その1報が入った時、私は持っていた書類をその場に落として撒き散らした。立ち尽くすしか出来なくなっていた私をイゾウが強く抱き締めてくれなければ、私の心は砕けていたかも知れない。
マルコさ……いや、マルコが親父様の元へ向かったのを見送りつつ、今正にエースがジンベエと戦っている場所を目指す事になった。それは、どうしても避けられない運命。
落ちて散らばった書類を集めてくれたイゾウと共に1度部屋に戻ると、少し休むようにと言われてそれに従うように座れば、イゾウが優しく頭を撫でてくれる。甘やかされてるなと思うけど、動く事さえまともにできない。
そんな私の心を置き去りにして、モビーは波間の向こうを目指して進んで行く。そして、震えるしかできない私をイゾウは優しく抱き締めて居てくれた。
震えが落ち着くのと、モビーが目的地に到着するのはほぼ同時だった。私はイゾウに付き添われる形で甲板に出て、船縁へと近づいて行く。
それに気付いた兄達が、道を開けてくれる。小さいからってのも理由だとは思うけど、冷静に考えて居る位置は幹部席だろうなぁ。
エースが誰かと戦い、それが膠着状態に陥った時、親父様と戦い負ける。その後エースは何度も親父を狙い……そして、白髭海賊団のメンバーに加わる事を決め、自らの海賊団を白髭海賊団に吸収して貰うのだ。
その事を私は知っている。……知識として。
でも、実際それが目の前で行われているのを見れば血の気が引きそうになる。だって……可愛くて愛しい
船縁を無意識の内に強く掴む。そうしなければ、倒れてしまいそう。
「ジンベエと戦うなんて、知ってたら……止めたのに……」
「ナミ?」
「いや……!どうして、こんな事に……!!」
「ナミ……ナミ、落ち着きな」
イゾウの言葉で正気にかえる。でも、現実問題目の前で戦い続ける2人はもう限界だろう。
船縁を掴む手が震えて、指先が白くなってるのを自覚しつつ、振り向く。そんな私の視線をイゾウは優しく受け止めてくれるから、縋るように言葉を口にしていた。
「イゾウ……私、どうしたら……良いのかな」
「……ナミ、ゆっくり話してごらん。何があったんだね?」
「イゾウ、エースは、ジンベエは……!!」
「あァ、ジンベエはナミの仇にあたるね……。そしてあの坊主はナミの話していた弟、か。……ナミ」
納得したように頷いたイゾウは、膝を折ると自然な事であるように私と視線を合わせ絡める。それは責めてるのではないし、また甘やかす為のものでもない。
イゾウは愛を囁くような甘い空気も出さずに、ただ静かに私を見つめて来るから私の心もそれに引き摺られるように凪いでいく。これが……白髭海賊団の、隊長かと息を飲んだ時艶やかなそれではなく、まるで天使のように優しく笑った。
「ナミ、話してごらん。まだどちらも死ぬような状態には無いし、親父が静観してるって事は問題無いよ。……ナミは1度に色々考えすぎなんだ。整理してごらんよ」
「整理?」
「俺達の迷惑になるとか、俺達の立場とか、関係性とかは置いといて……ナミが思う事と、客観的な事実を教えておくれな。そして……ナミがどうしたいのか、どうなって欲しいのか、教えておくれな」
その言葉に導かれるように、混乱してた脳が活動を開始するのがわかった。きっとこれは、イゾウが相手だからだと思う。
私、イゾウに甘えてばかりね。強くなったつもりだったのに、賢くなったつもりでいたのに……。
「私、ね。アーロンが嫌いなの」
「……それは、そうだろうね。これで好きだと言ったら、神経と頭を疑うよ」
「私の大切な人を傷付けて、苦しめたのはアーロンとその1味。それはわかってるから、無関係の魚人を憎む心なんて無いわ。……この船にいる魚人を、私は魚人だからと恐れるつもりもないし、嫌うつもりもない。その人個人を好きか嫌いか、そういう形で判断してるつもりよ」
これは本来のナミちゃんがそうだった。だから、私もそれに倣うつもりだし、私自身としてもナミちゃんのその意見には賛成。
皆が言うように、私は甘いのかも知れない。でも、皆を傷付け苦しめた人、その本人以外を責めるなんて事はしたくないの。
