昨日は大変だった。試合のあった日の夜、エルマお姉ちゃんが夏休みの宿題をチェックしてくれたのだけど、今の私達だと夏休み中にはとうてい無理な量だと判明したのだ。
だから宿題から学ばなければならないポイントを抜き出したプリントを作るから、この宿題の答えを今夜中に薄く書くので清書しなさいって言われた。
今夜中ってどういうことって聞くと、宿題はドリルやプリントだけじゃなく、観察日記や自由研究もあるだろうと言われてハッとした。そうだ。それもあったし読書感想文もあったんだ。
それに観察日記や自由研究は手伝ってもらえいないし、感想文も本を自分で読まないと。何より上手く進めないと自然学校はすぐそこだし、エルヴァも来る。エルヴァに恥ずかしいところは見せられない。
だから焦った私とイリヤはできる限り片付けようと美遊も誘って、ラジオ体操から帰った朝の7時から、エルマお姉ちゃんから受け取った宿題を清書していたのだ。
それを頑張って1日で終わらせた。いや、清書するだけだから偉そうには言えないけれど。そして夕方の6時に清書が終わった私達は美遊も交えて晩ご飯を食べた後、エルヴァお姉ちゃんのところへ行った。
それは観察日記や自由研究に関しては、エルヴァお姉ちゃんと相談しなさいとエルマお姉ちゃんに言われていたからだった。そしてアルバイトから帰って晩ご飯を食べていたお姉ちゃんは、美遊を送るついでに美遊の家まで行って、そこで相談に乗ってくれた。
それで簡単にできてためになる自由研究と、毎日できる観察日記の方法を教えてくれた。自由研究は『浸透圧』だった。お魚を焼く前に塩を振ったり、ジャムを作る前にフルーツに砂糖を掛ける理由を話してくれ、キュウリの塩漬けを皆んなで作って冷蔵庫に入れた。
8時半に家に帰ったんだけれど、タッパの中のキュウリがどうなっているかは、今朝美遊が教えてくれることになっていた。これらのことをノートに書き、テーマ、実験、結果、考察、感想などに文章を分けて書き直して、最後は模造紙に大きく描く。それで三人の共同研究にして発表すればいいよと教えてくれたのだ。
それから観察日記は、『セミの声』だった。深山町だけで4~5種類は蝉がいるんだって。柳洞寺まで行けばあと1~2種類は増えるらしい。それがどういう風に鳴くのか、何時頃に鳴くのか、朝とお昼と夕方はどう違うのかを書けば良いよだって。
ラジオ体操に行くときや、遊びに出るときに、メモと筆記用具があれば楽勝だよとも話していた。確かにこれなら簡単かも。
「イリヤ、読書感想文の本はどうする?」
「そうなんだよね。何にしよう? 一緒だとダメなんだろうね」
「それはマズいわね。だって姉妹で写しあったみたいに思われるわよ」
「だよね」
一応、推薦図書はあるけれど、これは他の本を読んでも良いことになっている。昨日、美遊やお姉ちゃんに聞けば良かった。後から気付くのが私とイリヤだ。
「クロお姉ちゃん、もう行かないと」
「あ、そうだ。メモメモ」
そうして私達はラジオ体操に行った。美遊は番地が違うので、別の公園だ。
「朝早いのに、もうセミが鳴いてるね」
ジーワ、ジーワ、ジーワ。ミーンミンミンミンミーン。シャーシャーシャー。なんだか遠くでガガガガガってうるさいのがいるけど、あれもセミなの?
「ホントだ。今まで気にしなかったけれど、色々いるもんだね」
「本当だね」
体操が終わって家に帰る途中で、お姉ちゃんとイリヤのお姉ちゃんに出会った。ラッキーと本のことを相談すれば、『冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』と『シートン動物記 オオカミ王ロボ』、そして『アーサー王物語』を薦めてくれた。
『アーサー王物語』は登場人物が多くてややこしいけれど、直接インタビューできる人が身近にいるから面白いよだって。イリヤとじゃんけんして、イリヤが『冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』、私が『アーサー王物語』に決まった。
朝ご飯を食べたら買いに行こうって話していたら、お姉ちゃんにこんなことを言われた。
「お誕生日、めでとうございます。今夜は美遊ちゃんを交えてパーティーですから、楽しみにしていて下さい」
そうだよ! 誕生日だよ! 思いっ切り忘れてた。明日のお姉ちゃん達のことは憶えてたのに。
「エルヴァ~」
「ん? 何ですか、姉さん」
「おチビちゃん、可哀想じゃない。『アーサー王物語』を取られちゃったら」
「ですから読書の本は同じでも、感想文の中身は『ランスロット物語』や『モードレッド物語』でも良い訳ですよ」
「あ!」
「姉妹で同じ本なら、先生に感想文を写しあったと思われるって話していたでしょう? そこを逆手に取るのです。群像物語は登場人物の数だけ、書こうと思えば別の内容が書けます。それで本に足りない部分があったら、この時はどう思ったのとインタビューすれば良いのですよ。作者はどう考えたとか、どういう意図で書いたとかクソ食らえです。真実に勝るものなどあるはずがありません。何よりモードレッドとおチビちゃんは縁が深いです。ちゃんと理由を話して、頭を下げれば話してくれますよ。それにエルちゃんが味方をしてくれます」
「ああ、そっか。それで子供同士がもっと仲良くなれるよね?」
「そうです。ミソはアーサー王がどういう気持ちで岩の剣を抜いたのかを聞けたとしても、カムランの丘でどう思ったとは聞けないところです。ですが想像はできます。『辛かったろう、悲しかったろう。だってアーサー王は人々のために、国を少しでもよくしたいから剣を抜いて王になったのに。でも国は滅んでしまいました。私はそこに諸行無常を感じました。5年1組、エルヴァ・フォン・アインツベルン』」
「え!? あ、そうか。一番上のお姉さんが、元セイバーなんだっけ?」
「そうです。それで『アーサー王物語』で読書感想文を書いたのですよ。読んでいる間、恥ずかしいから読むなとか文句を言いながら、麦茶を入れてくれました。畳の上で寝転んで読めば、正座して読めとか言ってましたね。恥ずかしいから読むなと言っていた人が。フフフ……」
「気難しい人なの?」
「そうですね。姉さんの知るセイバーとはかなり違います。モードレッドさんに似ているかな?」
「そうなんだ? 親子だもんね。そういうセイバーも居るんだね。でも、感想文って面白そう」
「では、姉さんには私から宿題です」
「なに?」
「8月いっぱいで『ギリシャ神話』の感想文を書いて、私に提出して下さい。エルも8月に来ますから、アルさんに突撃インタビューですよ。世界一強かった人のリアルな思いを聞いてあげて下さい」
「そうだよね! そうよ、そうだわ。うん、私も書くよ。アルバイトの帰りに本屋さんに行けば良いのね?」
「いえ。小学生向けではない『ギリシャ神話』や『アーサー王物語』が部屋にありますから。それをお貸ししますよ」
「うん、わかった」
お薦めのファンタジー本を、読書好きなこの姉は次から次に読み終えていた。そろそろ違う系統の本を薦めようと考えていたので、『ギリシャ神話』はちょうど良いだろう。
何よりその昔、召喚前に読んでいた筈だ。その時の感想と今の感想はかなり異なると思う。それを自覚する事で自分を見つめ直せる。実の姉のようになって欲しいのではない。この人なりの良さはそのままに、ここで生きて欲しいのだ。
そしてこの人もここで生きる事を望んでいる。そもそもの言い出しっぺが自分自身だ。ただ、それで良かったのかと今は少し迷っているのだ。
理由はおチビちゃんの存在だ。ヘラクレスを召喚しなかったイリヤスフィール……。
実の姉に対しては、私の実の姉としてカテゴライズされ納得しているようだけど、以前の自分にそっくりなおチビちゃんには幸せで居て欲しいと迷うのだ。だから受肉に踏ん切りがつかない。悪影響を与えないか不安で。
なら、可愛い妹のおチビちゃんにアドヴァイスを送ってあげましょうよ、姉さん。それが一番の近道です。エルが巫女の姉さんと、ちぃ姉さんを連れて来てくれたらアッサリ解決しそうに思うのだけど。人の心は難しいなぁ。
今、俺は焼きそばを焼いている。だけど一向に無心になれない。別に前で声を張り上げている人のお尻が気になるからではない。気になるのは先日見た夢であり、その内容だ。
エルヴァさんを恨む気持ちはない。人種の違いや育った環境の違いは感じても、あれはあれでアリだと思えるから。それにあの美しさとは裏腹に、自分は中て射だと前々から話していたんだ。それでもあの結果と美を両立させているのだから。むしろ、どれだけ自制しているのかと感動する。
原因は俺が少しずつ、迷いを溜めていた事なんだ。秋月先輩と話す内容が理想と思えても、どこかでそれだけじゃないだろうとも感じていた。
弓は狩猟道具、料理を作らない包丁。もっともだと思った。学生弓道は的中精度が最上位に来る。試合の結果は、ほぼそれで決まるからだ。
腹を空かしたイリヤにクロエか……。
「お兄ちゃん、焼きそば四つ」
「四つも食うのか、イリヤ? お腹、壊すぞ?」
「ダメだ。心ここにあらずだわ」
「ここは、『二つで十分ですよ。わかって下さいよ』と返さないと」
「エルマが何を言っているのかわかりませんが、どうしたんですの、シェロ?」
「え?」
目の前には、水着姿のエルマとルヴィアさんと遠坂、そして知らない外国の人が立っていた。
「うわぁ~~っ!」
取り敢えず、落ち着きを取り戻し、俺は焼きそばを四つ渡した。四人はセンターにパラソルがある円形テーブルに着いた。既にドリンクが置いてある。レジからはお代金済の声が掛かった。
初めて見る人はマルガリータさんと言うらしい。エルヴァさんと親しげに挨拶を交わした後、テーブルに着いていた。
「やっぱりか。私の声ってイリヤちゃんに似てるんだ?」
「ああ、それを確認したくて不意打ちで『お兄ちゃん』と?」
「そうです。以前似ているって言われてそうなのかなって。自分ではお姉様に似ているつもりだったから不思議で」
「自分の声は、自分の耳で聞く場合と他者が聞く場合で異なりますわ」
「録音したら、また違う感じがしますものね?」
「ええ」
「私としては中間くらいに感じるけどね。エルヴァにも似ているし、イリヤにも似ていると思うわ。ルヴィアはどう思う?」
「姉妹であれば声帯も骨格も似ますわ。似た傾向の声になるのは当然でしょう。エルヴァさんも驚いた時の高い声は、イリヤスフィールにそっくりですわよ。ただエルヴァさんのお声は、どちらかと言えばクロエっぽく感じますわね。そしてエルマがイリヤスフィールに近いかと。と言いますのも、お姉様のイリヤスフィールさんとエルヴァさんは、お声の傾向は似ていますが微妙に異なっていましたでしょう? クロエが成長すればエルヴァさん、イリヤスフィールが成長すればイリヤスフィールさんに似るのだと思いますの。ですがエルマはエルヴァさんとイリヤスフィールさんの中間くらいで、少しだけ声が高いのですわ」
「うん、私もそう思う。マルガリータさんはエルヴァの姉のイリヤは知らないのよね。あそこで料理を運んでいるイリヤじゃなく、同じ高校3年生の人だけど」
「ああ、三つ子だと聞いていましたね。ですが私は知り合って間もないせいか、イリヤさんのお声とエルマさんのお声を間違える時があります。ところがエルヴァさんのお声だけはすんなりわかりますね。きっと通りが良いのだと思います」
「あるわねぇ。イリヤよりクロエの方が声が届くのよ」
「ですわね」
「なるほど~」
女の子の会話ってふわふわしてるなぁ。だけど、今のは気付かないだろう。呼び込みをやっているエルヴァさんの声に、微妙なトーンが混ざったのを俺の耳は聞き逃さなかった。
鉄板から視線を上げると、エルヴァさんが目線で合図を送ってくれた。顎で指した先を見ると、弓袋を担いだ人がこちらにやって来る。美綴と白石だ。
仕事のある俺達には頭をペコリと下げ、遠坂やルヴィアさん達には挨拶を交わし、エルマが慌てて立ち上がり挨拶をした。それを制し、かき氷を注文して別のテーブルに着いた二人。美綴は何で弓なんて持って歩いているんだ? 海だぞ、ここ?
