11歳の子が、見た目20代の子の身体を借りて大型トラックを運転する。しかも日本から来たエルは運転時間が妙に長い。それはエーテル体のミトそっくりな身体を出力して、意識を次々と入れ替えているからだ。
本当の意味での英霊ではないけれど、精神的な疲れ以外は大抵問題ないのだ。アハトのお祖父様とは全然異なる考え方。これも第三魔法の零れものなのだった。
今の私もそうだから良くわかる。エーテル体で纏った身体は本当に疲れ知らずで、その精神の疲れも一度エルに戻ればリフレッシュ出来てしまう。
だからモスクワでの合流が必要だったのだ。今はミトも私やドイツで逢ったエルと一緒に、シロウとのおしゃべりを楽しんでいる。
そして日本から来たエルだけがベッドでコンコンと眠り続けていた。キャビンには人目も憚らずエーテル体が3人だ。サイドカーテンは閉めているので後席で待機する2人はまず見えないけれど。
そして運転席には交代する前のエーテル体が黙々とトラックを走らせ、助手席のアサシンがナビをしている。1枚の運転免許で4人も5人も運転している。こんな魔術と言うか発想があり得ない。
トラック自体の目的地はイルクーツクの小さな営業所だ。そこから別の小型ワゴンに乗り換え道なき道を進むのだそうだ。
「すべての道はローマに通ずって言葉があるけれど、モスクワもそうなんだね?」
「そうです。その地図の通りですよ、お姉様」
「でもさ。チェコからモスクワに行くならポーランドからベラルーシを抜ける方が近いんじゃないの? どうしてウクライナのキエフに?」
別段キエフで用事がある訳では無いらしい。
「ベラルーシの弾圧政治は措いても、外国人に厳しいところがありまして。それでルートから避けています。それとキエフに寄ったのは時間稼ぎです。エルの仕事があるからですよ」
スイスでの仕事ってことね。
何をするのだとは聞けなかった。けれど『五大老』だとか『ハーウェイ理事会』がどうとか言っていたので、どこかのお偉い人と会わなければならない事だけはわかった。
この時の私はまだ知らなかったのだ。エルの本名が、『エルヴァ・ハーウェイ』だったとは。
それはともかくロシアに近づくと、道の端に事故を起こして止まっているクルマがちらほらと増えた。そして国境を越えて、地図で言うとブリャンスクを過ぎた辺り、辺鄙な何もないところでトラックが急に停まった。
「な、何?! どうしたの!?」
何だろうと思ってミトがモニターを付けたら、映し出されたのはこれとは違うトラックと乗用車らしきクルマの交通事故だった。
「大変じゃない!」
次にミトはモニターの映像を後方に切り替えた。
何だこれ? 4台や5台じゃない。何台ものクルマが連なりぶつかっている。もっと後ろでは煙が上がっているようにも見えた。
「大丈夫ですか!? 誰か怪我をしていませんか?」
横の扉が開いて、エーテルのエルが声を掛けてきた。
「こっちは大丈夫。ブレーキもほとんど気付きませんでした」
「良かった~。空気緩衝の魔術は成功ですね」
何かこちら側に魔術を掛けたらしい。扉から顔を出して後ろを見ればトラックのタイヤ痕が道路に何十メートルもべったり残り、後続のクルマが何台も煙を出していた。
「一体何が?」
「追い抜き車線でスピードを出していたクルマが、その追い抜き車線を走っていたトラックを追い越そうと走行車線に逃げれば、故障車が止まっていて」
「そこに追突したの?」
「はい。ところが走行車線では貨物を載せたトレーラーが真後ろで故障車を避けようとゆっくり走っていたのです。間の悪い事にそのトレーラーの真後ろのクルマが車間距離を空けていなかったので追突です。それが500mほど前です」
「じゃ、後ろの事故は?」
「その事故を起こしたクルマを更に猛スピードで煽っていたクルマが、その事故でスピードを緩めたこちらを見て急ブレーキを。そこから多重事故が起きました」
だからモニターでかなり後ろの煙まで見えたのか。緩いカーブというのもあるけれど車線が違うんだ。
そしてエーテルのエルの説明を聞いた人形のエルがシロウにこう言った。
「シロウ、大事故よ。負傷者を救けましょう」
「わかった。イリヤも皆んなもここに残っていてくれ。道路には出るなよ、危ないからな」
シロウはトラックから飛び降りると後ろに走った。モニターの映像が使い魔の視点に切り替わった。するとアサシンが大勢居て、人々を事故車両から救い出していた。
ヘラクレスが誰かのクルマの屋根を引っ剥がしていた。
『少年! 君はこの後ろのバスのもう一つ後ろに!』
どうやらバスで押し潰された車両から、ヘラクレスは乗車していた人を助け出していたのだ。そしてヘラクレスの言ったバスの後ろには、更に後ろの農業用トラックと挟まれた乗用車が、元の形がわからないほど小さくなっていた。
そこには別のエルが居て、何かで後ろの窓ガラスを壊していた。そのクルマはセダンだと思う。トランクはグチャグチャだけど中はカラだったらしい。それで後部座席の被害が少ないのだ。
だけど前の座席は完全に失くなり、おびただしい血が地面に広がっていた。
『アーチャー! この後部座席にチャイルドシートが! 赤ちゃんは無事です! 何とか!』
『わかった! 同調開始(トレース・オン)────』
「運が悪い……。前が後ろにエンジンがあるバスで、後ろからはブレーキの甘そうな年代物の農業トラック……。せめて赤ちゃんだけでも……」
ミトの呟きだ。『私』を演じているエルも固唾を呑んでモニターを見詰めていた。
アサシンは分裂できる能力があるようで、50人かそれ以上居た。バスの乗客を降ろして誘導する者、怪我をしている人に肩を貸して道路外の安全地帯へ行く者、ヘラクレスやシロウと同じように潰れた車両から人々を救い出す者などが居た。
「こうしちゃいられない!」
ミトがシャワールームに走った。
「どうするの!?」
「本部にあるだけの包帯や消毒液を取ってきます!」
ミトがシャワールームに消えた瞬間、モニターに爆発映像が映った。エルが吹き飛ばされ消えた。
「イテ……熱い!」
寝ていたはずのエルが文句を言いながら起きてきた。
「参りました。一体死にましたね。マズいなぁ。赤ちゃんはどうなったろう?」
爆発に巻きまれて、あの運転していたエーテルのエルが一体消えたらしい。シロウと赤ちゃんは!?
