんの言葉がずっと耳に残った。
練習を終え、更衣室に入ると乙女の香りがプンプンだった。今日は特別暑かったし、1年と3年は炎天下に居たからなぁ。
こういう場合に一際香るのはお姉様と私だ。芳香体質なので匂い立つのだ。悪臭ではなく、花のような香りなのでギリギリセーフだと思いたい。
「うっわ。これ、エルマの?」
バレてるし。同じ1年でも、私や桜のD組と合同で体育を受けるC組女子に弓道部員は居ない。またD組の弓道部員は私と桜だけだ。つまりこれは今日初めて知った誰かの声なのだ。
辛いなぁ。桜がチラチラ私を見る。
「これ、何?」
「アインツベルンせ……じゃなくて、エルヴァ先輩と同じで芳香体質って言うんだって」
「ああ、挙体芳香ってやつね? 確か中国の三大美女、香妃、楊貴妃、西施もこの体質だったとか」
「へぇ~、羨ましい」
羨ましいですか? 代わってくれるなら代わりますよ?
「これは大人になっても残るから珍しいんであって、強弱はあっても子供の頃は誰でも持っているものなのよ」
「え~と?」
「赤ちゃんがミルク臭いとかさ」
「あ~」
「食べ物に左右されると言うわね?」
「そうそう」
2年の先輩方だが、さすがにお詳しい。それに珍しかっただけで、不快な思いをさせたわけではなかったのだと安心した。実は桜が心配して手を握ってくれていたのだ。だから大丈夫だよと微笑んであげた。
私やお姉様のこれは、ホムンクルスの血を引くが故の人為的な側面が多大にある。それも人によればキツい香水みたいな場合もあるので、お手洗いの香水みたいだと笑えない。
エルお姉様の記憶だが、この体質で悩んでいるメイドが居たのは事実だ。それでエルお姉様が汗腺などを治療してあげ、体質を変える薬品を処方していた。
アインツベルンで鋳造された女の悲劇とも言えるが、これが何故か胸に小聖杯を入れると無臭になる。イリヤお姉様が匂わないのはそのせいだった。ところが二人に分かれたイリヤちゃんとクロエちゃんは若干バラのような香りがする。あの子達はそういう観点からも不思議な存在だった。
私は沈丁花の香りを薄めたような匂いだとお姉様は仰る。そう嫌な香りではないと自覚しているが、やはり気を使ってしまう。対するお姉様は桃や林檎にレモンを足したような、甘い香りの中に柑橘系の爽やかさが含まれる香りだ。
ノインのお祖父様の調整らしいが、お傍にいるととても美味しそうに思うのは私だけでは無いだろう。良いなぁ。
弦を外し弓具の手入れを終えられたお姉様が、更衣室に入って来られた。ピーチレモンの香りが辺りに漂う。誰もがスンスンと鼻を鳴らしうっとりしている。これが真逆の酷い臭いだったら悲劇だが、結果はご覧の通りだ。
「エルマ、カケを出しなさい」
お姉様は私のユガケに木綿の小袋を入れられた。
「なんですか、これ?」
「中に備長炭が入っています。この状態で干しておくと良いですよ」
そうか湿気が多いから。陰干しだけでは足りないのか。手汗もかくしね。勿論下ガケは持って帰って洗うし、予備とローテーションしている。けれど周りを見れば、皆さん木綿の小袋をユガケに入れられていた。
先輩から受け継がれる知恵だが、今年の備長炭は箱でお姉様が寄付したのだとか。知らぬ間に影でこういう事をする人だった。
お姉様が袴を脱ぎ、道衣をはだけられた。美味しそうな、爽やかな香りが一際匂い立つ。Tシャツを脱ぎ、上向いた素敵な胸を圧えていたスポーツブラを外し、汗を拭き、普段のブラに付け替えられる。
「そんなに気になるなら、留めて下さい」
へ? ポニーテールの輪ゴムを外しつつ、お姉様がこちらに背中を。御髪の香りがまた……。この香りはフェロモン入りだろうか?
本能の赴くままに抱き付きそうになったけれど、何とか堪えた。ああ、ブラを留めろって事ですね。あ~、驚いた。
「留まりましたよ」
「ありがとう」
ブラの形を整えると、制汗スプレーをされてからキャミを着て、ブラウスを羽織られる。寄せないでも形が美しく張り出すのは何故だ?
次に足を通したスカートをたくし上げるお姉様。なんと艶かしくお美しい所作なのだ。そして毎度の事だが、スカートで隠しながらショーツを穿き替えられる。何人かの女子もやっているが、お姉様も運動後は穿き替えられるタイプだった。
「エルマ? 足袋も脱がず、裸で帰るのですか?」
「あ? いえ……」
見惚れていた私はブラとショーツのままだった。慌てて汗を拭き、無臭の制汗スプレーをしてブラウスを羽織りスカートを穿いた。
ところで私とお姉様はスプレーに無臭タイプを選ばないと、匂いが混ざってとんでもない事になる。悪臭でない分マシなのだけれど、運動の後は気を使う。仕方ないけど、お姉様の香りで恍惚とされている先輩方を見てしまうとね。
ポニーテールにしていた髪を緩めて梳かし直した。その後、サイドアップにしてバレッタで留めた。運動後なので項(うなじ)を出さないと暑いんだよ。
弓道着は折り畳んで持ち帰って洗濯だ。
「エルマ、袴を貸しなさい」
「はい?」
お姉様に袴を取られた。
「何か問題が?」
「いえ。高校の弓道部ですからそれでも良いですが、見ていて下さい」
そう仰って、60センチの竹尺をロッカーの上から手に取られた。ソーイングセットの箱がロッカーの上にあるのは知っていたけれど、竹尺って?
するとお姉様は袴の下三分の一を竹尺を使って折返し、次に上三分の一も同じように折返された。ここまでは私達もやっている。竹尺こそ使わないが、こうやって持ち帰るのだとお姉様に教えて頂いたからだ。
他の人も帯や道衣のたたみ方ともども、袴のたたみ方を先輩の誰かから教わっていると思う。でないと持って返るのに困るからだ。
違ったのはこの後だった。正確には紐の処理。袴には二種類のたたみ方があって、この紐の処理が違うのだそうだ。
『石だたみ』と『出世だたみ』というそうだが、その両方を披露して下さった。要は前の二本、後ろの二本、計四本の紐を見栄え良く結ぶだけの話だ。
なんだそんなものかと言えばそんなものだ。だけどそこに拘り、粋に見せてこその武道だと思う。お姉様は剣道や合気道もなさっていたのでご存知だったのだ。
「審査の時にこんな出来上がりの袴を出して身に着けると気分が乗りますよ。何より周りの人が一目置きます」
1年生も2年生も皆んな身を乗り出して、突如始まったお姉様のたたみ方教室を見ていた。
「次回の審査までに覚えると良いでしょう。和装の本などに載っていますから各自研究してみて下さい。わからなければ、またお教えしますから。とは言え、普段はこんなもので良いですよ」
そう仰って、ご自分の袴を上下三分の一に折り、紐は縦の折り目が付かない程度に折りたたみ、その後は適当にくるくると巻いていった。
「男子は練習用の袴も馬乗り袴で、必ず腰板がついています。ですから私達みたいにくるくる巻けません。その代りとてもたたみ方が上手い人が時々居ます。がさつそうに見えて侮れませんよ?」
そこで別の先輩の声が掛かった。
「エルヴァ先輩の仰る通りだ。道着に限らず身嗜みはキチンとな。だから各自、更衣室から出る前に胸のリボンをちゃんとするように」
後から来られた美綴部長だ。これを1~2年生だけでなく、上級生の3年生にも言わなければならない。前年度部長だった遠峰先輩がスランプに陥ったのは、こういう細かな心労が祟ってだとお姉様が仰っていた。私もそうだろうと思う。
だけど色んな武道で揉まれてきた美綴部長は、こういうのに臆さない。部長に選ばれるには、こういうところも大切なのだ。
ちなみに1年生でリボンを手結びにしている人は少ない。たぶん弓道部では私だけだと思う。桜も簡易型のゴムベルトタイプだ。
去年から留め具がもっと簡単なワンタッチ式に変わったそうだから、手結びのリボンは私達の学年で終わるかも。人は便利な方へ流れるからね。
だけど手結びの方が洗いやすいし、アイロンも楽ちんだ。簡易型は洗わない人が多いのでくすんで見える。桜はどうも2~3本持っていて、ローテーションしているようだ。
そしてその桜の左側の髪には、並行世界で凛さんがあげたというリボンは無い。持っているのかいないのかも知らない。そもそも彼女は弓道に熱心なので、髪に無駄な飾りを付けたりしないのだ。
また、コダワリさんなのか髪のアレンジを良くする。お姉様やクロエちゃんもこの髪型アレンジ大好き少女だ。逆に凛さんやイリヤちゃんはアレンジをほとんどしない。
いや、最近のイリヤちゃんはしているかな? クロエちゃんの影響だろう。
凛さんは登校する場合、ツーサイドアップばかりだ。これには理由があって、日本人離れした細面なので、髪型でボリュームを出さないと制服とバランスが取れないからだ。これも個性だろうね。
現に私服の時は下ろされている事が多い。ただ師匠の凜さんはいつでもどこでもツーサイドアップかツインテールだ。ご両親が揃っているのであの人の方がお嬢様なんだよね。
一方、ルヴィアさんと私は時々思いついた時にしている。特にルヴィアさんはあの、左右に一つずつ、後ろに四つの縦ロールがデフォなので、下ろすかサイドに纏めるかとパターンが限られている。
あの髪型はセットするのに、メイド三人で毎朝一時間は掛かるらしいよ?
