61、試合
7月16日金曜日の練習は軽めだった。
精々、試合前のチェック程度だ。レギュラー陣は1時間半ほどで切り上げ、弓具の点検をしっかりした。試合に備えて弓具を持ち帰るのだ。
そして1年生やレギュラー外の2年生と3年生は、いつも通り11時まで居残り練習だった。俺達レギュラーや補欠は、仲間や先輩方に後を頼んで先に帰った。それもあって今日はバスだったんだけど、こんな長い荷物を持ち込むのは毎度ながら気が引ける。
俺が普段自転車通学なのは、ハンドルを握る事で手の内を意識したいからだ。それに学園坂を登るにはハンドルの引きが重要だ。弓手まで使ってしまうが、馬手の引きを思いっ切り意識してハンドルを握っている。
これがバス通学だとできないんだよな。つり革や手摺りで手の内を作ると、なんだか恥ずかしいし。何より恥ずかしいと言えば大会当日だ。
弓道では試合というより大会という呼び方が多いんだが、場所がどこかの弓道場という場合が多い。時々どこかの体育館だ。体育館なら屋内だから持参した弓道着にどこででも着替えられる。けれど弓道場だと更衣室が満杯で使えないんだ。だから家から袴を穿いて行くんだけど、この移動中がかなり恥ずかしいんだよ。
家からクルマで送って貰えたら嬉しいけれど、中々そうはいかない。女子なんて本当に大変だと思う。そんな事を考えていると、あっという間に家の近くのバス停に着いた。
短縮授業のイリヤ達より早かったみたいで、家にはお袋とセラ達しか居なかった。
俺は弓具を部屋に置いて着替えると、取って返してアルバイトに向かった。お昼はどうするのって聞かれたけれど、焼きそばを食うから要らないと返事をした。海水浴場前でバスを降りると、今日も人が多い。平日なのに皆んな暇だなぁって感心する。
けれど書き入れ時の明日明後日の土日を休ませて貰うこちらとしては、ここで頑張らないとと気合を入れた。さぁ、焼きそば無心法の始まりだ
今大会に遠的は無いけれど、一応近的五人立ての補欠なので自分の弓具を持って帰らねばならない。正直面倒くさいけれど、こればかりは仕方ない。同学年のレギュラー外の皆さんにエルマや桜ちゃん達1年生の事を頼み、私は帰路に着いた。
弓道着は部屋にある替えを使うが、洗濯のために持ち帰る。忘れてならないのはユガケや矢だ。弓は道場に置いている『直心Ⅲバンブー』とは別に、もう三本持っている。
一つは『直心Ⅲバンブー』。もう一本持っている方と色は同じ濃いブルーで側木のブラックも同じ。ただこちらはブルーにラメ入りなので、派手かと思い部屋で素引きに使ったりしている。
特注色だがお店に吊るしであったものだ。なので15キロと少々弱いが、実は弓道場に置いてきたものより先に手に入れていて、大会でも数回使っていた。誰も気付かないところが面白い。
二つ目は『鵠心』。節付きのグラス弓で吊るしの標準色だが、上下の関板にキズや塗装剥がれのある中古だった。新しい弓を買った人が、学生にでも譲ってあげて下さいと置いていったらしい。
新都の弓具店は中古を扱っていないが、弓を持っていない中級者がお客に居るならとでも考えたのだろうか? 弓具店にしてみれば新品を買って欲しいだろうに。
私がお店に寄らせて頂いたのは、奇遇にもそのお客が置いていかれた翌日の事だった。矢を買いに行った時に、そのお話を偶然伺ったのだ。扱いに困ってらしたので、それならばと卒業後に部に寄贈するつもりで譲って頂いた。大人しい色なので昇段審査はこれで受けた。
この『鵠心』は士郎クンや薫も使っていて、以前から気になっていた。弓力は元が16キロらしいが、ヘタって落ちているのか少し弱い。けれど意外な引きやすさがある。それだけ使われて来たという事だ。
握りが少し気になったので、自分で張り替えてある。二人だけの遠的練習に何度か使ったので薫は知っている。けれど、他の部員は勿論の事、エルマでさえもこの『鵠心』は知らないだろう。
問題はかなりヘタっているので、強化を掛けないと今後は厳しいところだ。大会で魔術なんて使いたくないし、かと言ってお蔵入りにするには早い気もする。少々持て余し気味な弓なのだった。
そして三つ目は『直心Ⅱカーボン』。これまた士郎クンと同じモノだが、士郎クンは士郎クンでも美遊ちゃんのお兄さんの方だ。
彼のは弓力25キロとかなり強いが、一度引かせて貰えばおチビちゃんの士郎クンの『直心Ⅰカーボン』よりかなりしなやかな感じがした。それが頭にあったので、『鵠心』を頂いた日にお店にある弓を試し引きさせて頂いたのだ。
すると美遊ちゃんのお兄さんの士郎クンのより、もっとしなやかだった。店主曰く、少しずつ改良されているので数年前の製品よりしなやかに感じるのではないかとの事だった。
確かに弓師が同じ銘柄のグラスファイバーやカーボンのシートを仕入れても、日々微妙に良くなっていると思うし、何度も制作する内に貼り方もより良い工夫がなされると思う。
これはカーボンのロードバイクでも言える事だ。ルックのKGの頃のフレームなんてまさにそうだ。
おまけに引かせて頂いた弓はブラックに側木が濃いワインの標準色と異なり、パールブラックの金ラメだった。派手でもないし、気品があるような気がしてついつい買ってしまったのだった。
弓力は17キロ。矢飛び(直進力)や矢勢(初速)も良いが、矢に伸びがあるように感じる。『鵠心』や『バンブー』より遠的向きに思う。なので次の大会から使うべく馴染ませているところだ。
この他、ミヤタの『CGⅤ』でオールカーボンのタイプを現在発注中だ。届くのは引退後でも構わないと割り切って注文したものだ。
そのような事情から、今回私は弓を持って帰らなかった。薫はニヤッとしていた。そんな顔をされたら『鵠心』にするしかないじゃないか。
帰るとオーギュストさんからルヴィア達が、無事日本行きの飛行機に乗った事を知らされた。良かった。仕事も順調だったようだ。私は今夜は和食にしましょうとコックのニコさんと打ち合わた。
ニコさんは一流だ。そしてとても研究熱心だった。自分の知らない料理を私から学べるからと、いつもいつも快く厨房を貸して下さる。そんな彼に材料の買い出しをお願いして、アルバイトに向かった。
買い出しを任せるなんて失礼だけど、市場やスーパーで材料を買い求めるところから料理は始まっている。これはニコさんの希望でもあったのだ。
おはようございますと海の家に入れば、更衣室からエルヴァさんが出て来た。そうだ、学園を出たのも女子の方が早かったんだ。
「エルヴァさん?」
「うん、弓の話はナシで。もう、キミはすべての用意が整っています。明後日に備えて今日も無心で焼きなさい」
すーっと心に入った。なんで言って欲しい言葉がここで出るんだろう。『ありがとう、姉さん』、そう俺は心の中で呟いた。エルヴァさんはとっくに俺にとっての姉だった。気持ちが軽くなった俺は一心不乱に焼きそばを焼いた。
うん、うん。そうやって無心で焼きそばを焼けば良い。試合にあたっての心構えなんてキミの方が知り尽くしている。射型にしても、弓道場で特に気になる点は無かった。要らぬアドヴァイスで当日迷う事の方がよろしくない。だからキミは今日明日と心静かに過ごせば良いのだ。
アルバイトを終え、家に帰ると凛とルヴィアと見知らぬ人が居た。誰……礼装?
金曜日の午後4時に冬木に戻った私達は、駅前でオーギュストさんのクルマに乗り込み、やっとこさっとこ家に戻った。
「やっと戻りましたわね。ホッとしますわ」
「ね? あ~、疲れた」
「お疲れ様でしたな、お嬢様方。ハサン様もご苦労様でした」
「いや、良い体験だった。十分に楽しかった」
「それは宜しゅうございました。ささ、お茶をご用意致しますのでハサン様もマルガリータ様もどうぞ」
「しかし、私は」
「ご遠慮なさらず。もう私どもは仲間ですわよ?」
「そうよ、ハサン」
「むぅ、では頂いていこう」
「フフ……。良いチームですね」
「マルガリータさんも仲間に入る?」
「リン、危険な場所からやっと逃れてきた人に……」
「あ、そっか」
「ですが、手伝える事があるならお手伝いさせて下さい」
何故マルガリータさんが日本語で話せるのかというと、『聖典トライテン』に分身の知識が流れており、それをマルガリータさんがダウンロードできるからだった。やはり何かされているのか、偽典の知識は来ないらしい。
そして私はルビーで転身すると、あいつの好みで髪型がツーサイドアップからツインテールになるのだが、それをマルガリータさんが何故か気に入ってくれている。身体を張ったと思ってくれているのかも。
それで懇願され仕方なく今もツインテールなのだが、以前ほど恥ずかしいという感情はない。何故ならエルヴァやクロエがコロコロ髪型を変える子達で、何度も彼女達のツインテールを見ていたからだ。
そして飛行機の中であれこれ話すと、マルガリータさんはやたら料理に詳しい事が判明した。何とも不思議なのだが、どうやらこれも『聖典トライテン』の分身の知識らしい。その分身は日本在住の学生らしいが、どこで何をやっているのだろうか?
またマルガリータさんは自らが礼装であるからか、未知の礼装や呪体の在り処に敏感なのだという。私達や美遊の衛宮君が彼女を守れるだけのチカラを付ければ、今後も同行して貰うのも良いかも知れない。
しかも彼女は歩く魔力炉心でもあったのだ。だからあんなに炉心ばかり見付けられたのだ。
この炉心というものは、一基何十億どころではない。場合に拠っては何百億もの単位で取引される代物なのだ。
何故なら使い勝手や魔力効率も発生する魔力量も宝石剣にこそ敵わないが、普通の魔術師に扱える最上の魔力発生器が魔力炉心だからだ。
それが今回三基も手に入った。ここで私とルヴィアの関係を軽く説明すると、私にはこのナチの礼装を手に入れる権利はない。
では何故ルヴィアと同道するのかと言うと、一つは彼女の家と子族契約を結んだ事、二つは彼女と共同研究する契約を結んだ事にある。この二点から、彼女は遠坂家を支援しなければならない。つまりお零れに与る権利があるのだ。
そして今回の炉心だ。私は指を一本立てた。ルヴィアは軽く笑って、ナチのもの以外を選べと言った。価格は1千万だった。私は10億を覚悟していたのに。友情価格で1億なら嬉しいなとの意味での一本指だったのに。
「良いの、ルヴィア?」
「これだけの礼装を使いこなせるのは、あなたか私しか居ませんでしょう? それにあなたに売れば、新たな使い途が見える可能性が高いですわ。それはお金では買えません」
「わかった。きっと見付けてみせるわ」
「ええ」
お茶を頂きくつろいだ後、ハサンは森に帰った。勿論私達はお礼を言った。それとは別にオーギュストさんが、今後の事もあるのでギャラを振り込める口座を開設してくれと、謝礼を渡しながら話していた。
やがてエルヴァが帰ってきた。アルバイトだったようだ。私達一人一人の手を握り、ハグして無事を喜んでくれる。ああ、ありがたい。そしてそんな時のエルヴァの顔は、1コ上の先輩とは思えないほど幼く見える。
あのエルヴァやイリヤ達と同じでとても可愛く思えるのだ。本人には言えないけれど。
けれどマルガリータさんの顔を見て彼女は一瞬だけ怪訝な顔をした。事情を話せば理解してくれ、握手をしていた。
「マルガリータさん。今日は私が料理担当なのですが、食べられないものはありますか?」
「いえ。好き嫌いはありませんので、何でも大丈夫ですよ」
「では、和食で良いですか? と言ってもありふれた家庭料理です。勿論、通常の食べ物でおかしな食材は使いません」
「ああ、それならお願いします。どういうお料理なのか興味がありますね」
「なら、楽しみにしていて下さい。それと良ければ今の間にお風呂へどうぞ」
私達が帰るからと、メイドかオーギュストさんにお風呂を頼んでいたようだ。
「そうですわね。その方が疲れが取れますか」
「うん。そうしよう、ルヴィア。マルガリータさんはお風呂は大丈夫なの?」
「別に紙でできている訳ではありませんから。大丈夫ですよ」
そうして私達はお風呂に向かった。
お風呂から上がったのは夜の6時。さっきまで居なかったセイバーやイリヤにエルマも揃っていた。セイバーとイリヤは新都で何か買い物をして来たらしい。
そしてエルマは我が妹とあれこれ話し込んでいたという。何か相談事があったのかと心配したら、今回は逆でエルマが桜に弓具の事で相談していたそうだ。正直ホッとした。
そのホッとしたのも束の間で、エルマが自室から連れて来た、もう一つのルビーやステッキになった臓硯の存在に私達はびっくりした。ルビーはまだ良い。けれど十芒星になった臓硯を思いっ切り睨む私。
「どういう事よ!?」
「まぁまぁ、凛さん。ゾウケン君も反省して、敢えてこの実験に乗ってくれたのですから」
『遠坂の。魔術師として許してくれとは言えんし、儂のして来た事は許されるようなものでは無かった。じゃが、今後の態度で示す事はできよう。今は抑えて貰えんか?』
う~ん……先にそんな事を言われちゃね……。それに本当に反省して後悔しているようだ。
そして今後はエルヴァやエルマとともに並行世界を巡り、妄執に駆られた自分自身を止めてみせると、この渋い色のステッキは話していた。
なので私はその言葉を信じる事にした。恨みも憎しみも無いと言えば嘘だけど、そもそもあの桜はあそこの幼い凛の妹で、私の妹ではない。また、私の妹の桜にしても、この臓硯は関係ない。
第二魔法を目指す私がそこを混同してはいけない。何より感情に任せて全ての並行世界の罪を、こいつにだけ被せるのはフェアじゃない。
それになんか私ってステッキだとすんなり話が聞けるのよね。ルビーのせいかしら?