ヘラクレスが爆発したところまで来た。そして燃えている車両をその指と手で引き裂いていった。中はギリギリ空間があるようだ。そんな狭いところにチャイルドシートを抱えるようにシロウが丸まっていた。
『少年!』
『赤ちゃんはオレが抱いている! ヤケドしたと思うけど最小限のハズだ! 早く呼吸を!』
何とシロウはバスのエンジンに火が着いたのを見るやいなや、霊体化して中で無理矢理実体化し、チャイルドシートごと赤ちゃんを抱え、爆発の防護壁となって守っていたのだ。
その後30分ほどで全部の車両から生きている人や怪我人は救い出せた。でも死んでしまった人も少なからずいた。赤ちゃんは戻ったミトが抱え、スイスで病院に入れた。
「カバーストーリーも何も、こんなのどう工作すれば良いのか……」
然(さ)しものエルも、途方に暮れていた。
『イリヤ』に聞くと、ロシアでは交通事故がとても多く、無謀な運転をする人もまた多いらしい。それは国民性より国土の広さから来る問題が大きく、早く目的地に到着したい人々がやたら飛ばすからだそうだ。
だからドライブレコーダーが、こんな時代から既にあったのだと初めて知った。アサシンの一人がエルに報告した。
「ドライブレコーダーのデータカードです。取り出せないタイプはすべて本体ごと取り外しました。後部の荷室に入れましたが、良かったですか?」
「とんだ火事場泥棒ですね……ご苦労様です」
神秘の秘匿とは証拠隠滅と同義なのだと、その時に改めて思い知った。そして警察に携帯電話で救援の依頼をしてから、エルは救助した人々全員の記憶を操作した。
アサシンを2人残して私達は出発した。神秘の秘匿が優先だと『イリヤ』が言えば、何か言いたそうだったシロウも黙った。ミトが戻ったのはトラックがモスクワを過ぎた頃だった。
キエフで1日待機したので、今日中にモスクワを抜けニジニノヴゴロドまで行かなければならないらしい。
「そこに何かあるの?」
「別宅があります。ちょっとした霊脈の上に建っているので疲れが取れますよ」
そうよね、気疲れした。あの事故映像が頭から離れないのだ。
赤ちゃんを護るために爆発する寸前のクルマに飛び込むなんて。何よりそれをシロウに指示したのが、どうやらあの消えたエルらしいのだ。
英霊だから大丈夫というのはわかる。そして消える覚悟で指示出来たのは、本体が無事なら大丈夫という計算があってこそだともわかる。
だけど、熱いんでしょう? その死の痛みは本物でしょう? どうしてそれが選択できるの?
それが魔術師と言ってしまえばそれまでだけど、あの『シロウ』に感じた危うさでなく、それを越えた計算尽くの怖さがあった。
何故なら、この多重事故の中で私達のトラックだけ無傷なのだ。ブレーキ痕はあったから、急ブレーキを踏んだのは間違いない。それでも被害が皆無だったのはエルの性格としか言いようがなかった。
速度や車間距離は常に制動距離を最優先に考えながら決めている。それでもって流れも考慮しつつ速度の上下を、微妙な坂を利用して行っている。
アクセルを強く踏むことも滅多に無いし、減速もアクセルオフか排気ブレーキの範囲で収めている。そして使い魔を常に500m先と1000m先に飛ばして道路状況を確認していた。
今のエル達より小さかったけれど、あんな私でも以前は免許を持っていた。本当に。18歳なのは事実なので、冬木に行く前に取得したのだ。だから冬木では、国際免許でお母様のSL300を操縦していた。
それだからわかる。エルがどれだけ慎重なのか。大胆なのに繊細。そんな性格が運転から出ていると思えた。
「さっき通った道はどれなの?」
私は地図を指差した。モスクワにはどうやら環状道路が3つもあるのだ。それの外周なのか真ん中なのかを尋ねたのだった。
「真ん中ですね。ウクライナのキエフからM02、E391、E101を経由して国境を通過、そしてM3に入ってモスクワ中央環状道路です。今走っているのがM7で、先程の事故はM3でした」
「そう……モスクワかぁ。どんな街なんだろう?」
「すみません。観光もままならず」
「ううん。お仕事なんだから、それは良いのよ。ただ、どんなところかなって」
「そうだなぁ……内周の行政区に行けば、ホイップクリームみたいな屋根が目立つので情緒がありますけれど。実際観光地もそこに集中していますし。ただソ連崩壊まで入れなかった鉄のカーテンの内側ですからね。お祖父様なんて絶対に行きたくないって今でも話されています」
戦争も体験されているだろうし、お祖父様がそう仰られるのも無理はないだろう。でもチャンスがあれば何かロシアらしいお土産が欲しいなと思った。
「イリヤ。さっきの赤ちゃんはどうなるんだ?」
シロウだった。ずっと思いつめていたのだ。それに答える『イリヤ』。エルがシャワールームからお風呂に行った間の話だ。
「今もアサシンをやって身寄りがないか探させているわ。たぶん、前席で押し潰されちゃったのがご両親でしょうね」
「そうか……親戚とか見つかると良いんだけど……」
「そうね。でも最悪の場合は、こちらでそういう施設に入れるから。それは責任を持ってやるから安心して」
「……頼む」
「生きていて良かったって思える人生を歩んで欲しいわ。きっとご両親の願いもそれだったろうから。シロウは赤ちゃんにそのチャンスを与えたの。よく頑張ったね」
「イリヤ……ありがとう」
そっとミトがハンカチを寄越してくれた。私は知らずに泣いていたのだ。
トラックがニジニノヴゴロドに入ったのは夜の9時頃だった。
「お姉様、もうじき着きますからね」
大きな橋を渡ってから20分ほど走ったら目的地に着いた。暗いからよくわからないけど、雑木林以外は何もないところだった。
その向こうに明かりの灯った家があって中から人が出て来た。
「誰か居るの?」
「こちらで働いて下さっているアサシンですよ」
私達がトラックから降りると、懐中電灯で足元を照らしてくれた。その迎えのアサシンはあの女性だった。「えっ」と思って横を見ると、助手席にいたはずの女性アサシンがトラックの前を回ってこちらに向かって歩いている?