以前は美遊ちゃんが一番うしろの束の係だったとか。それを覚えるためにあの子も数回この縦ロールをしていて、ルヴィアさんがその写真を大切に持っていたりする。黒髪縦ロールで、青いドレスを着た美遊ちゃん。あの写真は可愛い。
ともあれ、春頃は部活以外だと下ろしていた桜の髪も、今はずっとポニーテールが多い。私もサイドアップかポニーテールが多いので似たり寄ったりかな。
対するお姉様は、サイドアップやツインテールだけでなく、凛さんと同じツーサイドアップや複雑な纏め髪にされる場合もある。三つ編みに五つ編み、七つ編みの日もある。別に曜日で結び目の数を変えたりはしないけれど、学園でも午前と午後で髪型が変わっている事が何度かあった。好きなんだろうね。
そこまでは行かないけれど、夏場の女の子は髪型がコロコロ変わるので見ていると楽しいものだ。特にプールのあった日なんかは、それでその子のオシャレ度が一発でわかってしまう。
着替え終わった2~3年生は、射場の控えに数台ある扇風機に群がっていた。冬場のハロゲンヒーターと同じく、こんなのにも3年生用や2年生用などの暗黙の決まりがあったりする。1年生はそこらにある団扇だ。差し入れはだいたい女子の先輩。だから1年生も文句は言わない。
蚊取り線香も虫除けスプレーも、更衣室の制汗スプレーや消臭グッズにトイレの消臭剤や汚れ防止の置くだけのや、便座シートも……全部全部、気付いた先輩が買って来て置いているのだ。ここが女子の団結力に繋がっている。
快適グッズは部費で出ないんだよね。出ても常識的な金額だ。でも女の子ならあの日もあれば、辛い日もある。だから普段は少しでも快適に過ごしたい。トイレットペーパーも柔らかいペーパーを使いたい。
この差額が先輩方の持ち出しなのだった。そしてそれは私達も2年、3年となれば繋いで行かねばならないのだ。『繋ぐ』っていう字は『絆ぐ』とも書けるのだよ。知ってた?
一方、恐ろしいのは男子のトイレと更衣室だ。トイレなんて衛宮先輩しか掃除していないのではないだろうか? ぶら下がったタオルは真っ黒で何年前からあるのか不明だと皆んな話している。
紙もトイレットペーパーでなく安いちり紙だとか。ちり紙ってあれだよね? ロールじゃないハナ紙とか、おとし紙って呼ばれる楮紙(こうぞし)。それ、水溶性じゃないから流れないよね?
そもそも女の子は誰も男子トイレに入った事が無いだろうし、見たこともないと思う。だいたい女子は男子トイレと男子更衣室には近づかないもの。
それでもムカデが壁を這っていたとか、ヤモリが天井付近に張り付いていたとか、開かずのロッカーや誰も使いたがらない個室があるとか、ろくな噂を聞かない。
そしてあるあるネタが、『呪いのカケ』や『死の弓』や『安土のお裾分け』などの怪談。この『呪いのカケ』が男子更衣室の開かずのロッカーにぶら下がっているらしい。誰か卒業生が忘れていったのがそのままなだけの気もするし、開かないのにどうして中にユガケがぶら下がっているとわかるのだ?
『死の弓』は昔人身事故を起こした弓が残っていて、それを持って神棚から数えて四番目の的前に立つとやばいという噂話だった。矢場と引っ掛けたネタらしいけど、何故かその弓がこれだというのは先輩方は皆さん知っていたりする。
そしてこれから弓を持つ1年生がその弓を手に取ると、上級生が全員青褪めるのだ。今日それがあって、エ~ッってなった。あれは辞めて欲しい。マジで怖いから。だって、素引きでイリヤさんがそれを引いていたんだもの。
もっと嫌なのは『安土のお裾分け』だ。看的から安土に向かえば、安土の上にネズミのバラバラ死体が時々バラ撒かれているそうだ。犯人はこの辺に生息する野良猫だろうと思うのだが、先輩方は死んだネコの呪いだと言う。
その昔、行射中にネコが矢道に入って、会に入った人が射殺してしまって、ネコを安土に埋めたのだとか。それを弔うために仲間の野良猫がお供えを安土に置いて行くのだそうだ。
射殺したのは嘘だと思う。仮に事故があったのなら、もっと詳細な話が残っているはずだ。何より安土になんか埋めないと思う。それなりに違う場所で埋めるだろう。けれど、バラバラなネズミは今でもあるらしい。
きっと人が居ない時間帯に野良猫の通り道となっていて、雨宿りに使われたりもするのだと思う。となるとその死骸を処分しなければならないのは人間だ。それも看的の指導を終えた1年生が担当だ。秋からだろうけど、本当にイヤだ。
そんな私の気持ちも知らず、お姉様は扇風機の前で「あ~」とか言ってる。どうして人は扇風機の前で声を出すのだろう?
「お風呂屋さんに行ったら、先輩みたいな人が居たりして」
「そうそう、それで腰に手を添えて、牛乳を飲むのよ」
「いや、そこはコーヒー牛乳でしょう? エルヴァ先輩はコーヒー党だよ」
「どうかなぁ。私はフルーツ牛乳だと思うな。家の冷蔵庫がフルーツ牛乳だらけだったりして」
「それであの香り?」
「そうそう」
お姉様はこんな風に後輩から親しまれていた。普通ムッとすると思うのだけれど、全然気にせずニコニコされている。
お姉様がそんなだからか、女子はフランクな先輩が多いと思う。
そんなお姉様の胸元のリボンが、扇風機の風で揺れて隣の人の鼻に当たった。くしゃみをしたのは遠峰先輩だ。
「夏風邪?」
「違ぇ~よ! お前のリボンが鼻に当たるんだよ!」
「不可抗力です」
「わーってるよ」
どれだけ顔を寄せ合っているのだ、この二人は。せっかくの可愛いパフスリーブが潰れてるよ。そもそもお姉様は袖の膨らみを毎朝摘んで整える人なのだ。
それが気にならないほど遠峰先輩とは仲が良いのだろう。3年生の笑いで2年も1年も笑っている。私も笑ってしまった。
そしてお二人の仲は一方通行では無かった。スランプから脱した遠峰先輩は、同じクラスという事もあって、脱する切っ掛けを与えてくれたお姉様をとても信頼している。
信じられないのだけど、以前の遠峰先輩はもっと厳しく近寄り難い人だったそうだ。それがお姉様の編入後どんどん変わられ、わかりやすい親しみのある人になったのだと桜に聞いた。お姉様効果は抜群だな。
そんなお姉様は、何度か遠峰先輩のお宅にお邪魔していた。これが桜のケース以上に珍しい事だったらしい。それは美綴部長と遠峰先輩の前の世代の部長と副部長以外、これまで誰も伺った事が無かったからだ。
人付き合いの悪い人としても有名だったと聞いている。部活の後の買い食い程度は付き合ってくれても、喫茶店などの飲食店にいくら誘っても遠峰先輩は来なかったそうだ。
とはいえ、試合の打ち上げには来られるそうなので、人間嫌いという訳でも無いらしい。家が厳しいのかなと思えば、ご両親は気さくな人で、普段は食堂派でお弁当を持たないそうだから、金銭的な事でもないのだとか。
なら何故かと言うと、この方は市の弓道場に通われていて、コーチの弟子でもあったのだ。だからこの後も別の場所で練習を続行されるのだ。この練習が週に4~5回はあって、小学生の頃から続けているそうだから、誰よりも弓道に真面目に向き合っている人なのだった。それをお姉様が5月の終わり頃、皆さんにバラしたらしい。
遠峰先輩は当初勝手に人に話すなと少し怒っていたらしいけれど、恩人に文句も言えない。しかも時間が経てば人間関係はスムースになるばかり。そこでご自分の至らなさに気付いたそうだ。
4月の半ばに編入した人が、7月上旬の3ヶ月弱のここまでで、これだけ部の女子を変えてしまったのだ。1年生が誰も退部していないのもそうだけど、影響力が半端ない。
ただ不思議なのは、お姉様と遠峰先輩は随分と性格が違う。やる事なす事、真反対な場合も多い。例えばお姉様は極端に矢数の少ない人で、締めの四射を除外して八射もしない人だった。多い時で十二射だ。試合形式の練習でも四射な訳だし、むしろ体配の方に気を配ってらっしゃるくらいだ。
『こんなに矢数が少ない人だとは思わなかったな。後輩だったら大変だ』
『矢数を増やせって怒鳴るか?』
『怒鳴ってしまえば私が悪者ですよ。結果が出ていますから』
『そこだよ。居るんだな、ああいう奴って。以前、父親に聞いたんだ。ゴルフの話なんだけど、何年もコースに出なかった人が、誘ったら数年ぶりにコースに出たんだと。2~3回素振りしただけで、昔と変わんないスコアでハーフを上がって。後半は昔より上手くて過去最高のスコアだったんだと』
『どういう事です? あれも日々クラブを振らないとスイングが乱れるんじゃ?』
