波間の向こうを目指して(新・本編side) 作:夢枕 七変化
ピアノの前に座ったナミは暫し逡巡してから、小さく笑みを浮かべた。ただ、その瞳が悲哀を含む絶望を宿しているのが、妙に気にかかる。
それは隣に立つ鷹の目も同じようで、ナミを睨むように見つめている。それ程生きてもいない筈の小娘がするには……等と言うつもりは無いが、事情によってはファミリーに迎え入れられるかも知れないと、その瞳だけで思わされる。
鍵盤の上をナミの細くしなやかな指が滑る。1つ音が鳴って、それだけで店内の注目を集めたナミは、そうとは気付かない様子でその瞳を細めた。
ゆっくりと息を吸い込んで、穏やかな声で題名を告げる。その様子にもしや分かっていてこれだけ堂々としているのかと思えば、プロと呼ぶべきかもなと思い直す。
「『soundless voice』と『proof of life』2曲続けてどうぞ」
指が、動き出す。演奏が始まれば旋律はまるでナミの内側から溢れているかのように、店内に響き渡る。
美しいが故に物悲しい旋律が、視線と心とを集める。呼吸音さえ邪魔に感じる程の衝撃。
「ーーー」
低く……ナミの声とは信じられない程男性的な声で歌い出す。だが、店主は気にしてもいないから、歌う時は声が低くなるのかとそれを見て思う。
「ーーー」
「冗談だろう……?」
思わず声が出る程に、悲哀のこもった歌声は、何処か掠れている。いや、色気があるのか。
「ーーー」
ポーン……と、音が鳴る。それに合わせるように客が増えるのが分かるが、そちらに意識を向ける気にはならない。
「ーーー」
無垢な子供が何の音かと親にたずねるような気楽さで歌ったそれは、次に続いた悲痛な声で、与えるイメージをガラリと変えた。無邪気に聞いた相手はもう居ないのか。
「ーーー」
無音の世界に取り残されているのは、歌い手か、想われている者か。本来ならば想われている者が、無音の世界に居るのだろうが……想う側も同じ所に堕ちている様子が伝わる。
「ーーー」
いったいナミは誰を想って歌っているのか。その瞳を辞めろと、肩を掴んでしまいたくなる。
「ーーー」
苦しいのは、ナミか。遺されてしまったのか、お前独りが。
「ーーー」
彼岸を見詰めるようなその瞳が、けれども憎しみや怒りに包まれないその心が、妙に眩しい。死人を想うな、全てを破壊してでも生き抜け。
「ーーー」
……コラソンが、脳裏に映った。あの頃、再会できた当初、俺は確かに愛しい弟だと想い、共に有り続けたいとそう願った。
「ーーー」
だが、今はどうだろうか。声は……取り戻せたのだろうか。
取り戻せていたとして、その声を聞きたいだろうか。あの裏切った弟の声を。
間奏に入ると店内には、ナミを見て喜ぶ人のざわめきが起きる。そして、小さく今回は随分暗いの歌ってるななんて、そんな言葉が聞こえた為に、新曲らしいと言う事を思い出す。
「ーーー」
またナミが歌い出せば喧騒は止む。演奏しながら歌うその姿は、恐ろしく美しい。
問題はその瞳が、生き物として有り得ないような状態にある事だけだ。ナミの瞳は死んだ魚よりも更に、死を間近に感じさせる。
「ーーー」
1刻も早く死にたいと願うかのようなナミの瞳は、曲の歌詞も相まって胸をざわつかせる。何故周りを殺そうとするのではなく、自らが死のうとするのか。
「ーーー」
あの日、コラソンはあの島に居なかったのだとしたら、コラソンとローが裏切っていないとするならば……。無駄な事だな。
有り得もしない妄想だ。ナミの歌声に誘発されたのは、甘い思考。
あの日コラソンは確かに俺に銃を向けて、俺はそれを撃った。だが……どうしてか死んだとは思えねェんだよな。
「ーーー」
ローが生きている事は確認出来たが、コラソンがどうしているのかは未だ不明だ。ローが生きているのだから、オペオペの実を2人のどちらかが食べている可能性が高い。
ローの戦い方などの情報から、恐らくはコラソンもローと共にいて、実を食ったのはローだろうとはわかるんだがな。早めにローを回収して、俺の為に死ねる教育をする必要がある。
「ーーー」
それに、どちらが食べていたとしても、別行動とは考えられないのだから、2人の裏切りは確実だ。見つけ次第、オペオペの実を食べている方を大幹部に据えて、もう1人は人質にでもするしかないだろう。
「ーーー」
間奏に入ると、独特の世界観は消えて、代わりに注文する人間の声で酒場らしさを取り戻す。その間奏を演奏するナミは冷たい瞳で、空を見詰め、時折その瞳を揺らす。
お前は誰を想ってそんな悲痛な顔をしているんだ。何故誰にも助けを求めねェんだ。
「ーーー」
歌い始めると酒場に来ている人間達は、食べるその手さえ止めて、静かに聞き入る。確かにこれは……半端じゃねェな。
人前に立っただけでも、声を出せなくなる事もあるのが人間であると言うのに、演奏しつつ歌う等相当慣れなければ難しい。伸びやかに歌うその声と、悲痛なその表情とが合わさる事で、ナミは抱えきれない何かに苛まれているのだと分かる。
「ーーー」
島中に響くのでは無いかと言う勢いで、ナミは……あー!と慟哭のような悲痛な声で叫ぶ。遺される苦痛か、遺す苦痛か……それは判断しかねるがな。
それでも、調べれば簡単にわかるだろうそれを、調べるのではなく本人から聞き出したいと思わさられる。何故こんなにも惹かれるのか。
「ーーー」
何かを祈るように、ナミは歌う。それを俺も鷹の目もただ、黙って見ている。
声は会話をしていた先程とは全く異なる上に、その表情や雰囲気も先程会話していた者と同じには思えない。ただ、見れば渇いたような感覚に陥らせられる所は変わらない。
「ーーー」
そうか、奪い去ればいいのか。そう思わされる程に、餓えている。
食欲を誘う女を、ナミを欲しいと心が魂がザワつく。隣からも剣呑な気配を感じるが、先約だと言い張るだろう男と戦う訳にも行かねェかと溜息を落とす。
「ーーー」
歌声が、泣き声に聞こえた。孤独を知る者だけが持つ殺伐とした空気が、ナミから1瞬もれる。
「ーーー」
歌い終えるとナミは店主に笑いかける。そして、店主がそれに応えるように飲み物を用意して運ぶと、ナミは何の衒いもなくそれを飲んだ。
酒場は妙な熱気に包まれ、鷹の目と俺の視線が突き刺さって居る筈なのに、ナミは平然としている。その瞳に絶望と孤独、そして、彼岸を映してナミは悠然と微笑んだ。
俺はそれを見つめながら、次の曲が始まる迄はと、目の前に置かれている物を摘む事にした。