「お疲れ様」
「お疲れ様。変わりないか?」
「こちらは特に。そちらは?」
「相変わらず、何かある」
二人は笑い合っていた。そして私達を屋内へ案内してくれた。ただスイスのお風呂に行ったエルと、運転していたエル達が降りてこない。その事をミトに訊いてみた。
「エル達は?」
「エーテルの方はエンジンストップと同時に消えました。本体は着替えて仕事じゃないかな? 赤ちゃんの容態も気になるだろうし」
「そっか。それで、あのアサシンは?」
「ロシアに常駐してくれているアサシンです。最初からここで護衛のアサシンが入れ替わる手筈だったんですよ。第1回目の予備調査も、彼女達ロシア組が行(おこな)ったんですよ」
エルはどうやら分裂する能力(宝具?)を持つアサシンを数人は使っているらしい。そして主要なところに常駐させているようだ。
私達を護衛していたのはEU担当の内の1人で、ここでロシア担当と交代するらしかった。
「あれを御覧下さい、お姉様」
「え?」
そこはリビングだろう。ソファーに小さな女の子が腰掛け本を読んでいた。
「あの子は?」
「あの子もアサシンです。ロシアは厳しいですからね」
危険な場所になればなるほど、その小さな81番目だかの人格が現れるのだとか。そこで初めてアサシンの宝具を教えられた。
多重人格のハサンが英霊となり、その別人格に分裂できる宝具。それってまるでエルだ。アサシンを参考にしたのか、それとも偶然の一致なのか。とてもエルらしいサーヴァントだ。
しかも彼、彼女達を大聖杯を使ったのかどうかはわからないけれど、二重三重に召喚している。それはどういう技だろうか。もしエルが聖杯戦争のマスターだったら誰も勝てないだろう。
『アサシンが良かったなどと戯言を。そういう卑賤な了見だから失敗するのだ。やはり外者(そともの)は信用できん』
お祖父様、キリツグが居たから私やエルが居るのよ。エルの受精卵を手放したのはあなただわ。いやいやいや、それはここでの事で、元の世界はどうなのかわからない。
何だか驚かされる度に、私にもエルが居たんじゃないかってついつい考えてしまう。
その日の夜は遅めの夜食を軽く摂って、お風呂に向かった。
夜食はシチーという名のザウアークラウトで作ったスープだった。
普通のキャベツでも作られるロシアのお味噌汁的存在なのだとか。ただしキャベツとザウアークラウト以外の各種野菜を色とりどりに入れたり、何かのお肉を入れる場合もある。
豚肉を使っても「トン汁」とは言わないけれど、家ごとに明確な味の差があり、具材もキャベツ以外は毎回変わるそうだ。それでも仕上げのスメタナ(サワークリーム)は外せないらしく、どの家でも必ず入れているとか。
そして今回頂いたのは当番のアサシンが作った、お肉を使わない野菜だけのシチーだった。そこにホブズというパンが添えられていた。
「美味しい……」
「お姉様、野菜だけなのにコクがあるでしょう?」
「ええ。これはどうやって?」
「発想はイタリアのブロードなのでしょうね。皮やヘタなどのクズ野菜や香味野菜を使ってベースを作っています。それを元にシチーに仕上げている訳です。彼のオリジナルですよ」
その彼と言われたアサシンは、人好きのするはにかんだ笑顔でペコリと頭を下げた。実はこの家の造りが変わっていて、ここは最初に案内された家ではない。
まずリビングがあったあそこが、玄関でもあるメインの家で、そこから廊下を通って別棟が幾つか繋がっているのだ。
そしてこの広い食堂のある棟は来客用でなくアサシン専用なのだとか。だから椅子やテーブルは私達のためにわざわざ運んでくれたのであって、普段は絨毯が敷かれた床のそこいらに座って食べるのだという。
そうだろうなぁ。キッチンは壁側で丸見えだし、見たこともない窯があった。
彼らは宗教上の理由で食べてはいけないものがある。しかも仕事中は食事もままならない訳だ。それでこのような別棟を各所に建ててあるそうで、一番大きなものは日本の冬木にあるという。
「冬木にあるの!?」
「あります。そこはまぁ、言ってみれば休暇村のようなものですが、ここと似たようなのはEUにアメリカやオーストラリアにも数ヶ所ずつありますよ」
「それだけのアサシンを抱えていて、そういう拠点があちこちにあるって事ね?」