『本当の姉さん?』
『そうですよ~。そちらのルビーちゃんも、ご苦労様でした。これからもサファイアちゃんをお願いします』
『勿論ですよ~』
『儂もよろしく頼むぞい』
ふわふわ飛ぶ四つの物体。エルマの調整なんだろうけど驚きだ。ルビーがルビーじゃないみたいだ。マルガリータさんともあっという間に仲良くなっている。
まぁ、良い事だとは思うけど、なんだか不思議な気分だ。この違和感は臓硯改め、ゾウケンの存在だろうなぁ。どうしてステッキになっても、そんなに能天気でいられるの?
「礼装になるのに不安はありませんでした?」
『少しはあったが、エルマが面白い話をしてくれての。えすえふというそうじゃが、見知らぬ宇宙人に拾われたある人物の遺体がロボットとして蘇り、その宇宙人どもと冒険の日々を楽しく過ごすんじゃ。その話を聞いて心が踊ったと言うか』
「何のお話でしょう?」
マルガリータさんの疑問にエルマが答えた。
「アメリカの1930年台から1950年台頃に掛けて書かれた古典SFで、原題は『Professor Jameson stories』と言います。主人公のジェイムスン教授は、死後に人工衛星で打ち上げられたんですね。いわゆる宇宙葬です。それがデブリにもやられず4千万年後の、人類が滅んだ後も漂っていたのです。やがて地球が死を迎える頃、宇宙探査をしていたゾル人に発見され、足が四本で手は八本、身体は角柱で円錐形の頭部には目が八つもあるロボットのような人工の身体に収められ、脳も再生され21MM-392として蘇ったのですね。またゾル人達も同じ身体へサイボーグ化しており、パーツ交換でほぼ不老不死を達成していました。そうして意気投合した教授とゾル人達の冒険物語が始まるわけです」
それを元に臓硯をゾウケンにしたのか!? それってSFって言うけれど、なんて魔術師っぽい発想だろう。何よりルビーを元にして、こちらもほぼ不老不死を達成してしまっている。時計塔もビックリなアイデアだ。
何よりそれができるエルマが凄い。マルガリータさんも目を丸くしていた。
「礼装と人との融合の完成。素晴らしい、素晴らしい成果ですよ!」
いや、興奮していた。落ち着いて考えれば考えるほど、確かに凄い。ルヴィアなんて首を振って『ありえませんわ』とブツブツ言ってるもの。
けれど検体として見れば、臓硯は適任者だろう。だからエルマは連れ帰ったのか……。
本人の反省もあったと思うが、検体志願はとんでもない事だ。私は少しだけゾウケンを見直した。
「確かに驚かされましたし、素晴らしい成果なのだと思います。ですがリン、報告が先ですわよ?」
そうだった。それで私は厨房のエルヴァが戻るのを待った。
やがて出て来た料理は、良い意味で地味だった。
ケンサキイカのお造りに、カボチャ・オクラ・ミョウガ・プチトマト・ナスに何かの焼き魚が入った煮物じゃないな? 冷製の何か。
そして新ジャガとニンジン、コンニャク、豚肉の肉じゃが? もっとお煮しめっぽいけれど。それとご飯とキャベツの漬物。お味噌汁は豆腐と豚肉の赤だし豚汁。
相変わらず美味しい。これだ、これが日本人の味だ。
「この冷製のものが、また良いですわね。少し酸味があってサッパリと」
「先に具材を油で絡めてからグリルで焼いて、それをダシと醤油や味醂で割った米酢に浸けています。魚はカマスですよ」
「エルヴァさん、このニンジンとコンニャクはどうされました?」
「その豚の肉じゃがは豚バラとジャガイモ、ニンジン、コンニャクのそれぞれをお鍋四つを使って別に煮ています。当然煮え加減や調味料の浸透度に合わせて、煮込み時間も別々です。コンニャクは前の晩からアク抜きで湯がいて、その後に味を付けて三回煮ています。ニンジンは砂糖を少し入れて夏のニンジンの足りない甘みを補っています。ジャガイモはレンジでチンして、型崩れしないよう最後に併せて煮直しました。豚肉も崩れないよう、軽く焼いてありますよ」
質問したマルガリータさんが感心していた。
お鍋を四つも使うんだ? 具材ごとに別に煮るなんて、また凝った事を。けれどこれらがイカの刺身を引き立てるのよね。
「イカってこんなに甘い物なのですか?」
活きが良いのもあるだろうけど、確かに甘い。マルガリータさんもルヴィアも驚いていた。魚だと刺し身にすると少しクセがあったり、少々臭うものもある。
そんなのに慣れてきたルヴィアも、刺し身が初めてかも知れないマルガリータさんも、このイカなら満足だろう。ショウガ醤油だけど、タマリなのかな? 濃厚な醤油で美味しい。
私的に大満足のご飯を頂いた後、緑茶を頂きながらロシアでの事を話した。セイバーとイリヤは紅茶だ。
金額こそ言わないが取引が順調だった事や、出会った人々との事や、エルヴァやモードレッドにも偶然会った事を話した。エルヴァはセイバーとともに、とても喜んでくれた。そしてその笑顔は先程と同じで、とてもあのエルヴァに似ていると思った。
だから弓の事は敢えて話さなかったのだ。だってサプライズはあの子の権利だから。
イリヤが幼いエルヴァにとても会いたがっていた。気持ちはわかる。けれど、英霊になってしまった並行世界の姉だと知ると、悲しむかも知れない。
銃撃されたマルガリータさんとの出会いに、皆んなはとても心配してくれた。けれど冷静に、衣類を替えずに転身して強化した事をエルヴァともども褒めてくれた。
「ナイスアイデアです。ルビーやサファイアにはまだまだ可能性があると私は思います」
そうだろうなと思う。それに、この辺はきっと向かいのイリヤの方が上手だと思う。けれど年長者として、同じルビーを扱う者として道は示さないとね。これはルヴィアも同じだろう。実弾に耐える。これがわかっただけでも痛かった甲斐があった。
私やルヴィアからの報告を一通り聞いた彼女は、日曜日に弓道の試合がある事を教えてくれた。
「是非にも伺いますわ。先日の試合で感動しましたもの。エルヴァさんならスキーを履いて矢を放てる事でしょう」
「どんなバイアスロンですか。面白そうですけれど」
ルヴィアが無茶苦茶をいう。けれどエルヴァならできそうだ。
「前の大きな試合は遠いから無理だったけれど、今度は近いの?」
「ええ。県主催の弓道大会で、場所は冬木弓道場です」
「遠坂神社の麓の?」
「そうです。ただ県内なので小さな大会ですよ?」
「それは良いのよ。行こう? ルヴィア、マルガリータさん」
「キュウドウって何ですか?」
ああ、そっか。どう説明したものやら。そこをエルヴァが解説した。
「簡単に言えば日本式アーチェリーですが、ドウという言葉が入る通り、柔道や剣道と同じく強さや上手さだけでなく精神修養も求められる武道の一つです」
「なるほど。面白そうですね?」
「ただ、今回は近的競技だけなので私は補欠です。その代り他の仲間が活躍する事請け合いです」
ここでエルヴァがマルガリータさんに近的や遠的の違いなどを説明した。その説明やエルヴァとの会話を通じて、私とルヴィアがあの弓に関する事を敢えて黙っている意味をマルガリータさんは察してくれたようだ。
「わかった。エルヴァが出ない可能性があるのは残念だけど、それでも同じ学校なんだから応援に行くわよ」
「ですわね。折角の機会ですし近いのでしょう?」
「はい、ご一緒させて頂きます」
アルバイトから帰ると、イリヤとクロエが応援に行きたいと言って来た。反対はしないけど正直照れくさいなぁ。
「お兄ちゃん、今度こそ勝ってね」
「そのつもりだけど勝負は時の運だ。それに選手全員が自分の射ができれば良いんだよ。結果は後から来るものだから」
「え~」
「的にあてるだけでしょう?」
「いや、そうでもない。難しいだろうけど、そうだなぁ。試合って言わずに大会って言うだろ? あれは言ってみれば発表会なんだよ」
「なにそれ?」
「だからイリヤ、フィギュアスケートや新体操みたいに、技だけでなく型の美しさなんかもあるのよ。お姉ちゃんを見て、あなたも綺麗だって言ってたじゃない。真ん中にアテるだけじゃダメなのよ」
「そっかぁ」
「別に真ん中でなくても良いんだけど。それに高校生なら、そのクロエの言いたい芸術点みたいなのは余り考慮されないけどな」
「そうなの?」
「うん。でもクロエは良いところに気付いてくれた。俺もエルヴァさんも、その美しさも目指しているから」
そこから弓に対する俺の考えや、的前に立った時の気持ちなんかを話したんだけど────
「お兄ちゃん! 私、中学に入ったら弓道部に入るから!」
「クロお姉ちゃんも?」
「あれ? イリヤも?」
「うん、私もやってみたいなって思ってる」
そうか、二人とも弓道部に。嬉しいなぁ。ああ、でも二人が中等部に上る頃、俺は卒業か。その時は桜やエルマに頼もう。あの二人とは、1年間だけだけど同じ道場で学べるしな。クロエとイリヤはどんな射をするんだろう。楽しみだ。
「美遊も誘おうよ」
「そうね。あの子、一番向いてそうだわ」
「え~、一番はクロお姉ちゃんだと思うけど?」
「いや、私はアテに行く自分を抑えきれないと思うのよ」
エルヴァさんみたいな事を言いだしたぞ?
「でも、百発百中でしょう?」
「それはそうだけど。それは何か違う気がする」
百発百中!? 何の事だ? 何かやったのか? エルヴァさんに弓を借りて試したとか? あの家なら後ろさえ気を付ければ、30メートル以上確保できる廊下があるし、天井も高い。エルヴァさんが寸詰めを誰かから借りたのか?