『うん、私も父もそう思っていたんだ。けど、まぐれでなくそういう人は時々居るらしいんだ。前半で思い出し、後半は昔の自分に足りなかった部分を工夫していたんだろうな。何より久々のゴルフが楽しくて仕方なかったそうだ。それで考えてしまったんだ。そりゃ、その人のタイプもあるだろうけど、練習に飽きたりするのはまだ良い方で、倦んだり弓を嫌厭するようになったら悲しいだろう? だから、スパッと一旦離れるのもアリなのかなって』
『難しいですね。それまで続けていた練習を休むって』
『その拘りというか、休む怖さがスランプを長引かせたと思うんだよ。エルヴァはそういう弓と関わる距離を知ってるんだと思う。あいつ、ヨーロッパでは滑車の付いた弓で狩猟をしていたんだろう? そこで確実に獲物を殺すためには、研ぎ澄まされた集中力がなければ無理だと思うんだ。そこにあるのかなって』
『農耕民族と狩猟民族の違いですか?』
『うん。だからあいつはあの矢数で十分練習になっているんだろう。それに一射一射の気持ちの込め方が違う。それだけ集中しているんだ。だから練習になるんだと思う。私は今の矢数を減らせないけど、気持ちの込め方は参考になる。この辺の話は、他の武道もやっているお前の方が詳しいだろう?』
『そうですね、そうなのだと思います。おまけに部の雰囲気を盛り立てる人ですし。先輩で良かったですよ』
『フフ……同学年が良かったと最初は言ってたのに』
美綴部長と遠峰先輩の会話だ。確かに扱いに困る人だよね。
一方、遠峰先輩は日曜以外は一日百射はこなす人だった。人それぞれとはいえ、こんな風に両者は極端だった。
男子の先輩方の何人かはまだ袴姿で、濡らしたタオルで体を拭いていた。それは良いけれど、更衣室外での上半身裸は辞めて頂きたい。
それでなくとも男子の半袖の道衣は、脇が空いているので困るのだ。脇毛チョロチョロな人が時々居てね。女子のように下にTシャツでも着てくれれば良いのだけど、試合か昇段審査でもない限り着ない人ばかりだ。
え? 女子も夏はTシャツを着ないだろうって? 着てますよ。襟から出ないように白いVネックを中に着ています。夏場でも黒いTシャツで揃える学校は多いし、秋春は穂群原も黒Tシャツだ。けれど夏や公式試合に昇段審査はVネックと決まっている。
これは袴もそうだ。着物には馬乗り袴というキュロットみたいなズボン型と、行灯袴というスカートみたいな袴が男女ともにあるのだけど、武道の場合は通常馬乗り袴に限られる。
だけど弓道に関してのみ女子は長年行灯袴が多かった。それが連盟から馬乗り袴が好ましいと発せられ、最近はどこも公式試合では男女とも馬乗り袴になって来たのだとか。
とは言え、穂群原では練習中に限り女の子の行灯袴も許されている。勿論、昇段審査や試合での使用は厳禁だし、本来の馬乗り袴と同じく色も黒限定だ。結構身嗜みに厳しいのですよ、我が校は。
そして私が今着ているのも黒い行灯袴だけれど、基本ロングスカートなので生地さえ選べば、馬乗り袴よりは涼しい。微々たるものだけど。何よりお手洗いが楽だ。冬場だと特にそうだと思う。
その冬場には長袖の黒い高機能インナーを利用する。ミソは登山用を選ぶ事。某ヒート何とかは汗をかくと寒いのだ。さっきも言ったが、弓道場は吹きっ曝しだからね。だから真冬は馬乗り袴にされたり、足袋の中に薄いカイロを貼り付ける先輩も多いらしい。寒いもんね。
だけど長袖(七分袖)の道衣は、真冬でも許されない。冬でも半袖で黒いインナーの長袖を出す。これは弦で払わない(引っ掛けない)ためもあるが、高校生らしい若さの演出と弓道着代を少しでも浮かすためだった。
その証拠に、先生やコーチが指定する女子の道着は、下の袴が馬乗り袴だけなのだ。行灯袴を持っている人は自分で買いに行ったか、親しかった先輩に譲って貰った人ばかりだ。
このように女子は道衣の下に必ずTシャツを着ているし、ブラも着けている。更に上からは胸当ても着けるので、胸の谷間に汗が流れるのだ。
肌の弱い人だとあせもになったりする場合もある。だから練習中にTシャツを着替える人や、お姉様みたいにスポーツブラに着け替える人も居る。
理由は普通のブラだと、柔軟運動でホックが外れたりするから。大三から引き分ける時、肩甲骨がグッと寄るんだよね。あの時に外れると、女の子の精神は会とかどうでも良くなる。悲しいかなイリヤお姉様の実体験なのだとか。
だから私もお姉様の助言通り、スポーツブラを持参している。さすがにお姉様みたいに2枚も用意したりしないけれど。
そのお姉様は運動後にショーツも穿き替える人なのだ。何かと凄いが、体育の授業後とかどうされているのだろうか?
身体は絞られているし、そこまで汗をかかれるタイプではないと思うのだけど。それでも替えるのかな?
それはともかく男女関係なく1年生は体操服がデフォなので、着替え終わった後色々言われた。
「アインツベルンさん、袴が似合うね?」
「そこはエルマで。けどありがとう」
「良いなぁ。私も早く袴を着たいよ」
「ね? 上は体操服で下だけスカートって」
「こら。この格好は丸々体育祭での華の舞だから」
「あ、そうだった」
そう、1年生の女子だけ今日からジャージでなく、制服のスカートが許可される。どこか変ではあるけれど、昔からの伝統らしい。中等部生も女子は基本制服のスカートに体操服だ。
中等部の場合、弓道着は試合に出る選手と、3年生だけなのだとか。
「それで袴を着て来ると、エルマさんみたいに皆んなの前で引けって言われるのよ」
「そうだった。射法八節もバラバラなのに。厳しいなぁ」
「けど弓道着を着るって事は、初心者じゃないって意味だからね」
「そうそう、ファッションじゃないのよ。武道なんだから。エルヴァ先輩も最初は体操服だったじゃない」
「だよね。実力があるから先輩方が困ったんだよね。それで間桐さんが予備のを貸したんだっけ?」
「あれは弓道部見学会の日でしたから。3年生の先輩に恥はかかせられませんよ」
「あれで先制点奪取だよね。間桐さん、めっちゃエルヴァ先輩に可愛がられてるもの」
「ちょっと裏まで来いって感じですけどね」
「よく言う~!」
皆んな大笑いだ。桜はこんな風に話は上手いんだよね。口調が真面目になって、どこか線引きを感じるけれど。
「でも間桐さん、エルマさんに関しては無茶したわね?」
「間桐さん、絶対に引き込むって言ってたものね?」
「だって、私だけですよ? 袴なのは?」
そう、首謀者は桜だった。1年で弓道着を着て来ると、その実力を見せろと無言の圧力が先輩方から来るのだ。それを桜は知りながら、私に道着を買わせた。
実際はきちんと射型を見た上で判断されるし、仮に的前に立たされ全部外れても笑われないしからかわれないのだとか。要は自覚を促す意味なのだ。
何度も言うが、弓と矢は殺傷能力のある武器だ。戦国時代の弓と違い武道用として変化したので、性能は劣っているかも知れないが、ライフルに対する空気銃並には考えても良いと思う。決しておもちゃのエアガンではない。剣道もなぎなたも木刀よりもっと威力の弱い竹刀、或いは竹刀状の先が付く。
弓道とアーチェリーは、免許要らずで武器を扱える武道でありスポーツなのだ。だから取扱いに厳しいし、ふざける事なんか絶対に許されない。その自覚を持った証明が弓道着の着用なのである。
だから先輩方の視線が厳しくなる。その厳しい圧力に耐え、皆中で決めてみせた外部受験組の1年生は、今まで誰も居なかった。例外的に道着を許される1年生は、中等部からの内部進学組だけど、それでも『お試し』はあるのだ。
過去内部進学組でも、皆中した1年生は衛宮先輩だけだった。なのに私が中途編入の新1年生だったから、あれもお姉様に負けず劣らずの快挙と言えば快挙なのだった。
そして先輩方の前で射る事を覚悟して、私は弓道着を着たのだ。それは桜に頼まれたから。1年生で一人だけ道着なのは、気恥ずかしさもあったと思うし、イジメじゃないけれど女の子は噂好きだしね。
何より桜は可愛い。この子は同学年の男子から結構人気があるのだ。つまりそういう視線に晒されてもいたのだ。そしてそういう目線は本人も気付くものだ。それで頭を下げられて、お姉様の特訓を受けての入部だったのだ。
本来、そこを庇うのが彼氏だと思うのだけど、脳天気な王子は白馬に跨がらず、野菜どもに囲まれていた。
「衛宮、お前今日もバイトか?」
と、プチトマトが衛宮先輩に聞く。
「いや、今日は大学生で埋まっていて、俺も休みなんだよ」
「なら、かき氷食いに行かねぇ?」
「良いなぁ」
プチトマトに代わってキュウリが誘う。確かにキュウリに水は必要だよな?