「そうです」
ここには私とシロウ、ミトに『イリヤ』とヘラクレスが居る。エルはまだ戻っていない。
「エルはどうしたのかしら?」
「あのトラックがあれば戻れますから私達は予定通りに明後日には出発しましょう」
「そうね。でもここで2泊するのはどうして?」
「ここまでの距離で約1/3なんですね。次も1/3進めば休みを取ります」
「そういう予定だったんだ? 次はどこ?」
「ノヴォシビルスクですよ。そこで羽を伸ばしてイルクーツクです。本当は飛行機でモンゴルに入って、そこからイルクーツクに入る方が近いのですが、機材や礼装を運べないのが痛いので」
「それがあのトラックに?」
「はい。それとここはアサシンの交代だけでなく、礼装や魔術装置へのマナの補給装置もあります」
「なるほどね。それでドイツから一緒だったアサシンはここで待機?」
「いいえ。一旦モスクワから飛行機で帰ります。あちらでの仕事があるので」
「そう、忙しいんだね?」
「そうですね。でも頑張ってくれた分の報酬は渡していますよ」
魔術師とサーヴァントとしての契約もしているけれど、給料制なのにも驚かされる。ベース給はどこの国に居ようと一定らしいが、仕事の内容で各種手当が大きく違うそうだ。
それでこの調査は、普段の仕事とは異なるのでボーナスが出る。それで皆んな活き活きとしているのだという。
「だって、お姉様。81人に分裂できても給料は1人分ですよ?」
「あら」
「それでも家賃や光熱費はこちら持ちですから、破格と言えば破格の待遇ですけど」
「一体、年収は幾らくらいなの?」
「25~6万ユーロかな? 外注で計上しているので保険などは知りませんけど」
25~6万ユーロは日本円で約3千万だ。1人のサラリーなら十分と言えるけれど80人で割ったら年間37万くらい? これはちょっと厳しい。そこもあってのこういう保養施設な訳だ。
「外注なんだ?」
「脱税しようが何をしようが、こっちは目を瞑るという意味もあります」
「ああ……」
そんな事をミトと並んで木製の台に腰掛け話す私達。ここはバーニャというロシアのサウナだ。これまた驚かされるが、先程のキッチンの裏手になる。
あの何だかわからない窯はホブズを焼く専用の窯だったのだ。他の窯やオーブンに暖炉も全部そっちの壁にあった。それはその熱気をこのサウナで利用するためだったのだ。
メインは暖炉だそうだが、それだと真夏に使えない。暑いのに部屋まで暑くなるからだ。それでもう1ヶ所、サウナを暖めるストーブが外にあるそうだ。
そちらのストーブもチェコで見たような複合型で、お湯を沸かしたり料理もできるようになっている。床や壁の中では無数のパイプが走り、真冬はそこを温水が通って部屋を暖めるのだという。
「そういう装置が?」
「はい。温水パイプ式の暖房です。魔術で貯水タンクの水を沸かすのですが、一度起動してしまえば設置された礼装を止めない限りずっと温度を保ちます。中は完全密閉された不凍液なので春まで放置出来ます。液体やパイプは日本製ですが、そこにアインツベルンの魔術を併用して使っているのですね。外気温がマイナス30度でも、室内はヌクヌクですよ」
そういう魔術の使い方をするのね。魔術師としては生活に即しているので魔術使いっぽい。だけどウマいなと思った。
ミトがヴェーニクしましょうかと言ってきた。何それ?
すると彼女は自分の身体を木の枝でピシパシ叩いていた。ナニソレ!?
「フィンランドで言うところのヴィヒタですよ。知りませんか? 白樺の枝で皮膚を刺激して香り(アロマ)を擦り込みつつ発汗を促すのです」
「ううん、知らない。こんなサウナも初めてだもの。それとどうしてあなたは帽子を被っているの?」
「それがロシア式です。最近はフィンランドでも見掛けますね。効果は髪の保湿ですよ。お姉様が巻いているタオルのようなものです」
「ああ、そういうのなのね」
「それとロウリュの熱気から頭を保護する意味もあります」
「ロウリュ?」
「そこのサウナストーンに水を掛けて蒸気を発生させるんです。そうして一気に体感温度を上げるんですよ。初めてだと熱いかも」
「ううん。良いわ、やって見せて?」
それでミトがロウリュをやってくれた。熱い! だけど面白い!