「ほら、おごりだ。遠慮せず食えよ」
「ありがとう。けど綾子、ここ弓道部率高くない? 衛宮君はともかくエルヴァ先輩まで居らっしゃるし。エルマはお友達とみたいだけど、男子の話してたバイト先ってここだったんだ?」
「そうさ。それと祐子。ショートカットの子は知らないが、黒髪と金髪は私のクラスメイトの遠坂凛とルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトだ。エルヴァ先輩やエルマに遠坂は、ルヴィアの家で下宿しているんだ。衛宮の家の真向かいなんだよ」
「そうなんだ?」
「それでここに連れて来た理由は、敢えて聞いて貰うためさ。やっとお前が本気になってくれたんだからな」
「ああ……そういう意味。だからってここまで引っ張られるとは……」
「え~、本日、白石祐子は弓を注文しました」
立ち上がってエルヴァさんに頭を下げる白石と美綴。拍手するエルヴァさんにエルマ。エルヴァさんは右手にメガホンを持っているので、左手で右手の手首あたりを叩いていた。どこかのアイドルっぽい。
そして俺は鉄板をコテでカツカツと叩いた。両手が塞がってるんだから勘弁してくれ。
ちなみにこのお好み焼き屋さんでお馴染みの大きなヘラは、地域によって様々な呼び名がある。例えば大阪はテコで、広島を中心に中国地方はヘラ、東京を含むその他地域はコテと呼ぶ事が多い。
が、昭和の中頃まではお店の人が持つ大きなモノがヘラ、口に運ぶ小さなモノがコテだった。コテとは小手で手の代わりという意味だ。
そして一銭洋食やキャベツ焼きがお好み焼きに進化して全国区に広まる頃、コテを業界用語風に逆さにしてテコと言い出したお笑い芸人さんがいて、それが広まったのだという。
では中国地方は何故ヘラなのか? それはあの地方のお好み焼きは、お店の人が焼くからだ。関東にはもんじゃ焼きの文化があったので、お客が焼いて口に運ぶコテが残ったのだ。
とは言え、関東でもお好み焼きは、お店の人が焼く物と認識されている。関西でも自分で焼けるお店は減少している。鉄板焼きでも、網の焼き肉でも、鍋でも、自分でやってこそと思うのだが。
イリヤにはお兄ちゃんは鍋奉行だと言われるが、そんな事はない。家での本当の鍋奉行はお袋だからな。
あ、焼き上がってる。俺、今すごく無心だった。やっぱり食べ物なのか? エルヴァさんが正しいのか? う~ん……。
「何で衛宮君はヘラをじっと見詰めてるの?」
「ああいう道具が好きらしいですわ。シューガクリョコ―でも会長と料理の道具を見に行ってましたのよ」
「らしいっちゃ、らしいけど。男の子って謎よね?」
「ですわね。ですがあれの片方が黒ければ?」
「クク……絵になり過ぎ。赤いエプロンを贈ろうかな?」
「ホホホ……それもまた……」
「白石先輩も『粋』買ったのか」
「スイカ?」
「ウォーターメロンの事ですわ、マルガリータさん。夏はウォーターメロンですが、お肉と頂くと大変ですのよ」
「どうしてですか?」
「胃液が薄まり消化不良を起こす場合がありますの」
「食べ合わせが悪いワケね。日本だとスイカとうなぎとか、スイカと天ぷらって言われるわね」
「ああ、なるほど。わからなくもありませんね。要は水気の多いものと油の多いものを一緒に食べるのを控えろと」
「そういう事ね」
遠坂達の会話はともかく、美綴は弓の握り革を張り替えに弓具店へ行き、そこで弓を注文する白石と出会ったらしい。
ランクはわからないけど、桜と同じ弓を選んだんだ。あれは柔らかくて女の子向きだと思う。おまけに性能はしっかりしているし。俺にはちょっと物足りないけど良い弓だと思う。
ん? 手ぶらって事は在庫がなかった? あ、そっか。桜と同じで手の大きさに合わせてオーダーしたのか。それを来月のブロックで使うぞと。それで美綴は。なるほど。
「だけど祐子、思い切ったな?」
「もうとことんやってやるって、貯金を下ろしたの。エルヴァ先輩、わかってくれたかしら?」
「ああ、私の意図に気付いているさ。あの先輩なら、絶対に大丈夫だ。これで先輩方のお初洗礼はなくなるよ」
ウチの学園弓道部には弓が百張以上ある。弓力を測るだけの弓に、学園弓道部に在籍している間貸与される弓。これが中等部用、高等部用と揃っている。16キロ以上の余程強い弓でない限り大抵あるだろう。特に高校生の平均的な弓力のものは数が多い。それも学生に人気のある銘柄の弓ばかりだ。
1年生は巻藁練習をする頃に、弓力を測った上でそれらが貸与される。そこにポスカで氏名と弓力を書くのが1年生の歓びだ。だって弓の貸与は的前に立つ一歩手前なんだから。これまでの苦労が報われる寸前なのだ。
そんな恒例の流れとは違い、俺や桜みたいな中等部からの内部進学組で元々弓道部だった者は堂々と春先から自前の弓を持っていたりする。また美綴みたいに基礎ができて弓力が安定しているのなら、自分好みの弓を買うやつもいる。
だけど数は少ない。やはり高校生でも途中で身長が伸びて矢尺が変わったり、弓力が上がったりするからだ。
これは例外中の例外だけど、エルヴァさんは入部から僅か数週間で弓を買った。3年からの編入で上級生だったし、何より腕が際立っていた。だからやっかみも無かった。
そう、やっかみなんだ。嫌だなと思うけど、たまにあるのが困りものだ。中等部時代の桜のように、高等部生から可愛がられる方が珍しいんだ。やっぱり誰だって自分だけの弓が欲しいからな。
それで、陰湿なイジメこそ無いけれど、お初の弓なのに引かせてくれとか試射させてくれとか言ってくるんだ。それでここはどうだとか、あそこはこうだとかやいのやいのと。それを圧えるために、美綴は白石をここに連れて来た訳だ。
だってエルヴァさんは遠峰前部長と並ぶ最高実力者だからだ。おまけに秋月前副部長を始めとする3年男子全員がエルヴァさんを認めている。付いたあだ名が『パーフェクトマシーン』だ。エルヴァさんなら鶴の一声ならぬ天の声で、雀の千声を黙らせられる。
そんな事を知らないOG三人がある日突然やって来て、外国人のエルヴァさんに嫌味を言った事があった。
ところが三人ともエルヴァさんの弓は引けず、更にエルヴァさんはOGの目の前で中白に皆中してしまった。あの見事な体配と射型で。
髪の色や肌の色、人種の違いをどうこう言われても黙っていた人が、自分の弓を引かれ、射型に口を出された事でかなり腹を立てていたのだと思う。
大学で活躍しているらしいが、どちらが格上かは一目瞭然だった。その翌週にエルヴァさんは遠的で、個人と団体で全国行きを決めたからなおさらだ。
遠峰先輩筆頭に女子は全員エルヴァ派だし、男子も三分の二がそうだ。美綴は本当に楽をしている。
だけど、白石ともども頭を下げに来たのだから、この辺の仁義は弁えている。あいつは、ああいうところが偉い。
お昼の休憩は1時半から30分。この間に何かを二品頼んで良い事になっている。ちなみにドリンクは無料。何杯飲んでも叱られない。これは熱中症対策でもある。
今日の俺は焼きそばとおでんだ。バックヤードに運ぼうとしたら、ちょうどそのタイミングでエルヴァさんに声を掛けた女性達がいた。
中の一人は確か、大会でエルヴァさんと同じチームだった人だ。女子大学の人だから、友人と遊びに来てくれたのだろう。
何を話していたのかは知らない。だって俺はバックヤードで食べていたから。俺が食べ終えてもエルヴァさんは捕まっていた。けれどスタッフTシャツを脱いで、談笑しながら皆んなでカレーを食べていた。
何とか食事にはありつけたようだ………………。あ~~~っ! クロエ、イリヤ、ごめん……。
挨拶と顔見世に寄って下さった兼石美也子さんとそのお友達。前も試合後のお蕎麦屋さんで聞いたが、現在通われている女子大学には弓道部がないらしい。
女子校時代の中高6年間、弓道一筋だった兼石さんにとって、弓道部のない大学なんてあり得ない存在だった。なので受験先を詳しく調べなかったのだとか。
受験先を失敗したと、かなり落ち込んだそうだけど、途方に暮れる兼石さんは大学で二人の友人に恵まれた。今日ご一緒された方達がそうなのだが、お二人も高校こそ違えど元弓道部員だった。
それで、以前から細々とサークル活動をされていたのだが、あの試合を契機に三人で街の道場に出向き、以前より矢数を掛けるようになったのだとか。つまり本格的な再始動だ。
「ミヤ~、ミヤが言ってた、すっごく上手な高校生ってこの子なのね?」
「そう。前に見せた新聞に載ってた、遠的で皆中だったスーパー高校生。ね、エルヴァさん?」
「兼石さん、恥ずかしいですよ」
「と言いつつ、堂々としてるなぁ。あなたの活躍は、高校生の弟から聞いて以前から知ってたけど、色物枠と思ってたの」
「ミカ、失礼よ」
「ゴメンね。でもミヤの試合の話と、あなた自身に会ってわかった。体幹はしっかりしているし、受け答えも高校生とは思えないわ。弟ともども応援するわね」
「ありがとうございます。ですが弟さんって?」
「県立工業の副主将。2年だけど大前なのよ」
「ああ、大きな会のあの人」
「身体が大きいだけだよ」
「ミカの弟は四寸伸だからね」
四寸伸って七尺七寸(233センチ)だ。となると身長は180センチ以上? 矢尺も100センチはありそうだ。凄いなぁ。
「レイナの兄貴も背が高いじゃん」
「うん、袴も似合うし憧れのお兄ちゃんだったのに、大学で弓道部に入らなくてさぁ」
「どうしてですか?」
「試合中うるさいし、弓返りしないヘタが無理して中てに行くから射型がボロボロで。そんなのが3年や4年だと思うとやってられないって、1年の時に見学だけで帰っちゃったのよ。それで今は街の道場で教わっているのね。だからエルヴァさんの事も私は知ってたのよ。お兄ちゃんがべた褒めしていたもの。薫ちゃんより巧い子が居たって。遠的の練習を何度か見ていたらしいわ。私はミカと違ってミヤと同じ冬木が地元だから、試合もお兄ちゃんと一緒に見たのよ。ファンになっちゃったわ」
「ありがとうございます」
弓を執ってから、こういう知り合いが増えた。そして皆さん、弓と何ならかの関わりがある。美也子さんのお友達だけあって爽やかな印象の人達だった。海の日差しは強く、日差しと言うより肌に刺さる日射しだ。暑いけれど、一陣の涼風が吹いた気がした。
ちなみに陽射しはポカポカする真冬の太陽のイメージがある。Sunlight(日差し)とSunshine(陽射し)の違いだ。
だけど真夏のジリジリ来る太陽は『日射し』だと思う。肌の色が濃いので熱の吸収度が高いのだろう。
今夏の私は、小学生のクロエちゃんに負けないくらい真っ黒だった。プールは2回しか入っていないのに。
アルバイトが終わった夕方5時、士郎クンにケーキの受け取りをお願いした。新都のフルールにバースデーケーキを三つ頼んであったのだ。
一つで良いのではと考える人も多いと思うが、私という人間は妹達にどうにもこうにも甘い。なら、感情の赴くままに好き放題させて頂く。
注文してあったのは5号サイズ(直径15センチ)の可愛いホールケーキ。一つはフルーツケーキで、一つはフルールの名物ベリー・ベリー・ベリーと同じラズベリーを使った特製ケーキ、もう一つはシュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテだ。
シュヴァルツヴェルダーは何度か作ってあげていたが、アルバイトと部活でそんな暇が取れないのと、たまにはプロのトルテを楽しもうと注文した。
クロエちゃん、おチビちゃん、美遊ちゃん三人の合同パーティだから、ケーキ三つにメインの料理も三つだ。と言っても料理は余り凝らない。
ポテトサラダや缶詰のホワイトアスパラガスにキュウリとトマトのサラダ、ポテトフライとミニハンバーグはセラに頼んである。
ルヴィアのところをお借りするのだが、ニコさんもサーモンで2~3品作ってくれるそうだ。ルヴィアに着いて日本に来れば、創作意欲が次から次に溢れて仕方ないのだとか。
先日もいつか『ニコ』という名の、今まで学んだアイデアを注いだレストランを持つのが夢だと話して下さった。
元々がフランスで本場のフレンチを学んだ方だから、腕は確かだし好奇心も旺盛だ。これだけの人なら、いつかきっと叶うと思う。
イリヤ姉さんはと言えば士郎クンの付き添い兼、フライドチキンの買い出しだ。これはセイバーと合流して行って貰う手筈だ。
『はじめてのおつかい』ではないけれど、一人一つのケーキを崩さず持って帰って来て欲しいのと、余計な物を買わないようセイバーを付けた。この最後の理由だけは当然黙っている。
メインはサバのピカタに、昨夜から仕込んだスープ・ド・ポワソンから作ったソースを掛ける。次がランプのローストビーフで、こちらはさっぱりとヨーグルトソース添えだ。最後の一品は豚バラとナスのバター炒め。大根おろしを添えてポン酢で頂く。
何故メインがこんなにあるのかと言うと、場所を提供してくれるルヴィアは当然として、子供達を見守ってくれている凛にセイバーといった人達へのお礼も兼ねているからだ。
大きく育つというのは一人では絶対に無理なのだ。周りの人の暖かな支えがあってこそだ。そこに気付いてくれるなら嬉しいけれど、無理でも料理を出す時に話せばわかってくれるだろう。誕生日は決して自分だけの日では無いのだから。
帰ると急いで厨房に向かった。パーティは7時からだが、コック長のニコさんとセラにエルマがせっせと料理を作っていた。私も手を洗い調理に加わった。
やがてそれぞれのケーキに立った、小さな11本のローソクの火が吹き消された。
そしてプレゼント。二人の士郎クンからは可愛いブレスレット。代表してこちらの士郎クンが渡した。五芒星のデザインはおチビちゃんに、六芒星のデザインは美遊ちゃんに、そしてハートのデザインはクロエちゃんに。
私と凛とルヴィアからは加護の概念を込めた、ブレスレットと同じデザインのペンダントだ。
そのペンダントの真ん中には、おチビちゃんはルビーとアクアマリンキャッツアイ、美遊ちゃんにはサファイアとルビーとアクアマリンキャッツアイ、そしてクロエちゃんのハートにはアクアマリンキャッツアイとルビーが嵌め込まれている。
厳密にはこれらの宝石が凛とルヴィアからのプレゼントで、私が飾りに加工したのだ。小さな石にこれでもかという魔力が練り込んである。