「クロエ、イリヤ? 弓を引いたことあるのか?」
「あ」
「あ、ああ、お姉ちゃんにね。ちょっと引かせて貰ったの」
「そうか……。二人とも、弓を引くポーズ、できるか?」
やらせてみたら驚きだ。イリヤはまだまだだけれど、正面打起しからの大三、引分け、会を見せてくれた。兄としてはとても嬉しい事だ。
けど、クロエは斜面打起しからだった。正面打起しの俺から見ると矢先が下がる水流れは気になるけれど、肩は水平だし固さを感じても手の内はできている。5年生でこれは凄い。
だけどなんで斜面打起しなんだ? これは日置流では無いと思う。もっと実戦的な何かだ。俺達の弓道では、正面打起しで教わる場合がほとんどだ。これは今の弓道連盟が明治維新以降に興った本多流の門下人によって設立されたからだと聞いた。
だけど、江戸時代以前に主流だった斜面打起しを行う流派が少なからず残っていて、その代表が日置流と言われる。そしてこの日置流は、かつては一大隆盛を誇っていただけあって様々な流派に分かれていた。
大きくは大和系と伊賀系だ。その流れの中で更に、大和系なら印西派や雪荷派、伊賀系なら竹林派などなどに細かく分かれている。本多流も元は日置流の中の竹林派で、尾州竹林派だった。
それが正面打起しを取り入れ、大三をしっかり取るカタチとなった。競技として考えるなら一番マッチしていると思う。そして正面打起しとは小笠原流がそうであるように、本来騎射で行う方法なのだ。つまり斜面打起しは歩射のための、より戦場に即した方法だ。
そんな戦場の引き方をクロエは行っていた。そもそも馬手の取懸けが地中海式だ。なのにイリヤのようなギクシャク感が無い。俺の目には、ある程度完成されているように映った。
「クロエ? それ、誰に教えて貰ったんだ?」
「え、え~と。お姉ちゃんだよ。なんだっけ、そうそうドローイングだ。私にはこっちの方が合っているって」
「ああ、もしかしてアーチェリーで遊んだ事があるのか?」
「うん」
「うん」
なるほど。いくら何でも廊下じゃ危ない。どこかの部屋でアーチェリーか。それならわかる。それにアーチェリーに斜面打ち起こしに似た方法があるのかもしれない。
何より子供にはそこからの方が入りやすいと思えた。エルヴァさんにしても、今は弓に興味を持たせる事が優先で、この子のクセに沿った打起しを教えただけな気がする。きっと徐々に正面打起しに変えさせるのだろう。
そうでなきゃ、ここまで綺麗に纏まらないと思う。クロエの方が現段階での覚えが早いんだな。だからか。
「どんな弓なんだ?」
「ちょっと待ってて」
そうして二人は階段を登っていった。部屋に置いてあるのか?
「士郎って隠れSね」
「はぁ~」
「今のあの子達なら、何とかしそう」
お袋達が何か話しているけど、何だろう?
「ど、どうするの、クロお姉ちゃん?」
「まぁ、任せなさいって。同調開始(トレース・オン)──」
「これっていつもの?」
「ううん。私のじゃなくて、お姉ちゃんの小型版。矢は──同調開始(トレース・オン)──」
「あ、吸盤付き」
「これで完璧よ」
下りて来た妹達が見せてくれた弓と矢は子供向けのカーボン? 弓だった。矢は吸盤付きの安全なタイプ。とは言え、この弓は結構凝った作りだな。見た目は洋弓なのに、矢を架ける部分が右にあるんだ? これなら和弓にも馴染みやすい。軽く引くと8kg近くある? 小学生向けと思えば結構強いな。
「海外製かな? こんなのがあるんだな?」
「うん、あるらしいよ。私が弓を習いたいって言ったら、買って来てくれたの。身長が140センチ越えたら、本物を買ってあげるって」
「え~。クロエ、弓は高いんだぞ? あんまりエルヴァさんに甘えないようにな」
エルヴァさんは妹達には本当に優しい。けど、和弓のプレゼントはやりすぎな気がする。
「まぁまぁ、士郎。そういうのもこれから覚えていくのよ」
「お袋……。けど、そうだなぁ」
「お兄ちゃんは弓を自分で買ったの?」
「ン? 二張り目はな……」
「じゃ、一本目は?」
「お袋……だ。通学用の自転車が親父だったから……」
「そういうところで遠慮するんだから」
「そうだよ。クルマの事を思えば、弓なんて安いって言ってたよ?」
そりゃクルマよりかは安いだろうけど、それでもだ。
「だいたいお兄ちゃん。お姉ちゃんは弓が四本と、矢が九組あるって」
「また知らない内に。思ったより金持ちだな、あの人は」
「ママのお姉さんの家が大富豪でね。けれどエルヴァちゃんを見てそうは思わないでしょう? それがあの子の良いところなのよ」
「なるほどなぁ」
7月17日土曜日、大会前日の5年1組。
今日は終業式だ。講堂でのお話が終わった私達は教室に戻った。これから宿題が配られる。
「なぁ、イリクロ?」
とうとうイリクロとセットにされた!
「夏休みはどうする?」
「う~ん、悪いけど遊べないかも」
「なんでだよ?」
「冷たいな」
「だって明日はお兄ちゃんの試合の応援だし、連休が明けたら私達やお姉ちゃんの誕生パーティだし、その後すぐに自然学校だよ?」
「ああ、そうだ。自分が5年生な事を忘れてた」
なんで忘れるの?
「だって、姉ちゃんからベタとトーン張りを頼まれてて」
「スズカちゃん、お仕事?」
「仕事つうか、バイトつうか。と言っても、報酬は少し高いプリンだけどな」
「プリン、良いよなぁ」
「給食のプリンともしばらくお別れだ!」
「めったに出ないし、短縮で給食がなくなって何日目だ!?」
「もう、タツ子は。けど、スズカは小学生の自覚を持たないと」
「面目ない」
「じゃ、8月はどうなんだ?」
「その8月に入ったら、スイスの従姉妹が遊びに来るのよ」
「うん。日本を案内しなくちゃならないの。だからお盆が過ぎた頃なら、暇になるかな」
「イリヤ、そこから宿題にスパートをかけないとダメなのよ? わかってる?」
「そうだった……。だからごめん、そんな感じでスケジュールがいっぱいなの」
「え~」
皆んなが文句を言う。その気持ち、わかるよ? けれど、前みたいにいかなくなっちゃったのだ。
「夏休みってたっぷりあるんだぞ?」
「夏休みも有限よ。無限じゃないのよ? ご利用は計画的にって言うでしょう?」
「なんだよそれ」
「それ、お兄ちゃんに言いたい!」
バンッと机を叩いて立ち上がる美遊。
「どうした、ミユ?」
「うううぅ……借金が……」
小学生が借金とか言い始めた!? 私達が黙っているのに美遊がバラしそうだ。
「何かを背負う重さの感じ方って人それぞれだと思うけど、美遊に一番重いのはお金だったか」
「私は友情だな。最近軽くなりつつあると思えばこれだもの」
「それ、美遊の前で言うんだ、あなたは?」
「だから声をひそめてるの。けど、クロお姉ちゃんにもあるでしょう?」
「それはもちろんあるわよ。私の場合は二人の妹だな。早く会いたいよ」
「だよね」
そう、私もそれは同じ。だから、スズカやナナキやミミやタツ子には悪いけど、友達より妹優先なんだよ。今の私は。
うん? エラく前から回ってくるドリルが多くない? 何か積み上がっているんだけど?
「タイガー! 宿題多いぞ!」
「虎って言うな!」
「おかしいだろが! 何で全部で10センチもあるんだ!?」
「ウチは私学です。ゆとり教育も文部科学省も関係ナッシング! 子供はキリキリ勉強しろと校長先生が……」
「違うだろ! お前の教え方が下手で、1組だけ授業が遅れてるんだろ!? 2組の奴が言ってたぞ!」
「遅れたのはあなた達のせいでしょ~が! 授業中ペチャクチャしゃべるわ、立ち歩くわ、あなた達が……あなた達が……ウガァ~~~~~!!」
「吠えた!」
そうして、騒がしく1学期が終わったのだった。結局、空いたときは遊ぼうという事で、時間が空けばナナキの家に電話する事に決まった。宿題が多い。カバンがむやみに重い。
「ちょっと待ってね。はい、どうよ」
「あ、軽くなった。なにこれ?」
「重力軽減の魔術だと思う。クロエ、こんなのも?」
「うん。元からできてたらしいの。けど、自分でわかってなくて。そこをお姉ちゃんに教わってね。美遊のも、はい」
「ありがとう。軽くなった」
「あのさ、美遊。明日どうする?」
「士郎さんの試合だよね? どうしよう」
「おいでよ。それでお昼を一緒に食べよう?」
「あ、うん。そうだね。うん、行く」
誕生パーティの事は、もう話してある。だから今日から25日までの一週間、宿題でも何でも良いので美遊を連れ出す。そしてご飯を食べさせる。お店だとお金が気になるだろうから、お弁当や家のご飯で済ますのだ。
そうなると宿題が一番、美遊を連れ出す理由として強い。それで無事26日を迎えれば自然学校が始まるし、美遊のお兄さんも返って来る。そんな計画を私とクロお姉ちゃんは考えていた。
7月18日、日曜日。今日は県の弓道大会だ。老若男女、年齢を問わずエントリーしているから人数がかなり多い。
と言っても、一番多いのは高校生と社会人だ。まず小学生以下はまず居ない。これは考えれば当たり前の事で、大弓を引こうと思えば最低でも5~6年生にならないと難しいからだ。そして近所に弓道教室があり、保護者が理解ある人達で無ければ条件的に厳しい。
中学生が少ないのは、部活として弓道部を持つ中学校が少ないからだ。穂群原は小・中・高一貫なので中等部にも弓道部がある。地方の学校としてはかなり珍しい方だと思う。今年は三人がエントリーしている。
あまり関わりは無いけれど、遠峰前部長の弟君が出ているらしい。
意外だが大学生も少ない。こちらはリーグ戦やら対抗戦やら大学ならではの大会で、今の時期は忙しいからだ。裏返せば大きな大会で負けた俺達のような高校生が一番多い。
次に多いのが社会人だが、文化活動の弓道教室の人が多い。そうなるのは、企業のちゃんとした弓道部はもっと大きな大会を目指しているからだ。
その代り学生時代に弓道をやっていたけれど、種々の事情で暫く離れていた人やお年寄りの人が、気軽に参加できる大会として人気があった。
かく言う俺も初の公式試合が、中等部時代のこの大会だ。県下の幾つかの弓道場が持ち回りで会場を提供しているので、冬木に戻ったのはかれこれ5年ぶりだった。あれからもう5年か。何にも知らない中学1年生が、先生に薦められ先輩達と一緒に出たんだ。
あの頃の中3の先輩はもう大学生だ。中2の先輩が3年の秋月先輩と遠峰先輩に田所先輩。そして1年が俺と藤原と女子の瀬尾。三人立ての男女2チームで、補欠は男の藤原だけだった。それでも2チームエントリーできたんだから大したものだ。翌年は何とかなったけれど、翌々年は一コ下の学年に桜しか居なくて、女子だけのチームしかできなかったんだ。
同じ弓道部でもこの何とも言えない気持ちは、中等部から一緒に弓を引いた者にしかわからないだろう。懐かしいな。
思い出に浸ってないで、さぁ、行くか。
「お兄ちゃん、何で袴なの?」
「一般の人も多いから、あっちで着替える場所がないんだって。お姉ちゃんも袴でバスに乗るって嘆いていたよ」
「そりゃそうだろ。男でも恥ずかしいんだから、女の人ならなおさらだ。凄く似合ってて格好良いけど、見世物じゃないしな」
「ゴメンね、士郎。キリツグが私にレンジローバーを運転しちゃ駄目だって言うものだから」
残りのクルマはオープン2シーターだもんな。弓も置けないし。
「いいよ、お袋。ありがとう。じゃ、行って来る」
「頑張って。後で応援に行くから」
「ああ。じゃ」
そうして見送られてバス停まで行くと袴姿のエルヴァさんと、制服姿のエルマが待っていた。エルヴァさんは相変わらず凛々しい。一応、段は俺の方が上なんだけど、大学生か社会人の有段者みたいな貫禄がある。これで弓道を初めて3ヶ月足らずの人なんだもんな。
「おはようございます」
「おはようございます」
いつもなら『おはよう』だけど、この瞬間から3年生の先輩だ。何よりお姉さんのイリヤさんや従姉妹のイリヤさんとは違う意味で、この人の迷いのない射に俺は憧れる。
うん? いつものとは弓袋が違う?
