波間の向こうを目指して(新・本編side) 作:夢枕 七変化
翌朝、モゾモゾと動く気配に意識が覚醒すると、様子を伺う為に狸寝入りをしてみる事にした。そんな俺の存在に気付いて、悲鳴を押し殺したナミの姿に込み上げる笑いを必死で抑える。
それから深呼吸して気持ちを落ち着かせたらしい様子に、こんな状態でありながら怒り狂ったり叩き起こそうとしない所が、甘いと思う。その為か、その温もりを守りたいような気持ちにさせられる。
そっと俺の腕から抜け出してベッドから降りたナミは、怖々とした様子で振り返り、深い溜息を落としてからその場で堂々と身支度を整え始めた。白く艶やかで瑞々しい肢体は、朝日の中で眩しく映る。
ロングスカートには深過ぎるスリットが入っており、裾が長い意味を既に見いだせぬ。その上で、上に着ている物も肩を露出するような物であり、胸元が大きく開いている。
唯一の救いはその上から何か袖のあるものを羽織る事だろう。だが、それでも、胸元は大きく開かれている為に何とも心許無い。
その衣服が全て武器を身に纏う為の物だとは理解出来るが、その武器が理解出来ぬ。殺傷能力がありそうなのは唯一足に隠してある短剣位なものだろう。
そのまま甲板に出たので、何をしているのかと見学しつつついて歩くが気付いている様子は無い。そして後甲板へ向かうと、何やら1人で奮闘している様子だ。
何故声のひとつもかけないのかと見ていたが、深呼吸して、よしっと言う声を聞いては呆れてものが言えなくなる。その奮闘相手の網に手をかけて持ち上げてやれば、驚きを隠さぬ眼差しが俺を真っ直ぐに捕らえた。
何か言わねばと思うのに、その眼差しに声が上手く出せなくなる。なんだ、この生き物は。
思わず手を出していて、網を引き上げてやれば思いの外軽くこれが持ち上げられぬとは随分非力なものだと思う。それに対して驚き硬直している顔が、妙に幼い。
「……声を掛けろ。この程度造作もない」
それに対して笑顔で礼を告げて来たナミは、その直後に魚をじっと見詰め始める。とりあえず毒のある魚は居ないと思うが、定かでは無い。
その直後に1人で納得気に頷いたナミは、迷う事無く魚を手にして去って行く。残された魚を見て、世話になるばかりではと思い、三枚におろす程度はしてやるかと行動を開始する。
それを全て終えるのに大した時間はかからず、ナミの元へ向かえば驚いたような顔で出迎えられた。その視線は魚に向けられていて、だがしかしナミの手元は恐ろしく正確に動かされ続けている。
「……早いな。それが朝食か」
「ええ、ただ飲み物を何にするか聞いてなかったわね」
思わず声を出せば、ナミは手を動かしながら自然に飲み物を確認して来る。それに対し、それぞれ別な物を用意するのも手間だろうと思った俺が同じ物でいいと言えば、何故か不安そうな顔をされる。
「主と同じで良い」
「……ジャスミンティーの予定なんだけど、良いの?」
「構わぬ」
用意されるのを待つ間、暇を持て余した俺はナミの部屋から拝借しておいた新聞に目を通す。新聞の情報は半分以上が偽りだと分かっていて尚、読まなければ必要な情報を見逃す事も理解している。
……英雄は、何を企んでいるのか。誠に英雄だと言うのであれは、クーデター等簡単に鎮める事が可能な能力を有しながら放置している時点で、何かあると簡単に分かろうものだが……。
政府は愚かだな。そう思った時ナミから声がかかり、視線を向ける。
その様子を観察してみるが、どうやら怒っている様子はない。これは怒りという感情を持ち合わせて居らぬのだろうか。
その様子を眺めているのもなかなかに楽しく、自然と笑みが溢れればナミは訝しげな表情となる。だからこそ、口も多少は軽くなると言うものだ。
「怒らぬのだな」
「……へ?」
「主のベッドにいた事だ」
「……怒られると思うなら、やらないでよ。驚いたわ。心臓に悪い」
疲れたように言ったナミが、それから何かに気付いたようで少し考える様子を見せる。その仕草の1つ1つが愛らしく思えて、呑気にそれを眺めていれば、小さく呟きが落された。
「……あ、同じ匂いだったから……」
それを聞けば笑ってしまう。昨夜は本当に愛らしかった。