「もう、還らない人達がいるわ。憎しみも恨みもある。でもそれは、アーロンに対してなの。……アーロン1味に対してだけなのよ」
イゾウは何も言わずに私を見つめて、静かに私に手を伸ばすと頭を優しく撫でてくれた。それに泣きそうになった私に、イゾウは困ったように笑う。
それでも急かすでも慰めるのでもないイゾウに、心が震える。隠し事なんか、イゾウに出来る筈、ない。
「……だけどね、ジンベエの事をただジンベエとして見る事が出来ないのよ。……だって、ジンベエがアーロンを野放しにしなければ、きちんと向き合っていれば、逃げ出さなければ……!!そう、思ってしまうから。どうしても、犠牲になる必要のない命が沢山あったんだと怨んでしまうの!」
「ナミ……」
「わかってる!彼等にとって大切な人が〝人間〟に殺された怨みが根本にある原因である事も、それが〝海兵〟による計画だった事は!でも、ベルメールさんはもう海兵じゃ無かった。私は無関係の子供だったわ!!」
シン……と静まり返る船内。いつの間にか、エースとジンベエの戦いも動きが止まっていた。
エースが驚いた顔でこちらを見ていて、ジンベエは背を向けたまま動こうとしない。そんな中で沈黙の空気を破ったのは、イゾウの1言。
「……そうだな」
「そんなふうに弟分から逃げて、現実から目を背けて、問題を先送りにして……その結果、戦える力を持ってる親父様は守るのに、なんの力も無い私の大切な人を見殺しにした事実が、許せない」
エース程度の実力では、親父様が最初から相手にしたとして、掠り傷の1つだってつけられやしない。なのに、親父様を守り、どうして最弱の海に生きる民間人を助けに来なかったのよ……!!
イゾウ達が助けに来てくれた時も、その後も、私には事後報告だったから連絡出来なかったけど、ジンベエはその後報告を受けていた筈なのに、私に会いにさえ来なかった。それは謝罪する意思も、反省するつもりもないと言われてるようにしか……思えないの。
「そのジンベエが、白髭海賊団と懇意なのはわかってるわ。だから、穏やかに……いつか、話をしたいと言ってくるのを待ってたのに!……なのに、エースが暴れ出すまで、いいえ現在に至っても私に何1つ言って来ない事が……悲しい」
「そうか……わかったよ。ナミは、結局甘いんだって事が、よくわかった」
そう言って強く抱き締めてくれたイゾウの胸に顔を埋めると、イゾウが頭を撫でてくれて、親父様がエースの元へと降りて行った。そして、怪我の治療も兼ねて白髭海賊団により保護されたジンベエ。
私は船縁から離した手で、イゾウの上着を掴んで震えるしか出来ない。それは、怒りなのか悲しみなのか、それさえ今の私には判断が出来ないでいるの。
「……聞いてたろ、ジンベエ」
その言葉に私が呼吸を止めると、イゾウの空気が張り詰める。イゾウが、静かな怒りを滾らせているのが伝わって来て、私は縋るようにイゾウへと視線を向けた。
するとそれを待っていたかのように唇が降ってきて、重なった。落ち着けと言っているのが、そのキスひとつで伝わる。
それに甘えるようにそっと首に腕を回せば、苦笑したのがわかってしまう。甘え過ぎ……って、呆れられたのかな。
そっと離された唇の隙間で、イゾウが優しい声を出す。先程までのイゾウから出ていた怒りが、霧散してるのがわかり目を瞬かせてしまう。
「愛しい女に関わる事だからと怒りに身を委ねてたってのに、宥めるつもりの俺を落ち着かせてくるとは……恐れ入ったよ」
「そんな事、ないわ。私、甘えただけ、だし……」
「……俺の理性の限界を試してるって事で良いなら、言葉に甘えさせて貰うよ。お姫さん?」
「そんな事、してない!」
私の言葉にそうだろうねと言いながら、嫌そうな顔をするイゾウに唇を尖らせれば、ジンベエが治療され終えたのか私とイゾウの方へと歩み寄って来た。そして、私のすぐ側で動きを止めると声を震わせる。
甲板にガンッと音を立てて膝をつくから、視線が本来なら合うようになってるだろうに、俯かれていてはほぼ無意味。それにしても、膝……痛くなかったかな?