「弓袋が違う?」
「開けてのお楽しみですよ」
え~! 弓を新調したのか? 本番でいきなりってマズくないか? けれど、この人は初めての弓で中白(星)に皆中した人でもあるんだよな。
仲良く三人でバスに乗れば、一人二人と袴姿の人が増える。新都のいつものバス停で桜が乗って来た。袴姿だ。
「おはよう、桜」
「おはようございます、衛宮先パイ、エルヴァ先輩」
「おはよう」
「おはよう、エルマ」
桜からこれだけ砕けた言葉を引き出せるなんて、エルマ恐るべしだ。けど、何で袴なんだ? 弓具は持ってないのに?
「美綴部長に遠的の補欠でもレギュラーメンバーだからって」
「ああ、自覚を持てって事か。仲間だしな。そういうのは必要なのかな」
冬木市民弓道場に着くと、顧問の先生に秋月先輩が既に居た。
「おはようございます」
「おはよう、エルヴァに衛宮。間桐とエルマも。早速、俺と来てくれ」
秋月先輩は俺達というより俺を待っていたらしい。これは荷物置場の確保だ。道場って普段は広いんだが、こういう大会になると着替え場所や荷物置き場に困るのだ。そこらの廊下に置けないしな。だから建物の周りの、邪魔にならない良い場所を確保しなきゃならないんだ。
そして俺は副部長で、男子の責任者でもある。それもあって早めに出た訳だ。普通はこういうのを下級生にさせる学校が多いと思うけど、うちは早く着いた者がする事になっていた。
けれど今回の会場は皆んなよく知った場所だ。家が道場に近い秋月先輩と遠峰先輩が、先に見付けてくれる事は打ち合わせ済みだった。なのに、その遠峰先輩が居ない。
「おはようございます」
「おはようございます」
案の定、女子の責任者で部長の美綴が待っていた。
「おはよう、衛宮。悪いな。選手が来たら秋月先輩が連れて来るから」
「おはよう。遠峰先輩はどうしたのさ?」
「5月にここの道場で社会人と引いてるのをエルヴァ先輩がバラしたろう? 部員が知ったのなら、出番もない事だし一般で出ろってコーチに言われたらしい。だからコーチや社会人の方とあそこ」
あ、少し離れたところに居た。
「じゃ、一般で出るのか?」
「そう。けど、近的試合の復帰には良いと思わないか?」
「そうだな。その方が気が楽か。先輩は大学でも引くだろうし」
「ああ、私も良いリハビリになると思う。けどな、うちは負けるぞ?」
「なんでさ?」
「コーチと先生とで駆け引きがあってな。あちらのCチームの女子を見ろ」
「遠峰先輩と話している年配の方?」
「そう、それとその人の向こうの若い人達。会社勤めのOLさんと、大学生の人なんだと。この二人はどちらも遠峰先輩と同じ三段だ。それでご年配の人はコーチの知り合いで、臨時コーチもされる方でな。四段だと聞いた」
「ちょっ? 嘘だろ? 六~七段の貫禄があるぞ?」
「だろう? ところが弓を引き始めたのが50を過ぎてからだそうだ。お孫さんと引きたいと思ったんだと」
「それって……」
「もしかしたら、遠峰部長の母方のお祖母さんかもな。わかんないけどな」
「あ~……」
「な? とんだ大穴だろう? しかもあそこにエルヴァ先輩が入る」
「なんでさ!?」
「だって遠的は無いんだぞ? 衛宮、この大会は県が主催する県民のための弓道大会だ。人数が少なくて試合に出られない人達にもチャンスをと、昔からこういうのはあったらしい。以前、冬木で開かれたのは中1の頃だろう?」
「そっか。そこまで俺が知らなかったって事か」
「いや、私もさっき知ってびっくりしたんだ。ついでに言うと、中学生以下と大学生以上は三人立てが基本だけど、五人立てもあって、そちらは高校生と当たるんだ。おまけに試合は男女で別れてないから」
「は?」
「だから参加人数の関係で男女別のトーナメントじゃないんだよ。混成トーナメントだ。しかも男女混成チームもあるらしい。正確に言うと、一回戦はできる限り男女別になるよう考慮されているらしいけど。憶えてないか?」
「初めての試合で上がってたんだろうな。けど1年の時も2年の時も、中学生は中学生だけだったと思う」
「そう、そこが境目なんだよ。小学生以下と中学生は独立してるんだ。だから県下の中学弓道部や弓道教室の子がこぞって参加するんだと。だから三人の内、二人はA教室、一人はB教室って場合もあるのさ。そうやって小さな教室や経験の浅い人にも機会を与えようって趣旨らしい。ま、個人戦より団体の方が時間も早く終わるだろうしな」
「なるほど、それに何人かで組んだ方が気が楽だしな。けど、趣旨には納得したけれど、エルヴァさんと遠峰先輩か。トーナメント表が恐いな」
「まったくだ。こっちが勝ち進めば、確実にどこかで当たるだろう。けど、それも良い体験だ」
「美綴は前向きだなぁ」
「でなきゃ、やってられないだろ? お前はエルヴァ先輩と家族同然だろう? 他のチームで出るって聞いていたか?」
「いや、初耳だ。けど、先日の部活の終わり頃は補欠でも袴かって言ってたから、遠峰先輩から昨夜電話があったのかもな」
「なるほどな。けど、あの先輩の事だ。こちらを惑わすためでなく、これを機会にして成長を促してくれようとしていると思うんだ。高校って3年間しか無いんだぜ? 来年は私らが、次の部長や副部長を育てなきゃならない。それが続けるって事だろう?」
「なるほど」
本当になるほどだ。これは秋月先輩も知ってたな?
けどその秋月先輩は素知らぬ顔で、高等部の選手や中等部の選手を集合場所まで引き連れていた。駆け付けてくれた藤村先生を交えて挨拶を交わし、弦を張った。当然、場所がないので中等部生や高等部女子の弦も俺達男子が張る。
ホームセンターで手に入れたクッションゴム(ゴム板)に、カッターナイフで削って窪みを作った携帯弓張板を取り出した。それを他の奴に壁で支えて貰う。そこに弓の末弭を当てて弦を張るのだ。高1の時に作ったんだが、我ながら便利だと感心する。
「これを1年坊主が作ってきたから、衛宮を部長に推薦したんだ。けど副部長だったな」
「うちは代々女子の方が成績良いし、人数も多い。必然部長は女子になるさ」
3年の秋月先輩と相楽先輩だ。2年は俺と藤原と大橋。補欠の唐澤。この六人が男子チームだ。女子は3年が田所先輩に薮内先輩、2年が美綴に瀬尾と白石。ここに補欠の……今回は間桐桜。
「桜、エルヴァさんが他所に入るって知ってたか?」
「いいえ。美綴部長にやられました。弓具は要らないって聞いていたから、持って来ていませんよ? 万一の時はどうするんでしょう?」
「美綴はそういうところが冒険家だよなぁ」
弦を張り終わってからミーティングをした。中等部の子って普段余り見ないから新鮮だ。藤村先生がハッパをかけている。昔の俺みたいに、これが初めての試合だって子も居るだろう。頑張って欲しいものだ。
けど、遠峰先輩の弟は肝が座ってるなぁ。中3の頃、中1の彼の射型を見て驚かされたけど、今にして思えば遠峰先輩と同じでコーチに習っていたんだろうな。
やがて時間になり、矢道に皆んなが集まって開会式が始まった。偉い方々の挨拶が終わり、俺達が一旦矢道から掃けると矢渡しが行われた。この後から試合開始だ。
小学生部門があっという間に終わり、中等部生の試合が始まった。小学生よりマシとは言え、体配はまだまだだ。けど第二試合で出て来た中等部の遠峰君は、高校生と変わらないくらい体配が良い。むしろ射型は、こちらがうかうかしてられないほど綺麗だ。
○○○×。いわゆるスケベだ。けれど、××○×とか×○×○とかが並ぶ中では十分だと思う。チームの仲間が足を引っ張ったと言いたくは無いが、結局準決勝で負けてしまった。
体配や射型だけでなく、終始一貫して落として皆んなを支えていた。それでもチームの中でここまで差があるとなぁ。悔しいだろうけど人のせいにしない彼に俺は感心した。早く高等部に上がって来い。お前なら1年でレギュラーに入れる。
11時近くになって、やっと高校と一般の五人立てが始まった。穂群原男子はいきなり県立工業高校と対戦だ。こちらが県の準決勝で負けた相手だ。と言ってもあちらはインターハイ出場を決めた、一軍でなく二軍なんだけど。
顔触れを見れば記憶にないし、選手紹介のアナウンスが読み上げる名にもピンと来ない。そりゃ確かに一軍なら、今どき合宿か何かして来月に備えるだろう。
けど、こういうムカつきは原動力になる。俺達は何とか19-18で勝った。二軍でも18でキメて来るところに相手校の凄みを感じた。
「ムカついたらチカラが出るか。何だかなぁだけど、学生はこれで良いのかもな」
「そんなもんだよ、衛宮。『中たる射』を目指す前に『中てる射』、つまり『外さない射』があって良いんじゃないか? 藩士や錬士の先生方の仰る事は『中って当たり前』の境地の先にあるものだ。俺もお前も『中ててナンボ』とは言いたくないくらい弓好きだからな。こういう『離れ』があって良いと思うぞ?」
「こういう『離れ』ですか。そうですね、秋月先輩。それは執着かも知れないけど、弓道が『好き』という気持ちだけは負けたくない」
「だろう?」
「また秋月と衛宮は小難しい事を。中たりゃ~良いんだよ。中たりゃ~。他校より多く中てて、ついでに射型も綺麗ならなお良い。そこだろう?」
「相楽先輩は簡単に言うなぁ」
「あのな? 現場に来てあれこれ悩んだり考えるだけ無駄だっての。現時点の俺は、俺以上になれねぇよ。今を100パーセント出せれば上出来だろうが? むしろ大橋を褒めてやれよ。一つしか外していないんだぞ? 藤原なんて人生の運をここで使い切ってないか? なんか心配だぞ、俺」
相楽先輩の言葉でいつも肩のチカラが抜ける。大橋も藤原も苦笑いするしかない。本当にムードメーカーだ。
そうして、19-16、18-15と俺達は勝ち上がった。ここで女子リーグの美綴達の出番だった。
「この方式だと、勝ち上がると美綴達と同校対決もあるのか?」
「嘘、ヤメロ。俺、白石ちゃんに弓は引けねぇ」
「相楽先輩、白石を?」
「ヤキソバマンは知らなかったか。去年の春からずっとだ」
「つまり、1年の時から!?」
「そう。白石が辞めるって言い出した時は、何としても引き止めてくれって遠峰に土下座したんだぞ、こいつ」
相楽先輩が白石を。マジか。全然知らなかったぞ?
「白石、可愛いもんなぁ。相楽先輩の気持ち、わかるわ、俺」
「何でうちの女子って、こんなにレベル高いんだ? 2年も3年もだけど、1年も可愛い子ばっかじゃん」
「な? 大和撫子な間桐も良いし、銀髪のエルマも捨て難い。うちは合宿とか無いのかよ」
「あったらどうすんだ、お前は」
「そりゃ、決まってるだろ。当って砕けて安土に埋められて伝説になるのさ。フラれても、君の矢は俺が受け止めるみたいな?」
「埋まって来い、今直ぐ。危ねぇ奴だ。そもそも大橋、間桐と衛宮は中等部時代から付き合ってるぞ?」
「やっぱりなぁ。そうじゃないかと思ってたわ」
バラすなよ!?