言うまでもなくルビーはカーネリアンと並ぶ7月の誕生石だ。石言葉は熱情・仁愛・威厳。そして7月20日の誕生日石はアクアマリンキャッツアイであり、こちらの石言葉は光明である。そしてこの日は月面着陸の日であり、ハンバーガーの日であり、Tシャツの日でもあった。
なお、エルマのプレゼントはセイバーや姉さんの協力を仰いだ礼装だった。ルビーを分解していると追加装備用のスロットやソケットの存在がわかったので、そこに接続するアタッチメントを開発したそうだ。
既にこの子達のルビーやサファイアに組み込み済みなのだとか。いつの間に。安全面を考慮して自分のルビーで確認してあるそうだ。これにより四つほど機能が増えるらしい。
あの子はエルの魂のマトリクスを解析して造られたデザイナーズ・スピリットを持つのだが、フィオレさんもサンプルになっているのだろうか? その発想はちょっと飛び過ぎだ。
そしてこれ以上は小学生には重荷になるので、花束を渡した。凛からはおチビちゃんに。
「おめでとう。ルビーの事で迷惑掛けたわね。でも、知り合えて良かった」
「凛さん……」
ルヴィアからは美遊ちゃんに。
「ご苦労さま。そして、おめでとうございます。家は異なれど、あなたは私の妹。それを忘れないで下さいまし」
「ルヴィアさん……」
そしてクロエちゃんには私から。
「おめでとうございます。私も何度か誕生日を迎えた経験があります。それはこの世に産まれたからですね。命を分け与えて下さったお父さんやお母様の愛情、あなた達の成長を見守って下さるお兄ちゃんやセラさんやリーゼリットさんの心、そしてそっと支えてくれる周りの人々の暖かな気持ち。クロエちゃん、イリヤちゃん、美遊ちゃん。それを忘れないで下さいね」
「お姉ちゃん……」
御礼の言葉は三人から。シンキングタイムの少なさから、ある程度考えていたみたいだ。
「生まれてきたこと。イリヤ(クロお姉ちゃん)や美遊(クロエ)に会えたこと、そして皆んなに会えたこと。その全てに感謝します」
両親のいない美遊ちゃんのために、敢えて両親への言葉を外す。5年生なら立派なものだ。ぷうっと膨れるお母様に、お詫びのポーズを取るクロエちゃんにおチビちゃん。春からこっち大きくなった。これなら安心して倫敦に行けそうだ。
「お姉ちゃん、料理が多すぎない?」
「その分、明日からお茶漬けかソーメンです」
「え~!」
「それは冗談ですが、今のあなた達なら運動量は十分です。なので、食べ過ぎない程度に食べれば夏バテはしないでしょう。5年生の冬から中学3年生くらいまでどんどん背が伸びます。この夏をしっかり乗り切らないと、お姉ちゃんみたいなホビットのままですよ? ね?」
「ね、と言われても。誕生日のお祝いなんてした事ないし」
これはクロエちゃんが反応を確かめたのだが、返ってきたのはイリヤ姉さんからだった。やはり姉さんには誕生日のお祝いが無かったか。
この方にとって誕生日は、1年経過でしかない。各種検査に調整。これが11月20日の恒例だったのだ。だから11月20日は思いっ切りお祝いをしてあげよう。
ニコさんがサーモン料理を運んで来た。ノルウェーのサーモン・バターソテーに、和食の炙りサーモンのズケ。そしてホイル焼きだ。
バターソテーは北欧では知られた料理で、焼き鮭を越えるとも言われる絶品料理だ。カリカリのムニエルにホワイトソースでないところに拘りが感じられる。
ズケも凄い。ガーリックが効いていて大人の味だ。日本酒が欲しくなる。ホイル焼きはピーマン・ニンジン・タマネギが入っていて、バターでなくオリーブオイルとハーブで味を整えていた。
この後の二品は日本で研究したのだと思う。ホイル焼きはしめじやえのきを使わず、ハッセルバックと包めば立派なメインになる味だ。
ホイル焼きは前々から私もあれこれ研究していた。そんな中にサワラとプチトマトにチーズというレシピがあるが、冬ならタラやブリでトマト・パッツァにしても良い。
ホイル焼きは見た目の豪華さの割に楽な料理なので、家でもキャンプでも手軽に楽しめる。
似たような事を考えているのか、士郎クンがブツブツ言っていた。そう、キミはそうやって雑念を追い払いなさい。雑念さえ消せばキミに抜けない的はないのだから。
そんな風に士郎クンを見ていたら、マルガリータさんに微笑まれた。
「若いって良いですね?」
「勘違いですよ。彼は家族で可愛い弟ですから。姉として心配なだけです。それに私の理想はムキムキ・マッチョですよ」
「そうなんですか? どうしてムキムキ? 正反対じゃないですか?」
「私を小脇に抱えて走っていく男性ってカッコ良いかなと」
「ま、まぁ、好みは人それぞれだと思いますが……。小脇に……」
実は子供の頃に小脇に抱えられた思い出があって、あの時に私を抱えたのはアルトリア姉さんです。その時のうわぁ~って気持ちが尾を引いていると言いますか、男性観に混ざっているのですよ。
余ったらその時はその時と思っていた料理もほとんど残らなかった。セイバー大明神のお陰だ。私は洗い物と後片付けに入る前に美遊ちゃんを厨房に呼んだ。
「あの……?」
「あなたの家でも合図を送ったつもりでしたが。お金はいつでも良いですからね。そうではなく。ここには大勢の仲間が居るでしょう? 今、ほとんどのメイドさんが奥の従業員用食堂に集まってます。11歳になりましたって報告を」
「ミユ、一緒に参りましょう。自慢の妹が大きくなりましたと申し添えねばなりませんから」
「ルヴィアさん……」
私が美遊ちゃんを呼んだので、何だとルヴィアが着いて来ていた。まぁ、借金の事さえ聞かれなければ、後はお任せだ。夏休み中に妹さんに会えればなぁ。何とか治してあげたいものだ。
7月21日の水曜日。
19日の月曜日が海の日の祭日だったので、練習日が一回飛んでしまった。その分、海の家の売上は凄かったらしいけれど。
練習用の袴と道衣をバッグに詰め込んで、階下に降りた私はオーギュストさんにご挨拶方々、本日届く荷物に付いてお願いした。
快く受け取りを引き受けて下さるオーギュストさんに感謝だ。荷物の内容は、自転車用の各種工具とパーツ。あれやこれやと注文したら10万円を軽く越えてしまった。
食堂で既に座っていた、凛とルヴィアにマルガリータさんと挨拶を交わした。まだ運動着姿だから、今ジョギングから帰ったところなのだろう。
「早いですね?」
「そっちはとっくに走り終えて、部活の用意も終わっているじゃない」
「一昨日の朝練が無かったもので」
「燃えてんだ? ま、こっちもね。次のロシア行きのプランを練っておきたくて」
「なるほど。出発は?」
「8月の9日以降。当然、師匠にあっちのルヴィア、それにエルやエルヴァと会ってからよ」
「前回の感触が良かったですので、次は2週間ほど出ますわ」
「わかりました。ところでエルマは?」
「部屋に居ませんでしたの? 会っていませんわよ」
「なら、部活に出ていますね。随分と張り切ってますね」
「誰とは言わないけれど、怖い先輩が居るからじゃないの? 目で見るな、心で的を見ろとか言って」
「Ум глаз」
「な、何て?」
「Mind-eyeですわね」
「ああ、心眼。そうそう、それを言いたかったの」
この三人は仲が良いなぁ。
「ですけど、リン。そう簡単には得られるものでもありませんでしょう?」
「そうね。でもエルマなら、ものにできそうな気もするけど。姉貴は持っているんだし」
心眼ねぇ。カードを触媒にしているので、クロちゃんやクロエちゃんはオリジナルと異なり『心眼(偽)』だ。そしてエルは元から『心眼(真)』を持ち、ランクは『EX』だと豪語している。
私? 知らないというか知りたくもない。あんな予知染みた能力なんて。
四人で朝食を摂り終わる頃にセイバーとイリヤ姉さんが現れた。ジョギングをサボったのでなく、子供達に着いて行きラジオ体操を見ていたらしい。
子供達がわらわら集まって、一斉に体操って珍しいものなぁ。初めて参加した時、東洋のサバトかと思ったくらいだ。
それも魔女の方のアレでなく感謝の集い。春分、ヴァルプルギス、夏至、第一収穫祭、第二収穫祭(秋分)、ハロウィン(収穫祭)、冬至、節分などなど。1年の節目を祝う古い方の風習。
ラジオ体操を最初、私はそちらだと思ったのだ。だって夏休みに入って、自然学校から帰ると夏祭りになり、毎朝ラジオ体操だ。
数日も経たずに違う事には気付いたし、どちらかと言えば秋の盆踊りがサバトだと思うように変化したけれど。日本は異国情緒あり過ぎだ。
「おはよー」
「おはようございます」
イリヤ姉さんが下りてきて、凛やルヴィアと挨拶を交わしている。バイトの時間に合わせているから、朝練があるこちらよりかなり遅い二度目のお目覚めだ。そのせいで雁字搦めに抱きしめられたベッドから抜け出るのに苦労した。
「おはようございます」
「おはよう、エルヴァ。エルマは1時間ほど前に出たみたいね」
あ、ラジオ体操前に出て行ったのか。
「早いですねぇ」
「今日なんでしょう? 自転車が組み上がるの。自分で自分の誕生祝いだって」
「自虐と言うより、心躍る状態ですか。楽しみにしていましたものね」
「そんな感じだろうね。ゾウケンとルビーが同じような事を言ってたわ」
やはり姉妹か。私も工具の発送通知や、本日届くとのお知らせメールで浮かれていたりする。
だから朝食をゆっくり噛んで心を落ち着けた。そして身支度をして家を出た。自転車で門を抜けると士郎クンが出て来るところだった。相変わらずのタイミングだ。
とは言えジョギングしている時にどこかで会うので、タイミングが合いやすいのもあるけれど。
「エルヴァさん、これイリヤ達から」
「ん?」
それはディナーの招待券だった。ふむふむ、心当たりは大いにあるが、そういう事にしておこう。予感はあったので凛とルヴィアには昨晩から、今日の夜は向かいで食事になると思うと話してある。
その前にプレゼントは子供達にと、お互いに贈り合わない事に決めてあった。ただし、エルマに贈る分や年明けの桜ちゃんに贈る分は自由であるとも話してある。
さて、道場に到着すれば7時前なのに、やたらと人が多い。良く見れば1年生が全員出ていた。
早番の美綴部長が苦笑いだ。皆んなヤル気満々で、掃除も終わっているそうだ。仕方なく道着に着替え、柔軟体操をした。
7時ジャストに全員が集まり、着替え終えて揃って挨拶したのが7時10分だった。2年も3年も誰も遅刻していない。1年生が早過ぎるのだ。
だけど美綴部長は夏バテ予防のためにも、睡眠はしっかり取るようにと話したのみだった。まぁ、そうだろう。今日は1年生が的前から、初めて28メートル先の的に向かって行射するのだ。
先日の5メートルはかなり纏まっていた。駄目だった人も三巡目には纏めて来た。五巡目には問題なしだったのだ。そして本日、全員が的前に立つ事を、前回の早朝練習の終わりに事前通達してあったのだ。
ただし、手の空いた2~3年生が必ず付き、一人で射るのは9月後半か10月半ばだ。この先輩の立会が無くなる事を、一人前になったと表現するのは穂群原だけかな?
そして1年生女子の三人が私に頭を下げた。何だろう?
「エルヴァ先輩。あみだくじで決めました。本日は私達三人のご指導をお願いします」
そういうのアリなの? 聞けば女子の全員と男子の三分の二が、このあみだとは別のくじに参加しようとしてスッタモンダしたらしい。
その上で決をとって男女別でのあみだくじに決まったそうだ。最初のくじって何だったのだろう?
そしてこのあみだくじは、女子は女子の先輩から、男子は男子の先輩からと決め、希望の先輩の名を上に連ね、そこから線を引いてあみだにし、自分達の名をじゃんけんで記入していったのだそうだ。
公平と言えば公平だけど。チラッと見た部長は顔の前で手を合わせ頭を下げているし、薫達はやれやれというポーズをしている。今の1年生ってこんなに大胆な学年だったのか。
桜ちゃんが目立たないのは、周りがアグレッシブ過ぎるから? ともあれ早く返事をしてあげないと、三人は頭を下げたままだ。
「わかりました。指導させて頂きます。ただし言っておきますが、皆さんより私の方が弓道歴が浅い事をお忘れなく」
「ありがとうございます」
元気に返事をして顔をあげた三人の内一人は、先日矢道で指導してあげた子だった。くじ運良いなぁ。エルマを横目で見ると、一瞬だけ般若のような形相を顕にした後に、首を振っていた。『いかん、いかん』とか思っているのだろう。
わかりやすい子だが、招待券は貰ったのかな?
三人の名は背の低い順から清水結菜、小島夕佳、麻上美衣子といった。先日の子は清水結菜さんで、1年A組だった。体育祭で同じ赤梯団だったそうだが、全然記憶にない。
身長は153センチ、一緒じゃん。どうやらそういう諸々のファクターで、一方的に憧れられているようだ。
小島夕佳さんは1年B組、身長157センチ。この子も赤梯団? 陸上部の子は結構覚えているのだけど。どうも清水さんとは昔からの友人らしく一緒に穂群原を受けたらしい。イケイケの清水さんに手を引っ張られるタイプのようだ。
麻上美衣子さんは1年F組で身長163センチ。私より10センチ高いのか。愛嬌ある可愛い系の先の二人と違い、清楚な美人さんだ。ただし、カロリーを使わなそうな人だ。お金持ちなのかね?
「では、先生が来られるまでに自分の弓に弦を張りましょう」
そうして手伝いながら弦を張り、カケをはめて控えの土間で素引きして貰った。これは八節の動作とクセを見るためだ。クセと言っても、今日初めて近的に挑むのだから見るのは射型ではない。見るのは筋肉と骨格のクセだ。
三人とも普段の練習はキチンとしていて、先輩の話を良く聞いているようだ。細かい点は覚束ないが、動作はできている。これはゴム弓指導や巻藁指導で真面目だった証拠だ。
「三人ともゴム弓は持っていますか?」
即答で『はい』と返された。家でも私をモデルにしてイメトレしているそうだ。ありがたい事だけど、それをこの子達の体型や骨格に応じてアレンジして教えてあげないと。
そして清水さんは身長こそ私と同じだが、腕が相応に短い。また、利き目がどうも左っぽい。小島さんは体がやや固く、特に左へ首を60度くらいしか回せないのが痛い。これはきっと赤ちゃんの頃からだろう。麻上さんは柔軟性はマシだが、やや猫背気味なのと筋力が弱そうなのが気になる。
三者三様だが、改善策を提示して着いて来れるかどうかだろうね。さて先生はいらしたが、的前はどこに入るのか部長に報告? それとも先生に?
