波間の向こうを目指して(新・本編side) 作:夢枕 七変化
俺の言葉を信じたのか、ナミは静かに身体から力を抜く。時折不安そうに、心配そうにドアに視線を向けるのは己の身を案じてではなく、表にいる赤髪を想っての事だと分かるのが不快ではあるが。
疑われるのも不満だが、ここまで無防備にされると意識さえされていないようで、それもまた苛つく。ナミはどうしてこう俺の感情を簡単に揺さぶってしまうのか。
そんな中でナミが、突如胸元から何かを取り出した。殺気も殺意も何も感じない事から、害のあるものでは無さそうだが取り出す場所に問題は有ろうな。
「これ、ありがとう。使い勝手が良くて、助かってるわ。まさか、クリマタクトがミホーク経由だなんて思いもしなかったけど……」
「作ったのはベガパンクだ。俺は用意しろと言ったに過ぎん」
「それでも、助かってるわ。どちらも、もう手放せない」
そう言って優しく微笑むナミは、本当に愛おしそうにその2つを撫でてから体に装着し直した。そうしてその手を毛布に伸ばすのを眺めながら俺はこの無防備過ぎる女に、せめて無事でいて欲しいと願って言葉を向ける。
「四皇や七武海に小僧の名では何の牽制にもならん。嘘でも俺か赤髪の名を出しておけ」
「ミホーク、でも……そんな事したら迷惑になっちゃうでしょ?」
見るからに申し訳無さそうな様子で落ち込んだナミ。けれども、まさかの俺を案ずる言葉を口にする甘さに頭を抱えたくなる。
俺を案じている場合か。己がどれ程稀有な存在なのか自覚して欲しい。
どうすれば守れるか、そればかりが気になっているというのに。戦えるのに戦えない、甘い女。
プライドは高いのに、気高い精神の持ち主であるのに、どうしてこうも甘く暖かいのか。海賊になるような男達は、愛情に飢えている。
その飢えを満たせるだろう美しい女がいれば、狙って当然。黙っていてもいい女だと言うのに……何故己の価値を分かろうとしないのか。
「何を言うかと思えば……赤髪は宝を見せびらかすのが好きなタイプだ。喜んで持ち主として振る舞うだろう。気にする必要は無い」
「持ち主って……」
道具扱いするなと怒るかと思ったが、ナミは怒るどころか諦めたような顔をする。それから何かに気付いたように顔をあげるから、その思考が読み取れた気がした。
……聡すぎるな。もしもう少しでも愚かであれば、これ程狙われはしなかったのだろうが。
美しいその肢体、愛らしい顔、香り高い肉体と、賢すぎる頭脳。そして、それに似合わぬお人好しとも呼べる甘過ぎる性格と、大切な者を守る為ならば己の身を簡単に投げ捨てる潔さ。
同居してはならぬものがいくつも同居して、人外の者としか思えぬ存在に成り果てている。溢れる才能を無自覚に垂れ流し、常に飢えている男達を無意識に癒し、その甘さで束縛している憐れな娘。
「俺も、ナミに名を使われるのならば構わぬ。寧ろ、嬉しく思う」
守りたいと、そう思う。同時に、傷付けても良いから俺のものにしてしまいたいとも。
矛盾する思考は、ナミに感化されたが故か。だが、退屈はせぬな。
「ミホーク……」
「ナミには、これくらいストレートに言わねば伝わるまい。主は恋愛に関してのみ鈍すぎる」
「そんな事……!」
「あるだろう。そうでなくて、何故赤髪を信頼出来る。あれは飢えた狼よりタチが悪いぞ」
アレを手玉に取るには少しばかり甘過ぎるが、同時にそんな事ができるのはナミだけだとも分かる。これで腹芸の1つでも覚えれば、誰にも手出し出来なくなるだろう。
気高き信念と、気高き精神がナミの軸として1本通っているからこそ、その甘さがあって尚ここまで生き抜けたのだろうからな。そしてこれは既に確信に近いが……まだ半分も目覚めてはいないが、覇王色を持っているだろう。
……何の王となるべき逸材なのか。実際王として君臨していても、その素質を持たぬ者が多いというのに。
何の王となるのか、何の覇者として生きるのか。それとも、それを眠らせ燻らせたままただの甘い女として、男の影に隠れて生きるのか。
だが……ナミを隠しておける男が、どれ程居るだろうか。無意識に光を放ち続けるこれを抑え込めるような、そのような男がいるのならばお目にかかりたいものだ。
かの海賊王をもってしても、それは不可能では無いのかと思わされる。そもそも、ただ守られるだけの弱い女であるなら……俺はこれ程心惹かれたりはしなかっただろう。
