波間の向こうを目指して(新・本編side) 作:夢枕 七変化
その涙が流れ落ちた時、それは、ナミの悲痛な震える声がルフィに向けられるのと同時だった。それ迄いくら己を傷つけようと、肉体だけは泣いていなかったと言うのに。
震える身体が、やけに小さく見える。俺はそんな姿を見ているしか、出来ないでただ……呆然と立ち尽くしていた。
「ルフィ……助けて」
儚く声が響く。この言葉を口にする事がどれ程ナミにとって難しかったのか、想像にかたくない。
苦しそうに、微かに身体を震わせながら泣く姿は、年相応と言うか……少しばかり幼い。それ位、耐えていたのだろう。
独りで戦うしか選択肢を持たなかった女。その細腕で、儚いその姿で、愛される為だけに産まれてきたような姿で……ただ、愛を振りまき戦う女。
ナミがこれ迄独りで支えていたもの、抱えているものの重さと大きさに目眩さえしそうになる。だと言うのに、この馬鹿は、俺達まで守ろうとしてやがった。
この苛立ちは、ナミに向けたものか。それとも己に向けたものなのかも、今はわからねェ。
俺はベンチにそっと腰を降ろして、くいなの形見である刀を強く握り締める。そうして平常心を保たなければ、何をするか自分でも分からないと判断したからだ。
その時ルフィがナミの頭に、宝物だと言っていたそれを被せた。見知らぬ奴に触れられただけで怒り、殴り飛ばしたと言うのに。
他人には触れる事すら許さないその帽子を、ルフィはナミにまるで当然のように預けていた事が何度かあった。そう……つまり、それだけ、大切なのだと言葉にされずとも伝わる。
そしてそれは、この場にいる全員一致の感情だろう。ルフィにとっては、ナミも帽子も、恐らくは俺達も……大切な守るべき宝なのだろう。
血溜まりの中に落ちたリボンを拾い、自らの手首に巻き付けたルフィは、怒りとその他の多くの感情を持て余して、それを発散するように叫ぶ。それもまた、きっと俺達全員が持て余している感情だ。
「当たり前だァー!」
ルフィは当然のように歩き出す。そして、俺達に視線を向ける事も無いままに言う。
それは、細く小さな少年が、力強いリーダーであると俺達に知らしめるものだ。彼こそは〝王〟であると、今は子猫にしか思えなくとも、必ず獅子となり君臨すると断言させられるものを感じる。
「行くぞ」
「「「おう!!」」」
声が揃う。これはきっと、この先仲間がどれ程増えていたとしても同じ結論に至っただろう事も、逆に誰が欠けていても同じ結論至っただろう事も分かる。
だからこそ、俺達は仲間であると言えるだろう。根本的な所が、俺達は近しいのだ。
背後で、微かに足を引きずるような足音が聞こえる。それでも、ルフィは立ち止まる事も振り向く事も無い。
ぐるまゆが駆け戻り、その上着を渡して来たのには気付いていたが、それでも覚束無い足取りでついてくる気の強い女がどうしたって気になる。戻るべきか、振り向くべきか。
いや、この場合諸悪の根源をさっさと倒すのが正しいだろう。気を緩めて勝てる相手なら、ナミが自力で倒してる筈だ。
その時ウソップがナミの元へ戻り、支えて歩いている事に気付く。それにより俺は、臨戦態勢を崩す事無く先へと進めるようになった。
ウソップの言葉が耳に痛い。恐らく、俺達の中にある優しさと呼ばれる物を、代弁しているのだろうとわかる。
門が見えてきた時、その前に人集りができている事に気付く。それがナミの
それ等を止めている存在には、少しばかり驚かされたが……成程、あの話を聞いていたのか。ナミに起きた悲劇と決意を、知ったからこそ無謀な戦いに挑み、今彼等を足止めしている。
俺も寝ていたが聞いていた。寝ていても、案外覚えてるものだ。
「ナミの姉貴が泣いていた!」
「それ以上に命をかける理由があるのかい?」
「よく言ったな。……此処で待ってろ」
心意気や良し!それでも、仲間とは呼べない弱さと判断能力。
どう考えても、この場にいる〝仲間〟の誰よりも弱い。こいつらを連れて行くとなれば、ナミの負担が増すだけだ。
それに、いざと言う時、逃げ出すだろうと分かりきっている弱さは、仲間にする事を許さない。守るべき1本の筋ってもんが、コイツらには欠落している。
ルフィは岩で造られた分厚い門を破壊して、その瓦礫の前に立って問い掛ける。狙いはそいつだけだと告げるそれに、訝しげにしながらも答えた男。
それは紛れも無く本人で……ルフィはそれに迷い無く足を進めて、1瞬俺も見失うような速度で移動してそいつをぶっ飛ばした。瓦礫に埋まるその姿は、だが傷一つないと分かる。
不満そうなアーロンに、ルフィは怒りを漲らせる。殴った事で多少はマシになったらしいが、それでもまだまだ気は晴れてないとわかっちまうその鼻息。
「うちの航海士を泣かすなよ!」
「そうかお前ら、ナミが目当てか」
忌々しそうにそう応えたアーロンは瓦礫の中から立ち上がり、ナミを中心に見ながら俺達へ値踏みするような視線を投げ寄越す。そして、ナミを褒め称えたその口でアーロンが問い掛けたのは、誰がナミを〝抱いた〟のかと言うもの。
つまりは、つい最近のそれが起きるまでナミは未経験だったのだろうとわかっちった。だが、だとするなら……鷹の目は俺を斬った後で、ナミと出逢いナミを……?