「部長、適当に入ればよろしいのですか?」
「こちらへの声掛けだけで結構です。お好きなところへ入って下さい。ただしミーティング通り一人四射です。1年生が行射を終えれば交代して、巻藁や素引きでの指導をお願いします」
「了解しました」
では、空いているところをと見渡せば埋まり掛かっている。急いで六的目を奪取して三人を呼んだ。
「六的目入りました」
「はい。練習に入って下さい」
そして一人ずつ見ていくのだが。背の順にしたのは、前の人の射型を参考にできるからだ。私は指示するために棒矢を持っていた。
棒矢とは羽のない巻藁矢だ。矢尻が鋭いので矢尻側を握っている。
「気負わなくて良いですから。全員巻藁での引きで十分的に届きます。体配は気にせず、射型にのみ拘りましょう。まずは一人一射して頂き、チェックします。そこを改善しながら二射、三射と進めます。では、清水さんからどうぞ」
それで本座の控え側から見るのだけれど。うん。足踏みは歩幅が良い。胴造りはまぁまぁ。弓構えは落ち着いている。度胸のある子だ。さて打起しは、案の定体に近い。もう少し前が良いけれど、完全な45度は難しいだろうな。
「ストップ、そのまま。少し入ります。動かしますよ? 狙いはここ、この辺りが正解です。清水さんは左目が利き目です。後で詳しく説明しますから、違和感があっても今はその相対位置を覚えて会まで行きましょう」
そして離れ。違和感が強かったのか若干もたついたけれど矢は真っ直ぐ飛んだ。的の5センチ下に刺さったのは、もたつき分の失速だ。残心でいい形にしようと動くのはペケだよ。
「利き目に関しては説明が長引きますので、全員の行射が終わってからじっくり話します」
そう話して、ダメだったところを軽く説明した。二射目からバシバシ口を挟むつもりだ。今は的へ届く事の確認と、自分なりの的付けを大雑把に覚えて貰う方が先決だ。
「次は小島さん、どうぞ」
うわ、固い。体が固いだけでなく緊張しやすい子のようだ。このままだと危ない。
「ストップ。小島さん、深呼吸。それと、今まで体のどこかを払った経験がありますか?」
「はい。右側の髪の毛と左の手首を……」
覗き込みに行くのか。これで首が回れば耳を払ってしまう。手首は……あ~あ、紫色になっている。払ったのが先週の金曜日だとすると、当日はかなり痛かっただろうな。根性はあるのか。手の内を優先的に覚えて貰う他はないかな。弓返りさせてしまえばどこも払わないから。
取り敢えず左腕にタオルを巻いて、ハンカチ二枚で動かないように縛ってみた。そして覗こうとしないようにと念を押して引いて貰った。
一呼吸置いたのが良かったのか、動きが行く分滑らかだ。緊張も解れたのか無駄なチカラが抜けている。ほぅ、こうしてリラックスすると全体の射型は悪くない。
引分けから会で首が後ろに反るのは、髪を払った恐怖心と体の固さ、そして体幹の弱さからだろう。腕と胸筋で引いている。
要は背筋が弱いのだ。重い物を持ったりしないで暮らせる環境なのだろう。こういうところを自主トレできるよう促してあげないと。他所は知らないけれど、ウチの弓道部って雨の日以外は筋トレって無いからなぁ。
「入りますよ。この辺り、ここを狙って下さい。小島さんにとっては満月なのか暗なのかは私にはわかりません。ですがそれを基準にして覚えて下さい。では離して」
矢は面白いように的に中った。オーっという歓声があがる。1年生最初の的中だ。
末端に残った固さがご褒美をくれた感じ。馬手は固さから真っ直ぐで、弓手は怪我の功名か緩んでいたのだ。偶然の要素が多過ぎる。これも後で説明しないと。
「お待たせしました。麻上さん、どうぞ」
う~ん。足踏みの歩幅が狭いなぁ。太ももの筋肉が弱いから、狭めないと安定しないのだ。スキーに行ってシュヴング(プルークボーゲン)をやらせたら、半日で音を上げてスキーを辞めてしまいそうだ。背筋も弱いし腹筋も弱い。
スリムな良い体に見えるけど、運動は苦手そうだから少食なのだろう。
「麻上さん、好き嫌いはなさそうだけど少食でしょう? 栄養足りてます?」
「どうしてわかるんですか!」
「プロファイリングが結構好きでしてね。しっかりしたお家でお祖父様やお祖母様と同居?」
「はい、そうです」
「お父様が会社経営か役員か、医院経営をなさっているのかは詮索しませんが、代々学園出身とか?」
「当ってます。祖母と母がこの学園の出身で、祖母が弓道部でした。どうしてわかるんですか、先輩?」
「まぁ、見れば大体。特に麻上さんはわかりやすいです。さ、じゃぁ、行きましょうか」
そうして的前に入って貰ったけれど……あれ? 随分と上手い? 体配も射型もしっかりしているし、自分に足りないものがわかってる?
猫背気味だったのが足踏みと胴造りでシャキッとした。筋力が無いから全身で弓を引いている。これはこれで悪くない。それに物見でしっかり左に頭が向いている。
筋力の無さから後ろに反るような事もない。これは……的付けだけ軽く指示してあげるだけで済む。元々の的付けがかなり良いところだったのだ。
「良いですよ。そのまま会から離れまで。そう、しっかり残心! 良し!」
桜ちゃん、ピンチ! 掘り出し物というより、経験者だこの子。
「もしかして、お祖母様から教わっていました?」
「はい。あまり大きな声では言えませんが、家に三的の道場があって中学生になる前から……」
家に道場があるのか!
本当に知られたくないのだろう。とても小さな声だった。だから私も頷くだけで驚いた態度や声を出さなかった。麻上さんだけは私の表情を見ているので、驚いているのは伝わったと思うけれど。
弓道場がある家か……。かなりの旧家だろう。仕草や動作というか、雰囲気というか。品の良さからご両親のみならず、同居の祖父母が居ると推測したのだけれど。
とは言え、私の記憶では武家屋敷街に麻上という家は無かった。となると弓道場があるような家は遠坂神社近くの、幾つかの屋敷以外思い浮かばない。だけど未遠の血を引いているようには感じない。後で尋ねよう。
それでもって矢は、的のかなり中心に近いところへ刺さっていた。う~ん。
「麻上さんは自分の悪いところがわかっていると思います。私が気になったのは筋力の弱さです。それで安定しないのだと」
「それ、お婆ちゃんにも言われました。何か解消方法はありますか?」
「一番手っ取り早いのはジョギングですが……。もしかして、そこを期待して私に?」
「……はい」
やっぱりか。なら、自転車だ。これしかない。彼女が自転車に乗れるのかどうかは知らないし、乗り物禁止という家なら仕方ない。その時はフィットネスバイクをお薦めしてみよう。
それと試してほしいのは縄跳びや距離のある散歩、即ちウォーキングだ。走るという行為は歩く事の延長だ。そして人の体重のかなりの部分を締め、重力的にも血液が溜まりやすいのが両脚なのだ。
なので両脚を使う運動は、一番効果が高い。太ももの上下運動は、それだけで負荷になるし老化による衰えを予防できる。是非とも歩くクセを付けて欲しい。
そうして二射目を指導しながら引かせてみれば、清水さんが中てて、肩のチカラが抜けた小島さんが外した。麻上さんはまた中てた。
三巡目は清水さんが外し、小島さんが中てた。小島さんには最初に何故中ったのかを説明した。難しいと思うけれど、何とか理解して欲しい。弓返りが理想だけれど、今は難しいので手の内だけ柔らかくしてと念を押した。麻上さんは息切れだろうか? 中ったけれど6時の方向、かなり下の方だった。
四巡目は清水さん、小島さんともに中て、麻上さんはとうとう外した。案の定地面に掃けたのだ。課題が残るなぁ。
ん、何か視線を感じる。何だろう?
「何でエルヴァ先輩のとこだけポンポン中たるんだ!」
「先輩、どうなってるんですか!?」
2年生から苦情が来た。3年生は皆んな首を振っている。
「なんでさ?」
「それ、俺のセリフ!」
副部長、ナイスツッコミ。だけど……清水さんは×○×○。小島さんは○×○○。麻上さんが○○○×……。あ、レギュラー並に良いよ、これ。
士郎クンのところの1年生は、×××○、××××、×○××。例年だと、中たりが二人も出ただけで快挙なのだとか。
他に二人中たりは、3年生の田所さんのところだけ。一人中たりも数人。他は全部、土摺り。××××と残念のオンパレードだった。
ううう……皆さんの視線がキツい。おチビちゃんじゃないけど逃げたくなった。なので私はそそくさと三人を引き連れ、巻藁に向かった。この時コーチの目が光ったそうだが、その意味を知ったのは帰国した23歳の時だった。
矢取の合図が入ったら、三人を引き連れて矢を抜きに行った。初中たりを抜かせてあげたのだ。大喜びの三人。だけど私はそれを眺めながら、麻上さんの事を考えていた。どうして彼女は入部の際に経験者と申告しなかったのだろう?
「問わねばなるまい……」
「はい? 何ですか、先輩?」
「いえ。麻上さんのお宅はどちらですか?」
なんと家は三枝由紀香ちゃんの近くだった。つまり江戸時代からの家では無い。いつ頃か他府県から越して来たのだろう。
「麻上さんの家というか親戚に、本家とかあります?」
「はい。もう途絶えたそうですが、元は信濃の……長野県の豪族だったそうです」
「川中島の戦いでエライ目にあったとか?」
「ですね、信玄憎しですよ。鎌倉時代は足利直義に仕えた信濃源氏の一人だったらしく、川中島の頃は上杉謙信に仕えていたそうです」
凄いな、本家。
「では、三人とも巻藁のところまで戻りましょう。そこで清水さんに、利き目の事を話しますから」
そして巻藁のある控えまで戻った。
「先輩、利き目ってどういう意味ですか?」
「利き腕ってあるでしょう? それと同じで、目や耳や足にも無意識で主に使ってしまう側があるのです。お風呂に入る時にどちらから入るとか、リレーの時にどちらで一歩目を踏み出すのかとか。お家の人から声を掛けられても、左からだと聞き漏らす事が多いとか」
「あ~。ありますね、そういうの」
「まぁ、耳の場合は掃除を怠った場合もあるでしょうから、一概には言えない部分があります。重要なのは誰しもがあって当たり前ですし、無くとも問題ない点です。どちらを多く重点的に使っているかですから。ただ、日常生活には何ら問題なくとも、こういう的を狙う競技の場合はその事を自分で知っておかないと駄目なのですね。何故なら弓という道具は右目と左目を使いつつ、右目主体で狙いを付けるものだからです。左目が利き目であってもこれがライフルなら、左目を瞑って練習すれば右に慣れるのは意外と簡単です」
ここでライフルを構える仕草をした。
「ですが弓の場合は両目を開けつつ、右目に配分を多くして使うものなのですね。何故ならライフルの場合は銃身の延長上に狙いが来るように工夫されていますが、弓、特に和弓の場合は矢の延長上に狙いを来させる装置が使えません。つまり自分の身体に応じた、斜めからの狙いしか付けられないアナログな道具なのですね。なので人に的付けを見て貰い、何度も何度も練習して慣れるしかない訳です。まぁ、ここが面白いのですが。ですから清水さん。保護者の方と相談して、食事の時に左目に眼帯を掛けるなどして慣らして行くしかありません。女の子ですから色々気なるとは思いますが、早いうちから訓練しないと後になるほどハードルが高くなり厳しいですよ。初心者の今の間に慣らしましょう」
「わかりました」
「先輩、先輩はどうして清水さんの利き目が左だってわかったんですか?」
「的付けが構えた方向とずれていたからです。最初にここを自覚しないと、射型は乱れるし、最悪足踏みから狂いますからね。まずは的に向かって正しく立つ。そこから始まっています。裏返せば中らない理由は必ずどこかにある訳です。そしてそれは巻藁でもゴム弓でも確認できる場合がほとんどです。めげずに正しい射型を体に覚え込ませましょう。そして……」
三人の目が真剣だ。
「そして清水さんにとっての正しい射型は清水さんだけのものであって、小島さんや麻上さんの求める正しい射型とは別物だという事を知りましょう。なぜなら体格も骨格も筋肉の付き方も、日々の運動量も、食事のバランスも人それぞれ異なるのですから。あの壁の上に掛かっている射法八節は正しい手順であって、微妙なところはそれぞれが自分向きに変えないと駄目なのですね。けれど基本は押さえてあります。足踏みで足を60度開く、幅は矢尺と合わせて。問題はここというか、こういう部分です。自分の矢を足元に置いて、入部したての最初の頃のように足踏みしてみて下さい」
それぞれが自分の矢を持って来て足元に置いた。それに合わせて足踏みだ。
「キツい、こんなに広かったっけ?」
「キツいね、これ」
「でしょう? そうやって気持ちでなく、身体が段々と楽な方へ逃げるのです。では、何故こんなキツい立ち方が必要なのか。これをキツく思わないほど鍛えれば、下半身が安定するからです。足を広げて背筋を伸ばして腰を落とせば、勝手に丹田にチカラが入ります。そして三重十文字の二つまでが完成です。つまり下半身ありきなのですね。そして足元から決めて安定させていかないと、上半身で無理な辻褄合わせをする羽目になります。そうすると絶対に中たりません。あの人、射型はイマイチなのに、良く中たるなぁって人は、今話した基本の中の骨組みだけは押さえているからですよ。つまりその部分は美しい訳です。その美しい部分を見抜いて、自分に当て嵌めれば皆中も夢ではありません」
皆んなが頷いている。
「そこで麻上さん。休日5キロメートルは散歩するとか、自転車で15キロは走るとか、ジョギングが辛ければそういう方法で徐々に体を鍛える事もできます。私や衛宮副部長が、自転車通学しているのはそこもある訳です。学園坂は厳しいですが、自転車というものは坂を登る時に、ハンドルを引かないと登れないものなのですね。そしてそれが弓の引きに役立ったりするのです。自転車通学をしなさいとは言いませんが、休日にそういうのを意識して少し多めに走るだけで練習になります。おまけに椅子に座って漕ぐ訳ですから、無茶な負荷は掛かりません。持久力も付きますし、内臓から温まりますからダイエットにも持って来いです。毎週日曜日に50キロも走ればご飯も美味しいですよ?」
「50キロも走るんですか?」
「自転車好きな人なら100キロでも200キロでも走りますよ。当然走っている間にエネルギーが消費されますので、食べながら走るのですが」
「え~~!」
「そういう人も居ますよという話です。皆さんは自転車に乗れますか?」
全員が『はい』と返事をした。
「なら、休日の散歩やサイクリング程度で良いですから、5キロ辺りからチャレンジしてみて下さい。クルマの通らないサイクリングロードを利用すると良いですね。ただ、今の季節は熱中症対策を忘れない事です。更に、寒い冬も続ければ、来年の春頃はすっかり身体が変わります。袴を着て大会に出たいでしょう?」
皆んな頷いている。そう、大切なのはその意欲だ。無心になるのは離れる瞬間だけだ。それまではエルマみたいに帰りに何を食べようかなと考えるのも、緊張を解す手なのだから。
そこから射法八節の一つ一つの意味と、見栄えの良いその人に向いたほんの少しのアレンジを教えてあげた。更に黒板まで行って、弓返りした場合の弦の軌道を教えてあげた。小島さんが大きく頷く。
幸い三人は普通の胸の大きさで、極端に太っている人もいない。余りにも胸が大きいと、胸当てがあっても払う場合があるのだ。桜ちゃんも中学時代に一度胸を払ってしまい、かなり痛い思いをしたそうだ。
ちなみに私は転身した時に胸筋というかオッパイを強化している。これはお兄ちゃんやアーチャーさんにクロちゃん達も知らない事だ。
「角見を効かせると言ってもピンと来ないでしょう? 要は弦の戻る余力を利用するだけです。上から見た時の反時計回りに押してあげるだけですよ。弓手を握り込まず、教本の基礎を良く読んで自分の手に合わせてアレンジして押す。そうすれば弓返りが起きます。難しいと思いますが、コツさえ掴めばこんなものかなと思う筈ですよ」
ここで巻藁に戻ったら軽く弓返りしたとなればドラマだが、現実はそうは行かない。薄皮一枚の感触でも掴めれば御の字だ。
だけど麻上さんは前よりハッキリと弓返りするようになった。やがて小島さんの弓が軽く15度ほど回った。
「先輩!」
「ね? 良くなりました。清水さんは手が小さいので難しいと思います。少し待って下さいね。先生、コーチ?」
そして私は清水さんの弓の握りを変えて良いかと、先生とコーチに許可を求めた。備品なだけに二つ返事とは行かなかったが、何とか許可は頂いた。明日革を買いに行って、後日手直ししてあげよう。
そんなエルヴァ先輩をみてプリプリしているのは、私の初めての親友のエルマです。
今、私達は2~3年生の手の空いた先輩方と混じって、七的目で行射しています。ここにいらっしゃるのは、あみだくじで指名されなかった先輩ばかりなので、かなりギスギスしていて。嫌だなぁ。
「誰よ、あんなあみだくじなんて決めたのは?」
「知らないわよ。ってか薫、何であなたがここに居るの?」
「私の神通力も今年の1年には関係ないみたいだ。寂しいもんだな」
「だね。けどさ一人や二人は居ても良いんじゃないの?」
「意外だろうけど、遠峰は怖いと思われてるのよ。美綴部長のとこも一人だけだし。口の悪い人は損をするものなの。見なよ、田所さんも白石さんも皆んな三人受け持っているわ」
「泣くぞ、私」
「美綴さん、以前エルヴァに注意されてたじゃない。他人の振り見て我が振り直せって、そういう事だよ?」
「そういう事よね」
「ううう……」
どの道、人数のバランスであぶれる先輩は出て来るのですが、指名されなかった先輩方としては面白くないわけで。
「なんでお姉様にばっかり……呪うぞ」
こっちはこっちで。帰りたいなぁ。
とは言えエルマはお姉ちゃん大好きっ子なだけで、自分の姉を『お姉様』と呼ぶ少し……いや、かなりイタい子ですが、根は素直な良い子なんですよ。本当ですよ?
