書類仕事の区切りになり、少し腕を伸ばしてみたらバキボキと音が聞こえる。いくら何でも固まりすぎだと認識して、後で軽くストレッチでもやるかねぃと独りごちるが、やはり歳には勝てねェとこんな時に思い知らされちまう。
その時何処かからピアノの音色が聞こえて来て、音楽家達が練習でもしてるのかと思いながら目を伏せる。その後ピアノの演奏に乗って聞こえてきた声に俺は立ち上がると、音源へ向けて歩き出した。
何を思い出して歌っているのか、時折震える声は悲しみを伝えて来る。普通には泣けないのかと言いたくなる程に、ナミの歌声はその悲しみをダイレクトに伝えて来るから放置出来ない。
お前が醜いならば、この世に美しいものなど何一つありはしない。そう思いながら歌うナミを見詰める。
そんなに独りでいようとするなよぃ。俺はいつでもナミを求めて、傍に居るから。
皆、お前が大切なんだと……どうしたら伝わるのだろうか。どうしたら、ナミが自分を認められるようになるのか分からねェよぃ。
歌が終わり、それに合わせてピアノの上を踊っていた指も動きが止まる。その余韻に胸を締め付けられるような思いを抱いていたら、ナミが突然言う。
「あ!!防災の日!」
それは随分前に過ぎたんじゃねェかと思ったし、何故このタイミングと思った俺は正しい筈だ。そんな俺の心を知らずにナミは立ち上がるから、何処にも行けないように腕の中に閉じ込める。
不安なら、何度でも伝えてやるよぃ。俺にはナミが大切で、愛しいんだと言う事を。
「必要としてる」
「うん、ありがとう。私も防災の日は必要だと思うわ」
満面の笑みで謎の言語を発するナミに、軽い頭痛がした気がする。……あァ、成程、ナミは今防災の日に頭が占拠されてんだなぃ。
小首を傾げるナミにそう理解して、ナミの意見に同意しておく。ナミの言う通り、防災意識は確かに必要であり、ナミの言う通りだから。
「それも必要だけどなぃ?」
今は俺との触れ合いを、優先してくれ。言葉にせずに行動でそれを示せば、重ねた唇の隙間でナミが小さく笑った。
そうして俺がナミの唇を堪能した後で仕方無く解放すると、後で時間作ってくれる?なんて言うから珍しくナミから夜のお誘いかと期待しちまう。だけど相手はナミなのだ。
時間を作って向かった先は倉庫で、だがしかし直後に色々と期待した俺が愚かだったと思い知る。救命ボートや救命着の数や質に、問題が無いかをチェックして行くのを手伝わされただけだ。
まァ、大切な事だがねぃ。それでも少しばかり切ない。
冷静に考えれば、不衛生な倉庫で誰に見つかるかもしれない所で致すより、寄る二人で部屋のベッドを使うのが当然だろう。そんな事を思う俺の隣で、生真面目で優しい我が妻は、テキパキと作業を続けて行く。
その途中で気軽な様子を見せたナミが、問い掛けてきた。それは、1瞬俺の動きを停止させるのには充分過ぎる内容。
「非常食のチェックもしたいから、後で味見してくれる?」
「……非常食の味は良く知ってるよぃ。叶うなら食べたくはないねぃ」
「誰も、そのまま食べろなんて言わないわよ。少し手を加えるから、食べて見て欲しいの。駄目そうなら改良するわ」
その言葉にまさかと思う。ナミが多才なのは知っているし、料理も出来るのがわかっている。
だが、非常食まで作れると誰が思うのか。それでも、本当に作れるのかと、疑う気にさえなれないのはナミの優秀さを知っているのと、ナミが出来ない事を口にしないと知っているからだ。
「……この世界の非常食って、そんなに不味いの?」
「え?」
「非常食って心身共に落ち込んだ時に食べる物だから、美味しいのは本来大前提なのよ。可能なら普段食べてる物と同じ物が食べられるのが理想で、無理なら普段より美味しい物って事になってるの」
そう言ってチェックを終えた防災グッズを片付けるナミを見ていれば、ナミは手を動かしつつも説明を澱みなく続けた。そして、メンタルがやられない為にも身体を作る食事は大切なのだと鼻息を強くするから、それはそうかもなと思う。
だからこそ、そう言われれば確かに納得できる理屈だが、缶パンを食べた時の切なさは無いので、可能なら遠慮したい。ナミの腕は信じているが、保存食の不味さは尋常ではないのだ。
「……理屈は分かるが、保存食は保存できる事が優先だからねぃ」