「合わせる顔がなく、これ迄……謝罪に来られんかった。申し訳ない……!!アーロンの事は、何かあれば、儂が止めるつもりでいたんじゃ!!ほんに、申し訳ない!!」
「……やっぱり、嫌えそうにないわ」
「嬢ちゃ……ん?」
「はじめまして、私はナミ。ねぇ、本当に悪いと思ってくれてるなら……お願いがあるの」
膝をついて、いいえいつの間にか土下座の様相を呈しているジンベエに視線を合わせる為に私も膝を付けば、その場からジンベエがズザザと後退った。本当に、この人は私に怒りの感情を継続させてくれない。
確かに助けて貰うべきは、コノミ諸島とその近海の人達だったと思うし、親父様助ける意味なんかないじゃないと思う。でも……この人は、本当に恐ろしい程に不器用なんだと、そう気付かされてしまった。
「私じゃなくて、東の海の……私の故郷にある墓前に手を合わせて来てください。喪われた命に、祈りを……その方が私は嬉しい」
「ナミ、さん。あんたは……相当な苦しみを背負わされたと聞いて……「謝らないで」」
私に謝らないで。私の人生は、私が選んだもの。
私は守れなかった自分を責めてるけど、それでも、同時に満足もしてるから。だって……身勝手だけど、私にとって譲れない程に愛しい相手は、家族は生きてるもの。
「私の人生を、勝手に謝らないで。良くないものにしないで」
「……じゃが、儂は「悪いのはアーロンよ。ジンベエにも怒ってたし、悲しかったけど……墓前に手を合わせて来てくれるのなら、御魂が安らかである事を祈ってくれるのなら、それも私としてはもうないわ」」
再びシン……となった船上に、私は笑ってしまっていた。だってね、おかしい。
皆私に気を遣いすぎだわ。そんなに私は〝可哀想〟な人間に見えるのだろうか。
「私、今の人生を楽しんでるし、幸福だと思ってる。……そんなに、捨てたもんでもないのよ。過去があるから今があるの。私は今、沢山の家族から、惜しみなく愛されてる」
「……っ!かたじけない!必ず、墓前に手を合わせる」
甲板に頭を擦り付けるように言われるそれに、1船の船長なのにそんな姿を平然と見せるその強さに、すごいなと……圧倒されてしまう。だからと思って手を伸ばし、その肩に触れようとしたらイゾウに止められる。
視線を向ければ、イゾウが本気で嫌そうな顔をしてる。何か、ダメだったかな?
「俺以外の男に無闇に触れないでおくれな」
「……イゾウ?」
「ナミが泣いてる人間見捨てられないのは知ってるがね。ナミは俺の愛しいお姫さんなんだって、自覚しておくれな」
その言葉に真っ赤になった私を見て、家族が笑い出す。まるで手に負えないとでも言わんばかりのそれに、挙動不審になる私は空気が弛緩してる事に気付く余裕も無かった。
愛しい家族に守られながら、心につかえていた蟠りを押し流せた私は明日を信じて進んでいる。いつの間にか親父様がエースを回収して来て居て、私はその姿に自然と頬が緩むのを感じていた。
波間の向こうを、大きな愛情に包まれながら目指して行ける。作らなくても自然に笑える現実に、幸福だと心から思える日々を過ごしているのだ。