弓道部男子は3年生の一部を除いてダメンズばかりだった。イケメン率が上がったのは翌年以降だ。平均値を上げたのは、美綴部長の弟の美綴実典君と、遠峰先輩の弟の遠峰駿(しゅん)君だった。桜は実典君派で私は駿君派だった。何故この名が出て来るかというと、私と桜が高3になり引退した頃、中等部弓道部の面倒を見てくれていたのがこの二人だったからだ。
「皆んな。見学に来て下さったイリヤさんから差し入れだ。かき氷。一人1コずつだぞ」
「やりぃ!」
「お~!」
ここがイリヤさんだ。お小遣いの出どころはお姉様なんだろうけど。サ○レのレモンばっかり人数分。いつの間にか煮沸室にある冷蔵庫の冷凍室に入れてあったようだ。朝が早かったのもコンビニに寄ってお姉様と運んだからかも。
ここの冷蔵庫が結構大きいのも部員しか知らない情報だ。その代り常設してあるアイスノンとかを放り出したんだろうな。後で戻すだろうけど。
頂きます、ゴチになりますと口々にお礼を言って頂いた。イリヤさんはニコニコして私達を眺めている。学校、行きたかったんだろうなぁ。残滓の人が何を言ったのか知らないし、お姉様と相談されたのだと思うけれど、この後イリヤさんは社会人の道場に通うようになった。
お姉様は遠峰先輩や美綴部長と8月のインターハイについて打ち合わせをされた後、イリヤさんとバスで真っ直ぐ帰った。
私と桜は、いつもの喫茶店でランチを頂きながらトークを楽しんでいた。
「まだまだ覚えなきゃいけない事がいっぱいだなぁ」
「知ってる限りは教えてあげるから。弓道部に誘ったのは私だし」
「今日さ。お姉様が矢を取りに行ったじゃない? あれって普段はどうするの?」
「部長か副部長がタイミングを見て『矢取り、お願いします』って言うから、『出ます』って返事をして出るだけよ。一応1年生の役目だから。安土の均し方や的の置き方も覚えなきゃね。看的もそう。今は2年生が行ってくれているけれど、秋から1年生もするようになるよ。黒板の○×同様、それは説明があるから大丈夫だと思う」
「なるほど。それとさ、後ろにある矢を入れている傘立ては何なの?」
「傘立てじゃないよ。あれは矢立箱と言って、あそこに矢を置いておくのよ」
「だから何で?」
「え、どういう意味?」
「普段の練習の時はわかるんだ。そこらに置けないからね。でもさ弓矢って凶器じゃない。それもあって弓の弦を外して、戸締まりをきちんとして帰るんでしょう? なのに矢はあそこに置きっぱなの? ライフルで言えば弾だよ、あれ。矢筒に入れて鍵付きのロッカーに仕舞ったりしないの?」
「あ~。エルヴァ先輩と同じ事を……。そうだね、ちょっと甘いかも知れないけれど、最後に戸締まりする人が、射場の横の倉庫に入れるの。あの矢立箱はキャスター付きだから」
「ああ、そうなんだ」
「でもね、矢って羽があるでしょう? だから矢筒に入れっぱなしも良くないのよ」
「なるほどね。そういうのもあるのか」
「けど、エルマも矢に凝りそうだね?」
「うん。的を狙うだけなら一番性能差が出るのが弾だもの。弓は自分がライフルのレシーバーになるわけだから、乱れないように、そこも大切だけどね」
「そういう考え方をするんだ?」
何故か桜にウケた。そう考えるのが普通じゃないの?
「ねぇ? 中等部の弓道部員って何人くらいいるの?」
「そうだなぁ。今は十人くらい? 1学年で三~四人居れば良いほうかな? 私の学年は二人だけだったし」
「そうなんだ? 少ないね?」
「そう。それも男女合わせてだからね。やっぱり集中力も続かず、体格的に厳しい中学生には武道として難しいよ。それに始めるにしてもそれなりのお金が必要だもの。市がいくら奨励しても私学の強豪校で無い限り、中等部までは指導の目が行き届かないしね。色々ハードルが高いと思うな。結局高等部でも続けてるのは、私達の学年では私だけだから」
「え? じゃ、桜以外は高等部からなの?」
「そうよ。衛宮先パイの学年でも三人でしょう?」
「誰と誰?」
「男子は衛宮先パイと藤原先輩。それと女子の瀬尾先輩。その上が女子の遠峰元部長と田所先輩、男子の秋月元副部長の三人よ」
共学なのもあるだろうし、高等部で6クラス、中等部で3クラスの小規模校なのもあるだろう。
「そんなものなんだ? へぇ~、美綴部長は内部進学組じゃなかったのね?」
「うん。あの人は外部受験組よ。弓道を始めたのも高校に入ってからなの。それが部長になっちゃうんだから」
「真の武道家だよね?」
「ね? でもエルヴァ先輩に何をやっても勝てないって零してたけどね。今朝の挨拶もアレだし」
お姉様が空手道場に入った理由は、お姉様の影響で2ヶ月ほど前から凛さんが空手を再開したからだ。そこで凛さんとルヴィアさんに誘われて、三人で街の道場に通うようになった。
そしてその道場の師範代がなんと美綴綾子部長だったのだ。当然部長は燃えて、お姉様に組手を申し込まれた。ところがお姉様に一方的に負けちゃったらしい。まぁ、普通の人が勝てる相手じゃないけれどね。
「そう聞くと桜はよく続いたね?」
「諦めが悪いっていうかしつこいというか。それと何となく中等部時代から、自分に合ってるなって思っていたから」
「衛宮先パイが理由じゃないんだ?」
「そう、驚くでしょう? 先パイの射が好きなのも憧れるのも事実だけれど、弓道を続ける理由はいつの間にか弓道が好きになっていたからなのよ」
「へぇ~。中等部生っていつ練習するの?」
「放課後だけよ。この時期は中等部生だけだから気が楽だったな」
「ああ、なるほど。じゃ、冬場は気をつかうね? 高等部生も放課後に射る事が多いから」
「うん。場所を二つ借りれたら良い方かな。人数が少ないから、一つがほとんどなんだ。でも、中等部生は寸詰めで矢勢は無いし、高等部生がいると劣等感ばかりが溜まって。でも、逆も然りでね。ヘロヘロした矢を大会前に見たくないよね? だから朝練が多い夏の時期は、高等部生も朝練だけに集中するのが伝統なのよ」
真冬の朝練は3年生が居なくなる。だけど春から始まる夏の予選や選抜に向けて、1年も2年も頑張らなければならない季節だ。とはいえ、余りにも寒い。辛いだろうな。
その分と言っちゃうと変だけど、夏の朝練は楽しいと言う人が多い。仲の良い先輩方が大勢いるし、何よりその頃がちょうど試合の時期だしね。特にレギュラーはここで一気に団結心が固まる。上手い事できているものだ。
私にしても大好きなお姉様と一緒に練習できるのは、引退されるまでの僅かな期間だ。だからこそ、この時間を大切にしたい。
それに中等部生は部の備品の弓がデフォで、矢とユガケに下カケを揃える子も稀なのだとか。だから自前の弓やユガケまで揃えた桜は本気だと、高等部生から可愛がられたらしい。
それがあるから高等部になった今でも美綴部長や遠峰先輩が桜に優しいのだ。
「内部進学組が中等部生の気持ちを汲むだろうしね」
「そう。皆んな気持ちは同じだよ」
これが体育館やグラウンドを使う運動部なら、中等部専用があるから良いのだけれど、弓道場や剣道場に柔道場はそれ専用の場所になる。なので高等部生と中等部生が合同で使う事になる。だから体格や体力も違う高等部生が中等部生の相手をする事はどの部活でも禁じられていた。精々、模範を見せたりとかその程度だ。
「エルマ、まだ早いけどさ、弓は何にするか考えているの?」
「本当に早いね?」
「いや、だってエルヴァ先輩が弓道を始めて直ぐに弓を揃えたからさ。エルマもそうなのかなって」
「お姉様は学習能力が高いんだよ。だから直ぐに自分の好みとか調べちゃうんだ。と言っても、私も漠然と考えてるけどさ。桜が『粋』だっけ?」
「うん、特作のね。手に合わせてオーダーしたの」
「やっぱり反動が少ないの?」
「う~ん。反動が大きい弓を引いた経験がほとんどないから。一応、値段通りに通常品→特製→特作→別作の順で反動が少なくなると言われているね。中3の時に買ったんだけど、当時の高3の先輩が特作以上なら手に合わせて貰えるから、奮発しろってアドヴァイスしてくれてね。左手の手形をコピーして封書で送って注文したのよ」
中学生の女の子が手形をコピーして。色とかも希望通りにして貰ったそうだから、弓道に関しての桜は積極派だ。
「他に柔らかい感じの弓ってどういうのがあるの?」
「女の子向きっていう意味なら、ミヤタの『CGⅢ』や『CGⅤ』も良いって聞くわね。半ば受注生産だから納期が掛かるらしいけれど」
「『粋』の前は何を使っていたの?」
「前が『葵』の三寸詰め。部屋にあるあれだよ」
「ワインレッドのあれか。綺麗な色だよね。買い替えたのはどうして?」
「『葵』も良い弓なんだけど、三寸詰めだったからね。背が伸びて引き尺が変わってさ。並寸に変えなきゃってなって。色々調べて、当時の高3や高2の先輩方が親身に教えてくれてね」
「あ~、なるほど。じゃ、卒業なさった先輩に『粋』の人が居たのかな?」
「いない、いない。先輩がわざわざ従姉妹の人のを借りてきてくれたのよ。それで、これは引きやすいって思って。そこからよ。北海道に電話して。親切だったな」
先輩のみならずお店の人まで味方につけるとは。この妹キャラは天賦の才だな。けど『葵』は七尺だったんだ?