誰にあのような甘えた姿を見せているのかは知らぬ。だが、幼い甘え方であった為か悋気を起こす気にもならぬ程であったのは間違いない。
驚かせた詫びとして、答え合わせに付き合ってやろうと口を開けば、ナミの視線が俺を捕らえる。その視線に絡め取られた気がした時点で、俺の負けなのだろう。
「……ドアの前に立っただけで、気配が半覚醒になったのでな。試してみたが、効果は絶大だった」
「人で遊ばないで」
脱力した様子でため息を落としたナミは、本当に年齢不詳だ。食事をする速度は尋常では無いが、その動きそのものは優雅でさえある。
本当に何とも不思議な生き物だと、用意された朝食を口にしながら思う。そしてふとした時、俺の存在を忘れて自分の世界に入り込む様子を見せるナミに、危ういなと思わされるのだ。
茶を呑気に飲むその姿は、気を抜ききっており俺に対する警戒心が欠片も見受けられない。全く困った奴だと思うが、飲み終わると同時に立ち上がるとナミは1人で動き始める。
戸惑う事も迷う事もなく動き続けるナミは船が軌道に乗ると、食器と衣服を洗い、干して行く。俺の衣服は返されるかと思ったが何も言わずに洗って干している様子から、元々仲間のそれを同じように扱って居たのかもしれないと思う。
眩しそうに空を見上げるナミに声をかける。その姿に見惚れていた事実を隠す為に。
「魚はあのままで良いのか?」
「それだわ。ありがとう」
本当に嬉しそうに笑ったナミが、俺の横を通り過ぎて中に戻る。今度は俺が空を見上げる番になった。
無防備で無邪気で、甘やかで……穏やか。それでいて無知で愚かな子供では決して無い。
そんな事を考えていれば、突然慌てた様子で船内から飛び出して来たナミ。それを見れば必死な様子で……何があったのかと緊迫したその様子に、思わず声をかければサイクロンが来ると言う。
空は晴天。だからと言ってそれが言葉を疑う理由にはなり得ない事を、俺はよく分かっている。
「方角は」
「九時に進みたいわ」
「わかった」
何故協力を求めぬのかと思いながらも、船を旋回させて動かせば後方でサイクロンが通り過ぎて行くのを確認出来る。なんと稀有な才能か、これではこの先間違いなく狙われ続けるだろう。
船に必要なアホ高い機材も不要となり〝美しい女〟であるならばそれだけで恐ろしい程に価値はある。……1人にしておけば間違いなく数年後には、この穏やかな微笑みは消え失せているだろうと、預言者でなくとも見える程だ。
溜息を落としつつナミの頭を軽く叩けば、恨みがましい視線を向けて来るので、叩いたのとは違う理由を口にしておく。
「……乗せてもらっているのだ。必要な時は使え」
「お客様、でしょう」
不思議そうに小首を傾げて問い掛ける小動物のようなそれに、俺は深い溜息を落しそうになるのを耐えて言葉を口にする。甘えて、頼って欲しいと願った等とは言えぬがな。
「……助けて貰ったのだ、客では無いだろう」
俺のその言葉に小さく笑って、次があればそうするわと言葉を口にするナミは随分と大人びた表情をしている。それから間も無く、船は目的地であるローグタウンに到着したのだった。
船を海岸に付けてから、ナミは俺に挨拶をして去って行こうとする。それに対してナミはどうするのかと問いかければ、突然何かを思い付いた様子で声をかけてくる。
「あの……」
何だと思って視線を向ければ、逡巡した後にナミは決意を秘めた眼差しを向けて来た。
「シャンクスに会う予定はありますか?」
「……赤髪の知古か」
思いがけない言葉に素直に言葉を口にすれば、ナミは真面目な顔で頷いてみせる。それには、誇らしさも卑屈さも、傲慢ささえ無い。
「2年ほど、乗船させて頂いてました」
あの男の船に居たのならば、そのどれかがあってしかるべきだろうに。そうは思うが、それよりも何故これだけの才能を有してかつ危険になると分かりきっているナミを、あの男が自分の船から下ろしたのか。
赤髪が守れないと判断するような何かがあったか。もしくはナミの方に赤髪の傍にいる事が出来なくなる、何かの条件でもあったのだろうか。
赤髪は仲間を大切にする男であるから、余計に理解に苦しむ。それに赤髪の船に居たのであれば、これは〝女神〟である可能性が高い。