「大橋が撃沈したなら、俺はエルマな」
「藤原! お前殺されんぞ、エルヴァ先輩に。美綴半殺し事件も本当の事なんだからな?」
「藤原、死んでこい。そうすると俺は晴れて補欠卒業だ」
「唐澤ぇ、貴様ぁ」
実は唐澤は藤原とそこまで差がない。二人とも気分屋で波があるのが問題だった。だからそこそこ安定感のある大橋の後塵を拝してしまう。ノッた時は皆中連発してくれる奴らなんだけどな。
そしてエルヴァさんの物騒な話は、空手道場で美綴が負けたからだ。真相を知らない間は、顎に絆創膏を貼っていた美綴に皆んな驚いていたからな。回し蹴り一発だったと聞いて二度驚き、相手がエルヴァさんだったと知って三度驚いた。
イリヤやクロエに言わせると、エルヴァさんは無茶苦茶強いらしい。もし空手部があったらそっちに行ったのかな? 剣道部の吉村先輩も、エルヴァさんを美綴と変わらない逸材だって言ってたもんなぁ。足も早いし、本当に凄い人だ。
『第一射場、冬木〇〇弓道倶楽部。1番、エルヴァ・フォン・アインツベルンさん。2番、鳳有紀さん。3番、兼石美也子さん。4番、佐久間恭子さん。5番、遠峰薫さん。第二射場、穂群原学園。1番、田所あかねさん。2番、白石祐子さん。3番、薮内美佳子さん。4番、瀬尾美咲さん。5番、美綴綾子さん』
え? いきなり?
それぞれの控えに予備の矢を持つ、先生とコーチ。気不味いんじゃないかと思ったが、表情は晴れやかだ。
「この大会って何でフルネームなんだ? 普通は○番、〇〇選手ってだけなのに」
唐澤の疑問だけど、それだけローカルなんだろうな。
「遠峰、スマン! 引き止めてくれたお前には悪ぃけど、俺は白石ちゃんを応援する!」
「大前にエルヴァ? それで落が遠峰か。パーフェクトマシーン相手だと、田所はやりにくいだろうなぁ」
「けど、なんでエルヴァが大前なんだ?」
「遠峰のためってより、他の人のためだろうなぁ。勢いが欲しいんだろ」
「なるほどなぁ」
勢いか。これはわかる。何しろ入部以来、エルヴァさんは的を外していないのだから。そりゃ勢いは確実に付くだろう。だけどいきなりの大前でも、入場の体配で迷わないところがさすがだ。
入場では大前だけが礼を取り、後の四人は揖(ゆう/軽い会釈)を取る。胸を張って執弓の姿勢を保ちつつ、摺り足で控えの座席に座る。何を考えているのか、その視線は真っ直ぐ前だけを見ていた。
遠的では落ばかりだったのに。ましてあっちは三人立てで立射だ。補欠として五人立てのどこに入ってもイケるようにしているんだろうなぁ。エルヴァさんらしい。
遠くでクロエの声がした。イリヤもお袋も来ているのか。けど、エルヴァさんの弓が違う?
「あれ? エルヴァのやつ、あんな弓を持ってたか?」
「いや、お初だぞ。いつもは紺色の弓だろう?」
まさか本当に新しい弓をぶっつけ本番で使うのか? ぅ……。こちらの心配を他所に立ち上がったと思えば、もう胴造りだ。打起して引分け、会から離れ……。
ターンッ!
ピシュ! パンッ!
エルヴァさんの矢は的に中たると大きくターンッと響いた。普通は田所先輩みたいにパンッだ。よしっという会場の声に微妙な発音が。ルヴィアさん?
けど、田所先輩の冴えた弦音は聞こえたのに、エルヴァさんの弦音が聞こえなかった。弓が違うからだろうか。
「うっわ。矢勢が全然違う」
「弓が強いのか? 矢勢だけじゃなく矢飛びも良いな」
「伸びがあるのか」
「ああ、だからああいう音になるんだ。けど、田所も度胸あるな」
田所あかね先輩。遠峰薫先輩の影に隠れて印象が薄くなりがちだが、中等部時代から知っている俺はあの先輩に一目置いていた。実はかなり巧いし、本番の度胸は遠峰先輩を越えていると思う。
弦音(つるね)は実は毅音(きね)というのが正しい。そしてその毅音には三段階あり、最初が弦子(つるね)で割れ竹で板の間を叩くような音とされる。
次が弦音(つるおと)。中級者以上にならないと出ない音だとされる。最後は弦拍子(つるひょうし)。上級者特有の短く冴えた音を指すのだそうだ。
田所先輩は遠峰先輩と同じ三段だ。女子の三段はこの二人しか居ない。何より高校生の三段が珍しい。県下で何人居るだろうか。男子は数人見聞きした覚えがあるが、女子はこの二人しか知らない。その内の一人が田所先輩なのだった。
「お、二的のお姉さん、美人だな。よしっ!」
「白石ちゃんも負けてねぇよ。白石ちゃん、キメろよ~。よ~~~~~しっ!」
白石、こんなに上手かったっけ?
足踏みから胴造りに入るまでに既に何かが違っていた。弓構えで物見をした時には中たるって確信できた。
「先輩、白石良いですね?」
「だろう? 衛宮は1年ボウズに付きっ切りだから知らないだろうけど、遠峰とエルヴァがずっとみてやったんだと」
「ゴム弓に巻藁と、1年に混ざってさ。全部見直してたもんな」
そうだったのか。決定戦で負けて、悔しがって……。泣いて辞めるとまで言ってたんだ。それを遠峰先輩とエルヴァさんが……。
ああ……。あの海のあれは、お礼の意味もあったのか。
「中のお姉さんも雰囲気あるなぁ。よしっ!」
「薮内、外すなよ~。お前はキメる子だ。よ~~~~しっ!」
「薮内先輩も可愛いなぁ」
「大橋ぇ。節操なさすぎ」
薮内美佳子先輩は受験組だ。美綴と同じで高校から弓道を始めた。弓を引き始めて実質二年だ。なのに中等部時代から弓を引いていた田所先輩に見劣りしない。
レベルが高い。何だこれ? 落前のお婆さんは上手そうだ。体配も射型も見事だ。
「あのお婆さんの打起しから大三が綺麗だなぁ。んん、よしっ!」
「瀬尾ちゃん、良い顔だ。飲まれてない。よ~~~~~~~しっ!」
「瀬尾、上手いなぁ~」
「そりゃ、あいつも中等部からの叩き上げだぞ?」
「藤原、お前が言うと何だかなぁ」
お婆さんは巧い。本当に素晴らしい射型だ。瀬尾にはあの人の射型が否応なく目に入る。あんな教科書みたいな人を見ながら引けるなんて。最高の組み合わせだろう。いよいよ落だ。
「遠峰ぇ……キメろよ。あれ? あのお婆さんと似てないか?」
「ああ、似てるな?」
似てる。顔じゃなく射型が。そうか遠峰先輩のお祖母さんというのは本当かも知れない。
カシュ! パーンッ!
カシュ! パンッ!
美綴もさすが。二人とも的中だ。本当にレベルが高い。
二射目も全員的中だった。会場に拍手が響き渡る。白石も、もう大丈夫だろうか。
そして三射目。エルヴァさんがすっくと立ち上がった。足踏み、胴造りがいつも通り早い。弓構えして物見……。どこを見てるんだ?
エルヴァさんの視線は的でなく、全然違うところを追っていた。あ、子供だ。どこかの子供が観客席で走ってコケたんだ。それを心配しているんだ。親が助け起こしたところを確認してから打起しに入った。
大きいな。本当に大きい。引分け、会、離れ。俺の目は的を見ていなかった。だって中って当然だろう?
ターンッ!
カシュ! パンッ!
「おいおい、どうなんだこれ?」
「スゲェよな?」
田所先輩も中てた。そこに白石、薮内先輩、瀬尾、美綴が続く。当然相手も的中。これじゃ、総体の決勝だ。
いよいよ四射目──再びエルヴァさんだ。あれ? 跪坐から立ち上がる時に、一瞬違和感を感じた。
足踏み、胴造りはいつも通り。今度の弓構えは普通だ。打起しの雄大さも同じ。引分け、会…………。長くないか? と言うか、目を瞑っているぞ?
そしてカッと目を見開き────
ターンッ!
見事な皆中だ。でもなんでだ? あの長い会は何だ? 目を瞑ったのは何故だ?
そもそもあの弓は何だ? 本当に弦音が聞こえない。射型は乱れてない。いつも通りなのに。
ピシュ! パンッ!
田所先輩も負けてない。こちらも皆中。
「田所ってこんなに安定してたっけ?」
「良い意味で、エルヴァに引きずられてるんだ。過去最高じゃないか? よ~~~~~しっ! 白石ちゃん、大会での皆中って初めてじゃないか?」
「だな、相手の射型が穂群原からは丸見えだから。お前の指摘通り、引きずられてる。今日は皆んな射型が良いよ」
続く中も皆中、落前も皆中だ。会場の興奮が頂点だ。だけど誰も声を出さない。この静けさが恐い。
「スゲェ、こんな雰囲気で引く勇気無ぇぞ」
「俺も」
「お前ら二人、俺に的前を譲れ!」
遠峰先輩が弓構えで目を瞑った。そしてゆっくりと目を開け、これまたゆっくりと打起した。
「大きいな」
「ああ、大きい。遠的で見せていた雰囲気だ。こりゃ、来るぞ」
「うん、精神的にもスランプを抜けたな。打起しが大きいのに無駄に引いてない。綺麗な大三だ。エルヴァとの練習が効いてるな?」
「だよな。ああ、見ろよ。会が2年の頃のあの会だ」
「ああ……後輩女子に見て欲しい会だよな」
カシュッ! パーンッ!