それが、合意の上ならまだいい。もし違うなら、必ず世界一の剣豪の名と共に奴をぶちのめしてやる。
アーロンはナミを、便利で扱いやすい優秀な道具だと公言する。村人の心をわざと抉るように言葉を選び、それにより慌てるナミに歪んだ笑みを向けていた。
それを受けてナミは、どうやら震えていたらしい。それに驚いた様子を見せるアーロンに、ナミはけれどもそのまま泣き寝入りはしなかった。
幼い頃のナミに惚れたらしいと気付くが、当人は気付かなかった様子でその当時アーロンが惚れただろう気高くも儚い。強いのだろうとわかるのに、悲しみを纏う姿を見せる。
長い棒を手に前に進み、妖艶に微笑むその姿は……何故か脆く崩れ落ちそうに見えた。それは、思わず手を伸ばしそうになっちまう程。
「アーロン、もう……終わりにしましょう。これで、楽にしてあげる」
魔性の女とは、これを言うのか。いつものルフィに微笑みかける、優しく甘い女の片鱗すら見えない。
戦いが始まると誰もが思った瞬間、ルフィがナミに絡み付いた。それにより動きを止めたナミは、甘く優しい姉の顔になり動きを止める。
ずっとナミがルフィのストッパーなんだと思っていたが、こいつらは互いが互いのストッパーなのか。そして起爆剤でもある……。
厄介だな。本当に。
「お前は、下がってろ。アイツは俺がぶっ飛ばすんだ!」
そんな二人にウソップが口を挟み、それを受けてウダウダ言い始めたナミは、本当に穏やかな微笑みを浮かべている。恐らく、本気で言ってるのだろうと伝わるからこそ、苛立つ。
いっそ動けなくなる程度までナミを斬ってやろうかと考えた俺とは違い、ぐるまゆはナミに優しく言葉を向けてナミはそれに動揺を隠せなくなっている。……つまり、ナミの中ではぐるまゆまで含めた、既に〝仲間〟となっている者は全員身内なのだ。
それが伝わっちまえば、俺も斬るなんて選択肢は消し去るしか無かった。それでも俺達を巻き込みたくないと儚く微笑む姿に、誰もが動けなくなる。
俺達を大切なのだと、照れも戸惑いも無く、澱みなくその想いを伝えたナミは最後にルフィに問い掛けた。戦いも、悲しみや痛みも、何も知らない無垢な少女のように、微笑みさえ浮かべて。
「そんな訳だから、皆には怪我をして欲しくないの。ルフィ……分かってくれない?」
「ナミ、これは……俺の喧嘩だ。ナミを泣かせた奴は何があっても許さねェって、ガキの頃から決めてんだよ」
ルフィはその言葉と同時にナミを村人達の方へと投げ飛ばし、着地が無事にできたのかを確認さえしない。それにナミも、その事に文句はなさそうな様子だ。
「俺はいつまでも、ナミに守られてるだけの弟でいるつもりはねェ。たまには大人しく守られてろ!」
それにより少しの間を開けて是と答えたナミは、村人達にその身を預けたようだった。それと同時に始まるルフィの大暴れ。
そのまま俺は剣を持ってると言う理由から阿呆なタコを担当し、肘が鎌になってる奴はぐるまゆが、唇が飛び出してるのは同じように鼻の飛び出してるウソップが担当した。当然のようにルフィがアーロンの相手となったが、俺も手傷がある為に反応が遅れちまってルフィが目の前で海に沈められちまう。
早く助けなければと焦る俺を横目に、ナミがアーロンと対峙した。先程見られなくて少し残念に思った戦いは、始まってみれば戦いと呼ぶには美し過ぎる。
互いに互いの攻撃が分かりきっていると言うかのように、舞うように戦う。どちらも、どちらの攻撃にも当たらない。
ぐるまゆはナミがアーロンを抑えているのを確認して、水中戦を覚悟してルフィを助けに飛び込んで行く。アーロンからナミに向ける言葉は、素直じゃねェだけで完全に独占欲にまみれた深過ぎる想いの成れの果てだ。
だと言うのに、ナミは気付いてねェ。ここまで来ると、流石にアーロンが少し哀れに思える程だ。