しっかり汗をかいた後はサウナルームの外の浴室だ。そこには幾つかの浴槽があって、肩まで浸かれる浴槽やジャグジーに水風呂もあった。
だけど今は浴槽にお湯も水もなく、ジャグジーも泡立っていない。冬しか使わないのだそうだ。それにこんなサウナがあるならシャワーだけでも良い。
シャワーは10機くらいあって、そちらはお湯も水も出るようだった。私とミトはそこで身体や髪を洗った。その髪を洗っている最中に背中にピトッと柔らかいものが当った。
ミトが抱きついてきたのは想像できたので、これこれと言いながら髪を洗い流した。彼女は私が目を瞑った瞬間に甘えたかったのだ。だけど髪を洗う邪魔はしたくないので胸を背中に押し当てていたのだ。
髪の水気をタオルで拭きながら、どうしたの? と訊いてあげた。
「正直辛いです。今度の誕生日でやっと12歳なんですよ。以前は背伸びして遊んでいるのが楽しかったのですが、今はそれも飽きてきたというか……」
「パミが頑張っているし、エルに迷惑は掛けられないしで悩んでいたのね?」
「……はい」
「わかってたよ。『お姉さん』から『お姉様』に呼び方を変えたでしょう? あれはSOSであると同時に、求愛?」
「きゅ、きゅ、求愛って……私の『お姉ちゃん』になって欲しいだけです!」
顔を真っ赤にして俯くミト。可愛いなぁ。
「そうだね。エルもイリヤも『姉さん』だものね。特にエルにとっては何人か居る『姉さん』の内の1人でしかないわ。でもミトは違った。エルやパミと同い年なんだものね。良いよ。二人だけの時は私があなたの『お姉ちゃん』よ」
泣くかなと思ったけれど、ミトは泣かなかった。とても嬉しそうに私に抱きついただけだった。ただ、問題は……乳首が勃っている!?
「ミト、あなたそういう……?」
「ち、違います! ち、ちょっと子供の頃から遊んでいたので、そういう体質になったと言うか……」
「まさか、男性経験があるの?」
「に、二度ほど……」
あるのか!? 中身が11歳なのに?!
「詮索したくないけれど、ヘーゲルさん?」
「いいえ、彼とはまだ何も。それに社内の人ではありません」
「じゃ、誰と?」
「全部は言えないですけれど……その……とある村の男性と……」
誰だ? と言うか『とある村』って何だ?
「その人と2回?」
「いえ、もう1人は……その……自分というか、女の子というか……それで練習すれば大丈夫かなぁって……」
意味がわからない。でも何となくわかった。それをして『奔放』と烙印を押したエルとパミも、この事を知っている訳だ。となるとそれは数年前の話だ。その頃は幾つだったのだ?
それはともかく奔放だけど、営業能力抜群で自社の看板でもあるミト。真面目で堅物そうだけれど、その分ミトの手綱を引き締め利益を上げるパミ。この2人の両輪があってこそなんだなと素直に思えた。
「あれ? エルから聞いていませんか? ドイツにはもう1人居ますよ、お姉様」
「え? でも居なかったよね?」
「ええ。彼女は、エッペルハイムでなく、ドナウエッシンゲン専属なんです。会社とも関係ありません。11代目アインツベルンとしてのエルの補佐ですね」
「ああ、そっちの? それで省かれたのかな?」
「そうかも。愛称はトリンキンと言って、見た目はパミと同じです」
「『飲む』って意味? どういう愛称よ?」
「日本語の『ゴクッ』って擬音からです」
『肉』だったり『ゴクッ』だったり。エルの名付け方ってどこかヘンね。
「その子とは?」
「時々会いますよ。地元の小学校に通ってる、普通の小学生です。あそこはマアエモ・ママやルオン・ママでも頭が上がらない古株のメイドが多く居ましてね。一番偉いのはエッペルハイムのメイド長、『フリューゲル』の実の母親です。『ネーベル』って言うんですが。トリンキンはあの人に育てて貰ったようなものですね」
「待って。そのフリューゲルという人のお母様が、ネーベルというメイドなのよね?」
「はい」
「魔術師の末裔とか?」
「いえ。母親はホムンクルスですよ」
え!? お母様が最初じゃないの?! き、奇跡の成果じゃないの! こっちでは当たり前に人とのハーフが居て、その子もメイド!?
あ~……エルみたいなやり手でないと、『お嬢様』と呼ばれる立場にはなれない……? き、厳しいわね……。
翌朝、ミトが中心になってシロウと私の3人で朝食を作った。『イリヤ』お嬢様はリビングでアサシンの子と何かを話していた。
私達の部屋はこのリビングのある棟の2階だったが、アサシン達は例の食堂がある棟で一晩過ごしたようだ。
「あちらにも2階に個室があるの?」
「あの女性を含めたリーダー格には部屋があります。さすがに全員分は難しいですよ。それを可能にしているのが冬木なんですね。だからそこが保養所な訳です」
なるほど。大きなアパートメントで、社宅として登録してあるみたい。
「それとヘラクレスからの報告で、トラックがいっぱいあるって」
「ロシア製の3軸の6輪全輪駆動トラックで、ウラルの4320です。色々バリエーションがあってそれぞれに大型の礼装や掘削機、ショベルカーなどを積んでいます」
現地は道なき道どころか本当に道がないらしく、そういう機械や大型の魔術装置を運びながら切り開くしかないそうだ。春に調査を行うのは気温が穏やかになるのと、夏ほどツンドラが緩まないからだという。
「緩んだらどうなるの?」