短いけど切れのある冴えた弦音。そしてエルヴァさんみたいな音を立てて矢が的に刺さった。
皆んな掃けた後に的前に残る美綴。プレッシャーは半端ないだろう。だけど、2年ながら大落を任される美綴の度胸は本物だ。
大きな引分けは、やがて会に至り────
「あれは外すな。型に逃げた」
「ああ、綺麗過ぎる」
俺もそう思った。美綴の矢は的の前(右側)、10センチほどのところの安土に刺さった。『正射必中』。なんて難しい言葉なんだろう。
「あの美綴をして、プレッシャーから逃れるために土壇場で射型にこだわったか」
「そんなの四~五段になってからで良いのになぁ。それだけ遠峰が大きかったんだろ」
俺の目からは引分けで、馬手がたぐっているように見えた。つまり『離れ』で馬手の肘が五重十文字を保ててないんだ。だから残心の馬手が嘘のように水平だ。無理矢理作った証拠だ。
先輩方はもっと違うところも見ているのだろうが、何れにせよ難しいところだ。だって高校生レベルだと、大きく水平に勝手(右手)を投げ出す美綴が間違っているとは誰も言えないんだから。
「あいつ、剣道や薙刀も有段者だろ? 武道の事はわかってるんだよ」
「わかり過ぎるんだよな。カケを諸ガケか騎射ガケにするか、せめて四つガケにできればな」
これが美綴の弱点だった。『離れ』で肘が真っ直ぐ引けない時があるのだ。
美綴が学んでいる『なぎなた』とは、平仮名で書くのが正式名称だ。これは古武術の薙刀と区別するためだが、213センチの長柄の刀を模した木刀は七寸(三寸詰め)の弓とほぼ同じ長さで、なおかつ剣道と似た防具を身に着ける。問題は両者に共通する籠手だった。
素手だと空手をやっているだけに器用なんだ。けれど新入生の頃、ユガケのような手袋状のものをつけると握り込むクセが抜けなかったんだ。それが手繰り寄せるような馬手となる。
現に高1の頃は誰よりも足踏みが上手くて、矢束の幅でも疲れを見せなかった。意外とあの幅は慣れないと疲れるものなのだ。
弓手の手の内もすっとものにした。なのに馬手の使い方だけは中々上達しなかった経緯があったんだ。今は大丈夫と思っていたが、土壇場でその悪いクセが出た。そこを先輩方は指摘したのだ。
「あの辺がエルヴァは器用だな。元々地中海式だったのに三つガケに合わせて来るから」
「何で地中海式だ? コンパウンドはアーチェリーと違ってトリガーがあるだろうに?」
「そこがエルヴァだよ。あいつ狩猟で使っていたからトリガーなしなんだ」
「ああ、それで」
「そう。その感触をカケで欲しいから、結構弦枕なんかを弄ってるって話してたぜ? 手の大きさに合わせただけでなく、細々した事も注文していたらしいし。何回か弓を引いたら、弦や矢だけでなくカケもチェックしてるしな。この間もカケを縫ってるから何やってんだって尋ねたら、手直ししているって言うんだ」
「自分でカケを?」
「そう。そんなのも自分でするのかって尋ねたら、道具のチューニングは当たり前だって軽く返されたぞ?」
「器用だな」
いや、秋月先輩の言う通りで、エルヴァさんはそんな人だ。
「あの先輩、料理も上手いらしいし。手先が器用なんだなぁ」
「2年のお前らは知らないだろうけど、あいつは家庭科の鬼だからな」
相楽先輩、そっちは知ってるのか。
「家庭科で鬼ってどんな表現ですか?」
「料理も菓子作りもプロレベル。何を作らせても美味いんだ。なので実習の日はあいつの周りに男女構わず群がる」
「え~」
「相楽に誘われて、エルヴァの実習料理を分けて貰った事があるんだ。美味かった……」
それ、知ってるぞ。男子に奪われて何にも残らなかったって生徒会室でぼやいていたから。
「お前らは飯屋の磯尻って知らないか?」
「あ、知ってます。安くて美味い定食屋だ」
「そう。そこの息子がエルヴァと同じA組でな。本気で負けたと零していた。跡取りだからって、真面目に料理を勉強しているヤツがだぜ?」
「うへぇ~」
「そこに裁縫やら編み物やらが加わるんだ。五教科もトップランクだしな。英語なんて先生が逃げるレベルだぞ?」
「パーフェクトマシーン……」
エルヴァさんに付いた、パーフェクトマシーンというあだ名の由来は弓だけじゃない。全部引っ包めてだからな。
「そういや遠的の矢の羽、あれもイジってるって聞いたなぁ」
「そこもだけど、矢尻もそうだ。重くして矢の重心を矢尻寄りにしてあるんだと」
「先を重くするんですか?」
「紙飛行機も前を折り返して重くするだろう? 弓力と合わせて重さを決めるのは当然だけど、そういうバランスの方が真っ直ぐ飛ぶのは事実だ。矢なんて操縦者の居ないウィリーしたバイクだって言ってたからな」
「面白い例えだなぁ」
俺なんかポル○ェで例えられたぞ? でも後ろから一方的に与えられた推進力は、ロケットみたいなとんでもない出力がない限り安定しないのは事実だと思う。だから矢尻側を重くすると聞いていた。
「あいつ、見てくれはお嬢様だけど、結構色んな事に詳しいんだよ。さっきの弓具の改良に対して尋ねれば、ハンドルやサドルの高さも合わせないで自転車に乗るのかって言われて、なるほどと思ったよ。体を合わせるにしても限度があるもんな」
「へぇ~、言われてみればそうですよね」
「大橋、へぇ~じゃねぇ。前に食堂で衛宮が言ってたろ? サドルの高さや変速機をみて貰ったって」
「唐澤、大橋は弁当派なんで、あの時居なかったんだよ」
「あ、そっか」
それだ。以前『他の事に当てはめて考えろ』って言われてハッとしたんだ。相変わらず知識が幅広く、キチンとものを見ている。けど、備品の三つガケでも皆中だったんだよな。やっぱりそういう意味でも器用な人だ。
これは美綴に教えて貰ったんだが、エルヴァさんは遠的の時、会場の風速や湿度を測って矢を換えるのだとか。その時エルヴァさんは美綴に、遠的競技には矢を5セットは持って来ていると話していたらしい。
だからそちらの矢筒はゴルフバッグみたいに大きいそうだ。これもコンパウンドボウの知識だろうな。近的でも弓力が弱ければ風の影響が大きいものだ。こういうところも考えないと。
結局、エルヴァさんや遠峰先輩のチームは準々決勝の競射で敗退した。両者18中だったのに。エルヴァさんと遠峰先輩にお婆さんは皆中連発だった。
だけど、競射の辺りから美人のお姉さん二人が崩れ始めたのだ。社会人として弓道を再会して間がなかったらしい。それに試合も学生時代からかなり間が開いて、何年か振りだったそうだ。
久々の長い緊張に耐えられなかったんだろうな。そこが今後の課題だと爽やかに笑っていた。
うん? ああ、俺達も準々決勝で負けたんだ。だから皆んなで遅い昼食を摂りに出たんだよ。これはその時の会話。お蕎麦屋さんに入ったんだけど、ここで俺はエルヴァさんがカレー蕎麦を頼もうとするのを何とか阻止した。
前々から即ギメできる人だとは思っていたが、案内された席に座る前に『私、カレー蕎麦』と言い放ってた。そこで俺は本日のオススメだった『鴨南蛮』にしようと薦めたのだ。ナイス、俺。
美綴は自分の失敗がわかっていたようだ。多少は落ち込んだみたいだけど、エルヴァさんや遠峰先輩に慰められて立ち直っていたと思う。
弟君や藤村先生は帰ったみたいだけど、俺達には閉会式がある。その後、先生やコーチの話を聞いて解散した。今日の試合も有意義だった。負けはしたけど、得るものが多かった。
新都のバス停で降りる桜を見送った俺は、エルヴァさんとエルマに家に寄って欲しいとお願いした。
「ツラを貸せと。フッ……今日が衛宮士郎の命日ですね。カレー蕎麦の恨みを思い知れ!」
ちょっ!? すんなり変えてくれたんじゃないのか? 実は怒ってた?! だけど止めた理由は言えないし……。頼む、空気を読んでくれ、察してくれ、エルヴァさん!
「鴨南蛮も美味しかったですけれど、今日はカレーの日だとネビュラ71から指令が来ていたのに……」
ネビュラって何だよ!? 第一、どんな指令なんだ?
「お姉様が得た天啓を封殺するとは。万死に値しますね。衛宮先輩、南無……」
「何言ってっだッ!」
「噛んだ」
「噛んだ」
「違~う! お袋への報告をお願いしたかったのと、弓を見せて欲しかったからだよ」
「良いですよ。報告はするつもりでしたから。それもあって、ルヴィアと凛に一緒に帰れないと、エルマに言伝させたのですから」
「そうだったんだ?」
「それを忘れるお姉様だとお思いですか?」
「エルマって凄んでもイリヤみたいで可愛いな?」
「ちょっ?!」
「只今の決まり手は引き落とし~、引き落とし~。親方、見事に相手の意気込みを利用しました。ええ、衛宮山は一皮剥けました。相手を良く見ていましたね。まぁ、高校生で剥けてなければ困りものですが」
「何言ってっだッ!」
「噛んだ」
「噛んだ」
駄目だ。絶対にエルヴァさんには勝てない。そうだ流れを変えよう。
「エルヴァさん、質問なんだけど」
「何ですか?」
こういう時は真面目に答えてくれる。ありがたい。
「弓道部の1年から聞かれたんだ。やっぱりセンスって必要なのかって」
「センスですか。それは無いよりあった方が良いでしょうね。それもセンスよりウチワ、もっと言えばタンス?」
センスに引っ掛けて扇子→団扇。団の漢字に引っ掛けて団子は無いから、語感から箪笥はわかるけどさ。というか、今の季節は絶対に必要だって返されると踏んだのになぁ。
「あった方が良いってどういう意味?」
「英語と日本語ではニュアンスが異なりますし、意味合いがオーバーラップする部分はありますが、タレントとは才能、センスとは勘です。何事も勘だけでは足りませんが、同程度の資質を持っていて、同程度の努力を怠らぬ才能を持っているのなら、最後に決まるのは勘です。ですが才能も勘も努力もファクターです。この中で一番重要なのは弛まぬ努力です。サボらず正しい指導者の正しい教えを信じて、無駄無き練習を数多くこなし、頭と身体に染み込ませるしかありません。究極はウサギと亀の理論になりますが、そこにしか答えは無いでしょう」
ウサギと亀。持って生まれたものが違うって事か。確かに。
「裏返せば幼少の頃より見出され、英才教育を受けたオリンピック級のウサギに、億倍の努力を重ねたとしても亀では絶対に勝てません。そしてそんなウサギの中で頂点を極める者は、端から才能も勘も優れ、理論でも、身体に於ける鍛錬に対しても努力を怠りません。君があいつの三倍も五倍も努力をしたと思っていても、本気で才能ある人は十倍も二十倍も努力しているものです。それが世界のトップに立つ人達ですよ?」
厳しいな。けど他にもあるようだ。
「その子と先輩後輩としてライトに仲良く関わりたいのか、大会で成績を残せるように導きたいのか、ゆくゆくは弓道家として育って欲しいのか、もっともっと、より大きな人間に育って欲しいのか。キミが何をその後輩クンに求めているのかは知りませんが、多感な年代で触れ合える人々の中で、『先輩』という存在はかなり大きなウェイトを持つ事は自覚して下さい。安直に答えるのでなく、何度も何度も考えてから言葉を掛けてあげて下さいね」
何でこうも、こちらの想定する以上の事を言ってくるのだろう、この姉は。結局、深山町のバス停まで何も話せなかった。駄目だな、俺。
そして家まで帰ると玄関でイリヤとクロエが迎えてくれた。袴姿のお兄ちゃんは格好良いとか似合ってるとか、嬉しい事を言ってくれる。当然、俺は応援ありがとうとお礼を言い掛かったんだけど、俺の後ろに立つエルヴァさんを視界に捕らえるやいなや、思いっ切り突き飛ばされた。泣いていいかな?
「お姉ちゃん、凄いよ!」
「全部刺さってたもんね?」
「私達も中等部に上がったら、絶対に弓道部に入るから!」
俺も皆中だったんだけど、そこは声高に言うような事じゃないしなぁ。必要なのは資質、才能、勘、努力、そして持って生まれた天命というかカリスマっていうか。そういう様々な要素が合わさってこそだもんな。
俺なんてただ単に的に中てるのが上手いだけのヤツだ。自虐だけどそう思わざるを得ない。だってさ、長年コツコツ築き上げて来た『お兄ちゃん』という立場が、こうも簡単に『お姉ちゃん』に崩されるとは夢にも思わなかった。
いや、俺だって『弟』っていう未知の自覚を抱いている訳だし。本当に人の世はこともなしだ。
お袋はエルヴァさんとエルマを抱きしめ、褒めていた。勿論、俺も褒められたんだが、頭をポンポンって。照れくさいけど嬉しかった。エルヴァさんがこういう時に素直な態度だから、俺も段々そうなって来た。
まぐすね(麻で編んだミニわらじ/これで弦にくすねを塗り込む)のマスコットが付いた矢筒を下ろし、エルヴァさんが弓袋から弓を取り出した。
「これ、『鵠心』じゃないか? いつ買ったんだ? いや、これってかなり使い込まれている?」
俺も『鵠心』は持ってるし、今日の大会で使ったのはその『鵠心』だ。遠峰先輩も同じのを持っていて、今日使っていたのも気付いた。けれど、エルヴァさんまで持っていたとは。似てるなとは思っていたんだ。おまけに随分と使い込まれていた。
聞けば驚きの中古だった。社会人の人が竹弓に買い換える際に置いていったのを、矢を買う時に頂いたのだそうだ。関板や弭に随分キズが入っているけど、キズを残したまま上からクリアが塗ってあり、弓把も自分の手に合わせて自分で張り替えたらしい。F-1のハンドルと同じバックスキンって許されるのか? それに握りが太くなるぞ?
籐は元から五ヶ所巻だが、矢摺籐以外は全部飾り編みだ。これも自分で巻き直したという。本当に器用な人だ。弓具店のおじさんもビックリだろう。
「これって、強さはどのくらい?」
「16キロと聞きましたけれど、15キロあるかないかでしょう。かなりヘタっています。その分、素直ですけどね。ですが、遠的には向きませんでした」
ここが不思議だ。エルヴァさんは胸筋や背筋が強いらしく、本当は20キロを越える弓も引けるみたいなんだ。以前、俺の『直心Ⅰカーボン』を軽く引いていたから。こんな小柄な女の子にあり得ないとかは、この人に通用しない。
本当に驚くのはここからだ。2年を指導する時に、その子が使っている10キロ足らずの弓を借りて、その子にわかりやすい引き方をお手本で示しつつ的に中てるんだぞ?