しかしその戦いは、横目に見てるだけでも素晴らしいと言いたくなるもの。どちらも、本気で斬ろうとして居るのが分かる。
……いや、アーロンは殺さねェように気を付けてて、ナミは傷付ける事に対して躊躇いがあるな。その躊躇いが無ければ、ナミに負けの未来は存在しないとわかるんだがな。
俺は二人から剣を借りて、目の前のタコを倒したがナミはまだ戦い続けている。俺は自分に内心で怒鳴りたくなった、出血があるからなんだ!と。
それはナミも同じ事。だと言うのに、そんな事を感じさせない程に動き回り戦っている。
青いと言うより既に白いその顔色。だと言うのに、毅然としたその様子を崩しはしない。
俺は参戦する為に二人の動きを見て、横から戦いに手を出せば流石にアーロンも卑怯だと言う事はなく、二対一の戦いへと変わった。俺が少し距離をとった瞬間にナミが雷を落とし、それにより怒ったアーロンがナミを吹き飛ばす。
それでも体制を立て直すと無意識で思っていたが、ナミは壁に激突して暫く動きを止めていた。慌てた為にそちらに意識を取られちまえば、俺も簡単に捕まっちまう。
それでも、最期まで足掻いてやる……!俺を今殺さなければ、必ず遠くない未来にアーロンを殺すのは俺だと全身で伝えてやれば、僅かに焦った様子を見せるアーロン。
それにより、そのままでは殺されるだろう状態に陥った。そんな俺の様子を見ているだろうナミを、気にしてやる余裕はもう無い。
「辞めてー!」
悲鳴のようなナミの叫びが、その場を支配する。目の前で俺が死ねば、ナミはまた誰も頼れなくなっちまうんだろうな……。
そんな事を思った時ぐるまゆが参戦してくれて、俺は何とか命を繋いだ。それでも俺もぐるまゆも、結局共にぶちのめされて身動きが取れなくなる。
そんな俺達を庇うようにナミがアーロンの前に立つ。既にナミも満身創痍だと言うのに。
意識を保っている事さえ既におかしい領域だ。辞めてくれ……俺は、お前を犠牲にしてまで生きるつもりはねェんだよ!!
ルフィに顔向け出来ねェ!だが、それよりも……惚れてる女を目の前で喪うなんてのは、耐えられねェんだよ!!
「……にげ、ろっ!」
俺の声は聞こえないのか、聞こえていて無視しているのか、ナミは反応を見せない。ただまっすぐにアーロンを見据えて、その言葉を聞いていた。
歴戦の勇士を思わせる空気を纏い、研ぎ澄まされた刃のような美しさを見せる。だが……その身体は既に限界を大きく超えていると知っているのだ。
独りで戦う女に、俺は何も出来ない。俺達を背に庇うだけだったそれは、けれどもその様相を変えようとしていた。
「今の内に俺について村人と共に助かるか、この貧弱どもについて皆で俺と戦って朽ち果てるか!」
俺達の事をここで見捨てたとしても、それは誰も責めはしない。だからどうか、従って逃げてくれ。
そう願うのは間違いないのに、ナミの答えを俺は知ってる気がした。甘く優しいだけの女じゃないんだと、俺達は知っていたから。
「もっとも、頼りのこいつらがこのザマじゃァ惨劇は目に見えてるがな!……ナミ!お前は俺の仲間か?それともこいつらの仲間か……?」
迫る決断の時、ナミは村人達に振り向き、笑った。それは、向日葵のような明るい笑顔で。
心臓が掴まれたような、衝撃を受ける。死を目の前に感じて、こんな笑顔を見せられる女を、俺は他に知らない。
「ごめん皆!私と1緒に……死んで!」
それに是と応える村人達の声も耳に届いちまえば、いつまでも寝てもいられねェ。これ以上堕ちる事は出来ないと思ってたのにな……。
そんな事を考えながら、噴水のように水が出るのを目視する。それと同時にナミは短剣を構えてアーロンに対峙し、そのまま戦い始めた。
恐ろしく、強い。手負いであるのを考えても、現状手も足も出なかった俺達がここに居て、なのにナミは対等に渡り合う。
それは、俺の血を沸き立たせるには十分過ぎる。……これ以上、じっとしていられるかと俺が思ったのも当然だろう。