けれど……クロエちゃんといい、エルマといい、お兄ちゃん大好きっ子なイリヤちゃんといい、アインツベルン家は不毛だなぁ。
「何なの、あそこは? まったく……」
「それよりエルマ。麻上さん、上手過ぎない?」
「うん、上手だね。あの子、桜と同じで経験あるよ、絶対に」
「私はあそこまで弓返りしないわ。先輩は教え方が上手いんだなぁ」
「だねぇ。さすがお姉様」
元から弓道をやっていたのかという疑惑が論点なのに、教え方を褒めたらコロッと。
「悪いな、下手くそで」
「うわぁ、遠峰先輩……」
「あ、あの、悪口では……」
「わかってるよ。からかっただけだ。けど正直なところ、あの麻上って子は誰かから習ってるな。何で今まで埋もれていたんだろう? 普通、気付くだろうに」
「ですよねぇ」
「何か事情があって隠していた?」
「そんなトコだろ。あの三人はエルヴァに任せよう。あいつならその事情とやらも、どうにかするさ」
「遠峰先輩、一言。自分の姉であるエルヴァ先輩は確かだと思いますが、他にもみて欲しい1年生はどうします?」
「そこだよなぁ。人気あり過ぎだろう、あいつは。う~ん……このまま行けば弓道着解禁も前倒しだな」
「え?」
「驚く事は無いだろう? 間桐にエルマ、そこに麻上が入るだけだ。もしかしたら残りの二人も。学校の部活だから私も口を挟まないが、本音はやっぱり弓は弓道着で引くものだと思う。その方が安全だし、帯を締めた方が気合も入るだろう? それに学校によっちゃ1年から着ろってところもあるわけだから。ただな、金銭的なところもあるしな。それで弓道を続けるぞって腹が座った、冬以降からってなっているらしい。でもなぁ、見たトコ麻上なら秋には初段が取れるぞ」
「そんなに?」
「ああ、体配が良いんだ。初段の審査は体配重視で、二射とも外しても受かるからな。そもそもあの体配だから、誰かに習っているのかって思ったんだよ。何も的中だけじゃないぞ?」
「となると、自分の弓や弓道着は既に持っていたりして」
「たぶんな。けど、上が白、袴が黒で襠高袴(まちたかばかま/馬乗り袴のこと)でないと。審査は濃紺とかでも良いけれど、学校が試合用は黒と決めているからな。エルヴァだって試合と審査は襠高袴だ。こういうのは守らなきゃな」
「どうして行灯だと駄目なんですか? こっちの方が楽なのに」
「襠高袴が正装で、行灯袴は略装だからだ。それに武道は襠高袴と決まっているし、そういう通達も出ている。今後は襠高袴で統一する学校も増えると思うぞ? 何よりそれに、座射をやり始めたらわかるよ。立ち上がる時の不安が無いから。おい、エルマ空いたぞ、行って来い」
「はい」
立ち上がる時の不安?
「立ち上がる時の不安って何ですか?」
「間桐は座射を中等部で習ったろう? 行灯袴で裾を踏んでこけそうにならなかったか?」
「ああ、あります。あれがなくなるんですか?」
「なくなるつうか、マシになるんだ。試合や審査はガチガチに緊張するからな。ミスの元は少しでも減らした方が良い。そんな審査の待合で平然と居眠りして、一手中白に束るガングロは例外中の例外だ。お姉さんの体配しか知らないと言うので、コーチと一緒に何度か体配をみていたんだよ。それがあって、心配して審査に着いて行ったこっちがバカみたいだ」
「お姉様……」
エルヴァ先輩ったら、居眠り!? どんな度胸ですか?!
エルマはエルマでしっかり聞き耳立てて、『お姉様』と呟きつつ中ててるし。
「それと間桐、矢筈をそろそろ回転させろ。羽が痛むぞ」
「あ、はい」
やっぱり3年生にもなると見ていますね。先パイに見て頂いたのが中3の頃でしたから。頬付けする羽が擦れて傷んで来るんですね。
エルマが戻って来ました。代わって次は私が的前に入ります。
「遠峰先輩?」
「何だ?」
本来なら3年生は雲の上の遠い遠い存在なんですよね。ところが私は中等部時代からの繋がりがあるし、エルマにしてもエルヴァ先輩が居るから3年生の先輩方が気さくなんです。
特に遠峰先輩は。先輩も1年生から誰も指名が無かったので寂しいのかも知れません。
「穂群原って、試合の時にハチマキはしないんですか?」
「その時のメンバー次第だな。私が中等部の頃、いかにも穂群原って感じの茶色いハチマキをしていた先輩方が居たぞ。過去には女子のリボンと同じ臙脂や、白もあったよ。部が残してる集合写真で見ただけだけどな」
「じゃ、臙脂に金線なんてどうですか?」
「まんまリボンと同じか。残念ながら二色はアウトだ。無地の単色って決まってるんだよ」
「そうなんですかぁ」
「まぁな。憧れる気持ちはわかるよ。インターハイとかで五人揃ってハチマキをしてたらカッコいいもんな?」
「はい。それと座射で大前が立ち上がるまで、息がぴったりなところとか」
「ハハハ。胸当ての位置は上衣の合わせから3センチ下とか?」
「見栄えという意味ならそれもありますね。あ、そうだ。胸当てをしない学校もありますね?」
「してるよ、中に着けてるんだ。段が上位の着物で引かれる人も、中に着けている。中だと外に着けるより、大きなサイズが使えるからな。より安全で安心感が高いんだ。外だと見栄えの上で小さめになってしまう」
「そうですね。小さめの方がカッコいいですもんね?」
「うん。目立たないように白もあれば夏用のメッシュもある。試合や審査の時以外はメッシュでも叱られないぞ?」
「そうなんですか? 先輩はメッシュをお持ちでなんですか?」
「持ってるよ。今の季節の一般道場ではあっちだ。けど部活となるとなぁ。やっぱり周りに合わせてしまうな」
「ですよね」
「だけど、エルマ。ああいう五人揃った体配は、それだけのためのキツい練習があるんだぞ? 結構大変だと思うけどな? それに予選は立射だ。そこにも揃える方法はあるけれど、取り敢えず座射でシンクロナイズド弓道をしたいなら、決勝トーナメントに残らないとな」
「シンクロナイズド弓道って。でも、憧れますよ」
「そうか。なら、行けるように頑張れ」
「はい」
「それで、お前らが全国に行くならどこであっても応援に行くよ」
「ありがとうございます! 絶対ですよ!」
「ああ」
本当に3年生相手でも物怖じしない子だなぁ。教室では大人しいのに、部だとキャラが思いっ切り変わるところが何ともだ。
人の事を養殖妹キャラだって言うけれど、あっちの方が養殖だと思う。腹の黒さは私以上だ。たぶん向こうも同じ事を言うだろうけど。
はぁ~。好きに言い合える相手がいると、こんなに気持ちが楽になるなんて。知らなかったなぁ。
「では、しばらく休憩! 水分補給しっかり!」
今日は蒸すなぁ。先パイも汗びっしょりです。エルヴァ先輩も水筒を片手に戻られました。ステンレス? オシャレだなぁ。
「その水筒は魔法瓶ですか?」
「そうです。スイスのシグというブランドですよ。私はこれと日本のサーモスを愛用しています。先日はただのボトルでしたけど」
「へぇ~。中は麦茶ですか?」
「知ってるかな? さんぴん茶ですよ」
「さんぴん茶?」
「ええ。沖縄でよく飲まれる、ジャスミン・ティーの一種です。普通のジャスミン・ティーは緑茶にジャスミンの香りを付けたものですが、これは紅茶や烏龍茶ほどではないにせよ、少し発酵させた茶葉にジャスミンの香りを付けたものです。スーパーで特売品を見つけたので、ついつい2リットルを5本も買ってしまいました。かなり残っていましたから、こちらでは誰も飲まないのかなぁ。美味しいと思うのですが」
「一口、頂いて良いですか?」
コップの使い回しは失礼だし、エルマが怖いので自分の水筒のコップに注いで頂きました。
「どうぞ」
「ありがとうございます。あ……」
香りと喉越しが爽やか。ジャスミンの香りが鼻腔を抜けて……良いなぁ。こういうのは好きです。
「これ、良いですね?」
「良いでしょう?」
そこへ遠峰先輩が来られました。
「エルヴァ、さっきみていた三人。今後もお前が中心になって指導した方が良いと思う。他の希望者もあると思うから大変だろうけど。その分、私もフォローに入る」
「わかりました。ですがその意図は? 1年生は先輩皆んなでみてあげるものでは?」
「その通りだ。今日は1年生に先手を打たれた。また、そういうのもたまには面白いと思う。だけど後輩は先輩達皆んなで育てるものだ。そして私達に足りないところを先生やコーチが補って下さる。決して一人の先輩に寄って集って良いものではない。それだと師弟だ。そういう方式を取り入れている学校があるかも知れないが、学園の弓道部はそうじゃないからな。だけど、あの三人はお前が一番伸ばせる。早けりゃ、麻上は秋には初段が取れるだろう。後の二人も来年の今頃はレギュラーに入れる可能性が高い。伸びる間は伸ばしてやらないとな」
「ですが、他の1年生が黙っていませんよ?」
「そう、そこだ。この後は三人を手の空いている者に任せろ。それで全員のところを回ろう。私も手伝うから。そして美綴や衛宮に1年生の出来具合を伝えよう。ここまで誰も辞めずに残ってくれたんだ。何か残してやりたいからな」
そうして休憩後、エルヴァ先輩と遠峰先輩は全グループを回ったんです。
的前待ちをしているグループには指導していた2~3年生から状況を聞き、巻藁で確認して的確なアドヴァイスを贈られます。的前でも積極的に指導され、中った人が次々と。
それで……今日が的前一日目なのに、1年生の七割近くが1中から2中しちゃったんです。初中たりは自分で的から抜くので、皆んな大喜びです。この分だと後二回ほどの練習で全員中たりそうです。
そしてもう私達がとっくに着替え終わって更衣室から出れば、部長に副部長、エルヴァ先輩と遠峰先輩が先生やコーチと話されていました。更衣を終えた2~3年生もあちらのお話を気にされています。
先生方とのお話を終えられたエルヴァ先輩と遠峰先輩に1年生全員がお礼をしました。その時に教本の1巻とゴム弓を、必ず買ってイメージトレーニングをして下さいと話されていました。
それで解散となったのですが、エルマがとても心配していてエルヴァ先輩のところへ行きました。
「お姉様、叱られたんですか?」
「いえ、どうしてこうなったのかの事実確認と事情説明です。先生方が仰るには、今日の弓道部はとても活気があって良かったそうです。1年生のやる気が部に広がったと言いますか。それを先生もコーチも良い事だと。ただ、上級生の一部からは不満がありましたし、私は今日弓を引いていません。それはどうなのかと部長と副部長が指摘されたので、報告の後に相談に移行していたのです。それでお話が長かった訳ですよ」
弓を引いていない……。そう言われればそうです。
来月インターハイへ行く、校舎に大きく垂れ幕が下がる選手が練習できない状況。確かに問題です。
「エルヴァさん、俺達も付き合うから引いて行かないか?」
「そうですね。では四射だけ」
「そんなので良いのか?」
「はい」
エルヴァ先輩は極端に矢数が少ない。それでもいつも素晴らしい集中力でもって、とても濃密な射をされています。
エルマに言わせると、一回で数百回は引かれている感覚らしいです。会ではその百回から一番良いのを選んで離れに持って行くとか。それがあって、ご自分の射は中て射だと仰られるのだそうです。
私とエルマも残って見学させて頂きました。三的目にエルヴァ先輩、四的目に遠峰先輩、五的目に美綴部長、六的目に先パイです。遠的のイメージトレーニングを兼ねているのに、何故か座射で始められるエルヴァ先輩。そこに続く遠峰先輩に美綴部長と先パイ。
ああ、大きい。なんて大きくて雄大な打起しだろう。大三は彫像のように綺麗で、引分けはどこまでも力強く。そして時間が止まったかのような会の後の離れ。
カキーーンッ!
パーンッ!