調整と言って、たまに備品の弓から12~13キロの弱い弓を選んで的前に立ったりもしている。それが柔らかめとか硬めとか節操なしだ。
こんなの普通なら、絶対に間違った調整方法だと思う。だってチカラを加減して弓を引くなんてあり得ないからだ。
例えば社会人になって練習量が減った、或いは高齢になって体力が落ちたので、弓力を落としたと言うならまだわかる。だけど身体が一番動く今、そんな事をする必要性なんかありはしない。
だって射型が乱れたり、勘が狂う元だと思うんだ。だけどこの人は平気でそんな事をする。
それだけじゃない。倉庫の奥で矢立箱に刺さっている、誰も使わない昔の弓を引っ張り出して弓の変遷を楽しんだりもするんだ。グラスはこんな風に変わっていったんだなとか、カーボンはどんどん飛ぶようになったとか。これを初めて聞いた時、意味が不明だった。
でも今は何となくわかる。弓が好きなんだろうなって。弓道好きなのは、同じ弓道好きな俺なら当然わかる。そこは疑わない。だけどエルヴァさんは弓という道具そのものも好きなんだ。
元々、コンパウンドボウを引いていた人だ。俺なんかより弓というものを知り抜いているだろう。
「弦を張ったらどうなんだろう?」
「寿命というか、グラスの旬が終わりかかっています。ですから弦も無闇に張りたくないですし、練習にも使いたくないのですね。卒業したら部に寄贈しても良いのですが、この強さを引ける中級者以上だと違和感を感じるかも」
「つまり、それだけ使い込まれていたって事か」
「そうです。三百年前の刀剣は残っていても、三百年前の弓って余り聞かないでしょう? 弓は消耗品なのですよ。しかもカケと同じく使用者のクセが付きますからね。そこを握った時に読みとって、弓と対話してあげられる人でないと」
「だよなぁ。カケと弓は人に触らせるなって言うもんな」
そこへエルマが入って来た。
「士郎さん? 士郎さんの受け止め方も一般論として正しいのですが、お姉様が仰った弓の状態を読み取る事、弓と対話して引くって言うのは、その触らせるなって言うのとは意味合いが違うと思いますよ?」
どういう意味だ? 何が言いたい?
「エルマ。例を示しすなりして理解を促さないと。私の前にあなたとの会話が成り立たないですよ」
という事はエルヴァさんはもっと違う事を話していたのか?
「そうですね。クロエちゃんでもイリヤちゃんでも良いですが、士郎クンが今乗っている自転車を高校生になったあの子達に譲ったとしましょう。当然、そのクロスには士郎クンのクセが染み込んでいます。ですが、それだけではありません。3年間あの学園坂を登った士郎クンの思いや願いが、汗とともに染み付いているのです」
う……。クロエとイリヤが俺の顔を見る。何か恥ずかしいけど、確かにそうだ。エルヴァさんが続けた。
「読み取るとはクセや調子や余命といった現在の状態を知る事です。対話するとは前のオーナーの歴史を知る事です。全部はわからなくとも、大切に扱って来たのか、ぞんざいに扱って来たのかは誰でもわかると思います。それは錆びついたネジの頭や、交換されたパーツを見れば一目瞭然ですよね?」
言われてみればそうだ。
「これが弓も同じで、ある程度わかるものなのですね。上下の弭や関板のキズ、握りの感触、引いた時のしなり具合などなどで。握りは換えたので無理でしょうけど、素引きしただけで握りから上がヘタっているのか、下がヘタっているのかがわかると思います。そして前の人の技量も。幸いな事に、この弓は竹弓に転向されるレベルの人が引いていたものです。アルバイトをして高校生の半ばか、大学に入ったばかりの頃に手に入れたのでしょう。そしてその人とともに巻藁や的前に立ち、来る日も来る日も暑さや寒さにめげす歩んで来たのです。弭のキズは、弦輪の作り方が甘かった頃のものが明確に残っています。関板の細かなキズも未熟だった頃のもの。ですがこの太い一本のキズは、安定して弓を引いていた証拠です。手の内が定まり、上達したこの方の射。きっとその綺麗な弓返りは、見事な弦音を響かせていた事でしょう」
今日、会場で響いた音を思い出した。弦音までは聞こえなかったんだ。ここまでキズがあると響かないのかも。けど的を貫く音で、この弓の本来の弦音は想像できる気がした。何よりあの矢勢と伸びだ。この弓はまだまだ死んじゃいない。
「この弓が何故造られたのか。何故こんな節があるのか。どうして竹でなくグラスなのか。そんなところに惹かれて購入されたのだろう前オーナーの思い。そして技量の成長と重ねた経験、蓄積された年月……」
「え?」
「そういうのを感じ取れたような気がしたのです。だからこの弓が放つその音を、同じ道を歩む人達に聞いて欲しかったのですね。俺は頑張ったんだぞって。だから皆んなも頑張れよって。そう叫んでいる気がしたのですよ」
この時の俺の感情を言葉に表すのは難しい。感動したし、泣きそうになったのは確かだ。この弓は幸せものだと思ったのも事実だ。けど、見知らぬ先輩の願いを、この弓が抱いた願いを……誰が最初に気付ける?
もっと引いてくれ、もっと使ってくれ。俺が廃弓になるその日まで……。この話を聞いた俺にも、そんな声が聞こえた気がした。そうか、これが対話なのか。俺は思わず自分の弓袋に目をやった。
「『これからもよろしくな、コックン』」
「そんな事を胸の中で言ってそうだったけど、コックンって?」
「弓の名前。時々、付ける人が居るんですよ。身近なところでは、同級生の間桐桜さんとか」
「桜お姉ちゃんが?」
「そう。『スイ』って品名なのに、弓に『先パイ』って語りかけて磨いているんですよ、あの子は。きっと弓の名は『シロウ』に間違いないですよ」
「マジ?」
「マジもマジ。その弓ってどうなのって聞くと、普段は柔らかいのにいざという時は芯の固さがあって、矢をしっかり的に運んでくれるとか。言葉の端々に妄想が滲み出ているよね?」
「まぁ、高校生だしね。けど、ヒニンはして欲しいかな? この歳で叔母さんだとイヤだもん」
クロエとエルマの会話だけど、クロエ、お前……。イリヤはどうして金槌を持ってるんだ?
「名付けるなら『Das hässliche Entlein』ですね」
え? お袋やセラが笑っている。
「どういう意味だ?」
「日本語で言うと『みにくいアヒルの子』です。鵠の字は正鵠を射るで知っていると思いますが、では鵠とは何か? これが白鳥の意味なのですね。中白の白を白鳥と例えたのは、弓が狩りの道具だったからだと思いますが、今となっては美しい名だと思います。それで使い込まれたこれを『みにくいアヒルの子』と」
何でだろう。こういう名付け方だとすんなり納得できる。エルヴァさんらしいなって。だって、こいつを再び白鳥にして輝かせるのはエルヴァさんなんだから。
弓道は他のスポーツとは違って、道具ありきだ。この際、殺傷能力云々や素材の変化を措いても、古来からのカタチでそのまま使うのは変わらない。要は道具が人に沿って進化していない。人が弓に合わせて変わらなきゃいけないんだ。
そこが俺にとっては面白いのだけど、人に伝えるとなればこれが難しい。だって身長も体重も骨格も筋肉の付き方も、皆んな違うんだから。そこで教本なんだけど、この教本も最大公約数的な内容になっている。
となると部長の美綴や副部長の俺は教本を読み解き、相手に合った、けれど正しく美しい射型を教えなくちゃならない。これが実に難しいんだ。
なのにエルヴァさんは例え話を幾つかして、簡単に1年生に理解して貰える。白石達を導ける。美綴、楽してんじゃねぇよと言いたいが、腕を組んで頷く美綴の横で俺も頷いているのが現状だ。
弓を『打つ』のは制作している弓師の方。『撃つ』のは銃なので間違いだ。矢は『飛ぶ』でも『放たれる』でも良いけど、俺達弓道部員は弓を『引く』と表現する。
『打つ』でも『射(う)つ』でもない。エルヴァさんは時々『射(い)る』という言い方をするけど、これも他の弓道部員からは余り聞かない。やはり俺達は弓は『引く』もので、矢は『飛ぶ』ものなのだ。
そして、コーチやたまに見る高段位の先生方は弓を『弯(ひ)いて』いるんだ。部首に弓が付く、この字が正しい弓を『弯く』だ。
エルヴァさんも言葉では『引く』と話しているが、この人のは『引く』を越えた『弯く』でもない。狙いに行く自分を恥じると言いつつ、『射(い)ている』。それは良くない事だ。いわゆる『中て射』だから。
でも、俺にはそこに憧れてしまう気持ちがある。相談したい事、聞きたい事、教えて欲しい事。たくさんある。けれど料理と違って弓の事だけは、中々聞けないでいた。きっとその先にある何かに触れるのが怖かったんだ。
だけどこの時の俺はそれが知りたかった。
「弓道って何だろう?」
「何を突然、秋月クンみたいな事を。美綴さんを見れば一目瞭然でしょうに」
「え?」
「嗜みですよ、嗜み。射撃でもなければ、舞踏でもない。空手のようにその時の強者を選出する部門と、型の巧い人を選ぶ部門が分かれていない。そこで迷うのでしょう?」
う……。いきなり核心だ。
「ですが、技能的な部分と芸術的な部分が不可分なところに、弓道の面白さがあると私は思います。では、先人は何故両者を分けなかったのでしょう?」
それは……。
「それは料理となる食材を得られないからですよ」
へ? 何だ? どういう意味だ?
「弓は剣や刀や槍といった武器である前に、遠くの獲物を狩る道具だったのですよ。勿論、剣や刀や槍も狩猟の道具だった時代はありましたが、それは遥かな大昔の石の穂先だった時代です。ローカルではもっと後の時代まで使われていたとは思いますが、それでも弓矢は発明された当初から狩猟の道具だった点は確かな事実です。つまり、網や釣り竿なのですよ。鋤や鍬と同じ。生活の糧を得るための道具だったのですね。けれど、海外では今だに狩猟で弓を引く人が居ます。ところが日本には居ないでしょう? 法的なもの、社会的なもの、様々な制約があったと思います。明治の文明開化だけでなく、昭和の大戦後も大きな分岐点でした。そういう制約の中で和弓は、悪く言えば取り残され、良く言えば生き残りを図れた訳ですよ。だから正確性や緻密さを道具に求めず、人に求めた。そこから素材なき包丁に変化したのです」
素材無き包丁……。
「するとどうでしょう? 徐々に徐々にこの和弓という道具との対話に惹き付けられた人々が、あたかも花板さんの使い込まれた柳刃であるかのように、和弓を狩猟道具でも兵器でもないものに磨き上げたのです。スポーツでも演舞でもない独自の世界観をもたらしたのです。言葉にするなら武道の武を使った方の演武、こちらが近いかも知れません。わかりますか? キミもそういう和弓の世界に魅入られたのですよ。だから迷う必要はありません。キミなりの方法と解釈で磨くしか無い訳ですから」
え?