「泥濘んで進めません。今はまだ調査段階ですが、イルクーツクの営業所にこれらの装置や機械を積んだトラックを運ぶ事も今回の目的の一つです。現地へは来年の夏までにアサシン達が運びますから。それに乗ってきたトラックも舗装路専用なので今時分しか使えないんですよね。コリーンの倉庫にもう1台トラックがあったのを見ました?」
「いいえ」
「そうですか。並んで置いてあったんですが。タトラのT815という4軸の8輪全輪駆動ですよ。そのT815はここにも2台あります」
聞き耳を立てていたシロウがこんな事を言った。
「欧州7大メーカーか。パリ-ダカール・ラリーの出走車とは別なのだな」
ミトの説明だと欧州に於けるトラックの7大メーカーの事らしい。
1、ドイツのダイムラー。2、オランダのDAF。3、ドイツのマン。4、スウェーデンのボルボ。5、同じくスウェーデンのスカニア。6、フランスのルノー。7、イタリアのイヴェコ。
知っている人は知っているだろうが、知らない人は全然知らないと思う。けれどどこも大手のトラックメーカーだ。こんな私でも幾つかは知っていたのだから。
ところが、歴代のパリ-ダカール・ラリー優勝車両と7大メーカーはダイムラーとDAF以外被らないのだそうだ。
第1回はオーストリアのピンツガウアー、2回目はソコナムというアルジェリアのメーカー、第3回はアルム-アクマというフランスのメーカー、次の第4回から第8回までの連続5回はダイムラーで、第9回がオランダのDAF。
続く第10回がそのタトラで、第11回は開催されず、第12回から第15回までの4回が連続イタリアのペルリーニだ。第16回と第17回は再びタトラで、第18回はロシアのカマズ。
第19回は日本の日野。そして昨年の第20回と今年の第21回はタトラの連続優勝となっている。やっぱり男の子よね。シロウはミトの話が全部わかったらしいから。
「来年もタトラに違いありません」
と、力説するミト。今は1999年の4月。パリ-ダカール・ラリーは毎年1月開催だ。残念ながらこの後21回以外はカマズの快進撃が続くのだけれど。
そしてここから徐々に気付いたのだけれど、この子達に限らずその後に出逢ったエルのバリエーションとも言える子は、どの子も乗り物が好きで中でも働く車が大好きだった。
ミトはその中でも際立っていた。年齢を偽って暮らさなければならない状況をプラスにして、クルマにトラックだけでなくトレーラーやクレーン車にリフト車の免許まで取っていた。
フランクフルトまで迎えに来てくれたクルマは社用のVWのパサートだったが、あれ以外の自家用はアウディS4ワゴンやパジェロの3ドア、ピンツガウアーの716だったりする。
「上手いじゃないか。良く出来ているよ」
シロウが褒めてくれた。うん、我ながらそう思う。単なるハムエッグなんだけど、まともな目玉焼きすら焼けなかった私がここまで出来るなんて。お皿に盛り付けピクルスと少々のザウアークラウトを添えればバッチリだ。
「焼き物はフライパンの予熱と油、それと火力調整ですから。コツを掴めば」
「そうだね」
そして私は焼き物担当になった。ジャガイモのパンケーキはミトが作り、スープはシロウが作った。パンとジュースは、朝イチにアサシンが街まで出て買ってきてくれている。
達成感があったからか、質素な朝食でもとても美味しく感じた。
朝食後はミトに誘われ、ニジニ・ノヴゴロドの街を案内して貰う事にした。身支度を整え、表に出るとボロっちいバンが止まっている。
「これで行くの?」
「そうです。こういうのがロシアでは似合うんですよ」
それはUAZ-452という四輪駆動のバンだそうで、気温がマイナス60度にもなろうかという真冬のヤクートの北部でも、泥濘んだ荒れ地でも燃料さえあれば走ってしまうという。
「間の抜けた顔をしていますが、その車重の軽さと走破性を知れば頼もしくて。むしろ愛嬌を感じます」
これはアサシンのクルマらしいが、ノヴォシビルスクの営業所にはミトのUAZ-452もあるという。そしてエルも数台持っていて、その全部が昨年目的地のナカンノ近くまで行ったらしい。
それらはイルクーツクの営業所にあるそうだが、今年どこまで道路を拡張できるかで来年以降が決まるとミトが話してくれた。本当にビジネス・ウーマンなんだね。
「文豪ゴーリキーの出身地なのでソ連崩壊までは『ゴーリキー』という名でした。人口は120万前後ですから結構大きな街ですよ。見どころは赤レンガのクレムリン(城砦)に、幼い頃のゴーリキーが祖父母と暮らしたカシリンの家博物館、緑の屋根が珍しいペチェルスキー昇天修道院、州立美術館、ピンク色のチャカロフの階段なんかは面白いと思います」
「そうね。そういうのは外から眺めるだけでいいわ」
「うん?」
「ここで……ロシアのニジニ・ノヴゴロドで暮らしている人の姿が見たいの。商店街みたいなのは無いのかしら?」
「マーケットですね。ありますよ。ここは元々定期市で有名な交易都市でしたから、良い着眼点です。なら観光地をくるっと回ってマーケットに行きましょう」
クルマはオカ川沿いを走って、クレムリンや大聖堂、チャカロフの階段の側を回ってゴーリキー博物館の前を通ってから橋に向かった。橋を渡る時、右にヴォルガ川との合流地点が見える。
「近くにGAZの博物館があるんですよね」
このニジニ・ノヴゴロドに本社のあるロシアの自動車メーカーだそうだ。好きだね。
メインストリートの両側にデパートやホテルが建ち並ぶ。思ったより都会だ。エルがオカ川の反対に家を持った理由が良くわかる。あちらの方が静かで情緒があった。