それでも、弱った姿を厭う事も出来ぬ程に俺の心は既に囚われている。どれ程弱ろうと本質は気高き女王の気質である事に、変わりは無い。
「……寝ろ」
これ以上時を共にすれば、貪りたくなる。身体の妖艶さと、顔の幼さのアンバランスさが、これ程迄に劣情を刺激するとは……ナミには不運でしかなかろうな。
だが俺を見るナミは、でも……と言っているようで、恐らく風呂に入りたいとか、そんな所だろう。男のいる部屋で、風呂に入ろうとするその無防備さが、いたいけな幼子を思わせる。
そもそもこの船の風呂場は、使用してる人間の姿が見えるシステムであった筈だがな。これで誘っているのならば構わぬのだが、明らかに違うのがなんと言えぬ気分にさせられる。
「今宵は手を出さぬとは言ったが……まァ良い。好きに使え」
「なんでわかったの?そして、何が問題なの?」
「ここの風呂のシステムを知らぬのか。それと、男の部屋で風呂を使う意味を知らぬとは思えぬが?」
「あ……」
完全に失念していたらしいそれに、そうだろうなと思う。それからどうしようと戸惑いを見せるナミに、仕方ないなと思うのは惚れた弱みか。
それとも、幼子には無条件で優しくしようとする人間の性か。どちらからは不明だが、そっとその頭に手を乗せて、風呂を楽しめと思いつつ言葉を向けた。
「風に当たってくる」
その言葉の後バルコニーへと向かえば、嬉しそうに風呂へと向かう小娘が1人。その背を見送り、その姿を見ただけで襲い掛かる程には若くない己にホッと息を吐き出した。
ワインでも呑むかと室内に戻った時、風呂場で静かに泣いている姿が見えた。無論、涙は流していなかったが、明らかに心が悲鳴を上げて泣いているのが伝わってしまうその姿に、儚さに、俺は無意識のうちに拳を強く握りしめていた事に気付き慌てて手を開く。
何故、近くにいる者に縋ろうとしない。何故、俺に助けを求めないのだ。
何が世界一の大剣豪か。本当に救いたい者を、欲した者を手にする事すら出来ぬ。
肩書きばかり強そうになっても、助けを求めてさえ貰えぬ現実。まだ、俺では力不足だとでも言うのだろうか。
その直後、ナミが自らを強く抱き締め、唇を噛み締めて静かに涙を落とすのを確認してしまう。それはシャワーのお湯で隠されてはいるが、それで誤魔化せる程俺は鈍くは無い。
俺は服を脱ぎ捨て、風呂場のドアを開け放つ。驚いた顔で振り向くナミは、涙を止める事に意識を向けていないのだろう、ハラハラとそれを流し続けている。
顎を掴み顔を覗き込めば、止まる涙。拭うでもなく止まったそれは、それ程迄に弱さを見せる事を拒む何かがあるのだろう。
「泣いていたか。それ程に、赤髪は特別か?」
他に理由が見付からない。この気高き娘が、近くに人がいるのに耐えられなくなる程に弱る原因は、赤髪位なものだろう。
自覚させねば、壊れるのは間違いないな。そう思い、教えるか悩んでいたそれを告げる。
「俺に犯された後も、天夜叉に襲われた事も、赤髪の前で泣きはしても1人で泣く程では無かった筈だ。……主の中で、赤髪はそれ程に重要か?」
俺の問い掛けからナミは逃げようと視線を泳がせようとするが、それを許さぬと視線で伝えればナミの瞳が揺れた。その僅かな心の乱れが、まだ歳若い少女なのだという事を思い出させる。
それから笑顔を作ったナミが、誤魔化すように言葉を口にするので内心で呆れる。本気で、それで誤魔化せると思うのか。
手を離せば、逃げるように去ろうとするその背中に言葉を向ける。逃げる事を恥と思わぬ潔さは、戦闘時のみのものだと判断したが故でもあるが、ある意味で試していたのかも知れない。
「赤髪に惚れているのだな」
俺の言葉に足を止めたナミは、躊躇いなく頷く。恐らく、それもまたひとつの真実なのだろうが、今はもうひとつの真実を自覚させるべきだろう。
気付かずにいれば、赤髪に対抗できぬだろう事も分かるから……致し方あるまい。どちらにしても受け入れる事になるのならば、次に何かあった時、心を傷付けぬ為にも……真実の受け入れは重要となろう。
「……そうね、私の最初の船長だもの」
「認識したくないのか。ナミ、主は赤髪を愛しているだろう」
振り向き俺を見てみて口を開き、そして戸惑う。声が音にならぬのは、本当は己がそれを理解認識しているからだ。
だからこそ、自覚さねばならぬな。逃げていては、現状を打破出来ぬ。
本来ならば、気付かせたく等無い。ナミに愛される男等、少ないに越した事はないのだから。