矢は当たり前のように、的に吸い込まれました。四射すれば、皆さん皆中です。この中に入りたい。どうして着替えてしまったのだろう。私とエルマは同じ事を考えていました。
いつものバス停をやり過ごした。新都の自転車屋さんへ引き取りに行くのだ。
「どんな自転車を買ったの?」
「スポーツ用のオシャレなの」
「なんで? スクーターは?」
「そっちはまた考え直すよ。とにかく偶然あのお店を見付けてね。スクーターで何をしたかったのかを突き詰めると、それは知らない場所の発見であって、知っている場所の再発見だったんだ。なら、どこにでも停められる自転車が良いなって」
「ふ~ん。まぁ、お買い物には便利だからね」
「桜も自転車を持っているの?」
「うん。今が2台目。小学校の頃に買って貰ったのが小さくなって、それで中学の時に買い替えたの」
後で知ったけれど、桜のそれは純国産のしっかりした自転車だった。前のがソーゴで今のがシキシマというブランドらしい。お姉様はそれを娘に与える雁夜さんを褒めていた。
桜のマンション近くのバス停から一つ前のバス停でお別れを言って降りようとすれば、桜までが降りて来た。
「さぁ、自問自答の果てに何を選んだのか。あなたの自転車を見せて頂くわ」
なんでそんな黒い言い回しをするのか。ともかくお腹は空いているけれど、私は桜とともに自転車屋さんに入った。
「こんにちは~」
「いらっしゃい。お待たせ、できてるよ。少し説明したい事があるから、お友達と中に入って」
そうして奥のテーブルに着いて麦茶を頂きながら諸注意を受けた。跨って軽い微調整をして貰う。
「ライトやチェーンの鍵は最低限のサービス品だから、お姉さんと相談してもっと良いのに替えてね。盗難が一番怖いから」
防犯登録とか盗難保険とかその手のものが一切ないのが、こういうスポーツ用では当たり前だとお姉様に聞いていた。だけど店長さんは防犯登録をしてくれた。このお店はしてくれるようだ。
またエルヴァお姉様でなくエルお姉様は、忘れ去られた島に住むという三姉妹の、末妹の目のアップをデジカメで接写しているそうだ。それをミニシールにして自転車やバイクに貼っているのだとか。
デジタル加工で石化が硬直にまで劣化し、犯人を殺さずに済むのだと知識にある。ただしトイレにも行けず、その場で立ちすくんだままらしい。
つまり盗もうとした自転車やバイクの前で、次回エルお姉様が乗る時まで犯人は漏らしながら硬直しているのだ。
それが翌日になるのか三日後になるのかは知らないが。一般の人が覗かないようなところに貼ってあるそうだが、危険だろうに。
なお、ワンショットにつきレンズ一本が石化でダメになるそうだ。だけどボディには問題ないらしい。そしてパソコンのモニターで目を映せば、エルお姉様以外は硬直してしまうとも。危ない事を試す人だね。
ともあれ自転車を受け取った私は、真っ直ぐ帰ると桜に告げた。
「それが良いよ。こんな高級な自転車だとは思わなかったから」
桜は呆れていた。まぁ、そうだろうな。普通の人の感覚では20万以上もする自転車はあり得ないだろう。なのでこの日はお別れの挨拶をして、そのまま帰った。
制服のスカートだとトップチューブが邪魔をするので、跨った後にスカートを少し手直ししないといけない。それに両側にタレる部分が車輪に巻き込まれないようにしないと。お姉様はこういうのをどうなさっているのだろう?
もう少しスカート丈が短ければ良いのだけど、それだと校則違反になるし、何より高等部のデザインと合わない。学園は小・中・高と、実はスカートの襞など同じデザインだ。微妙に違うところもあるけど、丈以外は同じだと思って間違いない。
そして小学部は短い方が可愛いし、中等部だと膝小僧が出るくらいが可愛い。高等部だと膝が出るか出ないかが可愛いと思うのは私だけだろうか。私もお姉様も夏のスカート丈は膝ぴったりだった。
ちなみに桜は夏も冬も膝上で、凛さんは膝下7センチくらい。凛さんくらいが標準で、この辺りの長さの人が一番多い。ルヴィアさんは下から測った方が早いほどスカートが長い。
誰かが昔のスケバンみたいだとか言っていたが、私にはスケバンの意味がわからない。ただ、かなりタイトに裾を絞っているので、ゴージャスなあの人にしか似合わないと思う。
ああいうのは私には到底無理だし、お姉様でも似合わないと思う。
それはともかく、緑が青々した街路樹が作り出す木漏れ日の中をくぐり抜けると、新都には珍しい下町の景色が目に飛び込んで来た。
商店街ではないけれど、ポツポツと地元に密着した個人商店がある裏通り。私はやがて街並みを抜け、未遠川の堤防が見えるところまで走って来た。余り見ない風景は本当に楽しい。
あれ? こんなところに和菓子屋さんが? 堤防下の道路へ出る三つほど手前の角に、昭和の初期から残ってそうな和菓子屋さんがあったのだ。
思わず古びたショーケースを覗き込めば、お店の人と目が合った。ここはどうやら奥が喫茶店でもあるらしい。へぇ~。
お腹も空いているし、自転車をお店の横に立て掛け鍵を掛けた。あんとあんこの串団子を一つずつと、蒸しまんじゅうをお願いした。
花柄のビニールが掛かった喫茶ルームのテーブルで待っていると、やがてお皿に盛られた注文した商品と、冷たいお茶が湯呑で運ばれて来た。
「あの、あそこに書いてある心の太いって何ですか?」
「ああ、あれはトコロテンって読むんですよ。海藻から作った食べ物で寒天の素です。三杯酢や酢醤油に練辛子だとおかずっぽくなりますし、黒蜜で頂くとおやつになります。これとわらび餅は夏の風物詩ですね」
へぇ~。一つ100円かぁ。どうしよう。ええい、行ってしまえ。
「それじゃ、黒蜜でトコロテンを頂けますか?」
「承知しました」
お団子を食べている最中にガラス容器に入ったトコロテンが来た。割り箸が付いてきたので、これで頂くのだろう。半透明で細長く、チュルチュルしている。これは面白い。甘い黒蜜が冷えたトコロテンと合う。
シメて440円。安いなぁ。店頭のお菓子を注文すれば、お菓子代だけで席料は掛からないようだ。そもそも飲料がサービスって国は滅多に無い。良いなぁ。美味しかったし、また来よう。
そして自転車で堤防まで走ると、堤防沿いに小さな商店があった。看板は錆びていて商店名がわからないけれど、たこ焼き屋さんのようだ。小さな暖簾にラムネと書いてある。ラムネ!
サイダーは飲んだ経験がある。けれどラムネは初めてだ。知識にはあるけれど飲んだ事はない。これは絶対にチャレンジだろう。私はお婆さんにラムネを頼んだ。
見た目が外人なのでギョッとされたけれど、日本語だとわかるととたんに笑顔で応対してくれた。手渡されたのは……瓶だ。瓶だよ? 瓶! おまけに中にビー玉!
知識によればラムネの栓に使われる真円度の高い玉がA玉、選別から外れた真円度の低いものがB玉だそうだ。そのB級品が子供用の遊具として販売されビー玉と呼ばれるようになったとか。
へぇ~。エルお姉さまの知識って本当にヘンだ。それで、え~と……これは確か……。瓶に付いた二つの窪みを下にして、そこにビー玉を止めて口をすぼめつつ飲むんだったと思う。
恐る恐る一口飲む。おおっ! と、大袈裟に驚く程の物でもなく、味は単なる人工的なレモネードだった。前に試したサイダーは養子に出ちゃった姉妹だろうか? そんな味だ。
けれどラムネの方が甘い。サイダーはもっとキレがあったと思う。例えが逆転するけど親友の桜はラムネで、その姉はサイダー。何故かそんな風に思ってしまった。
ちらりと壁の張り紙を見ると、たこ焼き4個50円と書かれてある。8個で100円? 安い! 激安だ。鉄板は4×7の28穴。思わず4コ頼んでしまった。
とってもミニマムなタコと、ネギに紅生姜のみ。至ってシンプルだ。だけどこのソース、無性にラムネに合う。
お代はシメて130円。ラムネの方が高いのかい? けれどそれでも安い。ここはきっと堤防の公園で遊ぶ子供達の胃袋を長年支えて来たのだ。
だって私がたこ焼きをお店の前のベンチで頂いていると、子供達がわらわらとやって来たから。
駄菓子屋さんも兼ねているのかな? そこまで数は無いようだけれど、奥には10円のガムや20円のチョコにせんべいなどがあった。
そして子供達は決まって、他の瓶と変わらない値段なのに量の多いジュースを頼んでいる。チェリ……何だ? よくラベルが見えなかった。色合いはドイツのフ○ンタみたいな感じ。どこにでもあるんだね、ああいうのは。
満足したので、お店の前の階段から自転車を押して堤防に登った。こういう時に軽い自転車は便利だ。ああ、風が気持ち良い。雲はもの凄く遠いところで高く高く登っている。
その堤防の上の細い道を、冬木大橋とは真逆に走った。上流側に自転車と歩行者しか通れない、小さな橋があるのだ。そこを渡れば深山町の洋館街に入る。双子館の直ぐ近くだ。
日差しは強くて暑い。下着はベタベタで、ブラウスまで濡れて来た。このままだと熱射病になると思い、橋を渡った先にあった自動販売機でドリンクを買い木陰で休んだ。そこにベンチがあったのだ。
どこででもドリンクが買える日本は素晴らしい。お茶とラムネを頂いた後なので、買った缶コーヒーは持って帰る。休憩させて頂く場所代だ。
自販機の横の金網に立て掛けた自分の自転車を見ると、自然と顔が綻ぶ。そして10分ほど休憩してから家に帰ったのだった。
門を抜けると玄関前の木陰に皆んなが集まっていた。
「ただいま戻りました。何をなさって?」
「おかえりなさい。自転車を組んでいます」
買うや手に入れるでもなく、作るでもない。今度は組むとか言い出したぞ、このお姉様は。ルヴィアさんと凛さんにマルガリータさんはそれを眺めて唖然とされていた。
「おかえりなさい」
「エルマ、おかえり。お昼を終えたらこんな事をやり始めてね」
「おかえりなさいまし。オーギュストに荷物の受け取りを頼んでいたそうですわ」
要は自転車を組むための工具一式と自転車の本体を、どこかに注文していたらしい。工具は整備にも必要だろうから良いけれど、何でまた自転車? 何よりこの自転車バラバラなんだけど?
「お姉様、これは?」
「ラレーというアラヤが興したブランドです。そこのトレントという自転車ですよ。自分で組むので三分組で送って下さいと頼みました。通常はこれをお店の人が組み上げて、店頭に並ぶわけです」
「それならば、出来上がった自転車を買えば良いのでは?」
ルヴィアさんも凛さんも頷いた。
「ハブやヘッドセットのグリスアップアップをしたかったのと、最初から少し改造するからですよ。お昼は摂りましたか?」
「はい、軽く」
「なら、着替えてらっしゃい。汗が冷えて風邪を引きますよ」
「はい」
そう促され、私は着替えに家の中に入った。部屋のドアを開けると、中でエーテル出力したゾウケン君とルビーが将棋を指していた。
ゾウケン君はルビーに将棋と囲碁を教えている。相手が居ないと寂しいからと始めた事だけど、ルビーは思った以上にこっち方面に才能があったらしく、ゾウケン君も手を抜けないそうだ。
ちなみにルビーにエーテル出力させようと思えば、術者が必ず命令しなければならない。これは正体を隠すためとか悪用を避けるためとかあるらしい。だけど、私のルビーとゾウケン君は本人の意志でそれができるようにしてある。
一応、イリヤちゃんや凛さんのルビーや、ルヴィアさんのサファイアもできるのだが、イリヤちゃんには秘密だ。それはあの子がまだまだ子供だからだ。
部屋でこんな風に将棋を指していたり、掃除や後片付けをしてくれたりしている。私は自由にして貰って居るつもりだし、掃除やお手伝いを無理強いした事はない。だって仲間だから。
こういう機微がわかるにはもう少しお姉さんにならないとね。
戻った旨を報告し、道着やタオルの入ったリュックを下ろした。制服や下着を脱いでシャワーを浴びるのだ。汗でベトベトだからね。
私もお姉様も2階の客間を借りているのだが、一部屋18畳くらいの広さがある。そこにベッドやサイドボード、ソファーやドレッサーがある。
扉から部屋に入るには短い廊下があり、途中にお手洗いとお風呂場もある。バス・トイレがセパレートのワンルーム・マンションというより、ホテルの一室をもっと家庭的にして広くした感じだ。
そこに勉強机や本棚を置いているのだが、私の悪いクセでベッドで読んでいた本をそのままに寝落ちするし、勉強机の上も直ぐに資料や書物で一杯になってしまう。それをゾウケン君やルビーが、エーテル出力して片付けてくれているのだ。
シャワーを浴び終え、私服に着替えた私は道着やブラウスなどを洗濯かごに入れつつ二人にお礼を言った。だけど勝負に熱中している二人は『気にするな』と言っただけだった。
最近の私はゾウケン君の孫ポジションで、ルビーの妹ポジションらしい。ゾウケン君はまだわかるけれど、ルビーの変化が著しい。
前は『エルマさん』だったのに、今は『エルマちゃん』だ。その内、『エルマ』と呼び捨てにされるのかも。
下に降りてお茶を頂こうと食堂に入れば、ルヴィアさんと凛さんが居た。どうしてこの家は皆んなで寛げるリビングが無いのだろう?