「中学生って七尺が多いの?」
「うん。1~2年生はどうしてもね。道場にもあるでしょう? 『練心』にもあるし、『翔』もそうだよ」
「『翔』? そんなのあるの?」
「倉庫の弓立てをちゃんと見れば並んでいるよ。それに穂群原は毎年女子の方が活躍するから、柔らかくて引きやすい弓が備品に多いの。『重十弓』や『平安』に、『弘心』とか。その中の『翔』の三寸詰めを中2に上がったばかりの時に引かせて貰ってね。それが気に入ったから、一つ上の『葵』を買ったのよ。他にも『翔』の前の『翎』もあるし、『橘』や『桂』の伸び寸とかも揃っていて、かなり充実しているのよ」
弓道部って女の子がどこも多い。特に穂群原みたいに女子の方が圧倒的に活躍していると、弓揃えがこんな風になるようだ。
ここまで寺内の一文字系があったとは知らなかった。対する小山直心系の『練心』には、並寸、三寸詰め(七尺)、伸び寸が最初から揃っているのだが、見た目はどれもこれも同じだ。それが壁いっぱいに並んでいるので気付きにくいのだろう。
「三寸詰めの『直心Ⅰ』も何本かあって、あれだけは先生の許可がないと引かせて貰えなかったな」
「どうして?」
「反動が大きいのと、矢飛びが良すぎるからって。射型にクセが付くっていうか」
何となくわかる。
「倉庫の弓立てに並んでない弓があるよね? 傘立てに突っ込まれたみたいな弓。あれは?」
「あれも矢立箱だって。それで、あれは初心者向けの古い弓の生き残り。昔は『練心』みたいに数があったのに、生産中止になって修理もできなくて消えて行った弓の生き残りよ。誰も使わないけれど、歴代の先輩があれで練習して来たから、先輩方も軽々とは処分できないの。やっぱり、私なんかが見ても思いが詰まっている気がするもの」
なるほど。そこで私は例の『呪いのカケ』や『死の弓』について尋ねてみた。桜なら何か知っているかなと。
「そんなの決まってるじゃない。触らせたくないからよ。例えばエルマがエルヴァ先輩からユガケを譲って頂いたとするじゃない。普通はあり得ないけど、傷んで買い換えるから前のを強引に譲って貰った事にして。それで他の人に触って欲しくないとしたら?」
何て例えだ。けど理由としてはありそうだ。
「ま、そう言っても開かずのロッカーが謎よね。だから真相は不明。『死の弓』からの連想なの」
「連想って事は『死の弓』には根拠があるの?」
「うん。関係者の一人が衛宮先パイだもの」
「はぁ?」
どういう事だ?
「先パイは中等部の1年生の頃から、高等部の先輩方から筋が良いって目を掛けられていたの。それでお前ならこれを引けるとか、試してみろとか並寸の弓を色々引かされたらしいわ。その中に『練心Ⅱ』っていうのが何張りかあってね。『練心』にⅠとかⅡとかあるのかというと無いんだけど、何故か道場の『練心』の中に『練心Ⅱスーパーストロンググラス』ってのが混ざっていたのよ。ほぼ『直心Ⅰ』のグラスと同じと先輩方が話していたそうで、それを衛宮先パイが引いて覚醒したっていうか」
「ああ! けど部の備品だから、他の人に使わせまいと?」
「そう。高等部なら、『実技』や『楓』って弓力を測ったり素引き用の弓ってイメージがあると思うの」
「そうなの?」
「うん。エルマが入部する前に1年が巻藁に進んで、その時にその二つで測ったのよ。だからあれだけ6キロから15キロまで1キロずつ揃ってるのね。それで弓力が決まれば高等部生は『練心』か『橘』、中等部生は『実技』か『楓』の中から自分の弓力に合ったものを専用として預けられるのよ」
「ああ、そうなんだ?」
それで私はあの『橘』なのか。何となく愛着が湧いて来て、結構気に入っている。
「そう、他の1年生の弓を見てみて。ポスカで弓力と名前が書いてあるから」
「つまり、その段階で中等部生は『練心』が使えないんだ? だから『練心Ⅱ』を、なるほど。けれど、自分で買う分には構わないんでしょう?」
「それなりの実力を持たないと、厳しいよ? 私の場合はそれで自分を追い込んだところもあるから」
「踏ん切りを付けるみたいな?」
「そう、色々あったのよ。けど大体さ、四的目に入ったからってどうなの? 弓道をやっていれば四イコール皆中だわ」
言われてみればそうだ。文化圏の違いで私は元々四を何とも思わないが。
「中等部の1年生の頃の話だから不問にするけど、副部長が何をやってるんだか」
「けどさ、昔からあった手口を真似ただけでしょう?」
「まぁ、そうなんだけどね」
その『練心Ⅱ』は、察するに余った材料の使い回しだろう。ただ上のランクから下りて来たから『練心』より性能が良くて、その分キツいクセもあったのだと。けれど言ってみれば、反動が大きくてクセの強い『直心Ⅰカーボン』に拘る衛宮先輩のルーツでもある訳だ。
「お姉様って最初に何を?」
「先パイには見えたんだろうね。『練心Ⅱ』の15キロを渡したんだって」
「それか!」
「そう。でもエルヴァ先輩は、軽く確かめてから16~18キロに変えてくれってご自分から指定されて。それで3年生の先輩がお持ちだった16キロの『直心Ⅱ』で、あの伝説の皆中よ。貸して下さったのは男子の先輩だけど、かなり落ち込んでらしたわ」
その人が秋月先輩だと知ったのは、もう少し後だった。
「その後に備品の『直心Ⅰ』ね。カーボンじゃなくてグラスの方。17キロだったと思う」
「そんな時期があったんだ?」
「うん。2年生が修学旅行前でバタバタしてたので、3年生の先輩方が選んだらしいわ。けどエルヴァ先輩は、最初あれも衛宮先パイだと思っていたみたい。でも弓がヘタっているからアレってなって。でもあれより強いのは個人所有ばかりになっちゃうし」
「それで弓を買いに行ったのか」
「そうそう」
そうか備品を引いていた頃があったんだ。15キロの『練心Ⅱ』は倉庫だろうから、その後は誰も引いてないのかな?
「弦は何を使っているの?」
「最近『あすか』を試してるよ。手入れは要るけど、15キロ以下は反応が良いと思う。前は『かえる弦』と『千本弦』を試した上で『かえる弦』に決めて、そればっかりだったのね。けど、何か『粋』と合わないなぁって」
部で誰も使っていない弦だ。さすが1年のホープ。色々試しているみたい。
「彼氏は人柱?」
その衛宮先輩が『かえる弦』と『千本弦』なのだ。これがまた、450円と370円で『龍鳴』の350円と並ぶ安さなのに、使い勝手の良い弦だと学生の間では結構知られる弦でもあった。なので使っていたOBやOGも多かったらしい。
部の備品は数年前に『響』に変わったが、今も倉庫の棚の弦が入った引き出しに『かえる弦』や『千本弦』が転がっていた。
「人聞き悪いなぁ。あれはあれで良い弦なんだよ?」
「けど、部の備品は『響』だよね?」
「切れにくいからね。でも、合う合わないがあるから指定じゃないの。それでも2~3年生は『響』率が高いわね」
ちなみに部の備品は、薬煉付きの方の『響』である。薬煉は「くすね」と読み、松脂などに油を混ぜて煮たものだ。弦の補強に使うものだが、『手ぐすねを引く』の語源にもなっている。
それもあって、ほとんどの先輩方がその『響』なのだが、お姉様は一種に決めず並行して三種類くらい使っていた。この頃は『龍鳴』か『飛翔』か『天弓』が多かったと思う。
この『龍鳴』は価格が安い分品質管理に甘さがあるようで、矢飛びが良いという人もいれば切れやすいという人もいた。
そこでお姉様は1本350円のこれを一度に百本買って、解析を掛けて数本廃棄し、30本ほどを部に寄付していた。つまり、A・B・Cとランク分けし、Aは手元に残し、Bを寄付、Cを廃棄していたのだ。
よくやりますねと言えば、『ギターの弦なら6本セットで千数百円から数千円。エレキベースで4本セットが千五百円から三千円。ヴァイオリンなら4本で一万前後。コントラバスだと二万前後ですよ? 五百円以下の弦で、五百射以上望むのはおかしいでしょう?』と、即答で返された。
確かに一射一円はおかしい。それだと22口径のロングライフルだ。それもバケツで売られるバルク品の。つまりそれはレンジでの射撃用でなく、プリンキングという空き缶を狙ったりする遊び用の弾だ。
動態の害獣駆除用にも専用品があるので、武道とはいえ競技でもある弓道の弦がいかに安いかが良く分かる。
そしてライフルの射撃競技で使われる、NATO弾の民生品である.308 winchesterなら、バルク品が500発で350ドルくらいだ。1ドル100円換算で1発70円。300回使えたなら2万1千円。
弓の弦にはそれだけの価値があると考えるべきなのか。そこに矢の値段も入るのだと考えるのか。お姉様なら矢は弾でもありカスタムバレルでもあると仰るだろう。
百本買っても3万5千円。確かに安いよね。
その他の先輩方も──遠峰先輩が『飛天』か『弓神』か、お姉様が譲った選別品の『龍鳴』を使っていたし、秋月先輩が『弓神』と『無弦』、美綴部長は『稲妻』か部の『響』だった。衛宮先輩は『かえる弦』と『千本弦』に、部の『響』を気分でと、上位陣は皆さん研究熱心で随分とバラバラだった。
ユガケが同じなら指先の馴染みも同じと思うのだが、銘柄や職人さんが同じでも使う人が別なら当然育ち方も変化する。また、弦を引く時の感触にも人それぞれの好みがある。それでこんな風にバラけるのだと思う。
弓は楽器だという人の言葉は正しいと私は思う。それは弦音の事だけでなく、弓手の手の内を考えてもわかる。しっかり押すのは弦を引くためだけど、柔らかく持つのは弓の持つしなりと復元力を殺さないためだ。
そして引込みや伸合いを、しっかり取らないと弓が持つ鳴りを殺してしまう。この事は竹弓を使うようになってから実感した。