「そう言えば、あの家って霊脈の上なんだよね? 何か曰くでもあるの?」
「ええ。チェコと同じで元は魔術師の家がありました。それを全面的に建て替えたんですよ。と言うのは、死徒が隠れ住んでいたという噂のあった家だからです」
「死徒?」
「勿論一般人にはお化け屋敷程度の噂です。元が魔術師の家だったのは本当で、弾圧を恐れソ連時代はひっそりと隠れていたんですね。そして崩壊前に途絶えたそうです。その後、ソ連崩壊のどさくさに紛れ、空き家だったその家に死徒が一時住み着いていたらしく。結局はどこかへ消えたそうですが、えらく格安だったのでそれで買い取りました」
ソビエト時代は魔術師に厳しく、国家の犬となるか国外へ逃げる他は無かったそうだ。だから、かつてはそこそこあった魔術協会の支部や事務所もロシアには全部残っていない。これから増えると思うけれど。
お化け屋敷の噂は、たぶん人の心理に訴える『人避け』の魔術だろう。また『死徒』の噂は安く買い取るために、ミトかエルが流した可能性がある。
何故そう思ったかと言うと、街を一周りすればあの家の場所は、昔はいざ知らず今は観光地に近い閑静な住宅街の真ん中にあるのだ。
おそらく、今あれだけの土地を売ればかなり高額になると思うし、許可が出るかどうかわからないけれど、そこそこの工場や倉庫を建てられるだけの敷地がある。
その事をミトに言ってもトボケルだろう。この子達はしたたかだ。
駐車場にクルマを止めて歩いてみた。そしてわかった。モスクワでなくここを選んだ理由や、チェコからクルマで来た理由も。
実は空港が随分近くにあるのだ。この街は。普段は飛行機なのだと思う。そしてあのトラックは今後、ここに置くか2号機を作って置くのだと思う。空路と陸路、そして列車とクルマ。
魔術師だからと、思い込みで勘違いしていた。本当にビジネスの拠点なんだ。でもこの街には営業所がなく、次のノヴォシビルスクやその次のイルクーツクには営業所がある。
「ロシアは国土が広いから、お仕事のエリアはブロックで分けているのね?」
「そうです」
「やっぱりロシア支社か本社はモスクワ?」
「いいえ。サンクトペテルブルクなんですよ」
「あら。そんな北に?」
「ええ。エーデルフェルトのビルの隣です。そこで小ぢんまりと。本社は事務仕事ばかりなのでそれで良いんですよ。重要なのは機材や商品を置く倉庫と、人的資源を管理する営業所です。先日の事故でエルや私が必死だったのは他人事ではなかったからです。あのルートは我社の輸送トラックも多数走っています。ウクライナでも見掛けましたし、事故現場の反対車線にも居ました。この先も見掛けるでしょう。そんなドライバーにも家族が居て、待ってくれている人が居る訳です。だから必死だったんですよ」
私は思わずミトの頭を撫でてしまった。しまったと思ったけれど、本人は嬉しそうだった。
家に帰るとミトが『イリヤ』にこう言った。
「あの事故現場にトラックステーションを作れませんかね?」
「似たような事を考えていました。それでパミにメールを送ったところです。最終的にどういうカタチになるかはわかりませんが、まずは我社のドライバー、次に一般ドライバー、その人達の安全と休息を確保したいところです」
あの事故の直接の原因では無かったけれど遠因はあるそうだ。それはウクライナを早く抜けたいというドライバーの心理にある。
ロシア人ならさっさと通り過ぎて帰りたいし、欧州の人なら早くEU圏に入りたい。ベラルーシよりマシだけど、ウクライナもソ連崩壊後は政治が不安定で時々暴動が起きる。
そういう不安が積み重なってああいう事故を誘発するそうだ。特にロシア人はそうなのだとか。それは厳しい冬と広い国土から来ていて、『早く家に帰りたい病』というのを全員が患っているからだと『イリヤ』はいう。
だから、落ち着いて一服着きましょう、ここで休んで行きましょうと、訴えたいがためにトラックステーションを作りたいとミトは言ったのだった。
個人の事業としては大きいけれど、大きな会社だとそれも採算次第で可能になる。極端に言えばパスを発行して、会員制でも良いし、自社専用から始めても良いのだ。そうして少しずつ周りを変えてああいう事故を失くしたい。
そんなミトや『イリヤ』の会話に、シロウは真剣に耳を傾けていた。
「お姉様は雪上走行の経験がありますか?」
「ん~、ないわね。それが?」
「冬のロシアは雪上どころか路面が凍りますからね。それなのに『早く家に帰りたい病』でスタッドレスで飛ばすんですよ。事故のほとんどが速度超過と注意不足、そして操縦技術の未熟さから来ています」
「ミューが低い場合はギアを1段下げてトルクが発生するバンドをキープ。それでトラクションを稼ぐとか、スピンを誘発しないため排気ブレーキはオフにするとか、こういうドライバー教育も無いでしょう?」
「無いでしょうね。経費削減で燃料を抑えたり、過密スケジュールで無茶な行程を組んだりせず、経費は経費と割り切って、ゆとりあるスケジュールで安全確実に品を届ける事が優先ですよ。届くから売る事が出来るのですから」
「ですよね」
驚いた。これもクルマと言いつつトラックの話だったのだ。
「どうしてそこまでトラックに?」
「貨物車両こそが血管を流れる赤血球であり、魔術回路に流れるマナなんです。霊脈が地球の血管なら、道路は社会の魔術回路です。それを止める事は出来ません」
あ~……。何も言い返せない。と言うか言葉が見当たらない。きっとこれは正論だ。
「ミト、今のセリフ。ハインラインの『道路を止めるな』を彷彿とさせましたよ」