「元はカード回収のために一時的に建てた家ですから。こんな風に皆様と暮らすようになるとは夢にも思いませんでしたわ。客間がある分、マシだとお思い下さいな」
そりゃそうだ。冷蔵庫には大量にさんぴん茶が置いてある。家主に構わず侵食していくなぁ。
「そんな顔をしませんの。もはやエルヴァさんは私の姉で、あなたは妹も同然ですわ。まぁ、ミユとはニュアンスが異なりますけれど」
「正直ですね?」
「その方が誤解を産まないと学習したのですわ」
それを意味ありげに微笑んで眺める凛さん。汗をかいたグラスで何かを飲まれている。エラく凝った切子のグラスだ。
この家はルヴィアさんが一流の人なので、シャンパンフルート、赤ワイン用ラージグラス、白ワイン用スモールグラス、水やビール用のゴブレット、食後のリキュールグラス、ブランデーグラス、カクテルやロック用のオールドファッション、ストレート用のショットグラス、水割りやソフトドリンク用のタンブラー、乾杯や食前酒用のシャンパンクープなどなどの定番グラスを、フランスのバカラやサン=ルイ、ラリック、北欧のコスタボダにイッタラといったブランド物で各シリーズ揃えていらっしゃる。
モダンなデザインのものも時々出てくるので、鉛ガラスやボヘミアのカリガラスといったクリスタルだけでなく、ソーダガラスも分け隔てなく使われている。そんな事を知っているだけに、この凝った色付きの切子に驚いた。
「フフ……、エルヴァさんに頂きましたの」
「薩摩切子って言うんだって」
へぇ~。ルヴィアさんのは青で凛さんのは赤。とっても綺麗なグラスだ。
「江戸切子は知ってたけれど、百年ほど前に途絶えた製法が復活したらしくて。彼女、このグラスのファンなんだって。知ってた?」
こういう伝統工芸に詳しいのはイリヤお姉様だ。きっとその影響だろう。
「いいえ、初耳です。そもそもエルお姉様はチタンのマグカップを愛用される方で、このような伝統工芸品に凝るのはイリヤお姉様でしたから」
「そっか。じゃ、エルヴァの場合は弓道と関係あるのかな?」
凛さんの指摘は正しいような気がする。今までのようなお料理だけでなく、弓道を通じて、より深くイリヤお姉様のお気持ちがわかったのかも。
「何をお飲みに?」
「ああ、これ? 冷蔵庫にあったさんぴん茶よ。緑茶や白茶に香りを付けた花茶の一種なんでしょう? ボトル臭さが少しあるけど、ジャスミンの後味がそれを消してくれるし、ガブガブ飲むには良いわね」
それもお姉様のお茶だった。もうこの手の話はお姉様と、とっくに終えられていたようだ。
聞けばキーマン茶(祁門紅茶/中国十大銘茶の一つ)や、本物の君山銀針(希少な黄茶の代表/中国十大銘茶の一つ)などの葉を、ルヴィアさんや凛さんに好きに飲んでくれと渡してあるらしい。
中国ではお茶の製法や発酵度によって大きく六つに分類される。発酵度の少ないものから緑茶、黄茶、白茶、青茶、紅茶、黒茶である。
緑茶は日本のそれと基本同じだ。中国では龍井茶(ロンジン)が知られるが、日本では静岡茶、宇治茶などが知られる。実は色んな製法を世に広めた中国で、一番広く飲まれているのは緑茶だったりする。
しかし碾茶から抹茶を作り、道にしてしまった日本は変わっている。私なんて薄茶と濃茶の違いはお湯の量だろうとしか思わないし、そもそも回転寿司のお茶の粉と抹茶の区別がつかないのに。
黄茶はやや発酵させたもので生産数が圧倒的に少ない。中国十大銘茶の一つ、君山銀針は有名だが偽物もかなり多いと聞く。お姉様はそれの本物をどこかから手に入れられたのだ。
白茶は唯一揉捻の工程がなく簡素なため中国の南側ではかなりメジャーだ。今なら日本でも買えると思う。
青茶は半分ほど発酵させたお茶で、簡単に言えば烏龍茶だ。鉄観音茶に武夷岩茶、台湾の凍頂烏龍茶などがここに区分される。これより発酵させた完全発酵茶がいわゆる紅茶だ。
紅茶は世界的にも有名だし、ダージリンやアッサムの名は誰もが一度は耳にしていると思う。ちなみに祁門紅茶、ダージリン、ウヴァの三つが三大紅茶と言われるが、これには異論のある人は多いと思う。
そして黒茶は茶葉による酸化発酵でなく、コウジカビなどを付けて後発酵させたものを指す。プーアル茶や日本の碁石茶、阿波晩茶などがそうだ。
ただし中国国内では酸化発酵を進めたプーアル茶ばかりで、これを生茶と呼び、カビで発酵させた熟茶とは明確に区別している。熟茶のプーアル茶は輸出専用の高級品なのだ。
そしてこれらの六大分類とは別に花茶というカテゴリーがある。お茶の葉に花の香りを付けたものだ。紅茶に香り付けしたものとは区別される場合が多く、代表は茉莉花茶や桂花茶といった中国生産のものを指す。
茉莉花茶は、いわゆるジャスミン・ティーだ。さんぴん茶はこのジャスミン・ティーの一種で、茶葉が少し熟成されているところが特徴だ。沖縄で広く愛飲されているそうだが、茶葉は中国からの輸入品だ。だから花茶になるのだ。
そしてこの花茶の中に工芸茶という、比較的近年にできたお茶がある。耐熱ガラスのポッドで花が開くアレだ。発明者は康藝銘茶と呼んでいるそうだが、その技術は別としてあんな熱湯にドブンと入れるのはどうなのかと思わなくもない。
お茶の飲み頃の温度を無視して、花が開く事を優先した熱湯。そして熱湯で香気が飛ぶので更に香料となる花をこれでもかと包み込む。お姉様はこのお茶の工芸としての美は感じても、味は信じていないと仰っていた。
私はその前に、イソギンチャクみたいなアレが気持ち悪くて苦手だ。
そんな風にお茶で話を咲かせていたら、お姉様とマルガリータさんが戻られた。冷蔵庫から取り出したさんぴん茶を、これまた緑色の切子のグラスに注いで、グビグビプッハーっと息を吐かれる。男前だ。
対してマルガリータさんは、アイスコーヒーを500PKのボヘミア・グラスに注いでいた。この人も良いグラスを使うなぁ。
500PKとはデザイナーのプロストジェドニーク氏が20世紀初頭に発表した500番目のカットデザインだ。花柄のレースのようなデザインの中で一番有名なデザインでもある。
花瓶に多いデザインだけど、こんなゾンビグラスは初めて見た。別名、コリンズグラス。ピルスナーやゴブレットのように背高だけど足がない、カクテル用のグラスだ。
確か、ゾンビという名のカクテルに使われて広まったグラスだったと思う。映画『ティファニーで朝食を』の中で主人公のホリーが飲んでいたのがこのゾンビカクテルだ。
マルガリータさんのグラスの中身は黒茶色いコーヒーだけれど、アイスコーヒーの似合う女の人ってカッコいい。これはちょっとお姉様も負けそうだ。
「できましたよ。ルヴィアも凛も、マルガリータさんもエルマも乗って下さいね。お買い物用自転車の完成です」
え? と皆んなで玄関を出れば、アプローチのところに私とお姉様のとは別に、もう一台の茶色いようなピンクのような自転車があった。
「フロントは44Tでリアは13-28Tの7段変速です。タイヤは26インチなので激坂でない限り楽だと思います」
それは婦人用のように、二本のパイプが斜めに下がっていて乗り降りしやすそうだった。何より泥除けがしっかりあり、一本足のスタンドもあった。前の荷台には小さな木箱が付けてあり、後ろの荷台には割合大きな木箱が付けてあった。
「雑貨屋さんで見付けた、ジャガイモ用の木箱ですよ。前は何用かわかりませんが後ろと合わせて付けました」
薦められるままにルヴィアさんが乗った。この人、乗れるんだ?
「私を何だとお思いですの? 自転車くらい乗れますわよ」
ルヴィアさんは基本スカートしか穿かない。もしくはドレスだ。ズボンなら乗馬ズボンくらい?
「ジーンズも持っておりますわよ」
「先日、私と買いに行ったのよ」
そうなんだ? 仲良いな、凛さんとルヴィアさんは。
「ブレーキの引き加減が良いですわね。変速レバーも手元にあって楽ですわ。それとこれはサスペンション?」
あ、フォークの付け根にサスペンションがあるのか。へぇ~。次に交代して凛さんが乗ろうとした。
「ちょっと、サドルを下げて。怖いんだけど」
「やーい、胴長短足!」
「うっさいわね!」
ルヴィアさんは身長160センチ、凛さんは159センチくらいだろう。対するお姉様は153センチだ。これで足が届かないなら、凛さんは短足?
そうは見えないけれど。そして凛さんをからかったお姉様は、サドルの高さを変えずにひょいと乗ってスイスイ走った。
「つま先の付け根で漕ぐのですよ? クラウチングスタートのあの部分」
「あ、踵じゃないんだ?」
「どうしてカカトですの。自転車を漕ぐのは、エルヴァさんの仰る位置ですわよ」
「怖ければ前に降りるようにして下さい」
どのみち木箱があるので、前からしか乗れないし降りられない。
「なるほど」
納得したのか、いよいよ凛さんが乗った。変速がピシピシ決まる。
「これ、良いわね?」
「でしょう? あ、それとブレーキは左右逆ですから」
「は、はい!?」
ちょっと怖い思いをしたようだ。
「どういうイタズラよ! 酷いじゃないの!」
「リン、ヨーロッパではそれが普通ですわ。もしかして日本は違うんですの?」
「あれ? そういう事?」
「多数決ですね。私とエルマの自転車も同じですよ」
「久々にあなた達にカルチャーギャップを感じたわ……」
次にマルガリータさん。
「これは軽くて良いですね」
最後に私。おお、確かに良い。けど、自分の自転車の方がもっとスムースで変速も軽やかだ。ブレーキも効き過ぎる気がするほどよく効く。だけど買い物には便利そうだ。そうか、皆んなで使えるようにか。お姉様らしい。
後にオーギュストさんに頼まれ、お姉様は似たような自転車をお盆までに数台組まれた。そちらはコックさんやメイドさん用だ。
そして案の定感化されて、ルヴィアさんはビアンキのベニッシモLというのをあのお店で買われた。色はチェレステ。フレームパイプはレイノルズの520というクロモリで、かなり良いらしい。
対する凛さんは同じビアンキのプリマヴェーラLを買おうとしたが、ラレーのマリオンの方が軽くて安いと知って迷っていた。色は赤だったら何でもありだそうで、結局マリオンにした。
お二人が二回目のロシア旅行から帰った頃、次の試合が始まる前に、これらの自転車の乗って五人でキャンプに行った。とても楽しい思い出だ。
この時セイバーさんとランスロットさん、そしてアーチャーさんの三人は、先生のお手伝いで並行世界へ行っていた。かなりの冒険だったらしいけれど、私は詳しく知らない。また語ってくれる日もあるだろう。
午後3時、アインツベルン邸。マウント深山での買い出しを終えて、家に戻ったところだ。
「ただいま~。買って来たぞ」
「おかえり。ありがとう、お兄ちゃん」
「あれ? クロエは?」
「キッチンで格闘中。美遊も手が離せないの」
「そっか。手伝いたいけど、自分達でやるんだな?」
「うん」
まぁ、カレーだしな。今までも上手にできていた。だから大丈夫だろう。けれど格闘って何を?
買って来たものをキッチンのカウンターに置くと、クロエと美遊ちゃんがお礼を言いつつ、次々と食材を冷蔵庫に入れたり、包装を解いて洗ったりし始めた。
何だろうと思えば、もしかしてスパイスからカレーを作るのか?
「セラ? あの子達、まさかスパイスから?」
「そうです。それもトッピングがキーマと夏野菜のフライですよ」
「フライはわかった。衣を薄くするか素揚げでかぼちゃとかだろ? それは買って来たからわかる。けどキーマって? この豚挽き肉はハンバーグじゃ無いのか?」
「最初はポークカレーだったはずですが、私が買って来たものが豚バラのブロックだったもので」
「100グラムあたりが安かった?」
「そうです。それを見て美遊さんが、ブロックを味付けして、トロトロになるまで煮込もうと仰って。そしてルーを二種類でなく、ご飯の上に和風のキーマカレーをトッピング的に載せようと」
うおっ。美遊ちゃんからオーラが出ている。この子は確か料理上手だったよな。エルヴァさんやエルマのためにって燃えてるんだ。
クロエは何をやっているんだと見れば、野菜を随分細く刻んでいる。ニンジンにタマネギ?
「自家製のピクルスですよ」
「ピクルス! そんなのを?」
「浅漬風に酢と砂糖を和えて作るのだそうですよ」
「イリヤは?」
「一回目に炊いたご飯をガーリックバターライスにして、二回目がサフランライスだそうです。今はガスコンロが空くのを待っているようですね」
「へぇ~、驚いた。ご飯も二種類か。楽しみだなぁ」
随分早くから作り始めたなと思えばこういう理由か。喜んで貰おうと色々考えたんだな。これなら納得だ。
そして仮に失敗したとしても、エルヴァさんなら気持ちを受け取ってくれるだろう。まぁ、食べられないものになる事は無いだろうが。
「アルトリアちゃん、上がって」
「はい」
もう、この店で働き始めてから何日目でしょう。常日頃に信じられぬような事を体験していた王という立場からすれば、少々のトラブルも別に問題ではない。
気付けばアルバイトや従業員の方々から、すっかり頼られる立場になってしまった。とは言え、私は一時凌ぎのパートタイマーでしか無い。
この夏の期間が過ぎれば、辞さねばならぬ日が訪れる。それは寂しくもあるが、次に行う目標が生まれるという意味でもある。
私は当初エルが何故働けと言うのかわからなかった。勿論お金のためであり、僅かばかりでも食費を納めよという理由は理解している。それでも疑問が残った。
疑問の最大の理由はもう一人の私だった。あちらのエルは大金持ちだ。なのに彼女は働いている。エルと我がマスターのエルヴァはもはや別人だ。立場も違うし、取り巻く環境も違う。だから彼女の言葉の表層にしか気付いていなかった。
と同時に、もう一人の私が働く理由を、彼女のアーチャーのためなのかと安直に判断してしまった。心理的にはその理由もあったと思う。
だがそれだけでは無かった。働けば働くほど見えて来た。私に足りないもの、ランスロット達騎士が私に言いたかった本当の事、そして我がマスターのエルの真意が。
私はかつて王だった。騎士達を統べる王だったのだ。だが自分が肉体労働者を束ねる親方である事を、わかっているようでわかっていなかった。
彼らには彼らの理想があった。そして私には私の理想があった。それは似ているようでも微妙に違ったのだ。お昼のランチでは従業員の方々が、僅かな休憩時間でランチを摂りつつ上司の愚痴を零す。
そんな愚痴を零していた人が、午後には商談を成立させる。コーヒー一杯で粘られると困るが、商談相手を見送り、伝票を握った彼の顔は歴戦の勇士に劣らない。
そして上がろうかというこの時間に彼の上司らしき人物が現れる。もっと上の上司とともに。そして上役に、部下の〇〇は頑張りましたと報告し、査定を上げて欲しいと願う。
その上役が会社で社長に報告するのかどうかは知らない。だけどそれが耳に届かなければ、彼の功績は無いも同然だ。私も結局は円卓の声は聞いていても、末端の騎士達の声は聞いていなかったのだ。多対一は難しいとはこの事か。
もしかしたら、あの日心がわからぬと言って去っていった騎士は、これを危惧していたのやも知れぬ。そしてモードレッドはそれを聞く度量があったのだ。次期王候補として傍に置き、足りぬところを教えつつ、こちらも聞けば良かった。
だが、エルの真意はこれでも足りぬ。この先だ。彼女の姉であるアルトリアは人を導く職に就いている。しかし私に教師は向かないと思う。ならば……私は今一度、もう一人の私に会わなければならない。
「大橋、ここで良いのか?」
「ああ、ここが衛宮ん家だ。唐澤、本当に聞くのか?」
「当たり前だろう? ほら、インターホン押すぞ?」
ピンポ~ン、ピンポ~ン。
『はい、アインツベルンです』
「え? あ、そうか。唐澤と言います。衛宮君居ますか?」
そうだ、衛宮は養子だった。しばらくするとドアが開いた。
「唐澤、大橋。どうしたんだ? 今、立て込んでいてな。上がって貰えないけど、何だ?」
「悪いな、突然。実はエルヴァ先輩に相談したい事があって」
「お向かいが、ハードル高い」
「ああ……。そういう事か。けど、相談って?」
「変な事じゃないんだ。1年の女子がバスバス中ててたろう? どういう指導だったのか、聞きたかったんだ」
「なるほど。それなら答えてくれそうだ。来いよ」
そう言って衛宮は玄関から出て来て、俺達を向かいの家に連れて行ってくれた。
デカイ。何だこの門。2-Aのエーデルフェルトさんの家だそうだが、門と建物の距離がやたらと空いている。そして奥に見える家もまたデカイ。
自分の知っている遠近法が壊れていく気がする。衛宮が玄関のドアを開けてエルヴァ先輩を呼んでくれた。
「あれ、大橋クンに唐澤クン。どうされました?」
道着姿にポニーテールの先輩も可愛いが、私服で髪を下ろした先輩もまた。う~ん……オンスの低そうな薄手の、デニム地の半袖カットソーには胸元に花柄の刺繍が入っている。
そしてパンツは白いデニムのスリム。ふくらはぎ辺りまでしか丈がない。何だっけ? そうだサブリナパンツだ。そして素足に麻のサンダル。オシャレだ……。
あ、小指の爪にマニキュア。知らなかった。校則違反だけど、先輩だと似合うなぁ……。
それに対して、汗臭いTシャツにボロボロジーンズの大橋。一応、襟付きのシャツを着ているけど、対して差のない俺。何だか逃げ出したくなって来た。いやいや、そうじゃなく。
「突然、すみません。衛宮が話した通りですが、どうすればあれだけ的確に後輩指導ができるのか。そこを知りたくて」
「そうです。何かコツみたいなのがあるんですか?」
先輩はやや困った顔をした。けれどそれは一瞬で、ニコッとすれば俺達を応接室みたいな部屋へ案内してくれた。おい、このソファー、見た目より低いのか? 20センチは沈んだぞ?