「会おうとは思っていた」
ついでに、ナミについて少し話を聞いてみるかと思い立つ。それにナミは笑うと、少し付き合って欲しいと言いながらなんの衒いも無く俺の手を握り、歩き出した。
その手は柔らかく、戦うとは到底思えぬ。何処ぞの平和ボケした貴族の娘と言われれば納得できそうなナミのそれに、俺はなんと言えば良いのか分からずに、導かれるままに歩く。
それから写真を撮影したナミは、それを俺に手渡して来る。それに視線を向けていると、はにかむように笑った。
「元気に蜜柑農家で、呑気に平和ボケしてたと伝えて欲しいんです。それと……手紙が届かなくなっても、暴れないでと」
「どうしたらそんな大ボラを思い付くのか。主は分からぬな」
俺が笑えばホッとした様子を見せたので、伝えようと言葉にしてやればナミは嬉しそうに笑ってくれる。その笑顔が、心を癒すような気がしている時点で認めるべきなのだろうか。
「ありがとうございます。それでは」
そう言って背を向けるナミに思わず腕を伸ばして、腰にそれを巻き付けるように抱き寄せていた。傍らから離しがたいと思ってしまったのだ。
「道先案内の礼をしたい。夕刻、船まで迎えに行く」
「気にしないで結構よ、ミホークさん。それに、写真と伝言だけでお釣りが出るわ」
冷静なその瞳には俺の欲望に対する警戒の色はなく、恐らくは気付いてさえいないのだろうと理解出来る。その時、数人の雑魚が近付いてきて、無視しようと思って居たがナミは溜息を落としつつ俺に視線で大人しくしていて欲しいと訴えて来た。
どちらにしてもこの程度の者を相手にするつもりは無かったが……ナミはどうするつもりなのか。もしや、これらもナミの知古であるのだろうか。
そう思いつつナミを腕から解放すれば、迷い無く前へと進み出たので、その様子を観察してみる。どう考えても戦えるようには見えぬのだが、俺に戦うなと言うならばどう対処するつもりなのか。
「……では、ここで別れましょう。貴方に暴れられたら民間人に被害が出るから、ここは私が」
「そうか」
俺が壁に寄り掛かるのとほぼ同時に、ナミは胸元から取り出した棒を構える。その構えを見れば、驚いた事に戦えるらしいと気付く。
成程赤髪の船で戦い方を仕込まれていたかとその様子を見て思っていれば、普通とは考えられない動きをして見せる。攻撃は全て器用に躱している他、攻撃を受けたその反動を利用した反撃で沈めているのだ。
野生動物が格下の者を相手にするそれに似ていて、それでいて無力化はしておきながら後遺症に繋がりそうな攻撃はせずに、殺しもしない。これは……民間人として見る事は出来ぬ、並の強さでは無い証。
確かに俺や赤髪には遠く及ぶまいが、この東の海程度ならば十分過ぎる実力だ。……だから、手放せたのか、赤髪は。
だが……それならば何故、ナミは時折その瞳に彼岸を映し出すのか。その瞳に、年齢にも性格にも似合わぬ陰りを宿すのか。
よく見ればその手には雑魚から手に入れたと思われる財布等があり、あの戦いの中で抜き取っていたのかと少しばかり驚く。……手癖の悪いと思うが、同時にそれが少し可愛くも思えて笑みを浮かべれば、ナミは嫌そうな声を出す。
「骨折り損のくたびれ儲けね。1人も懸賞金掛かってないって、どういう事よ」
「……それでも礼金を多少なら出してやるぞ」
突然割って入ったのは海兵のようで、ならばコレに用件を伝えて終わらせるかと考える。無駄な事は極力したくは無い。
その時会話をしながらサインをしているナミがどうやら偽名を使って金を得たらしいと分かり、無駄な事をと思う。俺という政府関係者がいるのだから、偽名だとすぐにバレると何故思わぬのか。
「それで、何故お前がここにいる?」
「俺の勝手だ」
突然向けられた言葉に無意識で答えればナミは引き攣った表情て俺を見てから、金を大切そうに抱きしめて姿を消した。あの様子では、やはり何かあるな。
面倒だがやらねばならぬ手続きを終えてからナミを見聞色で探せば、どうやら酒場にいるらしいと分かり足を向ける。そこでどのような衝撃が俺を待ち受けているのかを、この時の俺に分かる筈もなかった。