「あれは動く歩道でしょう? あの世界での貨物はどうしていたんでしょうね?」
「手積みだったら笑うよね? うっかり乗って帰れなくなったり」
「パレットだったらもっと笑うな。置いた瞬間に摩擦で荷崩れして、届け先で待機している人が泣くの」
そしてキャハハハと笑う二人。着いて行けない。
「イリヤ、お昼は何が良い?」
「餃子と炒飯」
「わかった」
ミトが『イリヤ』をジト目で見た。
「どうしたの?」
「ここはロシアですよ? アサシンに頼めば豚挽き肉や白菜、キャベツにニンニクは手に入ると思いますが、ニラと皮が手に入りません。ピエロギやペリメニの皮で代用するしかありません。多分正解はそれを使った水餃子でしょうけれど。問題は炒飯です。叉焼と中華スープの素がないと」
「それを本体が置いていって。トラックの冷蔵庫からそれを運んだのはお兄ちゃんですよ」
「そうなんだ?」
ホッ……どうやら材料はあるみたい。
「それでお兄ちゃん」
「なんだ?」
「餃子300個と炒飯4kg」
「そんなに食うのか!?」
「ヘラクレスの分だよ。今、アサシンと荷物を積み込んだりしてくれているの」
「そうか。ではアサシンの分も」
「あの人達は豚肉厳禁」
「ああ……」
そこからパカスカとお米を炊き、次々と炒めるシロウ。餃子のタネはミトが作ったので二人でせっせと皮に包んでいたら、横合いから『イリヤ』に奪われた。明らかに私の5倍は早いし綺麗だ。
「焼く係でしょう?」
あ。それでシロウとミトから焼き方を教わって焼いていった。
熱したフライパンに油を引き、餃子を並べて水を差し、蓋をして蒸し焼きにする。
「君は焼き物が本当に上手いな。こっちの炒飯もやってみるか?」
それで交代して言われる通りに鍋(何故か中華鍋があった)を振った。
シロウも驚いていたが、ミトと『イリヤ』も驚いていた。
「これっぽっちのレクチャーでここまで出来るものなの?」
「いや~これはもう天性だね」
「私もそう思う。彼女は焼き物に特化している」
それで出来上がったチャーハンとギョーザをヘラクレスに食べて貰った。チャーハンのほとんどはシロウだけど、ギョーザを焼いたのは私だ。
「ウマい! このパラパラ具合が堪らん。あのイリヤが……大きくなったなぁ……」
あなたは私のお父さんか。けれどと~っても嬉しかった。バケツみたいな容れ物に入ったチャーハンは重たかったけれど、ヘラクレスは全部残さず食べてくれた。
やれば出来るんだと自信が付いた。だけど頑張って働いているアサシン達を見て、何か作ってあげたいなと思った。
午後の3時。
「何か無いかなぁ」
「どうされました、お姉様?」
「いや~。ヘラクレスに喜んで貰えて嬉しかったの。それだけにそれを食べられないアサシンが気の毒で……」
「じゃ、食べられるものを作りましょうよ」
そこでミトとあれこれ相談していた。すると突然シロウの叫びが聞こえた。キッチンからだ。慌てて行ってみると何かを持って『何でさ、何でさ』とぶつぶつ言っていた。
「どうしたの?」
例のごとくキッチンでシロウを見ていてくれた『イリヤ』に尋ねた。
「あれ。あれを発見した事で窓の外をキョロキョロしだして、ここが海外だと理解したようです」
「何あれ?」
私も初めてだ。何かを焼く鉄板だとはわかるけれど。
「タコヤキ用の鉄板です。コリーンに無いなぁと思ったら」
「あ、ごめん。私だ。以前ここに持って来て、忘れて行っちゃったんだね」
そんな日本のローカルな鉄板を、ドイツとチェコには置いてあるらしい。鉄板と一緒にひっくり返すピックまであった。
「どうしてタコヤキ?」
「アルトリア姉さんとの思い出があるからですよ」
『イリヤ』とミトが声を揃えた。それで1人2~3個として200個は焼こうと決めて生地を作った。24穴だから7~8回焼けばいい。紅生姜はストックの箱にあった。
ネギとタコ代わりのマトンを頼めば、あの女性のアサシンが買って来てくれた。それをミトが湯がいて細かく刻み、ミトの指示するソースで味付けしながら私が焼いた。生地のダシや味付けはシロウがやってくれた。天カスもシロウだ。
最初の分はひっくり返すのが難しくボロボロだった。だけど2回目からは少々ボロボロでも最後でカタチが決まるのだとわかった。
だから結局9回の216個を作った。それをお皿に盛って、中身を説明しながら1人2個ずつ、紙コップで配った。皆んなからお礼を言われ、あのアサシンの子は飛びついて喜んでくれた。良かった。
「誰かに喜んで貰えた時って嬉しいね」
「その通りだよ、イリヤ」
え? シロウ?
「曖昧で、どこに居るのかすら疑問に思わない自分……たこ焼き器で思い出すとはな」
「シロウ! 私が誰だかわかって……」
「ああ、もう大丈夫だ。何があったかはまだわかってない。でも君は生きていてくれたんだな?」
「うん……うん……」
「少年、自分を取り戻せたか?」
「ああ、あなたはあの地獄で同志だった」
「そうだ。大聖杯の中で7年だ」
「そんなに?」
その後、私は『イリヤ』ならぬエルとミトを改めて紹介し、これまであった事を話した。その夜、私とシロウはたくさん話した。多分その会話はどこの『シロウ』よりも濃密だったと思う。
エルがスイスから戻ったのは出発する当日朝だった。そこでエルが自己紹介後こう言った。
「摩滅しかかった英霊の自我と自意識を取り戻させるとは。姉さんは鉄板の魔術師ですね」
だから私はたこ焼きに拘るのだ。
次回はイリクロとエルヴァのお話です。