壁に掛かった絵は、夏らしい原色の……スペイン辺りの画家の絵だな。本物かな?
大橋と二人してキョロキョロしてしまった。場違い過ぎるだろ、俺達。
そこへ先輩が戻り、冷えたお茶を出してくれた。うわ、何だこのお茶。花のような味がするぞ? オシャレだなぁ。
「今日はたまたまだと話しても納得しないでしょうね……。そうだなぁ。唐澤クンも大橋クンも友人とは言っても、好みの食べ物や好きなゲームは違うでしょう?」
「まぁ、そうですね」
「ですから、二人には指導にあたっての投げ掛ける言葉も異なって来ます。3年生が卒業して、唐澤クンが晴れて五人立ての中に入ったとしたら、練習中に私ならこう言います。居残り50射と」
「どうしてですか?」
「普段から矢数を掛けているのは知っています。ですが、キミは試合の経験が少ない。その不安が矢数となるのは良いのですが、一射一射が軽くなりやすい。もっと気持ちを込めて引いても良いと思います。ですからバテるくらいに、本番さながらの気持ちを込めて50射と。こういう歌もありますね。『稽古をば 晴れにするぞと嗜みて 晴れをば常の心なるべし』。平素から気持ちを込めれば、試合でも同じ事をするだけです。恐れる事はありません。横で呟きましょうか? この一射を外せば我が校の負けだとか?」
「うわ……。けど、その通りだと思います……」
さすが先輩だ。良く見てる。気持ちを込めてか。確かにここまでやっているんだからって甘えはあった。
「大橋クンは逆に試合で足を引っ張らぬようにと、気持ちを込め過ぎなのですね。確かに『射よや射よ 射るよりまさる師はあらじ 習わぬ知らぬことを知るなり』ともあります。とは言え、大橋クンは大橋クンであって衛宮クンではありません。あそこまで張り詰めれば、私でも遠峰さんでも持ちません。だから同じ50射でも後半でバテるのですよ」
なるほど。大橋も頷いている。
「人はそんな風に、感じ方や考え方が皆んな違います。今ある立場だけを見ても大きく異なりますよね? そして聞く耳があるならば、軽い助言で気持ちが変化するものです。今の二人は1年生から見れば、話を聞かねばならない先輩です。だからこそですよ」
先輩がグッと俺達を見詰め直した。
「だからこそ、家が異なれば、育ち方も異なる後輩達一人一人に沿った言葉を掛けなければなりません。同じ事を話してあげるにしても、心に残る、相手に届く言葉は人それぞれ異なって来るのですから」
確かにそうだ……。衛宮も心当たりがあるのか頷きながら俯いていた。
「それでも君達は信じるに足る先輩ですよ。正直、私は1年生を思い、ここまで聞きに来た君達後輩を可愛く思います。とても立派です。ですが少し触れ合っただけで、相手に的確な言葉を残せるかどうかは別ですよね?」
可愛く思うと言われて赤くなる俺と大橋だけど、残せる言葉か……。
「こういうのはおちゃらけていても、藤原クンの方が上手いです。衛宮クンなんてあの射が無ければ、単なるボキャ困の朴念仁ですよ。けれど朴念仁で頭が固いから、誰よりも練習に打ち込める。彼は口下手ですが、その弓道に打ち込む真摯な姿を皆んなが知っているから、副部長として務まるのです」
ボキャ困の朴念仁。衛宮、泣いて良いぞ?
けれど、衛宮は頷いていた。むしろ照れていた。この愛すべき弓道バカはまったく……。
「つまり今のメンバーが居る、去年から今年の春に掛けての弓道部には、行動で示す人が合っていた訳です。そして新しく加わった1年生ですよね? この子達には、行動を示す事も必要ですし、言葉も必要だと思います。今の2年男子は話術の藤原、それを支え補う大橋、唐澤、技術屋の衛宮で行けば良いと思います。適材適所、ちゃんと揃っていますよ。ですからそこまで悩む必要はありません。何より冬になり、1年生が成長すれば君達の声も届くようになります。今はまだお初な事ばかりなので、君達の真意が伝わらないだけですよ。焦らず、真っ直ぐ前を見なさいな。私達3年生も君達の味方です。できる限りお手伝いしますから」
ああ……先輩……。
「こら大橋! エルヴァさんの手を握るなッ!」
なぬ!?
「大橋先輩、今日が命日です。初七日も四十九日も要りませんよね?」
大橋の背後にいつの間にかエルマが立って居た。薄いグレーの白黒ボーダーのカットソーに、白いプリーツスカート。エルマ、お前それテニススコートだろう? 面白いコーディネートだけど、似合うな。
そして応接室のドアが開いて、遠坂さんとエーデルフェルトさんが睨んで来た。そーっと手を離す大橋。お前は今、穂群原学園の全女子を敵に回したも同然だ。
遠坂さんとエーデルフェルトさんは、部外者ではあるがエルヴァ先輩のシンパとして知る人ぞ知る存在だぞ?
くわばら、くわばら。こいつとの付き合いも考え直さにゃならん。
「まぁまぁ、皆さん落ち着いて下さい。唐澤クン、大橋クン。申し訳ありませんが、今日のところはこれで。今からお向かいに行かなければなりません」
「衛宮ん家?」
「ええ。今日は私とエルマの誕生日でしてね。可愛い妹達がパーティを開いてくれます。ですから……」
「ああ、すみません。すぐ御暇します。先輩、突然すみませんでした」
「すみません、ありがとうございました」
そうして俺と大橋はエーデルフェルトさんの家を出た。
難しい話だったけど、先輩の言いたい事はわかった。俺は俺。大橋は大橋。違う人間なんだから言葉が変わるのは当然だ。なのに1年に対して、十把一絡げに同じ事を話しても伝わる筈がない。エルヴァ先輩はきちんと見ていた。
結局、俺も大橋も人として経験不足なんだ。そこに気付けただけでも良かった。後輩を導くって難しい。けど、年の差は僅か1歳。いつかは先輩みたいになれる日が来る。
そう信じる俺と大橋の背中に、衛宮が『頑張れよ』と声を掛けて来た。だからお前も同じ2年だろうが! この朴念仁の昼行灯め!
とは言え、衛宮はシメで一言二言話させる方が効果が高い。ペラペラ話させるには、やはり藤原だな。これも先輩の言う通りだ。大橋じゃないけど、俺がエルヴァ先輩を意識し始めたのはこの日からだった。
「もうちょっと反骨精神があれば、私の香り付き胸当てを5万で売ってあげましたのに。唐澤クンってプチトマトみたいで面白いのにね?」
やっぱりお姉様の目から見ても唐澤先輩はプチトマトなんだ?
「大橋先輩はキュウリですよね?」
「お肌がツルツルならズッキーニですが、春よりニキビが増えて。もはやゴーヤですよね?」
思った以上に辛辣だった! 手を握られたのを怒ってる?
「ハイッ! お姉様、即金で10万払いますから、胸当てを一発落札でお願いしますッ!」
「あはは……。妹からそんな事を言われて嬉しがる姉が居ますかっ!」
「お姉様、ジョーク! ジョークですから! 痛い、痛い! グリグリは辞めて!」
「ジョークを先に言ったのはこちらですが、まったく……。では、そろそろ参りましょうか」
凛さんやルヴィアさんに声を掛けてから玄関を出ると、士郎さんが大橋先輩と唐澤先輩を見送っていた。
「『押し引くと 継ぎ目な見せぞ 富士の山 峰と胸とは 一つなりけり』」
「は?」
「弓手と馬手がバラバラでは綺麗な引分けになりません。士郎クンが射手なら、唐澤クンが弓手。大橋クンが馬手です。そして藤原クンが頭というか口ですね。男子は安泰で、秋月クンも嬉しいでしょう」
「1年男子はどうですか?」
「経験者が居ない分素直ですし、入部動機が女子の袴姿とポニーテールだったとしても、今は先輩方に続いて自分達も大会に行くぞと燃えている子が多いです。秋月クンが1~2年の頃は上級生に幽霊部員も多く、かなり弛んでいたそうですよ。それを秋月クンと一体となって立て直したのが士郎クンや藤原クン達です。ですから男子は問題ありません」
そうか、今の2年生が真面目な秋月先輩と立て直したのか。
「そうでしたか。2年の女子はどうでしょう? 私は美綴部長に、瀬尾先輩、そして白石先輩で揃っていると思うのですが?」
「ええ、私もそう思います。田所さんも薮内さんも安心ですね。特に白石さんはこの夏に化けますよ。そしてできればそこに続く1年女子を、もう少し増やしてあげたいですね。何故なら美綴さんに引っ張られて、技術至上主義なところが2年生の女子には見受けられますから。その分、男子とバランスが取れているとも言えますけれど」
そして私達はアインツベルン家のドアを開けた。凄まじいカレー臭が漂って来る。事前にカレーパーティとは聞いていた。ルヴィアさんがピクリと反応し、凛さんが苦笑したのも憶えている。残念だけど今日はアインツベルン家だけだ。
けれど、スパイスの香りが普通じゃない。もしかしてスパイスを調合して作った? 小学生だよ?
「これって市販のルーじゃありませんね?」
「美遊ちゃんがいますし、万一の場合はセラも士郎クンも居ますからね。スパイスから合わせたのかも」
「正解だけど、知らない振りをしてやってくれ。それと今のところ俺やセラの手出しは、一切なし。かなり凄いぞ」
「へぇ~」
出迎えられダイニングテーブルの椅子に座らされた私達。お姉様はお招きありがとうと三人にキスをしているが、誕生日には一切触れない。空気を読んでいらっしゃる。
アイリ小母様もセラさんもニコニコだ。リズさんは訳ありな顔だから、カレー以外もありそうだ。これは楽しみだね。
やがて、お待たせ~と言って出て来たカレーを見て、私はたまげた。ご飯はプリンか何かの容器を使って山が三つ。一つはバターライスで、ガーリックチップが入っている。
二つ目はサフランライス。三つ目は白米。そしてこの三つの山の真ん中にキーマカレーだ。
更に山の周囲にカレーの海が。そこにかなり大きな豚バラ肉が漂っている。トッピングは別皿でカボチャにナス、シシトウなどの夏野菜。素揚げに近い衣の薄いフライだ。
これまた別皿で自家製らしいピクルスというか酢の和え物があった。トマト(唐澤先輩)にキュウリ(大橋先輩)、ニンジン(衛宮先輩)にオニオン(誰?)だ。ほぅ~。
「これ、本当にあなた達が?」
お姉様、それ演技ですか? けれど促され一口食べれば、これは来た。一つ一つはまだまだ荒削りだけど、全体で見れば中々……いや、かなり高得点だった。特に豚バラの煮物とカレーが合う。
そして三種のご飯に乗ったキーマカレーは、味噌入りなのかコクがあって美味しいし、カレーの味を確変してくれるので飽きない。ここに卵を落とすと更に良いだろう。
「美遊ちゃん! 白身が固まるほど焼かなくて良いですから、半熟目玉焼きを下さい!」
「はい!」
そう言ってお姉様は、キーマカレーの上にドロッとした目玉焼きを乗せられた。そうなるだろうな。
「これは良い! 美味しい!」
さっきから演技掛かっているけれど、さすがのお姉様もこれは対処に困っているのかも。だって、思った以上に美味しいのだ。
カレーの真髄はスパイスとスパイスが織り成す複雑なハーモニーにある。それを計算して作るのが料理人であり、料理の上手い人だ。
ところがこのカレーは、お姉様や私への誕生祝いとして過剰にサービスしたらこうなってしまった偶然要素が強い。けれどそこは責められないし、何よりこの子達なりに美味しくしたい一心から得られた結果だ。
となるとそれは成功だ。お姉様の誕生日当日に、この子達は成功という名の結果を出したのだ。お見事という他はない。自家製のこの和え物がまた良い。
「大橋、貴様ァ気安くお姉様に触れるな」
バクリとキュウリを咀嚼した。ピクルス液は粒マスタード大匙1、酢大匙2、砂糖大匙1、塩少々、ローリエは1枚ってところか。
鷹の爪を使わないところが小学生だけど、粒マスタードはアリだ。タマネギを細く刻んだのも正解だなぁ。
「何を言ってんだ、エルマは? けど何ていうか、創作意欲を掻き立てられる味だなぁ」
士郎さんの一言にお姉様も頷いた。私もそう思う。
「クロエちゃん、おチビちゃん、美遊ちゃん。この18歳の誕生日を私は一生忘れません」
とうとう先に言っちゃった。
「私も今日の誕生日を忘れません」
三人は目を合わせてモジモジしていた。けれど。
「お姉ちゃん達、おめでとう。食後のデザートにかき氷もあるから」
たぶん、この時が私の初勝利だ。お姉様が立ち上がろうとした矢先に、すかさず立ちあがって三人を抱きしめた。
「クッソ、射詰で負けた気分です!」
「エルヴァちゃん、汚い言葉はメッ」
「はい……」
アインツベルン家は今日も平和だった。
〈エルマ様。久方ぶりに三人確保しました〉
〈お姉様狙い?〉
〈はい。ですが一般人ではありません。いつぞやの弓道部卒業生の息が掛かった者です〉
〈ああ、お姉様を襲って醜聞を垂れ流そうと。前に作ったルートがあるでしょう? 労働者として売り飛ばして下さい〉
〈承知しました〉
〈それとそのOGの実家が黒かったんでしたね?〉
〈はい〉
〈今夜中に依頼先を襲って全員病院送りになさい。実家の方の子飼いが襲った証拠を残して〉
〈承知しました〉