「だから、キミは食品サンプルを作りたい訳では無いでしょう? あれは包丁を使いません。ですが私達弓引きは、包丁を使いたい訳ですよ。そこに食材が無くとも」
何となく言いたい事がわかってきた。
「現実に食材としての獲物を得たいのなら、和弓はあり得ないです。スタビライザーが付き、照準器がしっかりあるリカーブボウかコンパウンドボウを使うでしょう? それですと遠的の60メートルより遠い70~80メートル先の鹿の心臓や脳天を狙えます。ですが日本の法ではそれが許されません。年齢基準を満たした上で、罠猟か猟銃の免許を取るしかない訳です。いやそこまでは言わない。的を狙うだけで良いんだと言う人も居ると思います。なら、何故道具として的中率の低い和弓を選ぶのか? そこですよ」
そう、そこだ。単なる的中てに終わらせたくない……。それは詰まるところ、俺が好きだからだ。和弓や弓道が。
「私の姉のイリヤスフィールは弓道の他に書道と華道と茶道を嗜んでいます。書道は一般の五段で華道は免状を頂き、茶道では先生に着いてあちこちに行き、香道など様々な事を学んでいるそうです。そしてこれらの道は、武道ではありません。更に外国人にとって一番狭き門でもあります。そんな門を潜って来た姉が魅入られた、唯一の武道が弓道だったのです。そして姉はこうも話してくれました。『書も華も茶も人とのコミュニティありきだけれど、弓だけは自分のためだけに弯ける』と」
自分のために。
「以前ね、私も同じ事を姉に尋ねました。『弓道って何ですか?』と。心の中ではドキドキしていました。『大自然と一体になれる』とか『宇宙との合一が成される』とか『ガイアの息吹が感じ取れる』とか、果ては弓を通して『真理を得られる』とか話してくれるのだろうかと勝手に想像して。一体何を話してくれるのかと身構えてしまった程です。ですが姉はたった一言、『包丁研ぎよ』と返したのです」
包丁研ぎ!
「姉が亀岡の丸尾山で取れた、良い天然砥石の白巣板を持っていましてね。仕上げに使っているのですが、あれで白二の柳刃を研ぐと切れ味抜群になります。姉は50本近い和包丁を持っていますが、仕上げに必ずその砥石を使います。シャッシャッシャッと、無心なのかな? それで食材がどう変化するのかを想像しているのかも。とにかくとても良いお顔で包丁を研がれるのですね。そんな姉が弓道を『包丁研ぎ』と断言したのです。さて、姉が研いでいたのは本当に包丁ですか?」
う~ん……。自分自身と考えるのが普通だろうな。
「切付柳刃包丁、剣型柳刃包丁、切付包丁、身卸包丁、船行包丁、博多一本包丁、剥きもの包丁。私の好きな包丁です」
唐突にそんな事を言い出す。聞いた事もないような包丁だ。名前というより型なんだろうけど、どういう包丁だ?
「その包丁と弓道に何の関係があるんだ?」
「切付柳刃包丁、剣型柳刃包丁、切付包丁は別名、ずぼら包丁とも言われます。つまりこれ一本で魚を捌き、刺し身にもできる。これは漁師の船行や、漁港の加工工場に務める方が持つ身卸包丁も同じです。博多一本包丁や剥きもの包丁も多目的に使えます。士郎クン。近的には近的の、遠的には遠的用の矢はあるのに弓はありません。両方の距離を引き方を変えず、的付けの角度を変えて射込むのが弓道ですよ」
俺は余程変な顔をしていたのだろう。クロエとエルマがお腹を抱えて笑っていた。イリヤはそれを見て頬を膨らませ、お袋達はそんな俺達を眺めて微笑んでいた。
「だから自分磨きで良いのではありませんか? 合う合わない、向き不向き、好き嫌い、どんな道でもそれはあります。そしてどんな道でも自分を磨き、見詰め直し、その先を覗き、悟る方法があると思います。なら魅入られたものに集中すれば良いと思いますよ? 『武道は嗜みだ、女磨きのためにやっている』。そうスパッと言える、美綴さんが一番正しいですよ」
そうか、美綴は最初から答えを出していたんだ。でも、あいつは今日……。
「でも、最後……」
「焼きそば成分が足りなかったのでしょう。あの子の悔し涙は私のハートを射抜きましたけれど」
「ちょっ!?」
「彼女は自分でわかっていますから。次の練習日はいつもの美綴部長ですよ」
「なら、良いけどさ」
「LSD、効き過ぎではないですか?」
「は?」
「ダメ……ク……フフフフフ」
お袋があそこまで笑う? どういう事だ?
「シロウ、エルヴァが言ったのは、部長と副部長がしっかり連結しているって意味だよ。それをクルマの部品で例えた」
ああ、そういう意味か。リズの説明でやっとわかった。だからクルマ好きなお袋にウケたのか。
「お姉様、私からも質問させて下さい」
ん? エルマ。何を訊くんだ?
「今日の初戦の四射目、何を考えて弓を引かれましたか?」
そりゃ、無心なんだから、何も考えてなんかいないだろう? 弓の声を届かせたいと願っても、八節の間は考えていない筈だ。だってそうでなきゃ、あんな矢は放てない。あ、でも少し違和感を感じたのを思い出した。
「I can feel the wind, when I listen to this. 士郎クン向きに答えるならこうですが、あなたには嘘は付けませんね。実は……」
え? 何かあるのか? 実は何だ?
「実は、イタリアのピッカータとアメリカのピカタはどちらが美味しいのかなと。仔牛の肉と鶏肉、どちらも捨て難い。この悩みが打起しにと引分けに出ていましたね。いつもは迷わないのですが、会で辻褄を合わせました」
何だって?
「エルヴァさんって、料理の事を考えて引くのか?」
「お姉様はいつもそうですよ。知りませんでした?」
嘘だろ!?
「初耳だ……。料理……。料理であんな射が……」
「心の乱れは射型に出るとは本当ですね。私、卵液に通して小麦粉をまぶす方法が余り好きではありません。何か揚げる前のカツをフライパンで無理やり焼いたみたいなので。と言うかシュニッツェルと何が違うのだと。それでピカタをもう一度見直そうと、あれこれ考えていたのですよ。それとケッパーですね。ここを外さず素揚げしてからバターで焼くとどうかなとか、カジキマグロがあるなら、ブリやサバだとどうかなとか。それでエルマの指摘した一回戦の四射目の会で、サバだと。天啓でしたね。あれがなければ外していました。遠峰さんに食べて欲しいものです」
俺の感動を返せ! お袋もクロエも大爆笑だ。
「そういうエルマも、上手く引こうとは考えていないでしょう?」
「そうですね。引く前は教わった通りできれば良いなと思いますが、いざ足踏みすればケーキが食べたいなとか、帰りにパフェでも食べようかなとか。けど、桜を見て太るのはイヤだなぁとか」
「食べるものばっかりかよッ!? そもそも桜は太ってないッ!!」
イリヤ、笑うな! 兄ちゃんはお前だけは信じていたのに!
「反応速ッ!? 早気? 早い人は嫌われますよ?」
「早気と早○を同列に……。エルマ、斬新過ぎです」
「何の話だよッ?」
「まぁまぁ、士郎クン。私もエルマも狩猟民族の血が流れていますから。自分のためとはイコール家族のためなのですよ」
「どういう意味だろう?」
「その日のメインを狩りにいく。ですから、前々から話している通り、私はしょせん中て射です。その雑念を食べ物で誤魔化すと言いますか。そんな感じです」
「そう。お姉様の仰られる通りで、腹八分目の気持ちで引かないと飢えるんですよね」
「ですよね。会までに脳内調理を済ませないと、離れが丹田でなく胃から来ます」
「どんなだよ?」
「順を追えば、入場がレシピの確認で、執弓で買い出しです。執弓の姿勢はエコバッグをぶら下げたポーズですよ?」
違うッ!
「右手はネギがバラけないように意識して」
「長ネギというより、九条ネギの根本を持つ感覚ですね?」
「そうそう」
バラけないようにするのは大切だけど、ネギじゃねぇからッ!
「足踏みでマット一杯に足を広げてキッチンに立ち、胴造りで冷蔵庫や買い出しした食材の確認。弓構えで包丁を持ち下拵え。本来ならここで脳内レシピは完成していなければなりません。そして打起し。あれは戸棚からお鍋やフライパンを取り出すポーズです。馬手がお鍋で、弓手がフライパンですよ。手の内とはフライパン術に通じますよね?」
断じて違うッ! 断固として違うッ!
「そして鍋に水を張ったりフライパンに油を引いたりして、引分けで一気に調理。あのギリギリいう音の中で次々と完成していく料理達。やがてそれは会という名の盛り付けに至り、離れでテーブルに運び、残心で皆んなの笑顔を確認。退場は後片付けと洗い物ですよ」
な!?
「怒らないで下さいね。これもタイプです。私はいつもこんな気持ちで弓を引いています。ですから早気もモタレもあり得ません。私の料理に嘘はありませんから」
うッ……。どうしてこんなに説得力があるんだ……? と言うか、どうして俺はこんなに共感できるんだ……?
料理に関して嘘はない、これは俺のモットーでもあるけれど……。
「あ、そうだ。弓道部のジャージやTシャツの第二弾って、いつ配布ですか?」
Tシャツ第一弾は修学旅行前に配布されて、東京ではホテルで俺も着ていた。エルマは持ってないが、エルヴァさんは持っている。
毎年恒例で、春から夏に掛けて三枚は作るんだ。黒地に白抜きで『正射必中』や『一射入魂』、『一射絶命』に『千射万箭』といった四文字熟語が多い。たまに霞的に矢が刺さっていたりするイラストだ。
予算が余った年度によっては男子が青地に白抜き、女子が赤地に白抜きの第四段配布がある。
ジャージは秋に配布されるんだが、これは1年と途中入部の者だけだった。
「Tシャツはでき上がり待ち。来週にはできると思う。ジャージは秋だ。1年生と一緒に作ると思うから、そっちのでき上がりはだいたい10月だな」
「やった!」
「え~。エルマと一緒? ほとんど引退間際じゃないですか……」
「仕方ないよ。3年生なんだし。それにさ、OBも皆んな着てるから」
「あ、そうか。卒業しても着れますね。後輩指導で制服を着て行っても良いですか?」
「何で制服?! そんな先輩が来たら、腰が抜けるぞ!? ずっと似合いそうだけど……!? な、何やってんのさ?! 袴の脇から道衣の裾を上げるな!」
「ずっと似合うって嬉しい事を。ですからお礼に、本日の勝負パンツを見せてあげようとしただけです」
「何言ってっだッ!」
「噛んだ」
「噛んだ」
そうしてエルヴァさんとエルマは向かいに帰った。疲れた……。
その夜、俺は夢を見た。割れたアスファルト、蔦の絡まるビルの残骸。風化した民家の屋根を突き破る樹々。
掘っ立て小屋みたいな家で腹を空かしている妹達。狩りに出ているのは俺と親父とエルヴァさん。そして毎回獣を獲ってくるのは親父とエルヴァさんだった。
エルヴァさんは確実に弓で射殺す。親父は弓でなく罠猟だ。そして俺の矢は中らない。毎回獲物がないのは俺だけだ。リズとお袋、そしてエルマは木の実を拾ったり、野菜を育てている。ルヴィアさんや遠坂も罠猟をしているのに。
皮を剥いで血を抜き、料理するのはエルヴァさんとセラだ。俺もそれを手伝うけれど、味付けで負けてしまう。何より毛剃や内蔵処理が俺は甘い。なので臭みが残り、イリヤ達が嫌がるのだ。
俺だけが何もできない。何も獲れない。料理も中途半端。惨めだった。
『生きるためだぞ。家族を食べさせるために猟をするんだから、中て射とかどうでもいいだろう?』
『私から言える事は、猟課のない人間は、この文明の滅んだ現代では無価値です。明日に命を繋ぐ行動が取れないのですから。キミの食い扶持分だけ、妹達の食料が減るのですよ?』
ああ……。美綴、エルヴァさん……。
『士郎、型は大事さ。それはセオリーだ。明日も確実に獲物を得るためのね。けれどそれに囚われ過ぎて停滞するのはダメだよ』
親父……俺は……。
バトル回というより試合回。ローカルな大会を本気で描きました。
そして決してアーチャーにはならないイリヤの兄の士郎。そんな彼の弓に対する姿勢と悩み。
それは人として当たり前なんですね。
けれどstaynightの士郎は空っぽが故に、人が行けない領域に行ってしまった。
アーチャーを形作るもう一つの要素です。
夢にでる切嗣は呪いを残した切嗣ではありません。魔術師殺しを辞め、家族とともに生きると決めた切嗣です。