ギターやヴァイオリンのネックのように、鳴りを妨げない持ち方が大切なのだとお姉様は仰っていた。もっと言うと和弓の弓把が弦の三分の一部分にあるのは二分の一より衝撃や反動が少ないからだが、この三分の一部分は二分の一部分と並んで 分割振動を起こすポイントでもあるのだ。
お姉様はハーモニクスを鳴らすつもりで角見を効かせなさいと仰っていた。二分の一だと1オクターブ(ギターでいう12フレット付近)上、四分の一だと2オクターブ(5フレット付近と、それと対称位置のピックアップ付近)上、三分の一だとオクターブと完全5度上(7フレット付近とそれと対称位置のピックアップ付近)の倍音が出る。
勿論五分の一や六分の一の部分もあって、和弓の弓把は正確には三分の一のやや上を握るカタチになる。弓把の下端が丁度三分の一になる弓がほとんどだろう。そしてその場合、籐頭の辺りが五分の二になる。
実際に分割振動なんかさせれば矢は飛ばないのだが、それでも弦は複雑な振幅を伴い、微妙な分割振動を起こしているのだそうだ。
そして弦の銘柄は、中たりや矢勢とはほとんど関係ないとも仰る。関係あるのは矢伸びの方で、それも弓との相性の方がより大きいそうだ。
また、ユガケやギリ粉との馴染み具合と、ピークの期間の長さの方がもっと重要だとお姉様も上位の先輩方も口を揃えていた。
何百射持ったかでなく、何十射辺りから馴染みが出て、何百射辺りにそろそろダメかなと違和感を感じるのか。そこが大切だと。また皆さん硬い弓をお使いなので、柔らかい弦でバランスを取っているのだとも。
そしてこれがお姉様の理論だが、矢勢を出したいならハーモニクス・ポイントに矢を番えず、角見で弦の振動(弓の復元力)を殺さなければ良いとも仰られていた。
逆に手の衝撃を消したいならハーモニクス・ポイントに矢を番え、角見で弦の振動を殺せば良いのだとも。その場合は矢勢や矢飛びに影響が出る。けれどそれで矢の飛距離を調整できるとか信じられない事を仰りもする。
弓道では弓手の手首を意図的に返す弓返しは駄目だとされる。それは握り込んで弓の振動を殺すからだ。だけど弓返しと弓返りの中間というのがあって、意図的に手首を返す事は可能なのだという。そうして振動を殺さない、手の内があるのだとか。慣れるとその戻ろうとするピークで返えせるので、矢勢がより強くなるのだそうだ。
だけど矢は筈を蹴飛ばされたハンドルのないRRのポル○ェみたいなものだから、弓手の押しで方向性を担保するともいう。
この意味がわからないので何度かお聞きすれば、会から離れに行くと弓と弦の復元力で、弓が僅かながら弓手から数ミリ馬手の方向に下がるらしい。これが直進安定性を殺すのだとか。だから最後の一押しが、筋肉で押すのでなく骨格で押す事が重要なのだと教えて下さった。
矢勢のある伸びのある矢と、矢飛びが良く安定性ある矢。その両方を射る事ができる位置に弓把があるのが和弓の凄さですよと仰るのだ。当時高校生の私はポカ~ンとする他無かった。
だからこの五人は中仕掛けを作った予備弦は勿論、ピークを迎えるまで育てた弦を何本も持ち合わせ、それを必ず試合や審査に持参していた。
こういうのは後輩がしっかり観ているものだ。きっと名も知らぬ、卒業なさった歴代の先輩方も同じだったのだろうと思う。
中でも衛宮先輩は弦を5本ずつ買い求め、弦輪や中仕掛けを作って張り、素引きで良し悪しを決め、弦をランク分けしていた。これは百本買ってランク分けしていたお姉様とスケールは違えど同じだ。この人はそういう人だったのだ。
だから桜も自分なりの弦を探し育てているのだ。
「自分が気に入った引きやすい弓で、しっかり的まで飛ばすだけだよ。28メートル届けば良いんだから」
確かに。獲物を絶命させる矢勢も矢飛びも必要ない。美しい射型で、パンッでなくポスッとでも紙の的に刺されば良いのだから。彼女はこういう風に本質を見極められる人だった。
そんな桜と私はこの高校時代だけでなく、同じ大学の同じ学部へ進学し、弓道も一緒に続けていた。
彼女の弓遍歴は中等部1~2年時代の弓が『葵』。中3から高等部の3年までが『特作 粋』だった。この後高3の終わり頃から、大学1年(1回生)の半ばまで彼女は軽いスランプに入り、弓を出たばかりの『特作 凛』に替えスランプを脱した。運命とは過酷なだけでなく粋な場合もあるようだ。
大学2年生(2回生)時代は『特作 粋』も復活し、『別作 粋』をも手に入れていた。
静かなる武道のイメージとは違って、大学の弓道はやたら煩く感じた。ただ弓道場はいつでも開いていて、コマが無ければ自由に練習できたのはありがたかった。
大学弓道は、東西戦以外は四人立てや三人立てが多い。大前の私、落の桜と試合で活躍したものだ。高校時代は届かなかった全国にも行けた。
弓道は本当に精神力が試される。私と桜が皆中でも、中の子を責められない。高校の部活での五人立てだともっと厳しいものがある。一番つらいのはその子なんだし。
何より『発して中らざる時は、即ち己に勝つものを恨みず』だ。礼記射義の中の一節だけれどこの通りだと思う。誰もが自分と戦っているのだ。
的でもない、骨でもない。自分の脆弱な心を射る。そしてその弱さを捨て去る。それが弓道だと私は思う。
美綴前部長と衛宮前副部長の御指名で、桜が部長、私が例外的に女子の副部長を拝命するのは高2の春だけれど、あの頃から何度泣いたか。お互いが居たから、社会人になった今も弓道を続けられたのだと思う。
23歳の誕生日を迎える年に、私は新卒で穂群原学園の英語教諭になった。初めて受け持った3年B組に、弓道部のエース、クロエ・フォン・アインツベルンが居た。
大学時代はほとんど会えなかったクロエちゃん。私が高3の時に中1で弓道部に入った小さな女の子は、5年経ってすっかりお姉さんになっていた。駿君や実典君に食って掛かっていた、あの可愛い妹が。
そして何故か彼女は前女子副部長で、前部長はイリヤちゃんだった。どうやらクロエちゃんは、イリヤちゃんに部長を押し付けたらしい。そしてもう一人忘れてはならない我が生徒が、美遊・エーデルフェルトだ。美遊ちゃんは相変わらずの和風美人で、彼女の体配や道衣姿は美の一言だった。
そんなトロイカ体制で1~2年生と新部長や新副部長を引っ張るこの子達と全国へ行き、あと一歩で泣いた。
またあの子達を高1から指導し、全国レベルの腕にまで上げたコーチが、当時五段で練士をお持ちのお姉様だった。23歳で日本に戻られたお姉様は魔術や料理研究の傍ら、弓道部のコーチになっていたのだ。これは以前のコーチと遠峰先輩に請われてだったとお聞きした。
その遠峰先輩は大学時代も先輩だったが、個人で全国一になり卒業後弓道家として歩まれていた。お歳を召された前コーチの後任を打診されても受けられなかったのは、弓道家として海外で後進の育成にあたっておられたからだ。それで日本に戻られていたお姉様に白羽の矢が立ったらしい。
これは裏返せば神秘の最先端たる時計塔の講師時代も、遠峰先輩と頻繁に連絡を取り合っていたということだ。ドイツやポーランド、フランスやスペインで弓道を教えられていた遠峰先輩。
そこは日本よりも倫敦から物理的にも、きっと精神的にも近かったのだ。
大学時代は桜も私も四段止まりだった。しかも和服審査でなかったので襷捌きをまともに習った事が無かったのだ。だけどお姉様は倫敦で教士六段の先生に付き、様々な先生を紹介して頂き、錬士五段までお進みになっていた。その先生の紹介で肥後三郎を手に入れられたのだそうだ。
弓道部副顧問としてコーチのお姉様と再会した私は、これをチャンスと捉えお姉様から必死に学んだ。部員が呆れるくらいに学び練習した。だって襷捌きなんて高校生には無縁だものね。女性なのに肌脱ぎの体配までご存知だったお姉様には呆れたけれど。その特訓の御蔭で、現在五段だ。今も練士と六段を目指して邁進している。
そんな幸せな私の弓道人生で初めて選んだ弓は、先輩方のお話も参考にさせて頂いた上で、桜と同じ『特作 粋』だった。当時の桜は12キロのワインレッドで、私のは13キロのワインレッドとブラックのグラデーションだった。ブラック部分にラメが入っているのはご愛嬌だ。
大学では『別作 粋』と『和弓つくり 一萃』に切り替えた。これは桜が『特作 凛』を買った頃だ。『凛』も良い弓だったけれど、何故か私に合わなかった。4年生(4回生)になって竹弓に替えたけれど、『別作 粋』と『和弓つくり 一萃』は今でも引いている。
ちなみに高校時代のお姉様は、18キロの『直心Ⅲバンブー』の並寸(七尺三寸で全長約221センチ)だった。他にも何かお持ちなような気もするが、そこは現段階では不明だった。
ともあれ、後々肥後三郎・松永萬義や松永宣斎などの、薩摩成ニベ弓をお引きになるお姉様の、最初の弓が江戸成のバンブーだったのは何とも面白い。私も蝦夷地と薩摩なので人の事は言えないのだけれど。
そしてお姉様が『直心Ⅲバンブー』を選ばれたのは、弓道部の備品が『実技』や『錬心』だったというのもあるだろうし、歴代の部員が自前の弓に『直心Ⅰ』か『直心Ⅱ』を使っていたので、周囲が直心系で溢れていたからだろうと思う。
何よりこの直心系は、どこの弓道部でも多いと思う。中でも男子は直心系に固まっているだろう。これ以外だと肥後蘇山の何か、或いはMIYAYAの何かだろうか。
『直心Ⅱ』より多少引きやすいからと『直心Ⅲ』を選ぶお姉様は男前過ぎると私は思う。しかも色が側面の木目以外はパールブルーで、飾り籐の部分が凝った模様編みだった。