だが……ナミが赤髪から逃げる手段は無かろう。実力だけならば逃げられる可能性も秘めているが、何せ甘い上に、力技になれば勝ち目は皆無だ。
「……赤髪がしたのと同じ事を、あの副船長がやったとしたらどうなる」
俺の言葉に素直に考える様子を見せたナミは、己でその答えに気付く。その賢すぎる頭脳が過つ事を許さぬのだろう。
男の趣味が悪いな。何故あんな男を選ぶのか。
まァ、あの副官を選ばれるよりはずっとマシだがな。あの手合いは敵に回すと厄介だ。
「……同時に2人を愛したか。難儀だな」
「違う……!私は!」
「何が違う。初恋なんて甘い物ではなく、初めから愛だったのだろう。状況がそれを許さなかった故に、主はそれを家族のそれに勝手に押し込めたに過ぎん」
俺の言葉に震えるナミは、妙に幼い。迷子の幼子のようなそれに僅かに残る良心が軋む。
それでも、その心が大きな傷を負い……回復できぬ程の後遺症を残さぬ為には、気付かせ、認めさせ、そして……己を許す必要があるのだ。そうでなくば何故、あんな男の事を俺が教えてやらねばならぬのか。
もしナミが壊れぬと言うなら、ナミが苦しまぬならば、教えたくはなかった。上手く誘導して、俺のものにする方がどれ程望ましいか。
忌々しい。だが、俺の他にそれをしてやれる者も居なかろう。
「認めろ、ナミ。その方が楽になれる。同時に2人を愛していても、誰にも責められはせぬ」
「違う……私は……」
イヤイヤと首を横に振るナミは、だがその場から逃げようとはしない。俺は湯を被り汗を流してから、そっと足をナミに向ける。
そうしなければ、衝動的に奪いそうになるのだ。愛しい女が、求めて居る女が……裸体を晒しているのだから何もせずに居る現状を寧ろ褒めて貰いたい程だ。
「……命を捧げても悔いなく、何をされても嫌えぬ相手を、愛していると言わずになんと言う。……主の愛情は深い。許してやれ、己を」
苦しいだろうな。だが、ナミならばそれを乗り越えられると、俺は信じている。
俺が惚れた女は、恐ろしく強い。俺の愛した女は、誰よりも気高い。
その場に座り込んだナミに、俺は言葉を止めてただその様子を見守る。どれ程の衝撃であろうとも、これはナミ自身にしか乗り越えられぬ壁なのだ。
「ミホーク……私が愛しているのは、ルフィだけよ」
「愚かな事を……。それ程に認めたくないか?」
「言ってるのよ。私は浮気なんてしないわ。そんな変な勘違いしないで!」
あァ、浮気だと思うのか。ナミは、己に厳しいな。
生きる為に、捨てた恋。守る為に、殺した心。
それが内に秘められていただけの事。それが表に出ようとしているだけの事だと言うのに。
「ナミは、赤髪を想っている状態を無理に押し留め押し殺していたのだろう。その心中に、性質の近い小僧が入り込み根付いたのだ。故にそれは浮気では無い。主は悪く等無い」
「ミホーク……」
震える声と眼差しで俺を呼び、見詰める。だが、助けを求めるのではなく、泣き叫ぶのでもないその様子が、芯の強さを見せ付けてくる。
この愚かなまでの真っ直ぐさでは、生きにくかろうな。そう思いながら、そっとナミと視線を合わせる。
「赤髪を愛しているが故に、主は傷付いている。赤髪の所行にな。まァ、それを赤髪に教えてやる必要はあるまい。教えれば調子に乗りそうだから、寧ろ教えるべきでは無いな」
俺の言葉に呆然とした顔をするから、後は自力でどうにかできると判断して笑いかけてやる。他の者にならば、これ程心を砕いたりはせぬがな。
「今宵は、早めに休め。……身も心も、疲弊している」
そうして俺が視線を外し背を向けると、ナミは文字通り脱兎の如く逃げて行く。俺は汗と共に煩悩を流してからベッドに向かい、小さく震えながら眠るそれを起こさぬように、そっと抱き締める。
それにより力を抜いたナミに、どうやら信頼されていたらしいと気付く。ならば、今宵は守ってやろう。
全ての悪意から。そして、俺自身からも。
明日はどうなるのだとしても、今宵だけはと細いその身体を強く抱き締めれば、蜜柑の香りが鼻腔を擽る。それにより俺もまた、随分と良い眠りへと誘われる事となった。
ただ甘いだけならば、世間知らずの小娘として相手にもせぬが……ナミは地獄を見て、修羅として生きる力を持ちながら、天族のような生き方を選んでいる。そんな希少種、守る他の選択肢を俺は知らぬ。
幼い姿に隠された、強き者の魂。いくら身体を穢そうとも、その魂は穢れなきままだ。