「食べた瞬間に〝自分が被災者〟だと強く認識する事で明日への不安が生まれるの。そう言う意味では、何も食べ物が無いよりはマシだけど、美味しくない保存食なんて非常食としての価値は無いわ」
そう言ってからナミがついてきてと言いつつ腕を掴むので、それに素直に付いて歩く事にした。到着したのは俺達の部屋で、クローゼットから謎の箱を取りだしたナミはそれを俺に押し付ける。
そのまま甲板へ向かい、突然クリマタクトを回し始めるから視線が集まるのは不可抗力だろう。そんな中で、俺に持たせていた箱から取り出した非常食を用いて、何やら作り始め……10分もしたら何やらいい匂いがして来た。
まさかと思うが、それは見守る兄弟達も同じようで顔を見合せてはコソコソと何かを話している。そうして更に10分程待てば、差し出されたのはリゾットのようなものだった。
「試食してみて。駄目なら改良しておくわ」
あれ程嫌だと思っていたのに、香りに釣られるようにして言われるままに口に運んだ。それは刻まれた野菜と、臭くない挽肉が幸せな気持ちにしてくれる物だった。
味付けはトマトだろうか。温かいのも驚きだが、何よりもその味に驚かされる。
「……美味い……」
「良かった。火が電気が使えたら温かくなるけど、どちらも使えない時は冷たいのよね。温かくできればそんな感じで美味しいんだけど、冷たい時が難点なのよ」
そんな事を言いながら続けて差し出して来たのはデザート系だろうか?プルプルとした見た目に戸惑いながら口に運べば、甘くて食べやすい。
「プリンみたいな物よ。これなら冷たくても食べられるし、固形物が難しくても「ナミは航海士辞めて、料理人をやるべきだなぃ」」
思わず口にした俺の言葉で、ナミが般若の形相になったのは不慮の事故だろう。結局試食したのは、全部で30種類程だ。
「何かマルコだけ食ってる!狡ィ!!」
「エースも食べる?」
「駄目だよぃ」
「え?」
「ナミを食べていいのは、俺だけだろぃ」
言葉を失い、赤く茹で上がったナミを抱き締める。ナミの全てが、俺のものだ。
ナミが作った物も、俺だけの物だろぃ。そう囁きかけた俺に、ナミは小さく頷いてくれたから解放する。
「なら、残りはナミが食べさせてくれるねぃ?」
「なんでそうなるの!?」
「エースにやろうとした罰だよぃ」
笑う俺に、赤くなるナミ。けれどもその内に集まって来た他の兄弟達も勝手に食べ始めてしまえばそんな戯れも中断するしかない。
多くの意見が集まるのは実質的に見ればいい事なので、ここは俺が大人になるしかないだろう。その上、既に驚く程に美味いそれらを更に改良しようとするナミに、皆の顔が自然とほころんだのだから、文句は言えない。
皆が喜ぶならと張り切るナミを捕まえて、俺は仕上げは任せたとサッチに視線を送る。それに呆れたような顔はしたものの、サッチは俺を止める事も無く行かせてくれる。
1人、状況が飲み込めてないナミが異様に可愛い。部屋に連れ帰り、そっとベッドに沈めれば目を白黒させるナミがいる。
それでも俺は、辞めてやるつもりなんてないんだよぃ。俺には余裕なんてものは無いからねぃ。
「マルコ?」
「最高の食材を、試食させて欲しいところだよぃ」
「……?……なっ!?……わ!私は、食材じゃないし、増してや非常食じゃないわよ!!」
遅れて意味に気付いたらしいナミに、何を言ってるのかと思う。だってそうだろぃ。
「ナミは非常食じゃねェなぃ。俺の、俺だけの、最高級のデザートだ。非常食で腹は満たされたから、心と身体を……満たしてくれるな」
真っ赤になったナミは、それでも俺を拒まない。恥ずかしそうに嫌……なんて言っても、本当に嫌な訳では無いのはよくわかってる。
俺に言われて、俺にされて、ナミの中で嫌な事等ありはしないのだ。それを全てわかっていて、捕食しようとする俺は最低なのかもしれないが……。
「飢えた被災者の前に、芳醇な香りを漂わせる物があるのがそもそもの原因だ。諦めて……喰われとけよぃ」
その先俺達に言葉はいらなかった。暫くの後、動くのが困難になったナミが皆の前に姿を見せた時には、皆も察して優しく笑いかける。
それを受けてナミもまた、生まれたての子鹿のように足を震わせながら、もっと改良するからね!なんて頓珍漢な言葉を口にして笑い返す。今日もやっぱり、俺の周りは笑顔と愛で満ちてる。