成も何かシャンとしていてカッコ良かった。つまり最初からあの弓は特注だったし、ご自分で踏ん付けたり、弦を張ったり外したりして育ててらしたのだ。
グラスやグラスカーボンの弓で何をやってんだかだけど、バンブーは名の通り構成材料の一部に竹が使われている。効果があったのかも知れない。
それはとにかくお姉様も私もそうなのだが、身長の割に手足が長いので矢尺が90センチ近い。背が低いのに並寸が軽々引けてしまうのだ。確か矢の長さが二尺九寸と仰っていたから、ミリメートルに換算すれば約87センチだ。
この自分に合った矢の長さをどうやって決めるのかというと、まずは喉仏(正中線)から水平に伸ばした指の先までの長さを計る。これを矢束といい、「やそく・やづか」と読む。これにプラス三寸から四寸足した長さが矢尺、つまり矢の長さだ。
だけどお姉様はその矢尺を矢束と表現される。これは混同しやすいが、本来の束とは長さの単位で、一束で親指を除く指四本分の長さらしい。一束は二寸五分で7.575センチなのだとか。なのでご自分の矢の長さは11束半とも仰られる。
日本独自のヤード・ポンド法である尺貫法でも悩むのに、束なんて単位を使わないで欲しい。だけど物の本には『矢束の事とは矢の寸尺の事也』と書かれてあるのだとか。ハッキリ言って、そんなのは困る。学生は矢束プラス10センチを矢尺にするのが正解だ。
とにかく遠峰先輩も美綴部長も、この頃は『直心Ⅱカーボン』だったりする。それも遠峰先輩は驚きの白で伸寸(二寸伸、七尺五寸で約227センチ)、美綴部長がパールワインの並寸(七尺三寸で全長約221センチ)だ。
衛宮先輩は竹弓のように節の付いた『鵠心』の並寸と、木目タイプの『直心Ⅰカーボン』並寸との二張使いだった。二剣でなく二張。これもお姉様に影響を与えたと思う。
また衛宮先輩の弓は見た目こそ大人しい木目タイプだが、お使いの『直心Ⅰカーボン』は反応が良い代わり、反動が凄まじい事で知られるそうだ。強さも20キロあるし、慣れない人が引くと手首や肘を痛めるのだとか。
そして美遊ちゃんのお兄さんの方の衛宮さんは『直心Ⅱカーボン』の25キロをお持ちだった。この強さを引く人は滅多にいない。
とは言え衛宮先輩や衛宮さんの弓が特別なのは別として、やはり直心系は人気が高い。2~3年生の男子部員のほとんどが木目か黒一色の『直心Ⅱ』や『直心Ⅱカーボン』を選ばれているし、1年生も直心を買うと息巻いている人が多い。
そして女子の憧れ、遠的組の御三方も直心なので、1年女子の何人かは直心が欲しいと話していた。
私個人としては、正直女子にはどうなのかなぁと思う。というのは2年の先輩方も3年の先輩方も、女子で直心を選ばれた人の声は合う合わないの差が結構大きく思ったからだ。
それに遠峰先輩は他に二張弓を持っていて、元々は『鵠心』を引いてらしたと聞いたりもする。こういうのもフィーリングだと思うのだけど、弦のように気軽に換えられるものではないだけに難しい。
え? 大学卒業後の桜? ヒントは……旦那様は竹弓を引く五段持ちで、クロエちゃん達が叔母さんになったとだけ。
なおクロエちゃんにイリヤちゃん、そしてスイスのエルヴァちゃんの三人には、12歳下の妹さんが居て、その小学部の妹さんの担任は藤村先生である事も記しておこう。
また、エルヴァちゃんは高1の秋から高2の夏までの1年間、穂群原に留学していた。何度か見掛けたけれど、大学が忙しかった私は余り話せなかった。
けれど弓道部に所属し、コーチのお姉様から色んな事を学んだそうだ。留学の1年で初段を取ったのだから大したものだと思う。帰国した後のお礼の手紙を見せて頂いた事があるが、ドイツ語以外に日本語で書かれた部分もあったのでかなり勉強したのだろう。
「はぁ~、心配」
「何が?」
「何がじゃないのよ。男子の試合。明後日18日の日曜日なのよ」
「あ~、そうだった。けどさ、衛宮先輩は不動の落じゃん。大丈夫だって。信じているんでしょう?」
「うん、先パイはね。けれど他の皆さんが……」
「それを言っちゃお終いだって。衛宮先輩が後ろにいるから皆さん伸び伸びと自分の射ができるんだから」
「まぁね、そこはわかってるわよ。けど先パイ、良く耐えられるなぁ」
これは他の先輩方を非難しているのではない。他の人が外す中で崩れない衛宮先輩のメンタルを褒めつつも、自分に当て嵌めて心配しているのだ。
裏返せば桜は落に向いていない。本来は後の人に任せられる、大前か二的が向いているのだろう。それでも大学時代、落に回ってくれた桜に私は感謝しかない。
「衛宮先輩は特別だよ」
「あなたのお姉様はその上を軽くハイジャンプして行くじゃない。ああ、エルヴァ先輩が男の人で大前か落だったら……」
タラレバだ。お姉様が男の人でなくとも五人立ての大前か落だったら。その思いは私にもあるし、先輩方皆さんそうだろう。
私も見たかった。落の美綴部長が大前に入り、行く手を示し皆さんを引っ張る。あの人は落でなく大前でこそ映える。きっとそれに答えて中前が続くだろう。次の中が気持ち良い緊張感をもう一度引き締め、落前に繋げてくれる。できればここに遠峰先輩だ。そして落前は遠峰先輩から受け取ったものを引き継いで、落のお姉様に渡す。
お姉様は何も変わらない。何も足さず何も引かず、自分だけの射を淡々とこなす。いつも通りに足踏みを一発で決め、胴造りに入り、大三から引き分けてお美しい会に向かう。
誰もが声が出ない。相手校の選手も応援席もお姉様に目が釘付けだ。離から伸び行く矢は、28メートルがこんなに短かったのかと観ている者に錯覚を起こさせるだろう。
的に突き立ち揺れる矢羽。残身されているお姿は、嗚呼…………。けれど桜、それは口に出しちゃダメだ。
「あれは化け物クラスだから。人間と比べたらダメだって」
「それをあなたが言うの?」
「言わせてよ。プレッシャーが凄いんだから」
このプレッシャーを、私は結局克服できなかった。でも、高2の春から馴れちゃって、楽しく感じられるようになっていた。卒業されて倫敦に行かれた当初は寂しく感じたものだけれど、その思いとは裏腹に私の射は一気に安定した。
これは考え過ぎだと思うけれど、お姉様はそれも狙っていたように思う。だって、クロエちゃんとイリヤちゃんを頼みますと言い残して飛行機に乗られたから。
クロエちゃんは怒って空港に来なかった。そして翌日腫れた目で、見送れば良かったと零していた。素直でないと損するよと話した憶えがある。
そんな子が自分を律し、あれよあれよという間に二段になり、私が担任となった高3で三段を取ってしまった。イリヤちゃんや美遊ちゃんが三段に受かったのは、大学に入ってからだから本当に筋が良い。
家に帰るとお姉様とイリヤさんが昼食を摂っていた。カレーを作ったようだ。
お姉様は制服のままだ。イリヤさんが早く作れと急かしたのでは無い。夏に入ってから、お姉様は制服姿のままが結構多かった。残り少ない高校生活を惜しまれているのだ。
そしてイリヤさんも惜しまれていた。実はイリヤさんのリクエストで、家に帰っても制服のままだという場合も結構あったのだ。御本人も時々制服姿に転身される場合があるが、お姉様や私を眺めるのが好きだとは以前からお聞きしていた。
このお気持ちが心底わかったのは、教師になって3年B組で初めて出欠を取った時だった。窓際の一番前に座る、あの頃のお姉様にそっくりな、けれど少し生意気そうな美少女。職員室までは持ったが、英語教官室で鼻血が出て外国人講師の先生方を驚かせてしまったものだ。
ちなみにイリヤちゃんは3年C組で、美遊ちゃんは3年A組だった。三人とも私が英語を受け持った。この三人の卒業式に着物の袴を着た。泣き顔の私と、すっかり私より背が高くなった、コサージュが可愛い笑顔の三人。その写真は私の宝物だ。
「カレーですか?」
「ええ。夏野菜のトマトカレーです。夜の分もありますからね」
「やった」
「その代りこっちは二回連続だけど、美味しいから許すわ」
「ご自分で作らないのに、その言い草。夜は南京やパプリカ、シシトウなどの素揚げをトッピングしますから。それで明日はカレーうどんとインディアンスパゲッティで良いですよね?」
「何故に最後が名古屋めし? 地味に怒ってる!?」
漫才か。仲良いなぁ。
「で、どうでした、弓道部は?」
「うん、楽しかったわよ。行って良かった。何か見えて来た気がしたわ」
「それは良かったです」
「ええ」
私は食後のお茶を淹れて差し上げた。茶葉はセイロンティーのキャンディだ。同じスリランカ産なら、私は渋みのあるヌワラエリヤが好きなのだが、お姉様はヌワラエリヤならもっと高級な香り立つ茶葉の方がお好みだ。
あちらはセイロン紅茶のシャンパンとも呼ばれ、値段がかなり高い。対するキャンディはキャンディ地方で栽培されるお茶で、ここからスリランカのお茶が始まった。なのでセイロン紅茶の元祖と言えるお茶であり、さっぱりとした風味はアイスティーにとても向いている。
「お姉様、弓を買いたいと思います。とは言え、まだまだ未熟な私には早いと思います。そこで今後の参考のためにお教え下さい。お姉様は何を基準に今の弓を?」
「適度に鈍く、適度に太いからです。反応が早く、細く握りやすいと速弾きしたくなるでしょう?」
「はい?」
「ですからクラシックギターみたいにネックの太い方が練習になるでしょう? エレキみたいにネックが細く、弦が弱いと速弾きになって一音一音までが弱くなるというか。一つ一つの事を大切にしたいからあれにしたのですよ」
伝わって来るし、言いたい事もわかる。けれどその例えはどうなの?
そもそも弓は、フレットレスというより開放しか無い単弦ベースだ。
「弓は性能の割に安いです。3~5万の弓でも7万円のギターを買った以上の満足感があります。7万以上の弓になると10万から20万のギターと同格です。高名な弓師の先生がお造りになられる竹弓などは、スペインのギターやイタリアのヴァイオリンに並ぶ伝統工芸品です。クレモナで今もストラディバリウスが作り続けられているようなものですよ。私見ですが」
思いっきり私見だよ! けど納得できるところが凄い。考えてみれば製作工程が二百を越えるという竹弓が、安ければ数万、高くとも100万以下で買えるのだ。リーズナブルと言えばリーズナブルなのか。
「竹弓ってクロモリなのでしょうね。綺麗なペダリングが学べて、長時間の走行でも疲労が残らない。私はグラスやカーボンの弓もそうであるべきだと思います。何射しようと疲れず、射型を乱さず、良く中たる。誰が使っているかでなく、自分の射に沿ってくれる弓なのかどうか、自分の理想とする射型に応えてくれるのかどうか、そこですよ。強さもそうです。18キロを引けたから偉いのではありません。今の自分に合っていて、疲れないかどうか。試合でも最後まで射型を乱さず引けるのかどうかです」
やっぱり正しい。
「正しい場所に立ち、正しい射型で正しく弓を引く。すると中てに行かずとも、矢は自ずと的に中るものです。結果を求めるのでなく過程を極めて、その結果が後から来る。千射、万射しても崩れぬ射型。雷が落ちようが、犬に噛みつかれようが、絶対に乱れぬ射型。私が求めているのはその境地です。道具に信頼を寄せる、信頼できる道具を使う、これらも大切ですが、信頼に足る道具に育てられるかは自分自身に懸かっています。そのためにも骨格に歪みが出ぬよう、内蔵や筋肉を衰えさせぬよう、食事や運動に生活も見直し、研究して改善せねばなりません」
ちょっ、それ高校生が言う事なの?
「オリンピック級の、世界のトップアスリートは皆んなこういうものですよ。だから頂点を目指す資格があるのです」
だから頂点を得られるのでなく、目指す資格があると仰るお姉様。ストイック過ぎるよ。
「コンパウンドボウかリカーブボウを始めようと考えています」
「へ?」
「いえ、左で引こうかなと。筋肉のバランスが取れるでしょう?」
お姉様……。本当にストイック過ぎだよ。悲しくなってきた。
「ふ~ん、左でね。エルヴァなら左のフェイルノートがあれば、目を瞑っていても1キロ先の的に中るでしょうに。勿論、私もそうだけどさ」
それを言っちゃお終いだ。けれど泣きそうだった私の心はイリヤさんの言葉で現実に戻れた。
「エルマは弓を買うの?」
「いえ、1年の今はまだ早いです。試合に推して頂けるほどの腕前にならないと」
「『錬心』や『橘』を、この子向けに魔改造して投影してあげて下さいな」
「え~と……それは初心者向けの弓よね?」
「そうです。弓道部の備品がそれなので」
「フフ、既成外にしちゃうんだ? やってあげようか? 矢もセットで。絶対に的のどこかに中たる矢を投影してあげる」
「赤原猟犬の概念を?」
「そう。あれなら後ろ向きに矢を射ても中たるわ」
「そんな事をすれば失格ですけどね」
「絶対に要りません!」
何を言い出すのだ、この二人は。だから質問を変えた。
「それでお姉様。クロエちゃんやイリヤちゃんのお誕生日プレゼントは何を?」
「小さなペンダントを作っています」
「手作りですか?」
「ええ、先日から。簡単な礼装で魔除けの効果があります。それとお揃いのブレスレット。これは二人の士郎クンに代わって買って来ました。そちらも改造して魔力の流れを良くする簡易的な礼装にしてあります」
「クロエちゃんのはお姉様の名で?」
「そうですねぇ。三人共同だと言えば寂しがるのかなぁ」
そこが難しいよね。5年生の女の子がどう思うのかなんて私には予想できない。
「エルマ? クロエちゃんに聞くまで知らなかったのですが、あなたも誕生日を21日に決めてあったそうですね?」
「はい。迷惑でした?」
「いえ、嬉しいですよ。これで名実ともに2歳下の妹です」
そうしてお姉様は私に近付き、背伸びをしておでこにキスして下さった。思わずお姉様を抱きしめてしまった。
「エルマはエルヴァが大好きなのね?」
「イリヤさんも同じでしょう?」
「ええ、好きよ。けど、あなたの好きはちょっと濃い?」
「認めます」
ベッドに潜り込む人には言われたくない気もするけど、この人はさっぱりしているので後を引かない。
「そういうプログラムだと疑ったりしないの?」
「言わないで下さいよ~。けれどそのプログラムが無かったとしても、私はお姉様にお会いすれば、憧れて好きになっていました。絶対に」
自信満々に答えたら、イリヤさんは目を丸くした。わかっていますよ。私の気持ちは鋳造者への慕情が変化したものです。ですが今は自信を持って恋と言えます。クロエちゃんと同じくお姉様が大好きなんです。
初めてお会いしたのは冬木山のパーキングでしたが、私から声をお掛けしたのはエルお姉様のご心配をよそに、ここに一人残るとご決心されていると聞いていたからです。だからお姉様に興味が湧き、声をお掛けしたんですよ。
そして徐々に集まり深まるあの方の情報と在り方。いつもいつも妹達や周りの人のために。だから私も残りたいとエルお姉様に直訴したんです。そんなあの人のお手伝いをしたかったんです。
おまけにこちらは高校生。クロエちゃんが想像する以上の、より進んだ関係を妄想したりもしていますし、自分を慰める場合もあります。
それでも妹という自覚と線引きはあります。そして今の関係をとても気に入っていて幸せに感じています。これを壊す気はサラサラありません。
いつかお姉様も恋をし、誰かを愛するのでしょう。そして家庭を築き、子を生すのでしょう。その時に私も赤ちゃんを抱いていたいと思います。姉妹で子育てについて語り合いたい。それも幸せだと私は知っていますから。
問題はイリヤさんですよ? 気ままにあるのでなく、そんな現象から脱却して人として第二の人生を歩みましょうよ? お姉様のためと受肉化を何時までも拒んで。あなたはもう、私の姉でもあるのです。幸せになって欲しいです。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、イリヤさんが立ち上がり、私にこう囁いた。
「ありがとう、エルマ。もう少しだけ時間をちょうだい」
ああ……お互い自然の触覚ですからねぇ。こういう場合は以心伝心だ。時間をくれという意味もこちらに伝わった。あと一歩の勇気とか、幸せが怖いとか、イリヤスフィールとしての気持ちだけでなく、胸に秘めた義弟への思いとか、色んなものがいっぺんに伝わった。本来のこの人はイリヤお姉様と同じく、前にズンズン進むタイプなのだと思う。けれど今はイリヤちゃんみたいに慎重になっている。
ああ、なるほど。だからアルバイトなのか。唐突にそれがストンと来た。自分に合った何かを探したいとは伺っていたが、それは踏み出す勇気が欲しかったからなのだ。美遊ちゃんと同じで、何かをしないと落ち着かないし、そこから見付かればとの願いもあったのだろう。
それをお姉様はとっくに知っていて、私は今気付いたのだ。だから今日、弓道部に。請われたのでなく誘ったんだ。それだから、あのすべてを貫く射なんだ。あれがイリヤさんの気持ちだったんだ。敵わないな、お姉様には。
Fateと言えば熱いバトルと対比される日常回。
そこで大きなウェイトを占めるのが料理ですが、とことん弓道も描いてみました。